寝室の壁に耳をあてて息をひそめると、ギイギイとベッドの軋む音が聞こえてくる。時折響く、喘ぐような声に罪悪感と共に劣等感が高まる。 この部屋の壁から、少し離れているはずの父の部屋の物音が聞こえてくることに気づいたのは最近のことだ。 父が再婚し、我が家に新しい母が来たことがきっかけだ。 これまでは父の部屋はいつも静かでこんな音に気づくことなんてなかった。 その音の正体に罪悪感を感じた俺は決して壁に耳を当てるようなことはしなかった。 それなのに今となっては、暇さえあれば壁に耳をあててティッシュを握りしめている日々だ。 俺の脳みそは所詮ちんこでできている。ちんこでできた脳はその衝動を我慢することができないのだ。 いや、我慢などする必要があるだろうか。 俺の気持ちを踏みにじって楽しそうにしているあいつらに何を遠慮することなんてあるだろうか。 茉莉は俺と『もっと早くに出会いたかった』と言った。その言葉を一瞬だけ前向きな意見として受け取った自分がいた。タイミングさえ違えば茉莉が俺のことを好きになり、ふたりは付き合うことができた。俺のことに対して好意を抱いている。などと都合のいい言葉を探し出して慰めてみたりした。 だけどそれを返せば、もう変えることのできない出会い方をしたのだから、ふたりが愛し合うことはないという〝離別〟の宣言だ。 ならば俺はどうにかして茉莉のことをあきらめなければならない。嫌いにならなければならない。だからそれを免罪符にして、自身の内に抱いた茉莉の神聖を穢す必要があった。 壁に耳をあて、薄汚い淫売の茉莉を想像し、そしてその処理が終わると同時に激しい嫌悪感が襲う。どうあがいても茉莉のことを嫌いになんてなれない。 いまだに好きで好きで、どうしようもなく好きで仕方なくて、それでも彼女から離れて暮らすことも出来なくて、いろんなことをうやむやにしようと必死で彼女を悪者にしようとしている自分のことがひたすら嫌いになる。 ――こんなんじゃだめだ。 俺はもう一度心を引き締めなおし、心の奥底で怒りの炎を燃やす。 茉莉のことを、ちゃんと嫌いになるまで憎む必要がある。 義母の芹香さんはまだ家に帰ってこない。居酒屋で夜遅くまで働いているのだから仕方がないにしても最近は特に遅くなった。 おかげであいつらはやりたい
翌朝。いつもの通りに時間ギリギリに起きてリビングに降りる。茉莉たちが来てからというもの随分と朝の生活がだらしなくなった。 「ごめんアオ。今日はお弁当作れてないの。ちょっと熱あるみたい」 朝、パジャマ姿のままで俺のトーストとコーヒーを用意しながら茉莉は言った。 顔全体が少し赤らんでいるのがわかる。 「だいじょうぶか? いいよそんなこと。朝食くらい自分で作れるから。ちゃんと休んでおけよ」 「うん、ありがと。まかせた」 ふらつく足取りで二階へと上がる途中で一度振り返り、「あ、今日は学校休むから」とつぶやいた。 「ああ、わかった。担任には俺から伝えておく」 担任の須藤は俺たちが兄妹になり一緒に住んでいることも知っているし、そのことをクラスの皆には秘密にしていることも把握している。 そう言えば、父も食卓にはいない。もしかすると父もまた熱を出して寝込んでいるのかもしれないな。どっちがどっちに風邪をうつしたのかは知らないが、きっとそういうことだろう。 学校に行き、昼休みの時間。茉莉の弁当はないからコンビニで安い菓子パンを買ってきた。 鞄から取り出して食べようとしたときに斎藤さんが話しかけてきた。 「ねえ、折田君。お昼、一緒しようよ」 「え?」 「だってさ、今日茉莉いないし。あたしひとりぼっちなんだよ」 「そりゃあそうだろうけど、だからって」 「君、茉莉の彼氏でしょ。茉莉が風邪で寝込んでいるんならあんたが代わりにフォローしなさいよ」 「どう言う理屈だよ」 「つべこべいわないの」 斎藤さんは俺の腕を引っ張り半ば強引に連れ去る。新校舎と旧校舎をつなぐ渡り廊下の下のひとけのないところに連れてくる。おそらく茉莉たちはいつもここで食事をとっているんだろう。 当然ながら会話は弾まない。斎藤さんは華やかな弁当をつつきながら、その横で無言のまま菓子パンにかじりつく俺を斎藤さんが見つめる。 「なんか、わびしいもん食ってるね」 「今日は茉莉がいないからな。でも、茉莉と付き合う前はいつもこんな飯しか食ってなかったし、別に大した問題じゃないよ」 「ふーん、そーなんだ。あたし、茉莉と付き合う前の折田君なんて全然気にしていなかったから知らなかったよ」 「ああ、いや……まあそれはわかる話なんだけどさ。俺なんてクラスで目立つような奴じゃないわ
放課後にバイトに行き、終わらせて店を出たのは夕方過ぎだ。今年になって初めての寒波がやってきているらしく、突き刺すような冷気が油断していた薄手のナイロンパーカの隙間から入り込み、思わずぶるっと震えてしまう。 シンとした空気の中で靄のかかった満月が煌々と街灯の少ない夜道を照らしている。 こんなに寒い夜だというのにもかかわらず、店を出た少し先に、コートも羽織らず薄手のニット一枚にミニスカートという俺よりもはるかに寒そうな服装の女性の姿が見えた。俺の存在に気づき迷うふうでもなく近づいてくる姿はまるで寒空の下ずっと俺のことを待ち伏せしていた風でもある。 事実そうなのかもしれない。彼女は俺に近づくなり「あ、蒼君だ。偶然」と白々しく言った。芹香さんにはあらかじめ、俺がここでバイトをしていることを伝えてあったはずだ。 「芹香さん。今から仕事ですか?」 彼女は居酒屋で働いているらしくて、いつも出勤は夜になってからだ。最近は特に遅く明け方まで帰ってこないので俺はあまり会う機会がない。 「ううん。今日はお仕事はお休みなの。今から帰ろうかと思ったんだけど、今日は茉莉が寝込んでいるから夕ご飯がないでしょ。それで……」 ――なるほど、それで今日は外食でもしようと誘いに来たのか。父もどこかにいるのだろうかとあたりを見渡す。 「あれ、芹香さん一人ですか?」 「うん、そうよ。蒼君は夕食、どうするつもりなの?」 ――あれ? もしかしてこの流れ、俺は芹香さんと二人に食事に行くという話なのか? 「いや、俺は帰りにカップ麺でも買って帰ろうかと思っていて……」 「ああ、いいわねカップ麺。あたしもそうしよっかな」 芹香さんは無邪気な表情でそういった。やはりせいぜい二十台としか見えない。 「ところで蒼君。もう茉莉には今から帰るって連絡は入れたの?」 「いや、入れてないです。今日は食事の用意もないので特に入れる必要もないかなって。ゆっくり寝かしておいた方がいいかなと思いまして」 「あら、それはダメよ。たとえ食事の準備がなくても、帰る前には事前に連絡しておかないと、ふたりが絡み合っている最中に遭遇しちゃうかもしれないでしょ」 「――え?」 頭の中が真っ白になった。この人は何を言っているのだろうか。それではまるで…… 「あら、もしかしてあたしが知らないとでも思
「蒼君はさあ。茉莉たちの関係にはもう気づいたんでしょ?」 素直に答えていいものか迷うところもあった。しかし、これまでの口ぶりから芹香さん自身、何もかも知っていて、そのうえで俺をこんなところに呼び出したのだろうし、知らないふりも出来ない。 「つまりそれは、俺の父が不倫をしているっていうことですか?」 そんな言葉に、芹香さんは少し意外な返事をした。 「不倫、不倫かあ。そういう言い方はあまり好きじゃないかな。それに、蒼君は今、『直人君が不倫』をしたと言ったでしょう? どのみち不倫は一人でするものじゃあないのに、まるで直人さんだけが悪くて、茉莉には非がないっていう言い方」 「いや、それはその……」 「言いたいことはわかるわ。茉莉の悪に対して、母親であるあたしにそれを突きつけるべきではないって思ったんでしょ? でもね、直人君はあたしの旦那さんでさ、あたしが自分の意志で好きだと選んだ人なの。それに比べて茉莉は自分で選んで生まれてきた子じゃあないわ。もちろん、自分の行為が招いた結果で生まれてきた子ではあるのだけれど」 「そんな言い方は……」 「もちろん、あたしだって茉莉のことが嫌いなわけではないわ。自分の娘なんだし、大切に思っている。あたしが言いたいのはそういうことではなくて、蒼君にとっての『身内』という対象が直人さんだけなのはあまり喜べないわね。茉莉だってあたしだって、今は全員身内なのよ。家族なんだから」 「すいません」 「でも嬉しいわ。それだけ直人君が茉莉のことを大切に思ってくれているからなんだから。 でもね、直人君のことだって、大切な家族なんだからさ、そんなに悪く言うのはやめてあげてね」 「そうは言いますが、その……芹香さんは、ふたりの不倫を認めているんですか?」 「そう、それね。不倫。あたしはさ、不倫という言葉があまり好きじゃないのね。だって不倫って、『倫理に反する』っていう意味でしょ? その点で言えば、直人さんたちの考えは、倫理に反していないもの」 「どういう意味ですか? それはその……芹香さんと父がまだ正式に入籍していないから、法的には不倫に該当しない、自由恋愛だ。という意味でしょうか?」 「あはあ、なるほどね。そういやまだ入籍していないからそうともとれるわけだ。でもさ、あたしが言っているのはそういう意味ではないわ」 「と、い
「俺に、できますかね」 そんな言葉の裏には、当然君ならできるというような励ましの言葉を期待していたし、当然もらえると思っていた。だけど…… 「たぶん、今の蒼君には無理ね」 芹香さんは厳しい言葉を言い放つ。 「あ、ええっと」 「じゃああえて聞くわね。蒼君は直人君に何だったら勝てるの? 包容力だって経済力だって足元にも及ばないわ。強いて言えば若さかしらね。でも若さっていうのは強みかな? 経験の低さを物語っているだけじゃないの? それに茉莉はそれなりに経験を積んでいるわ。蒼君はどうかしら? 茉莉を寝取ろうとしたところで、蒼君のテクニックで満足できるかしら? ふふふ、厳しいことを言ってごめんなさいんね。でも、寝取るということはそういうことなのよ。蒼君、そういう経験はあるの?」 立て続けに浴びせられる辛辣な言葉に心はすでに折れそうになっていた。俺に勝てる要素なんてない。それに俺は童貞だ。壁に耳をあてて遠くの茉莉の声に一人自慰をすることが関の山の情けない人間だ。 「俺には……」 自信を無くしかけてうつむく俺を芹香さんは優しく抱きしめてくれた。 「だいじょうぶよ。だいじょうぶ。誰だって初めから上手にできるわけじゃないわ。安心して、あたしがちゃんと教えてあげるから」 言っている意味が解らなかった。いや、それは嘘だ。言っている意味が解らないことにした。わからないから、不可抗力としてそうなってしまったのだと自分自身に言い訳をするためだ。俺の頭の中を占めているちんこがそうささやいたのだ。 だから俺は、自分のパンツの中に滑り込んでくる芹香さんの手を振り払おうとはしなかった。『騙された』『そんなつもりはなかった』を言い訳にできるようにあえて遠くを見つめ、されるがままにその手を受け入れた。 芹香さんは下着の中で俺のものを握り軽く上下に動かす。ものの数分もしないうちに我慢の限界を迎えた俺は下着の中に、芹香さんの手の上に精液を勢いよく放出してしまった。 「あらあら、さすがにこんなじゃあ、茉莉を満足させてあげることはできないわよ」 「す、すいません……」 「いいのよ。誰だって初めからうまくできるわけじゃないんだから」 芹香さんは俺をベッドの上に押し倒し、精液でべとべとになってしまった下着をずり降ろした。そして枕元のティッシュを数枚抜き取り俺の下半身
アルバイトが終わる時間が近づき、気持ちがそわそわとしてくる。いつもよりもいくぶん機敏に片付けの作業をこなし、終業時間と同時に職場を離れる。 外の空気は冷たく気持ちが引き締まる。同時に股間のそれも小さく縮こまっていることに愉快さを覚える。 芹香さんからのメールで『カップ麺が食べたい』というメッセージに従いコンビニに立ち寄る。芹香さんはカップ麺が好きだ。それは俺だって同じ。 家に帰れば茉莉が手の込んだ美味しい料理を作って待ってくれているのだが、決してそれを不服に思っているわけではない。しかし、茉莉がせっかく手間暇をかけて造っている料理があるにもかかわらず、二人でこっそりと食べるカップ麺には背徳的な美味しさがある。 地図アプリを片手に芹香さんから指示されたマンションの一室に向かう。エレベータで四階の部屋に向かい、ドアチャイムを鳴らす。 ドアは内側から開けられ、中から伸びてきた芹香さんの手が夜風で冷たくなっている俺の手首をぐっとつかみ、部屋の中へと引き込む。 ドアがバタンと閉じられ、それと同時に彼女は俺の背中をドアへと押し付ける。すぐさま唇を重ね舌を絡める。芹香さんは両手で俺の頭部を左右から挟み込むように固定する。冷たくなっていた耳に彼女の手のひらの温かさがとけあう。 彼女の唇が俺の耳の裏側へと回り込む。這う舌先にくすぐったさを感じながらも玄関先で立ったままの俺の下着の中に芹香さんの指先が忍び込む。 さっきまであんなに小さく縮こまっていたはずの性器がいつのまにか驚くほどに熱をおびていて、彼女の手の動きに連動するように痙攣した。 コンビニで買ってきたカップ麺を玄関先の三和土に置き、靴を脱ぎながら今度は俺が芹香さんを玄関先の廊下に押し倒す。 理性ならとっくに失われてしまっている。今更ブレーキなんて聞くはずもなく、玄関先の冷たい廊下の上で二人は全裸になって体を重ねた。 その日の一回戦目を玄関先で終え、少しの間そのままになっていたというのにどちらからともなく急に笑いが起き、恥ずかしくなりながら簡単に服を着た。薄着のままで芹香さんがお湯を沸かし、俺は暖房の効いたワンルームの部屋で大きなベッドの横にあるにしてはアンバランスなこたつに入って待つ。 二人でカップ麺にお湯を注ぎ、互いに三分すら待つこともなく食べ始めた。 俺たちの会話の
どうやら直人君は娘の茉莉に寝取られてしまったらしい。 しかし、考えてもみればそれは必然だったと言えるかもしれない。 何しろアタシのことをずっと好きだったとか甘いことを考えている男と、あたしの遺伝子を引いた紛れもないアバズレの娘だ。そうならない保証なんてどこにもなかったし、そもそもあたしの方に原因があったことくらい気づいていないわけでもない。 今までの男の中にも、茉莉に手を出そうとした男は何人もいた。アタシはそれに気づくたびに烈火のごとく怒り、男を遠ざけた。誰よりも大切な茉莉を護りたかったからだ。 そんな茉莉ももう十六歳で、自分のすることは自分自身で責任を持てる歳だ。 それに、今回ばかりは茉莉の方から手を出したのだと考えられなくもない。ずっと気になっていたのだ。わが娘ながら、直人君を見る時の眼がメスの眼になっていることを。 だけど、あたしはそれを不快には思っていなかった。むしろ、ようやく一人前の女になってくれたのだと安心する部分もあったのだ。 だからと言って、直人君を娘にとられたままでいいと思っていたわけでもない。 娘であると同時に、ライバルでもあるというこの状況に、少しだけ昂る自分があった。 直人君と出会ったのは高校生のころ。ちょうど、今の茉莉と蒼君の年のころだ。当時あたしは直人君のことが好きで、いつも遠くからじっと眺めてばかりいた。ある日親友が直人君のことが好きだと言った。 「応援するよ」 それが、あたしにとって精いっぱいの言葉だった。 友人と直人君はとてもお似合いの二人だった。ふたりとも学校の成績も優秀で、社交的で誰からも愛される人種の人たちだった。 友人があたしに対して仲良くしてくれたのは今になっても不思議だ。誰にでも分け隔てのない彼女が、クラスでひとり浮いていたあたしにも声を掛けてくれただけなのかもしれない。彼女にはたくさんの友達の一人。でも、わたしにとってはたった一人の友達だったから親友だと思っている。 だけど、クラスでも成績がトップの二人の会話にはうまく入れないことが多かった。進学もあたしなんかじゃどう足掻いたって入れないような大学を志望している。そうなれば自然と離れ離れになるわけだし、あたしが直人君をあきらめない理由なんてどこにもなかったのだ。 友人と直人君は恋人同士になり、あたしは直人君の恋人の親
呼び出しを受けて、部屋を探す。 あたしが仕事を受ける職場のシステムでは、最近ホテルを使わなくなった。ワンルームの賃貸アパートを会社が所有していて、会社の管理システムで空いている部屋をさがす。ホテル代がかからないだけで料金も安くなるから不況でもお客さんを確保しやすいというわけだ。 待ち合わせ場所にいたのは見覚えのある顔。 「なーおーと君。ひさしぶり!」 驚かしやろうと声を掛け、一方直人君のほうは「も、もしかして芹香?」と不安そうに言った。 「久しぶりだねー。なんか、ずいぶんと雰囲気変わったよね」 「そりゃあ、変りもするよ。もう僕だって四十を過ぎているんだ」 「あら、偶然。実はあたしももう四十過ぎなのよ」 「当たり前だよ。僕たちは同級生なんだ。いつまでたっても年は変わらないよ。でも……芹香は昔からあまり変わっていないな。同級生とは思えないよ」 「そりゃあまあ、それなりに努力はしているけどね」 他愛もない会話をしながらも、どこか直人君は落ち着かない様子。 「ねえ、もしかして誰かと待ち合わせ?」 「え、えっと……そうなんだ。ごめん。せっかく積もる話もあるんだけど……」 「そうやって悪くもないのにすぐ謝る癖、相変わらずよね」 「ご、ごめん……」 「ほら、また……。ねえ、待ち合わせの相手ってデリヘル?」 「え、あ、いや……」 「相変わらず分かりやすい。残念だけど、待ち合わせならもう到着しているわよ」 「え?」 直人君はキョロキョロと挙動不審にあたりを見渡す。 「んもう、そうじゃなくて」 両手で直人君の頬を挟み、固定して自分に向ける。 「え、もしかして……」 「今ならまだキャンセルできるよ……直人君。あたしとできる?」 直人君は逡巡した。少しだけうろたえながらに言う。 「でも、そうしたら芹香の収入がなくなるんじゃないか?」 「なによそれ。少し頭に来るんだけど? あたしがほかに仕事なんてもらえないみたいなやつみたいな?」 「ごめん。そういう意味で言ったんじゃないんだ。その……せっかくだし、積もる話でもしないか? こうして再会したわけだしね。その……支払いのことなら気にしなくてもいいよ。話をするだけでも、ちゃんと正規の支払いはするつもりだ」 「わお、気前がいいのね。もしかして今や一流企業のエリートサラリーマン?」
「ねえ、それって浮気なんじゃないの?」「ちがうよ。これはひとつの生理現象みたいなものだから」 美和の言葉を必死で否定する。 学校の昼休み。渡り廊下の影で美和と同じ弁当を並べて食事をする。茉莉が学校に行かなくなってからは美和と二人で昼食をとるようになった。以前は俺と茉莉が同じ弁当であることを見抜き、二人の関係を疑った美和が、今では俺と同じ弁当を並べて食べているというのだから数奇なものだ。 無論二人は恋人でもなければ、将来的にそうなる可能性もない。美和は俺の妻の親友だし、今となっては俺の家族であると言っても過言ではない。 弁当を食べながら、昨晩見つけた面白い動画を保存しておいたものを美和に見せている時に、つい間違えて別に保存しておいたえっちな動画を開いてしまったのだ。 それを美和は、浮気だと言ってくる。「だって蒼は茉莉じゃない女の裸を見て、エッチなことをしているってことなんでしょ?」「いや、男にとってそれは生理現象みたいなものだから、定期的に抜いておかなきゃいけないんだよ。茉莉とセックスするわけにもいかないだろ?」「それはわかってるわよ。でもさ、それなら茉莉の裸を写真にとって、それで処理すればいいでしょ。なんでほかの女でしちゃうかな」「いや、だってそれは罪悪感にさいなまれるだろ。その、茉莉をそういうことには使いたくないんだよ」「そういうことって?」「つまり、性の処理っていうか……恋愛感情の伴わない性欲のはけ口に好きな人を使いたくはないんだよ」「その考え方は理解できないなあ。アタシだったら、恋人がエッチな妄想するなら、自分をオカズにしてほしいと思うんだけどな」「茉莉も、そうなのかな?」「さあ、それはどうだろ?直接本人に聞いてみれば?」「聞けるわけないだろそんなこと」「まーそーだよねー」 美和はつぶやきながらウインナーにかじりつく。黙って咀嚼しながら、思いついたように言う。「じゃあ、アタシをオカズにする?」 思わずむせ返り、慌ててお茶を流し込む。「それこそ罪悪感がヒドイだろ。できるわけがない」「なんでよ。その理屈じゃ、アタシのことが好きみたいになるでしょ?」 正直なことを言えば、美和をオカズにしたことは今まで何度だってある。美和ははっきり言って可愛いし、だからと言って恋愛感情を向けている相手ではないから気兼ねなくオカズにできる
俺がベッドに入ったのは深夜をずいぶんすぎてからだ。 俺と茉莉は同じ部屋の同じベッドで寝ている。 ずっと寝ていたという茉莉も、体調がすぐれずにいたために眠っていたのだから、俺がベッドに入る時に一緒に布団に入った。隣りに眠っている茉莉の体温が、吐息が、時折少しだけ触れる肌が、俺の心を落ち着けてくれない。 妊娠初期にセックスができないというわけではないらしい。だが、もちろんそれなりに負担もかかることは事実だ。当然茉莉だって妊娠の経験なんて初めてだろうし、不安もあるだろう。だから、どちらから言うわけでもなく、互いにセックスはしないという取り決めが交わされていると言っていい状況だ。 ネットを調べてみる限りでは、女性の体は妊娠中にはセックスをしたいと思う気持ちは少なくなる。あるいはまったくと言っていいほどなくなるらしい。 だが、男である俺として、それは関係のないことだ。 いや、そもそも、茉莉のおなかの中にいる子供は俺の子供ではない。 マウスの実験では、オスのマウスは子育てをしているメスのマウスを見つけると、子供のマウスを殺してしまうという。それはどうやら、子育て中のメスのマウスは、目の前にオスのマウスがいても発情しないからだという。 人間のオスにも、この感情が全く働いていないわけではないと思う。義理の父が、子を虐待するという事件は極めて多く、そのことを考えれば自分だってその可能性がないわけではないとは言い切れない。だが、そんなはずではないとは思いたいが、いったい俺は何を考えているのだろうと頭の中を振り払う。 いや、振り払わなかったほうがよかったのかもしれない。 振り払ったことで、今度はさっき見た美和の裸を思い出し、頭から離れない。 そうだ。たぶん自分は溜まっているんだと思う。 こんなつまらないことで頭の中が猥雑な思考に占領されてしまうというのだから男と言う生き物は実にくだらない。 所詮俺の脳みそはちんこでできているようなものなのだ。 いくらきれいごとを並べても、自然と頭の中はそれに支配され、理性を失い、支配されてしまう。 ――なんだったらアタシがヌいてあげようか? 美和の言葉が頭の中を駆け巡る。 情けない。 いつの間にか俺の下半身が充血している。 気が気でいられない。 茉莉の寝息を聞きながら、そっとベッドを立ちあがる。 いったんトイレに行って、ヌくものを抜ヌなければな
「ごめん、今日つわりひどくて……」 いつもはみなの朝食を作り、弁当までを持たせる茉莉が体調不良を理由にベッドから起きてこなかった。「いいよ、気にしなくて。アタシに任せてよ」 美和の言葉に「たすかる」とだけ言い残し、もう一度毛布をかぶった茉莉を部屋に残し、朝食と弁当の準備をする美和の手伝いをすると申し出た。 元々は家で料理をしていたのだし、アルバイトで飲食店で働いたことだってある。足手まといになるとまではいかないだろう。 美和に対しては感謝の気持ちと申し訳なさから手伝うと言ったのだが、「そう言うセリフはさ、普段茉莉が家事をしている時に言うもんだよ。健康なアタシになんて気を遣わなくていいんだからさ、気を遣うなら、つわりと戦いながらも家事をこなしてくれているいつもの茉莉に気を遣いなよ」 確かに美和の言うとおりだった。茉莉は妹として家にいた時からずっと家事をしていて、そのスキルだって自分よりも高い。アルバイトをしている自分に対してしていないけれど、お小遣いをもらうからという理由で茉莉が家事全般をこなしていたことを受け入れていたのだが、今となってはその理由は全く関係ない。にもかかわらず、かつての生活の慣れで、つわりを押し殺してまで家事をこなしてくれていたというのに、感謝をするどころか手伝うとも言わなかった自分に情けなさを感じた。 とはいえ、今手伝うと言い出した美和の手伝いをしないという選択肢はない。茉莉の手伝い(いや、手伝いというのもおこがましいのかもしれない。自分の食べる朝食に、自分の食べる弁当の準備だ)をしながら、朝の準備をすませる。家を出る直前に起きてきた碧さんに、朝食と弁当を渡し、美和と二人で家を出て、学校へと向かう。「中西はまだ休んでいるのか? 体調、そんなに悪いのか?」 山岸の質問に「うん、ちょっと風邪をこじらせているだけだよ。もうじきよくなると思う」 とだけ返事をする。 本当のことを言うのはまだまだ先伸ばしするべきだろうとは思う。いや、いっそのこと本当のことを言う必要なんてあるのかどうかもわからないけれど、ともかく今はまだ、そんなあやふやな状態ですませている。「アオ、お昼いこーよ」 と美和がやって来る。「なんで、中西が休みだからって、いつもお前が一緒に飯を食うんだよ」 という山岸の疑問はもっともだ。「これは茉莉からの言いつけなの、茉莉が休みの間にアオが誰かと
「碧さん、これからしばらくパパの部屋使わせてもらうから。客室として。いいでしょ?」 そう言いながら義娘の斎藤美和が言った。 訳ありの友人をしばらくこの家に住まわせるそうだ。「住まわせてもらっている身のアタシがとやかく言うことじゃないわ」 その言葉を聞いて美和は友人を孝之の部屋へと通した。 斎藤孝之はアタシの二番目の夫だ。孝之はアタシと同じで離婚歴がある。美和は前妻の娘で、二年前に孝之が亡くなった際にその遺産のすべてを相続した。後妻であるアタシに一円の財産も残さなかったことに不満はない。きっと孝之は妻という存在を信用していないのだ。つまなんて言うものは所詮血のつながっていない赤の他人で死かなと考えているのだろう。 だから遺言書には前妻にも一円たりとも残すことなくすべてを美和に託した。 前妻は一度遺産を分けろと怒鳴り込んできたこともあったが、それは美和が追い返した。「今更どの面下げて帰ってきたんだ」と激しく罵声を浴びせた。 だけど美和は居場所をなくし、路頭に迷うはずだったアタシをこの家にずっと住んでいいと言ってくれた。アタシは家事もろくにできないダメな妻で、美和にすればここに置いておくメリットなんてないはずだ。 それなのに、血のつながった実の母を追い返し、血のつながっていないアタシにここにいることを許したのは、どういう考えなのだろうかと思うことはある。もしかすると実の母に対して、アタシをここに置いておくことがひとつの見せしめなんじゃないかと思うこともある。 まあ、そんなことはどうでもいい。アタシとしてはここにおいてもらえているというだけで美和には感謝しているくらいだ。 美和の連れてきた友人、中西茉莉。どうやら彼女は妊娠しているらしい。一緒にやってきた男がその子の父親なのだろう。 中西茉莉という子はなかなかにいい子のようだ。料理もうまいし美人でもある。 その子をはらませてしまたという男の子、彼らの話を聞いて息が止まりそうになった。 その男の子の名前は『折田蒼』というらしい。 とても偶然だとは思えない。 今から約二十年前、アタシの一度目の結婚は社内恋愛でそのまま結婚し、子供を産んだけれど、どうにも家事や育児と言ったものに向いていない性格らしく、育児ノイローゼにかかってしまい、生まれて間もない子供を置き去りにして離婚した。それからもう十五年間、一度も会っていない。 そ
バイトを終えて家に帰り、茉莉と手紙のことについて話し合った。 芹香さんが俺にあてた手紙の中で、俺と芹香さんの関係について触れていなかったことは意図的だろう。おかげで手紙と通帳をそのまま渡すことができた。そしてこのとは、今の家主となっている美和にも相談しないわけにはいかないだろう。 リビングの隅には美和の義母でもある碧さんがいたが、話はそのまま進めることにした。 同居人となっている碧さんにも話を聞く権利があるし、聞いておいてほしい話でもある。「つまり、お金の心配はないから早々にここを出て行く、ということなの?」「なるべく迷惑をかけるわけにはいかないから、早いうちにそうするべきだとは思っているんだ。だけど、高校生の俺たちの名義でアパートを貸してくれるところはなかなかないだろうから、すぐにはむつかしいと思う」「あのさ、そりゃあふたりが新婚生活をイチャイチャしたくて二人きりになりたいという気持ちはわかるよ」「いや、別にそういうわけでは」「ごめん。それはちょっとした厭味なんだけどね。でも、あたしとしては、できることならもうしばらくは、いや、ずっとでもいいからここで一緒に住んでもらったほうが嬉しいとは思うのね。前にもいったけど、あたしは一応天涯孤独で寂しい立場でもあるんだ」 奥の方で話を聞いていた碧さんが口を挟む。「ちょっとおばさんに口出しさせてもらうよ」 そう言いながらカウンター席を立ちあがり同じダイニングのテーブルにつく。「まあ、そんなに急いでここを出て行く必要はないんじゃないかなってアタシも思うよ。まだ学校に通うならいろいろとやることも多いだろうしさ。それに何よりまつりちゃん、だっけ? 子供育てたことないでしょ? 案外大変なのよそれがさ。助けてくれる人は一人でも多い方がいいわけ。だからさ、少なくとも子供が生まれて、落ち着くまではここにいてもいいんじゃないかな」 たしかにそういわれれば一理あるように思える。そしてその言葉に美和が反応した。「あれ、そういえば碧さんって子供育てたことあるの?」「子供なら生んだことあるよ。でも、子育てはしていないかな。あまりにも過酷すぎてね、アタシは投げ出しちゃったんだよ。まつりちゃんにはそうはなってほしくないからね」「はっはーん。ちょっとわかったかも」「なにが解って言うのよ、美和ちん」「よ―するにあれでしょ。碧さんは子育てがしてみたいんじ
香ばしい匂いに目を覚ました。隣を見ると茉莉はいない。日曜の朝だからと言って少々眠りすぎてしまった。眠い目をこすりながらリビングのほうへ移動すると。美和と茉莉がキッチンのところにいた。茉莉はテンション高めに俺に手を振ってこっちへ来るように呼んでいた。 そこには何やら茶色い大きな物体があった。香ばしい匂いの正体はこれだったのか。「ねえねえ、見てよ蒼。美和んちさあホームベーカリーがあるんだよ」「昔ね、一時期そういうのにはまった時期があったんだけど、それからしばらくずっとしまいこんでいたんだ。また使ってくれることになってこいつも喜んでいるよ」 美和はそう言いながら白くて角ばった保無ベーカリーの天蓋をなでる。「なんか、ペットをなでているみたいだな」 俺がふとつぶやいた。「やめてくれよ。それじゃああたしがずっと長い間ペットをほったらかしにしていた悪い飼い主みたいじゃないか」「いやごめん、そういう意味で言ったんじゃなくて、なんか、かわいいなって」「か、かわ……」 俺としては決して変なつもりで言ったのではないが、美和は思いのほか照れてしまった。そしてそれを見た茉莉が、「あー、蒼君、今の発言は浮気だよー」と冗談めかして言う。こういうの、悪くないなと思ってしまった。 茉莉が焼きあがった食パンを手で割いていく。真っ白でふわふわとした生地が湯気を上げる。食べる前からそれがおいしいということがわかる。 つい先日に人生の修羅場のような窮地を経験したばかりなのに、美和のうちに来た途端に打って変わってほほえましい状況が続く。たぶんこれからの生活は大変なものになるだろうけれど、きっと幸福に違いないと思えた。「なあに、蒼。さっきからにやにやして」「いや、なんかさ。こういうの新婚生活みたいでいいなって」「えへへ」「ちょっと、あたしがいること忘れないでよ。なにいちゃついてんだか」「なあに、美和。妬いちゃってるの? 何なら美和を第二婦人にしてあげてもいいのよ。やったね、蒼。ハーレムだよ」「おい、なに勝手なこと言っているんだ」 朝食から談笑が絶えない朝だった。 しかし、楽しんでばかりはいられない。親の庇護から逃げ出した俺たちには、現実が突き付けられるのだ。 朝食を終えると、アルバイトへと向かう。 おそらくこれからはアルバイトの量を増やし、生活を支えて行かないといけないだろう。高校も、中退するしかないとい
美和の家はそのカフェから歩いて五分くらいのところだった。比較的新しいマンションの三階。玄関のドアを開けると室内は照明がついており、暖房も効いているようだった。「お邪魔します」と俺と茉莉は言ったが、美和は一言も言わず廊下を歩いてリビングのドアを開いた。 十分すぎるほどに広いリビングだ。ダイニングテーブルとは別にカウンターキッチンまである。カウンターには母親らしき女性が座っている。改めて「お邪魔します」と言うと、少し驚いたように「あら、いらっしゃい」と返す。 荷物をリビングのソファに放り投げた美和は振り返りざまに女性に向かって言う。「碧さん、これからしばらくパパの部屋使わせてもらうから。客室として。いいでしょ?」 と言った。母親ではないのだろうか。女性は呆れたように返す。「住まわせてもらっている身のアタシがとやかく言うことじゃないわ」「そう」 それだけ言って美和は奥の部屋へと向かう。「ついてきて」 と言われ茉莉と二人で隣の部屋に入る。六畳ほどの小さめの部屋だ。大きめのベッドと脇にナイトテーブル。壁に備え付けのクローゼットがあるばかりで使っている様子はない。「ここ、パパの部屋だったの、好きに使っていいわよ」「あの、美和のパパって」 茉莉が遠慮がちに聞く。「死んじゃったのよ、去年。それからあたしは天涯孤独」 別に気にしていないかのようにあけすけにものをいう美和。失礼かとは思いつつも気になっていたことを聞く。「あの、さっきの碧さんっていう女性は?」「ああ、あの人はパパの……愛人?」 答える側が疑問符付きで返答する?「えっと?」 俺は疑問符に対し疑問符で切り返す。「ああ、あの人はあたしのママじゃないのよ。ママはもうずっと前に死んじゃってるし、それでね、あの人は三年くらい前にパパが拾ってきたのよ。行く当てのない人を拾ってきて住まわせているの。ホントお人よしよね」「美和の言うことじゃないだろ。俺たち、行く当てのない人を拾ってくれた」「あっはは。確かにそうだね。なんだろ、これ、遺伝なのかな。まあそれでさ、パパが死んじゃって碧さんは行くあてもないからそのままここに住んでいるわけ。だからさ、茉莉たちも遠慮せずにいていいんだよ」「ありがとう。恩に着るよ」「そっれにしてもあんた達なかなかやるわね。今の時代に駆け落ちとは」「いや、まあ……いろいろと事情があるんだ」「言いたくなかったら言わな
それはあまりにも無計画すぎる出発だったのかもしれない。高まる気持ちのあまり勢いで家を出た。茉莉とふたり荷物を抱えて家を出て、寒空の下を歩きながら我にかえる。預金通帳にはいくらかのたくわえがある。紫原楽は食べることには困らないだろう。だからと言って贅沢ができるわけではないし、とりあえずはねる場所を確保しなくてはならない。さすがにホテル暮らしは無理だろう。ネットカフェならある程度価格を抑えることも出来るかもしれないが、妊婦である茉莉をそんな環境の悪いところにいさせるわけにもいかない。どこかアパートを借りることが大前提だろうけれど、未成年である俺たちにホイホイと賃貸契約を結んでくれる場所などそうそうあるものでもない。何軒か回った不動産屋ではいづれも門前払いを食らい意気消沈した。日が暮れて行き場を無くした俺たちは途方に暮れる。いつまでも寒空の下では茉莉の体に障る。ひとまずは24時間営業のカフェに入り、温かい飲み物を飲む。「ひと先ず今日はどこかホテルに泊まろう」 うつむいた茉莉は冷えた両手をカップに添えて暖を取っている。家族と住んでいる時だって節約することばかりを気にしていた彼女だ。今夜宿泊するホテルの料金のことを気にしているのかもしれない。 スマホで安いホテルを探してみる。いままで使ったこともなかったから知らなかったのだが、安いビジネスホテルを使うよりも明らかにラブホテルのほうが価格も安いし設備も充実している。「なあ、茉莉。ラブホテルでいいかな? そっちの方がだいぶ安く泊まれるみたいなんだ」 茉莉はうなずく。頬を赤らめているのは多分外で体を冷やしてしまったからなのだろうけれど、念のため自分ラブホテルに誘ったことに下心があるわけではないことを伝えようと思った。「あ、あの、別にそういうつもりじゃないんだ。その、茉莉とそういうことがしたくてラブホテルに行きたいと言っているわけじゃない」 そういうことがしたくないかと言えば、したくないわけがない。だけど、茉莉のおなかの中には赤ちゃんがいて、だからたぶんそういうことをするのはよくないんだと思う。 そこまでの想いをあえて言葉にするのにはやはり少し抵抗があって言わない。きっと茉莉ならわかってくれていると思う。 少し考えた様子の茉莉は俺に視線を合わせ、「行こうか、ラブホテル」とつぶやいた。 つ上の上に置いている茉莉の手を俺は両手で包み込
「だいじょうぶです。茉莉はちゃんと、俺が寝取りますから」 クリスマスのあの夜。俺は芹香さんにそう言った。レンタルルームから出て行こうとする俺を芹香さんは呼び止めて行った。「その言葉の意味、ちゃんと解ってる?」「わかっている、つもりです」「それは、茉莉のこれからに責任を取るっていうことだよ。これから先、どんなことがあってもちゃんと茉莉を護るっていう意味なんだよ。蒼君、それを約束できる?」「当然ですよ」「でも、あなたのお父さんだってそんなことを言っていたのよ。でも、実際はどうかしら? あたしのことをほったらかしにして、娘のほうに手を出すような始末。蒼君はその血を引いているのよ」「そんなことはしませんよ。俺は、親父じゃない。茉莉のことは俺が責任をもって、何としても幸せにするつもりです」「つもりじゃ困るのよ。あたしの大事な一人娘なんだから」「幸せにしますよ。それに、親父にもちゃんと言っておきます。芹香さんを、後生責任をもって幸せにしろって」「その言葉、信じていいのかしら?」「だから、芹香さんも親父のこと、ちゃんと寝取ってくださいね」「いいわ、わかった。じゃあ、あたしもそのつもりで直人君にぶつかってみるわ。でも、そんなことをしたら、あたし、茉莉のこと護れないし、傷つけてしまうかもしれない。その時は蒼君。茉莉を――」「命に替えても」 芹香さんは憂げに微笑んだ。 あの時の芹香さんの言葉の意味が分かった気がする。 芹香さんが陽性の妊娠検査薬を取り出し、子供ができたと言いだした時には一瞬血の気が引いた。父と芹香さんはそういう関係になかったという話だったし、芹香さんが仕事でそれ以外の男性と関係を持っているだろうことを知っている。強いて言えば、その子の父親が、自分であることも十分に考えられたからだ。 それなのに、父と相談したうえでその子を産むのだと考えるならば、それは狂気としか言えない事実だ。 だが、おそらくそうではなかったようだ。 あの妊娠検査薬は、茉莉のものだという。 もちろんそれだって大変なことだ。茉莉はまだ高校生だし、結婚だってしていない。 ましてや相手が父だというのなら結婚をするというわけにもいかないだろう。 だけど、そのことであるなら俺が責任を取るという選択肢だって可能ではないだろうか。 どうやら茉莉自身も子供を産みたいと考えているようだ。 ならば、俺がその子の父親にな