どいつもこいつも脳みそがちんこでできているらしい。
高校二年の夏休みが明けた九月初日の教室ではいきがった男子生徒の武勇伝が飛び交う。やれ、彼女が出来ただの、やれ、初めてセックスをしただのそんなくだらない話ばかりだ。
「よう、折田。お前夏休みはどうだったんだよ」
「別に、なにもないよ。ほとんどバイトばかりしていたからな」
クラスメイトの山岸が声を掛けてきた。別に仲がいいわけでもない。ただ単に自分の自慢話がしたくて、十分にマウントが取れそうな相手である俺を選んだだけだ。
「――でさ、それで由奈にフェラしてもらってさ」
聞いてもいない話をしてくる。隣のクラスの西崎由奈は清楚な雰囲気でちょっとだけ好意を抱いてはいたのだが、夏休み前に山岸と付き合うようになったと聞いて嫌いになった。煩悩にまみれて自制できないような奴に魅力は感じない。
山岸に自慢話に興味がないことを悟ってもらいたくてあえて視線をそらす。たまたまそこにいたたいして美人でもないけど結構モテる河野がいた。少しばかり肉付きが良い日焼けあとの残る腕を遠くの誰かに向けて手を振っている。その袖口から覗く腋と水色のブラに一瞬だけ反応して慌てて視線を逸らす。
山岸は気づいたらしい。耳元に顔を近づけて「いいよなあ。河野、後ろからガンガンつきてえよ」とつぶやく。
その言葉のせいで少し河野のことが嫌いになった。ちんこでものごとを考えるのは嫌だ。
チャイムが鳴り、教室に担任が入って来る。この瞬間に夏休みは完全に終わる。
「お前ら、夏休みは真面目に過ごしたか?」
担任の須藤は二十代の後半で社会教師。夏休みは趣味で化石の発掘をしているらしく真っ黒に日焼けした姿で教壇に立つ。若い男性教師というだけで意味なく女子からモテるのだが俺はこの担任が嫌いではない。いくら女子生徒からモテようとも一切それになびくことなく自分の趣味に打ち込んでいるからだ。
「それじゃあ、まあ、ホームルームを始める前に大事な話がある」
教室中がざわざわと騒ぎ立てる。予想がつかないわけでもない。夏休み明け、教室の一番後ろの俺の席の隣には、夏休み前まではなかったはずの机と椅子がある。
「はいはいはい。静かに。いいか、男子ども。あまり大きな声を出すんじゃないぞ。女子もな。嫉妬していじめたりするんじゃないぞ。よーし、中西。入ってきていいぞ」
教室前面のドアが開く。一人の転校生が入って来た。柔らかい黒髪が一歩歩くごとにさらさらと揺れる。
普通、大きな声で騒ぎそうなものだが教室の誰もが言葉を失ったように黙り込んだ。
「中西茉莉です。よろしくお願いします」
彼女の容姿を言葉で説明するのはきっとむつかしいだろう。整いすぎている顔というものはかえって表現が難しい。強いて言うならばやや大きめの涙袋と大きな口の上がった口角から覗く歯並びが整いすぎているうえに真っ白だという印象だ。
「じゃあ中西は一番後ろの、あの空いている席な」担任の指さした俺の隣の席に中西茉莉は歩いた。「ん、都合がいいな。じゃあ隣の折田はいろいろと教えてやるんだぞ」
何の都合がいいというのだろうか? 教室中の視線が俺に集まる。いや、それは違う。視線が注目しているのは俺の隣の席、中西茉莉だ。俺を含め例外なく注視するその場で彼女は言った。
「あなたが折田蒼君ね。優しそうな人でよかった。これからよろしくね」
屈託のない笑顔に息が詰まる。近くで見ると彼女の首筋には、縦に二つ並んだほくろが見えた。中西茉莉の整いすぎた外見の中で、一番印象的に差別化できる特徴だと言える。
中西茉莉は初対面の俺に対し、折田蒼という姓名のすべてを口にした。
「え、どうして俺の名前……」
「え、もしかして何も聞いていない?」
「……」
「じゃあ、いい。おしえてあげない」
口角を上げ、まるで見せびらかすような白い前歯が印象的だった。
くやしいけれど、わき腹を挟み込んで圧迫されるような感覚を覚えた。
脈打つ慟哭に理性を失い、喉が渇いて嗚咽しそうにさえなる。
自分の息を嗅がれ、嫌悪されることを怖いと思った。
ずっと見つめていたいと思ったはずなのに、怖くて目を合わせることなんてできなかった。
回りくどい言い方を避けるならば、俺は中西茉莉に恋をした。
一目惚れをしたのだ。
それはとても理性的な判断なんかではなく、もっと本能的で、動物的な恋だ。
いわば、ちんこで恋をしたといってもいいかもしれない。
「おはよう。蒼君」
翌朝一番に彼女、中西茉莉は挨拶をしてきた。はにかみ、白い歯を見せつけるようにだ。
別に朝だから「おはよう」で間違ってはいない。だけど、俺たちはまだ知り合ったばかりで互いのことなんてよく知らない。それなのにいきなり『蒼君』などと呼んでくるのだ。俺は彼女にその名を名乗ったこともない。俺だって彼女の名前が『中西茉莉』であることを知っているのは、昨日その名前が堂々と教室の黒板に書かれていたからだ。
俺はべつにコミュ障というほどではないにしても、よく知らない相手にはせいぜい「お、おはよう。な、中西さん……」と少しばかりどもりながら返すのが精いっぱいだった。
「蒼君、その、中西さんっていうのはやめてもらえないかな」
「あ、いや、その……ごめん。な、なんて呼べば……」
「ふつうに茉莉でいいよ。中西で呼ばれるのはちょっと困るのよね」
――何が普通なもんか、普通はよくも知らない女子に向かって下の名前を呼び捨てになんてしない。コイツ、コミュ力モンスターかよ。
中西茉莉は、まあ言ってしまえば容姿端麗で社交的な性格。おそらくこれまでの人生で何不自由なく生きてきたことだろう。だから自分に自信があり、不安を持たないからそういうふうに堂々と自分のペースで会話ができるのだろう。まあいいさ。そういうことであれば、俺だってどうにか、それにくらいついて行く覚悟くらいはあるさ。
「じゃあ、あらためて……おはよう、ま、茉莉さん……」
それだけで緊張した。なのに、中西茉莉はそれでもなお不満そうに俺の眼をじっと見つめる。
「えっと……何か……」
「ねえ、蒼君」
「はい」
「あなた、誕生日はいつ?」
「えっと……七(なな)月、七(なな)月の十七(じゅうなな)日」
「ふふ、なななななななって、なんだかどもっているみたいね」
「ごめん」
「いや、そうではなくて……こちらこそごめんなさい。わたしはね、誕生日は十二月なの。だからまだ、十六歳。蒼君はもう十七歳でしょ?」
「あ、まあ……うん」
「それじゃあ、やっぱり蒼君のほうがお兄さんなんだもの、茉莉さん、というのはおかしいわ。茉莉と、呼び捨ててくれた方がやりやすい」
――俺としてはやりくい。まあいいさ。
「わ、わかったよ……ま、茉莉……」
中西茉莉の周りには休み時間ごとに多くの女子生徒が集まっていた。転校してきたばかりで物珍しいというのもあるだろうが、やはり何と言ってもその整った容姿だ。クラスの中でもカーストの高いグループのいくつかが休みの時間ことにやってきて、彼女を自分たちのグループに引き込もうと必死なのだ。 そして男子生徒の幾人かも遠巻きながら彼女のことを気にしている。我先に彼女と親交を深めたいとは思いながらも取り巻く女子生徒も多くてなかなかに近づきがたくなっているようだ。 そんな彼女は俺の隣の席。取り巻きのカーストの高い女子たちと会話をしながら隣にいる俺にも話を振ってくるのだ。「休みの日は何してる?」「どんな音楽聞くの?」「好きな食べ物は?」そして「ねえ、好きな女の子のタイプは?」 もちろん俺は取り巻きのカースト上位の女子たちと仲がいいわけではない。だが、中西茉莉はまるで俺がその輪の中に入っているかのように話しかけてくる。「ねえ、もしかして茉莉ちゃんって。折田君のことがタイプなの?」 クラスのカースト上位者でもある、斎藤美和がそう言った。クラスの男子の数人が俺の方に攻撃的な視線を向ける。「タイプ、と聞かれるとそういうわけじゃないよ。でも――」「でも?」「蒼君はちょっと特別かな」 教室の空気は凍り付く。そして斎藤さんは言った。「折田君はさ、すごくいいやつだよー。ね、いっそのこと付き合っちゃえば?」 なんて無責任な話だ。斎藤さんは俺のことなんてほとんど知りもしないだろう。だけど、彼女が俺との仲を応援したいというのはわからなくもない。 中西茉莉がその気になれば、きっとおそらくほとんどの男子生徒を手中に収めることだってできるだろう。それは、その他女子にとってはつまらない状況だ。だが、俺のような眼中にない相手に好意を向けたうえで、自分たちのグループに引き込めばグループの格も上がり、その上無害という都合のいい存在になる。 いや、正直に言えばそんなことはどうでもいいのだ。もしここで中西茉莉が「そうだね、付き合っちゃおうか」なんて言い出した時、俺はどういうふうに反応すればいいのだろうかという思考の渦に飲まれてしまっていた。 だがそれも、つまらない杞憂だった。「はは、さすがに付き合うのは無理かな」 そんな中西茉莉の言葉に「だよねー」と斎藤さんは言った。それで凍り付いた教室の空気
物心がつく前から我が家に母はいなかった。でも、確かに記憶にはかすかに母親の記憶がわずかに残っており、物心がつく頃には母はてっきり死んだものだと思い込んでいた。思春期に入り、世の中のいろいろなことがわかるようになってから、母は育児放棄のために出て行ったのだということを知った。 記憶の限りほとんど俺は父と二人で生活してきた。元々フリーランスの父は仕事を在宅で行い、家事のほとんどをしながら俺を育てた。「あーなんか記念日か何だっけ?」「いやな、別にそういうんじゃないだが」「なんだよ、その言い方。なんか気持ち悪いな」「ああ、いや……会ってもらいたい人がいるというか」「だれに?」「母親だよ――」その言葉を聞いた瞬間に、何をいまさらと思った。「今更会いたくなんてないよ。俺を捨てた親だろ? 俺の家族はあんただけで十分だ」「ああ、そういう意味じゃなくてだな……」「なんだよ、じゃあどういう意味なんだ?」続く言葉で、ようやく理解が追い付いた。父は昔から、一言足りない。「――新しい、お母さんだ」 その意味を考えるのにしばらくの時間がかかった。たぶん、二、三秒なのだろうけれど、随分長い時間がかかったという印象だ。「――そうか、おめでとう」「いやじゃ、ないのか」「いやというか……もともと母親の記憶なんてないようなものだし、この年になって新しいおかあさんなんて言われても実感ないな。俺にしてみれば、新しい母というか、父の新しい妻という感じだな。だから、なにも遠慮することはない」「一緒に住むことになるかもしれないが……」「部屋なら空いてる。二人で住むには広すぎるくらいには」「そうか……会ってみて、もし嫌なら別にいいんだ。無理強いはしない」 改めて無駄に広い家を見渡す。郊外とはいえ庭付きの一戸建てに俺達親子は住んでいる。俺が生まれる前に建てたマイホームは、おそらく俺の妹や弟まで想定して建てたものだろう。実際その家に妹や弟が生まれることもなく、母親さえもいなくなった家は空き部屋だらけの無駄な家だった。「どんな人だ?」「かわいい人だよ」「歓迎だ」「あと、娘もいる。お前の妹だ」「……悪くない」 よくあるラブコメの妹を想像した。生意気だけどなんだかんだで兄のことが大好きな妹だ。そしてそんな都合のいい話があるわけないという気持ちもまたあった。 週末の夕方、
まるで意地悪く嘲笑するかのように上がった口角から覗く白い歯がとても印象的だった。 ようやく今まで茉莉の言っていた言葉の意味がつながった。それに担任もだ。俺の隣の席が空いていることに「ちょうどいい」なんて言ったのもすべて知っていたのだろう。つまり、俺だけが何も知らされていなかった。 茉莉とは今まで何度となく話をしてきたし、芹香さんもずいぶんと社交的な性格だ。いつの間にか緊張は解け、砕けた話もできるようになった。「それでね、蒼君さえ問題なければ、ゆくゆくはあの家に一緒に住まわせてもらおうと思っているの」 芹香さんの言葉の言う『あの家』という言い方から、きっと何度か訪れたことがあるのだろうと推測できる。父は在宅で仕事をしているし、俺が学校に行っている間に誰かやってきていたとしても俺が知る由もないだろう。 おそらくもうすでに住み着く準備も始めている。その手始めとしてこの町に引っ越して、俺の学校へ転入してきたのだ。「別に、引っ越してくるならいつでもいいですよ。ほら、どうせ部屋だって余っているしさ。今のアパートだって、お金かかっているんだろうし。そのお金だって、言ってしまえばこれからはおんなじひとつの家庭の金なわけだろ。だったら節約できるところは節約すればいいと思う」「ふふ、蒼君はまだ若いのに経済観念がしっかりしているのね」「いや、別にそれほどでも……」 多分経済観念がはっきりしているという話ではないのだと思う。俺は小さなころから父の背中だけを見て育ってきたし、その背中にも憧れてはいた。自分も早く父のように独立した大人になりたいと思っていたのだ。だけどそれと同時に、そんな父ですら手に入れることの叶わなかった幸せそうな家庭、というものにも憧れがあった。 大人になったらできるだけ早いうちに家庭を築き、立派な大人になりたいと思い、高校に入るなりアルバイトも始めた。早いうちに自立できるだけのお金をためておきたかったのだ。 それに、俺にはこれといった趣味を持ち合わせていない。ゲームもあまりやらないし、映画や音楽に関してもそれなりに興味はあるものの、世間一般で言う〝それなりに〟以上の感情は持ち合わせていない。 父は読書が趣味で、それが昂じて職業としている。それもあるからだろうけれど、どうしても読書を趣味にしようとは思わなかった。子供のころはそれなりに読んではいたの
茉莉たちが家に引っ越してきたのはそれからすぐのことだった。 〝早い方がいい〟といったのは俺だが、まさかこんなに早く越してくるとまでは思っていなかった。いつまで住むかも決まっていなかった茉莉たちの住居はマンスリータイプのマンションだった。夏休みの間に越してきて、ちょうど一か月を迎えるところだったので、いっそのことと言って急いで解約したらしい。 芹香さんの部屋はなく、父と同じ寝室を使うということだ。夫婦になるというのだからまあそれもいいだろう。芹香さんの荷物は段ボールのまま一階の使っていない和室に倉庫のように押し込んだ。 二階に上がって俺の部屋のすぐ隣が茉莉の部屋になった。 「うわー、ほんとにこの部屋ひとりで使っていいの?」 「そりゃあ、茉莉の部屋だからな」 「わたし、自分の部屋なんて初めてなんだ。エアコンだってあるよー」 「ほとんど使っていない部屋だからな。エアコンはあるけどだいぶ古い型だし、使う前にメンテナンスした方がいいだろうな」 そんな忠告に耳を貸すこともなく白い前歯を輝かせながらはしゃぐ姿には、まだあどけない十六歳の少女であることを再認識させた。出会って以来しっかりした大人びた雰囲気を感じていたから少しだけ意外だ。 それに、初対面で感じた苦労なんてしてこなかったであろう強気な性格という俺の印象が全くあてにならなかったということも証明された。 俺自身片親で育ったことにどこか引け目を感じて、自分は勝手に『苦労してきた少年』だと思い込んでいたのに、金銭的にも裕福で、おそらく茉莉がそれ以上に苦労をしてきたことなんて想像できていなかった。 なぜならそれは彼女がそんな引け目をおくびにも出さない強さを持っていたからだ。あるいは引け目さえ感じていなかったのかもしれない。 この部屋は元々母が衣裳部屋として使っていたらしい。母はおしゃれ好きだったのだと聞いているが、家を出る時にたくさん持っていた衣装はすべて持ち出した。残して行ったのは俺と無駄に並ぶ空のクローゼットだけだ。 父は茉莉にこの部屋を使ってもらうといいんじゃないかと提案した。ただでさえ動かすのも億劫で埃をかぶっていたクローゼットは、まだ若い茉莉なら有効活用できるだろうということだった。 だけど、茉莉の持ってきた荷物はとても少ない。段ボールでたった四つの彼女の荷物ではこの
それからしばらくしてからのとある昼休み、すっかり茉莉争奪戦において勝者となった斎藤さんが来て、お昼行こうと茉莉を連れ出す。 俺は一人残された教室で弁当を広げ食べようとした時、山岸がやって来た。 「なあ、折田。お前、中西と仲いいよな」 「まあ、悪いわけじゃあない」 「でも別に彼氏ってわけでもないんだろ?」 「……」 余計なことは言わない。幸い、茉莉が転校早々に俺とは『付き合うのは無理』と明言したおかげでつまらない嫉妬をうけずにはすんだものの、まだ自分にも脈はあると思い込んだ身の程知らずが日々茉莉にアプローチをかけているようだ。 一見仲がよさそうに見える俺に仲介役を頼もうとする輩は決して少なくはない。そのことを鑑みれば兄妹であることをこんな奴に知られたらどう利用されるかわかったものじゃない。 山岸はやたらと俺に対し、茉莉のあれこれを聞き出そうとしてくる。当然俺は「そんなことを知っているわけないだろ」と返すのだが、事実何も知らないので教えるも何もない。 そんなくだらないことに付き合ってしまっていたがために弁当を食うのがすっかり遅れてしまった。 ようやく人払いをして弁当の蓋を開ける。唐揚げやミニハンバーグのような男子高校生に必要なたんぱく質をしっかり補ったうえで玉子焼きやブロッコリー、ミニトマトなど栄養と色合いをバランスよく兼ね備えた完璧な弁当だ。しかもこれは茉莉の手作りである。 おそらく何も知らないであろう山岸を遠目に鼻で笑いながら茉莉弁当を口に放りこむ。 当然非の打ちどころもなくうまいそれに優越感を感じる。いつものような空腹を満たすだけの菓子パンとはわけが違う。せっかくだから時間をかけ、ゆっくりと味を堪能していた。そうこうしているうちに昼食に出ていた茉莉と斎藤さんが帰ってきた。斎藤さんは茉莉の席のところでだべっている。ふと後ろを振り返り俺の弁当を見て、そのまま動きを止める。 しばらく俺の弁当を見つめ、斎藤さんは俺の耳元でささやいた。 「アンタのお弁当、茉莉と同じおかずだよね」 俺はそれを無視した。無視するよりほかなかった。 しかしそれは、翌日にはクラスの誰もが知る事実となってしまっているようだった。 誰が言いふらしたかなんてそんなこと考えるまでもない。学校では別々に弁当を食べている俺と茉莉だが、その二人の弁当が同
深夜にふと目が覚める。寝苦しい暑さの中で耳鳴りと共に体全体に重みを感じて目を開く。思わず声を上げそうになったが息を押し殺す。下の階では父が眠っているのだ。 そして俺の上には茉莉が馬乗りになっている。食指を一本口の前で立て、暗闇の中で白い歯を見せて微笑んでいる。自分の下半身が固くなっていることを自覚する。茉莉はショートパンツとキャミソール姿で俺のその部分に馬乗りになり。体重をかけたまま体を前後に揺さぶった。 ゆっくりと、ゆっくりと、それでも一定のリズムを保ったままで茉莉は俺の上で動き続けた。自分は動きたくても身動き一つとれない。あるいは、身動き一つとりたくないと強く願っているだけなのかもしれない。 脳の中が真っ白な靄で埋め尽くされて何も考えられなくなった。 そんなことはいけないとわかっているはずなのに、それでもその状態が永遠に続いてほしいと同時に考える。 しかし、それほど長くなど続かない。 目が覚めた時には、ベッドの上でひとり汗をかいて息を荒くしている自分がいた。下着の中で精液がべったりとあふれかえっていることに気づく。ひとまずティッシュで拭き取れるだけ拭き取り、それからどうすればいいかを考える。 そもそも茉莉と一緒に住むようになるまでこんな事態が起こることなんて考えていなかった。自分の部屋にいる時だって、隣に茉莉がいるとなるとたとえヘッドホンをしていたって音が漏れているんじゃないかと不安になるし、ガサゴソという音が聞こえるかもしれないと心配になり自身の処理ができなくなっていた。それに使い終わたっティッシュペーパーの問題だってある。今までは家事のほとんどは俺と父とでやっていたが、最近ではほとんど芹香さんと茉莉とがやってくれるようになった。部屋のゴミを袋にまとめるにしたってそれを捨てに行くためには大きなゴミ袋に移すことになる。それどころか使い終わったティッシュを部屋のゴミ箱に入れておくというわけにもいかないだろう。どうしたって匂いの問題もあるだろうし、今までが気にせずにのうのうと生きてきただけだったのだ。とりあえず下着は履き替える。しかし、これを洗濯するというわけにもいかないだろう。どうせ洗濯をするのはいつも茉莉だ。家族の半分が女性になった時、さすがにどうしても男が洗濯を担当するわけにはいかなくなってしまい、話し合いでそう決まってしまったのだ
十月に入り、夏服から冬服に変わったが、いまだ残暑はしつこく、制服の分厚くなった分汗がにじむ。 昼休みに一人静かに弁当を食べているところに山岸がやって来る。俺の向かいに勝手に座り、購買で買ってきたかつサンドロールにかじりつく。 「ところで折田。お前、いつも中西とはどんなデートをしているんだ?」 余計なお世話だ。俺と茉莉は実際つきあってなどいないし、デートをしたことなんて一度もない。こいつ、まだ茉莉のことあきらめていなかったのかよとほとほと呆れる。 「いや、別に……たいしたことはしてないよ。ただ何となく話をしたり、一緒に映画を見たりするくらいだ」 「それは、要するに家デートをするということか?」 「まあ、そんなところ……かな」 ――正確に言えば私生活を送っているだけだ。デートと言えるようなものではない。 「あと、茉莉はああ見えて料理がうまいから、家で料理を作ってくれる。それを食べながら音楽を聴いたりなんかする」 「ふーん、それで、飯食った後は中西を食うって話だな」 頭の中がちんこでできている人間の想像力の儚い事か。 「いや、デートって言っても、何をしていいのかわからないしな」 それは本音だ。茉莉にはいつも家事を押し付けてしまってばかりで、バイト代もたまってきたことだし、何かしてあげたいという気持ちがあるのも確かだ。 「カラオケとか、行かないのか?」 「カラオケか……行かないな……」 「じゃあさ、今度一緒にカラオケに行こうぜ」 「一緒に行こう……っていうのは、山岸と行くっていう話か?」 「……鈍いな。中西は何でこんな男が良かったのか。あのな、そういう話ではなくて、俺とおまえでカラオケにでも行こうっていう話を中西に持ち掛けろって言っているんだ。そうなると男二人に女ひとり。これじゃあバランスが悪いだろう? 中西は友達を呼ぶことになる。呼ぶ友達は誰だ?」 「そりゃあ、茉莉が呼ぶ友達と言えば……もしかして山岸、斎藤さんのことが?」 「斎藤美和……いいよなあ。顔もそれなりだし、乳もでかい。いうことなしだろ」 「いや、そりゃあ悪くはないけど」 「おっと、折田。中西と比べたらっていうのはナシだぜ。言っておくけど俺はまだ納得してないんだ。まさか中西がお前を選ぶなんてな。さすがにオレもNTR趣味はないから身を引いてやってるんだ。その
帰り道に茉莉ときょうの夕食は何がいいかという話をしていた。 「カツ丼、とかはどうだろうか?」 「アオってさあ、大体丼物で答えるよね」 「だってどんぶり物は効率がいい。洗い物も少なくて済むし、それぞれの食材が調和となってどんぶりに収まる姿はもはや芸術だよ」 「それはまあ、わかるんだけどさ、作る方としてはせっかくだから別々に味わってほしいなんて気持ちもないわけではないし、その、女子的にはどんぶりを掻き込むのって、ちょっと抵抗があるのよね」 「すまん。そんなとこまで考えたことはなかったな」 「まあ、それはいいんだけどさ、ちょっと愚痴ってみたかっただけだし。でもさ、今日は確か冷凍庫の中にも、とんかつにできる材料はなかったのよね。ちょっと遅くなってしまったし、買い物に寄って帰るのも億劫なので、今日は親子丼でいいかしら? 鶏肉だったら冷凍庫の中にあるのだけど」 「いや、全然それで構わないよ。俺は親子丼だって――」 「ん、どうしたの?」 「いや、あれ? 芹香さんじゃないかな?」 家に帰る途中の橋のたもとで芹香さんらしき人が立っている。夕方の六時ということは、今日はそろそろ仕事の時間じゃないかと思う。しかし、こんなところで立っているというのも妙な話だ。まるで誰かと待ち合わせでもしているような……」 「なに言ってんの? あれ、全然ママじゃないわよ。んもう、ほんとアオは人の顔を見分けられないんだから」 そう言いながら半ば強引に俺の袖を引いた。だから俺もその場では単なる見間違いなんだとその場をやり過ごしたのだが、やはりどう見てもあれは芹香さんだとしか思えなかったのだ。 カラオケの当日、待ち合わせは駅前の銅像の前だ。地元の偉人というか、実在したのかどうかも怪しいその街のシンボルとなっている銅像はこの町のごく一般的な待ち合わせ場所だ。 俺は茉莉と一緒に家を出て、一緒にその場所に向かう。二人は付き合っているという前提なのでそこに不自然さはないはずだ。 銅像の前に斎藤さんがいた。ふんわりとしたサーモンピンクのブラウスに黒のフレアスカート。スエードのシューズという学校でのノリのいいイメージとは一線を画したゆるふわなスタイルは高校生にしてはどこか大人びた印象を与え、おそらくおしゃれに気が遣えるタイプの女子だとわかる。それに比べると相変わらず薄着な茉莉はも
「ねえ、それって浮気なんじゃないの?」「ちがうよ。これはひとつの生理現象みたいなものだから」 美和の言葉を必死で否定する。 学校の昼休み。渡り廊下の影で美和と同じ弁当を並べて食事をする。茉莉が学校に行かなくなってからは美和と二人で昼食をとるようになった。以前は俺と茉莉が同じ弁当であることを見抜き、二人の関係を疑った美和が、今では俺と同じ弁当を並べて食べているというのだから数奇なものだ。 無論二人は恋人でもなければ、将来的にそうなる可能性もない。美和は俺の妻の親友だし、今となっては俺の家族であると言っても過言ではない。 弁当を食べながら、昨晩見つけた面白い動画を保存しておいたものを美和に見せている時に、つい間違えて別に保存しておいたえっちな動画を開いてしまったのだ。 それを美和は、浮気だと言ってくる。「だって蒼は茉莉じゃない女の裸を見て、エッチなことをしているってことなんでしょ?」「いや、男にとってそれは生理現象みたいなものだから、定期的に抜いておかなきゃいけないんだよ。茉莉とセックスするわけにもいかないだろ?」「それはわかってるわよ。でもさ、それなら茉莉の裸を写真にとって、それで処理すればいいでしょ。なんでほかの女でしちゃうかな」「いや、だってそれは罪悪感にさいなまれるだろ。その、茉莉をそういうことには使いたくないんだよ」「そういうことって?」「つまり、性の処理っていうか……恋愛感情の伴わない性欲のはけ口に好きな人を使いたくはないんだよ」「その考え方は理解できないなあ。アタシだったら、恋人がエッチな妄想するなら、自分をオカズにしてほしいと思うんだけどな」「茉莉も、そうなのかな?」「さあ、それはどうだろ?直接本人に聞いてみれば?」「聞けるわけないだろそんなこと」「まーそーだよねー」 美和はつぶやきながらウインナーにかじりつく。黙って咀嚼しながら、思いついたように言う。「じゃあ、アタシをオカズにする?」 思わずむせ返り、慌ててお茶を流し込む。「それこそ罪悪感がヒドイだろ。できるわけがない」「なんでよ。その理屈じゃ、アタシのことが好きみたいになるでしょ?」 正直なことを言えば、美和をオカズにしたことは今まで何度だってある。美和ははっきり言って可愛いし、だからと言って恋愛感情を向けている相手ではないから気兼ねなくオカズにできる
俺がベッドに入ったのは深夜をずいぶんすぎてからだ。 俺と茉莉は同じ部屋の同じベッドで寝ている。 ずっと寝ていたという茉莉も、体調がすぐれずにいたために眠っていたのだから、俺がベッドに入る時に一緒に布団に入った。隣りに眠っている茉莉の体温が、吐息が、時折少しだけ触れる肌が、俺の心を落ち着けてくれない。 妊娠初期にセックスができないというわけではないらしい。だが、もちろんそれなりに負担もかかることは事実だ。当然茉莉だって妊娠の経験なんて初めてだろうし、不安もあるだろう。だから、どちらから言うわけでもなく、互いにセックスはしないという取り決めが交わされていると言っていい状況だ。 ネットを調べてみる限りでは、女性の体は妊娠中にはセックスをしたいと思う気持ちは少なくなる。あるいはまったくと言っていいほどなくなるらしい。 だが、男である俺として、それは関係のないことだ。 いや、そもそも、茉莉のおなかの中にいる子供は俺の子供ではない。 マウスの実験では、オスのマウスは子育てをしているメスのマウスを見つけると、子供のマウスを殺してしまうという。それはどうやら、子育て中のメスのマウスは、目の前にオスのマウスがいても発情しないからだという。 人間のオスにも、この感情が全く働いていないわけではないと思う。義理の父が、子を虐待するという事件は極めて多く、そのことを考えれば自分だってその可能性がないわけではないとは言い切れない。だが、そんなはずではないとは思いたいが、いったい俺は何を考えているのだろうと頭の中を振り払う。 いや、振り払わなかったほうがよかったのかもしれない。 振り払ったことで、今度はさっき見た美和の裸を思い出し、頭から離れない。 そうだ。たぶん自分は溜まっているんだと思う。 こんなつまらないことで頭の中が猥雑な思考に占領されてしまうというのだから男と言う生き物は実にくだらない。 所詮俺の脳みそはちんこでできているようなものなのだ。 いくらきれいごとを並べても、自然と頭の中はそれに支配され、理性を失い、支配されてしまう。 ――なんだったらアタシがヌいてあげようか? 美和の言葉が頭の中を駆け巡る。 情けない。 いつの間にか俺の下半身が充血している。 気が気でいられない。 茉莉の寝息を聞きながら、そっとベッドを立ちあがる。 いったんトイレに行って、ヌくものを抜ヌなければな
「ごめん、今日つわりひどくて……」 いつもはみなの朝食を作り、弁当までを持たせる茉莉が体調不良を理由にベッドから起きてこなかった。「いいよ、気にしなくて。アタシに任せてよ」 美和の言葉に「たすかる」とだけ言い残し、もう一度毛布をかぶった茉莉を部屋に残し、朝食と弁当の準備をする美和の手伝いをすると申し出た。 元々は家で料理をしていたのだし、アルバイトで飲食店で働いたことだってある。足手まといになるとまではいかないだろう。 美和に対しては感謝の気持ちと申し訳なさから手伝うと言ったのだが、「そう言うセリフはさ、普段茉莉が家事をしている時に言うもんだよ。健康なアタシになんて気を遣わなくていいんだからさ、気を遣うなら、つわりと戦いながらも家事をこなしてくれているいつもの茉莉に気を遣いなよ」 確かに美和の言うとおりだった。茉莉は妹として家にいた時からずっと家事をしていて、そのスキルだって自分よりも高い。アルバイトをしている自分に対してしていないけれど、お小遣いをもらうからという理由で茉莉が家事全般をこなしていたことを受け入れていたのだが、今となってはその理由は全く関係ない。にもかかわらず、かつての生活の慣れで、つわりを押し殺してまで家事をこなしてくれていたというのに、感謝をするどころか手伝うとも言わなかった自分に情けなさを感じた。 とはいえ、今手伝うと言い出した美和の手伝いをしないという選択肢はない。茉莉の手伝い(いや、手伝いというのもおこがましいのかもしれない。自分の食べる朝食に、自分の食べる弁当の準備だ)をしながら、朝の準備をすませる。家を出る直前に起きてきた碧さんに、朝食と弁当を渡し、美和と二人で家を出て、学校へと向かう。「中西はまだ休んでいるのか? 体調、そんなに悪いのか?」 山岸の質問に「うん、ちょっと風邪をこじらせているだけだよ。もうじきよくなると思う」 とだけ返事をする。 本当のことを言うのはまだまだ先伸ばしするべきだろうとは思う。いや、いっそのこと本当のことを言う必要なんてあるのかどうかもわからないけれど、ともかく今はまだ、そんなあやふやな状態ですませている。「アオ、お昼いこーよ」 と美和がやって来る。「なんで、中西が休みだからって、いつもお前が一緒に飯を食うんだよ」 という山岸の疑問はもっともだ。「これは茉莉からの言いつけなの、茉莉が休みの間にアオが誰かと
「碧さん、これからしばらくパパの部屋使わせてもらうから。客室として。いいでしょ?」 そう言いながら義娘の斎藤美和が言った。 訳ありの友人をしばらくこの家に住まわせるそうだ。「住まわせてもらっている身のアタシがとやかく言うことじゃないわ」 その言葉を聞いて美和は友人を孝之の部屋へと通した。 斎藤孝之はアタシの二番目の夫だ。孝之はアタシと同じで離婚歴がある。美和は前妻の娘で、二年前に孝之が亡くなった際にその遺産のすべてを相続した。後妻であるアタシに一円の財産も残さなかったことに不満はない。きっと孝之は妻という存在を信用していないのだ。つまなんて言うものは所詮血のつながっていない赤の他人で死かなと考えているのだろう。 だから遺言書には前妻にも一円たりとも残すことなくすべてを美和に託した。 前妻は一度遺産を分けろと怒鳴り込んできたこともあったが、それは美和が追い返した。「今更どの面下げて帰ってきたんだ」と激しく罵声を浴びせた。 だけど美和は居場所をなくし、路頭に迷うはずだったアタシをこの家にずっと住んでいいと言ってくれた。アタシは家事もろくにできないダメな妻で、美和にすればここに置いておくメリットなんてないはずだ。 それなのに、血のつながった実の母を追い返し、血のつながっていないアタシにここにいることを許したのは、どういう考えなのだろうかと思うことはある。もしかすると実の母に対して、アタシをここに置いておくことがひとつの見せしめなんじゃないかと思うこともある。 まあ、そんなことはどうでもいい。アタシとしてはここにおいてもらえているというだけで美和には感謝しているくらいだ。 美和の連れてきた友人、中西茉莉。どうやら彼女は妊娠しているらしい。一緒にやってきた男がその子の父親なのだろう。 中西茉莉という子はなかなかにいい子のようだ。料理もうまいし美人でもある。 その子をはらませてしまたという男の子、彼らの話を聞いて息が止まりそうになった。 その男の子の名前は『折田蒼』というらしい。 とても偶然だとは思えない。 今から約二十年前、アタシの一度目の結婚は社内恋愛でそのまま結婚し、子供を産んだけれど、どうにも家事や育児と言ったものに向いていない性格らしく、育児ノイローゼにかかってしまい、生まれて間もない子供を置き去りにして離婚した。それからもう十五年間、一度も会っていない。 そ
バイトを終えて家に帰り、茉莉と手紙のことについて話し合った。 芹香さんが俺にあてた手紙の中で、俺と芹香さんの関係について触れていなかったことは意図的だろう。おかげで手紙と通帳をそのまま渡すことができた。そしてこのとは、今の家主となっている美和にも相談しないわけにはいかないだろう。 リビングの隅には美和の義母でもある碧さんがいたが、話はそのまま進めることにした。 同居人となっている碧さんにも話を聞く権利があるし、聞いておいてほしい話でもある。「つまり、お金の心配はないから早々にここを出て行く、ということなの?」「なるべく迷惑をかけるわけにはいかないから、早いうちにそうするべきだとは思っているんだ。だけど、高校生の俺たちの名義でアパートを貸してくれるところはなかなかないだろうから、すぐにはむつかしいと思う」「あのさ、そりゃあふたりが新婚生活をイチャイチャしたくて二人きりになりたいという気持ちはわかるよ」「いや、別にそういうわけでは」「ごめん。それはちょっとした厭味なんだけどね。でも、あたしとしては、できることならもうしばらくは、いや、ずっとでもいいからここで一緒に住んでもらったほうが嬉しいとは思うのね。前にもいったけど、あたしは一応天涯孤独で寂しい立場でもあるんだ」 奥の方で話を聞いていた碧さんが口を挟む。「ちょっとおばさんに口出しさせてもらうよ」 そう言いながらカウンター席を立ちあがり同じダイニングのテーブルにつく。「まあ、そんなに急いでここを出て行く必要はないんじゃないかなってアタシも思うよ。まだ学校に通うならいろいろとやることも多いだろうしさ。それに何よりまつりちゃん、だっけ? 子供育てたことないでしょ? 案外大変なのよそれがさ。助けてくれる人は一人でも多い方がいいわけ。だからさ、少なくとも子供が生まれて、落ち着くまではここにいてもいいんじゃないかな」 たしかにそういわれれば一理あるように思える。そしてその言葉に美和が反応した。「あれ、そういえば碧さんって子供育てたことあるの?」「子供なら生んだことあるよ。でも、子育てはしていないかな。あまりにも過酷すぎてね、アタシは投げ出しちゃったんだよ。まつりちゃんにはそうはなってほしくないからね」「はっはーん。ちょっとわかったかも」「なにが解って言うのよ、美和ちん」「よ―するにあれでしょ。碧さんは子育てがしてみたいんじ
香ばしい匂いに目を覚ました。隣を見ると茉莉はいない。日曜の朝だからと言って少々眠りすぎてしまった。眠い目をこすりながらリビングのほうへ移動すると。美和と茉莉がキッチンのところにいた。茉莉はテンション高めに俺に手を振ってこっちへ来るように呼んでいた。 そこには何やら茶色い大きな物体があった。香ばしい匂いの正体はこれだったのか。「ねえねえ、見てよ蒼。美和んちさあホームベーカリーがあるんだよ」「昔ね、一時期そういうのにはまった時期があったんだけど、それからしばらくずっとしまいこんでいたんだ。また使ってくれることになってこいつも喜んでいるよ」 美和はそう言いながら白くて角ばった保無ベーカリーの天蓋をなでる。「なんか、ペットをなでているみたいだな」 俺がふとつぶやいた。「やめてくれよ。それじゃああたしがずっと長い間ペットをほったらかしにしていた悪い飼い主みたいじゃないか」「いやごめん、そういう意味で言ったんじゃなくて、なんか、かわいいなって」「か、かわ……」 俺としては決して変なつもりで言ったのではないが、美和は思いのほか照れてしまった。そしてそれを見た茉莉が、「あー、蒼君、今の発言は浮気だよー」と冗談めかして言う。こういうの、悪くないなと思ってしまった。 茉莉が焼きあがった食パンを手で割いていく。真っ白でふわふわとした生地が湯気を上げる。食べる前からそれがおいしいということがわかる。 つい先日に人生の修羅場のような窮地を経験したばかりなのに、美和のうちに来た途端に打って変わってほほえましい状況が続く。たぶんこれからの生活は大変なものになるだろうけれど、きっと幸福に違いないと思えた。「なあに、蒼。さっきからにやにやして」「いや、なんかさ。こういうの新婚生活みたいでいいなって」「えへへ」「ちょっと、あたしがいること忘れないでよ。なにいちゃついてんだか」「なあに、美和。妬いちゃってるの? 何なら美和を第二婦人にしてあげてもいいのよ。やったね、蒼。ハーレムだよ」「おい、なに勝手なこと言っているんだ」 朝食から談笑が絶えない朝だった。 しかし、楽しんでばかりはいられない。親の庇護から逃げ出した俺たちには、現実が突き付けられるのだ。 朝食を終えると、アルバイトへと向かう。 おそらくこれからはアルバイトの量を増やし、生活を支えて行かないといけないだろう。高校も、中退するしかないとい
美和の家はそのカフェから歩いて五分くらいのところだった。比較的新しいマンションの三階。玄関のドアを開けると室内は照明がついており、暖房も効いているようだった。「お邪魔します」と俺と茉莉は言ったが、美和は一言も言わず廊下を歩いてリビングのドアを開いた。 十分すぎるほどに広いリビングだ。ダイニングテーブルとは別にカウンターキッチンまである。カウンターには母親らしき女性が座っている。改めて「お邪魔します」と言うと、少し驚いたように「あら、いらっしゃい」と返す。 荷物をリビングのソファに放り投げた美和は振り返りざまに女性に向かって言う。「碧さん、これからしばらくパパの部屋使わせてもらうから。客室として。いいでしょ?」 と言った。母親ではないのだろうか。女性は呆れたように返す。「住まわせてもらっている身のアタシがとやかく言うことじゃないわ」「そう」 それだけ言って美和は奥の部屋へと向かう。「ついてきて」 と言われ茉莉と二人で隣の部屋に入る。六畳ほどの小さめの部屋だ。大きめのベッドと脇にナイトテーブル。壁に備え付けのクローゼットがあるばかりで使っている様子はない。「ここ、パパの部屋だったの、好きに使っていいわよ」「あの、美和のパパって」 茉莉が遠慮がちに聞く。「死んじゃったのよ、去年。それからあたしは天涯孤独」 別に気にしていないかのようにあけすけにものをいう美和。失礼かとは思いつつも気になっていたことを聞く。「あの、さっきの碧さんっていう女性は?」「ああ、あの人はパパの……愛人?」 答える側が疑問符付きで返答する?「えっと?」 俺は疑問符に対し疑問符で切り返す。「ああ、あの人はあたしのママじゃないのよ。ママはもうずっと前に死んじゃってるし、それでね、あの人は三年くらい前にパパが拾ってきたのよ。行く当てのない人を拾ってきて住まわせているの。ホントお人よしよね」「美和の言うことじゃないだろ。俺たち、行く当てのない人を拾ってくれた」「あっはは。確かにそうだね。なんだろ、これ、遺伝なのかな。まあそれでさ、パパが死んじゃって碧さんは行くあてもないからそのままここに住んでいるわけ。だからさ、茉莉たちも遠慮せずにいていいんだよ」「ありがとう。恩に着るよ」「そっれにしてもあんた達なかなかやるわね。今の時代に駆け落ちとは」「いや、まあ……いろいろと事情があるんだ」「言いたくなかったら言わな
それはあまりにも無計画すぎる出発だったのかもしれない。高まる気持ちのあまり勢いで家を出た。茉莉とふたり荷物を抱えて家を出て、寒空の下を歩きながら我にかえる。預金通帳にはいくらかのたくわえがある。紫原楽は食べることには困らないだろう。だからと言って贅沢ができるわけではないし、とりあえずはねる場所を確保しなくてはならない。さすがにホテル暮らしは無理だろう。ネットカフェならある程度価格を抑えることも出来るかもしれないが、妊婦である茉莉をそんな環境の悪いところにいさせるわけにもいかない。どこかアパートを借りることが大前提だろうけれど、未成年である俺たちにホイホイと賃貸契約を結んでくれる場所などそうそうあるものでもない。何軒か回った不動産屋ではいづれも門前払いを食らい意気消沈した。日が暮れて行き場を無くした俺たちは途方に暮れる。いつまでも寒空の下では茉莉の体に障る。ひとまずは24時間営業のカフェに入り、温かい飲み物を飲む。「ひと先ず今日はどこかホテルに泊まろう」 うつむいた茉莉は冷えた両手をカップに添えて暖を取っている。家族と住んでいる時だって節約することばかりを気にしていた彼女だ。今夜宿泊するホテルの料金のことを気にしているのかもしれない。 スマホで安いホテルを探してみる。いままで使ったこともなかったから知らなかったのだが、安いビジネスホテルを使うよりも明らかにラブホテルのほうが価格も安いし設備も充実している。「なあ、茉莉。ラブホテルでいいかな? そっちの方がだいぶ安く泊まれるみたいなんだ」 茉莉はうなずく。頬を赤らめているのは多分外で体を冷やしてしまったからなのだろうけれど、念のため自分ラブホテルに誘ったことに下心があるわけではないことを伝えようと思った。「あ、あの、別にそういうつもりじゃないんだ。その、茉莉とそういうことがしたくてラブホテルに行きたいと言っているわけじゃない」 そういうことがしたくないかと言えば、したくないわけがない。だけど、茉莉のおなかの中には赤ちゃんがいて、だからたぶんそういうことをするのはよくないんだと思う。 そこまでの想いをあえて言葉にするのにはやはり少し抵抗があって言わない。きっと茉莉ならわかってくれていると思う。 少し考えた様子の茉莉は俺に視線を合わせ、「行こうか、ラブホテル」とつぶやいた。 つ上の上に置いている茉莉の手を俺は両手で包み込
「だいじょうぶです。茉莉はちゃんと、俺が寝取りますから」 クリスマスのあの夜。俺は芹香さんにそう言った。レンタルルームから出て行こうとする俺を芹香さんは呼び止めて行った。「その言葉の意味、ちゃんと解ってる?」「わかっている、つもりです」「それは、茉莉のこれからに責任を取るっていうことだよ。これから先、どんなことがあってもちゃんと茉莉を護るっていう意味なんだよ。蒼君、それを約束できる?」「当然ですよ」「でも、あなたのお父さんだってそんなことを言っていたのよ。でも、実際はどうかしら? あたしのことをほったらかしにして、娘のほうに手を出すような始末。蒼君はその血を引いているのよ」「そんなことはしませんよ。俺は、親父じゃない。茉莉のことは俺が責任をもって、何としても幸せにするつもりです」「つもりじゃ困るのよ。あたしの大事な一人娘なんだから」「幸せにしますよ。それに、親父にもちゃんと言っておきます。芹香さんを、後生責任をもって幸せにしろって」「その言葉、信じていいのかしら?」「だから、芹香さんも親父のこと、ちゃんと寝取ってくださいね」「いいわ、わかった。じゃあ、あたしもそのつもりで直人君にぶつかってみるわ。でも、そんなことをしたら、あたし、茉莉のこと護れないし、傷つけてしまうかもしれない。その時は蒼君。茉莉を――」「命に替えても」 芹香さんは憂げに微笑んだ。 あの時の芹香さんの言葉の意味が分かった気がする。 芹香さんが陽性の妊娠検査薬を取り出し、子供ができたと言いだした時には一瞬血の気が引いた。父と芹香さんはそういう関係になかったという話だったし、芹香さんが仕事でそれ以外の男性と関係を持っているだろうことを知っている。強いて言えば、その子の父親が、自分であることも十分に考えられたからだ。 それなのに、父と相談したうえでその子を産むのだと考えるならば、それは狂気としか言えない事実だ。 だが、おそらくそうではなかったようだ。 あの妊娠検査薬は、茉莉のものだという。 もちろんそれだって大変なことだ。茉莉はまだ高校生だし、結婚だってしていない。 ましてや相手が父だというのなら結婚をするというわけにもいかないだろう。 だけど、そのことであるなら俺が責任を取るという選択肢だって可能ではないだろうか。 どうやら茉莉自身も子供を産みたいと考えているようだ。 ならば、俺がその子の父親にな