LOGIN美羽は何も言わなかった。蒼生は一拍置いて、少し柔らかい声で探るように尋ねた。「……怒ってる?」別にそういうわけではない。実際のところ、美羽はずっと彼がこの話を切り出すのを待っていた。彼が必ずそう言い出すと分かっていたから。血のつながった従妹で、しかも仲も良い。結意のために口を利かない方がおかしい。美羽は薄く笑った。「ただ思ったんです。一千万から二億まで、値段の幅がずいぶん広いなって」二十倍。――笑ってしまうほどの「柔軟性」だ。蒼生は鼻で笑った。「真田さんがうちの叔父に一億を提示したのは知ってる」そして、彼は率直に続けた。「あの金は夜月社長に渡すためのものじゃない。正直に言えば、『未来の婿』への投資なんだ。叔父夫婦は夜月家と縁を結びたがってる。もし本当に結婚すれば、それは夫婦の共有財産になる。つまり一億は支出じゃなくて、先行投資さ」美羽は合点がいった。――なるほど、そういうことだったのか。もし翔太がその金を受け取っていたら、美羽への情などその程度だと証明される。そうなれば、宮前家は遠慮なく美羽に手を出せるだけでなく、結意が翔太と結びつくことも望める。これは試しの一手であり、一石二鳥の作戦だったのだ。蒼生は彼女に茶を注ぎながら、言葉を続けた。「叔父夫婦は結意を溺愛してる。もし本当に彼女が服役することになったら、何としてでも真田さんを敵に回すだろう。もちろん、これは脅しじゃない。もし彼らが真田さんに何かしようとすれば、俺は必ず止める……たとえ認めたくなくても、夜月社長も真田さんを守るはずだ」彼は少し間をおいて、諭すように言った。「ただ、そうだからといって安心はできないさ。これからはずっと何か仕掛けられるのではないかと、心配しながら暮らしていくことになるだろう。結局、人は普通の生活に戻るんだ。家に籠り続けることも、四六時中ボディーガードをつけることもできないよ」美羽は黙って聞いていた。表情に波はなかった。「真田さんが一人になる時は必ずある。その時、彼らが仕掛ければ……命までは取られなくても、傷つくことになるかもしれない。だったら、いっそ恨みを残さず、和解して穏やかに終わらせる方がいい」軽薄そうに見えて、蒼生は意外と現実をよく見ている。以前、「大人の世界では、コネがないよりある方がいい」と言った時から
「この店、霧島社長の経営なのか?霧島社長が来られるのに、俺が来ちゃいけない理由は?」翔太はそう言って椅子を引き、美羽の隣に腰を下ろした。美羽はメニューをめくる指を、ほんの一瞬だけ止めた。蒼生が眉をひそめた。「もちろん構わないよ。でも、夜月社長がなぜわざわざ俺たちのテーブルに?」「満席だからだ」翔太は美羽の横顔を見つめたまま、平然とした声で言った。――見え透いた嘘だ。店内にはまだ空席がいくつもある。蒼生が何か言いかけた瞬間、今まで姿を見せなかった翔太のボディガードたちが、ぞろぞろと入ってきて、二人一組で残りの席をすべて埋めてしまった。「……」蒼生は仕方なく言葉を飲み込み、言い方を変えた。「たとえ空席がなかったとしても、俺たちが同席をお願いした覚えはないな。俺たち今、デート中なんだよ。第三者が隣にいたら、雰囲気が壊れるだろ?」翔太は美羽を見たまま、低く問うた。「君と彼、そういう関係なのか?」美羽のまつげが小さく震えた。答えなかった。蒼生が鼻で笑った。「否定しないってことは、認めるってことだよ。夜月社長、もういいだろ?」「霧島社長のその理屈でいくなら――」翔太の顎がきゅっと引き締まった。「俺は君の男ってことになるか?年末年始の数日間、毎晩一緒にいたのは事実だろう?」「っ!?」美羽は、まさか彼がそんなことを人前で言い出すとは思ってもみなかった。「否定しないってことは、認めるってことだよな?年明けまでは俺と一緒にいて、今は他の男の女か?」翔太の声は冷たく、それでいてどこか痛ましかった。「……最低だな」「……」――頭おかしいんじゃないの!?美羽は、苛立ちと怒りでいっぱいだ。翔太が彼女に話しかけさせようとしているのは分かっているが、どうしても口を開きたくない。立ち上がってそのまま出て行こうとしたが、翔太が彼女の行き先を塞いだ。彼女が翔太を睨みつけると、蒼生の手がテーブル越しに伸び、彼女の手首を掴んだ。「出て行くのは彼の方だ。夜月社長が来たせいで、俺の彼女はご飯も食べられなくなってるんだぞ」「手を引っ込めろ」翔太の声は一段低くなり、空気が凍った。「彼女に触るな」蒼生は条件反射のように手を放した。翔太は無表情のまま、淡々と言った。「それは霧島社長が選んだ店が悪いだけだ。俺が用意した食事なら、彼女が食べ
美羽はようやく視線を翔太に移した。表情には何の波も立たない。「こんな『痛い』女が、夜月社長を見る資格なんてありませんわ」翔太は一瞬、動きを止めた。彼ほどの頭の切れる男なら、すぐに気づいた――さっきの自分の言葉は宮前家を皮肉ると同時に、彼女をも傷つけたのだと。「君のことを言ったわけじゃない」低く掠れた声で続けた。「それに、分からないのか?今の俺は、君が好きなんだ」美羽は、相手の言葉をそのまま返すように言った。「私を好きだって言う人なんて山ほどいますよ。全員に応えないといけないですか?」「……」いいだろう。彼女のために庇った言葉を、逆に自分を攻撃する武器にされるとは。翔太が言葉を詰まらせるのは滅多にないことだ。彼の呼吸が、ゆっくりと深くなった。何かを言おうとしたその時――個室の扉の方から、唐突で嘲るような拍手が響いた。扉は元々少し開いていたが、誰かが押し開けた。蒼生が枠にもたれかかり、息を弾ませながら笑っている。「いいね、いいねえ、真田さん!『私を好きだって言う人なんて山ほどいる』って、まさにその通りだ。俺もその一人さ。しかも俺は彼と違って、真田さんに見返りなんて求めない。真田さん、あいつより俺を選んだ方がずっといいぜ?」美羽は冷淡に返した。「どうしてお二人のどちらかを選ばなきゃいけないのですか?」「二人のどちらか」――蒼生を自分と同列に並べるなんて。翔太の声が冷えた。「霧島社長。さっき叔父夫婦が帰ったばかりだろう?送らなくていいのか?」蒼生は肩をすくめた。「運転手がいるから心配いらないさ。真田さん、久しぶりだね。俺が送るよ」翔太は鋭く遮った。「彼女はたとえ俺と行かなくても、友人が外で待っている。霧島社長の手は煩わせない」蒼生はさらりと受け流した。「織田弁護士のこと?さっき彼女の旦那さんが迎えに来て、一緒に帰ったよ。急ぎの用でもあったんじゃない?」星璃がもう帰ったなら――美羽が蒼生について行かなければ、翔太に強引に連れ戻される。二つの害のうち、軽い方を選ぶ。彼女はためらいなく蒼生の方へ歩き出した。翔太は咄嗟に彼女の腕をつかみ、張り詰めた声を落とした。「本気で、彼と行くつもりか?」美羽は振り返り、瞳の奥に彼の姿を映した。「夜月社長の言い分だと、私は自分が誰と行くかを決める資格もないって
美羽は淡々と言った。「娘さんも、今回のことで少しは学んだでしょう。これからは行動を慎んで、もっと大きな過ちを犯さないように」その瞬間、洋子はテーブルを回り込み、美羽の目の前に突進しようとした。「うちの娘のことに、あんたみたいな小娘が口を出すな!よく考えるのね!もし娘が本当に刑務所に入るようなことになったら、宮前家は黙っていないわよ!」星璃がとっさに彼女を制し、きっぱり言い放った。「宮前夫人、今のは私の依頼人への『脅迫』と受け取っていいんですか?」「脅迫じゃないわ。ただ、お互い分かり合おうってだけよ。真田さん、あなたは実際、身体的に傷ついたわけでもない。お金を受け取って、普通の生活に戻る。それでいいじゃないの?どうしてわざわざうちと敵対するの?」隆が冷ややかに笑った。「君の個人情報、ネットに全部出てるんだろう?世の中には過激なやつも多い。……君も、君の家族も、ずっと恐怖の中で生きたいわけじゃないだろう?」それが「警告」だということは、美羽にも分かっていた。彼女はゆっくりと立ち上がり、目を細めて言い放った。「……できるのなら、どうぞやってみてください」洋子が即座に返した。「その言葉、後悔しないで!」その瞬間、氷のように冷たい男の声が空気を切り裂いた。「――いいね。俺も見てみたいですよ。本当に『できる』のかどうか」美羽は思わず唇を結んだ。翔太が姿を現すと、先ほどまで勢いづいていた宮前家の両親の顔色が、一気に青ざめた。彼が星煌市にいるはずだと調べていたのに、どうして翠光市に――翔太は淡々とした目で宮前家の両親を一瞥し、問いかけた。「……で?何をしようとしていました?」「……」翔太がいる以上、彼らに何ができるはずもなかった。それでも、洋子が怒りに震えながら口を開いた。「翔太!あんたという男は――!結意は十年もあなたを想い続けたのよ!十年の青春を全部、あなたに捧げたのに……どうして他の女のためにあの子を傷つけるの!?一度でも、あの子の痛みを考えたことある!?」翔太はその言葉を面白そうに思った。すっと通った眉と、わずかに細められた瞳が、なお一層端正な印象を与える。「彼女が十年、俺を好きだと?……それで、俺も彼女のことを好きにならなきゃいけないのですか?彼女の想いに応えなきゃいけないのですか?世の中には俺を好いてく
単なる電話連絡ではなく、悠真を仲介にしての面会だった。星璃は行かない方がいいと忠告した。「相手を訴えるつもりなら、開廷前に接触しない方がいいわ」美羽は口元をわずかに引き上げた。「向こうも私が断るのを読んで、わざわざ相川社長を中間役に立てたのよ」美羽は彼らの策略を恐れてはいない。いくつもの修羅場をくぐってきた首席秘書だ。言葉の罠など、とうに慣れっこだ。結局、美羽は面会に応じた。星璃も同行し、会う場所は美羽の指定で――クラブ「レーヴ」だった。入る直前、星璃が警察からの電話を受け、顔色が険しくなった。「宮前さんは彼女の両親に保釈された」「えっ?どうして?」美羽の表情が一瞬で冷えた。結意が自分をハメた証拠は揃っているのに、なぜ保釈が許される?「彼らが『重度のうつ病』という診断書を出したの。拘置所にいるのは不適切だと。だから警察は監視付きの自宅待機に切り替えたの」――うつ病、ね。しかもこのタイミング。面会の直前に保釈とは、どう見ても自分への牽制だ。美羽は「レーヴ」の看板を一瞥し、無言で扉を押し開けた。個室では、すでに宮前家の両親が待っていた。二人が入っても、立ち上がって迎えることはなく、洋子は美羽に向ける視線に、怨みの色さえ宿っていた。――おそらく洋子の目には、今もなお、美羽が愛娘をこんなふうにしてしまった元凶と映っているのだろう。実際、洋子自身もそう思っていた。席についた瞬間、洋子は傲然と言った。「真田さん、率直に言うわ。いくら出せば『示談書』を書いてくれるの?」示談書さえあれば、結意の刑は軽くなる。美羽は椅子の背に軽くもたれ、静かに反問した。「では、いくら払うおつもりですか?」隆が落ち着いた声で答えた。「聞くところによると、君は相川グループに入社したばかりで、ホテル暮らしとか。余裕はないだろう。……一千万でどうだ」一千万。また、その額。美羽の唇が皮肉に歪んだ。月咲の一千万は、母の命を奪うための買収金。宮前家の一千万は、自分が味わった恐怖と屈辱を帳消しにする金。彼女は特に拒むこともなく、ただ静かに言った。「娘さんに陥れられて、拘置所で丸一日過ごして、危うく前科がつくところでしたよ」洋子が怒鳴った。「結意はもう三日も拘置所にいたのよ!」「それは自業自得じゃないですか?彼
星璃は一瞬、言葉を失った。「加納秘書が美羽のために介護士を見つけて、その介護士が月咲を供述しただけで、彼は秘書を解雇したっていうの?」すぐに、冷たい笑みが唇に浮かんだ。「そこまで月咲を庇うくらいなら、どうして美羽とよりを戻そうとするの?本当に悪いのはどっちかしらね」「はいはい、類は友を呼ぶって言うだろ。だから俺も気分が悪い。君にも、もう真田秘書の案件に関わるなって言ってるんだ」そう言いながら、哲也は靴を脱ぎ、勝手にベッドに上がった。病室のベッドなどもともと広くない。大柄な男が上がり込めば、星璃の身動きなど取れなくなる。彼女の目元が一瞬、凍りついたように冷たくなり、次の瞬間、思い切り足を上げて彼を蹴り落とした。哲也は身のこなしが軽く、本格的に倒れはしなかったものの、片膝をついて床に落ちた。――だが、女に蹴り落とされるという屈辱は、彼の自尊心を鋭く抉った。彼は顔を曇らせ、怒りをあらわにして彼女を呼んだ。「星璃!」星璃は無表情のまま、冷ややかに言った。「ここでは、あなたに決定権はないわ」哲也は、ふっと笑った。その笑みの奥に、冷たい影が滲む。「どうした?『碧洲県一の刑事弁護士』と褒められたぐらいで、そんなに偉くなったつもりか?俺がその気になれば――」「その気になれば、どうするの?」星璃の顔から、ついに温度が消えた。「言ってみなさい」「俺は……君の両親の墓前で訴えてやる。『この女は夫に逆らう、いい妻ではない』ってな。他所の妻はみんな従順だというのに、君だけが……」彼の声色が途中で崩れ、調子を変えた。やがて、犬のように彼女の肩にすり寄りながら甘ったるい声を出した。「なあ、星璃。医者は言ってたか?この状態で……できるのか?俺、病院ではまだ試したことがない」彼は彼女の首筋に唇を寄せたが、その顎を星璃の指が鋭く掴んだ。彼女はじっと、その男を見つめた。少年のころから、半ば自分の目の届くところで育ってきた相手だ。いまでは、あの頃よりもはるかに整った顔立ちをしている。だが、同時に――彼が何を考えているのか、まったく読めなくなっていた。「哲也、あなたもお義母さんも、なぜ私を織田家の嫁にしたか、私は知っている。ちょうど私もあなたを必要としていた。それだけのこと。お互いに求めるものを得るための関係、それ以上でも以下でもない。