隼人は、深い眼差しで瑠璃を見つめながら、静かにグラスを掲げた。「この一杯は――さっきの平手打ちの代わりに、俺からの謝罪として」そう言って、彼はワインを一気に飲み干した。続けて、もう一杯注ぎ足す。「そして、これは――優れた女であるヴィオラさんと出会えたことへの祝杯だ」次々とグラスを空ける彼の手は止まらなかった。夜が更け、雨も次第に小降りになっていく。そして、隼人はとうとうワインボトルを空にしてしまった。酔いが回ったのか、彼の白い肌はほんのりと赤みを帯び、花のような細い目が酒気に染まり、ぼんやりとしている。「未来の義叔母、送っていこうか?」ふらつきながら立ち上がるが、明らかに酔っている。「目黒さんは休んで。瞬に迎えに来てもらうから」「……彼に?」隼人はくすっと低く笑った。その声は、酒のせいか妙に甘く、色気を帯びていた。彼は笑いながら瑠璃を見つめる。水晶のシャンデリアの光が、彼の視界をぼんやりと霞ませる。眼前にあるのは、彼が夢にまで見た顔。「やっぱり……俺が送る」彼はそう言って、ふらつきながら瑠璃に近づいた。しかし、足元がおぼつかず、まだ彼女に辿り着く前に倒れそうになる。瑠璃は無視しようとした。だが、窓の外に立つ蛍の姿を思い出し、迷った末に手を伸ばす。そして、彼を支えた。隼人の全体重が彼女にのしかかる。瑠璃は、その瞬間確信した。彼は、本当に酔っている。「目黒さん、座って」彼女は苦労しながら彼をソファに移動させる。屋内の明かりが灯るほど、外にいる蛍からもよく見えるだろう。彼女がどれほど怒り狂っているか、容易に想像できた。「目黒さん、お酒を解消するために、レモネードを淹れるね」そう言って手を離そうとした瞬間、「行かないで……」彼は囁きながら、彼女の手首を強く掴んだ。振り返ると、ソファに半ばもたれかかる隼人の顔が目に入る。彼の目はうっすらと閉じられ、頬は赤く染まり、口元がわずかに動いている。「千璃ちゃん……」数秒が過ぎ、瑠璃は隼人の唇からその言葉が漏れるのを聞いた。彼女はしばらく呆けたまま、酔っ払っている男を茫然と見つめていた。「……千璃ちゃん、行かないで……もう、俺を置いて行かないで……」千璃ちゃん。瑠璃は、ぐっと唇を噛みしめる。彼が呼んでいるのは、蛍のことだ。蛍が碓氷
瑠璃は、多くのことを忘れることができる。かつての幸福な日々も、隼人を愛していたころの心のときめきも。だが、この手のひらにあるものだけは、一生忘れることはない。彼女は呆然としながら、地面に落ちたそれを拾い上げる。手のひらに乗せた瞬間、波の音が聞こえた。潮風の塩っぽい香りが鼻をかすめた。幼い頃の、あの少年の優しい声が、耳元に蘇る。「千璃ちゃん、俺が大人になったら、君をお嫁さんにするからね……」……だけど、その約束は、風にさらわれ、海の底へと沈んだ。二度と戻らない。「……千璃ちゃん……」隼人の微かな寝言が、彼女を現実へ引き戻す。彼はまだ夢の中で「千璃ちゃん」と呼び続けている。だが、それは彼女ではない。彼が心の底から甘やかし、愛し抜いたのは――あの悪女、蛍。瑠璃の視線が冷たくなる。手のひらにある七色の貝殻を見つめ、皮肉な笑みを漏らした。まさか、こんな時に、彼がこれを持っているなんて。幼い頃、彼に贈った七色の貝殻。「隼人、あなたの心には、結局、蛍しかいないんでしょう?だったら、どうしてこれを持っているの?十年以上も待ち続けた『千璃ちゃん』は、もう死んだのに」彼女は、復讐に満ちた目で彼を見下ろした。そして、その貝殻をゴミ箱に投げ捨てようとした――その瞬間、隼人が、彼女の手首を掴んだ。「千璃ちゃん……行かないで……」瑠璃はは顔が紅潮し、酔っ払って夢遊病のような男を見つめ、嘲笑しながら彼の手を振り払った。「隼人、あなたの愛する『千璃ちゃん』は、外で演技してるわよ?そんなに会いたいなら、そっちへ行けば?」冷たく言い放つと、彼を残し、バッグを手に取り、さっさと玄関へ向かった。扉を開けると、そこには満面の笑みを浮かべる蛍が立っていた。だが、次の瞬間。彼女の笑顔は、一瞬で崩れ去る。開いた扉の向こうに立っていたのが隼人ではなく、瑠璃だったから。彼女の媚びるような目が、一瞬にして鋭い棘を帯びる。瑠璃は淡々と彼女を見下ろし、ゆっくりと傘を開く。優雅に足を進めて、蛍の前に立った彼は、微かにその美しい唇の端を上げた。「四宮さん、本当に健気ね。目黒さんの気を引くために、こんなに長い間雨に打たれるなんて……私、本当に……感動しちゃうわ」「クスッ」蛍は冷笑し、顔を歪める。「千ヴィオラ、無駄な演技はやめなさい!私と隼
「……」蛍はしっかりと立ち、瑠璃が軽やかに振り返った背中を見つめ、怒りで思わず飛び上がるほど激しく怒った!「千ヴィオラ、このクソ女!私の恐ろしさを思い知らせてやる!」蛍は怒りに震えながら、去っていく瑠璃の背中を指さした。蛍は全力で叫びながら警告をした。先ほど窓越しに見たあの光景を思い出すたびに、怒りが抑えきれず、まるで肺が破裂しそうなくらいだった!ダメだ。彼女は深呼吸し、自分に言い聞かせる。落ち着くのよ、蛍……あんな女、結局のところ瑠璃と同じ顔を持っているだけの偽物。私が負けるはずがない!「千ヴィオラ、すぐに後悔させてやるわ!」彼女は目を細め、その瞳にはまるで猛毒が塗られたかのような冷酷な光が宿った。……その頃、瑠璃は街角で瞬の車を待っていた。彼は予定通り彼女を迎えに来て、マンションへ送る。深夜、部屋の中。瑠璃は床から天井まで広がるガラス窓の前に立ち、ぼんやりと夜景を眺めていた。だが、彼女の脳裏には、どうしてもあの七色の貝殻が浮かんでしまう。……なぜ、隼人はあれを今でも持っているの?彼はすでにあの約束を否定し、海辺で過ごした日々すらも切り捨てたはず……彼女には、それが理解できなかった。ため息をつき、振り返る。すると、ベッドの上で眠る小さな陽ちゃんが、小さな口を開いて夢を呟いた。「……パパ……」パパ。彼女が呼ぶのは、彼女にとって「世界一素晴らしい父親」――瞬。それは、美しい誤解。もしかすると、一生続く誤解なのかもしれない。翌朝。灰色の曇り空の下、隼人は重い夢から目を覚ました。目を開くと、頭がぼんやりとしている。昨夜の出来事が、断片的に蘇る。眉間を指で押さえながら、はっきりと思い出した。彼はまた、失態を犯した……千ヴィオラを抱きしめ、「千璃ちゃん」と呼び……挙句の果てに、頬に口づけまで……思い出すほどに、彼の心はざわつく。なんとも言えない苛立ちを感じながら、スマートフォンを手に取り、瑠璃へ電話をかけた。「目黒さん、目が覚めたの?」電話の向こうから、澄んだ甘い声が聞こえた。「昨日、お酒を飲みすぎたね。今ちょうど、あなたのために朝食を持って向かっているよ」隼人の思考が、一瞬止まった。彼女の言葉が意外すぎて、何を言おうとしていたのかさえ忘れてしまう。心の中に、説明できない奇
隼人は、一瞬、戸惑ったように動きを止めた。このわずか二、三秒の躊躇の間に、瑠璃は彼が何を考えているのか測りかねた。だが、次の瞬間。彼は複雑な眼差しで瑠璃を一瞥し、すぐさま蛍の元へと足早に向かう。彼女の傍に膝をつき、倒れている体を抱え上げる。「蛍、蛍、しっかりしろ」彼は彼女の頬を軽く叩き、眉間にわずかな苦悩を滲ませた。瑠璃は、その光景を冷ややかに見つめた。朝食の入った袋を片手に、別荘の玄関に立ったまま。嘲笑を浮かべながら。……期待を裏切らないわね、隼人。結局、この女を見捨てられないのね?どんなに罪を重ねようと、どんなに醜悪な本性を晒そうと――結局のところ、蛍はあなたの『心の支え』ね。そして、彼の腕の中で目を覚ました蛍。とっくに準備した涙に濡れた目で、隼人を見上げた。「隼人……私が悪かったわ……もう二度と間違えない……だから、お願い、私を見捨てないで……」弱々しく訴えながら、しとしとと涙を流す。「ねえ、覚えてる? あなたは私に誓ったのよ?一生、大切にすると……私の願いはただひとつ、隼人お兄ちゃんの花嫁になること……」彼女がそう呼んだ瞬間、瑠璃の指が、ギュッと強く握られる。「隼人お兄ちゃん」瑠璃は、静かに隼人を見つめた。彼の表情は、苦悩に満ちているようだった。眉間に深い皺を刻み、まるで何かを考え込んでいるかのように。「隼人お兄ちゃん、今回だけは千璃ちゃんを許してくれない?これからは、何でもあなたの言うことを聞くから、二度と勝手なことはしない……」蛍は自分を「千璃ちゃん」と呼び、隼人お兄ちゃんと呼びながら、隼人を深情に見つめた。彼女の演技はますます巧妙になり、その巧妙さに、瑠璃ですら胸の奥に痛みを感じるほどだった。ふふ、なんて上手く「隼人お兄ちゃん」を演じることか。「もうそのくらいにして。熱があるみたいだね、病院に行こう」隼人は冷静な口調で言いながら、蛍を起こそうと手を差し伸べた。「隼人……許してくれないのなら……私はもう、死んだほうがマシよ……」蛍は彼の腕を強く掴み、泣きながら訴えた。隼人の表情が険しくなる。「……馬鹿なことを言うな」彼は苛立たしげにため息をつき、力強く彼女を抱え起こした。そのまま立ち上がり、顔を上げると、そこに、玄関に立つ瑠璃の姿があった。彼は少し謝罪の気
魚はすでに釣り上げられた――あとは、糸を巻くだけ。日曜日。この日は、瑠璃と瞬が陽ちゃんを児童公園へ連れて行く約束をしていた。陽ちゃんは瞬の実の娘ではない。だが、彼は陽ちゃんを何よりも大切にしていた。彼女が妊娠してから出産するまで、瞬は常に傍で支え続けた。陽ちゃんが無事に生まれた後、その愛情はさらに深まった。瞬は、誰よりも完璧な男。けれど、瑠璃は理解している。彼女は彼に相応しくないと、そして、彼と恋愛感情で絡むつもりもないと。「パパ、あのうさぎさんが欲しい!」陽ちゃんの柔らかな声が、瑠璃の思考を引き戻した。彼女は、小さな腕を瞬の首に回し、楽しそうに足を揺らしながら甘えている。「パパ~お願い~!」彼女の小さな指が、遠くの風船売りを指していた。「うちの目黒陽菜が欲しいものを、パパがあげないわけがないだろう?」瞬は微笑みながら、陽ちゃんを抱えて風船売りの方へ向かった。彼は滅多に陽ちゃんを「あだ名」で呼ばない。いつもは、正式な名前で呼ぶことが多い。「パパ、大好き~!」陽ちゃんは嬉しそうに、瞬の頬にチュッとキスをした。瑠璃も微笑みながら彼らの後を追う。この名前をつけて、本当によかった。「陽菜」それは、無限の太陽の温もりを与えるという願いを込めた名前。母親である自分のように、愛する人に心も体もずたずたにされる人生を歩んでほしくない。この子には、一生「太陽の温もり」に包まれて生きてほしい。瞬は陽ちゃんに風船を買い、さらに遊園地の遊具で遊ばせた。楽しい時間は、あっという間に過ぎる。昼食の時間になると、陽ちゃんは嬉しそうに瞬の手を引き、大きなハンバーガーの写真を指さした。「パパ、これ食べたい!ハンバーガーがすっごく大きい!」「そんなに食べたら、太っちゃうぞ?そうしたら誰ももらってくれなくなるぞ?」瞬は冗談めかして言った。陽ちゃんはしばらく真剣に彼を見つめる。そして、突然、涙をボロボロこぼしながら、泣き出した。「パパ~!!そんなのイヤ!!もうハンバーガー食べないから、見捨てないで~!!」どうやら、冗談が通じなかったようだ。瞬は慌てて彼女を抱きしめる。「バカだな……パパが君を見捨てるわけないだろう?君は、ずっとパパとママの大切な宝物だよ」「陽ちゃん、泣かないで」瑠
その腕に抱かれた瞬間、瑠璃はすぐに気づいた。この冷たい香り――この慣れた温もり――この人が、隼人であることを。でも、なぜ彼がここに?もしかして、君秋を連れて遊びに来たの?あの子も、ここにいるの?その可能性に思い至ると、彼女の心の奥に、説明のつかない感情が広がる。彼女はすぐに冷静さを取り戻し、隼人の腕からそっと身を引いた。「お兄ちゃんだ!」小さな声が、無邪気に隼人を呼ぶ。瑠璃が振り向くと、陽ちゃんが隼人を見つめ、明るい笑顔を浮かべていた。どうやら、彼に対してかなり好印象を持っているようだ。隼人も、薄く微笑む。彼は一瞬、陽ちゃんを見つめ、次に、瑠璃の顔へと視線を移す。「……どうやら、今日は出かけて正解だったようだな」彼は意味深な言葉を残し、少しだけ目を細めた。「なぜ、この数日間、俺の電話に出なかった?」瑠璃は、目を細め、くすっと笑った。「目黒さん、ごめんね。最近は、瞬と子どもと過ごすのに忙しくて、『どうでもいい電話』に構う暇がなかったの」「どうでもいい電話?」隼人の眉間が、わずかに寄せられる。瑠璃は、陽ちゃんの手を取って踵を返し、そのまま歩き出そうとすると腕を掴まれた。彼女の足が、ピタリと止まる。「目黒さん?手を離してくれる?また、あの四宮さんが嫉妬して殴ってきたら困りるので」隼人の目が、一瞬、瑠璃の顔に留まる。太陽の下で透き通るような肌が、美しく輝く。あの日のことを思い浮かべると、彼の目はふと柔らかさを帯びた。「……あの日のことは、すまなかった。せっかくの朝食を無駄にしてしまったな。だが、俺も見殺しにはできなかった」見殺しにはできなかったと?その言葉に、瑠璃は何も言わずに、唇の端をそっと上げて、冷ややかな笑みを浮かべた。……そう?じゃあ、隼人。なぜ、私があの地獄に落ちたとき、あなたは手を差し伸べてくれなかったの?なぜ、あのときは私を助けるどころか、さらに地獄へ突き落としたの?彼は、何も知らないかのような顔で続ける。「君、嫉妬しているのか?」その一言に、瑠璃の心が、一瞬だけざわめいた。だが、彼女はすぐに冷静を取り戻し、余裕の笑みを浮かべる。「目黒さん、あれ見えた?」彼女は、傍に立つ陽ちゃんを指さした。「私と瞬には、もう子どもまでいるのよ?私が、彼以外の男に興味を持つとでも?」
「二歳、そして三年前に知り合った?」隼人は眉間に深い皺を刻み、鋭い視線で瑠璃を見つめる。「つまり、お前たちは知り合ってすぐに付き合った、ということか?」瑠璃は、一瞬の迷いもなく微笑む。「ええ、瞬とは一目惚れだったの。私は彼に心から惹かれ、自ら望んで彼のもとへ行き、子どもを産んだわ。何か問題でも?」彼女の声は、あまりにも軽やかで、はっきりだった。隼人の心臓が、重く沈む。今にも消えかかっていた疑念が、再び彼の胸を満たしていく。「隼人!」突如として、蛍の耳障りな声が響いた。瑠璃が視線を向けると、彼女が焦った様子で駆け寄ってくるのが見えた。目があった瞬間、その表情の中に、確かに見えた。「不快」と「苛立ち」の色が。しかし、先日雨に打たれていたときの弱々しさとは異なり、今日は実に元気そうだった。彼女は隼人のそばに駆け寄り、隼人が瑠璃の手を取っているのを見て、一瞬目を向けた後、心配そうに隼人を見つめた。「君ちゃんがいなくなったの!」君秋が、行方不明?瑠璃の心臓が、一瞬止まりかけた。不安が全身を駆け巡る、だが、それを必死に抑え、冷静な表情を装った。しかし、瑠璃は気づいた。蛍の顔に見える偽りの焦りを除けば、隼人は本当に冷静だった。まるで君秋と、自分の父親としての関係がまったく無関係であるかのように。「きっと近くにいるはずだ。そんなに慌てるな」隼人は淡々と答えた。そして、瑠璃の手をゆっくりと離す。「目黒さん、早く探したほうがいいよ。ここは人が多いし、もしかしたら誘拐犯がいるかもしれないわ。君秋は、あなたの唯一の子どもでしょう?もし本当に行方不明になったら、きっと悲しむでしょうね」「当然よ!」蛍は、明らかに苛立ちを見せ、瑠璃を睨みつける。「君ちゃんは、私が隼人に産んだ唯一の子よ! 隼人が心配しないわけ――」「……彼は、俺の唯一の子どもではない」隼人の声が、彼女の言葉を遮った。「……」蛍が話し終わらないうちに、隼人が突然言葉を発した。その言葉は、まるで瑠璃がさっき言ったことに対する答えのようだった。瑠璃と蛍は、同時に驚いた表情を浮かべた。隼人の唇が、わずかに歪んだ。「隼人!」蛍は不安げに彼の腕を掴んだ。「早く君ちゃんを探しに行きましょう!こんな無駄な話をしている場合じゃないわ!」隼人の目が、一瞬鋭く細められ
瑠璃は何かを思い付いたようで、すぐに振り返り、ある方向へと足早に走り出した。空はすでに暗く、街灯が灯り、静まり返った遊園地には昼間の賑やかな雰囲気がまったくなく、風が木々を揺らす音だけが響いていた。「隼人、どうしよう?君ちゃんは絶対に誰かに誘拐されたわ!」今、蛍は焦りと恐怖を顔に出して、隼人の隣にくっついていた。「隼人、私は君ちゃんを失いたくない!あれは私たちの唯一の子供よ!」彼女は「唯一」という言葉を強調し、隼人がその言葉を聞いて冷たく沈んだ表情を見せたことに気づいていなかった。隼人は口を開こうとしたが、視界の隅で見覚えのある影が一瞬動いたのを捉えた。「先に帰っていてくれ。ちょっと用事がある」隼人はそう言うと、大きな足を踏み出した。「隼人、隼人!」蛍は隼人を呼び止めたが、彼は決断力を持って歩き続けた。瑠璃は直感と推測を頼りに、数ヶ所の静かな場所を探し回った後、ついに一つの岩山の後ろで君秋を見つけた。街灯の光がかすかに岩山の洞窟を照らし、君秋の小さな体は隅に丸まって、細い腕で自分を抱きしめていた。その光景を見た瑠璃は、胸が痛むような感覚に襲われた。特に、君秋が頭を埋め、肩を震わせて恐れている様子を見ると、心が鋭い刃物で刺されたような痛みを感じた。瑠璃は迷うことなく走り寄った。「君ちゃん」彼女が声をかけると、君秋は恐怖で震えていた肩が突然止まった。「君ちゃん、ヴィオラお姉ちゃんだよ」瑠璃は彼の前にしゃがみ、手を伸ばして小さな頭を優しく撫でた。君秋はゆっくりと白い顔を上げ、その目は恐怖でいっぱいの無表情な大きな目を、突然現れた瑠璃に向けた。そして、その目はすぐに涙で満ちた。「ヴィオラお姉ちゃん……」「うん、私だよ」瑠璃は君秋を見つめ、手を伸ばしてその小さな体をしっかりと抱きしめた。夏の終わりの夜、涼しい風が吹いていた。瑠璃はその時、君秋が冷たく、手のひらは全く温かさを感じさせないことに気づいた。まるで安心できる場所を見つけたかのように、君秋はしっかりと瑠璃の胸に身を寄せ、彼女を強く抱きしめた。「君ちゃん、ヴィオラお姉ちゃんに教えてくれない?どうしてこんなところで一人で隠れていたの?」彼女は優しく尋ねた。「人がいっぱい、嫌い……」君秋の幼い声は震えながらも、かろ
瑠璃は微笑みながら、口を開こうとしたその時、スマホが鳴った。画面を確認すると、瞬からの着信だった。彼女はごく自然に電話を取り、簡単にやり取りしただけで通話を切った。「隼人、お店でちょっとトラブルがあって、今戻らないといけないの」「送っていくよ」「いいの、夜にまた会いましょう」そう言って背を向けて歩き出した瞬間、隼人が手を伸ばして彼女を引き止めた。不思議そうに振り返った瑠璃の唇に、隼人はそっとキスを落とした。「Kiss Goodbye」「……」心の中では拒絶していたが、瑠璃は笑顔でそれを受け入れた。彼女が去っていく背中を見つめながら、隼人の唇に浮かんでいた微笑はゆっくりと消えていき、目の奥に潜んでいた鋭さもすっかり色褪せ、代わりに残ったのは後悔の色だった。――さっき、夏美が「瑠璃が自分たちの娘だ」と言った時、彼の心の中でずっと繋がらなかった点と点が、完璧な形でひとつに結びついた。「千璃ちゃん……」彼の薄く色気のある唇から、静かにその名が零れた。そこには、深い愛と悔しさが込められていた。……瑠璃は瞬と合流し、これまでに得た情報を伝えた。「隼人のパソコンにはロックがかかっていて、あなたが欲しがっているデータを手に入れるのは簡単じゃない」「それでも、彼のオフィスの配置を把握できただけでも十分すごい」瞬はそう言って振り返り、黒曜石のように輝く瞳に優しい光を湛えて瑠璃を見つめた。「本当は、情報よりも君に会いたかった」「欲しいものを手に入れて、計画を完遂すれば、あなたのもとへ戻るわ」「……本当に戻ってきてくれるのか?」瞬の目には、一抹の不安が浮かんでいた。「君はかつて、隼人を深く愛していた。今は、本当に彼に対して何の気持ちもないのか?」その問いに、瑠璃は少し笑って、静かに息を吐いた。「かつてどれだけ愛していたか……今はそれだけ、彼を憎んでる」彼女は遠くの海を見つめながら、続けた。「私の彼への愛は、四月山の海底に沈んでしまった。二度と戻れない……」……一方その頃。夏美と賢は、瑠璃の遺品を探すことを諦めていた。そんな時、不意に隼人から電話がかかってきた。指定された場所で隼人と落ち合うと、彼はひとつの透明なビニール袋を夏美に手渡した。「これは……」夏美は驚きながら
瑠璃が止める間もなく、夏美の口からその言葉が飛び出した。一瞬にして、周囲の空気が凍りついたように静まり返った。瑠璃は視線を動かさず、余所見するように隼人の表情を窺った。彼の顔にはわずかに複雑な色が浮かび、驚いているようにも見えたが、どこか平静さを保っているようにも思えた。瑠璃は静かに数秒考えたあと、あえて沈黙を破った。「碓氷さん、碓氷夫人、本当に四宮瑠璃がご自身の娘だとお思いですか?」夏美はまっすぐに彼女を見つめた。「科学的な証明はまだないけれど、私は九割の確信を持っている。瑠璃は、私の娘よ!」彼女の口調には揺るぎのない確信があり、その涙を湛えた瞳は、名残惜しそうに瑠璃の顔をじっと見つめていた。「ヴィオラさんには、娘さんがいるよね?」夏美は突然そう訊ねた。瑠璃は頷いた。「はい」「以前、幼稚園の前であなたの娘さんを見たとき、私は本当に驚いた。娘の幼い頃にそっくりだった。でも今になって、その理由がわかった。あなたの娘さんはあなたに似ていて、あなたの顔は瑠璃とほとんど同じだったから……」夏美の言葉を聞いて、瑠璃はようやく思い至った。あのとき、確かに夏美は陽ちゃんを見つめて、しばらく動けなくなっていた。なるほど、そういうことだったのか。――三十年近く経っても、母は私の赤ん坊の頃の顔を覚えていてくれたのだ。その事実に、瑠璃の胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。長い間、両親のいない日々を生きてきた彼女は、ようやく「愛されていた」という感覚を噛みしめていた。それが、誰にも知られぬ密かな想いだったとしても。そんな思いにふけっていた矢先、賢の言葉が静かに隼人に向けられた。「隼人様……あなたが瑠璃を憎んでいたことは知っている。策略に嵌められ、無理に結婚させられたと思っていたのでしょう。でも今では、全てが蛍の罠だったとわかっているはず。そして……瑠璃は、もう三年も前に亡くなっている」そこまで語ると、賢の声は詰まり、しばらくして再び続けた。「隼人様、僕たち夫婦にあなたを責める資格などない。今日伺ったのは、ただ……かつて夫婦であったご縁に免じて、お願いしたいことがあるんだ」「生きて再会できなくとも……私たちはせめて、娘に名前と血筋を返してやりたいの。無名のまま、彷徨う魂にだけは、なってほしくないよ……」
透明なガラスの壁一面の窓の外には、広大な川の流れが見え、その向こうには街全体を見下ろせるような絶景が広がっていた。こんな一等地のオフィスに座れる人間など、そうそういるものではない。だが、かつて自分は、この場所に入ることすら許されなかった。彼は自分の夫だった。それなのに、彼のオフィスには一歩も踏み入れる資格さえ与えられなかった。その一方で、彼は別の女がここを自由に出入りするのを黙認していた。瑠璃は唇の端をわずかに上げ、静かに思い返しながら、持ってきた料理を丁寧に取り出して並べた。もちろん、もう彼のためにエプロンをつけて料理を作ることなどない。かつて一方的に尽くした日々は、すでに過去のものだ。隼人の機嫌は良さそうだった。料理が彼女の手作りかどうかを疑うこともなく、美味しそうに食べていた。晩秋の午後のやわらかな陽光が、黒いシャツを身にまとう彼の肩に静かに降り注ぎ、彼の深い瞳を柔らかく照らしていた。食事の後、瑠璃は給湯室でフルーツを切り、フォークに刺して隼人の口元へ差し出した。「甘い?」彼女は笑顔で尋ねた。隼人は静かに頷き、その深いまなざしで彼女の美しい顔をじっと見つめていた。この瞬間が、少しでも長く続いてくれればと願うように……だが、フルーツを食べ終える前に、隼人は重要な電話を受け、席を外すことになった。瑠璃は、すぐに彼の私物のパソコンを調べ、自分の計画を進めようとした。だが室内を見回すと、監視カメラが設置されていることに気づいた。無理に行動すれば、すぐにバレる。仕方なく、彼女はフルーツの皿を片づけ、さらに気を利かせるふりをして、隼人のデスクを整え始めた。整理の最中、彼女はわざとマウスを床に落とし、それを拾い上げながらパソコンを操作する素振りを見せた。だが、パソコンにはロックがかかっており、中を見ることはできなかった。諦めざるを得なかったが、何も得られなかったわけではない。ちょうどその時、隼人が戻ってきた。だが、聞こえてきたのは三人分の足音だった。顔を上げた瑠璃は、隼人の後ろに立っている夏美と賢の姿を見て、思わず心が跳ねた。彼女は、夏美と賢が自分が瑠璃であることに気づいたことを隼人には話していなかった。もし今、彼らがそのことを口にすれば、全てがバレてしまう。胸中で不安を抱えながらも、瑠璃は穏や
一瞬の出来事だった。瑠璃の叫び声が響いたその瞬間、夏美と賢の耳にその言葉が飛び込んだ。死を覚悟して身を投げようとしていた夏美は、驚きで半分以上乗り出していた体をぴたりと止め、涙に濡れた顔をぼんやりと瑠璃の方へ向けた。その視線の先には、記憶の中で憎んできた女と瓜二つの顔を持つ少女が立っていた。「お母さん、千璃は死んでなんかいないよ。私のために死のうとしないで」瑠璃は優しく微笑みながら、静かにそう言った。「もう戻って。お父さんを心配させないで」「千璃……」夏美は呆然としたまま瑠璃を見つめていたが、ゆっくりと身体を引き戻し、危険な縁から離れていった。賢もまた、しばらくの間瑠璃を見つめていたが、ようやく我に返ると急いで夏美の手を取り、病室へと引き戻した。そしてすぐさまバルコニーの扉に鍵をかけた。「き、君は……瑠璃なのか?本当に……瑠璃なのか?」夏美は震えるように瑠璃の元へ駆け寄り、彼女の手をぎゅっと握った。温もりを与えたくて、その手を包み込んだが――自分の手のひらは氷のように冷たかった。期待と感激のまなざしで彼女を見つめる夏美と賢。だが、瑠璃はただ静かに微笑んだ。「碓氷夫人、ご無事でよかったです。命を粗末にしてはいけませんよ。衝動は悪魔を呼びます」「……」夏美と賢は同時に固まった。今の言葉が、ただ、夏美を助けるための演技だったと理解した瞬間――さっきまで天国にいたような気持ちは、一気に地獄へと叩き落された。彼らにはわかっていた。瑠璃は三年前、治療不可能な病で亡くなったと。でも、もし自分たちがあの時、何度も彼女を追い詰めなければ――彼女はもっと長く生きられたのかもしれない。思い返すのは、あの日。病に侵されながら、苦しい身体で蛍と隼人の婚約式に現れた彼女。それなのに、自分たちは彼女を罵倒し、侮辱した。彼女が血を吐いて倒れかけた時ですら、夏美はそれを「演技」だと決めつけ、冷たく突き放した。だがその「演技」の結末は――彼女の永遠の別れだった。そしてそれは、今もなお、二人の胸をえぐる痛みとなって消えなかった。病院を後にする頃、夏美はもう泣いてはいなかった。その深い喪失の痛みを、誰よりも理解できるのは、瑠璃自身だった。かつて、自分の我が子が命を奪われたと知った時、彼女もまた、生きる気力を失っ
賢は困惑した表情で瑠璃を見た。「千さん、どうして君が妻を病院まで?」「それは……」瑠璃が説明しようとしたその瞬間、病室の中から嗚咽混じりの泣き声が聞こえてきた。賢の顔色が一変し、すぐさま病室へ駆け込んだ。瑠璃は気を落ち着け、何事もなかったような顔で後に続いた。夏美はすでに目を覚ましていたが、今まさに泣き崩れていた。賢は心配そうに彼女のそばにしゃがみ込んだ。「夏美、どうしたんだ?なんでそんなに泣いてるんだ?」その声に、夏美はようやく賢の存在に気づいたかのように、はっと顔を上げた。涙で赤くなったその目には、取り返しのつかない深い痛みが浮かんでいた。「賢……どうして神様は私たちをこんなにも弄ぶの……どうして……」その声は震え、涙はまるで糸が切れた真珠のように次々と頬を伝って落ちていった。賢は話が見えず、ただ不安と焦りが増していくばかりだった。「夏美、どういうことだ?ゆっくり話してくれ。落ち着いて、泣かないで……」夏美は涙の中で苦笑し、青ざめた顔を上げて、賢の不安に満ちた視線を見つめた。彼女は懐から一つのペンダントを取り出した。「賢……私たちの実の娘を見つけたのよ」「なに!?本当か!娘を見つけたって!?本当に!?」賢の顔には一瞬にして喜びが広がった。「彼女はどこにいるんだ?夏美、娘は今どこにいる?」賢は興奮して問いかけたが、夏美は痛ましげに目を閉じた。「……もう、亡くなってるの」「……な、なんだって?死んだ?」賢は茫然として固まった。「私たちも、間接的に彼女を死なせてしまったのよ……」夏美は悔しさで唇を噛みしめながら顔を上げた。「四宮瑠璃こそが、私たちの本当の娘だったの……」「……な、なんだって?」夏美のその一言に、賢の全身が凍りついた。わずか数秒前の喜びは、瞬時に無残に砕け散り、その破片が胸の中に突き刺さるような痛みとなって押し寄せてきた。その傍らで、瑠璃は痛みに満ちた両親の姿を見つめながら、自分の胸にもじわじわと鈍い痛みが広がっていくのを感じた。「四宮……瑠璃が、俺たちの……娘だと?」賢は愕然としたまま目を見開いた。その脳裏には、かつて自分が瑠璃の頬を平手打ちした時の記憶がよみがえっていた。あの偽者の蛍をかばうため、彼は瑠璃を足で突き倒したことすらあった。あの時の
君秋のその一言に、瑠璃も夏美も、目を大きく見開いて驚いた。夏美もデザイナーであり、瑠璃の体にある母斑は、まさにA4用紙に描かれたその蝶とほぼ完全に一致していた。もしかして、どこかで自分の腰の後ろにあるその母斑が見えてしまい、それを君秋が目にしたのではないか――瑠璃の胸にそんな疑念が浮かんだ。「君ちゃん、この蝶を見たって言ったけど、どこで見たの?」夏美はしゃがみ込み、目を潤ませながら食い入るように尋ねた。「碓氷夫人、こんなにたくさんのビラを印刷されたんですか?それで娘さんを探そうと?」瑠璃は平静を装い、話題をそらした。夏美はうなずいた。「ネットでもたくさん情報を出しているけど、こうした手段も一つの方法だと思って。とにかく、娘を見つけられるなら、どんな手段でも使いたいの!」その声には、切実な願いと誠意があふれていた。彼女は心から、かつて失ってしまった我が子を見つけたいと思っているのだ。瑠璃の心は揺れ動き、思わず胸が締めつけられた。……もしかしたら、私の本当の両親を責めるべきじゃなかったのかもしれない。彼らは、蛍一家に騙されていただけ。自分たちの大切な子を探すために、利用されてしまっただけなんだ。でも……「君ちゃん、お願い。どこでこの蝶を見たのか、おばあちゃんに教えてくれない?」再び、夏美の必死の問いかけが瑠璃の耳に飛び込んできた。彼女ははっとして現実に戻り、止めようとしたその瞬間、小さな声が耳を打った。「瑠璃お姉ちゃん」君秋は静かに、そう答えた。瑠璃の心臓が一瞬、強く鼓動した。夏美も呆然とした。「君ちゃん……今、瑠璃お姉ちゃんって言ったの?それって、四宮瑠璃のこと?」君秋はこくんとうなずき、突然、小さな手で瑠璃の右腰の後ろを指差した。「瑠璃お姉ちゃんの、ここのところに、このちょうちょがあるよ」「……」「……」まさか本当に、君秋があの母斑を見たことがあったなんて――三年前に「死んだ」自分のことを、当時まだ二歳だった君秋が、こんなにも鮮明に覚えていたなんて。瑠璃は完全に予想外の展開に言葉を失った。「な、なに?」夏美は混乱したまま、視界が暗くなっていくのを感じた。まるで全身から力が抜けるような感覚に襲われ、よろめきながら倒れそうになる。瑠璃はすぐに我に返り、夏美の体
瑠璃はその微笑を浮かべたまま眠る顔を冷ややかに見つめ、薄く唇を引き結んだ。三年間ほとんど毎晩眠れなかったって言ってたんじゃなかった?なのに、昨夜はずいぶんと気持ちよさそうに眠っていたじゃない。ふん、隼人――あなたは本当に、私の死を悔やみ、不安に感じたことなんてあったの?いいえ、あなたは一度だって、そんなことなかった。彼の顔を一瞥し、瑠璃は素早く身支度を整えて部屋を出た。ちょうどその時、君秋が部屋から出てくるところだった。「君ちゃん、おはよう」彼女は優しく微笑みながら彼のもとへ歩み寄った。「学校へ行くのね?ヴィオラお姉ちゃんが朝ごはんを作ってあげようか?」君秋はその言葉を聞いて、キラキラした大きな目で見上げながらコクリと頷いた。「うん」その愛らしく整った小さな顔を見て、瑠璃の気分は一気に和らいだ。メイドたちは朝早くから朝食の準備をしていたが、それでも瑠璃は自らキッチンに立ち、君秋のために簡単で栄養バランスの良い朝ごはんを作った。君秋は食卓につき、目の前のハート型の目玉焼きをじっと見つめていたが、なかなか箸を取ろうとしなかった。瑠璃は彼の反応が気になって声をかけた。「君ちゃん、目玉焼きが苦手?食べたいものがあれば教えてね、ヴィオラお姉ちゃんがすぐ作ってあげる」そう言った直後、君秋は首を横に振った。その澄んだ目にはまっすぐな喜びが宿っていて、彼は小さな口を開き、可愛らしい八重歯を覗かせながら言った。「ありがとう、ママ」――ママ。瑠璃は一瞬、言葉を失った。まさか君秋がこんなにも早く、そして自分から「ママ」と呼んでくれるなんて、夢にも思わなかった。普通の子供なら、継母には少なくとも嫌悪感を持つものなのに。なのに君秋は、心から自分を慕ってくれている。瑠璃の目尻が熱くなり、そっと君秋の頭を撫でながら、慈しみに満ちた眼差しを向けた。「君ちゃん、ヴィオラお姉ちゃんは、あなたを本当の我が子のように大切にするからね。これからは、あなたを心から愛するママがそばにいるよ」君秋はコクリと頷き、その小さな顔にこれまで見たこともないほど自由で幸せそうな笑顔を咲かせた。その笑顔を見て、瑠璃の心もとろけるように温かくなった。これまでの愛や憎しみも、復讐も、その笑顔の前では全てが小さく思えた。朝食
その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の表情がわずかに変わった。――母斑。もし今この場で夏美が、自分の体にあるその母斑の形を口にしたら、これまでの計画がすべて水の泡になってしまう。「どんな母斑?」隼人が不思議そうに問い返した。「蝶の――」「隼人……なんだか急に、頭がクラクラするの……」夏美が「蝶の」まで口にしたその時、瑠璃は眉間を寄せて弱々しく隼人にもたれかかった。隼人の意識はすぐに瑠璃へと戻った。彼はすぐに彼女を抱き上げた。「病院へ連れていこう」「病院なんて必要ないわ。ただ少し、疲れただけよ」瑠璃は彼の肩に身を預けながら、かすかに囁いた。隼人に抱かれてその場を離れる彼女を見送りながら、夏美と賢の心には、どこか得体の知れない不安がじんわりと広がっていった。夜が更けて、窓辺の大きな木をそよ風が揺らし、ささやくような音を立てていた。瑠璃はベッドに横たわっていたが、まったく眠気はなかった。それでも、目を閉じて、眠っているふりをしていた。今夜は彼女と隼人の新婚初夜だった。彼が今どんな気持ちでいるのか、彼女には分からない。だが彼と肌を重ねることだけは、どうしても避けたかった。しばらくすると、バスルームから水の音が止み、隼人が静かに出てくる足音が聞こえてきた。まるで彼女を起こさないようにと、意図的に足音を抑えているようだった。やがてベッドの片側がわずかに沈み、隼人がそこに横たわったのが分かった。彼の体温と気配が、じわじわと瑠璃の側に近づいてきた。瑠璃の心臓がわずかに早く鼓動し、毛布の下にある手が静かに強ばっていく。彼がまさか、そんなつもりじゃ……そう思った矢先、頬にふわりとあたたかな吐息が触れた。キスされるかもしれない――その不安に駆られ、瑠璃は一気に目を開けた。その瞬間、彼女の瞳は深く静かな目とぶつかった。「起こしてしまったか?」男の低くて優しい声が耳元でささやいた。瑠璃は口角を少し引き上げた。「ううん」「それならよかった」隼人は穏やかに微笑み、長くしなやかな指で彼女の頬に触れ、その美しい顔がゆっくりと近づいてきた。そして、彼の唇は彼女の口元にそっと触れた。瑠璃は彼を押しのけた。「隼人……私、妊娠してるのよ。あんまり無理はできないわ」隼人は顔を上げて彼女を見つめ、その目に探るような光を
だが、この結婚式は心からのものではなかったとはいえ、瑠璃は今日、君秋がフラワーボイとして来てくれたことが嬉しかった。そして人混みの中には、夏美と賢の姿もあり、彼らが式に出席してくれたことで、ある意味、両親からの承認を得られたとも言えた。しかし、隼人の母は当然ながら不満げだった。隼人の母と親しい上流階級の婦人が祝福にやってきた。「目黒夫人、今回の新しいお嫁さんは本当にすごい方ね。お金もあって、有能で、それにあんなに綺麗だなんて。きっと今回はご満足でしょう?」「お金があって何?うちにお金が足りないとでも?綺麗な女なんてこの世に山ほどいるわよ。あの子なんて大したことないわ!」隼人の母は軽蔑したように、ちょうど招待客にお酒を注いでいた瑠璃に目を向けて白い目を向け、そっぽを向いた。そして夏美と賢の姿を見つけると、急いで近づき親しげに話しかけた。「碓氷さん、碓氷夫人、まさかあの四宮蛍が偽者だったなんて、私もすっかり信じ込んでいたのよ。結果として騙されて、ほんとに腹立たしいわ」隼人の母は憤慨した表情でそう語りながら、さりげなく自分との関係を切り離した。夏美は困ったようにため息をついた。「実の娘を見つけたと思っていたのに……目黒家と親戚になるかもしれないと期待していたけど、まさかこんなことになるなんて」隼人の母はすぐに同調した。「誰が想像できたかしら、あの四宮家の連中があんなにひどいなんて。隼人の子供を産んだという一点だけが唯一の考慮だったのよ。それがなければとっくに詐欺で訴えてたわ!」彼女は憤りを込めてそう言い放ち、さらに残念そうな顔をして続けた。「碓氷家は景都でも有名な名門だから、もし親戚関係になれていたら、それはもう素晴らしいご縁でしたのにね。残念ながらお嬢さんが今も見つからないだなんて……もっと早く見つかっていれば、隼人と何か進展があったかもしれないし、こんな女にチャンスを与えることもなかったでしょうに!」そう言いながら、隼人の母は不機嫌そうに瑠璃に睨みを利かせた。夏美もその視線を追い、純白のドレスをまとい、まるで絵のように美しい瑠璃の姿を目にして、胸の奥がなぜかきゅっと痛んだ。「実は……ヴィオラも、そんなに悪い子ではないのよ」「碓氷夫人、ご存じないでしょうけど、この女はね、隼人の元妻である瑠璃に比べて、悪さでは上