でも、センチュリー ノブレスは違う。この車を所有するには、経済力だけでは足りない。清廉な身元と高い社会的地位、そして目覚ましい社会貢献が必要とされる。しかも完全オーダーメイド。つまり、各オーナーが持つのは、世界に一台しかない特別な「孤品」なのだ。私と桜井は緊張した面持ちで後部座席に腰掛けた。白手袋の運転手は気さくな方で、軽く世間話をして私たちの緊張を解してくれる。高級車は静かにしなやかに走り続け、一時間ほどで緑深い山林地帯へと入っていった。「もうすぐ栄光山です」運転手が告げる。程なくして、警備所が見えてきた。制服姿の警備員が、実銃を携えて立っている。私たちの車が近づくと、警備員が手信号を送る。運転手は車を止め、窓を下ろして身分証を提示した。確認を終えると、ようやく通行が許可された。「夕凪さん......ここって軍事施設か何かじゃ......」桜井が目を丸くして囁く。私も驚いていたが、表情には出さないようにした。「特別許可を得ているんです」運転手が丁寧に説明してくれる。「ご当主様が要職を退かれてから、ここで静養なさっています。安全のため、出入りする車両は全て検査が必要なんです。私たちは登録済みですから身分証だけでいいのですが、未登録の車両はもっと厳重な検査になります」私と桜井は顔を見合わせ、思わず背筋を伸ばした。なるほど。周山管理人が自分で運転してくるのは止めてくれと言ったわけだ。ナビにも載っていない場所というだけでなく、セキュリティの問題もあったのね。成瀬家との接点と言えば、結婚式に突如現れた次男様との一件だけ。今日この目で見た光景は、成瀬家の神秘的で控えめな佇まいを、より一層印象付けるものだった。畏敬の念すら覚える。次男様のことを思い出し、私はバッグの中のハンカチの存在を意識する。今日、この屋敷に来ることが分かった時から、持参していた。もし会えたら、お返しできるかもしれない。車が門をくぐると、入口で人影が待っていた。「周山管理人です。この先は案内させていただきます」運転手が告げる。私たちは丁寧にお礼を述べ、桜井と共に車を降りた。「江崎様、ようこそ」周山管理人が近づいてくる。「お世話になります」私も同じように頭を下げる。「どうぞこちらへ。老夫人とお嬢様方がお待ちです」
でも、確かに成瀬家の方々とは面識がないはず。「江崎さんですね?本当にお美しい。スタイルも素晴らしいし、凛とした雰囲気もおありで。あのような才能をお持ちなのも納得です」老夫人は私に微笑みかけ、褒め言葉を並べる。思いがけない賛辞に、私は戸惑いを覚えた。確かに幼い頃から美人の素質があると言われ、鏡の中の自分に見惚れることもあった。でも、さすがに成瀬家のような名門で、こんな褒め言葉をいただけるとは。きっと老夫人の教養の高さゆえの優しさなのだろう。私が言葉に詰まっていると、周山管理人が小声で「老夫人様です」と囁く。「老夫人様、ご丁寧なお言葉、恐縮です」私は微笑みながら軽く頭を下げた。「お声まで素敵」「......」顔が赤くなるのを感じながら、私も返礼の言葉を。「老夫人様とお呼びするのが申し訳ないくらい、お若々しくていらっしゃいます」「もうすぐ還暦を迎えるのよ」老夫人は柔らかく微笑んだ。想像していた名門の奥様とは全く違う。威厳ばかりを振りかざす人かと思っていたが、穏やかで親しみやすい方だった。短い挨拶を交わした後、早速本題に入る。還暦のお祝いに相応しい装いを、という依頼だった。ただし、老夫人は若々しい感性をお持ちで、同年代の方々が好むような控えめな装いはお望みではないとのこと。そんな特別なオーダーだからこそ、私のところに依頼が来たのだろう。「若々しすぎず、かといって年相応すぎない......そんなバランスの取れたデザインをお願いしたいの」お客様のご要望を理解し、老夫人の佇まいと雰囲気を改めて観察する。しばらく考えを巡らせた後、イメージが固まった。「では、採寸させていただきます」老夫人が両腕を広げて立ち、私が採寸を始める。傍らで桜井が寸法を記録していく。広間には他の女性たちも座っていて、私たちが作業する傍らで、彼女たちは談笑を続けていた。最初は気に留めていなかったが、次第に会話の内容が耳に入ってきた。臨也様......あの噂の次男様の結婚相手選びの話をしているようだ。「お義姉様、これだけの令嬢たちの中からも、お気に召す方はいらっしゃらないの?」「ええ、誰一人として。もう三度目の候補者たちなのに」「臨也兄様はご立派すぎるから、なかなかお気に召さないのも当然かしら」「まったく」老夫人が鼻を鳴ら
「そんなことはないわ」老夫人が眉をひそめる。「あなたは被害者よ」「お気遣いありがとうございます」「では、まだ五木家の方をお想いなの?」「いいえ」次の方の採寸に集中しながら、私は答えた。「今は仕事に専念したいだけです」その時、階段から長身の人影が現れた。私は採寸に集中していたせいか、最初は気づかなかった。「あら、臨也」誰かが声をかける。「お仕事の邪魔じゃないかしら?」「いや、もう片付けた」透き通るような低い声が響く。その声色に、結婚式で私にハンカチを差し出した次男様の姿が蘇った。人混みの中でも、あの凛とした声は確かに届いていた。声のする方を見上げると、その姿が目に入った。結婚式での一瞬の印象とは違う。次男様は若く端正な顔立ちで、世間で囁かれている「人前に出られない謎めいた次男様」という噂からは想像もできないほどだった。凛々しい眉目に長身の体躯、背筋は真っ直ぐに伸び、どこか軍人のような凜とした雰囲気を漂わせている。一目見ただけで、自分とは縁遠い高貴さと威厳を感じさせる。しかし、その物腰や話しぶり、表情には少しの高慢さもない。むしろ、穏やかで温厚な印象すら受ける。実は以前から成瀬臨也という名前は耳にしていた。だが、良い印象は持っていなかった。宴之介が彼と確執があるからだ。以前、宴之介はいくつもの大型プロジェクトを彼に奪われた。宴之介曰く、成瀬は家柄の力を笠に着て、理不尽な権力で押さえつけ、不当な競争を仕掛けてきたのだと。そう聞かされていた私も、良い印象は持てなかった。私はかつて、この成瀬家の次男を傲慢で冷酷な権力者だと決めつけていた。想像の中では、人を見下すような尖った表情を浮かべている姿まで描いていたのだ。けれど、目の前の彼は全く違う。むしろその姿は、この世の褒め言葉を全て注いでも足りないほどの優美さと気品を湛えていた。凛とした佇まいに、古い家柄の血筋を感じさせる気高さが滲む。「臨也、せっかくだから採寸しておいたら?」母親が息子に手招きする。「江崎さんが世界的なデザイナーになったら、もう頼めなくなるかもしれないわよ」老夫人が冗談めかして言う。「まあ、そんな」私は慌てて微笑む。「過分なお言葉です。成瀬家からのご依頼なら、いつでも喜んで。むしろ夢のような話です」自分を卑下しているわけではない。た
「はい」私は頷くものの、もう直接目を合わせる勇気が出ない。桜井が私の横で、何か察したように、妙に意味ありげな視線を投げかけてくる。「両腕を水平に上げていただけますか」長めのメジャーを手に取りながら、丁寧に声をかける。臨也が私の前に立つ。後ろに回ると、その身長の高さに驚く。190センチ近くはありそうだ。私も172センチあるから何とかなるが、もし低かったら脚立が必要だったかもしれない。上半身の採寸は、彼の協力もあってスムーズに済んだ。けれど、ウエストとヒップの採寸になって躊躇する。前から計るべきか、後ろから計るべきか......不思議なことに、それまで賑やかだった部屋が突然静まり返る。全ての視線が、この場に集中しているのが分かった。急に緊張で耳が熱くなり、赤くなっているのが自分でもわかった。「江崎さん、どうかされましたか?」私の躊躇を察したのか、臨也が不思議そうに尋ねてきた。「あ、いえ......背が高すぎて」思わず本音が漏れた。「じゃあ、しゃがみましょうか?」「い、いえ!結構です」慌てて否定すると、覚悟を決めて彼の正面に立った。メジャーを腰に回し、前で留める。これまで同年代の異性と親密な接触といえば、五木宴之介だけだった。確かに男性客の採寸経験はあるものの、いつも他のデザイナーに任せていた。自分で計る必要なんて一度もなかったのに。抱きつくような体勢になった瞬間、彼が少し顔を下げ、吐息が耳元を撫でた。その瞬間、心臓が不規則なリズムを刻み始める。清々しい森の香り――あの日、彼がくれたハンカチと同じ香りが漂ってきた。なぜだろう。鼓動は収まるどころか、まるで目の前で炎が燃え盛っているかのように、全身が熱を帯びていく。しかも、これで終わりではない。ウエストの次はヒップ周りも計らなければ。向かい合ったままではあまりにも意識してしまう。もう一度正面から抱きつく勇気が出ず、後ろに回って腰に手を回した。気持ちが乱れていたせいか、メジャーを取り落としてしまう。反射的に拾おうとした手が、思いがけず彼の下腹部に触れてしまった。成瀬臨也の体が一瞬こわばり、その瞬間、私の頭の中で雷が鳴った。今、私の手が触れたのは、まさか......ああ、なんてことを!長年この仕事をしてきて、こんな初歩的な、しかも
生地越しでも、鍛え上げられた下肢の筋肉の確かな感触が伝わってきた。さっと計算してみると、ウエストヒップ比は約0.8。広い肩に引き締まったヒップライン、すらりとした長身。まるでプロのモデルのようなパーフェクトなプロポーションだった。「桜井さん、全部メモできた?」気まずさを紛らわすように、私はアシスタントに声をかけた。「はい、きちんと記録しています」私は頷きながら道具を片付け、一人一人にお好みの仕様を確認していく。体にフィットしたものを希望する方もいれば、ゆったりとしたシルエットを好む方も。ドレスに関しても、年配の方はロング丈を、若い方はショート丈を好む傾向にあった。タブレットに細かく記入していく。後でデザインする際の重要な指針となる。全ての作業を終えると、もう正午近くになっていた。成瀬老夫人から昼食のお誘いを受けたが、仕事が山積みしているという言い訳で丁重にお断りした。成瀬臨也が腕時計に目を落とし、整った眉を少し寄せる。「私も東條さんとの約束がありますので、これで失礼します」「そう」夫人は立ち上がりながら頷いた。「じゃあ、江崎さんを送ってあげて」「いえ、夫人。私――」「江崎さん、どうぞ」断る暇もなく、臨也が軽く手を上げた。物腰は柔らかく丁寧だったが、その気品ある佇まいには今なお威厳が漂っていた。従うしかない。それに、ハンカチを返す良い機会でもある。玄関を出ると、私はバッグを桜井に渡し、車で待っているよう指示した。「成瀬様、お返しするものが」丁寧に畳んだハンカチを取り出し、彼に差し出した。臨也の眉が上がり、唇が緩んだ。「まだ持っていたんですね」先ほどの失態が頭をよぎり、彼を見上げる私の笑顔は幾分ぎこちなかった。「ご自身のお品ですから、勝手な処分はできませんでした」「あの混乱の中でも、誰が渡したか覚えていてくれたんですね。あの状況では、パニックになっても不思議じゃなかったのに」結婚式での屈辱を思い出し、表情が曇る。苦笑いを浮かべながら「確かにパニックでした。あんなに大勢の前で泣いたのは初めてで......」「五木が愚かだっただけです。気にする必要はありません」「ありがとうございます」感謝の笑みを浮かべ、再度ハンカチを差し出す。「洗濯してきれいにしました」「結構です。一度差し上げ
ユーモアを含んだ口調に、私は少し緊張しながら彼を見上げた。「でも、お客様ですから......」「私だって人間が良いですけどね」思わず笑みがこぼれる。彼の軽妙な返しで、緊張も解けてきた。「わかりました」「本日は、ありがとうございました」一言一言が心地よく響く彼の挨拶。私との別れ際、運転手にも「古張さん、お二人を安全に送り届けてください」と念を押した。「かしこまりました、臨也様」私に微笑みながら会釈すると、すでにドアの開いていたラクサスに乗り込んでいった。意外だった。あれほどの権力と地位がある人なのに、愛車はラクサスなのか。成瀬家が質素で謎めいていると世間で噂されるのも、納得できる。下山する道で、彼の車は常に私たちの前を走っていた。助手席の桜井は、車窓から栄光山の景色に見入っていた。私の心は落ち着かず、前を走る車から目が離せなかった。右手を握りしめると、先ほどの感触が蘇ってきた。ハッとして我に返る。まるで痴漢のように、あんな瞬間を思い出すなんて――自分の思考に赤面した。頬が熱くなるのを感じ、右手を膝の上で拭うように動かす。雑念を振り払おうと、窓の外に視線を向けた。二台の車の間には常に50メートルほどの距離があった。カーブに差し掛かるたび、前の車が一時的に見えなくなる。その瞬間、どこか胸が締め付けられるような感覚に襲われた。だが、曲がり角を過ぎれば、その車はまた姿を現す。ゆったりとした、落ち着いた走りで。陽光が心地よく差し込み、山の木々は鮮やかな緑に輝いていた。揺れる木漏れ日が、前方を走る車の艶やかな黒い車体に映り込む。光が流れるように移ろう様は、まるであの人の纏う気品のよう。高貴で控えめな、羨望を誘う輝きだった。確かに価格や格付けでいえば、センチュリー ノブレスの方が上だろう。でも不思議と、成瀬臨也が乗っているという事実だけで、あの車は世界で最も気品のある、かけがえのない存在に見えた。山を降りきると、彼の車がクラクションを一回鳴らし、そのまま加速して視界から消えていった。しばらくぼんやりと見つめた後で、あのクラクションが臨也からの別れの挨拶だったことに気付いた。突然、心臓が早鐘を打ち始めた。これほどまでに由緒ある家で育てられた御曹司なのに、驕り高ぶる様子は微塵もない。
え?一瞬の驚きの後、冷笑が漏れた。「怜、ようやく本性を見せたわね」長年、無邪気で弱々しい演技を続けてきた妹。私が叱られたり、殴られたり、厳しく罰せられる度に、涙ながらに助けを請う優しい人を演じてきた。ついに仮面が剥がれ落ちた。「何が本性よ。私はずっとこうだったわ。お姉さまが私のことを快く思ってないだけ」怜は尚も強気な物言いを続けた。「もういいわ。言い争うつもりはないから。とにかく宴之介さんに伝えて。午後二時、必ず来るように。予約を取るのは大変なの。来なかったら、また半月以上待たされることになるわ」電話を切ろうとした矢先、怜が止めた。「ねぇ、この前、五木宴之介があなたに会いに行ったでしょう?」急に声のトーンが変わり、恋人のはずの男の名を姓で呼ぶその口調には、明らかな敵意が含まれていた。二人の間に亀裂が入っているのを悟り、少し意地悪な気持ちになった。「ええ、会いに来たわ。それが?」「あなた、恥を知りなさい!宴之介さんは私の夫なのよ。私に内緒で会うなんて、不倫と変わらないじゃない!」怜は突然激昂し、罵声を浴びせてきた。にわかには信じられない。「不倫って、それはあなたたちでしょう?私に何の関係があるの?癌は脳まで転移したの?」「呪うなんて、あなたこそ、地獄に落ちるわ!私は......」怜の罵倒は続いたが、もう聞く気もなかった。「早く離婚させてくれれば、あなたたちも不倫の汚名から解放されるでしょう?」電話を切ると、胸くその悪い気分が残った。朝からろくでもない厄災に遭遇したものだ。簡単な朝食を済ませ、会社へ向かう車中で、宴之介から着信があった。画面に表示された名前を見ただけで苛立ちが込み上げてきたが、離婚の件で話し合う必要があった。「夕凪、朝、電話してきたの?」まるで何事もなかったかのような、かつての甘い声色。「ええ、午後二時に区役所で」そっけなく告げ、電話を切ろうとした。「夕凪!」急いで宴之介が制する。「今日は忙しくて、午後は都合が悪い」やっぱり。予想通り、離婚を引き延ばすつもりだ。「五木さん、私たち一度は愛し合ったでしょう。きれいな別れ方、できないの?怜も、あなたからはっきりした答えが欲しいはずよ」怜の名前を出すと、宴之介は話を逸らすように「朝の電話、二人で喧嘩になったの?」
明らかに鬱積した怒りを抱えていた秀代に、私は格好の標的となってしまった。「五木さんに電話をしただけです。勝手に出たのは怜でしょう」私も腹が立って、思わず切り返した。「そんなに険悪な態度を取るなんて、因果応報ってご存知?お嬢さまに跳ね返るかもしれませんよ」「なんて薄情な!」秀代の声が裏返るほどの怒号となった。「あんたこそ、一生病気知らずでいられると思わないことね!」もう言い争う気力もなく、淡々と言い放った。「わざとじゃないんです。五木さんが携帯を病室に置いていたなんて、知るわけないでしょう」「宴之介は今やあなたの義理の弟よ。そんな関係なら、慎むべきでしょう?他の人を通して伝言すればいいじゃない。まだ未練があるんでしょ?怜が見つけて本当に良かったわ!」え?善意の説明が、こんな風に曲解されるなんて。押さえ込んでいた怒りが再び沸き上がり、頭痛がするほどの憤りを覚えた。私は歯を食いしばり、憎々しげに言い放った。「じゃあ、あなたの娘婿、私の義理の弟に伝えてください。今、区役所の前にいます。予約の時間よ。早く来て離婚手続きを済ませなさい。さもないと、あなたの愛しい娘は死ぬまで不倫相手のままですからね!」私の脅しが効いたのか、十分後、宴之介から電話がかかってきた。「夕凪、わざと約束を破ったわけじゃないんだ。今日、出張で地方にいるんだ」誠実な声で説明を始める。怒りを抑えながら「昨日、予定を伝えたはずよ。それなのに今日、出張?」「急な事態なんだ。地方支社でトラブルが起きて、俺が直接対応しないといけなくて」その言葉は誠実に聞こえたが、信じる気にはなれなかった。五木グループの規模は知っている。でも、社長である彼が何から何まで自分で対処する必要なんてない。副社長も幹部も大勢いるはずなのに。私の沈黙の隙を突くように、今度は感情に訴えかけてきた。「夕凪、俺たちには確かな絆があったはず。こうして話し合うことすらできないの?本当に離婚しかないの?」その言葉に、心は少しも揺らがなかった。「気持ち悪いこと言わないで。もう戻れないわ。離婚は避けられない」私の断固とした態度に、電話の向こうで一瞬の間が生まれ、「離婚するにしても、財産分与の話し合いが必要だろう。出張から戻ってからにしよう」「話し合うことなんてないでしょう。別荘一軒の話
「一人暮らしなら、どこだっていいわ。人も状況も変わった今、あの家には住みたくない」意図的に冷たい言い方をした。実際は、あの家の全てを自分で選び、配置を決めて、愛着もある。でも今は、母の形見の腕輪の方が何より大切だった。「分かった。いくら必要だ?」「1億」本来なら経年劣化も計算に入れるべきだろうが、私に対して非道な真似をした彼に、そこまで公平である必要はない。「3億払おう。明日午後、手続きをしよう。でも、引っ越しは焦らなくていい。好きなだけ住んでいていい」予想以上に寛大な申し出に、少し驚いた。「1億でいいの。それ以上は受け取れない。それに、すぐに出ていくわ」余分な金は受け取りたくなかった。また具合が悪くなった時、私の血液と引き換えにされるかもしれない。その余分な2億円が、私の命の代価になりかねない。私のそっけない態度に、宴之介は息を呑むように言葉を紡いだ。「夕凪......俺たち、本当に愛し合っていたはずなのに、こんなにもはっきりと線を引かなくても......」「じゃあ、明日」その感傷的な言葉を遮り、そっけなく電話を切った。手持ちの資金を計算してみる。今なら2億円ほど。会社名義で銀行融資を受ければ、もう2億は借りられるはず。正攻法とは言えないが、もう考えている余裕はない。以前、宴之介と一緒に参加した慈善オークションを思い出す。大金持ちたちは、名声を得るためなら平気で何倍もの値段を付けていた。開始価格が6億円なら、最低でも20億円は用意しないと。20億円。私にとっては途方もない数字だった。頭の中で知人リストを片っ端から確認していく。かろうじて借りられそうな額を合計しても、さらに2億円が関の山。まだ14億円足りない。その夜も、また眠れなかった。翌日の午後、宴之介が会社まで迎えに来た。彼のロールスロイスには乗らず、自分の車で行政センターへ向かう。手続きを待つ人が多く、番号札を受け取って待合所で順番を待った。しばらくして戻ってきた宴之介の手には、ホットココアが。「今日は寒くなったから」優しい声で差し出してくる。その表情には、かつての思いやりが溢れていた。一瞬見つめてから、「結構です。ダイエット中なので」と断った。確かに大好きな飲み物。私の好みを覚えていてくれたのに。でも、もう遅
自業自得というものだ。「そうね。でも、あの白々しい怜のことだもの。男を手玉に取るのは得意でしょう。そのうち涙を見せて、甘い言葉で誘い込んで、あっという間に許してもらうんじゃない?」雲音は女の駆け引きを見抜く目があった。「どうでもいいわ。むしろ、ずっとくっついていてくれた方が助かる」心からの本音だった。雲音は疑わしげな目で私を見つめた。「本当に?五木が謝って戻ってきても、断れる?」私は真剣な表情で即答した。「当然よ!あんなに私を踏みにじっておいて、また受け入れるなんて。世間の笑い物じゃない。男に飢えすぎって思われるわ」「それに......あなたが言った通り、愛情じゃなくて、怜と比べて私の方が都合がいいって思っただけでしょう。命の危機の時に私の血液が必要だってことも、計算に入ってるはずよ」やっと分かったわ。宴之介のような男は、誰のことも愛していない。自分だけを愛している。こんな男と一緒にいるのは、まるで穴を掘って自分で落ちていくようなもの。火に飛び込む蛾のように、灰になって消えていくだけ。「そこまでハッキリしてるなら安心」雲音は一息ついた。「離婚の費用が足りないなら、私に言って。何とかするから」「ありがとう」雲音との食事を終え、会社に戻って残業。夜十時、帰ろうとした時、叔母から電話がかかってきた。「もしもし、叔母さん」「夕凪!」興奮した声が響く。「あの白玉の腕輪、お母さんが数年前に手放したやつ、やっと見つかったの!」「本当?」思わず声が弾んだ。「お母さんの腕輪が見つかったの?どこで?」「今月末に金座市で開催される慈善オークションにね。松原オークションハウスの出品リストに白玉の腕輪があるの。写真を送るから、よく確認してみて。おばあちゃんと見たけど、間違いないと思うわ」「分かったわ!」電話を切ると、すぐに叔母から写真が届いた。画面を食い入るように見つめる。一目で、あの時母が手放した家宝だと分かった。家に戻って資料を調べ、専門家たちのオークション予想も読み込んだ。この腕輪の開始価格は、少なくとも6億円。歓喜の絶頂から、一気に冷水を浴びせられたような気分になった。6億円。どうやってそんな大金を?でも、これは母が残してくれた最も大切な品。祖母もずっと気にかけ続けてきた宝物。やっと見つかったのに
確かに、私の立場は苦しい。それは幼い頃からずっと変わらない。江崎家がどれほど裕福でも、私には無縁の話。名ばかりの令嬢という立場。自分の手で一から創り上げたブランドは軌道に乗り始めていたけれど、設立からまだ数年。得た収入は全て別荘のリフォームに費やしてしまった。「帰ってきてから、改めて話しましょう。とにかく、あなたの好意は受けられない。怜にまた言いがかりをつけられるのは御免だわ」そう言い切ると、彼の返事も待たずに電話を切った。車の中で区役所の建物を見つめながら、胸の中で怒りが渦巻いていた。スマホが小さな音を立てる。画面を覗くと、宴之介からのメッセージだった。『夕凪、安心して。この件は怜には内緒だから。君が俺にしてくれた全てを考えたら、これくらいの補償は当然だ』その文面に、突然鼻の奥がツンとして、目に熱いものが滲んできた。この薄情者にも、まだ少しは良心が残っていたのか。でも、今更のその優しさが余計に腹立たしい。最後まで最低な男だったなら、きっぱり縁を切る決意も揺るがなかったはず。なのに、ここにきて突然、優しさを見せる。それが一番、私の心を疲弊させる。メッセージを数秒見つめた後、冷静さを取り戻した。どんな言葉を並べようと、揺らぐわけにはいかない。一度醜い本性を見せた男は、どれだけ改心したフリをしても、もう信じられない。チャットを閉じ、本日の予約をキャンセルして次の空き日を確認する。また半月後の午後まで埋まっているなんて。その夜。三木雲音が私の独身復帰と、クズ男からの解放を祝うと言って、食事に誘ってきた。「離婚できなかった」私は憂鬱そうに告げた。「え?なんで?」雲音は驚いて「五木が承知しないの?」「うん」「ふざけてるわ」雲音も怒り出した。「何様のつもり?みんなの前で怜と結婚式まで挙げておいて、あんなに派手な不倫しておいて、よく離婚を渋れるわね」ため息をつきながら、今日の午後の出来事を雲音に話し始めた。雲音は私と同じ考えのようだった。「きっと後悔してるのよ。怜と比べて、やっぱりあなたの方が良かったって。それに、完全に別れちゃったら、また具合が悪くなった時、あなたの血液が必要になるかもしれないでしょう?」その言葉に、私は目を見開いた。正直、そんな可能性は考えもしなかっ
明らかに鬱積した怒りを抱えていた秀代に、私は格好の標的となってしまった。「五木さんに電話をしただけです。勝手に出たのは怜でしょう」私も腹が立って、思わず切り返した。「そんなに険悪な態度を取るなんて、因果応報ってご存知?お嬢さまに跳ね返るかもしれませんよ」「なんて薄情な!」秀代の声が裏返るほどの怒号となった。「あんたこそ、一生病気知らずでいられると思わないことね!」もう言い争う気力もなく、淡々と言い放った。「わざとじゃないんです。五木さんが携帯を病室に置いていたなんて、知るわけないでしょう」「宴之介は今やあなたの義理の弟よ。そんな関係なら、慎むべきでしょう?他の人を通して伝言すればいいじゃない。まだ未練があるんでしょ?怜が見つけて本当に良かったわ!」え?善意の説明が、こんな風に曲解されるなんて。押さえ込んでいた怒りが再び沸き上がり、頭痛がするほどの憤りを覚えた。私は歯を食いしばり、憎々しげに言い放った。「じゃあ、あなたの娘婿、私の義理の弟に伝えてください。今、区役所の前にいます。予約の時間よ。早く来て離婚手続きを済ませなさい。さもないと、あなたの愛しい娘は死ぬまで不倫相手のままですからね!」私の脅しが効いたのか、十分後、宴之介から電話がかかってきた。「夕凪、わざと約束を破ったわけじゃないんだ。今日、出張で地方にいるんだ」誠実な声で説明を始める。怒りを抑えながら「昨日、予定を伝えたはずよ。それなのに今日、出張?」「急な事態なんだ。地方支社でトラブルが起きて、俺が直接対応しないといけなくて」その言葉は誠実に聞こえたが、信じる気にはなれなかった。五木グループの規模は知っている。でも、社長である彼が何から何まで自分で対処する必要なんてない。副社長も幹部も大勢いるはずなのに。私の沈黙の隙を突くように、今度は感情に訴えかけてきた。「夕凪、俺たちには確かな絆があったはず。こうして話し合うことすらできないの?本当に離婚しかないの?」その言葉に、心は少しも揺らがなかった。「気持ち悪いこと言わないで。もう戻れないわ。離婚は避けられない」私の断固とした態度に、電話の向こうで一瞬の間が生まれ、「離婚するにしても、財産分与の話し合いが必要だろう。出張から戻ってからにしよう」「話し合うことなんてないでしょう。別荘一軒の話
え?一瞬の驚きの後、冷笑が漏れた。「怜、ようやく本性を見せたわね」長年、無邪気で弱々しい演技を続けてきた妹。私が叱られたり、殴られたり、厳しく罰せられる度に、涙ながらに助けを請う優しい人を演じてきた。ついに仮面が剥がれ落ちた。「何が本性よ。私はずっとこうだったわ。お姉さまが私のことを快く思ってないだけ」怜は尚も強気な物言いを続けた。「もういいわ。言い争うつもりはないから。とにかく宴之介さんに伝えて。午後二時、必ず来るように。予約を取るのは大変なの。来なかったら、また半月以上待たされることになるわ」電話を切ろうとした矢先、怜が止めた。「ねぇ、この前、五木宴之介があなたに会いに行ったでしょう?」急に声のトーンが変わり、恋人のはずの男の名を姓で呼ぶその口調には、明らかな敵意が含まれていた。二人の間に亀裂が入っているのを悟り、少し意地悪な気持ちになった。「ええ、会いに来たわ。それが?」「あなた、恥を知りなさい!宴之介さんは私の夫なのよ。私に内緒で会うなんて、不倫と変わらないじゃない!」怜は突然激昂し、罵声を浴びせてきた。にわかには信じられない。「不倫って、それはあなたたちでしょう?私に何の関係があるの?癌は脳まで転移したの?」「呪うなんて、あなたこそ、地獄に落ちるわ!私は......」怜の罵倒は続いたが、もう聞く気もなかった。「早く離婚させてくれれば、あなたたちも不倫の汚名から解放されるでしょう?」電話を切ると、胸くその悪い気分が残った。朝からろくでもない厄災に遭遇したものだ。簡単な朝食を済ませ、会社へ向かう車中で、宴之介から着信があった。画面に表示された名前を見ただけで苛立ちが込み上げてきたが、離婚の件で話し合う必要があった。「夕凪、朝、電話してきたの?」まるで何事もなかったかのような、かつての甘い声色。「ええ、午後二時に区役所で」そっけなく告げ、電話を切ろうとした。「夕凪!」急いで宴之介が制する。「今日は忙しくて、午後は都合が悪い」やっぱり。予想通り、離婚を引き延ばすつもりだ。「五木さん、私たち一度は愛し合ったでしょう。きれいな別れ方、できないの?怜も、あなたからはっきりした答えが欲しいはずよ」怜の名前を出すと、宴之介は話を逸らすように「朝の電話、二人で喧嘩になったの?」
ユーモアを含んだ口調に、私は少し緊張しながら彼を見上げた。「でも、お客様ですから......」「私だって人間が良いですけどね」思わず笑みがこぼれる。彼の軽妙な返しで、緊張も解けてきた。「わかりました」「本日は、ありがとうございました」一言一言が心地よく響く彼の挨拶。私との別れ際、運転手にも「古張さん、お二人を安全に送り届けてください」と念を押した。「かしこまりました、臨也様」私に微笑みながら会釈すると、すでにドアの開いていたラクサスに乗り込んでいった。意外だった。あれほどの権力と地位がある人なのに、愛車はラクサスなのか。成瀬家が質素で謎めいていると世間で噂されるのも、納得できる。下山する道で、彼の車は常に私たちの前を走っていた。助手席の桜井は、車窓から栄光山の景色に見入っていた。私の心は落ち着かず、前を走る車から目が離せなかった。右手を握りしめると、先ほどの感触が蘇ってきた。ハッとして我に返る。まるで痴漢のように、あんな瞬間を思い出すなんて――自分の思考に赤面した。頬が熱くなるのを感じ、右手を膝の上で拭うように動かす。雑念を振り払おうと、窓の外に視線を向けた。二台の車の間には常に50メートルほどの距離があった。カーブに差し掛かるたび、前の車が一時的に見えなくなる。その瞬間、どこか胸が締め付けられるような感覚に襲われた。だが、曲がり角を過ぎれば、その車はまた姿を現す。ゆったりとした、落ち着いた走りで。陽光が心地よく差し込み、山の木々は鮮やかな緑に輝いていた。揺れる木漏れ日が、前方を走る車の艶やかな黒い車体に映り込む。光が流れるように移ろう様は、まるであの人の纏う気品のよう。高貴で控えめな、羨望を誘う輝きだった。確かに価格や格付けでいえば、センチュリー ノブレスの方が上だろう。でも不思議と、成瀬臨也が乗っているという事実だけで、あの車は世界で最も気品のある、かけがえのない存在に見えた。山を降りきると、彼の車がクラクションを一回鳴らし、そのまま加速して視界から消えていった。しばらくぼんやりと見つめた後で、あのクラクションが臨也からの別れの挨拶だったことに気付いた。突然、心臓が早鐘を打ち始めた。これほどまでに由緒ある家で育てられた御曹司なのに、驕り高ぶる様子は微塵もない。
生地越しでも、鍛え上げられた下肢の筋肉の確かな感触が伝わってきた。さっと計算してみると、ウエストヒップ比は約0.8。広い肩に引き締まったヒップライン、すらりとした長身。まるでプロのモデルのようなパーフェクトなプロポーションだった。「桜井さん、全部メモできた?」気まずさを紛らわすように、私はアシスタントに声をかけた。「はい、きちんと記録しています」私は頷きながら道具を片付け、一人一人にお好みの仕様を確認していく。体にフィットしたものを希望する方もいれば、ゆったりとしたシルエットを好む方も。ドレスに関しても、年配の方はロング丈を、若い方はショート丈を好む傾向にあった。タブレットに細かく記入していく。後でデザインする際の重要な指針となる。全ての作業を終えると、もう正午近くになっていた。成瀬老夫人から昼食のお誘いを受けたが、仕事が山積みしているという言い訳で丁重にお断りした。成瀬臨也が腕時計に目を落とし、整った眉を少し寄せる。「私も東條さんとの約束がありますので、これで失礼します」「そう」夫人は立ち上がりながら頷いた。「じゃあ、江崎さんを送ってあげて」「いえ、夫人。私――」「江崎さん、どうぞ」断る暇もなく、臨也が軽く手を上げた。物腰は柔らかく丁寧だったが、その気品ある佇まいには今なお威厳が漂っていた。従うしかない。それに、ハンカチを返す良い機会でもある。玄関を出ると、私はバッグを桜井に渡し、車で待っているよう指示した。「成瀬様、お返しするものが」丁寧に畳んだハンカチを取り出し、彼に差し出した。臨也の眉が上がり、唇が緩んだ。「まだ持っていたんですね」先ほどの失態が頭をよぎり、彼を見上げる私の笑顔は幾分ぎこちなかった。「ご自身のお品ですから、勝手な処分はできませんでした」「あの混乱の中でも、誰が渡したか覚えていてくれたんですね。あの状況では、パニックになっても不思議じゃなかったのに」結婚式での屈辱を思い出し、表情が曇る。苦笑いを浮かべながら「確かにパニックでした。あんなに大勢の前で泣いたのは初めてで......」「五木が愚かだっただけです。気にする必要はありません」「ありがとうございます」感謝の笑みを浮かべ、再度ハンカチを差し出す。「洗濯してきれいにしました」「結構です。一度差し上げ
「はい」私は頷くものの、もう直接目を合わせる勇気が出ない。桜井が私の横で、何か察したように、妙に意味ありげな視線を投げかけてくる。「両腕を水平に上げていただけますか」長めのメジャーを手に取りながら、丁寧に声をかける。臨也が私の前に立つ。後ろに回ると、その身長の高さに驚く。190センチ近くはありそうだ。私も172センチあるから何とかなるが、もし低かったら脚立が必要だったかもしれない。上半身の採寸は、彼の協力もあってスムーズに済んだ。けれど、ウエストとヒップの採寸になって躊躇する。前から計るべきか、後ろから計るべきか......不思議なことに、それまで賑やかだった部屋が突然静まり返る。全ての視線が、この場に集中しているのが分かった。急に緊張で耳が熱くなり、赤くなっているのが自分でもわかった。「江崎さん、どうかされましたか?」私の躊躇を察したのか、臨也が不思議そうに尋ねてきた。「あ、いえ......背が高すぎて」思わず本音が漏れた。「じゃあ、しゃがみましょうか?」「い、いえ!結構です」慌てて否定すると、覚悟を決めて彼の正面に立った。メジャーを腰に回し、前で留める。これまで同年代の異性と親密な接触といえば、五木宴之介だけだった。確かに男性客の採寸経験はあるものの、いつも他のデザイナーに任せていた。自分で計る必要なんて一度もなかったのに。抱きつくような体勢になった瞬間、彼が少し顔を下げ、吐息が耳元を撫でた。その瞬間、心臓が不規則なリズムを刻み始める。清々しい森の香り――あの日、彼がくれたハンカチと同じ香りが漂ってきた。なぜだろう。鼓動は収まるどころか、まるで目の前で炎が燃え盛っているかのように、全身が熱を帯びていく。しかも、これで終わりではない。ウエストの次はヒップ周りも計らなければ。向かい合ったままではあまりにも意識してしまう。もう一度正面から抱きつく勇気が出ず、後ろに回って腰に手を回した。気持ちが乱れていたせいか、メジャーを取り落としてしまう。反射的に拾おうとした手が、思いがけず彼の下腹部に触れてしまった。成瀬臨也の体が一瞬こわばり、その瞬間、私の頭の中で雷が鳴った。今、私の手が触れたのは、まさか......ああ、なんてことを!長年この仕事をしてきて、こんな初歩的な、しかも
「そんなことはないわ」老夫人が眉をひそめる。「あなたは被害者よ」「お気遣いありがとうございます」「では、まだ五木家の方をお想いなの?」「いいえ」次の方の採寸に集中しながら、私は答えた。「今は仕事に専念したいだけです」その時、階段から長身の人影が現れた。私は採寸に集中していたせいか、最初は気づかなかった。「あら、臨也」誰かが声をかける。「お仕事の邪魔じゃないかしら?」「いや、もう片付けた」透き通るような低い声が響く。その声色に、結婚式で私にハンカチを差し出した次男様の姿が蘇った。人混みの中でも、あの凛とした声は確かに届いていた。声のする方を見上げると、その姿が目に入った。結婚式での一瞬の印象とは違う。次男様は若く端正な顔立ちで、世間で囁かれている「人前に出られない謎めいた次男様」という噂からは想像もできないほどだった。凛々しい眉目に長身の体躯、背筋は真っ直ぐに伸び、どこか軍人のような凜とした雰囲気を漂わせている。一目見ただけで、自分とは縁遠い高貴さと威厳を感じさせる。しかし、その物腰や話しぶり、表情には少しの高慢さもない。むしろ、穏やかで温厚な印象すら受ける。実は以前から成瀬臨也という名前は耳にしていた。だが、良い印象は持っていなかった。宴之介が彼と確執があるからだ。以前、宴之介はいくつもの大型プロジェクトを彼に奪われた。宴之介曰く、成瀬は家柄の力を笠に着て、理不尽な権力で押さえつけ、不当な競争を仕掛けてきたのだと。そう聞かされていた私も、良い印象は持てなかった。私はかつて、この成瀬家の次男を傲慢で冷酷な権力者だと決めつけていた。想像の中では、人を見下すような尖った表情を浮かべている姿まで描いていたのだ。けれど、目の前の彼は全く違う。むしろその姿は、この世の褒め言葉を全て注いでも足りないほどの優美さと気品を湛えていた。凛とした佇まいに、古い家柄の血筋を感じさせる気高さが滲む。「臨也、せっかくだから採寸しておいたら?」母親が息子に手招きする。「江崎さんが世界的なデザイナーになったら、もう頼めなくなるかもしれないわよ」老夫人が冗談めかして言う。「まあ、そんな」私は慌てて微笑む。「過分なお言葉です。成瀬家からのご依頼なら、いつでも喜んで。むしろ夢のような話です」自分を卑下しているわけではない。た