ビデオの中、幼稚園の映像が流れている。背の高い男が可愛い男の子を正面から抱きしめている。その横には、笑顔を絶やさない女性が二人の腕に次々と風船を挟んでいる。風船挟みゲームだ。まるで家族三人のほのぼのとした一場面のように見える。ただし、その場にいるべき人間は本来、私だったはずだ。画面の反射に映る自分の顔は、青白く、髪は乱れて頬に張り付いている。まるで映画に出てくる悪霊のようだ。目の前の幸せそうな光景とは全く噛み合わない。「この卑劣な不倫女、よく見ておけ」私の骨折した箇所を押さえつける手に力が加わる。「お前には手に入れる資格がない幸せだ。壊そうなんて思うな」冷や汗が大粒となって落ちていく、折れた足の痛みは心の痛みの何万分の一にも及ばない。川瀬が帰国したことは知っていた。その日の早朝、帰宅した西村の身から漂う隠しきれない香水の匂いも嗅いでいた。後日、息子の悠真が偶然、彼女と西村が一緒に街を歩いているところを目撃し、彼女に向かって「出て行け!」と泣き叫びながら掴みかかったこともあった。そして家に戻ると、息子は私に飛びつきながら涙で目を赤くし、こう訴えた。「悠真にはママが一人しかいらない!」それがいつからか、息子は夢の中で心奈おばさんって呼ぶようになった。私が迎えに来るのが遅いと怒り、料理がまずいと文句を言い、寝る前の物語が古臭いと嫌がるようになった。そして、私が彼を抱きしめて寝ることも拒むようになった。以前の私は家政婦を頼むなんて考えたこともなかった。仕事以外の時間をすべて彼ら父子に捧げてきた。でも、どうやらそれではもう足りないらしい。だから私は仕事を辞め、専業主婦になり、彼らの世話に専念することにした。しかし数日前のこと。出前のフライドチキンが健康に良くないからと、息子に食べ過ぎないよう注意した時のことだ。彼は私を指さして言った。「家にこもって楽ばっかりしてるくせに、稼ぎもしないで、全部パパのお金を使ってるくせに、僕に指図するなよ!」その言葉を聞いた瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。息子が私をそんな風に見ているなんて。「あんたが出て行けば、心奈おばさんがここに来て僕のママになれるのに。彼女は綺麗で優しいし、あんたみたいに僕を虐めたりしない!」彼の
再び目を覚ますと、そこは別荘のような一軒家だった。窓の外には密林が広がっている。どうやら私は誰かに拉致されたらしい。その事実に気づいた瞬間、恐怖が心を覆い尽くした。私は必死になって出口を探し回った。その時、空っぽの家の中に、重い物を引きずる音と、ゆっくりとした足音が響いていた。まるで悪夢が後ろからつきまとっているようだった。一階でようやく玄関を見つけた私は、ふらつきながらも扉へ向かって走った。しかし、ドアノブに手をかける前に、突然脚に激痛が走った。骨が「バキッ」と折れる音がはっきり聞こえた。涙でぼやけた視界の中に、鉄パイプを持ったフード姿の男が立っていた。彼は私をこの部屋に放り込み、以降は夜にだけ食事を持ってくるようになった。私は泣きながら何度も彼に許しを請うた。どれだけのお金を払うと言っても、彼はまったく動じなかった。その時、私はようやく気づいた。彼が私を誘拐したのは、お金狙いではないということに。その後、彼の断片的な言葉から、私は彼の考えを少しずつつなぎ合わせることができた。どうやら彼は、私を不倫女だと思い込み、それゆえに激しい憎しみを抱いているらしい。私は何度も「どの家庭にも壊していない」と説明したが、彼は執拗に信じようとはせず、「お前は嘘つきだ」と喉を掴んで罵った。折れた脚の痛みで一晩中眠れない日々が続き、次第に精神も錯乱していった。だが、いま目の前の動画を見た瞬間、私の意識は驚くほどはっきりした。私が高熱で苦しんでいる間、私の夫と息子は、別の女性と親子運動会に参加していたのだ。誘拐犯が次に再生したのは、別の映像だった。それは川瀬が帰国した日だった。賑やかな宴会場で、私の高校時代の同級生たちが中央の西村と川瀬を取り囲んでいた。彼らは、西村と川瀬の共通の友人でもあった。動画の中で、西村は川瀬を前にして、怒りに満ちた表情を浮かべ、彼女の手を振り払って立ち去ろうとしていた。彼は、彼女が何事もなかったかのように現れたことに困惑しているようだった。しかし、彼女が「耀くん、ごめんなさい」と一言謝罪すると、彼は一瞬驚いたような顔を見せ、次第に狼狽し始めた。私は、西村がかつての彼女をすでに憎み切っていると思っていた。彼女が、彼が交通事故で植物状態になった時に彼を見
周りの友人たちが盛り上がり始めた。まるで高校時代、西村と川瀬が学園の人気者として、みんなにお似合いのカップルだと囃し立てられていた頃のようだ。動画を撮影している人物のそばで、誰かが小声で言った。「これ、よくないんじゃない?鳴海はどうなるのさ」すると、別の声が返してきた。「あいつの話なんかするなよ、縁起が悪い。そもそも、あいつがつけ込まなかったら、西村さんと心奈ちゃんはとっくに元に戻ってただろ。あいつがこの数年、俺たちに気に入られようと必死だった姿を思い出すと、マジで吐き気がする」記憶の中、家に遊びに来た彼らは、よく「嫂さん」と呼んで私をからかい、顔を赤らめさせていた。まさか、人間はここまで嫌悪する相手に対して演技ができるものだったとは。血の気のない唇が、嘲るような苦笑を浮かべた。目を閉じて、これ以上見たくなかった。だが、そばにいる誘拐犯は私の意に反して、頭を掴んで無理やり画面を見せつけた。「現実を見ろ。お前を本気で好きな人なんていないんだ。お前にはその価値がない」しかし、心の中に湧き上がるもっと強い感情が、恐怖を押しのけた。私は平静に彼を見つめ返した。そしてようやく、彼の顔をはっきりと見ることができた。透き通るほど白い、不健康そうな肌。額の髪は目元を覆い、眉の上にある一本の傷が耳元まで続いている。その目には冷酷な怒りが宿っていた。記憶が稲妻のように駆け巡る。学校の誰も気づかないような隅、いつも川瀬を遠巻きに見守っている影。黒い帽子をかぶり、彼女を密かに見つめるその姿。そして、西村を密かに想い続けていた私は、無意識に彼を探していた。いつもその傍らには川瀬がいた。だが、数え切れないほどの回数、私は黒い帽子の男と目が合い、そのたびにお互い知らないふりをしていた。なぜなら、私たちはどちらも、闇に潜む生き物だったから。私は口元を歪ませ、彼に詰め寄った。「君、川瀬が好きなんだろ?でも彼女が愛してるのは別の男だよ。彼女は君を愛してなんかいない。君と私は何が違うの?それどころか、彼女のために犯罪まで犯してるけど、それを彼女に言う勇気があるの?彼女が君を見てくれると思う?君のほうが私よりみじめだよ、ははは!」彼は図星を突かれたようで、怒りに任せてナイフを取り出し、私
カチャリと扉の鍵が開く音がした。入ってきた男は無言でテーブルの冷めた料理を熱いものに替えた。「持って行け。私は食べない」密閉された窓から漏れる一筋の光を、反射的に手のひらで光を掬い取った。彼は何も言わずに近づき、強引に私の服を引き剥がし、自分で弄りすぎて血が滲んだ胸の傷口に新しい包帯を巻き始めた。「殺せよ」と私は呟いた。「死体処理は、面倒だ」彼の手にしていた包帯を払い落とし、私は怒鳴りつけた。「じゃあ、一生私をここに閉じ込めるつもりか?放してくれ!川瀬を邪魔するつもりなんてない!」彼は無言のまま、再び新しい包帯を手に取って巻きを続けた。包帯を巻き終えると、顎を掴み、口元に食べ物を無理やり押し込んできた。何日も食べていなかったせいで、私は抵抗する力すら残っていなかった。喉に詰まらせ、激しく咳き込み、目が真っ赤になる。「死のうなんて考えるな。お前なんかにこれ以上手間をかけたくない」彼が部屋を出る直前、私は問いかけた。「それ、川瀬が『彼女の家庭』って教えたの?」彼は答えた。「言われなくても分かる」川瀬が証拠を残すようなことをするはずがない。もちろん、直接言葉でそんなことを言うわけもない。それでも、この男が無条件で私を不倫女だと信じ込み、私の持つ証拠を完全に無視しているのは、彼が狂ったように愛している川瀬以外の誰でもないだろう。記憶が過去へと遡る。生臭い学校のトイレで、鮮やかな笑みを浮かべた少女が私の前を塞いでいた。「西村をじろじろ見たり、狙ったりしないで。私から何かを奪おうとすると、死んじゃうかもしれないよ」私は鼻で笑った。なんて寛大な男なんだ。愛する人が他の男とラブラブできるように、ここまでやるなんて。私は手をついて身を起こし、彼を見上げた。「私が死ななければ、いつかこの痛みを何倍にもして川瀬に返してやる」彼の顔が険しくなり、大股で近寄ると、私の頭を掴み、力強く壁に叩きつけた。視界が血で染まれたが、笑いが止まらなかった。
病院の病室で、少女がベッドに横たわるまだ若い女性の手を握り締めていた。「すずめ、お母さんの代わりに、ちゃんと幸せに生きるのよ」突然、目が覚めた。夢の中の光景はぼんやりとしているが、消毒液の匂いだけは何年経っても鼻をつくほど鮮烈だった。全身の血と汚れを丁寧に洗い落とし、頭の傷も簡単に処置した。水に触れたせいか、どこかが感染したのだろう。夜になると高熱が体を襲った。ひんやりした手が額に触れた瞬間、私は急いでその手を掴んだ。まるでそれだけで楽になれるような気がして。だが、その手はすぐに振り払われた。ぼんやりとした意識の中で、水とともに何か粒状のものが口に入れられた。私は楽になれる何かをひたすら求めていた。朦朧としたまま、何か柔らかいものに腕を回した。それはまるで子供の頃に抱いていたぬいぐるみ「シー」のようだった。ただし、ひどく冷たい。鼻先をそれに擦りつけたが、あの頃の柔らかさはなく、突然木板のように硬直した。どうして全部変わってしまったのだろう。何もかもが違ってしまった。急に鼻がツンとし、泣きたいのに涙は蒸発してしまったかのように出てこなかった。「シー、痛いよ……あなたも私を見捨てるの?」眩しい光で目を覚ました。目に飛び込んできたのは、薄暗く湿った部屋ではなく、清潔で明るい空間だった。窓から暖かな黄色い日差しが差し込み、外には青々とした木々が見える。何か月ぶりかに目にする光景だった。どうやらここは屋敷の二階にある客室らしい。向かい側にはあの男の部屋があるようだ。腕には点滴が刺さっており、熱はもう引いていた。テーブルに置かれた食べ物を手に取り、貪るように食べた。私はもう死のうとは思わない。苦しむべきなのは私ではないのだから。夜になり、ようやく男が帰ってきた。私はベッドに寝転び、顎に手を置きながら彼がテーブルを片付け、点滴の針を抜くのを見ていた。その後、彼に引き起こされて傷の手当をされた。昨日は私の言葉に激怒していたはずの彼が、今日は何事もなかったかのように振る舞っている。いや、何かあったのは私のほうだ。彼の手際があまりにも熟練しているのに気づき、不思議に思って尋ねた。「医者の勉強をしたことがあるの?」彼は何も言わず、私を無視するつもりらしい。「医者
「何してる?」背後から突然声がして、思わず飛び上がった。男がいつの間にか現れ、陰鬱な目で私を見下ろしていた。ちっ、逃げたわけでもないのに、そんなに怒る必要ある?そう思いながら、少し意地悪な気持ちで尋ねた。「これ、川瀬を描いたんでしょ?私が壊すのが怖いの?」「出て行け!」案の定の反応だった。翌朝目が覚めると、いつの間にか足首に鉄鎖がかけられていた。まあ、少なくともテレビで見るような手足も縛られるではなかった。ただし、やたら短いせいでトイレに行くのが大変だった。そこで、「もう少し長いのに替えて」と申し出たところ、次に目が覚めた時には本当に長い鎖に替わっていた。その時ようやく気づいた。自分がこの屋敷から出て行こうとせず、川瀬の悪口を言わなければ、この男も手を出してこない。しかも一定の範囲内なら、こちらの要求を聞いてくれる。この微妙なバランスに気づいてから、私は外に出る気をなくした。どうせ逃げられるわけでもないし、両親もいない今、外の世界に未練なんてもう何もない。男が帰ってくる時間はいつも不規則だったが、帰ると大抵部屋で絵を描いていた。鉄鎖をつけられてからは、彼はもう部屋の鍵をかけなくなった。読書に疲れると、本を持って部屋のドアにもたれながら、彼が絵を描く様子を眺めた。花鳥風月、海や草原――彼の筆は一振りでそれらを紙の上に鮮やかに描き出した。しかし、人を描く時はいつも同じ人物――川瀬。けれど、不思議なことに、彼女の顔はなぜか描かれていないことが多かった。私はつい口を開いた。「名前、なんていうの?」彼は聞こえないふりをしていたが、しばらくしてようやく答えた。「森本順平」「なんだそれ、ダサすぎる」そう言った後の私は、毎日のように屋敷で彼を呼びつけるようになった。「森本、料理がしょっぱい!次から塩を控えてよ」「森本、毛布が厚すぎる!薄いのに替えて」「森本、西町の限定ケーキが食べたい!早く買ってきて」「森本……」川瀬に関係ない話になると、この男、案外何も怒らないらしい。いつの間にか森本は、一日の大半を屋敷で過ごすようになった。一緒に碁を打ったり、穏やかに食事をしたり、映画を見ながらいつの間にか寝てしまったり……気がつけば、穏やかな時間が流れ
森本がふらふらと部屋に入ってきた時、彼の周りには濃厚な酒の匂いが漂っていた。酔っ払いの男は怖い。私は自分から距離を取った。だが、面倒事はこちらから避けてもやってくるものだ。息を殺して寝たふりをしていると、彼がすぐそばまで近づいてきたのを感じた。彼の体温が伝わってくる。「あの時、俺を助けてくれたのは……お前だよな?」森本の声は驚くほど冷静で、酔いの気配など微塵もなかった。私の心臓が一瞬止まりそうになった。何も知らないふりを装い、「何のこと?さっぱりわからない」と答えた。彼がスマホの画面をこちらに向けて投げてきた。画面にはある少女の写真が映っていた。片側に三つ編み、耳元には大ぶりな白い椿を挿した少女。その顔は、私の顔と重なっていた。実際、初めて彼の顔を見たあの日から、彼は誰なのか気づいていた。高校2年のある日、友達と廃れた公園に写真を撮りに行く約束をしていた。何時間もかけておしゃれをして、家を出る直前、祖父が庭先の椿を摘んで私に渡し、「自分の身を大事にな」と繰り返し言ってきた。遊びに行くことに浮かれていた私は、祖父の異変に気づけなかった。友達と合流する途中、隣家の人から電話がかかってきた。「早く帰ってきなさい、最後に会えるかもしれない」私は頭が真っ白になり、急いで走り出した。その途中、川で水音が聞こえた。振り返ると、水の中で何かがもがいている。ある男が溺れているようだった。もがく音は小さく、彼の体力が尽きかけているのがわかった。周りを見渡しても誰もいない。私は内心で葛藤した。一方は人の命、もう一方は私をずっと愛し、育ててくれた唯一の家族――祖父。迷った末、私はどうしても見過ごすことができず、川に飛び込んで彼を助けることを選んだ。流れが思ったよりも急で、力を振り絞ってようやく彼を岸まで引き上げた頃には、体力はほぼ尽きていた。泣きながら意識を失った彼に応急処置を施した。祖父の命が危ないと知りながらも、彼を見捨てて家に帰ることができなかった。どれほどの時間が経ったのかわからない。彼がようやくむせるように水を吐き、目を微かに開けたと思ったら、また気を失ってしまった。彼が助かると確信した私は、救急車を呼ぶことも忘れて急いで家に帰った。しかし、祖父は最後の一息を私が帰るのを待
部屋に一週間閉じこもった。欲深い叔父の一家は祖父の財産を奪い取ると、私を学校へ追い返した。席が隣のクラスメートは私の家の事情を知っており、元気づけようと色んな面白い話をしてくれた。「うちのクラスの川瀬が、中学2年生の男の子を溺れそうなところから助けたんだってさ!学校と市から表彰されて、今大注目の人だよ」彼女の勇敢な行動はたちまち広まり、一躍ヒーローになった。聞けば、その少年の父親はもう子ども増えたくないと言っていて、後妻が地位を固めるために子どもを連れて遊びに行くふりをし、川に突き落として事故死を装ったらしい。ルームメイトは「世も末だ」とため息をつく中、私は関連する報道記事を開いた。現場写真に映っていたのは、同じ場所、そして同じ少年だった。川瀬は、私が助けた功績を横取りしたのだ。祖父の最期に間に合わなかったのは彼のせいではない。でも、私はどうしても彼を嫌わずにはいられなかった。だから、何事もなかったかのように無視することにした。その後、彼が川瀬をつけ回しているのを知り、私はますます真相を彼に知らせるべきではないと確信した。誘拐された後、彼は自分が助けた少年だとわかったとき、私の心はもう氷のように冷たくなっていた。ましてや、この人の愛は、憎しみよりも恐ろしかった。だから、私は何も言うつもりはなかった。あの絵を見ても、私の考えは変わらなかった。ところが、思いがけず、彼は私のスマホからあの写真を見つけてしまった。彼は私を睨みつけた。「まだ俺を騙すつもりか!当時、かすかに見えた椿と辮髪を覚えている。でも、俺は彼女じゃないと言ったのに、周りのみんなが彼女だと言うから、自分の記憶を疑って、無理やり納得しようとした。けど、夢に出てくる顔は一度もはっきりしていなかった」彼がこんなに傷ついた表情をするのを見たのは初めてだった。「この写真を見て、確認するのが怖くなった。本当に俺を助けてくれたのが君だったとしたら、俺が傷つけたのが君だったとしたら……」彼は出所して一人暮らしをしている後妻のもとへ行き、ガソリンをかけ、ライターで脅して真実を吐かせたらしい。彼は私を抱きしめ、その顔を私の首筋に埋めた。「鳴海、俺はずっと君を待っていた。でも、君はこんな状態になるまで何も言わなかった。俺がそんなに
二人は全力で戦い、まるで相手を殺さない限り戦いを止めないかのようだった。部屋は荒れ果て、壁には血痕が付いていた。森本は最初に受けた一撃が重すぎて、徐々に西村に劣勢になり始めた。街の警笛が遠くから近づいてきた。二人はベットの横まで戦い続け、西村は必死に拳を振り下ろして森本を窓の外に押し出した。森本は窓枠を掴み、左腕が折れていた。彼はもうそのまま掴み続けることができなかった。西村が彼の手を引き離そうとした瞬間、私は引き止めた。西村の目は血走っていた。「何をしてるんだ!彼があんなにお前を傷つけたのに、なんで助けるんだ?まさか、もう彼を愛してしまったのか?」私は力が足りず、森本の手を引きながら血管が浮き出た。「彼が犯した罪は裁判で裁かれるべきだ。もしみんなが手を出して復讐したら、法律は一体何のためにあるんだ?それに、今彼はもう私たちを傷つける力はない。もし彼を突き落としたら、それは正当防衛ではなく、故意の殺人になるんだ、わかるか?」最終的に私たちは森本を引き上げた。手錠をかけてパトカーに乗せた時、森本は奇妙な笑みを浮かべながら言った。「鳴海、待っててくれ」その瞬間、彼を助けてしまったことを後悔した。彼が出所後、また戻ってくる気がした。悠真が最初に異変に気づいた。彼はこっそり覗きに来ようと思っていたが、私が定時に帰らないことに気づき、家の近くでよく見かけた黒い帽子の男を思い出して、急いで西村に連絡した。私は感謝し、荷物をまとめて海外へ行く準備を始めた。森本は私を放っておかないだろうし、海外の先進医療技術はのぞみの病状にも有利だ。出発の日、早朝、空港で待機していた。従姉と新しく交際している彼女が一緒に見送ってくれた。普段はしっかりしている彼女が、こっそり涙を拭っていた。その後、西村父子も空港に来て見送ってくれた。西村は私に聞いた。「向こうへの準備は全部整っているか?」私は頷いて、あまり言いたくなかった。「気をつけて」彼はそれ以上言うことはなかった。悠真は西村を見て、彼がどれだけ上手に装っているかを感じ取っていた。昨日は酔っ払ってトイレに抱きついて寝ていたのに、今日は完璧に振舞っている。でも、目の下のクマは隠しきれなかった。悠真は涙を堪えながら言った。「お母さん、向こうで写
帰宅後、私はいつも通りの生活を送っていた。たまに遠くから私を見に来る悠真を除けば。突然、緊急の撮影案件が入ったので、私はのぞみをビル下のカフェのオーナーに預けることにした。撮影が終わりかけた頃、オーナーから電話があり、のぞみがいなくなったと言われた。すぐ探し回ったが、最後に、もしかしたら家に帰ったかもしれないと思い至った。鍵がないから、きっと外で私を待っているのだろう。急いで家に向かったが、扉の前には誰もいなかった。その瞬間、胸がギュッと締め付けられるような気がした。その次の瞬間、部屋からのぞみの楽しそうな笑い声が聞こえた。私は急いでドアを開けて中に入った。のぞみは確かにいたが、彼女の前に黒い帽子をかぶった男が膝をついていた。男は背を向けていて、私は一瞬硬直して動けなくなった。のぞみは私を見て、嬉しそうに駆け寄ってきた。「ママ、このおじさんとてもおもしろい!私たちと一緒に住んでもいい?」私は慌ててのぞみを後ろに引っ張った。男はゆっくり立ち上がり、顔をこちらに向けた。その瞬間、私の悪夢に日々現れていた顔がそこにあった。森本は死んでいなかった。彼は私を見て、ニヤリと笑いながら言った。「鳴海、久しぶりだな、ようやく見つけたぞ」三年前の悪夢が続く。私はベッドに縛られ、森本はのぞみを抱いて遊んでいた。私は恐怖に震えながら言った。「森本、自首しなさい。いつまで逃げ続けるつもりなの?」彼はまるで聞いていないかのように無視した。「これは私たちの子だろ?本当に可愛いな。お利口な娘だ、パパに挨拶しようか」のぞみが危険に遭うのを恐れて、私は彼に真実を伝えることができなかった。「自首すれば刑が軽くなる。これ以上固執しないで!」彼はまた何も聞いていないようで、笑いながら言った。「二人とも、きっとお腹が空いているだろう。ご飯を作ってくるよ」森本はのぞみを連れてキッチンに向かうと、私はひそかに手を動かして縛られた紐を解こうとした。突然、視線の端で階段の方に誰かの気配を感じた。振り向くと、そこには西村が立っていた。急に思い出した。上の窓を閉め忘れていた。彼はその窓から入ってきたのだ。彼は静かに私の手を解き、私は物置から従姉が置いていたバットを取った。その時、森本がラーメンを持って部屋に入って
のぞみは治療の結果、大事には至らず、夜には退院できることになった。学校からの通知を受けて、午後には西村が病院に到着していた。私はガラス越しにのぞみを見守っていた。「西村、私たちはもう別れたんです。私は悠真の母親ではないので、悠真の教育に干渉することはありません。でも、あなたが父親として、彼の習慣や認識を正さないのであれば、今日のようなことはまた起こるかもしれません」西村はスーツを着ていたが、どうやら急いできたようで、着替える暇もなかったようだ。若い頃、彼はTシャツを着ている姿だけで、私は目を離せなかった。しかし今は、どんなに格好良く見えても、もう一度も彼を見ようとは思わない。愛と無関心は、時に非常に明確だ。彼は私の言葉に答えず、静かに尋ねた。「本当に戻らないのか?」「戻る場所はありません。私は自分の家、そして自分の家族がいます。今後、私たちには交わることはありません。西村さん、どうかあなたの息子が私と再び出会う機会を作らないでください」その後、私は病室に戻り、のぞみの元へ向かった。夏令営の引率の先生が、私を少しでも安心させようと教えてくれた。実は悠真のお父さんがこの撮影を提案し、私たちの写真スタジオを推薦したということだった。それを聞いて、私は西村が悠真を使って、私の心を和らげようとしたことに気づいた。翌日、撮影は予定通り進行した。子どもたちはロボット館に集まり、名門の先生たちがロボットの原理やデザインなどを指導していた。「悠真くん、カメラばかり目を向けないで」先生に注意され、私はそちらを見ることなく仕事に集中した。最初から撮影が始まるまで、悠真はもう私を呼ぶことはなかったが、無意識に私を見続けていた。私はずっとそれを無視していた。悠真は私を見続けることはやめた。ただロボットの組み立てを続けていた。彼はとても賢く、いつも最初に完成し、しかも、類推する力が抜群で、他の人よりもかなり速く進んでいた。彼が私に気づいて欲しくて、自慢させて、わざと目立つようにしていることがわかっていた。昔のように泣くことはなくなり、顔にはどこか寂しげな表情が浮かんでいた。悠真を嫌っているわけではない、ましてや憎んでいるわけでもない。彼は私が幾度の妊娠の苦しみと流産の危機を乗り越えて産んだ子だから、血は繋がって
私はA市を離れ、B市で新しい生活を始めた。そこで偶然、家出中の反抗期真っ只中の従姉に出会った。私たちは子どもの頃から写真が好きで、その趣味を共有していたこともあり、関係は良好だった。一緒に暮らし始めると息もぴったり合い、共同で写真スタジオを開業することにした。独特なスタイルとセンス、そして幼い頃から培った撮影技術のおかげで、スタジオは次第に人気を集め、小規模ながらも名前が知られるようになった。やがてスターの雑誌撮影の仕事も入るようになった。一生このように平穏に暮らしていくのだろうと思っていたが、ある朝、赤ん坊を拾ってしまった。その赤ん坊は先天性心疾患を抱えており、捨てられていたのだ。私は彼女を養子に迎える手続きをし、「鳴海のぞみ」と名付けた。たぶん体が弱いからだろう、のぞみは生まれたときからとてもおとなしかった。3歳になる頃にはまるで小さな大人のようで、手がかからない子だった。彼女の病気のために無数の病院を駆け回り、たくさんの苦労をしていることを感じ取っているのだろう。だからこそ特別に私の言うことをよく聞いた。それがまた、私の胸を締め付けた。仕事中、のぞみはいつも私たちのそばで静かに座っている。大人たちは彼女をかわいがり、いろいろな美味しいものを持ってきてくれる。ある連休、ある小学校から、科学キャンプのドキュメンタリーを撮影してほしいという依頼が来た。その学校はお金持ちの子どもたちが通う名門学校で、今回のキャンプには学校の成績トップ10の生徒たちが参加しているという。撮影がそれほど複雑ではなかったため、私たちはのぞみも一緒に連れて行くことにした。科学館の隣にあるホテルに泊まり、昼食後、館内を散策することにした。のぞみは中の展示物に興味津々で、私の手を引っ張りながらあちこち見て回った。ちょうどドローンの展示を見ているとき、不意に大きな声で「ママ!」と呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、少し離れたところに悠真が立っていた。興奮した表情で私を見つめているが、近寄って来ようとはしない。彼のそばには、同じ服を着た子どもたちが数人いた。それは今回のキャンプに参加している生徒の制服だとすぐに分かった。瞬間、周囲の視線が一気に集まった。3年の間に、悠真はずいぶん背が伸びていた。のぞみが私の
「7号のベッドの患者さん、本当に運が良かったわね。ただ、これからはもう子どもを産むことができないなんて、かわいそうに」窓の外から車のクラクションが鳴り響き、私はその音で目を覚ました。隣の布団が動き、その中から小さくて可愛らしい頭がひょっこり顔を出した。「外、うるさい。ママ、抱っこして一緒に寝て」子どもの柔らかい声が愛らしい。私は彼女を抱きしめ、そのままベッドに寝続けた。どうして突然三年前の出来事を夢に見たんだろう。川辺で倒れた私が見つかったのは、それから間もなくのことだった。警察が信号が消えた場所から川沿いを捜索し、ついに私を発見したのだ。その川は下流で他の川と交わり、いくつもの方向へ分岐しながら勢いよく流れていた。警察は森本の遺体を探して半月以上も捜索を続けたが、結局発見されなかった。私は病院に運ばれたものの、古傷が癒えぬうちに新しい傷が重なり、さらには流産も重なった。救急室で5、6時間の処置を受け、一命は取り留めたものの、子宮が深刻に損傷し、二度と子どもを産むことはできなくなった。警察の捜査で、川瀬が森本を教唆し私を誘拐させたことが判明し、彼女は逮捕された。それだけでなく、彼女が高校時代に同級生をいじめ、さらに誤ってその生徒を階段から突き落とし死亡させた事件も明るみに出た。その生徒は隣のクラスの目立たない存在だった。当時、彼女の突然の転落死は学校中を震撼させた。まさかあれが事故ではなく、彼女の手によるものだったとは。病院のベッド脇にやってきた西村と息子の悠真は、私に謝罪し、許しを請うた。だが、世の中には許そうと思っても許せないことがある。警察が川瀬の家のパソコンから数々の動画を発見した。彼女は森本の部屋に隠しカメラを設置しており、私が拷問される映像をこっそり何度も楽しんでいたらしい。西村父子もその映像を見た。そこでようやく、川瀬がどんな人間かを知り、私がどれだけ非道な仕打ちを受けていたかを理解したのだった。ただ、それでも私は思う。西村はそれでも彼女を愛しているのだろうと。彼がどんな人を愛しても、私を愛することはない。だが、今となってはそれもどうでもいい。退院後、私は西村家に戻り、自分の荷物をすべて持ち帰った。離婚の手続きは不要だった。当時、西村の母は私の身寄りのない境遇や出自の低さを嫌が
電話が突然繋がり、耳に届いたのは西村の馴染み深い声だった。「もしもし」私は彼を呼んだ。「西村」六年の夫婦生活を経て、彼はすぐに私の声を認識した。「鳴海、お前なのか、鳴海?」その声の後に、慌てて走る足音が聞こえた。「ママ、僕は悠真だよ、どこにいるの?悠真、ずっと待ってたんだ」赤ちゃんの頃から言葉を覚え、今まで、何度も「ママ」と呼ばれるたびに、生きる力を感じてきた。けれど今、それを聞くのがもう嫌になった。西村はすぐに怒りを露わにした。「お前、子供か?行方不明なんて、息子がどれだけ心配してるか分かってるのか?早く帰ってこい、そんな駄々はもう通らな……」その言葉が終わる前に、私は彼を遮った。「西村、息子が一番好きなあの女をママにすればいい。私はもうなりたくないし、ならないんだ」今度は、私があなたたち父子を捨てる番だ。電話の向こうで、私の決意を感じ取った彼は焦った様子だったが、それでも強がった。「そんなことを言うな、戻ってこい。俺と川瀬には何もないんだ、もう騒ぐな!」見てよ、彼はなぜ私がこんなにも怒り、失望しているのか理解しているはずなのに、それでもまだ無理に弁解しようとしている。「さよなら」私は電話を切った。その直前、電話の向こうで、西村が慌てて私の名前を呼び、悠真が泣きながら息を切らす声が聞こえた。私は立ち上がり、川のほとりに向かった。夏の時期は土砂降りが多く、川の水は流れが速かった。私が何をしようとしているのかを察した森本は、飛び込んできて私を引き止めようとした。しかし、私が地面を離れるその瞬間、森本の手を掴んで、彼も一緒に水に引きずり込んだ。溺れて以来、森本は川に対して本能的な恐怖を抱いていた。一方で、私が囚われ傷つけられたときに味わった苦痛と恐怖を、この方法で彼にそっくりそのまま返してやった。あの日、彼を水の中から救った。その因果が今日、私の手で断ち切られることになった。水の中に落ちて、私は彼の手を振りほどき、すぐに私たちは流れに流され、もうお互いを見ることはできなかった。水流が速くて、私は泳ぎ上がることができなかった。結末は予測していた。でも諦める前に、神様が私に一縷の希望を与えてくれた。流れに任せているうちに、大きな岩にぶつかり、私は必死でそれにしがみつき、どうにか這
吐き気が胸から込み上げてきて、急いでトイレに駆け込んで吐いた。その瞬間、体全体に冷たい震えが走った。同じ症状、五年前にも経験したことがある。その時はちょうど卒業を控え、西村との関係が確認されたばかりだった。その後、森本も気づいたようだ。計算してみると、その夜から今まででおおよそ二ヶ月が経過している。彼は非常に喜び、病院には行けないからと妊娠検査薬を買ってきた。結果は何度も繰り返し、八本か九本の検査薬の全てで二本線が浮かんだ。私はなかなか外に出ることができなかった。森本は以前よりもさらに気を使って私の世話をしてくれた。様々な食材を買い込み、スープを煮たり、毎日の料理を変化させたりしてくれた。赤ちゃん用品もたくさん選び、洋服やおもちゃも準備してくれた。毎晩寝る前にはお腹に耳を当てて、赤ちゃんの動きを感じようとした。私は思わず言った。「こんなに小さいのに、何も動かないね」彼は目を輝かせて言った。「時間が経てば必ず聞こえるようになるよ」私は唇の端を引き結んで、「そうだね」と答えた。しかし、彼はもう動きを感じることはできなかった。私はこの子を待ち望んでいるかのように振る舞い、彼と甘い育児の日々を夢見て計画していた。最初からずっと彼の警戒心を解かせ、チャンスを見つけて逃げるつもりだった。だが、あの夜の出来事が私の計画を狂わせた。それは災いでもあり、幸運でもあった。この子ができたことで、彼は私が何かしらの繋がりを持っていると思い込み、警戒心が少し和らいだようだった。ついにチャンスが訪れた。その日、彼がシャワーを浴びている間、私は彼のスマホで警察に通報し、位置情報を開いて、隠していた扉の鍵も見つけた。扉を開けると、光が一気に差し込んできて、自由の匂いがした。道が分からず、ただ闇雲に走るしかなかった。どれくらい走ったのか分からないが、ある川のそばで立ち止まり、休むことにした。お腹が目立ち始め、赤ちゃんができているとすぐに疲れてしまう。ふとスマホを思い出し、急いで開いた。警察には連絡できたが、それ以外に誰に連絡すればよいのか分からなかった。突然、遠くから足音が聞こえた。男性の大きな影がゆっくりと近づいてきている。彼はもう追いかけてきた。私はもう逃げられないと知
「後悔するな、後悔するな!」心の中で何かが崩れ落ちるような音がした。彼は必死に首を振った。しかし、突然何かを思い出したように言った。「あの男を忘れられないんだろ?必死になって、彼に会いに戻ろうとしてるんだろう?あのガキも、お前の愛は全部あいつらに注いだ。何でだ?あいつらはお前を大切にすることもないのに!」彼がだんだんと奇妙なことを言い出すのを見て、私は少し冷静になろうと思い、立ち上がってその場を離れようとした。だが、体を起こした瞬間、突然押し倒された。恐怖が波のように押し寄せてきた。酔った男は力が強く、私の抵抗はまるで蚊の羽音のようだった。窓の外では雷が鳴り、激しい雨が窓を叩いていた。その夜は、混乱と苦痛の中で過ぎていった。朝が来ても、私はそれを忘れようとしたが、無駄だった。その後、森本は数日間姿を見せなかった。しかし、再び現れたとき、彼は花束を持ち、指輪を差し出して結婚を申し込んできた。私はただただ気持ち悪く感じた。彼の愛はこんなに安っぽいのか。誰かに助けられると、その相手を愛するのか。それからの日々、私は死んだように生き、彼は食事も風呂も何もかも細かく世話してくれた。彼を叩いたり怒ったりしても、彼は一切怒ることなく、ただ優しく、そして気を使いながら接してきた。あの時、私を引きずり込んだ時の彼とは別人のようだった。私は一言も発さず、時には壁の隅で夜を明かすこともあった。彼も毎晩一緒に私のそばで過ごしてくれた。短期間で、私は目に見えて急速に痩せていった。ある日、私が茶碗のかけらで手首を切ろうとしたのを見た彼は、狂ったようにその手を奪った。何かが私の手の甲に滴り落ち、私は無表情で彼を見上げた。彼の暗い瞳の中には涙が溜まり、必死にそれをこらえているのがわかった。森本が泣いている?彼にも心の痛みを感じることがあるのか?明らかに彼は誘拐犯だった、数ヶ月前、この場所で泣いていたのは私だったのに。彼は頭を垂れて、低い声で言った。「こんなに君を傷つけてごめん。でも、君を待ち続けたんだ。君が離れるのを受け入れられない」彼は左手を上げ、茶碗のかけらで自分の腕を切り裂いた。傷は深く、骨まで見えた。「これで少しは楽になるか?」赤い血が鮮やかに広がった。私は深く息を吸い、「やめて!」と叫んだ
部屋に一週間閉じこもった。欲深い叔父の一家は祖父の財産を奪い取ると、私を学校へ追い返した。席が隣のクラスメートは私の家の事情を知っており、元気づけようと色んな面白い話をしてくれた。「うちのクラスの川瀬が、中学2年生の男の子を溺れそうなところから助けたんだってさ!学校と市から表彰されて、今大注目の人だよ」彼女の勇敢な行動はたちまち広まり、一躍ヒーローになった。聞けば、その少年の父親はもう子ども増えたくないと言っていて、後妻が地位を固めるために子どもを連れて遊びに行くふりをし、川に突き落として事故死を装ったらしい。ルームメイトは「世も末だ」とため息をつく中、私は関連する報道記事を開いた。現場写真に映っていたのは、同じ場所、そして同じ少年だった。川瀬は、私が助けた功績を横取りしたのだ。祖父の最期に間に合わなかったのは彼のせいではない。でも、私はどうしても彼を嫌わずにはいられなかった。だから、何事もなかったかのように無視することにした。その後、彼が川瀬をつけ回しているのを知り、私はますます真相を彼に知らせるべきではないと確信した。誘拐された後、彼は自分が助けた少年だとわかったとき、私の心はもう氷のように冷たくなっていた。ましてや、この人の愛は、憎しみよりも恐ろしかった。だから、私は何も言うつもりはなかった。あの絵を見ても、私の考えは変わらなかった。ところが、思いがけず、彼は私のスマホからあの写真を見つけてしまった。彼は私を睨みつけた。「まだ俺を騙すつもりか!当時、かすかに見えた椿と辮髪を覚えている。でも、俺は彼女じゃないと言ったのに、周りのみんなが彼女だと言うから、自分の記憶を疑って、無理やり納得しようとした。けど、夢に出てくる顔は一度もはっきりしていなかった」彼がこんなに傷ついた表情をするのを見たのは初めてだった。「この写真を見て、確認するのが怖くなった。本当に俺を助けてくれたのが君だったとしたら、俺が傷つけたのが君だったとしたら……」彼は出所して一人暮らしをしている後妻のもとへ行き、ガソリンをかけ、ライターで脅して真実を吐かせたらしい。彼は私を抱きしめ、その顔を私の首筋に埋めた。「鳴海、俺はずっと君を待っていた。でも、君はこんな状態になるまで何も言わなかった。俺がそんなに