福原紀行は結局、私に会うことはできなかった。祖母は低く静かな声で言った。「雪乃ちゃんが言ったんだよ……『二度と紀行には会いたくない』ってね。だから、私はその約束を守る」福原紀行はすべての肩書きと権力を失っても冷静さを保っていた。しかし、この瞬間、彼はついに壊れた。彼の視線は安置された私の亡骸に向けられ、仏間へ飛び込もうとした。だが今回は、福原炎だけでなく、そこにいたすべての福原家の人間が福原紀行を押さえ込み、地面に叩き伏せた。福原炎は福原紀行の顔を睨みつけ、声を震わせて叫んだ。「雪乃!お前は死んでなんかいない!絶対に死んでない!お前に死ぬことを許していない!どうしてだ!お前が死ぬなんて、そんなの許せるわけがないだろう!」その瞬間、祖母が福原炎の頬を力強く叩いた。「何を言っているんだ!」祖母は福原炎を睨みつけながら怒りを押し殺すような声で言った。「彼女は人間よ。独立した、ひとりの人間よ。誰かの所有物なんかじゃないわ!あんたは福原家を継ぐために愛しているふりをした。自分の不満を隠して、彼女を騙した。それで十分だと思っていたんでしょうね!でも彼女はあんたを本当に愛していた。だからあんたの異常な振る舞いも、理不尽な扱いもすべて耐え抜いたわ。でも、彼女はもう死んでしまった!あんたのために、死後まで何を耐える必要があるっていうの!」祖母は冷たく言い放った。「警察が外で待っている。これ以上は、檻の中でじっくり考えるんだね」福原紀行は地面に伏したまま、充血した目を祖母に向けた。その瞳には哀れな執着が浮かんでいた。その時、江野遥が福原紀行にすがりつき、泣き叫びながら懇願した。「お願いです、お祖母さま!紀くんはあなたのたった一人の孫です!どうか、彼を許してあげてください!」彼女は福原紀行の手を掴み、必死に訴え続けた。「紀くん!お祖母さまに謝って!家族なんだから、謝ればきっと許してもらえるわ!」しかし、彼女の言葉が終わらないうちに、福原紀行は彼女を冷たく振り払い、怒声を上げた。「黙れ!お前なんかただの汚い犬だ!」江野遥はその場に立ち尽くし、信じられないという表情を浮かべた。――これが、彼女が福原紀行から初めて私と同じ扱いを受けた瞬間だったのだろう。江野遥は口元を押さえ、涙を浮かべながらも震えていた。そ
深夜、月明かりが冷たく肌を刺す中、疲れ果てた体でようやく家にたどり着いた私がまず目にしたのは、玄関の女主人の場所に無造作に置かれた江野遥のハイヒールだった。江野遥がこの家を訪れるのはこれが初めてではない。3年前、彼女が福原グループのシニアパートナーになった頃から、「仕事の話」を理由に頻繁に出入りしていた。早朝だろうと深夜だろうと、たとえ外が土砂降りでも、彼女の「仕事熱心」を止めるものは何もなかった。最初のうちは、私も福原紀行に抗議したことがある。しかし、彼は私に向かって冷たく言ったのだ。「会社が稼いでいるおかげで、お前みたいな何もしない人間が楽して暮らせるんだぞ」それ以降、私がまた文句を言えば福原紀行は口をきかないまま、何日も私を無視するのが常だった。最終的には私が折れて謝るしかなかった。あの頃、私はまだ福原紀行を愛していた。だから自分を納得させていたのだ。しかしその結果が、今私の手にあるたった二百グラムの骨壺だった。皮肉な笑みを浮かべながら家に入ると、目に飛び込んできたのは、福原紀行と江野遥が新婚生活のために私が用意したソファで熱いキスをしている姿だった。薄暗い照明の下、江野遥の白い頬は赤らみ、酔いしれて福原紀行にだらしなくもたれかかっていた。私が家に入ると、福原紀行はまず私が抱えている骨壺に目をやり、それから江野遥をそっと押し離し、丁寧にソファに横たえた。そして、こう言った。「どうやら本当に死んだようだな。演技じゃなくて」福原紀行は目を伏せたまま、上から目線で私を見下ろしていた。声色は一見すると慰めのようだが、その言葉には苛立ちが透けて見えた。「まだ足りないのか?わかったよ。言ってやるよ。俺は後悔してる」彼を見つめたまま、私は呆れたように笑った。母が倒れたあの時、彼は「ただの芝居だ」と言い切り、「本当に死ねばいい」とまで吐き捨てた。そして、結婚式を続行するよう命じたのだ。今、母は彼の望み通り本当に死んだ。それなのに、こんな口調で「後悔してる」と言われても、笑うしかなかった。本来なら――今日は私にとって一生に一度の、最も幸せな日となるはずだった。20年想い続けた幼なじみとついに結婚できる日だったからだ。そのうえ、私は福原紀行にもう一つのサプライズのプレゼントを用意していた。福原紀行は精
福原紀行の力は圧倒的だった。母の骨壺を奪い取られ、「雑種犬」などと呼ばれる犬を入れる道具にされそうになったその瞬間、私は咄嗟に彼の手首に噛みついた。生臭い血の味が口いっぱいに広がり、吐き気が込み上げる。「このクソ女!」福原紀行の顔が怒りで歪み、次の瞬間、私の頬に強烈な平手打ちを食らわせた。その衝撃で床に倒れ込みながら、母の骨壺を必死に抱きしめる。だが、後頭部がテーブルの角に激しくぶつかり、痛みで目の前がぐらついた。「紀くん!」江野遥が慌てて福原紀行の手を取り、傷口を心配そうに見つめた。だがすぐに顔を曇らせ、私を睨みつけるとこう言った。「雪乃ちゃん、なんで紀くんを噛むの?あんたのことを本当に大事にしてるのよ?骨壺なんて、紀くんならもっといいものを用意してくれるに決まってるじゃない!」血の滴る顔で、私は震える体を支えながらゆっくりと立ち上がった。母の骨壺を抱きしめるその手には、私の血がじわりと染み込んでいた。生前、母は私を誰よりも大切にしてくれた。でも、一番大切にしていたのは――目の前の福原紀行だったのかもしれない。「大事にしてるですって?結婚式で新婦をすり替え、母を怒り死させておいて、それが“大事にしている”って言えるの?」私は唇を震わせながら、福原紀行に向けて言い放った。「忘れたとは言わせないわ!母がどれだけあなたに尽くしたか。当時、火事の中に飛び込み、全身を焼かれる覚悟で7歳のあなただけを救い出したのはうちの母よ!今の私はただ出て行きたいだけ。それ以上何も望まない。だから――邪魔しないで!」「もういい加減にしろ!」福原紀行は怒りに燃えた目を見開きながら大股で歩み寄ると、私の首を掴んで壁に叩きつけた。喉を締め上げられる強い力に、息が詰まり、胸が押し潰されるような感覚に襲われる。でも、本当に息が止まりそうなほど苦しかったのは――福原紀行が吐き捨てた言葉だった。「雪乃!」福原紀行の五指がさらに力を込める。指の関節が白く浮き上がるほどだった。凶悪な表情でこう言った。「いつまでそのくだらない“恩”を持ち出して俺に文句を言うつもりだ?今のお前の生活じゃまだ足りないのか?」福原紀行は歯を噛み締めながら、低く冷たい声を絞り出すように続けた。「出ていきたい?どの面でそんなこと言うんだ!俺は後
私は血だまりの中で力なく座り込んでいた。全身が砕け散ったかのように激しい痛みに襲われていたが、何よりも痛むのはお腹だった。かつて小さな命を育んでいたその場所が、冷たい苦痛で私を締め付けていた。口の中から鉄臭い血がじわじわと溢れ出し、視界は涙でぼやけていた。私は震える手で母の骨壺を抱きしめながら、遠くに立つ福原紀行を見つめた。立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、何度も床に倒れ込んだ。震える手をお腹に伸ばそうとした瞬間、込み上げる血を抑えきれず、大量に吐き出した。その光景に驚いた江野遥は福原紀行の腕にしがみつき、怯えたような声を上げた。「雪乃!これは何の芝居だ?ほんの少し触れただけだろう!そんな死にそうな顔するな!」福原紀行は冷たい目で私を見下ろし、眉をひそめながらティッシュを取り出すと、自分の靴を丁寧に拭き始めた。江野遥は目を潤ませながらわざとらしい声で続けた。「紀くん!彼女、妊娠してるんじゃないの?見てよ、下からこんなに血が……気持ち悪い、うぇっ!」口元を押さえ、顔を背けながら嘔吐の真似をする江野遥。その演技があからさまだったにもかかわらず、福原紀行は疑うそぶりも見せず、彼女の肩を優しく撫でながらこう言った。「気持ち悪いなら見るな」そして再び私に向き直り、あからさまな嫌悪を浮かべて吐き捨てる。「こいつが妊娠?笑わせるな」彼は鼻で笑い、冷たく続けた。「もし妊娠してたら、真っ先に俺に見せびらかして、もっといい生活を要求してただろうよ」福原紀行の軽蔑が部屋全体を満たし、その視線には毒気が滲み出ていた。「こいつは……腹黒いんだ」その言葉が終わると同時に、腹部に激痛が走った。それは皮膚の奥深くをえぐられるような痛みで、内臓が捻じ切れるような感覚だった。まるでお腹の中の赤ちゃんが、必死に自分の存在を訴えているかのように。「コホっ、コホっ!」止まらない咳と共に、口から血があふれ出す。それでも私は口元を歪め、血に染まった唇で笑った。「ハハ……これは何だと思う?」震える手をポケットに伸ばし、赤ちゃんの命と引き換えに血に染まった妊娠検査報告書を掴む。それを震えながら福原紀行に差し出した。「これを見たら……私は出ていくわ。あなたたちが末永く幸せでいられるよう、祈ってる」福原紀行が一番欲しかったの
私は歯を食いしばり、必死に口を閉ざしていた。福原紀行は何度も私の頬を平手で叩き、激しい力で開けさせようとする。それでも開かないと見るや、両手で私の顎を掴み、力ずくでこじ開けようとした。福原紀行の胸は荒々しく上下し、怒りに満ちた声が室内に響き渡る。「さっさと口を開けろ!嫌なら今すぐ謝れ!遥に頭を下げろ!そして俺に言え、福原夫人でいたい、ここに残りたいってな!」口角が裂けるような痛みが走り、顎全体が福原紀行の力で引きちぎられるかのようだった。それでも私は、充血した目で福原紀行を睨みつけた。福原紀行は、私が本当に危険な状態だと気づいたのか、一瞬だけ目に迷いが浮かんだ。そして、顎を掴んでいた手をようやく離した。私は床に崩れ落ち、大きく息を吸い込む。全身の痛みに耐えながら、散らばった母の遺骨を震える手でかき集め始めた。その時だった。江野遥が窓を勢いよく開け放ち、軽い声で言った。「紀くん、ちょっと空気がこもってるわね。あなたの体には良くないでしょ?風を通すわ」彼女はそう言いながら、エアコンの換気モードを最大に切り替えた。「やめて!」私は全身の痛みを無視して叫び、必死に飛びかかろうとした。だがその瞬間、屋上から吹き込む突風とえエアコンの強風が室内を駆け抜けた。あっという間に母の遺骨は風にさらわれ、宙を舞って消えていった。床にはわずかに残った骨片がかすかに揺れているだけだった。江野遥はわざとらしく私に近づき、床に残った骨片をヒールで踏みつけた。そして、作り笑いを浮かべながら、首を傾げて言った。「あら、悪かったわね、雪乃ちゃん。ただ紀くんの体を心配してたの、まさかこんなことになるなんて」踏みつけた骨片が粉々に砕ける音が聞こえた。「本当にごめんなさいね、雪乃ちゃん。風が強かったから、全部吹き飛んじゃったみたい」目の前が真っ赤に染まり、胸の奥で怒りが燃え上がる。私は江野遥に飛びかかり、その首を両手で掴み締めた。「殺してやる!」江野遥の首を力いっぱい締め上げ、命を奪おうとする。だが、福原紀行が私を力任せに突き飛ばし、私は再び血だまりの中に叩きつけられた。「雪乃!」福原紀行は獣のような声で叫び、怒りに満ちた目を見開いて咆哮する。「もう我慢の限界だ!福原夫人の座が本当にいらないのか?」福原紀行の目は
私は死んだ。病院のベッドの上で、静かに命を終えた。福原家の祖母が私の枕元に伏し、涙ながらに私の名前を呼び続けていた。「雪乃ちゃん!どうしたの?しっかりして!」彼女の目は赤く腫れ、涙が頬を伝っている。声は震え、必死に私に語りかけてきた。「お願いだから、目を閉じないで!もう少しだけ耐えて。紀くんもすぐ来るわ!」でも、私は分かっていた。もう限界だと。福原紀行に蹴られて折れた肋骨は肺を突き破り、胸には大きな穴が空いたかのような痛みが広がる。息を吸うたび、肺から空気が漏れるような不気味な音がした。そして、お腹の中で失った赤ちゃん。命が絶えた小さな存在とともに、私の身体からは絶え間なく血が流れ続けていた。救急搬送の途中、病院の長い廊下には、私が流した血で真っ赤な線が引かれていた。それはまるで私が残した命の跡のようだった。ここまで持ちこたえられたこと自体が、奇跡に近かった。手術室から出てきた医師は、私の顔を見て一つため息をつくと、福原家の祖母に向かってそっと首を横に振った。「おばあちゃん……紀行に会いたくないの」私はか細い声でそう告げた。呼吸は浅く、瞼を開けていられる時間もどんどん短くなっていく。福原家の祖母は言葉を失い、しばらく黙った後、震える手で私の顔に触れた。彼女の皺だらけの顔に涙が次々とこぼれ落ちる。「……紀くんがやったのね?」私はもう声を出す力もなく、瞼を一度ゆっくり閉じることで答えた。福原家の祖母は私の手を握りしめ、急き込むように尋ねた「お母さんは?あなたのお母さんはどうしているの?紀くんを止めてくれなかったの?」「……母も……今日死にました」福原家の祖母の目が大きく見開かれ、その表情には信じられないという色が浮かび、次に押し寄せたのは深い悲しみだった。「お母さんが……どうして!」彼女はその場に崩れ落ち、すすり泣きながら呟いた。「あんなにいい人だったのに……仏様はどうして、彼女を長生きさせてくださらなかったのか!」私の母が福原紀行を大切にしてくれたように、福原家の祖母も私を福原紀行以上に大切にしてくれていた。その理由の多くは、実のところ母にあった。かつて福原家の祖母が火事に巻き込まれたとき、母は燃え盛る炎の中へ飛び込み、福原家の祖母を背負いながら福原紀行を抱えて助け出し
私は本当の意味で消えることができなかった。魂は空中を漂いながら、福原紀行の怒鳴り声が電話越しに響くのを、福原家の祖母――彼女が悲しみの中で誤って通話を繋いでしまうその瞬間を、見届けていた。「雪乃!どこに隠れてるんだ!犬みたいにこそこそ隠れて、俺を脅せるとでも思ってるのか!」福原紀行の声は一層荒々しくなる。「お前、まさか祖母のところに行ったんじゃないだろうな!お前が泣きつこうが何しようが、俺には何の影響もない!言っておくが、この家のことはもう俺がすべて決めるんだ!」福原家の祖母はその言葉に激しく動揺し、荒い息をつきながら後ろへよろめいた。胸元を押さえ、手にしていた携帯電話が床に落ちた。その鈍い音が部屋に響いた瞬間、福原紀行の怒りはさらに募ったようだった。「なぜ黙っている?雪乃!まさか……死んだのか?」その言葉を聞いたとき、私は彼に伝えたくなった。――そうよ、私は本当に死んだの。これであなたと江野遥は、ようやく一緒にいられるわね。「雪乃!さっさと返事をしろ!」福原紀行の声は怒りに満ちていた。そして彼は低い声で吐き捨てるように続けた。「お前が死んだって構わないが、子どもを産んでから死ね!」――子ども?その言葉を聞いて福原家の祖母は医師に視線を向けた。医師は一瞬戸惑いながらも、ため息をついて頷いた。「……彼女のお腹には子どもがいました。ただ……」医師は眉をひそめ、重い口調で続けた。「ただ、その子どもは強い外力によって体内で粉々になっていました。そして、彼女の身体には……靴の跡が残されていました……申し訳ありません。彼女も、お腹の中の赤ちゃんも助けることはできませんでした」医師の言葉が落ちると同時に、福原家の祖母の体が大きく揺れた。目に涙を溜めた彼女は、震える声で呟いた。「……靴の跡?まさか……」福原家の祖母はゆっくりと私の亡骸へ目を向ける。その目には、深い疑念と抑えきれない悲しみが浮かんでいた。「何の音だ?雪乃!どこにいる!」電話の向こうで福原紀行の怒声がまだ響いていた。しかし、福原家の祖母は震える体を支えながら、それに答えることなく、よろよろと歩み寄り、震える手で私のまだ微かに温もりの残る腹部に触れた。そこには、かつて福原家の未来となる命が宿っていた。「嫌!」その瞬間、福原家の
暴走した福原紀行が車で福原家の門を突き破ってきたのは、私の魂が空中を漂いながら福原家の大奥様――祖母が仏像の前で私と母のためにお経を唱えている光景を見つめていたときだった。私の亡骸と母の遺骨は、仏像の前に静かに安置されていた。「仏様よ、未来の世において、天界の者も人間も、業に従いその報いを受けるならば……」祖母が落ち着いた声でお経を唱える中、福原紀行の車はとうとう仏間の前に突っ込み、大きな音を立てて激突した。エアバッグが作動し、衝撃を和らげたものの、福原紀行の額からは血が流れ、赤く染まっていた。「雪乃!ここにいるんだろう!出てこい!」福原紀行は狂犬のように叫び、仏像の前で吠え続けた。祖母の読経は一瞬止まったが、すぐにまた落ち着きを取り戻し、手の中で数珠を回しながら小声で経文を唱え続けた。その姿には、私が安らかに浄土へ向かうことを願う真心が込められていた。その時、江野遥が福原紀行を追うように車を停め、慌てて降りてきた。「おばあさま、紀くんを怒らないでください!」江野遥の声が響いた瞬間、祖母の手の中にあった数珠がぷつりと切れた。数珠の玉が床に散らばり、あちこちに転がっていく音が仏間内に響いた。「紀行!跪きなさい!」祖母は立ち上がり、鋭い声で福原紀行を叱りつけた。福原紀行は拳を握りしめたまま立ち尽くし、険しい表情を崩さない。江野遥は涙ぐみながら、祖母に向かって必死に訴えた。「おばあさま!紀くんを責めないでください!雪乃ちゃんが妊娠していたなんて、紀くんだって知らなかったんです。それを隠して紀くんを困らせたから、こんなことに……」「黙りなさい!」祖母は散らばった数珠の一粒を拾い、それを江野遥に向かって投げつけた。「あんたのような女が、ただの愛人でしょう?ここで何を言う資格がある?」江野遥は驚いた表情を浮かべ、後ずさりする。その目には涙が浮かび、まるで無実を訴えるようだった。しかし祖母は容赦しなかった。「その芝居は見飽きたよ!戦前の百楽門にいた女たちとそっくりだね。私はお嬢様でいた頃、あんたの母親だって、あの場で踊っていた口じゃないの?」江野遥はこの激しい言葉に呆然と立ち尽くしていた。祖母は深く息を吐き、震える手で胸を押さえながら福原紀行を睨みつけた。「紀行、聞いているのかい?あんたも同じだよ
福原紀行は結局、私に会うことはできなかった。祖母は低く静かな声で言った。「雪乃ちゃんが言ったんだよ……『二度と紀行には会いたくない』ってね。だから、私はその約束を守る」福原紀行はすべての肩書きと権力を失っても冷静さを保っていた。しかし、この瞬間、彼はついに壊れた。彼の視線は安置された私の亡骸に向けられ、仏間へ飛び込もうとした。だが今回は、福原炎だけでなく、そこにいたすべての福原家の人間が福原紀行を押さえ込み、地面に叩き伏せた。福原炎は福原紀行の顔を睨みつけ、声を震わせて叫んだ。「雪乃!お前は死んでなんかいない!絶対に死んでない!お前に死ぬことを許していない!どうしてだ!お前が死ぬなんて、そんなの許せるわけがないだろう!」その瞬間、祖母が福原炎の頬を力強く叩いた。「何を言っているんだ!」祖母は福原炎を睨みつけながら怒りを押し殺すような声で言った。「彼女は人間よ。独立した、ひとりの人間よ。誰かの所有物なんかじゃないわ!あんたは福原家を継ぐために愛しているふりをした。自分の不満を隠して、彼女を騙した。それで十分だと思っていたんでしょうね!でも彼女はあんたを本当に愛していた。だからあんたの異常な振る舞いも、理不尽な扱いもすべて耐え抜いたわ。でも、彼女はもう死んでしまった!あんたのために、死後まで何を耐える必要があるっていうの!」祖母は冷たく言い放った。「警察が外で待っている。これ以上は、檻の中でじっくり考えるんだね」福原紀行は地面に伏したまま、充血した目を祖母に向けた。その瞳には哀れな執着が浮かんでいた。その時、江野遥が福原紀行にすがりつき、泣き叫びながら懇願した。「お願いです、お祖母さま!紀くんはあなたのたった一人の孫です!どうか、彼を許してあげてください!」彼女は福原紀行の手を掴み、必死に訴え続けた。「紀くん!お祖母さまに謝って!家族なんだから、謝ればきっと許してもらえるわ!」しかし、彼女の言葉が終わらないうちに、福原紀行は彼女を冷たく振り払い、怒声を上げた。「黙れ!お前なんかただの汚い犬だ!」江野遥はその場に立ち尽くし、信じられないという表情を浮かべた。――これが、彼女が福原紀行から初めて私と同じ扱いを受けた瞬間だったのだろう。江野遥は口元を押さえ、涙を浮かべながらも震えていた。そ
「……どういうことですか?」福原紀行は目を見開き、信じられないという表情で呟いた。その直後、彼は激しく咳き込み始めた。口元を押さえながら肩を震わせ、息が詰まるほど咳が止まらない。その音はまるで肺を吐き出しそうなほど激しかった。江野遥は慌てて福原紀行に駆け寄り、背中をさすりながら肩を支えた。涙を浮かべた瞳で福原紀行を心配しつつ、祖母に向かって訴えるように叫んだ。「お願いです、お祖母さま!紀くんはあなたのたった一人の孫なんですよ!どうしてこんな仕打ちを!」福原紀行を庇うように、江野遥はその場にひざまずいた。そして、泣き崩れるような声で続ける。「紀くんは肺が弱いんです!こんなに感情を揺さぶられたら、本当に命に関わります!雪乃ちゃんさんを出してください!もし、彼女がただ嫉妬しているだけなら、私が身を引きます……紀くんが無事でいてくれるなら、それで私は構いません!」涙ながらに懇願する江野遥。その姿は、いかにも献身的で福原紀行を思いやる女性を演じているようだった。これまでも、彼女はこうして周囲の同情を集め、福原紀行を支える「唯一の存在」として振る舞ってきた。今日もその手を使って福原紀行を守ろうとしているのだ。だが、祖母は一言も発することなく仏壇の階段を下りると、福原紀行の頬を力強く叩いた。「咳き込む?それなら咳き込んで死ねばいい!」祖母の声は冷たく、堂内に鋭く響き渡った。「その肺の病は、かつての火事が原因の後遺症だ。でもね……あの火事で雪乃ちゃんの母親が助けに行かなかったら、あんたはとっくに死んでいたのよ!」福原紀行は祖母の一撃を受け、呆然としながらその場に崩れ落ちた。「紀くん!」江野遥は叫びながら福原紀行に駆け寄ろうとしたが、祖母は冷たい視線を向け、容赦なく彼女を蹴り飛ばした。「あんたのような汚らわしい女に手を触れるなんて、こっちの手が穢れるわ!」冷たく言い放つと、祖母は堂内に向かって大きな声を上げた。「出てきなさい!」その言葉に応じるように、仏壇の奥から福原グループの役員たちや親族が姿を現した。一人、また一人と現れる彼らは、全員が喪服姿で厳しい表情を浮かべている。江野遥はその光景を見て息を飲み、立ち尽くした。彼らは福原グループを支える中枢メンバーであり、福原紀行もよく知る顔ぶれだった。状
暴走した福原紀行が車で福原家の門を突き破ってきたのは、私の魂が空中を漂いながら福原家の大奥様――祖母が仏像の前で私と母のためにお経を唱えている光景を見つめていたときだった。私の亡骸と母の遺骨は、仏像の前に静かに安置されていた。「仏様よ、未来の世において、天界の者も人間も、業に従いその報いを受けるならば……」祖母が落ち着いた声でお経を唱える中、福原紀行の車はとうとう仏間の前に突っ込み、大きな音を立てて激突した。エアバッグが作動し、衝撃を和らげたものの、福原紀行の額からは血が流れ、赤く染まっていた。「雪乃!ここにいるんだろう!出てこい!」福原紀行は狂犬のように叫び、仏像の前で吠え続けた。祖母の読経は一瞬止まったが、すぐにまた落ち着きを取り戻し、手の中で数珠を回しながら小声で経文を唱え続けた。その姿には、私が安らかに浄土へ向かうことを願う真心が込められていた。その時、江野遥が福原紀行を追うように車を停め、慌てて降りてきた。「おばあさま、紀くんを怒らないでください!」江野遥の声が響いた瞬間、祖母の手の中にあった数珠がぷつりと切れた。数珠の玉が床に散らばり、あちこちに転がっていく音が仏間内に響いた。「紀行!跪きなさい!」祖母は立ち上がり、鋭い声で福原紀行を叱りつけた。福原紀行は拳を握りしめたまま立ち尽くし、険しい表情を崩さない。江野遥は涙ぐみながら、祖母に向かって必死に訴えた。「おばあさま!紀くんを責めないでください!雪乃ちゃんが妊娠していたなんて、紀くんだって知らなかったんです。それを隠して紀くんを困らせたから、こんなことに……」「黙りなさい!」祖母は散らばった数珠の一粒を拾い、それを江野遥に向かって投げつけた。「あんたのような女が、ただの愛人でしょう?ここで何を言う資格がある?」江野遥は驚いた表情を浮かべ、後ずさりする。その目には涙が浮かび、まるで無実を訴えるようだった。しかし祖母は容赦しなかった。「その芝居は見飽きたよ!戦前の百楽門にいた女たちとそっくりだね。私はお嬢様でいた頃、あんたの母親だって、あの場で踊っていた口じゃないの?」江野遥はこの激しい言葉に呆然と立ち尽くしていた。祖母は深く息を吐き、震える手で胸を押さえながら福原紀行を睨みつけた。「紀行、聞いているのかい?あんたも同じだよ
私は本当の意味で消えることができなかった。魂は空中を漂いながら、福原紀行の怒鳴り声が電話越しに響くのを、福原家の祖母――彼女が悲しみの中で誤って通話を繋いでしまうその瞬間を、見届けていた。「雪乃!どこに隠れてるんだ!犬みたいにこそこそ隠れて、俺を脅せるとでも思ってるのか!」福原紀行の声は一層荒々しくなる。「お前、まさか祖母のところに行ったんじゃないだろうな!お前が泣きつこうが何しようが、俺には何の影響もない!言っておくが、この家のことはもう俺がすべて決めるんだ!」福原家の祖母はその言葉に激しく動揺し、荒い息をつきながら後ろへよろめいた。胸元を押さえ、手にしていた携帯電話が床に落ちた。その鈍い音が部屋に響いた瞬間、福原紀行の怒りはさらに募ったようだった。「なぜ黙っている?雪乃!まさか……死んだのか?」その言葉を聞いたとき、私は彼に伝えたくなった。――そうよ、私は本当に死んだの。これであなたと江野遥は、ようやく一緒にいられるわね。「雪乃!さっさと返事をしろ!」福原紀行の声は怒りに満ちていた。そして彼は低い声で吐き捨てるように続けた。「お前が死んだって構わないが、子どもを産んでから死ね!」――子ども?その言葉を聞いて福原家の祖母は医師に視線を向けた。医師は一瞬戸惑いながらも、ため息をついて頷いた。「……彼女のお腹には子どもがいました。ただ……」医師は眉をひそめ、重い口調で続けた。「ただ、その子どもは強い外力によって体内で粉々になっていました。そして、彼女の身体には……靴の跡が残されていました……申し訳ありません。彼女も、お腹の中の赤ちゃんも助けることはできませんでした」医師の言葉が落ちると同時に、福原家の祖母の体が大きく揺れた。目に涙を溜めた彼女は、震える声で呟いた。「……靴の跡?まさか……」福原家の祖母はゆっくりと私の亡骸へ目を向ける。その目には、深い疑念と抑えきれない悲しみが浮かんでいた。「何の音だ?雪乃!どこにいる!」電話の向こうで福原紀行の怒声がまだ響いていた。しかし、福原家の祖母は震える体を支えながら、それに答えることなく、よろよろと歩み寄り、震える手で私のまだ微かに温もりの残る腹部に触れた。そこには、かつて福原家の未来となる命が宿っていた。「嫌!」その瞬間、福原家の
私は死んだ。病院のベッドの上で、静かに命を終えた。福原家の祖母が私の枕元に伏し、涙ながらに私の名前を呼び続けていた。「雪乃ちゃん!どうしたの?しっかりして!」彼女の目は赤く腫れ、涙が頬を伝っている。声は震え、必死に私に語りかけてきた。「お願いだから、目を閉じないで!もう少しだけ耐えて。紀くんもすぐ来るわ!」でも、私は分かっていた。もう限界だと。福原紀行に蹴られて折れた肋骨は肺を突き破り、胸には大きな穴が空いたかのような痛みが広がる。息を吸うたび、肺から空気が漏れるような不気味な音がした。そして、お腹の中で失った赤ちゃん。命が絶えた小さな存在とともに、私の身体からは絶え間なく血が流れ続けていた。救急搬送の途中、病院の長い廊下には、私が流した血で真っ赤な線が引かれていた。それはまるで私が残した命の跡のようだった。ここまで持ちこたえられたこと自体が、奇跡に近かった。手術室から出てきた医師は、私の顔を見て一つため息をつくと、福原家の祖母に向かってそっと首を横に振った。「おばあちゃん……紀行に会いたくないの」私はか細い声でそう告げた。呼吸は浅く、瞼を開けていられる時間もどんどん短くなっていく。福原家の祖母は言葉を失い、しばらく黙った後、震える手で私の顔に触れた。彼女の皺だらけの顔に涙が次々とこぼれ落ちる。「……紀くんがやったのね?」私はもう声を出す力もなく、瞼を一度ゆっくり閉じることで答えた。福原家の祖母は私の手を握りしめ、急き込むように尋ねた「お母さんは?あなたのお母さんはどうしているの?紀くんを止めてくれなかったの?」「……母も……今日死にました」福原家の祖母の目が大きく見開かれ、その表情には信じられないという色が浮かび、次に押し寄せたのは深い悲しみだった。「お母さんが……どうして!」彼女はその場に崩れ落ち、すすり泣きながら呟いた。「あんなにいい人だったのに……仏様はどうして、彼女を長生きさせてくださらなかったのか!」私の母が福原紀行を大切にしてくれたように、福原家の祖母も私を福原紀行以上に大切にしてくれていた。その理由の多くは、実のところ母にあった。かつて福原家の祖母が火事に巻き込まれたとき、母は燃え盛る炎の中へ飛び込み、福原家の祖母を背負いながら福原紀行を抱えて助け出し
私は歯を食いしばり、必死に口を閉ざしていた。福原紀行は何度も私の頬を平手で叩き、激しい力で開けさせようとする。それでも開かないと見るや、両手で私の顎を掴み、力ずくでこじ開けようとした。福原紀行の胸は荒々しく上下し、怒りに満ちた声が室内に響き渡る。「さっさと口を開けろ!嫌なら今すぐ謝れ!遥に頭を下げろ!そして俺に言え、福原夫人でいたい、ここに残りたいってな!」口角が裂けるような痛みが走り、顎全体が福原紀行の力で引きちぎられるかのようだった。それでも私は、充血した目で福原紀行を睨みつけた。福原紀行は、私が本当に危険な状態だと気づいたのか、一瞬だけ目に迷いが浮かんだ。そして、顎を掴んでいた手をようやく離した。私は床に崩れ落ち、大きく息を吸い込む。全身の痛みに耐えながら、散らばった母の遺骨を震える手でかき集め始めた。その時だった。江野遥が窓を勢いよく開け放ち、軽い声で言った。「紀くん、ちょっと空気がこもってるわね。あなたの体には良くないでしょ?風を通すわ」彼女はそう言いながら、エアコンの換気モードを最大に切り替えた。「やめて!」私は全身の痛みを無視して叫び、必死に飛びかかろうとした。だがその瞬間、屋上から吹き込む突風とえエアコンの強風が室内を駆け抜けた。あっという間に母の遺骨は風にさらわれ、宙を舞って消えていった。床にはわずかに残った骨片がかすかに揺れているだけだった。江野遥はわざとらしく私に近づき、床に残った骨片をヒールで踏みつけた。そして、作り笑いを浮かべながら、首を傾げて言った。「あら、悪かったわね、雪乃ちゃん。ただ紀くんの体を心配してたの、まさかこんなことになるなんて」踏みつけた骨片が粉々に砕ける音が聞こえた。「本当にごめんなさいね、雪乃ちゃん。風が強かったから、全部吹き飛んじゃったみたい」目の前が真っ赤に染まり、胸の奥で怒りが燃え上がる。私は江野遥に飛びかかり、その首を両手で掴み締めた。「殺してやる!」江野遥の首を力いっぱい締め上げ、命を奪おうとする。だが、福原紀行が私を力任せに突き飛ばし、私は再び血だまりの中に叩きつけられた。「雪乃!」福原紀行は獣のような声で叫び、怒りに満ちた目を見開いて咆哮する。「もう我慢の限界だ!福原夫人の座が本当にいらないのか?」福原紀行の目は
私は血だまりの中で力なく座り込んでいた。全身が砕け散ったかのように激しい痛みに襲われていたが、何よりも痛むのはお腹だった。かつて小さな命を育んでいたその場所が、冷たい苦痛で私を締め付けていた。口の中から鉄臭い血がじわじわと溢れ出し、視界は涙でぼやけていた。私は震える手で母の骨壺を抱きしめながら、遠くに立つ福原紀行を見つめた。立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、何度も床に倒れ込んだ。震える手をお腹に伸ばそうとした瞬間、込み上げる血を抑えきれず、大量に吐き出した。その光景に驚いた江野遥は福原紀行の腕にしがみつき、怯えたような声を上げた。「雪乃!これは何の芝居だ?ほんの少し触れただけだろう!そんな死にそうな顔するな!」福原紀行は冷たい目で私を見下ろし、眉をひそめながらティッシュを取り出すと、自分の靴を丁寧に拭き始めた。江野遥は目を潤ませながらわざとらしい声で続けた。「紀くん!彼女、妊娠してるんじゃないの?見てよ、下からこんなに血が……気持ち悪い、うぇっ!」口元を押さえ、顔を背けながら嘔吐の真似をする江野遥。その演技があからさまだったにもかかわらず、福原紀行は疑うそぶりも見せず、彼女の肩を優しく撫でながらこう言った。「気持ち悪いなら見るな」そして再び私に向き直り、あからさまな嫌悪を浮かべて吐き捨てる。「こいつが妊娠?笑わせるな」彼は鼻で笑い、冷たく続けた。「もし妊娠してたら、真っ先に俺に見せびらかして、もっといい生活を要求してただろうよ」福原紀行の軽蔑が部屋全体を満たし、その視線には毒気が滲み出ていた。「こいつは……腹黒いんだ」その言葉が終わると同時に、腹部に激痛が走った。それは皮膚の奥深くをえぐられるような痛みで、内臓が捻じ切れるような感覚だった。まるでお腹の中の赤ちゃんが、必死に自分の存在を訴えているかのように。「コホっ、コホっ!」止まらない咳と共に、口から血があふれ出す。それでも私は口元を歪め、血に染まった唇で笑った。「ハハ……これは何だと思う?」震える手をポケットに伸ばし、赤ちゃんの命と引き換えに血に染まった妊娠検査報告書を掴む。それを震えながら福原紀行に差し出した。「これを見たら……私は出ていくわ。あなたたちが末永く幸せでいられるよう、祈ってる」福原紀行が一番欲しかったの
福原紀行の力は圧倒的だった。母の骨壺を奪い取られ、「雑種犬」などと呼ばれる犬を入れる道具にされそうになったその瞬間、私は咄嗟に彼の手首に噛みついた。生臭い血の味が口いっぱいに広がり、吐き気が込み上げる。「このクソ女!」福原紀行の顔が怒りで歪み、次の瞬間、私の頬に強烈な平手打ちを食らわせた。その衝撃で床に倒れ込みながら、母の骨壺を必死に抱きしめる。だが、後頭部がテーブルの角に激しくぶつかり、痛みで目の前がぐらついた。「紀くん!」江野遥が慌てて福原紀行の手を取り、傷口を心配そうに見つめた。だがすぐに顔を曇らせ、私を睨みつけるとこう言った。「雪乃ちゃん、なんで紀くんを噛むの?あんたのことを本当に大事にしてるのよ?骨壺なんて、紀くんならもっといいものを用意してくれるに決まってるじゃない!」血の滴る顔で、私は震える体を支えながらゆっくりと立ち上がった。母の骨壺を抱きしめるその手には、私の血がじわりと染み込んでいた。生前、母は私を誰よりも大切にしてくれた。でも、一番大切にしていたのは――目の前の福原紀行だったのかもしれない。「大事にしてるですって?結婚式で新婦をすり替え、母を怒り死させておいて、それが“大事にしている”って言えるの?」私は唇を震わせながら、福原紀行に向けて言い放った。「忘れたとは言わせないわ!母がどれだけあなたに尽くしたか。当時、火事の中に飛び込み、全身を焼かれる覚悟で7歳のあなただけを救い出したのはうちの母よ!今の私はただ出て行きたいだけ。それ以上何も望まない。だから――邪魔しないで!」「もういい加減にしろ!」福原紀行は怒りに燃えた目を見開きながら大股で歩み寄ると、私の首を掴んで壁に叩きつけた。喉を締め上げられる強い力に、息が詰まり、胸が押し潰されるような感覚に襲われる。でも、本当に息が止まりそうなほど苦しかったのは――福原紀行が吐き捨てた言葉だった。「雪乃!」福原紀行の五指がさらに力を込める。指の関節が白く浮き上がるほどだった。凶悪な表情でこう言った。「いつまでそのくだらない“恩”を持ち出して俺に文句を言うつもりだ?今のお前の生活じゃまだ足りないのか?」福原紀行は歯を噛み締めながら、低く冷たい声を絞り出すように続けた。「出ていきたい?どの面でそんなこと言うんだ!俺は後
深夜、月明かりが冷たく肌を刺す中、疲れ果てた体でようやく家にたどり着いた私がまず目にしたのは、玄関の女主人の場所に無造作に置かれた江野遥のハイヒールだった。江野遥がこの家を訪れるのはこれが初めてではない。3年前、彼女が福原グループのシニアパートナーになった頃から、「仕事の話」を理由に頻繁に出入りしていた。早朝だろうと深夜だろうと、たとえ外が土砂降りでも、彼女の「仕事熱心」を止めるものは何もなかった。最初のうちは、私も福原紀行に抗議したことがある。しかし、彼は私に向かって冷たく言ったのだ。「会社が稼いでいるおかげで、お前みたいな何もしない人間が楽して暮らせるんだぞ」それ以降、私がまた文句を言えば福原紀行は口をきかないまま、何日も私を無視するのが常だった。最終的には私が折れて謝るしかなかった。あの頃、私はまだ福原紀行を愛していた。だから自分を納得させていたのだ。しかしその結果が、今私の手にあるたった二百グラムの骨壺だった。皮肉な笑みを浮かべながら家に入ると、目に飛び込んできたのは、福原紀行と江野遥が新婚生活のために私が用意したソファで熱いキスをしている姿だった。薄暗い照明の下、江野遥の白い頬は赤らみ、酔いしれて福原紀行にだらしなくもたれかかっていた。私が家に入ると、福原紀行はまず私が抱えている骨壺に目をやり、それから江野遥をそっと押し離し、丁寧にソファに横たえた。そして、こう言った。「どうやら本当に死んだようだな。演技じゃなくて」福原紀行は目を伏せたまま、上から目線で私を見下ろしていた。声色は一見すると慰めのようだが、その言葉には苛立ちが透けて見えた。「まだ足りないのか?わかったよ。言ってやるよ。俺は後悔してる」彼を見つめたまま、私は呆れたように笑った。母が倒れたあの時、彼は「ただの芝居だ」と言い切り、「本当に死ねばいい」とまで吐き捨てた。そして、結婚式を続行するよう命じたのだ。今、母は彼の望み通り本当に死んだ。それなのに、こんな口調で「後悔してる」と言われても、笑うしかなかった。本来なら――今日は私にとって一生に一度の、最も幸せな日となるはずだった。20年想い続けた幼なじみとついに結婚できる日だったからだ。そのうえ、私は福原紀行にもう一つのサプライズのプレゼントを用意していた。福原紀行は精