結局、清家夫人が一石を投じた。「もう探す必要はありませんね。萬谷家に辛子がいないというのなら、これからの辛子は新しい人生を歩めばいい。萬谷家とは無縁の存在として」さくらと紫乃は萬谷家の薄情さに憤りを感じながらも、夫人の言葉に一理あると認めざるを得なかった。探し続けても無駄だ。仕返しをして気を晴らしたところで、現状は何も変わらない。今は辛子を生かすこと。自害の念を断ち切り、そして悪事を働いた者の正体を明らかにすることが先決だった。三姫子は以前から少女の心を開く約束をしていた。今日の訪問は、まさに時宜を得たものとなった。小豆粥を手に部屋に入った三姫子は、生気を失った少女の姿に目を留めた。憔悴し切っているにもかかわらず、その美しさは損なわれることなく、かえって儚げな魅力を湛えていた。三姫子は言葉を交わさず、ただ手巾で辛子の頬や手を優しく拭い、髪を撫でた。すると辛子は身を引き、「穢れています」とかすかな声を漏らした。伊織屋に来て初めての言葉だった。自分を穢れたものと蔑んでいるのだ。三姫子は辛子の手を優しく握り、柔らかな声で諭した。「違うわ、あなたは少しも穢れてなどいないのよ」辛子の表情は硬いままだった。三姫子は傍らに座り続け、まるで幼い子をあやすように小豆粥を差し出した。「さあ、一口だけでも」辛子の唇が僅かに震えただけだった。「口を開けて」三姫子は陶器の匙を唇元に運び、「いい子ね」と優しく語りかけた。だが辛子は頑なに口を開こうとせず、三姫子の視線さえ避けた。華やかな装いの夫人に、自分の穢れが移るのを恐れるかのように、必死に距離を取ろうとしていた。三姫子は溜息をつきながら、静かに告げた。「生きる気がないのは分かっているわ。だから粥に毒を入れたの。安らかな死を望むなら、これを飲みなさい。そして、あなたを傷つけた者の名を教えて。必ず仇は討ってあげるから、安心してお逝きなさい」毒という言葉に、辛子の瞳に初めて光が宿った。震える手で粥椀を受け取ると、躊躇うことなく、大きく口を開けて飲み干した。薄い粥は、あっという間に底が見えた。三姫子は空になった椀を受け取り、手巾で辛子の口元を優しく拭った。「毒の量は多めよ。半時間もすれば効いてくる。さあ、誰があなたを傷つけたの?必ず仇を討ってあげるわ」純真な乙女は、三姫子の
さくらは今、女学校の開校という重要な案件を抱えていた。紫乃に萬谷家の件を任せ、自身は教師陣の編成に力を注いでいた。既に五名の教師が決まっていた。左大臣の孫娘である相良玉葉、清良長公主の義姉である越前夫人、土井国太夫人、深水青葉、そして清良長公主の昔の読書友であった武内家の長女だ。武内家の長女は今年三十を迎えた。幼馴染みであった婚約者を、結婚の準備中に戦場で失って以来、再び縁談に応じることはなかった。深水青葉は唯一の男性教師となる。だが、彼は大和国でその名を馳せた才人であり、その人格と高潔な品性は誰もが認めるところ。むしろ、彼の名声によって、より多くの生徒が集まることだろう。土井国太夫人は長らく社交界から身を引いていた。若かりし頃は才女として名を馳せ、夫と共に大和国の津々浦々を巡り、『山河志』を著した。今の大和国の地図は、夫である土井殿が主導して作り上げたものだ。夫婦は大和国に大きな功績を残した。数年前まで各地を遊歴していたが、土井大人が仙界に旅立ってからは、その足を止めた。今や七十を超えてなお矍鑠とした姿を保つ土井夫人だが、めったに人前には姿を現さなくなっていた。さくらが訪れた際、土井夫人は快く引き受けてくれた。「目は霞んでおりますが」と老夫人は微笑んだ。「この胸に燃える炎だけは、まだ消えてはおりませぬ。この火種を、次の世代に託したいのです」深水師兄の起用は、さくらの計算があってのことだった。その名声は多くの生徒を集められるはず。誰もが彼から学びたいと願うのだから。現在、五名の教師で百名の生徒を受け入れる予定だ。当初、さくらは生徒集めに苦労するだろうと考えていた。この時代、女性に才は不要とされ、名門の娘たちですら、女訓や貞女経を読む程度で十分とされているのだから。ところが、募集を告知してわずか一日で、百名の定員が埋まってしまった。学校の名は、太后が「雅君女学」と名付けられた。高尚にして雅やかな君子たる女性を育てる場として。生徒の書類は全てさくらの手元に集められた。彼女は塾長の任を受けることになったのだ。多忙を理由に辞退しようとしたものの、天皇の任命となれば、断るわけにもいかない。生徒たちは一様に官家の子女たち。高位も低位もまじっていた。有田先生は書類に目を通しながら、「最初の生徒たちは、交際目的で来ると
玄武の得た情報は刑部での出来事だった。役人たちとの会議の最中、休憩時間に今中具藤と共に茶室へ足を運んだ時のことだ。他愛もない世間話に花を咲かせる中、この噂が持ち上がったのだ。萬谷治部録は既に五年の在職。昇進を望む彼は、式部卿の斎藤殿に妾がいて、今は尼寺に送られたという噂を聞きつけた。その妾には娘までいたという。そこで萬谷は、斎藤式部卿が好色な性格だと踏んで、娘の辛子を側室に差し出そうとした。だが、式部卿はこれを拒絶したのだという。萬谷は常々、立身出世に執着してきた男だった。斎藤夫人が嫉妬深く、側室を許さないと知ると、娘を斎藤式部卿の手の届く所に置き、既成事実を作ろうと企んだという。休暇の度に夫人同伴で参拝や花見に出かける斎藤式部卿の習慣を探り出すと、門番を買収して情報を入手。ある日、参拝後に温泉へ向かう予定だと知ると、こっそりと娘を送り込んだのだ。だが、計画は狂った。式部卿は確かに温泉を予約していたものの、夫人の体調不良で急遽取り止めとなった。しかし、既に薬を飲まされ温泉で待機していた辛子は、何者かの餌食となった。犯人は跡形もなく姿を消したという。萬谷治部録は式部卿が来なかったことを知り、娘の清白も失われ、相手も分からず、まさに徒労に終わった。そのうえ、噂は温泉の下働きの者たちの口から広まったらしく、出世への影響を恐れた萬谷は、娘が不身持で密会していたと言い、内々に処分すると偽って体面を保とうとしたのだ。「なんということ!」さくらは激しく机を叩いた。食器が大きな音を立てて揺れる。「萬谷は娘を出世の道具にしようとして、失敗すると殺そうとまでした?」紫乃は怒りに震える声で続けた。「ほぼ間違いないわ。それにもっと酷いことがあるの。萬谷は参拝を口実に娘を連れ出して、薬を飲ませて温泉に送り込んだのよ。しかも、これが初めてじゃないの。前には妹を使って……妹は死んでしまったわ」「許されない!」さくらは立ち上がった。「すぐに官に届け出るわ!」玄武はさくらの怒りを見て、静かに諭すように言った。「辛子自身が告発しない限り、誰も動けないだろう。それに、親を訴える者には、親への恩に報いるため、まず三十の鞭打ちを受けねばならない。あの娘に、そんな苦痛に耐えられるだろうか。それに、彼女は死を望んでいる。この事実が広まることを恐れているのかもしれん」
「じゃあ、どうすればいいの?」紫乃の声は氷のように冷たかった。「このまま、あの父親の野望の犠牲にさせておくの?出世のために娘たちを物のように差し出して……ああ、それに、どうしても分からないのよ。なぜ辛子に死ねなんて……あの卑劣な考えからすれば、まだ……ううっ、言葉にするのも吐き気がするわ」玄武は箸を取り上げ、二口ほど食べかけたが、すぐに置いた。もはや食欲など湧くはずもない。「犯人が誰か分からず、噂まで広まってしまった。禍根を断ちたかったのだろう。辛子を死なせ、娘の存在自体を否定すれば、後々の脅しもない。恐らく、家系図からも名を消したはずだ」「本当に、何も出来ないの?」紫乃の目が怒りで燃えていた。「あの父親を好き勝手にさせておくの?こんな汚れた官界を、陛下も穂村宰相も見過ごすの?」玄武はさくらの方をちらりと見た。「刑部で調査することは可能だ。だが、辛子を巻き込まないとなると……治部録程度の微官を追及するなら、別の角度からになる。横領を問うほどの地位でもなく、職務怠慢を問うほどの重要な仕事もない。となると、私生活か人格の問題しかない。が、表向きの評判はいい。自分の名声作りには長けている。最大の悪行は……娘や妹を踏み台にしたことだけだ」「そうね、方法は二つってことね」紫乃は指を折って数えた。「一つは辛子を巻き込むこと。でも、それは私にはできない。もう一つは、罪を積み上げていくこと」さくらは指の関節を鳴らしながら、紫乃を見上げた。「三つ目の方法もあるわ。一生寝たきりにして、官位も取れず、息も絶え絶えのまま、妻や娘の顔色を窺って生きていくしかないように」紫乃は目を輝かせたが、すぐに玄武の方をちらりと見て、声を潜めた。「こういう話は内々にしましょ。親王様は刑部のお方なんだから、こんな話、お耳に入れちゃいけないわ」玄武はようやく箸を取り直し、悠然と食事を始めた。「私は何も聞いていないぞ。さあ食べろ。どんな大事があろうと、己の腹を粗末にしてはならん」「そうね!」紫乃は顔を綻ばせた。「しっかり食べましょ」さくらは茶碗を手に取り、二口ほど食べたが、また箸を止めた。「辛子を辱めた男も探し出さないと。禁衛府で調べるわ」「さくら、あの畜生は私に任せて」紫乃は冷たく言い放った。「あなたはその男を探して」「その温泉は金鳳屋の若旦那の所有物だ」玄武が口を
さくらは自ら金鳳屋の若旦那を訪ねた。商売人として知られる若旦那は、その聡明さと純粋さを兼ね備えた人物だった。決して細かい損得に拘泥する男ではないが、商売には全力を注ぐ。しかし、その胸には報国の志も秘めていた。学問も武芸も身につかなかった彼は、戦時には惜しみなく献金することで国に貢献してきた。彼はさくらを深く敬慕し、親交を結びたいと願っていた。だが、商人という身分ゆえ、なかなか謁見の機会もなく、まして邸を訪ねることなど叶わなかった。今日、さくら自らが訪れたことに、彼は心を躍らせながら懇ろに応対した。玉山温泉での出来事については、おぼろげながら知るところがあった。しかし、余りに多くの官僚の秘密が絡んでおり、独自の調査は差し控えていた。ただ、ある娘が酷い目に遭ったことだけは把握していた。さくらが調査の意向を示すと、若旦那は即座に協力を約束した。胸を叩きながら、「お任せください!良い知らせをお待ちください」と力強く請け合った。半日も経たないうちに、若旦那は禁衛府に助力を求めた。ある貴人が先日、玉山温泉で家伝の佩玉を紛失したという。御城番による捜索を願い出たのだ。通常、紛失物の届け出は形式的な対応に終わることが多い。しかし、この佩玉の持ち主は並の人物ではなかった。その正体は明かされなかったものの、既に致仕した高官だと噂された。些細な事件に見えたため、人々の注目も集めなかった。だが、被害者からの要請という形を取ることで、御城番の調査は正当な理由を得たのだった。玉山温泉は決して安価ではなく、仲居も常駐していた。そのため、辛子が被害に遭った日の出入りを調べるのは、さほど困難ではなかった。翡翠の湯は確かに斎藤式部卿の予約があったが、その日、夫婦は寺院で過ごしており、玉山温泉には足を運んでいない。沙弥がその証人となれた。さくらは村松碧を伴い、まず玉山温泉の周辺を詳しく調べ上げた。温泉は寺院の東角から三里ほどの場所にあり、大きな門楼を構え、周囲を塀で囲まれていた。出入りできるのは正門だけだ。繁盛していた玉山温泉は、ほとんどの場合、事前の予約が必要だった。予約なしでは、空いている湯船を見つけることは難しい。そこでさくらは支配人から当日の客の名簿を取り寄せ、一つ一つ精査していった。一方、村松は仲居たちから聞き取りを行い、不審な人物が
結局のところ、事件の糸は斎藤家へと辿り着いた。密かにさくらから事の経緯を聞かされた斎藤式部卿は、全身を震わせながら怒りに震えていた。かつて側室との間に娘を儲けたという過ちを犯した自分にとって、それは消し去れない汚点だった。今回の件が世間に漏れれば、たとえ無実であろうとも、人々は必ずや自分が同じ轍を踏んだと思い込むに違いない。自分の面目は丸つぶれになってしまう。激怒した式部卿の命により、問題の護衛も引き立てられてきた。松平三郎という名のその護衛は、斎藤家で生まれ育った下僕の息子だった。武芸を習得した後、屋敷の護衛として仕えることになり、母親が邸内の女中であった縁で、萬谷家が門番に式部卿の温泉の予定を問い合わせていたことを知った。そして、式部卿夫婦が寺院参りに出かけ、温泉には行かないと分かると、その隙に付け込んだのだ。辛子を辱めたのは、紛れもなくこの男だった。式部卿は一瞬、この男を殺してしまいたい衝動に駆られた。特に、今や目の前に座っているのは上原さくらだ。かつて側室の存在を暴き、その娘を正妻の手に委ねたのもこの女性だった。天子の義父である自分は二位の式部卿として、数多の官僚の昇進を左右する立場にある。しかし、彼は上原さくらを恐れていた。彼女の前では、顔を上げることすらできない。男の過ちは数あれど、人殺しや放火でさえ、このような過ちほど顔向けできないものはない。さくらは式部卿の目の前で、松平三郎を地面に蹴り倒した。その一撃の威力たるや、式部卿の目には、まるで命を奪いかねないほどに映った。松平三郎の口から鮮血が迸った。腹部を押さえながら地面に倒れ込み、体を丸めたまま、口を大きく開けても苦痛の唸り声すら出せない。式部卿は手巾で額の汗を拭った。鼻先にまで細かな汗が浮かび、何と口を開いていいのかさえ分からない様子だった。「斎藤様のお考えはいかがでしょうか。けじめはつけねばなりませんが」さくらが向かい合って座ったまま、静かに問いかけた。式部卿は顔を拭いながら、幾度か心中で思案し、ため息をつくと、「松平の罪は明白じゃ。だが、萬谷にも非がある。娘を利用して出世を図ろうとしたのだからな」「萬谷治部録の件は、然るべき者が対処いたします。私がお伺いしているのは、松平三郎への処置についてです」式部卿は松平三郎を見つめた。殺し
さくらは身を乗り出し、詰問するような口調で言った。「斎藤様は、果たしてその弾劾に耐えられますかしら?」式部卿の顔色が一瞬にして変わった。今の彼には目立つことなど望みもない。むしろ、各方面からの視線を避けたいところだった。東江のもとで育てている隠し子のことを考えれば、なおさらである。その上、皇位継承がまだ定まらぬ今、外戚が醜聞を起こして面目を失うことは、大皇子にとっても不利となる。つまるところ、松平三郎などただの下僕、自分が取り立てて護衛にしてやったに過ぎない。諸々を天秤にかけ、式部卿の決断は固まった。その目に宿った殺意に、松平三郎は全身を震わせ、必死に頭を下げて命乞いを続けた。「この不届き者め!まだ命乞いか?罪なき娘を汚しておって、死んでも足りんぞ!」「だ、旦那様……」松平三郎は涙ながらに叫んだ。「あの娘に罪がないとでも?萬谷家はもともと旦那様に献上するつもりで差し向けたのです。旦那様がお気に召さなかっただけで……私めが過ちを犯したのは確かですが、あの娘だって……媚薬を飲んでいて……私めは助けただけで……どう考えても、死罪には……」式部卿は萬谷治部録への憎しみを募らせた。すでに娘を側室にすることは断っていたというのに、まさかこのような手段まで……さくらを見据えながら、覚悟を決めた様子で言った。「王妃様、このものの命をお望みとあらば、この場で討ち取らせましょう」「彼は斎藤家の者。その罪をどう定められるかは、斎藤様次第でございます」さくらは無表情のまま告げた。式部卿は唇を噛んだ。心中では激しい怒りが渦巻いていた。なんと狡猾な女だ。松平三郎の命が欲しいくせに、自らの口からは言わぬ。この一件が後々どのような形で蒸し返されようと、彼女自身には一切の非難の矢が向かぬよう、実に巧妙に立ち回っている。まさに油断のならぬ女だ。北冥親王家を鉄壁の要塞のように守り通している。「引き下げよ!杖刑に処せ!」式部卿は歯を食いしばり、青ざめた顔で命じた。「お、お許しを!」松平三郎は瞳を震わせ、主の命令を信じられない様子で、まるで餅つきのように激しく頭を地面に打ちつけた。式部卿が顔を背けるのを見るや、這いずり寄るようにさくらの方へ向き直り、怒声を上げた。「大和国の律法でさえ死罪には当たりませぬぞ!なんと残酷な女!」さくらの瞳に冷気が凍
斎藤夫人は終始、中庭の外で立っていた。さくらが出てくるのを見るや、深々と礼を取って見送る。外で全てを聞いていたのだ。「あの娘は……今はどうしております?」屋敷の門まで見送りながら、夫人は静かに尋ねた。「工房でお預かりしていますが……まだ自害をほのめかしております」さくらは小さく溜め息をついた。「なんという罪作り……」夫人は暫し黙したのち、門前で言葉を継いだ。「王妃様、あの娘に何かできることがございましたら、どうかお申し付けください」さくらは頷いた。「ありがとうございます」夫人は深々と一礼し、さくらが馬に乗って去っていくのを見送った。しばらく門前に佇んでいたが、やがて松平勝とその妻が駆け寄ってきて、跪いて医者を呼んでほしいと懇願した。夫人は目を伏せ、「旦那様にお願いなさい。私にはどうすることもできません」と告げた。「お慈悲を!」松平勝の妻は夫人の裾にすがりつき、涙ながらに訴えた。「この子一人っ子でございます。どうか跡絶えさせないで……」斎藤夫人の目に怒りの色が宿った。「自業自得でしょう。誰を恨むというのです」そう言い放つと、裾を振り払い、背を向けて立ち去った。松平の妻の嘆き悲しむ声が、夕暮れの庭に響き渡る。「奥様、大丈夫でございますか」屋敷へ戻る途中、めまいを覚えた夫人を同楽が支える。「本当にこのままで?古くからの使用人が離反しては……」同楽には不思議だった。これまで夫人は家政を預かる者として、使用人たちに慈悲深く接してきた。それは夫人の優しさゆえでもあり、また代々の使用人たちが離れていって斎藤家の評判を貶めることを恐れてのことでもあった。普段なら、罰を与えた後には必ず慈悲も示したものを。今回ばかりは違う。松平一家は長年この屋敷に仕え、様々な内情を知っている。もし反感を抱けば、どんな厄介ごとを引き起こすか分からない。夫人は眉を寄せながらも、首を振った。「手出しはできませぬ。あの娘に、何と申し開きをすれば良いというの?」「でも、あの娘は父親に売られたのです。そもそも旦那様の側室にと差し出されたもの。旦那様が断られた後も、どこかの旦那の寝台に上がることになっていたはず。所詮は……」「黙りなさい!」夫人は怒りに声を震わせた。「萬谷家がどうしようと、それは私たちの知ったことではありません。ただ、松平三郎があの娘を
無相は頭を抱えながら、親王の色欲に溺れた愚かな行動に内心で舌打ちをした。この件は一旦落着したと思っていたのに、都を離れる直前になって親王がこのような手筈を整え、本来なら都に残すはずだった死士まで動員するとは。沢村紫乃一人のために、周到に練り上げた計画が台無しになってしまった。彼の瞳に殺気が宿る。この深夜に上原さくらを始末して埋めてしまえば誰にもわからなかったものを。まさか二人も逃げおおせるとは。そして今やさくらが親王の命を握っている。事態は思わぬ方向へ転がっていった。幸い、あらゆる事態を想定して対策は講じてあった。元々は事が成就した後、沢村家への言い訳として用意していたものだが……今となっては……これ以上大事には至るまいが、沢村家との縁は切れてしまうだろうな。さくらは胸に怒りと悲しみを募らせながら、馬車に隠れている二人の姫君の姿を目にした。このろくでなしの親王は実の娘たちの前でさえ、紫乃を手篭めにしようとしたのだ。沢村万紅もろくでもない。金森側妃に至っては言わずもがな。まったく腐り切った連中ばかりだ。「王妃様、誤解なさらないで。沢村お嬢様は親王様の妻の妹。どうしてそのような不埒な考えを。これから都を離れるというのに、わざわざこんな面倒を……沢村家との縁も大切にしなければ」金森側妃は取り繕い続けた。その言葉に一片の真実味もないことは明らかだったが、皆で口裏を合わせれば、たとえ清和天皇の耳に入っても、叱責程度で済むだろう。罪に問われることはあるまい。ただ、激怒したさくらが本当に親王の命を取ってしまわないか、それだけが気がかりだった。「いや、いや、さくらよ」燕良親王は必死に弁明した。「誤解だ。信じられないのなら、沢村お嬢様を呼び戻して確かめてはどうだ」金森側妃は素早く死士の一人を引き寄せた。「ほら、事の次第を王妃様にお話しなさい」死士が面具を外すと、無表情で平凡な顔が現れた。まるで暗記した文句を復唱するかのように、淡々と語り始めた。「はっ。私どもは西の山口の屋敷に駐在しておりました。昨日、燕良州への帰還命令を受け、出立の準備を整えておりましたところ……数名の者が沢村お嬢様を山の方へ連れ去ろうとするのを目撃いたしました。沢村お嬢様が王妃様の従妹と存じ上げており、不測の事態を懸念し、救出に向かいました。その際、沢村お嬢様が媚
楽章はさくらを置いて行けるはずもない。紫乃を抱えたままでも、まだ戦える。だが振り返ると、さくらの鞭が燕良親王の首に絡みつき、引き寄せると、その顔面に容赦なく平手打ちを食らわせていた。よし、首魁を捕らえれば、この場から抜け出せる。言葉も交わさず、紫乃を抱えて走り出す。紫乃の様子と顔の火照りから見て、明らかに薬を盛られている。銀針で血を巡らせなければ、解毒できない。さくらは燕良親王を取り押さえたものの、紅羽と緋雲は護衛たちに捕らえられていた。首筋に刃が押し当てられ、既に血が滲んでいる。燕良親王はついに仮面を脱ぎ捨てた。冷たく言い放つ。「私を殺せるものなら殺してみろ。叔父を殺めた罪、玄武がどう天下に申し開きをするか、見物だな」さくらは鞭を更に締め上げ、目が炎を散らす。「本気で殺せないと思ってるの?」親王は目が白濁し、窒息感に頭がぐらつく。後ろに首を反らし、必死に息を吸おうとするが、喉が締め付けられ、一滴の空気も届かない。金森側妃が早足で前に出て、凍てつく声を上げた。「北冥親王妃、親王様は何の罪を犯したというのです?このような乱暴、王法はどこにありますか?」「何の罪だって?沢村紫乃に汚辱を加えようとした。親王の身分でこのような卑劣な行為、殺して民を救うのが義務というものよ」「誤解です」金森側妃は瞳を細め、「我々の者が沢村お嬢様が毒を受けているのを発見し、燕良親王妃の従妹と知って、解毒の手助けをしようとしただけです。我が親王様の清らかな名誉に、このような中傷は許されません」そう言いながら、傍らで凍りついたように立つ沢村氏の腕を引く。「王妃、そうですよね?」沢村氏は木の人形のように頷き、震える唇で答えた。「は、はい……」さくらは沢村氏に向かって鞭を振るう。同時に親王の喉を手で締め直す。一瞬の解放と共に、より強く拘束した。鞭が沢村氏の顔を掠め、悲鳴が上がる。それでも彼女は後ろめたそうに金森側妃の背後に隠れた。「奴らは狼だけど、あなたは畜生ね。妹なのに、どうしてこんなことができるの?」さくらの怒声が夜空に響いた。「違います、違います」沢村氏は震える声で弁解した。杏の実のような瞳に涙を溜め、必死に首を振る。「妹なのに、どうして害するようなことを……」無相が前に進み出て、金森側妃の前に立ち、さくらを見据えながら、静かに
敵の数を数え直す必要もない。「何人で来てる?」「私と緋雲だけです。緋雲はあそこに」紅羽が指差した先、官道の反対側の生い茂った木立の中に、車列に向かってそっと近づく人影が見えた。「詰んだな」楽章の顔が暗くなる。「俺たち三人で、向こうは死士込みで百人超え」山を降りてすぐにこんな難題とは。正な眉間に深い皺が刻まれる。頭の中で何度も作戦を練り直す。勝ち目など微塵もないが、見捨てるわけにはいかない。紫乃は天幕の中に引きずり込まれた。何かに体を制御されているのか、薬を盛られているのか、わずかな意識で先ほどの呪いの言葉を吐いただけで、後は声一つ出せない。今や体中の力が抜け、ただ引きずられるがままだった。男たちが次々と天幕から離れていく中、燕良親王が中に入っていくのを見た楽章の頭に、血が沸き立つように上っていった。先ほどまでは勝算なしと判断し、紅羽を止めようとしていた。だが今は、一言も発せず飛び出していた。勝算など考えている場合ではない。紫乃があんな辱めを受けるのを、ただ見ているわけにはいかない。あの誇り高い紫乃が、どれほど優れた男でさえも眼中にない紫乃が、燕良親王のような卑劣漢に汚されれば――天地を覆すほどの騒ぎになるだろう。いや、それ以前に命を絶つかもしれない。楽章が飛び出すと、紅羽と緋雲も後に続いた。三人が天幕の前に降り立つや否や、数十の刀剣が一斉に襲いかかってきた。楽章は神火器を背負ったまま、笛を取り出して応戦する。身を回転させながら、カンカンと金属の響きを立てて、紅羽と緋雲の守りを固めた。だが二人が天幕に手をかけた瞬間、鞭が体を絡め取り、放り出されてしまった。天幕の中で、紫乃は意識が朦朧としていた。誰かが襲いかかってくる。熱い吐息と、言いようのない生臭い匂いが鼻を突き、胸が痙攣する。だが、男が近づくにつれ、体の内側から炎が這い上がってくるような苦しさを覚えた。暑い。無意識に氷でも抱きしめたくなる。しかし息の詰まるような密閉空間の中で、熱はさらに増していくばかりだった。「紫乃、私だ」男の手が鎖骨に這い上がる。その手が熱い、あまりにも熱い。狂気に駆られそうになる。目の前の人物は見分けられないが、その声が吐き気を催させる。十数年かけて培った気の強さが、思考を経ずに反射的に手を動かした。掌が相手の頬を打った。しかし、
横になってまもなく、物音が聞こえてきた。かすかな足音に混じって、呪詛の声が漏れている。楽章は身を起こし、目を細めて暗闇を見据えた。向かいの山から一団が下りてくる。ほとんど気づかないところだった。全員が黒装束で、ただ一人だけが違う色を着ていた。どんな色かまでは判然としない。呪詛の声はすぐに途絶えた。口を塞がれたのだろう。野営の一行よりもずっと遠くにいるため、楽章の目が利くとはいえ、はっきりとは見えない。ただ、彼らの動きは素早く、野営の一団と合流しようとしているように見える。楽章は立ち上がった。表情が引き締まる。妖怪との一杯は叶わなかったが、その代わり陰謀の匂いが漂ってきた。闇に紛れての合流。そして先ほど呪詛の声を上げた女を連れている。驢馬の背から師匠から託された神火器を取り出し、手早く拭う。まだ使い方を完全に会得しているわけではない。ただ、師匠がこれを作り上げた時、山頂で一時間もの間笑い続け、山中の生き物たちを総崩れにさせたことは知っている。音も立てずに下り始める。もちろんこの道具だけでは心許ない。常に携帯している武器もある。官道脇の茂みに身を潜め、二つの集団の合流を見守る。まだ顔かたちまではわからないが、男女の区別くらいはつく。前方に這いよるように進もうとした時、近くの木に何か光るものが目に留まった。見上げると、枝の上に一人の女が立ち、緊張した面持ちで前方を見つめていた。おそらく暗くてよく見えないのだろう、むやみに動こうとはしない。この女は……師姉の配下の紅羽によく似ている。胸が締め付けられた。紅羽は師姉が師妹に付けた護衛だ。となると、あの黒装束の連中が連れているのは師妹なのか?すぐさま緊張が全身を走る。敵の数を数え、黒装束の集団の足運びから軽身功の腕前を探る。これは厄介だ。総勢百人を超える。もし本当に師妹が捕らわれているなら、この場で命を落としても仕方がない。いや、死んだ後で師匠に死体まで鞭打たれるだろうが。師妹かどうか確かめようとする中、紅羽の立つ枝がキシキシと音を立て始めた。一瞥すると、紅羽が飛び移ろうとしているのが見えた。すかさず小さな物音を立て、紅羽の注意を引く。紅羽は音のした方向に素早く振り向いた。漆黒の闇の中、茂みに潜む人影が味方か敵かも分からない。楽章は身を躍らせ、紅羽の横の枝に軽々と舞い降
官道を行く驢馬の鈴の音が、チリンチリンと夜風に乗って響く。男は口に草を咥え、小節を口ずさみながら歩を進めていた。彼は夜道を行くのが何よりも好きだった。闇夜には言いようのない魔力が宿る。まるで何かが忍び寄ってきそうな、背筋がゾクゾクするような気配に、かえって心が躍る。できることなら、妖怪か何かと出くわして、一杯やれたらいいのにと思う。腰の瓢箪には師叔から失敬した酒が入っている。その酒を盗むために馬も乗れず、古月宗まで借りに行くはめになったのだ。しかし古月宗に馬などあるはずもない。宗主は渋々、年老いた驢馬を引き出してきた。「できるだけ引いて歩きなさい。乗ってはいけませんよ。この驢馬はあなたの体重に耐えられず、過労死してしまいます。荷物を運ぶだけにしておきなさい」と、しつこいほど念を押された。まったく、引いて山を下りるなら、荷物を背負って歩いた方がまだましだ。驢馬など連れて行く意味があるのだろうか。とはいえ、年寄りを侮るものではない。驢馬は年老いてはいるが、人よりも速く走れる上、持久力もある。梅月山から河州までほとんど休むことなく走ってきた。あと一時間ほどで河州に着くだろう。音無楽章は声を張り上げて小節を歌う。京都は華やかで、美酒は尽きることなく、可愛い師妹の頭も撫でられる。これぞ人生の極みではないか。手に持った竿を上げ、驢馬の目の前にぶら下げていた人参を少し後ろへ下げた。やっと食べられるようになった驢馬は、モグモグと美味しそうに人参をほおばった。宿を取る気はなかった。河州の外れで風光明媚な場所を見つけ、美酒を開けば、もしかしたら妖怪たちと痛飲できるかもしれない。それこそ至福の時というものだろう。「山は高くそびえ~て、川は遠くまで続くよ~、驢馬は人参かじりながら~、空は暗くなってきて~、風がそよそよ吹いてる~、蚊どもは楽章の血を吸ってる~」茣蓙を広げ、地面に敷き詰める。パシッ、パシッと両頬を叩いて、四匹の蚊を退治した。驢馬を繋いで、蚊遣り草に火を点け、瓢箪の酒を取り出す。茣蓙の上に寝そべって足を投げ出し、栓を抜くと、グビグビと大きく喉を鳴らした。梅の酒。去年仕込んだ梅酒だ。口に含むと清冽な香りが広がり、一口で酔いが回ってくる。酔いのせいか、馬の蹄の音が聞こえてきたような気がした。小高い丘から下を覗き込む。彼に
さくらは粉蝶の言葉を頭の中で整理した。心は乱れに乱れていたが、必死に冷静さを保とうとする。「今は紅羽一人だけが追跡しているの?」「紅羽と緋雲の二人です。ですが、もし本当に燕良親王が沢村お嬢様を連れ去ったのなら……」粉蝶は言葉を選びながら続けた。「親王の周りには腕の立つ者が大勢います。二人では太刀打ちできません。だから援軍を求めに戻って参りました。ただ、沢村お嬢様が本当に連れ去られたのかどうかさえ、確かめようがないのです」さくらは一刻の猶予も許されないと悟った。稲妻なら追いつけるはずだ。もし紫乃が都内にいるのなら危険は少ないだろうが、燕良親王に連れ去られているとなれば話は別だ。青鏡に向かって言った。「すぐに戻って山田鉄男に都内の捜索を命じて。それから北冥親王家の村上教官を呼んで、私の後を追わせて。途中に目印を残しておくから」言い終わるや否や、鞭を振り下ろし、稲妻は疾風のごとく駆け出した。紅羽は常に紫乃の傍にいたはずなのに、目の前で忽然と姿を消したという。尋常ではない。油断はできない。何としても燕良親王に追いつかねばならない。青鏡が都に戻ると、禁衛府と御城番はすでに捜索を開始していた。衛士の親房虎鉄も部隊を差し向け、清張文之進までが玄鉄衛の精鋭・飛龍衛を投入していた。紫乃は彼らの師匠なのだ。その失踪に、皆が焦りに焦っていた。禁衛府には城門を封鎖する権限がない。そこで青鏡は刑部の玄武のもとへ急いだ。玄武は逆に最後まで事態を知らされていなかった。さくらが単身で燕良親王を追っていると聞き、眉をひそめた。「一人で追いかけたのか?」「はい。親王様、今は城門の封鎖が急務です。師匠が燕良親王に連れ去られたのではなく、何処かに匿われていて、この混乱に紛れて都を出ようとしているかもしれません」玄武は心配そうに眉を寄せた。一人で追うのは危険すぎる。犯人追跡の名目で城門を封鎖したが、完全な通行止めではない。出城する者は皇族貴族から庶民商人まで、身分を問わず厳重な検査を行うこととした。城門だけでなく、都から抜け出せる山道にも兵を配置した。さらに今中具藤に命じて、刑部の役人たちに令状を持たせ、都中を捜索させた。死士たちが紫乃を匿い、機を見て都から連れ出そうとしている可能性も考えられたからだ。最も懸念されたのは、さくらが追跡に出た時には、すで
半時間ほどして、使いの者が戻って来た。「沢村お嬢様は御屋敷にはおられませんでした。屋敷の者の話では伊織屋にいらっしゃるとのことで、そちらまで確認に参りましたが、工房にもお姿はありませんでした。ただし、本日燕良親王家から物資が届いているそうですが、沢村お嬢様は直接受け取っておられず、確認されていない荷物が外に積まれたままとのことです」さくらの心臓が一瞬止まりそうになった。燕良親王家から伊織屋へ物資?紫乃は?そして紅羽たちは?紫乃と一緒にいるのだろうか?急いで立ち上がると、外に飛び出して「粉蝶!」と呼びかけた。しばらく待っても返事はない。おかしい。今日は確かに自分の側にいたはずなのに、どこへ消えたのだろう。何か様子がおかしい。とても。「上原殿、どうされました?」村松が駆け寄ってきた。「粉蝶さんをお探しですか?戻る途中で彼女と行き違いました。かなり慌てた様子で立ち去っていきましたが」「どこで会ったの?」さくらは息を切らして尋ねた。「禁衛府の外の通りです。城門から戻る途中でした」「つまり、燕良親王が都を出る時?」さくらの胸に重たい塊が沈んだ。馬小屋へ走りながら、村松に叫んだ。「今夜の訓練は中止!全員で沢村紫乃を探しに行く。山田鉄男の禁衛も呼んで!」紫乃に何かあったのかはわからない。ただ、胸の中の不安が刻一刻と大きくなっていくのを感じた。「上原殿!」村松も追いかけてきた。「師匠様は単に親王家や工房以外の場所にいらっしゃるだけかもしれません。そこまで心配なさらなくても」「だからこそ探すのよ!」さくらは稲妻の手綱を取ると、一気に跨って駆け出した。まず都景楼へ向かった。雲羽流派の支部があるはず。紅羽がいないか確認するためだ。都景楼の番頭の話では、紅羽どころか他の密偵たちの姿も見ていないという。何の連絡もないまま、皆が忽然と姿を消していた。村松が部下を引き連れて追いついてきた時、さくらは焦りを帯びた声で言った。「工房へ行って紫乃が今日立ち寄ったか確認して。それと、誰かを親王家にも遣わして、紫乃が燕良親王邸以外にどこかへ行くと言っていなかったか聞いてきて」「承知いたしました!」村松は師匠のことが心配になった。さくらがここまで取り乱すのは珍しい。すぐに馬を返して部下たちに指示を飛ばした。工房に着いた村松は、師匠が来ていないこ
さくらは燕良親王一家の都落ちの日取りを把握していた。そのため、御城番の兵士たちに見張りを命じ、一行が都を出た後に報告するよう指示を出していた。村松碧が自ら部下を率いて監視に当たった。燕良親王家の馬車の列が堂々と城門を抜けていく様子を見守る。親王の身分ゆえ、出城の際の検査は免除されていたが、それでも燕良親王は馬車の簾を上げ、軽く頷いて会釈を返した。城門を守る若き松平将軍も、深々と一礼して見送った。検分の命令がない以上、誰も車駕を調べる勇気などなかった。そもそも親王が令符を示せば、姿を見せることすら必要なく通行が許されるのだ。村松たちはその場を離れ、禁衛府に戻ってさくらに報告した。さくらは燕良親王一家の出立を聞き、やっと胸を撫で下ろした。最近、御城番では体力検査を実施していた。不適格者を淘汰したとはいえ、まだ精鋭部隊とは言い難く、その多くが玄甲軍出身というには相応しくない有様だった。数年の緩みで、規律正しい兵士までもが堕落してしまっていた。俸禄さえもらえるなら、なぜ苦労して訓練する必要があるのかと、皆が怠惰な考えに染まっていた。もちろん、自らが玄甲軍であることを忘れない者たちもいた。だが、それは少数派に過ぎなかった。多くの者が誘惑に負けてしまう。清水一椀に墨一滴落とせば、水全体が黒く染まってしまう。だが、墨一椀に清水一滴を落としても、跡形もなく消えてしまうものなのだ。さくらは焦りを感じていた。自分の指揮官としての立場が長くは続かないだろうと悟っていたからだ。兵士たちの怠惰な性質は根深く、自ら監督せねばならなかった。村松の威厳が一向に確立されないことも、彼女の頭痛の種だった。今日の集中訓練では、さくら自身が隊列に加わり、兵士たちと共に走り、跳び、よじ登り、組み手をした。誰でも彼女との手合わせを歓迎すると宣言した。紫乃が以前から言っていた通りだった。御城番の連中は腐っている、まともな訓練など一度も受けていないのだと。紫乃に統率できないなら、自分がやるしかない。訓練場では、照りつける陽光の下、さくらは素手で次々と兵士たちと対峙した。日中の訓練で数人が熱中症を起こしてからは、夕暮れ時に訓練を移した。幾日もの訓練で、さくらの白い肌は様変わりした。最初は真っ赤に日焼けして皮が剥けたが、今では健康的な小麦色に変わっていた。日中は
荷物は五台もの車に及び、植木は荷車で運ばれることになった。親王家の使用人のほとんどが総出で手伝いに出ていた。出発の時、燕良親王も姿を現した。男性的な魅力を漂わせながら、慈悲深げな表情で紫乃に声をかけた。「これらが工房のお役に立てば幸いです。屋敷にはまだ色とりどりの刺繍糸も残っておりまして、上質な刺繍品が作れそうなものばかり。もしよろしければ、沢村お嬢様にも見ていただきたいのですが」紫乃は警戒心を抱きながらも、丁寧に断った。「結構です。外に運び出していただければ」「無理には申しません」親王は振り返って家人に命じた。「刺繍糸もすべて運び出すように。車が足りなければ追加で手配するように」使用人たちが急いで中へ戻る中、親王は紫乃の姿を眺めた。蓮の花びらを思わせる薄紅色の単衣に浅緑の袴姿。その清楚で愛らしい装いに、親王の目元が柔らかくなる。「紫乃も喉が渇いたでしょう?お茶と菓子を」「紫乃」という呼びかけに、紫乃は思わず吐き気を覚えたが、何とか抑え込んだ。「喉も渇いておりませんし、お腹も空いてはおりません」紫乃は礼儀正しく答えた。「ご配慮ありがとうございます」親王の視線が紫乃の頬に長々と留まった。「では、強いることはいたしません。私も荷造りがございますので、これで失礼いたします」「どうぞお戻りください。こういった些細なことでお手を煩わせてはなりません」普段なら強気な物言いをする紫乃だが、工房の代表となってからは、自然と言動に気を配るようになっていた。工房の評判を傷つけるわけにはいかなかった。これまでにも、散々な噂や中傷に晒されてきた工房だったのだから。寄付に関しては、さくらや清家夫人とも相談済みだった。使えるものは何でも受け取る方針で一致している。まだ工房は採算が取れていない。働く人たちの衣食を支えなければならない。それに、寄付を受けることで善意を受け入れ、より多くの人々の理解と関心を集めることもできる。もちろん、寄付の受け取りは自分たちが担当し、澄代や錦重には表に出させない。そこは徹底していた。色とりどりの刺繍糸が束になって次々と運び出されてくる。予想以上の量に、紫乃は沢村氏に尋ねずにはいられなかった。「これほどの量の刺繍糸を、何のために?」「都での日々は退屈で、友人もいませんでしたから」沢村氏は溜め息まじりに答