彼も賭けることはできなかった。たとえ美音の命を賭けるとしても、相手が応じてくれる保証はなかったのだから。州平のその言葉を聞いて、海咲はやはり胸が締め付けられるように切なくなった。長い間続いた冷戦の間、彼女は一人ですべてに立ち向かってきた。本当に辛かった。どれだけ平気なふりをしても、どれだけ強がっても、愛に囚われてしまえば人は脆いものだ。再びその言葉を聞いたとき、海咲の目は赤く染まり、涙が知らず知らずのうちに流れ落ちた。その涙は、彼女の心の痛みや辛さが、まるで滝のように一気にあふれ出たものだった。州平は彼女の震える肩を見て、どれほど辛い思いをしてきたのかを察し、すぐに彼女を抱き寄
白夜の表情は険しくなった。「一体どういうことなんだ」彼は州平が解毒剤を手に入れたものだと思っていた。州平が毒に侵された後、意識を取り戻せたということは、朔都がすでに解毒剤を渡していたはずだ。それなのに、どうしてこんな症状が出るのか。「俺にもよく分からない」州平は自分はもう大丈夫だと思っていたが、数時間後に身体が激しく反応し始めた。「もしかしたら、朔都が本当の解毒剤を渡していなかったのかもしれない」あの狡猾な朔都なら、何らかの策を残している可能性は十分にある。白夜は州平を支え、近くの椅子に座らせた。この状況は彼にさらに困難をもたらした。「君に侵された毒は、海咲の症状とは違う」州平の
「そうだと思う。でも、迷惑をかけてしまったね」「何言ってるんだよ、私たちは友達だろう?それに君とは関係ないし、逆に君は私のためにいろいろ心配してくれてるじゃないか。私がこんな他人行儀なことを言ったことないのに、君がそんなことを言うなんて、まさか私のこと友達だと思ってないのか?」小春は笑顔で続けた。「きっとまだ見てないと思うけど、いいニュースがあるんだよ!私たちのドラマ、大ヒットしたんだ!」海咲にとっては思いがけない大ニュースだった。「本当?」小春はさらに続けた。「長い準備期間が功を奏したね。視聴率は歴史上の最高記録を超えたんだよ。時間があるときにぜひ見てみて!それともう一つ、『幽骨』は
妊娠中の女性はそれだけで大変だ。こんなにもお腹が大きくなっているのに、彼は父親としての責任を果たせていない。彼女をしっかり支えることができず、独りで多くを背負わせてしまったことに対し、州平は深い罪悪感を覚えていた。海咲に対して、彼には負い目がたくさんある。海咲は彼の目が赤くなっているのを見て、微笑みながら、彼の手の上に自分の手を重ねた。「今はちゃんとお腹の中で元気にしてるじゃない。妊娠中は少し不便になるものよ。辛いと言えば辛いれど、それも幸せなことよ。毎日、この子が生まれてくるのを楽しみにしているから、それだけで嬉しいの」州平は言った。「本当に苦労ばかりかけている。もうこんな思いはさせ
州平は一瞬動きを止めた。「動いた!」海咲もその感覚を感じ取った。「だから言ったでしょ、本当だって」州平は再び顔を彼女のお腹に近づけた。「俺のことを感じ取ったのかな?」海咲は彼を見下ろしながら微笑んだ。「たぶんね。赤ちゃんってすごく敏感なのよ。まだ生まれてないけど、私たちの話を聞いてるのかもしれないわ」州平はその瞬間、これまでとは違う感覚を覚えた。父親になる喜び、それが心の中にしっかりと根付いていくのを感じた。彼はそっと海咲のお腹にキスをした。その一瞬一瞬が彼にとってかけがえのない時間だった。海咲は彼の頭を軽く撫でながら言った。「もうすぐ会えるわね。確かに今まであなたはこの子と一緒
「うん」海咲は数秒間、呆然とした。まだこの情報を受け止められない。彼女の心の中にいたヒーローの湛ちゃんが、まさか架空の人物だったなんて。それなら、彼女と州平の始まりは、彼女の幻想によるものだったというのか?彼女がヒーローを追いかけた末に州平と結ばれたはずなのに、彼はそれを「記憶の混乱」として片付けてしまった。そんな結果が、海咲には到底受け入れられなかった。それはまるで信じてきたものが少しずつ崩れていくような感覚だった。彼女自身も時折疑ったことはあったが、その美しい記憶を壊したくなかった。だから、彼女は州平をじっと見つめながら、心の底からそれを否定した。「違う!」海咲は強調するよ
彼は幸運だったのだろう。前半生の彼は、何に追われていたのかさえ分からなかった。少しの成功と役職を手に入れていたものの、その人生は決して満たされておらず、空虚だった。ただ生きているだけ、妥協しながら過ごす毎日。目指すべき方向も何もなかった。葉野家に戻り、祖父の遺志を継ぐことになった時も同様だった。彼は分かっていた。祖父が彼に負い目を感じていたのだと。葉野家での年月、彼は父の愛も母の愛も知らず、ただ「葉野家の人間」という重荷を背負わされていた。物質的には裕福だったが、心は常に貧しかった。だからこそ、祖父は彼を憐れみ、誰かが彼を心から愛してくれるよう願ったのだ。そして、ちょうどそ
州平は彼女の言葉に思わず笑みを浮かべ、彼女の鼻を軽く摘んで言った。「本当にそんなに子どもが好きなら、将来養子を迎えてもいいさ。君には苦労してほしくない。この子ができたのは予想外のことだが、すでに君にはたくさんの苦労をさせてしまった」海咲は優しく答えた。「そんなことないよ。自然の流れに任せるだけ。楽しく生きられれば、それだけで十分だよ」州平は彼女を見つめ、彼の目には深い愛情が滲み、唇の端が自然と持ち上がった。「もう遅い、そろそろ寝よう」「うん」海咲はそのまま横になり、自分にとって心地よい位置を見つけて安心して目を閉じた。何日も走り回った後だったので、彼女にはしっかり休息が必要だった。
周囲からのざわめきが次第に大きくなり、多くの議論が飛び交う中、モスは冷静を装い、その表情には一切の変化がなかった。一方で、州平は星月を腕にしっかりと抱きしめていた。その沈黙の中に、彼の意志と覚悟が明確に表れていた。本来ここまで事態を進めるつもりはなかったが、モスが彼をここまで追い詰めたのだ。州平は低い声で口を開いた。「解毒薬を渡せ。俺は生まれながらにして江国の人間だ。ここにいるのは、お前が俺を救ったからだ。だが、俺はずっと江国に戻る機会を探していた」「大統領!江国人をここに留めておくべきではありません!」「大統領、慎重に考えるべきです!」モスの側近たちが次々と口を挟み、圧力をかける
白夜は即座に「分かった」と答えたが、海咲は納得がいかず、何か言おうとした瞬間、白夜が彼女の手を掴んだ。「海咲、今の状況でお前が追いかけて行っても、何もできない」彼は落ち着いた声で続けた。「全て葉野州平に任せろ。心配するな、俺がここにいる限り、どんな薬でも必ず手に入れてみせる」白夜は唇を引き締めながら、確信を込めてそう告げた。その決意は、彼が再び薬人に戻る覚悟さえ示しているようだった。海咲は白夜が全力で助けてくれると分かっていたが、今の彼女の心を占めていたのは、星月への心配だった。わずか5歳の子供が、これほどの痛みを背負わなければならないことが、母親として胸を引き裂くような思いだった。
州平は海咲の前に立ち、柔らかな笑みを浮かべながら言った。「海咲、俺たち復縁しよう。そして一緒に京城に帰ろう」その言葉には、彼の強い決意が込められていた。一家団欒という夢のような光景が、ついに現実になろうとしている。それは海咲にとって信じがたいもので、夢の中の出来事のようだった。彼女は無意識のうちに手を伸ばし、州平の顔に触れた。その感触があまりにも現実的で、喉が締めつけられるような感覚に襲われた。しかしその瞬間、星月が突然倒れ、痙攣を起こした。顔は苦痛に歪んでいた。「星月!」海咲は叫び声を上げた。かつて星月の異変に気づいたとき、海咲の気持ちは単なる憐れみだった。しかし今は、一人の母親
海咲は星月の手を引き、食べ物を探しに向かった。彼女は決意していた。戦場記者としての仕事を辞め、星月を連れて京城に戻り、普通の生活を送ることを。星月を学校に通わせ、自分は働いて生活費を稼ぐ。それが、母としての務めだと考えた。州平は、海咲が会話する気がないと察すると、それ以上は何も言わなかった。一方、白夜は…… 彼はすでに全てを理解していたが、その険しい表情は、彼の内心の複雑さを物語っていた。州平が「死んだ」とされていた間、白夜は自分にチャンスがあると信じていた。しかし、この5年間どれだけ努力しても、海咲は心の中に彼を住まわせることはなかった。そして今、州平も星月も生きている。三人が
白夜の瞳が一瞬震えた。「俺は軍に召集されていて、今日ようやく出てきたところだ」清墨はようやく状況を理解し、軽く頷いた後、白夜に視線で指示を送った。「いいから、まずは俺とこの子の血縁鑑定をやってくれ」「分かった」だが、白夜が星月の血を採取しようとすると、星月は激しく拒絶し、怒りを湛えた瞳で彼らを睨みつけた。その表情は、まるで追い詰められた小動物のようだった。星月は咄嗟にその場から逃げ出そうとし、清墨は彼を宥めようと声をかけた。「これはただの検査だ。君に病気がないか確認するだけだよ。俺たちは海咲の友達で、害を与えるつもりなんてない」しかし、星月は歯を食いしばり、力を振り絞って言葉を絞
今は、彼をまず宥めて食事をさせるしかない。清墨の言葉は効果があった。星月は食事をするようになったが、それ以外の言葉は一切発しなかった。そんな星月の様子を見つめながら、清墨は一瞬逡巡した末、白夜に電話をかけた。電話はすぐに繋がった。「清墨若様」白夜が冷静な声で応じる。「海咲が助けた子供がいるんだが、その子が全然口を利かなくてな。きっと何か問題があるんだと思う。お前、最近S国にいるか?いるなら、こっちに来てその子を診てやってくれ」海咲がS国で戦場記者をしている間、白夜もまたこの地で小さな診療所を開き、現地の住民の診療をしていた。海咲への執着を父親が知り、白夜の戸籍を元に戻して、普通の
海咲は少しの恐れも見せずに立ち向かっていたが、州平は彼女の手をしっかりと握りしめていた。モスは何も言わなかったものの、その目の奥に渦巻く殺気を海咲は見逃さなかった。彼の全身から放たれる威圧感は、まるで地獄から現れた修羅そのものだった。モスは一国の主として君臨してきた。戦場では勝者として立ち続け、彼に対してこんな口調で言葉を投げかける者などこれまで存在しなかった。「一人にならないことを祈るんだな……」モスが冷ややかに言い放とうとしたその言葉を、州平が激しい怒りで遮った。「彼女を殺すつもりか?それなら俺も一緒に殺せ!」州平の瞳には揺るぎない決意が浮かび、それは瞬く間に彼の全身を駆け巡っ
州平がここでこんな言葉を投げかけてくるとは、一体どういうつもりなのか?彼の行動に、誰からの指図や批判も必要ないというのが彼の考えだった。一方で、州平の表情も決して穏やかではなかった。彼は手を伸ばして海咲を自分の背後に引き寄せると、冷然とした口調で言い放った。「君が聞きたくないなら、それは君の勝手だ。他人を巻き込むな」この言葉は、若様としての地位を彼が放棄する覚悟であるとも受け取れる。そしてその決意の背景には、州平自身の立場、特に温井海咲という女性の存在があった。モスは銃を取り出し、引き金に指をかける。だがその瞬間、州平が海咲の前に立ちはだかった。州平は、死をも恐れない覚悟をその目
これが本当の州平だった。海咲は、先ほどまで彼に怒りを感じていたとしても、目の前のこの男を深く愛していた。彼が目の前で死を選ぶようなことは、彼女には絶対に受け入れられなかった。ましてや、彼の部下が話してくれたことや、彼自身の説明、そして彼の置かれている状況を理解できた彼女にとって、州平の苦境は痛いほど心に響いた。海咲は州平をさらに強く抱きしめた。「州平、あなたにはあなたの立場がある。正直言って、あなたのお父さんがあなたを助けてくれたことに感謝している」もし彼の父親がいなければ、州平はあの冷たい川の中で命を落としていたかもしれない。そうなれば、彼女は州平と再び会うことも、今のように彼を