すべてが終わった後、光莉は力なく横を向き、静かに目尻の涙を拭った。 背後から、高峯が彼女を抱きしめ、肩に軽く口づける。 「光莉、ちゃんと離婚して、俺のもとへ戻ってこないか?そうすれば、お前も藤沢家との争いを心配しなくて済む。あの男にだって、お前の再婚を邪魔する権利はないはずだ」 光莉は疲れたように目を閉じた。 「......どうすれば、私を解放してくれるの?」 たとえ離婚したとしても、高峯と結婚するなんてあり得ない。 「手放したくない。本来、お前は俺の女だ。俺は本気でお前を愛してる。そうじゃなければ、俺たちの子供をここまで育てたりしない」 「......つまり、何があっても手を離さないつもり?一生、私にまとわりつく気?」 光莉がそう問いかけたとき、その胸には深い絶望が広がっていた。 高峯はため息をつく。 「光莉......どうして俺を許してくれない?俺のお前への想いは、あの男にも負けていない......それに、西也に償いたいとは思わないのか?彼に真実を教えたくはないのか?」 「......その名前を口にしないで」 光莉の声が冷たくなる。 西也のことを持ち出されると、胸が痛んだ。 彼女の息子を奪ったのは高峯なのに、今になって西也を利用して自分を縛ろうとするなんて。 ―なんて狡猾な男。 彼女は母として、自分の息子を見捨てることなどできなかった。 西也が自分の息子だと知ったとき、彼と向き合いたいと思った。 でも、勇気が出なかった。 彼女には西也だけでなく、修というもう一人の息子がいる。 こんな状況になるなんて思ってもみなかった。 もし時間を戻せるなら、高峯なんて男と出会うことも、曜と関わることもなかったのに。 結局、彼女の人生は「男運」がなさすぎた。 ―どうして、私はいつも最低な男ばかり選んでしまうのか。 しかも、そんな男たちに限って、あとになって未練たらしく彼女にしがみついてくる。 ―本当に、笑わせるわ。 その夜、光莉はよく眠れなかった。 高峯の腕の中で、何度も悪夢を見た。 翌朝、高峯に無理やり朝食を取らされ、それからようやく彼の家を出ることができた。 車でヴィラの専用道路を走っていると、前方に車が一台、道を塞ぐように停まっていた。 光莉はブレーキを踏
光莉はじっと花を見つめた。 何も言わず、ただ静かに― 花は彼女を一方的に非難し、何も知らずに罵っている。 以前の光莉なら、すぐに言い返していただろう。 けれど、今はそんな気力すら湧かなかった。 光莉が沈黙を続けていると、花は苛立ち、眉をひそめる。 「なぜ黙っているのですか?何か後ろめたいことがあるのですか?図星を突かれたから?」 「お嬢ちゃん」 光莉は落ち着いた口調で答えた。 「ここで私を待ち伏せしていたということは、私のことを調べたのでしょう?......なら、なぜ私があなたの父と関係を持つことになったのか、考えたことはあるか?」 「考える必要なんてありません」 花の声が怒りに震える。 「あなたが父を誘惑したからでしょう!?もういい歳なのに、恥を知るべきでは?」 光莉はふっと笑った。 「私の歳が問題なの?それなら、若ければ誘惑してもいいの?歳をとったらダメなの?」 「話をすり替えないでください!」 花は語気を強める。 「どう言い訳しても、あなたが父を誘惑したのは事実です。あなたのせいで、私の両親は離婚したんですよ?......あなたはただの不倫女です!」 彼女は吐き捨てるように言った。 「しかも、あなたには夫もいて、息子もいる。それなのに、どうしてこんなことを?お金に困っているわけでもないのに、何が目的ですか?......スリルが欲しかったのですか?」 花の非難が続く中、光莉は相変わらず静かに彼女を見ていた。 無言のまま、ただじっと。 それが花をさらに苛立たせた。 「......もしかして」 花の目が鋭く細められる。 「兄への復讐ですか?」 その言葉に、光莉の表情が一瞬だけ動いた。 花はそれを見逃さなかった。 「そうでしょう?」 彼女は確信したように言う。 「兄があなたの息子の妻を娶ったことが気に入らないから、父と関係を持ったんですよね?そのせいで、こんな恥知らずな真似を......!」 花の怒りは収まらず、なおも続ける。 「あなたもあなたの夫も、それなりの地位のある人でしょう?こんなことが世間に知れたら、どうなるか考えたことはありますか?」 「なら、あんたも黙っておいたほうがいいわ」 光莉は花に一歩近づき、低い声で囁くように言っ
「お父さん、本当にそう思っているんですか?」 「じゃあ、お前はどうなんだ?」 高峯は言った。 「花、お前は馬鹿じゃない。いろいろなことを西也と一緒になって隠していただろう?なら、お前の義姉が本当は誰を愛しているのか、一番よく分かっているはずだ」 「......」 花は言葉を失った。 高峯は手を伸ばし、娘の肩を軽く叩く。 「お前も、西也を傷つけたくはないだろう?」 「......でも、お兄ちゃんが傷つく運命だったら、どうすればいいんですか?もし最後に......最後に、若子が愛してはいけない人で、お兄ちゃんもあの子を自分の子供として受け入れられないとしたら......」 この秘密を知っているのは、彼女と成之だけ。 父はまだ何も知らない。 「どうして西也に、若子が愛してはいけない人だと知らせる必要がある?恋愛において、少しくらい愚かなほうが幸せだ」 高峯は、ふと自分と光莉のことを思い出す。 ―本来ならば、光莉も「愛してはいけない人」だった。 彼女は曜の妻だった。 それでも、彼はどうしても彼女を手に入れたかった。 たとえ脅してでも、一緒にいる時間を作りたかった。 そして今、自分の息子もまた、誰かの妻を愛している。 ―俺たちはやっぱり親子だな。どこまでも、同じように頑固だ。 自嘲気味に笑った父の顔を見て、花は少し不思議に思った。 ―お父さん、まるで自分のことを言っているみたい...... 「......お母さんは、お父さんとの恋愛で、『愚か』だったってことですか?」 彼女は、つい母のために言い返してしまう。 ―お母さんの何がいけなかったの? 今まで、父が単に若い女性が好きなだけなのかと思っていた。 けれど、彼が選んだのは若い娘ではなく、他の誰かの妻だった。 それが、彼女には理解できなかった。 ―どうせなら、ただの浮気のほうがマシだったのに...... どうせなら、若くて綺麗な女と遊んで、すぐに飽きてしまえばよかったのに。 けれど、そうではなかった。 ―お父さん、本当にあの人を愛してるの......? それが怖かった。 紀子のことを聞いた途端、高峯は眉をひそめた。 「前にも言ったはずだ。俺とお前の母親は、もう離婚したんだ」 花は胸に湧き上がる
花の言葉は、高峯の怒りを一気に爆発させた。 彼は鋭い目つきで娘を睨みつけ、まるで今にも飛びかかってきそうな獣のようだった。 「今すぐここから出て行け。俺の許可なしに二度と来るな!」 そう言い捨て、高峯は背を向けた。 しかし、花も負けてはいなかった。 地面に倒れたままではいられない。彼女はすぐに立ち上がり、父の背中に向かって叫んだ。 「お父さん、あんまりです!お母さんを利用するだけ利用して、最後は捨てて離婚して、別の女と一緒になるなんて......そんなことして、良心は痛まないんですか!?」 高峯の足が止まる。 彼は拳を強く握りしめ、歯を食いしばった。 「......お前の母親に言われて来たのか?」 「お母さんは関係ありません!」花は鋭く言い返した。「私はただ、いったいどこの女がお父さんを誘惑したのか知りたかっただけ!......でもまさか、こんなオバサンだったなんて!」 もし相手が若い女だったなら、そこまで驚きはしなかった。 もちろん腹は立っただろうが、それでもまだ「新しいものに目移りする」くらいの理由にはなる。 だが、よりによって父親が選んだのは、夫も子どももいる中年の女性だった―そんなの、現実味がなさすぎる! 「彼女は俺を誘惑したんじゃない!」 高峯は怒りのあまり声を荒げた。 「お前、俺と彼女の関係が知りたいんだろう?いいだろう、教えてやる」 彼は狂気を孕んだ笑みを浮かべながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「彼女は俺の初恋だ。俺が心から愛した女だった......だが、権力のためにお前の母親と結婚し、彼女を捨てた。ずっと後悔していた。そして今、俺は光莉を取り戻すためなら、どんな手段でも使う」 高峯の目が、獲物を捕らえた獣のように鋭く光る。 「だから俺は彼女を......力ずくで奪った。証拠の動画も撮ってある。もし俺と寝ることを拒めば、あの認知症の姑の元へ行ってやる。息子に、夫に、すべてをぶちまけてやる!あの家を一生、地獄に叩き落としてやるんだ!」 彼の表情は狂気じみていき、ついには声を上げて笑い出した。 「......これで、分かったか?」 彼は大股で花に歩み寄ると、その細い肩をがっしりと掴んだ。 「俺は自分の欲しい女のためなら、何だってやる。お前が俺の娘だろうと関係ない
花は泣きながら飛び出していった。 車に乗り込むと、そのままハンドルに突っ伏し、嗚咽を漏らす。 涙は止まらず、目はすでに赤く腫れていた。 ―どうして、父さんはこんな人なの?どうして......? ただ厳しいだけ、他人に冷たいだけの人だと思っていた。 でも違った。彼は狂ってる。家族にまで、あんなことをするなんて。 彼女は、彼の娘なのに。 さっき、もう少しで首を絞められて殺されるところだった― 痛む喉をさすりながら、花は車を走らせた。 向かったのは、祖母の家。 玄関を開けた瞬間、泣きながら叫んだ。 「おばあさん!おばあさん......!」 助けを求めるように、泣きながら走り込む。 紀子が物音を聞きつけ、すぐに階下へ降りてきた。 「花?どうしたの、こんな時間に......?」 「お母さん......!」 花は勢いよく飛び込み、母にしがみついた。 「どうしたの、花?何があったの?」 紀子は驚きながらも、娘をしっかり抱きしめる。 そして、そのとき気がついた。 花の首元―赤く痕がついている。 「......花、首を見せて」 そっと顔を上げさせると、首にはくっきりとした指の跡。 まるで誰かに強く締めつけられたような痕だった。 「どういうこと?誰がこんなことを......?」 紀子の声が強張る。 「早く教えて。誰にやられたの?」 花は涙を拭い、震える声で答えた。 「......父さん」 「......何ですって?」 紀子は息を呑んだ。 「......あの人が、あなたに手を上げたの?」 「お母さん......」 花はまた泣き出した。 紀子はすぐに花を抱き寄せ、ソファに座らせると、ティッシュで彼女の顔をそっと拭った。 「もう大丈夫だから。落ち着いて話して。何があったの?」 彼女は焦燥の色を隠せなかった。たった一人の娘なのだから。 母は体が弱い。花を産むのもやっとのことで、ずっと大事に育ててくれた。 父は厳しかったけど、それでも手を上げたことはなかったはず。 ―でも、今日、あの人は...... 紀子は震える娘を見て、怒りで体が熱くなった。 「お母さん......父さんが、どうしてお母さんと離婚したのか......全部知ってたの?
「お母さん、本当に少しも悔しくないの?こんな仕打ち、どうして耐えられるの?」 花には想像もできなかった。 母がこんなにも長い間、ただ耐え続けてきたなんて。 「愛のためだとしても、こんなに惨めな恋が、本当に愛なの?愛って、お互いに支え合うものじゃないの?でも、父さんは何をしてくれた?」 これまでずっと、高峯は求め続けるばかりだった。 それに対して、紀子は何もかも差し出してきた。 ―バカみたい。 「花、あんたが怒るのは分かる。でも、これは私が自分で選んだことなの」 紀子は静かに言う。 「愛にはいろんな形があるのよ。私は、この形を選んだだけ。バカだと言われても構わない。お父さんは、私を愛してはいなかったかもしれない。でも、愛がなかった以外は、特に大きな問題のある人じゃなかった。それに......これは、きっと天罰なのよ。だって、私は自分を愛してくれない人と結婚したんだから。この苦しみは、私が自分で選んだものなの」 「なんでお母さんが罰を受けなきゃいけないの?」 花は怒りを抑えられなかった。 「父さんは、自分の目的のためにお母さんと結婚したのよ?罰を受けるべきなのは、あの人のほうじゃないの?」 「花......」 紀子は少し困ったように微笑む。 「彼はあんたの父親よ。私たちがどうなろうと、彼はあんたを大切に育てたでしょう?だから、そんな言い方はやめて。お願いだから、お母さんのために」 花は涙を拭いながら、悔しそうに唇を噛む。 「......お母さん、そんなふうに父さんをかばって、それが本人に伝わると思う?あの人の頭の中には、もう他の女のことしかないのよ?」 「どうしてお母さんは、こんなに優しいの......?お母さんがもっと強かったら、父さんはお母さんを捨てなかったかもしれない。あの女のことで必死になることもなかったかもしれないのに......!」 「この世界には、もう悪い人が多すぎるのよ」 紀子は穏やかに微笑んだ。 「だから、私は悪い人になりたくなかったの」 その目には、優しさだけでなく、どこかやるせなさが滲んでいた。 「お母さん......」 花は声を震わせながら、涙をぼろぼろと零す。 彼女の頬は、汗と涙でぐしゃぐしゃになっていた。 紀子の視線が、再び花の首元へと移る
「このこと、おばあさんに話す。おばあさんだったら、父さんを止められるはず。見てなさい、絶対にこのまま終わらせたりしない!」 花は怒りに震えながら言った。 その表情を見た紀子は、胸が締めつけられるような思いだった。 ―このままでは、花がいつか高峯と同じようになってしまう。 彼女の中に流れているのは、間違いなくあの人の血。 だからこそ、必死に寄り添い、育ててきた。 たとえ離婚したとしても、花には決してあの人のようになってほしくなかった。 「花、待って」 突然、紀子が彼女の手を取った。 「おばあさんに話さないで」 「......なんで?」 花は思わず声を荒げた。 「お母さんは、まだあの人たちの肩を持つの!?どうして?どうして!?なんであんな最低な二人を庇うの!?」 「違うのよ、花」 紀子は娘の肩をしっかりと掴み、真剣な表情で言った。 「お母さんは、あの人たちを庇ってるんじゃない。ただ、あんたを守りたいのよ」 「そんなのおかしいよ!どうしてそれが私を守ることになるの!?」 「お母さんはね、花の心が憎しみでいっぱいになるのが怖いのよ。おばあさんに話せば、きっと何かしら行動を起こすでしょう?そうなったら、すぐにお父さんにもバレるわ。私は、あんたとお父さんが敵対するようなことにはなってほしくない」 「でも、父さんと対立するのがそんなに悪いこと?お母さん、本当は父さんをかばってるんでしょ?」 花は悔しそうに言った。 「お母さんは、私が父さんを嫌うのが嫌なんでしょ?でも......でも私は、お母さんのことが好きだから!」 「......本当に、いい娘を持ったわ」 紀子は穏やかに微笑んだ。 「私を守ろうとしてくれるのは、とても嬉しい。でも、もしこのことが大事になったら、私はもっと苦しくなる。だからお願い。おばあさんには言わないでほしいの」 紀子の切実な願いに、花はため息をついた。 「......分かった。お母さんがそこまで言うなら、言わない」 「いい子ね」 紀子は娘の頬に手を添え、優しく微笑んだ。 「お父さんの件は、私が直接話すわ。もしまたあんたを傷つけるようなことをしたら、そのときは絶対に黙っていない」 彼女の声は優しかったが、そこには決意が込められていた。 何があ
花は母のために納得できない気持ちを抱えながらも、結局、弥生には何も話さなかった。 祖母は、それとなく話を聞き出そうとしていたが、花は慎重に言葉を選び、ひたすら話をそらし続けた。 最終的に、弥生も追及をやめ、ただ孫娘が母親に会いに来ただけだと思ったようだった。 数日後。 高峯はオフィスで書類をめくりながら、片手にスマートフォンを持ち、通話をしていた。 だが、書類の内容などまったく頭に入ってこない。 彼の意識は、電話の向こう側にすっかり奪われていた。 「二人きりで旅行でもしよう。どこの国に行きたい?」 「光莉、そんなに怒るなよ。落ち着いてくれ。ただ、誰にも知られずに二人きりで過ごしたいんだ。もし行きたい場所がないなら、俺が決める」 「おいおい、お行儀が悪いぞ。そんな言葉を使うな」 「じゃあ、決まりだな。場所は俺が選ぶ。すぐに行けとは言わないさ。最近は俺も忙しいし、ただ、ちょっと話しておきたかっただけだ」 「......おい、またか?そんなに罵られると、俺は悲しくなるぞ?」 そう言いながらも、高峯の口元には満足げな笑みが浮かんでいた。 だが、次の瞬間― 「どいて!」 突然、オフィスの外から怒声が響いた。 「申し訳ありません。社長は現在お忙しいので......!」 「私が誰か分かって言ってるの?すぐに通さないと、あんたたちの社長なんて簡単に失脚させられるわよ!」 高峯は眉をひそめ、通話相手に向かって低く言った。 「悪いが、また後で連絡する」 そう言って、一方的に通話を切る。 次に、机のボタンを押し、秘書に指示を出した。 「入れてやれ」 間もなく、扉が勢いよく開いた。 入ってきたのは、怒りに満ちた表情の紀子だった。 高峯はちらりと彼女を見たが、驚きはしなかった。 ―来ることは予想していた。 彼は秘書に目を向け、「コーヒーを出せ」と命じた。 「かしこまりました」 秘書が動こうとした瞬間、紀子が冷たく言い放つ。 「必要ないわ。あんたと話すだけだから、すぐに帰る。この忌々しい場所に長居するつもりはないのよ」 秘書は気まずそうな顔をしたが、高峯が軽く手を振ると、そのまま退出していった。 扉が閉まると、高峯はゆったりと椅子に寄りかかったまま、立ち上がろうともし
若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった
確かに、修もヴィンセントに銃を向けた―でも。 あの時、若子の目に映った修の目は......あんな狂気に満ちたものじゃなかった。 しかも、あの場面で修は西也を止めていた。もし本気でヴィンセントを殺すつもりだったら、止める理由なんてなかったはず。 だから、若子は......修を選んだ。 黙り込む若子に、修がそっと問いかけた。 「若子......まだ答えてないぞ。俺のこと、信じてないって言ったのに、どうして俺を選んだんだ?」 「......もう、聞かないで」 若子はうつむいて、ぽつりと呟いた。 「ただ、その場で......なんとなく、選んだだけ。深くは考えてなかったの」 西也のことをここで悪く言うつもりはなかった。あれは彼女の個人的な「感覚」に過ぎない。言葉にするには、曖昧すぎる。 修は深く息を吸い込み、しばらく黙ったまま天井を見つめていた。 「......わかった。もう聞かないよ。でも、若子......もし、こいつが死んだら......お前は、どうするつもりなんだ?」 「そんなこと言わないで!彼は、死なない!絶対に、死なないんだから!」 「でも......」 修の口から出かけた言葉を飲み込む。 ヴィンセントの状態は、正直、絶望的だった。助かる可能性は限りなく低い。でも―今の若子に、それを突きつけるなんて......できなかった。 西也だけでも、十分に厄介だったのに、そこへ現れたヴィンセント。命を賭して彼女を守ったこの男。 一方は陰険で冷静な策士、もう一方は命を投げ出す危険人物― 修の胸は、重く沈んだ。 この泥沼の関係、一体いつ終わるのか。 そして― ―侑子は大丈夫だろうか...... 自分が出て行ったとき、きっと彼女は傷ついていた。放っていくしかなかった自分の無力さを噛み締めながら、彼はただ、唇をかみしめた。 侑子に対して抱くのは、情と同情。 でも―若子に対しては、愛。どうしようもなく、深い愛。 ようやく車が病院に到着し、すでに待機していた医療スタッフが慌ただしく駆け寄ってきた。 ヴィンセントはすぐさま担架に乗せられ、ベッドごと手術室へと運び込まれる。 手術室のランプが点灯する。 若子は、血まみれの服のまま、外で立ち尽くしていた。 震える手を見つめると、そ
―どこで、何が、狂ったんだ? 自分の気持ちが足りなかったのか、行動が空回りしていたのか。 西也の体は力なく落ちていくように崩れ、まるで希望ごと奪われたようだった。 拳を握りしめ、爪が肉に食い込む。 ―こんなはずじゃない。絶対に違う。 やっと若子との関係がここまで進んだのに。なのに、あの「ヴィンセント」とかいう男が、どこから湧いて出た?全部ぶち壊しやがって......! ―許せない。 ...... 夜の闇が、防弾車の車内を静かに包み込む。 漆黒のボディはまるで鋼の獣のように、無音の闇を進む。金属の冷たい光をちらつかせながら、獲物を守るように― 若子はヴィンセントを腕の中でしっかりと抱きしめていた。その瞳には、計り知れないほどの不安が滲んでいる。 車内には、血に染まった止血バンデージが散乱し、痛ましい光景が広がっていた。 窓の外では、夜の都市が幻想的に流れていく。ぼんやりと浮かぶ高層ビル、にじむ街灯、歩く人々の影―けれど誰にも、心の奥底の混乱と恐怖までは見えやしない。 修はその隣で、無言のまま座っていた。表情は険しく、苦しみと焦りが混じったような沈痛な面持ち。眉間のしわ、蒼白な頬―まるで、荒れた海に浮かぶ小舟のような無力さを纏っていた。 「冴島さん、お願い、耐えて......お願いだから、死なないで」 若子は必死にヴィンセントの体温を確かめ、冷えた身体を自分の上着で包み込む。 「お願い......死なないで」 ヴィンセントはすでに意識を失っていて、呼吸もかすかになっていた。 「もっとスピード出して!急いで、お願いっ!」 「若子、もう限界だよ。全速力で走ってる。医療班には連絡済み、もうすぐ到着する」 若子は震える手でヴィンセントの前髪を撫で、ポロポロと涙を落とした。 「ごめんね、ごめん......」 その姿に、修は耐えきれず口を開いた。 「若子、それはお前のせいじゃない。謝る必要なんてないよ」 「黙って!!」 若子の声が鋭く響く。 「もしあの時、いきなりあの部屋を爆破して踏み込まなければ......ヴィンセントさんはこんな目に遭わなかった!私はあなたを信じてた。なのに、あなたは私の想いを......裏切った!」 「でも、俺は今、彼を助けようとしてる。お前だって、俺に
「はいっ!」 部下たちが一斉に動き、ヴィンセントを受け取ろうと前へ出る。 修はすぐに若子の前に立ち、きっぱりと言った。 「若子、ヴィンセントは俺に任せて。安全な病院を知ってる。そこの医者は通報なんてしない。俺が責任を持って、彼のことを秘密裏に処理する」 そう言うと同時に、修は部下にさりげなく目配せをした。 すると―場面はまるでコントのような奇妙な空気に包まれた。 なんと、修と西也、ふたりの陣営がヴィンセントを奪い合い始めたのだ。 「遠藤、お前は引っ込んでろ。今は命を救うことが先決だ。俺には医療のリソースがある」 「お前にあるなら、俺にもある。なめるなよ?俺だって安全な病院にコネがあるし、信頼できる医者もいる。若子、俺にヴィンセントを預けて!」 「若子、信じるなよ、遠藤なんて!彼は腹黒い。ヴィンセントを死なせるぞ。俺なら絶対に助けられる!」 「若子、やめとけ。こいつのことなんて、もう信用できないだろ?こいつが前にお前にしたこと、忘れたのか?」 修と西也、互いに一歩も引かずに言い争いを続ける。 ......もう、ぐちゃぐちゃだった。 「全員、黙りなさいっ!!」 若子の怒声が、あたりを震わせた。 こんな大事な時に、男たちが口げんかしてる場合じゃない。彼女は真っ直ぐに修を見つめた。 「修......最後の最後に、あなたを信じる。ヴィンセントさんを任せるから、絶対に、最善の医者に診せて。彼を助けて」 修は深く頷き、安堵の息を吐くと、自らの腕でヴィンセントを抱き上げた。すぐに部下たちが受け取り、彼を連れて足早に去っていく。 若子も、そのあとを追った。 「若子!」 西也が焦って駆け寄り、叫ぶ。 「どうしてこいつに預けたんだ!?こいつは絶対に、ヴィンセントを殺す!信じちゃダメだ!」 「......さっき、彼はあなたに殺されかけたのよ」 若子は西也の手を振り払い、きっぱり言い放った。 「もういいの。これ以上話したくない。今は彼を救うことだけが私のすべてよ。だからお願い、放っておいて」 混乱と疲労で頭が真っ白だった。何もかもが絡まりすぎて、考える余裕もない。ただひとつ―ヴィンセントの命を救う、それだけだった。 それ以外のことは、あとで考える。 西也は呆然としたまま、若子が自分の手
今の若子には、他のことなんてどうでもよかった。たとえ医者が警察に通報しても、しなくても、彼女が望んでいるのは―ヴィンセントを、生かすこと。 彼がここで死んでしまったら、すべてが終わってしまう。 ヴィンセントは手を上げて、そっと若子の頬に触れた。涙を指でぬぐいながら、弱々しく笑う。 「泣くなよ......どうせ、俺たちそんなに親しくもないし。俺が死んだって、別にいいだろ」 「だめ!絶対にだめ!ヴィンセントさん、お願い、生きて......生きてよ、頼むから!」 「俺が死ねば、妹のところに行ける。だから......そんなに悲しむな。あのふたりの男、君のことすごく愛してるみたいだな。でもさ......俺は、君には幸せでいてほしい。誰かに愛されてるからって、それに縛られなくていいんだ。松本さん、男なんて、あんまり信じるなよ」 「冴島さん、目を開けて!ねぇ、お願い、開けてってば!」 若子は震える手でヴィンセントの瞼を押し開こうと必死になった。 そして、奥歯を噛み締めながら、全力で彼の体を背負い上げる。 「病院に連れてく!絶対に死なせない、私が死んでも、あなたは生きるの!マツだって、きっと同じ気持ちよ!」 そのとき、修がやっと我に返って駆け寄った。 「若子―!」 「来ないでっ!!」 若子は振り返って怒鳴りつけた。 「触らないで、修!あれだけ『撃たないで』って言ったのに、どうして聞いてくれなかったの?なんで私の話を、無視するの!?西也、あんたもよ!何も知らないくせに、勝手に撃って......ひどいよ、ふたりとも、ひどすぎる!」 怒りと絶望が入り混じった叫び声は、途中で息が続かなくなるほどだった。目には怒りの火が灯り、血の気の引いた顔には氷のような冷たさが宿っていた。彼女のその表情に、沈霆修も西也も言葉を失う。 ―まるで、憎しみを湛えているみたいだ。 「若子、俺だって、助けたかったんだよ......」西也は慌てたように言った。「この男が、まさかお前を助けたなんて......そんなの知らなかったんだ!これは、全部、誤解なんだよ!ワザとじゃない、信じてくれ!」 「どいて、もう何も話したくない。どいて!」 彼女の体は小さくても、気迫は誰にも負けなかった。全身が血と汗にまみれても、彼を背負って一歩一歩、出口へ向かおう
「大丈夫、少なくとも彼は助けに来てくれた。もう危ないことはない」 ヴィンセントは、もう死を恐れてなんかいなかった。首の皮一枚で生きる日常、いつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えたような人生。今日死ぬか、明日死ぬか、それに大した違いなんてない。 早く死ねば、それだけ早く楽になれる。 若子は力いっぱいヴィンセントを支えて立たせると、修に向かって叫んだ。 「修、お願い―」 その言葉が終わる前に、突然、もう一組の人間がなだれ込んできた。 「若子!無事だった?こっちに来て!俺が助けに来たよ!」 西也はヴィンセントと一緒に立っている若子を見て、全身血まみれの彼女にショックを受けた。そして、反射的に銃を構え、バンバンバンとヴィンセントに向けて数発撃った。 「やめてええええええ!」 若子は喉が裂けそうなほど叫んだ。ヴィンセントが撃たれて、その場に崩れ落ちるのを、目の前で見ることしかできなかった。 「やだ......やだ!」 彼女はその場に膝をついて、苦しげに叫ぶ。 「ヴィンセントさん、冴島さん......冴島さん、お願い、死なないで、お願い......!」 「遠藤、お前ってほんと狂犬ね!」 修が彼を止めに入る。 「何やってんだ!」 「俺は若子を助けに来たんだ!彼女はいま危険だったんだぞ!それをお前は何もせずに突っ立ってただけじゃないか!何の役にも立ってない!だから俺が、夫の俺が守るって決めたんだ!」 西也は修を強く押しのけ、若子のもとへ走り出した。 「来ないで!」 若子は怒りに震えながら、西也に向かって叫んだ。 「なんで事情も知らないのに撃つの!?ひどすぎるよ!」 西也はその場で固まった。若子に責められるなんて思ってもみなかったのだ。 ―こんなこと、初めてだ。 「若子......俺は、助けたかったんだ。電話も繋がらないし、もう心配で、心配で......寝る間も惜しんで探し回って......こいつがどんな奴か知ってるのか?『死神』ってあだ名で呼ばれてる、殺しに躊躇しない化け物なんだぞ!」 「でも、彼は私を助けてくれたの。命の恩人よ。彼がいなかったら、私はもうとっくにあのギャングたちに......殺されてたかもしれない! ねぇ、あと何回言えば伝わるの!?なんでみんな、私の話を聞こうとしな
「......お前......」 修が歩み寄ろうとした瞬間、若子は彼を強く突き飛ばした。 「彼が言ったこと、間違ってなんかない!一言だって間違ってないわ!」 若子の瞳には怒りが燃えていた。 「修、私がギャングに捕まって、暴行されそうになって、殺されかけたとき―助けてくれたのはヴィンセントさんだった!......じゃああんたは?どこにいたの!? どうせあれでしょ、山田さんと手を繋いでアイス舐めあってたんでしょ?あの女の唾液を嬉しそうに食べてたんでしょ? ベッドででも盛り上がってた?私が死にかけてるときに!」 「......っ」 修は言葉を失った。 「はっきり言っておくわ。私は今、助けなんか求めてない。 今さら『心配してる』なんて顔して現れて、正義ぶらないで。全部、自己満足じゃない!」 「自己満足だって......俺は、必死にお前を探した。命がけで心配したんだぞ、それが『無駄』だっていうのか!?」 彼の叫びは、若子の怒りを前に粉々に砕けた。 「感謝するわよ、『探してくれてありがとう』って。でも、結局あんたがしたことは、私の恩人の家を爆破して、彼を傷つけたこと。 私、明日には自分で帰るつもりだった。放っておけばよかったのよ。 それをあんたが余計なことして、勝手に盛り上がって、感動して、自分に酔って―それを私が理解しないって怒る?」 「若子......お前、あんまりだ......どうして、そんなに冷たいんだ......」 修の声はかすかに震えていた。 「冷たい?じゃあ、聞くけど― さっき私が止めたよね?でもあんた、全然聞かなかった。彼に銃を向けて、撃とうとした。 あげくの果てには、『私が正気じゃない』とか言って、自分の都合で全部決めつけて......そんなあんたの努力、私がどうして感謝できるの? 修、あんたの『努力』はやりすぎなのよ」 若子は涙を拭いながら、冷たく言い放った。 「それに― 山田さんとラブラブなんでしょ? だったら彼女のそばにいなよ。なんでこっち来てまで『頑張って助けに来た』とか言ってるの?彼女、あんたの子どもを妊娠してるんでしょ?戻って、ちゃんと支えてあげなよ」 修は目を閉じ、深く息を吸った。 心の中で何かが音を立てて崩れていく。 若子の言葉は、す
「修、彼は私の命の恩人なの!絶対に傷つけさせない!誰にも彼を傷つけさせない!」 「......今、なんて言った?」 修の目が信じられないものを見るように大きく見開かれた。 「......あいつが、お前の命の恩人......だと?」 「そうよ。私が危ないところを助けてくれたのは彼なの。だから、彼を傷つけるってことは、私を傷つけるのと同じなの!」 その言葉に、修は言葉を失った。 事態は、彼の想定を完全に超えていた。 若子が何か薬を盛られて、意識が朦朧としてるんじゃないか― そんな疑念がよぎる。 けれど、彼の目にははっきりと見えていた。 若子の首筋にくっきり残った、指の跡。 明らかに暴力によるものだ。あの男がやったに違いない。 だとしたら、なんで彼女はこんなところにいるんだ? なんで家に帰らず、連絡もよこさなかった? これが「救い」だっていうのか? 「若子、わかった......まず、銃を返して。もう彼には手を出さない」 彼女の感情が高ぶっている中で下手に手を出せば、逆効果だ。 今は、冷静にするのが先。 「本当に?」 若子が疑うように問い返す。 修は静かに頷いた。 「本当だ。銃を、返してくれ」 もしこのまま彼女の手元に銃があれば、暴発の危険すらある。 若子は少し迷いながらも、ゆっくりと銃を修に手渡した。 だが、修は銃を受け取るや否や、すぐさま部下に命じた。 「囲め。あいつから目を離すな」 部下たちが一斉に動き、ヴィンセントを取り囲む。 銃口が一斉に彼へ向けられる。 「あんた......私を騙した......」 若子の叫びが響いた。「なんで......なんでそんなことができるの!?」 彼のもとへ走り寄り、その胸倉を掴む。 「やめて!銃を向けるな!お願い、彼にそんなことしないで!」 「若子、あいつはお前に何をした?」 修は彼女の肩をしっかりと掴み、必死に訴える。 「何か注射されたのか?薬を使われたのか?あいつに傷つけられたのに、なぜそこまでかばう!?病院に連れて行く、すぐに検査を―」 ―バチンッ! 乾いた音とともに、若子の平手打ちが修の頬を打った。 「藤沢修、あんたって人は......!」 「桜井さんのために私と離婚すると決めた
若子が生きていると確認して、修はようやく安堵の息を吐いた。 これまで幾度となく、彼女を探し続けるなかで何度も遺体を見つけ、そのたびに胸が潰れそうな絶望を味わった。 けれど、若子だけは見つからなかった。 代わりに、他の行方不明者ばかりが見つかった。 そして今ようやく、彼女を見つけた。 彼女は―生きていた。 だが彼女がどんな目に遭っていたのか、想像するだけで胸が痛んだ。 「修......なんであなたが......?」 若子は信じられないような目で彼を見つめた。 「どうしてここに?」 まさか来たのが修だったなんて、夢にも思わなかった。 ヴィンセントは目を細めて振り返った。 「この男......テレビに出てたやつじゃないのか?君の前夫だろ?」 若子はうなずいた。 「うん。彼は......私の前夫よ」 修が来たと分かって、若子は少しだけ安心した。 「若子、こっちに来い!」 修は焦った様子で手を伸ばした。 「修、どうしてここに......?」 「お前を助けに来たに決まってるだろ!お前がいなくなって、俺は気が狂いそうだった!」 「わざわざ......私のために......?」 若子は、てっきりヴィンセントの敵が来たのだと思っていた。 「若子、早く来い!そいつから離れて!」 「修、違うの!誤解してる!彼は......ヴィンセントって言って、彼は......」 若子が話し終える前に、修は彼女を後ろへ引っ張り、銃を構えてヴィンセントに発砲した。 ヴィンセントはまるで豹のような動きで避けたが、すぐに更なる銃弾が飛んできた。 すべての男たちが一斉にヴィンセントへ発砲を始めた。 彼はテーブルの陰に飛び込んで避けたが、ついに銃弾を受けてしまった。 「やめて!」 若子は絶叫した。 銃声が激しく響き、彼女の声はかき消されていった。 「修、やめて!」 彼女は必死に彼を掴んで叫んだ。 「撃たせないで、やめて!」 「若子、お前は何をしてるんだ!?あいつは犯罪者だぞ!お前を傷つけたんだ、正気か!?」 修には、なぜ若子がヴィンセントを庇うのか理解できなかった。 「彼は違う、彼はそんな人じゃない......!」 「違わない!」 修は彼女の言葉を遮った。 「