修の言葉は、明らかな脅しだった。 ―もし次に侑子をつけ回したら、足の一本くらい残ると思うなよ。 男は全身を震わせ、額から大粒の汗を流していた。 普段は威張り散らし、傲慢で周囲を見下していた男も、今目の前にいるのは「藤沢修」。 その事実だけで、恐怖に押しつぶされそうになり、今にも失禁しそうなほどだった。 男はすぐに態度を変え、必死に命乞いを始める。 「お、俺が悪かった!もう二度としません!藤沢さん、どうか許してください!この女も藤沢さんにやりますから!もう好きにしてください!」 ―バキッ! 次の瞬間、修の拳が男の顔面を捉えた。 男はその場に転がり、顔がみるみるうちに腫れ上がる。 「ぐっ......!いてぇ......!」 顔を押さえながらうめき声を上げる男を、修は冷たい目で見下ろしていた。 そして、何の躊躇もなく、無言のまま男の胸を踏みつける。 「がっ......!」 その瞬間、男の内臓が圧迫され、苦しそうに喘ぎ始めた。 必死に修の足を掴み、息も絶え絶えに懇願する。 「か......勘弁してくれ......!彼女は、お前のもんでいい......だから......!」 修の足元に込められた力は、どんどん強くなっていく。 地面に転がる男は、今にも血を吐きそうなほどだった。耐えきれるはずがない。 だが、修の胸に渦巻く怒りと鬱屈した感情は、それでもまだ発散しきれない。 ちょうどいい。目の前の男は、剣の峰に足を踏み外すように彼の怒りの餌食となったのだから。 「もう一回言ってみろよ......このクソ野郎が」 次に言葉を吐いたら、その口を引き裂いてやる―そんな殺気が修の目に宿る。 男は愚かだが、完全にバカではない。 自分の発言が修を怒らせたことに気づくと、すぐに命乞いを始めた。 「す、すみません、藤沢さん!俺が悪かった!どうかお許しを!もう二度と言いません!俺の口が悪かった、全部俺のせいです!」 自らの頬を何度も何度も叩きながら、必死に謝罪する男。 そのとき、侑子が修のそばへ歩み寄り、静かに声をかけた。 「藤沢さん、彼ももう十分に懲りったと思うよ。ここで解放してあげたらどう?このままじゃ大変なことになるかもしれない。もし何かあったら、藤沢さんも面倒なことに巻き込まれるか
「泣くな」 修は歩み寄り、ポケットから取り出した清潔なハンカチを侑子に差し出した。 「そんな男のために涙を流す価値はない」 侑子はハンカチを受け取った。かすかに清潔な香りがして、心地よい匂いがした。 彼女はそれを涙で汚したくなくて、ただ手のひらに握りしめる。 「藤沢さん......私、あの人のために泣いてるんじゃないの。ただ、すごく嬉しくて......今日、助けに来てくれて、本当にありがとう。電話した後、自分でもすごく動揺して、どうすればいいかわからなかった。ごめん、迷惑かけちゃった」 「謝る必要はない」修は静かに言う。「むしろ俺のほうこそ悪かった。最初、お前がなんで警察を呼ばなかったのか、わからなくて......わざとだとでも思った。怒ってたんだ、悪かったな」 彼の言葉は優しげだったが、侑子の胸にはチクリと刺さった。 ―最初に思ったことが、それだったんだ。 この人は、どうしてこんなに冷たいんだろう。 侑子の肩が震える。彼女の表情は、深い悲しみに染まっていた。 修は小さく息をついた。 「泣くな。こんなことで泣く意味はない」 彼女が泣いているのを見て、少しだけ苛立ちを覚えた。 その空気を察したのか、侑子はすぐに涙を拭った。 「......うん、もう泣かない。ごめん」 「だから、謝るな。こっちがうんざりするんだけど」 少し苛立ちが混じった声に、侑子は驚き、修を見上げた。 修は、少し言いすぎたことに気づき、トーンを落とす。 「......悪い。別に怒ってるわけじゃない。ただ、最近色々あってな」 そう言ってから、修はふと気づく。 ―ああ、そうか。 彼はかつて何度も若子に謝った。 そのとき、彼女はどんな気持ちだったのだろう。 もしかして、彼女もこんなふうに、謝られることに疲れていたんだろうか。 侑子は小さく微笑んだ。 「気にしないで......最近、大丈夫?」 「別に」修は淡々と答えた。「毎日をただ過ごしてるだけだ」 侑子は苦笑し、わずかに唇を引き結ぶ。 修は携帯を取り出し、時間を確認すると、すぐに立ち上がった。 「遅くなった。そろそろ帰る」 「えっ、もう?」侑子は思わず追いかけた。 修は振り向き、冷静な声で言う。 「何か?」 「いや....
物音を聞きつけ、修はすぐさま振り返った。 そこには、床に倒れ込み、胸を押さえながら苦しそうに息をする侑子の姿があった。 「おい!」 彼は顔色を変え、すぐに駆け寄ると彼女を抱き起こした。 「どうした?」 「......息が......できない......」 侑子の胸は大きく上下し、顔は真っ青だった。 修は迷うことなく、彼女のシャツの胸元のボタンを数個外し、呼吸を楽にさせると、そのまま抱きかかえて部屋を飛び出した― 数時間後。 深夜の静寂の中、侑子はゆっくりと目を覚ました。 目を開けると、すぐそばに修がいることに気づき、ふっと安堵の息を漏らす。 「目が覚めたか」 修はじっと彼女を見つめた。 「気分はどうだ?」 侑子は外の夜空を見上げ、時間の感覚がなくなっていることに気づく。 「藤沢さん......今、何時?」 修は手首の時計を確認した。 「午前四時三十八分」 「そんなに......」 侑子はベッドから身を起こそうとする。 修はすぐに手を伸ばし、彼女の肩を支え、布団を整えて、枕を背中にあてがった。 「こんな時間まで、ずっとここにいたの?」 「お前を病院に運んだ後、目を覚ますまで待ってただけだ」 修の視線が鋭くなる。 「それより、なんで心臓の持病があることを俺に言わなかった?」 その言葉に、侑子は一瞬戸惑い、申し訳なさそうに視線を落とした。 ―謝らなきゃ。 でも、さっき彼が「謝るな」と言っていたことを思い出し、喉元まで出かかった「ごめん」を飲み込む。 「......自分の病気のことを、そんなにあちこち言うものじゃないし......まさか発作が起こるなんて、思ってなかった」 侑子は小さく笑い、静かに言った。 「迷惑かけて、ごめん......じゃなくて、ありがとう。病院まで運んでくれて」 修は短く「気にするな」とだけ答える。 ―通りすがりの人間でも、助けることはある。 そういうことだ。 「お前、一人で大丈夫か?家族は?誰か看病できるやつがいるなら、連絡しておく」 「......家族とは、ずっと連絡を取ってないの」 そう言って、侑子は修をまっすぐ見つめた。 「藤沢さん、こんな時間まで本当にありがとう。でも、もう大丈夫だから、帰って休ん
侑子はまだ拒否しようとした。 けれど、修の冷たい視線を見た瞬間、なぜか言葉を飲み込んでしまう。 何も言わせないように、修は先に口を開いた。 「決まりだ」 これでも十分譲歩した。 ならば、あとは折衷案で収めるしかない。 侑子も、それ以上は言い返せなかった。 小さく頷き、「......わかった。ありがとう」と静かに答える。 「もし藤沢さんが何か困ったことがあったら、私も......」 そう言いかけたところで、ふっと自嘲気味に笑ってしまう。 「......なんてね。私にできることなんて、何もないのに」 修は淡々とした表情のまま、静かに言う。 「そんなことはない。とにかく、まだ夜が明けてない。もう少し休め」 侑子の胸に、また申し訳なさが込み上げる。 「こんなに長い時間、付き合わせてしまって......本当にごめんね。疲れたでしょう?」 修は気にも留めず、あっさりと答えた。 「別に。そんなに疲れてない」 実際、今夜ここにいなかったとしても、家のベッドで寝付けるわけではなかった。 どうせ眠れずに、結局は睡眠薬を口にするだけだ。 むしろ今は、まったく眠気を感じていない。 「それでも、ちゃんと寝ないと」 侑子は小さく微笑んで言った。 「少しでも寝たほうがいいよ」 「おまえこそ、もっと寝ておけ」 そう言い残し、修は立ち上がった。 「じゃあ、俺はそろそろ行く」 彼は十分やるべきことを果たしたと思っていた。 病院へ連れてきて、目を覚ますまで待った。 それ以上、付き添う義理はない。 そもそも、そんな気もない。 修が背を向けた瞬間、侑子は思わず声をかけてしまう。 「藤沢さん......また会える?」 ―このまま、もう二度と会えなくなるんじゃないか。 そんな不安が、ふと胸をよぎる。 電話番号は知っている。 でも、彼に何か理由もなく連絡を取ることなんてできない。 迷惑に思われるだけだ。 修は足を止める。 数秒の沈黙の後、ゆっくりと振り返った。 「医者が数日間の入院が必要だと言っていた。時間があれば、様子を見に来る」 ―じゃあ、時間がなかったら? そう聞きたかったけれど、侑子は飲み込んだ。 「......うん、わかった」 彼が去
矢野は静かにコップに水を注ぎ、それをデスクの上に置いた。 「藤沢総裁」 修は視線を上げる。 「今日、一日中何も食べていませんし、水分も取っていません。少しでも飲んでください」 矢野はコーヒーではなく、水を差し出した。 もう夜も遅い。カフェインを摂れば、ますます眠れなくなるだろうと考えたのだ。 修は時計をちらりと見やる。 「......おまえ、まだ帰ってなかったのか」 「総裁が帰らないのに、僕だけ帰るわけにはいきません」 「気にしなくていい。もう上がれ」 「はい......そういえば」 矢野はふと思い出し、口を開いた。 「先ほど、総裁のお母様からお電話がありました。最近のご様子について尋ねられました」 修の眉がわずかに寄る。 「......それで、おまえはなんと?」 「『特に問題はない』とだけお伝えしました」 「......そうか。もしまた聞かれたら、同じように答えればいい。余計なことは言うな」 「わかりました」 修は上着を手に取り、オフィスを後にした。 車を走らせながら、彼はふと気づく。 ―どこへ行けばいいんだ? 家に帰ったところで、何の意味がある? 空っぽのベッド。何もない部屋。 ただ広いだけの空間に、自分一人が取り残されるだけだ。 窓の外には、煌びやかな街の景色が流れていく。 こんなにも広い街なのに、自分が落ち着ける場所は、どこにもない。 そんなことを考えているうちに、いつの間にか病院の前に辿り着いていた。 ―ここは、侑子が入院している病院だ。 無意識のうちに、車を走らせてしまったのか。 侑子の仕草、言葉の節々、ふとした表情― 若子に、似ている。 もちろん、彼女は若子ではない。 それは、わかっている。 でも、こうしてここに来てしまったのは― ......きっと、若子を思い出してしまったからだろう。 まあいい。どうせ来たのなら、ついでに様子を見ていくか。 病室に入ると、ちょうど侑子が夕食を終えたところだった。 修の姿を見つけると、侑子の顔がぱっと明るくなる。 「藤沢さん、来てくれたんだね!」 彼女はもう会えないかもしれないと思っていた。 でも、こうして来てくれた。 彼の「時間があれば来る」という言葉は、
「......まあな」 修は淡々と返した。 彼はもうとっくに慣れていた。 こんな大きな会社を管理していて、プレッシャーがないわけがない。 人間である以上、ミスをすることもあるし、疲れることもある。 けれど― 昔はこんな疲労を感じたことはなかった。 若子がそばにいた頃は、どれだけ忙しくても、どれだけ疲れていても、家に帰れば彼女がいた。 その存在だけで、すべてが癒された。 でも今は違う。 家に帰っても、そこには誰もいない。 どれだけ働いても、何も変わらない。 ......もう、心の疲れのほうが、体の疲れよりも重くなってしまった。 「藤沢さんは責任感が強い人なんだろうけど、無理しすぎるのも良くないよ」 侑子が静かに言う。 「ちゃんと休まないと、身体を壊しちゃう」 「わかってる」 修は短く答えた。 ベッドの上で、侑子が少し体を動かし、僅かに顔をしかめる。 「......どうした?」 「ずっと寝てたから、体がちょっと固まってるんだよね。外に出て歩けたら、少しは楽になるのにな」 修は軽く頷いた。 「じゃあ、介護の人を呼んで付き添ってもらえ」 「いや、大丈夫」 侑子は手を振った。 「もう帰らせたよ。明日の朝まで来ないし、たまにプライベートの時間も必要でしょ」 「そうか」 修は少し考え、静かに言った。 「なら、俺が付き添う。少し外を歩くか?」 「......本当に?」 侑子の目が、ぱっと輝いた。 「冗談を言うタイプに見えるか?」 「見えない!」 彼女は嬉しそうに笑う。 ―一緒に散歩なんて、願ってもない機会だ。 「ちょっと待ってて、車椅子を取ってくる」 修が病室を出ようとした瞬間、侑子が慌てて言った。 「いや、車椅子は要らないよ。私は足に問題があるわけじゃないし、自分で歩くほうが体にもいいって、医者も言ってた」 修は一瞬迷うような表情を見せる。 「......本当に大丈夫か?」 侑子は布団をめくってベッドから立ち上がると、その場で何歩か歩いて見せた。 「ほら、平気。むしろ少し動いたほうが調子いいくらい」 「わかった」 修は軽く頷くと、ふと病室の温度を確かめるように視線を向けた。 「......上着を持て。外は少
心から愛した女。修の言葉に、侑子の心臓が大きく跳ねた。 ―愛している?彼は、まだ元妻のことを? だって、離婚したんじゃなかったの? 戸惑いの色を浮かべる侑子に、修は静かに続ける。 「......俺は、今も彼女を愛してる」 「......じゃあ、なんで離婚したの?」 「俺がクズでバカだったからだ」 修は、まるで自分を嘲笑うように薄く笑う。 「手に入れていたときは、大切にできなかった。失ってから、どれだけ大事だったのか気づいた」 彼の表情には、深い後悔と痛みが滲んでいた。 ―この人、本当にその人のことを愛してるんだ。 侑子にも、それが痛いほど伝わってくる。 「......じゃあ、取り戻そうとした?」 「何度も試した」 修は淡々と答える。 「何度も、何度もな」 「......それで?」 「それで......」 修はふっと短く笑う。 「彼女は、もう別の男と結婚した」 ―その瞬間。 侑子の心に、密かに小さな安堵が生まれた。 元妻は、もう他の人と一緒にいる。 つまり、もう彼のもとには戻らない。 「じゃあ、今は......」 「今も、俺は彼女を愛してる」 修は静かに夜空を見上げる。 「もし、彼女が戻ってきてくれるなら、俺は何だってする。どんなことだって......でも、もう無理なんだ。彼女は、俺を愛していない」 ―ズキン。 安堵したはずなのに、侑子の心はなぜか痛んだ。 ―彼は、今でも彼女だけを想っている。 「......時間が経てば、少しずつ忘れられるよ」 彼を慰めようと、そう言葉をかけた。 しかし、修は微かにかぶりを振る。 「それはない」 その声は、乾いていて、どこかかすれていた。 「お前には、わからない」 ―その言葉に、侑子の胸が締めつけられる。 「......わからない、か」 そりゃそうだ。 彼の想いの深さなんて、自分に理解できるはずがない。 でも、それをこんなに冷たく突き放さなくてもいいじゃない。 「......俺は、彼女以外の女を愛することはない」 修はポケットに手を突っ込んだまま、冷たい風に目を閉じる。 「一生、若子だけを愛する」 侑子は、わずかに眉をひそめた。 ―どうして、こんな話をす
「......今、なんて?」 侑子は、まるで雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。 「私があんたの前妻に似てるからって、それだけの理由で会わないって......そんなの、あんまりにも不公平じゃない?」 「何が不公平なんだ?」 修は、まるで当然のことのように言う。 「そもそも、俺たちは特別親しいわけじゃない。お前が俺を助けた。だから俺も助けた。それで貸し借りはなくなった」 侑子は拳をぎゅっと握りしめた。 「......じゃあ、今日はその話をするために、私を連れ出したの?」 「そうだ」修は迷いなく答える。「そのつもりだった」 侑子は苦しそうに目を閉じた。 ―二人きりで過ごせるとばかり思っていたのに。 少しずつでも、距離を縮められるかもしれないって......バカみたいに期待してた。 なのに、彼が伝えたのはこんなにも残酷な言葉だった。 やっぱり全部、私の勘違いだったんだ。 それでも、胸の痛みはどうしようもなかった。 涙がこぼれるのを止められない。 ―きっと、初めて彼を見た瞬間に恋をしたから。 修に出会って、彼女は「一目惚れ」というものを知った。 泣きじゃくる侑子を見て、修は低く呟いた。 「......お前、バカだな。俺なんか、決していい男じゃないんだ」 彼女の視線が、自分に向けられるたびに感じていた。 この女は、自分に好意を持っている。 そう確信していたが、それが現実になったとき―修は、ただ苦笑するしかなかった。 考えてみれば、馬鹿みたいな話だった。 ―若子は、あんなにも俺を愛していたのに、それに気づけなかった。 ―なのに、どうでもいい女の好意には、すぐ気づくなんてな。 きっと、本当に愛していたからこそ、怖くて見えなかったんだ。 だからこそ、冷静に考えられなかった。 でも、愛していない相手なら? 俯瞰して、客観的に分析できる。 自分にとって、この女は単なる「他人」だから。 侑子の涙を見て、彼の胸の奥にかすかな罪悪感が広がる。「俺たち、ほんの数回しか会ってない。すぐにどうでもよくなるさ。俺なんて最低な男だ。前妻をひどく傷つけたし、誰かに愛される資格なんてない」 侑子は唇を噛みしめ、涙を拭った。 「私がどんな男を好きになるかは、私が決めるこ
次の瞬間、ヴィンセントは猛獣のように若子に飛びかかり、彼女をソファに押し倒した。 彼の手が彼女の柔らかな首をぎゅっと締めつける。 若子は驚愕に目を見開き、突然の行動に心臓が激しく跳ねた。まるで怯えた小鹿のような表情だった。 彼の圧に押され、体は力なく、抵抗できなかった。 叫ぼうとしても、首を絞められて声が出ない。 「はな......っ、うっ......」 彼女の両手はヴィンセントの胸を必死に叩いた。 呼吸が、少しずつ奪われていく。 若子の目には絶望と無力が浮かび、全身の力を振り絞っても彼の手から逃れられない。 そのとき、ヴィンセントの視界が急速にクリアになった。 目の前の女性をはっきりと見た瞬間、彼は恐れに駆られたように手を離した。 胸の奥に、押し寄せるような罪悪感が溢れ出す。 「......君、か」 彼の瞳に後悔がにじむ。 そして突然、若子を抱きしめ、後頭部に大きな手を添えてぎゅっと引き寄せた。 「ごめん、ごめん......マツ、ごめん。痛かったか......?」 若子の首はまだ痛んでいた。何か言おうとしても、声が出ない。 そんな彼女の顔をヴィンセントは両手で包み込んだ。 「ごめん......マツ......俺......俺、理性を失ってた......本当に、ごめん......」 彼の悲しげな目を見て、若子の中の恐怖は少しずつ消えていった。 彼女はそっとヴィンセントの背中を撫でながら、かすれた声で言った。 「......だい、じょうぶ......」 さっきのは、たぶん......反射的な反応だった。わざとじゃない。 彼は幻覚に陥りやすく、いつも彼女を「マツ」と呼ぶ。 ―マツって、誰なんだろう? でも、きっと彼にとって、とても大切な人なのだろう。 耳元ではまだ、彼の震える声が止まらなかった。 「マツ......」 若子はそっとヴィンセントの肩を押しながら言った。 「ヴィンセントさん、私はマツじゃない。私は松本若子。離して」 震えていた男はその言葉を聞いた瞬間、ぱっと目を見開いた。 混濁していた意識が、徐々に明晰になっていく。 彼はゆっくりと若子を離し、目の前の顔をしっかりと見つめた。 そしてまるで感電したかのようにソファから飛び退き、数
しばらくして、若子はようやく正気を取り戻し、自分が彼を抱きしめていることに気づいて、慌てて手を放し、髪を整えた。少し気まずそうだ。 さっきは怖さで混乱していて、彼を助けの綱のように思ってしまったのだ。 若子は振り返ってあの扉を指差した。 「下から変な音がして、ちょっと気になって見に行こうと思ったの。何か動きがあったみたい。あなた、見に行かない?」 ヴィンセントは気にも留めずに言った。 「下には雑多なもんが積んである。時々落ちたりして音がするのは普通だ」 「雑多なもんが落ちたって?」若子は少し納得がいかないようだった。彼女はもう一度あの扉を見やる。 「でも、そんな感じには思えなかったよ。やっぱり、あなたが見に行ったほうがいいんじゃない?」 「行きたきゃ君が行け。俺は行かない」 ヴィンセントは素っ気なくその場を離れた。 彼が行かないと決めた以上、若子も無理には行けなかった。 この家は彼の家だし、彼がそう言うなら、それ以上言えることもない。 たぶん、本当に自分の勘違いだったのかもしれない。 それでも、今もなお胸の奥には恐怖の余韻が残っている。 さっきのあの状況は、本当にホラー映画のようで、現実とは思えなかった。 たぶん、自分で自分を怖がらせただけ...... 人間って、ときどきそういうことがある。 「何ボーっとしてんだ?腹減った。晩メシ作れ」 ヴィンセントはそう言いながら冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに座ってテレビを見始めた。 若子は深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着けてからキッチンに入った。 広くて明るいキッチンに立っていると、それだけで少し安心できた。 さっきの恐怖も、徐々に薄れていく。 彼女は冷蔵庫を開けて食材を選び、野菜を洗って、切り始めた。 しばらくすると鍋からは湯気が立ち上り、部屋には料理のいい香りが漂いはじめた。 彼女は手際よく、色も香りも味もそろった食材をフライパンで炒めていた。 まるで料理そのものに、独特な魔法がかかっているかのようだった。 ヴィンセントは居心地のいいリビングで、テレビの画面を目に映しながら、ビールを飲んでいた。 テレビを見つつ、時おりそっと顔を横に向け、キッチンの方を盗み見る。 その視線には、かすかな優しさがにじんでい
―全部、俺のせいだ。 修の胸の奥に、激しい後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。 すべて、自分のせい。 あの時、追いかけるべきだった。 彼女を、一人で帰らせるべきじゃなかった。 夜の暗闇の中、わざわざ自分に会いに来てくれたのに― それなのに、どうしてあの時、あんな態度を取ってしまったのか。 ほんの一瞬の判断ミスが、取り返しのつかない結果を生んだ。 ガシャン― 修はその場に崩れ落ちるように、廃車となった車の前で膝をついた。 「......ごめん、若子......ごめん......全部、俺のせいだ......俺が最低だ......」 肩を震わせながら、何度も地面に額を擦りつける。 守れなかった。 自分のくだらないプライドのせいで、嘘をついて、彼女を傷つけた。 他の女のために、また彼女をひとりにした。 ようやく気づいた。 若子がなぜ、自分を嫌いになったのか。 なぜ、許してくれなかったのか― 当たり前だ。 自分は、彼女にとっての「最低」だった。 何度も彼女を傷つけ、何度も彼女を捨てた。 最初は雅子のため、そして今度は侑子のため― ―自分には、彼女を愛する資格なんてない。 最初から、ずっと。 もし本当に、彼女がもういないのだとしたら― 自分も、生きている意味なんてない。 ...... 気づけば、空はすっかり暗くなっていた。 若子は、ヴィンセントが部屋で何をしているのか知らなかった。ドアは閉まったままで、中に声をかけるわけにもいかない。 「とりあえず、晩ごはんでも作ろうかな......」 そう思ってキッチンへ向かおうとした瞬間― バン、バンッ。 突然、何かが叩かれるような音が聞こえた。 「......外?」 窓際に寄って外を覗いてみると、外は静まり返っていて、人の気配なんてまるでない。 「......気のせい?」 肩をすくめてキッチンに戻ろうとした―そのとき。 また、バンバンと続けて音が鳴った。 しかも今度はずっと続いていて、かすかな音だったけれど、確かに耳に届いた。 「......え?」 耳を澄ませると、その音は―下から聞こえてくる。 若子はおそるおそるしゃがみ込み、耳を床に当てた。 バンバンバン! ―間違いない。
光莉は布団をめくり、ベッドから降りると、手早く服を一枚一枚着はじめた。 「なぁ、どこ行くんだよ?」高峯が問いかける。 「あんたと揉めてる暇なんかないわ」 光莉の声は冷たかった。 「遠藤高峯、もしあんたに脅されてなかったら、私は絶対にあんたなんかに触れさせなかった。自分がどれだけ最低なことしてるか、よくわかってるでしょ?手を汚すことなく、みんなを苦しめて、自分は後ろで高みの見物。ほんと、陰険にもほどがある。西也なんて、あんたにとってはただの道具。息子だなんて、思ってもいないくせに!」 服を着終えた光莉はバッグをつかみ、部屋を出ようとする。 「光莉」 高峯の声には重みがあった。 「西也は俺たちの子どもだ。これは変えようのない事実だ。俺は今でもお前を愛してる。ここまで譲歩したんだ。藤沢と離婚しなくてもいい、たまに俺に会ってくれるだけで、それでいい......それ以上、何を望んでるんだ?」 光莉は振り返り、怒りをあらわに叫んだ。 「何が望んでるかって?言ってやるわ!私は、あんたなんかを二度と顔も見たくないの!私は必ず、あんたから自由になる。見てなさい、きっと、誰かがあんたを止める日が来るわ!」 ドンッ― ドアが激しく閉まる音を残して、光莉は出ていった。 部屋に残された高峯は、鼻で笑い、冷たい目を細めた。 その目には狂気じみた光が宿っていた。 枕をつかんで、床に叩きつける。 「光莉......おまえが俺から逃げようなんて、ありえない。俺が欲しいものは、必ず手に入れる。取り戻したいものは、絶対に取り戻す。それが無理なら―いっそ、壊してやる」 ...... 夜の帳が降り、河辺には重苦しい静けさが漂っていた。 川の水は静かに流れ、鏡のように空を映していた。 星がかすかに輝いているが、分厚い雲に覆われていて、その光は弱々しく、周囲の風景はぼんやりとしか見えない。 岸辺には、年季の入ったコンテナや倉庫が並んでいる。朽ちかけたその姿は、時間の流れと共に朽ち果てていく遺物のようだった。 沈んだ空気の中で、川面に漂う冷たい風が、肌をかすめていく。 修は黒服の男たちと共に川辺に立ち尽くしていた。 彼の視線の先には、川から引き上げられた一台の車。 車体は見るも無惨。 側面には無数の弾痕が刻まれ
しばらく沈黙が続いたあと、光莉はようやく口を開いた。 「修......どうなっても、もうここまで来てしまったのよ。あんたなら、どうすれば自分にとって一番いいのか分かってるはず。山田さんは、とても素敵な子よ。もし彼女と一緒になれたら、それは決して悪いことじゃないわ。おばあさんもきっと喜ぶわよ。彼女は、若子の代わりになれる。だから、若子のことはもう手放しなさい。もう、執着するのはやめて」 「黙れ!!」 修が突然怒鳴った。 「『俺のため』って言い訳しながら、若子を諦めろなんて......そういうの、もう聞き飽きたんだよ!」 その叫びは、激情に満ちていた。 「本当に俺の母親なのかよ?最近のお前、まるで遠藤の母親みたいだな。毎回そいつの味方みたいなことばっか言いやがって......『西也』って呼び方も、やけに親しげだな。お前、あいつに何を吹き込まれた?」 修は、最初から母親が味方になることなんて期待していなかった。 でも―せめて中立ではあってほしかった。 だが今は、まるで若子じゃなく、何の関係もない西也の味方をしているようにしか見えなかった。 なぜ母親がそうするのか、どれだけ考えても分からなかった。 その叫びに、光莉の心臓が小さく震えた。 「......修、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。私はあんたの母親よ。もちろん、あんたのことが一番大切に決まってる。全部......あんたのためを思って―」 「もう黙れ!!」 修の声は怒りに震えていた。 「『俺のため』とか言わないでくれ......お願いだから、もう関わらないでくれ。俺に関わらないでくれよ!」 そのまま、修は電話を切った。 ガシャン― 次の瞬間、彼はそのスマホを壁に叩きつけた。 画面は一瞬で粉々に砕け散った。 横にいた外国人スタッフは、ぴしっと背筋を伸ばし、無言のまま固まっていた。 病室には、まるで世界が止まったような静寂が訪れた。 やがて、外国人が英語で口を開いた。 「何を話していたかは分からないが、ちゃんと休んだほうがいいよ」 その時、彼のポケットの中で着信音が鳴る。 スマホを取り出して通話に出る。 「......はい。分かった」 通話を終えると、修の方へと向き直る。 「藤沢さん、松本さんの車が見つかった
「それで......あんたと山田さんは、うまくやっているの?」 光莉の問いかけには、どこか探るような調子が混ざっていた。 「......」 修は黙ったまま、答えなかった。 少しして、光莉がもう一度静かに尋ねた。 「修?どうかしたの?」 「......母さんは、俺が侑子とうまくやってほしいって、思ってるんだろ?本音を聞かせてくれ」 数秒の沈黙のあと、光莉は正直に口を開いた。 「ええ。私は、彼女があんたに合ってると思ってるの。若子との関係が終わったのなら、新しい恋に踏み出してもいいじゃない」 新しい恋―その言葉に、修はかすかに笑った。 それは皮肉と哀しみが入り混じった笑みだった。 「母さんさ、俺が雅子と付き合ってたとき、そんなふうに勧めたことあった?一度でも応援してくれた?」 「山田さんは桜井さんとは違うわ。それに......あの頃は、まだ若子との関係に望みがあると思っていたの。でも今は違う。若子はもう西也と結婚したのよ。あんたには......もう彼女を選ぶ理由がないわ」 ―また、西也か。 その名前を聞くだけで、修の心は抉られるように痛んだ。 「なあ、ひとつだけ聞かせてくれ」 修の声は低く、抑えていた怒りがにじんでいた。 「......母さんは、若子が妊娠してたこと、知ってたんじゃないか?」 その瞬間、光莉の心臓が跳ね上がった。 「修......それ......知ってしまったのね?若子に会ったの?」 修の手が、ぎゅっとシーツを握りしめる。 その手の甲には、浮き上がった血管が脈打っていた。 「やっぱり......知ってたんだな。どうして俺に黙ってた?なぜ、何も教えてくれなかったんだ!」 「ごめんなさい......修。私だって伝えたかった。でもあの時、若子が......もう言う必要ないって。彼女がそう言ったの」 ついに、その瞬間が来た。 修は真実を知った。若子が自分の子を産んでいたという、残酷な事実を。 光莉の心は重く沈んだ。 修が今どれほど苦しんでいるか、想像に難くない。 母として、彼女の胸には後悔があった。 だが、ここまで来たら、もう「運命」としか言いようがなかった。 「......そうか、言う必要がなかったんだな」 「若子はあいつの子どもを妊娠し
「暁―忘れるなよ。『藤沢修』、その名前を覚えておけ。あいつは、おまえの仇だ」 ...... 夜が降りた。 病院は静まり返り、あたり一面が闇に包まれていた。 窓の外には星が点々と浮かび、真珠のように建物の屋根を彩っていた。 やわらかな月光が屋上からゆっくりと差し込み、建物の輪郭を静かに浮かび上がらせる。 白い病室。 修は、真っ白なシーツに身を包まれてベッドに横たわっていた。 消毒液の匂いが、空気を支配している。 ベッドの脇には点滴が吊るされ、透明な液体が少しずつ彼の身体へと流れ込んでいた。 穏やかな灯りが、彼の青ざめた顔に落ちる。 その表情には、深い疲労と痛みがにじんでいた。 修は、目を開いた。 視線をさまよわせ、室内を確認する。 ゆっくりと身を起こし、点滴に目をやると、まだ半分ほど残っていた。 そのとき―病室のドアが開いた。 ひとりの外国人の男が入ってくる。 「藤沢さん、目が覚めたか」 「......見つかったか?」 修の声には焦りがにじんでいた。 男は首を振った。 「いや、まだだ。他の場所も順番に探してる」 修の瞳から、いつもの鋭さは失われ、暗く沈んでいた。 眉間には深い皺が刻まれ、重たい悔恨が彼の表情を支配していた。 彼は視線を落とし、口元に力なく笑みを浮かべる。 ―なぜあのとき、追いかけなかったのか。 若子を、あんなふうにひとりで行かせるべきじゃなかった。 夜の道を、彼女ひとりで運転させるなんて、自分はなんて馬鹿なんだろう。 どんな理由があろうと、あのとき引き止めて、一緒に行くべきだった。 侑子が怪我をしたからって、あそこで立ち止まるべきじゃなかったんだ。 すぐに追いかければ、若子に何か起きることもなかったかもしれない。 彼は、若子を恨んでいた。 あの瞬間、彼女が選んだのは自分ではなく、西也だったから。 でも今― 彼が選んだのは、侑子だった。そして、その選択が若子を傷つけた。 あのとき、彼にとっては難しい決断ではなかった。 もしすぐに若子を追いかけていれば、侑子に危険は及ばなかったはずなのに。 修は、自分が彼女を追わなかったことを、心の底から憎んだ。 その瞳には、痛みの波が渦を巻いていた。 まるで深い夜の湖
西也の心は―まるでとろけるようだった。 「暁、今の......パパに笑ったのか?もう一回、笑ってくれるか?」 声が震えていた。 嬉しくて、感動して、涙が出そうだった。 暁が笑ったのは、これが初めてだった。 しかも、それが自分に向けられた笑顔。 初めて、「父親としての喜び」を、はっきりと実感した瞬間だった。 これまでどれだけこの子を大切にしてきたとしても― 心のどこかで、わずかに隔たりがあったのは事実だった。 この子は、自分の子ではない。 修の血を引いている子だ。 若子への愛ゆえに、この子にも愛情を注いできた。 そうすれば、彼女にもっと愛されると思っていた。 けれど、今― 暁のその笑顔を見た瞬間、彼は心から思った。 ―愛してる。 たとえ血の繋がりがなくても。 たとえこの子が修の子でも。 そんなことは、どうでもよくなった。 ただ、この子が笑ってくれれば―それだけで十分だった。 暁は再び笑った。 その澄みきった瞳が、きらきらと輝いていた。 笑顔はまるで小さな花が咲くようで、甘く香って心を満たしてくれる。 その笑い声は鈴のように澄んでいて、胸の奥まで響いた。 その無垢な笑顔は、生きることの美しさと希望を映し出していて、誰もが幸福に満たされるような魔法を持っていた。 「暁......俺の可愛い息子」 西也はそっと指先を伸ばし、彼のほっぺたを撫でる。 まるで壊れてしまいそうなほど繊細な肌に、細心の注意を払いながら。 「おまえは本当にいい子だ。パパの気持ち、ちゃんとわかってくれるんだよな...... ママは、わかってくれなかった......あんなに尽くしたのに」 暁は小さな腕をぱたぱたと動かし、雪のように白い手が宙を舞う。 まるで幸せのリズムを刻むように。 「......パパの顔、触りたいのか?」 西也は優しく微笑んで、顔を近づけた。 暁の小さな手が、ふわりと西也の頬に触れる。 その目には喜びと好奇心に満ちていて、純粋な視線でじっと彼を見つめていた。 まるで、この広い世界を初めて覗き込んでいるかのように。 恐れも、警戒もなく、ただまっすぐな瞳で西也を見つめる。 その瞳は、一点の曇りもない。あるのはただ、「知りたい」という気持ちだけ
もしかすると―驚かせてしまったのかもしれない。 暁は、さらに激しく泣き始めた。 口を大きく開けて、嗚咽のように大声で泣いている。 「泣かないでくれよ、な?暁、パパが抱っこしてるじゃないか。 いつもはママが抱っこすると泣くくせに、パパが抱いたら泣き止んでたじゃないか。これまでずっとパパが面倒見てたんだぞ?そんなに悪かったか?なんで泣くんだよ...... ......まさか、藤沢のこと考えてるのか?」 その瞬間、西也の目が、獣のように鋭くなった。 「教えてくれ、そうなのか?あいつのことを想ってるのか?奴が......おまえの本当の父親だから? 違う......違うんだ、暁。俺が、おまえの父親だ。ずっと、ずっとおまえとママのそばにいたのは、この俺なんだ。あいつは、おまえの存在すら知らなかったくせに......女たちと好き勝手してたんだ。 暁、おまえが大きくなったら、絶対に俺だけを父親だと思うよな? 藤沢なんて、父親の資格ないんだ......そんなやつが、おまえの父親であってたまるか。 父親は俺だ!俺しかいないんだ! 暁、目を開けて、よく見ろ......この俺が、おまえの父親なんだよ! 泣くなよ......な?頼むから、泣かないで」 けれど、どれだけあやしても―暁の涙は止まらなかった。 「やめろって言ってんだろ!!」 西也はついに怒鳴りつけた。 「これ以上泣いたら......おまえを、生き埋めにしてやるからな!」 狂気をはらんだ眼差しで睨みつけた。 その瞬間― 暁の泣き声が、ぴたりと止まった。 黒く潤んだ瞳が、大きく見開かれたまま、まるで魂が抜けたように無表情になる。 動かない。 光が消えたようなその瞳を見て、西也ははっとした。 「......暁、どうした?パパだよ、わかる?」 西也はその小さな頬に手を添え、そっと撫でた。 「ごめんな、怖がらせたよな。パパ、怒ってたんじゃないんだ。ちょっと......ほんの少し、気が立ってただけなんだ」 西也は涙混じりに頬へ口づける。 「ごめん、本当にごめん。パパ、もう怒らないから。だから、お願いだから......怒らせるようなこと、しないでくれよな?」 子どもは、もう泣いていなかった。 ぐずりもせず、ただ黙っていた。