「先生、彼女はどうなんですか?」西也は心配そうに医者に尋ねた。 医者は検査結果をじっくりと確認し、慎重に言葉を選びながら答えた。 「松本さん、あなたの子宮頸管が緩んでいて、胎児の重さに耐えられない状態です」 若子は慌てて聞いた。 「それって、深刻なんですか?赤ちゃんに影響がありますか?」 医者は真剣な表情で説明した。 「妊娠19週目というタイミングで、子宮頸管が緩むと、子宮口が開いてしまい、胎児の生命に大きなリスクをもたらします。このまま放置すれば流産の可能性が非常に高いです」 若子はその言葉を聞いて全身が凍りついたように感じた。心臓が飛び出しそうなほど動揺し、震える声で言った。 「どうすればいいんですか?赤ちゃんを助けるには?」 医者は落ち着いた声で若子を安心させようとした。 「そんなに心配しないでください。子宮頸管が緩んでいる場合、手術で改善できます」 「どんな手術ですか?」西也が質問した。 「子宮頸管縫縮術という手術です。子宮口を縫合して支えを強化することで、早産や流産を防ぎます」 「それが最善の方法なんですか?」 医者は頷いた。 「はい、現在の医学では最も安全で効果的な方法です」 「手術にはリスクはありますか?」西也はなおも確認した。 医者は慎重に答えた。 「どんな手術にもリスクは伴います。子宮頸管縫縮術の場合、手術後に子宮収縮が起こったり、感染症や破水などの合併症が発生する可能性があります。ただし、手術が成功すれば、胎児の生存率を大幅に向上させることができます。母子ともに安全を確保するための重要な手段です」 若子は深く息を吸い込み、意を決したように言った。 「手術をします。すぐに手配してください」 すると、西也が口を挟んだ。 「若子、どうして俺に相談しないんだ?俺はお前の夫だろう」 若子は少し怒ったような口調で答えた。 「こんなこと相談する必要があるの?赤ちゃんの命がかかってるのよ。手術しなかったら赤ちゃんが危険なのに、それでもやらないでいろって言うの?」 西也は慌てて弁解した。 「そんなことを言ってるんじゃない。俺はお前のことが心配なんだ。手術にはリスクがあるんだぞ。もしお前に何かあったらどうするんだ?」 医者は提案した。 「お二人でよく話し合
若子の態度は非常に強硬で、冷徹にすら見えた。 「松本さん、そんなに急がなくても大丈夫です。もちろん、あなたが手術に同意することは可能です。すぐに手配します」 医者は落ち着いた声で答えた。 法律では若子の言う通りだったが、通常、病院側は医療トラブルを避けるために家族の同意を求めることが多い。それでも、若子の強い決意と「弁護士」という言葉に、病院としてもそれ以上拒むことはできなかった。 若子は婦人科のVIP病室に入院することになり、西也はずっと彼女のそばに付き添っていた。 彼は若子の肩に布団を掛け、優しく整えた。 「西也、もう帰って」若子は冷たい口調で言った。 その言葉に、西也は驚き、動揺を隠せなかった。 「どうしたんだ?」 若子は振り返り、冷たい視線で彼を見つめた。 「あなたは私に手術を受けさせたくないんでしょう?この子を望んでいないんでしょう?」 もし自分があの場で強く主張しなかったら、彼は手術に反対していただろう。そうすれば、自分の赤ちゃんは危険な状態のままだった。 「若子、そんなわけないだろう。この子は俺にとっても大切だ。俺がどうして無関心でいられる?」 「違うわ、この子はあなたの子じゃない」若子の声は冷たかった。「西也、あなたが私を大切にしてくれているのはわかってる。でも、この子は修の子なの。修が怪我をして、私は彼を心配している。それに、あなたがこんなに気にするのなら、どうやってあなたが修の子を実の子のように扱ってくれると信じられるの?」 かつてなら、若子はこんな言葉を口にすることはなかった。しかし今の彼女は心が限界を迎え、何もかも気にする余裕がなくなっていた。 西也はその言葉にショックを受け、信じられないというような目で彼女を見つめた。 「若子、俺を疑うのか?俺がこの子に何かするとでも思ってるのか?」 若子は視線をそらしながら答えた。 「わからないわ。あなたは手術に賛成しなかった。赤ちゃんにとって最善の手術なのに、あなたがそれを止めようとした理由がわからない」 「理由を知りたいのか?」西也の声は傷つき、怒りが滲んでいた。「俺が考えていたのは、お前のことだけだ。医者が手術にはリスクがあるって言ったとき、俺はお前が傷つくんじゃないかって怖かった。それで他の医者にも相談して、より良い方法が
「西也、ごめんなさい」若子は悲しげに言った。 「私、一時の感情に流されてしまったの。お腹の子が大切すぎて、無神経なことを言ってしまった。あなたを傷つけるつもりなんてなかったの」 西也は顔を伝う涙を拭き取り、振り返った。 「若子、俺にはわかってる。この子がどれほどお前にとって大切なのか。俺なんて、この子よりも大切な存在にはなれないことくらい、十分わかってる。でも......お願いだ、俺の気持ちも少しだけ考えてくれないか?俺の真心を疑わないでほしい。俺はお前のためなら、どんなことでもするし、命だって惜しくない。だから、俺を誤解しないでほしいんだ」 彼の声は切実だった。 「確かに、この子が藤沢の子だということに心の中で引っかかる部分はある。でも、それ以上にお前が大事だから、俺はこの子を大切に育てるよ。傷つけるようなことは絶対にしない。この子が幸せに育つよう、責任を持って守り、教育する。絶対に不自由な思いはさせない」 西也の言葉は真実だった。彼は若子を深く愛していた。だからこそ、彼女の大切なものも守る覚悟があった。 それでも、若子の冷たい言葉は鋭く彼を傷つけ、その痛みは彼の胸を締めつけていた。 若子は涙を堪えきれず、ポロポロとこぼしながら謝った。 「西也、本当にごめんなさい。私が悪かった。あなたを誤解して、ひどいことを言った。もうこんなことは言わないから、どうか悲しまないで」 西也は溢れる涙を拭いながら、若子の手をそっと握り、自分の頬に当てた。 「そう言ってくれるなら、それだけで俺は安心だ。お前のためなら、俺は何でもする」 若子は少しだけ微笑んでから、真剣な表情になり、西也に伝えた。 「西也、この子は私にとって命そのものなの。この子がいなくなったら、私はもう生きていられない。絶対に、この子を守らなきゃいけない」 「若子、俺は......」 「西也」若子は西也の手を力強く握り締めた。 「もし私が意識を失うようなことがあったら、絶対にこの子を最優先に守って。私の命はどうなっても構わない。この子が無事に生まれるためなら、私はどんな犠牲も惜しまない。もし私が管に繋がれて生きているだけの状態でも、この子が安全に生まれるまで絶対に手を止めないで」 西也は驚き、そして苦しそうに顔を歪めた。 「若子、そんなこと言うな。
「もしそんなことが起きたら、私はこの子と一緒に死ぬ」 若子はそっと西也の頬を拭いながら涙をぬぐった。その仕草は優しかったが、声は冷徹で残酷だった。 「西也、忘れないで。この子がいる限り、私もいる。この子がいなくなったら、私もいなくなる。私は修を諦めた。だから、この子だけは絶対に諦められないの」 若子の瞳に宿る強い意志を見て、西也はすでに説得の余地がないことを悟った。 彼の心は苦しみと怒り、そして悲しみでぐちゃぐちゃだった。 ついに西也は感情を抑えきれず、若子を力強く抱きしめた。 「若子、お前はなんて残酷な女だ。俺はお前が憎い!」 若子は痛みに耐えるように目を閉じ、涙が止めどなく頬を伝った。 自分の言葉が西也を深く傷つけることはわかっていた。それでも、お腹の中の赤ちゃんを守るため、彼女にはそうするしかなかった。一切の妥協も許されなかった。 この世に完全無欠な人間なんていない。人間には必ず弱さや迷いがある― それが現実だからこそ、若子は一切の油断を許せなかった。 「西也、ごめんなさい。私が悪かったの。本当にごめんなさい。もし私のことが嫌いになったなら、私たちは離婚しましょう。何もいらない。全部あなたに渡す」 「嫌だ!」西也は彼女の言葉を遮り、声を荒げた。 「若子、どうしてこんな時に離婚なんて言い出すんだ?どうして今なんだ!」 若子は真っ赤に充血した目で西也を見つめた。これまで離婚について話せなかったのは、彼が記憶を失っていたせいだった。刺激を与えたくなかった。しかし、今の状況ではもう隠し続けることはできなかった。 「西也、ごめんなさい。隠してたことがあるの。実は私たちの関係は―」 「言うな」西也は彼女の口を手で覆い、懇願するように言った。 「若子、お願いだから何も言わないでくれ。俺はもう十分苦しいんだ。お前がそんなことを言ったら、俺は本当に死ぬしかなくなる。頼むから、黙っていてくれ」 若子は西也の手をそっと握り、少し押し戻してから頷いた。 「だったら、私のお願いを聞いてくれる?何があっても、この子を守ってほしいの」 西也は彼女の手を握り直し、低く静かな声で答えた。 「若子、お前のお願いを聞く代わりに、俺のお願いも聞いてくれないか」 若子は少し戸惑いながら尋ねた。 「どんなお願い?
「若子、お願いだ。俺と離婚しないって約束してくれないか?」 「西也、それはあなたに不公平よ。このお腹の子はあなたの子じゃない。それに、私たちの結婚には別の理由があった。今、あなたは記憶を失っているけれど、記憶が戻ればきっとわかるはず。もしかしたら、自分から離婚を望むかもしれないわ」 「それなら......それならすべて記憶が戻ったあとに話そう。でも、それまでは頼むから離婚なんて言わないでくれ。俺に、お前の夫でいさせてくれないか?」 「でも、西也、こんなことはあなたにとって本当に不公平なの。今のあなたは過去を覚えていないけど、もしかしたら本当は私なんか愛していないのかもしれない」 「愛している!」 西也はほとんど叫ぶように言った。 「若子、俺はお前を愛しているんだ。だからもうそんなこと言うな!」 「......」 「西也、違うの。あなたは私を愛しているわけじゃない。あなたが愛しているのは別の女性で、彼女のことを......」 「どうでもいい!」西也は興奮したように言葉を遮った。 「他の女なんてどうでもいい!俺が欲しいのはお前だけだ。だから、他の女の話はしないでくれ」 「でも、他に女性がいるのよ。前にそう言ってたじゃない」 「それは前の話だろう?」西也は力強く続けた。 「若子、俺は今、お前を愛している。他の女なんて俺の心に何の意味も持たない。俺の目にはお前しか映っていないんだ」 「違う、西也。あなたは間違えてる。あなたが愛しているのは......」 「お前は馬鹿か?」西也は彼女を真っ直ぐに見つめた。 「俺がこんなにもお前を気にかけて、こんなにも大事にしているのが見えないのか?それとも、お前はわざと俺を避けているのか?」 「......」 その言葉に若子は何も返せなかった。 彼の言う通りだった。若子は、彼が自分を本当に愛しているのかどうか、ずっと迷っていた。西也は以前、「高橋美咲のことが好きだ」と言っていた。しかし、彼の言葉とは裏腹に、行動では彼女を大切にし、守ろうとしていた。 若子はそれを認めるのが怖かった。そして、美咲との仲を応援することで自分自身を逃避させてきた。しかし、西也が今、愛をはっきりと告白したことで、逃げ場はなくなった。 二人の間に存在していた薄い壁。それが今、完全に取り払
彼女は自分の体を差し出すことはできても、それ以外の何も西也に与えることはできなかった。 若子にとって西也には感謝も感動も、そして深い罪悪感もある。 しかし、彼女の愛はもうとうの昔に死んでしまっていたのだ。 西也は痛みを堪えるように目を閉じた。若子の沈黙は答えそのものだった。それがどんなに彼を傷つけるものであっても、彼女の答えは変わらない。それは西也も薄々感じ取っていた。だが、それでもその痛みに耐えることは難しかった。 彼は深く息を吐き出し、胸を締め付けられるような感情を押し殺しながら口を開いた。 「わかった、若子。無理に答えなくていい。俺はお前に答えを強要したりしない。でも、どうかこれだけは約束してほしい。離婚だけはしないでくれ。それだけでいい。お前が離婚しない限り、俺はお前の望むことは何でもする。お前が言う通りにする」 「西也......」若子の声はかすれていた。 「それって取引なの?私がその約束をすれば、あなたも約束してくれるのね。もし何かあったとき、私の赤ちゃんを守るって」 「そうだ。もしお前がそう考えるなら、これは取引だ」 「私に、結婚生活を取引の材料にしろって言うの?」 「若子、お前が俺を憎んでもいい。嫌ってもいい。でも俺はどうしようもないんだ......」 西也は声を詰まらせ、嗚咽を堪えるように続けた。 「俺はお前を失うことが怖くて仕方ない。お前がいなくなったら、俺は生きていけない。離婚なんてされたら、俺は本当に......死んでしまうかもしれない」 その言葉を口にする頃には、西也の瞳は涙で赤く染まり、彼の表情は痛みと愛情に満ちていた。 「西也、こんなことをして、本当にそれだけの価値があると思う?あなたがこんなに苦しむ必要はないのよ。あなたにはもっといい女性がいる。あなたを愛してくれる人が......」 「言うな!」 西也は彼女の言葉を遮り、彼女の唇を手で覆った。 「言わないでくれ。俺は聞きたくない。ただ俺に答えてくれ。お前はその約束をするか、しないか、それだけだ」 若子は彼の手をそっと押し戻し、首を振りながら答えた。 「わからない。本当にわからないの、西也。お願いだから、そんなに私を追い詰めないで」 「お前も俺を追い詰めていることに気づかないのか?」西也の声には怒りが混じっ
若子は顔の涙をぬぐい、西也の胸から身を起こした。そして静かに言った。 「西也......私たちがこのまま結婚生活を続けることで、あなたが苦しむことになっても後悔しない?」 西也は彼女の手を取り、指をそっとなぞりながら答えた。 「後悔なんてしない。お前と一緒にいることが、俺にとって何よりの幸せだから。俺はお前を大事にする。お前の赤ちゃんも、同じくらい大事にする」 若子は痛みを噛みしめるように目を閉じ、小さく頷いた。 「......わかった。西也、離婚はしない」 そう言ったあと、若子は目を開けて彼を見つめた。 「でも、西也。もしいつかあなたが記憶を取り戻して、離婚したいと思ったら、言ってね。そのときは、あなたの気持ちを尊重するから」 その言葉は西也の耳にとても刺々しく響いた。 この女はなんて冷酷なんだ。いつだって彼と離婚することばかり考えている。彼は彼女のためにこれほどまでに尽くしてきたのに、彼女はその愛を少しも返してくれない。たとえほんの少しの愛でもいい、一瞬だけでも、彼女が彼を本当の夫として見てくれればそれでいいのに。夫婦生活を拒むのは仕方ないとしても、せめて一つのキスくらいなら、そんなに難しいことだろうか?でも、彼女はそのたった一つのキスすらも与えてくれなかった。 「......わかった。若子。もし俺がいつか離婚したいと思ったら、その時はちゃんと言う。でもそれまでは、二度と離婚の話をしないでくれ。お前は、永遠に俺の妻だ」 若子は小さく頷いた。 「......わかった。西也、約束するわ」 その瞬間、西也は彼女を強く抱きしめた。彼の腕は彼女を逃さないようにしっかりと絡められ、まるで自分の一部にしようとするかのようだった。 「若子......これからは、俺の命は全部お前のものだ。お前が望むなら何でもする」 若子は彼の胸に黙ったまま身を預けた。 彼女は心の中で呟いた。 「......ここまで来てしまったのだから、もう後戻りはできない」 彼女は修とやり直すことなんて、もうできなかった。たとえ修がまだ生きていても、彼は自分を憎んでいるだろう。それに、自分が修の元に戻る資格はどこにもなかった。 西也は彼女のために、あまりにも多くの犠牲を払ってくれた。彼を裏切り、離婚すれば、彼を深く傷つけてし
「若子、赤ちゃんはどうしたの?何があったの?」 光莉の声には心配が滲んでいた。 「お母さん、先生に言われたの。私、子宮頸管が緩んでいて、子宮頸管縫縮術をしないと赤ちゃんが危険なんです」 光莉は少し苛立ったように声を上げた。 「そんな大事なこと、どうしてもっと早く言わなかったの?」 「今日になって初めてわかったんです。それに、電話をしてもお母さんが出てくれなくて......」 光莉は少し間を置いてため息をついた。 「そうね。明後日、手術を受けるんでしょ?」 「はい。明後日手術をすることになっています。だからお願いです。修が今どこにいるか教えてくれませんか?」 若子は言葉を詰まらせながらも懸命に続けた。 電話越しの沈黙が痛いほどに重く感じられた。そして、光莉が低い声で答えた。 「若子、電話に出なかったのは、あなたを避けていたからよ。どうせ修のことを聞かれると思ってね。でも......私も嘘はつけない」 「お母さん......じゃあ、修が今どこにいるか知っているんですね?彼は生きているんですか?それとも......?」 若子の声は震え、言葉にならない涙が込み上げた。 光莉は長い沈黙の後、ため息交じりに言葉を絞り出した。 「修は生きてる。でも、重傷を負って命を繋ぎ止めるのがやっとだった。病院に運ばれたとき、胸に矢が刺さっていて、前と後ろを貫通してたんだよ」 その言葉に、若子は口元を押さえ、悲痛な嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えた。 彼女の頭には、修が胸を矢に貫かれ血を流している光景が浮かんだ。夢で見たあの場面が、現実だったのだ― 若子の体は崩れ落ちそうになり、壁に手をついてなんとか立っていた。震える息を整えながら涙を拭った彼女は、掠れた声で尋ねた。 「私......あの時修を探しに行きました。でも、修はいなかった。血だまりだけが残っていて......あのとき彼を助けたのは、お母さんたちなんですか?」 光莉は静かに答えた。 「私たちが病院から連絡を受けて駆けつけたときには、もう修は病院に運ばれてた。誰が彼を助けたのかはわからない」 若子はその答えに驚き、混乱した。 修を助けたのは、いったい誰なのか?彼の家族がその場にいなかったとすれば、あの場にいたのは― あの犯人?でも、犯人が彼
若子が生きていると確認して、修はようやく安堵の息を吐いた。 これまで幾度となく、彼女を探し続けるなかで何度も遺体を見つけ、そのたびに胸が潰れそうな絶望を味わった。 けれど、若子だけは見つからなかった。 代わりに、他の行方不明者ばかりが見つかった。 そして今ようやく、彼女を見つけた。 彼女は―生きていた。 だが彼女がどんな目に遭っていたのか、想像するだけで胸が痛んだ。 「修......なんであなたが......?」 若子は信じられないような目で彼を見つめた。 「どうしてここに?」 まさか来たのが修だったなんて、夢にも思わなかった。 ヴィンセントは目を細めて振り返った。 「この男......テレビに出てたやつじゃないのか?君の前夫だろ?」 若子はうなずいた。 「うん。彼は......私の前夫よ」 修が来たと分かって、若子は少しだけ安心した。 「若子、こっちに来い!」 修は焦った様子で手を伸ばした。 「修、どうしてここに......?」 「お前を助けに来たに決まってるだろ!お前がいなくなって、俺は気が狂いそうだった!」 「わざわざ......私のために......?」 若子は、てっきりヴィンセントの敵が来たのだと思っていた。 「若子、早く来い!そいつから離れて!」 「修、違うの!誤解してる!彼は......ヴィンセントって言って、彼は......」 若子が話し終える前に、修は彼女を後ろへ引っ張り、銃を構えてヴィンセントに発砲した。 ヴィンセントはまるで豹のような動きで避けたが、すぐに更なる銃弾が飛んできた。 すべての男たちが一斉にヴィンセントへ発砲を始めた。 彼はテーブルの陰に飛び込んで避けたが、ついに銃弾を受けてしまった。 「やめて!」 若子は絶叫した。 銃声が激しく響き、彼女の声はかき消されていった。 「修、やめて!」 彼女は必死に彼を掴んで叫んだ。 「撃たせないで、やめて!」 「若子、お前は何をしてるんだ!?あいつは犯罪者だぞ!お前を傷つけたんだ、正気か!?」 修には、なぜ若子がヴィンセントを庇うのか理解できなかった。 「彼は違う、彼はそんな人じゃない......!」 「違わない!」 修は彼女の言葉を遮った。 「
彼女に違いない、絶対に若子だ! あの男は誰だ?一体若子に何をした? 修の目には、あの男が若子をここに連れてきたようにしか見えなかった。 若子がどれほどの苦しみを受けたのかも分からない。 修は考えれば考えるほど、動揺と焦りで頭がいっぱいになった。 部下が周囲を確認していた。 この家は簡単に入れない。どこも厳重に警備されていて、爆破しないと入れない状態だった。 突然、監視カメラの映像に映った。 男が女をソファに押し倒したのだ。 その瞬間、修の怒りが爆発した。 若子が襲われていると誤解し、理性を失った彼は即座に命令を出した。 「扉を爆破しろ、早く!」 ...... ソファの上で、ヴィンセントは若子の上から身体を起こした。 「悪い」 「大丈夫、気をつけて」 さっきはヴィンセントがバランスを崩してソファに倒れ、その勢いで若子も倒れたのだった。 ヴィンセントが姿勢を整えると、若子は言った。 「傷、見せて。確認させて」 彼女はそっと彼の服をめくり、包帯を外そうとした。 ―そのとき。 ヴィンセントの眉がぴくりと動いた。 鋭い危機感が背中を駆け抜けた次の瞬間、彼は若子を抱き寄せ、ソファに倒れ込ませた。 「きゃっ!」 若子は驚き、思わず声を上げた。 何が起きたのか分からず、反射的に彼を押し返そうとしたが― その瞬間、「ドンッ!」という轟音が響き、爆発が扉を吹き飛ばした。 煙と埃が宙に舞い、破片が飛び散る。 ヴィンセントは若子をしっかりと抱きかかえ、その身体で彼女を庇った。 その眼差しは鋭く、まるで刃のようだった。 若子は呆然としながら言った。 「何が起きたの?あなたの敵?」 もし本当にそうだったら― この状況は最悪だった。 ヴィンセントはまだ傷が癒えていない、今の彼に戦える力があるか分からない。 「怖がらなくていい。俺が守る」 その声は強く、闇を貫くように響いた。 彼はもうマツを守れなかった。 今度こそ、若子だけは―何があっても守り抜く。 扉が吹き飛んだあと、黒服の男たちが銃を持って突入してきた。 「動くな!両手を挙げろ!」 ヴィンセントはそっとソファの上にあった車のキーを手に取り、若子の手に握らせた。 そして、彼女の耳
ヴィンセントは「なぜだ、なぜなんだ!」と叫び続け、頭を抱えて自分の髪を乱暴に引っ張った。 その姿は絶望そのものだった。 若子は彼の背中をそっと撫でた。 何を言えば慰めになるのか、彼女には分からなかった。 ―すべての苦しみが、言葉で癒せるわけじゃない。 最愛の人を、あんな形で失った彼の痛み。 誰にだって耐えられることじゃない。 もしそれが自分だったら―きっと、同じように壊れていた。 突然、ヴィンセントは手を伸ばし、若子を抱きしめた。 若子は驚いて、思わず彼の肩に手を当て、押し返そうとした。 だが、彼はその耳元でかすれた声を漏らした。 「動かないで......少しだけ、抱かせて......お願いだ」 「......」 若子は心の中でそっとため息をついた。 彼の背中を軽く叩きながら言った。 「これはあなたのせいじゃないよ。全部、あいつらみたいな悪人のせい。 マツさんも、きっとあなたを責めたりしない。 きっと、あなたにこう言うよ。『今を大切にして、毎日をちゃんと生きて』って」 「松本さん......ごめん......君をここに閉じ込めて、マツとして扱って...... ただ、昔の記憶にすがりたかっただけなんだ...... 君を初めて見たとき、マツが帰ってきたのかと思った...... 君があいつらに傷つけられるって思ったら......もう耐えられなかった」 ヴィンセントの表情には、後悔と悲しみが滲んでいた。 その瞳は、内面の葛藤と苦しみに囚われ、涙が滲むような声で語った。 彼は若子に謝っていた。 そして、自分の弱さを―心の奥にある痛みを告白していた。 「それでも、助けてくれてありがとう。私をマツだと思ってたとしても、松本若子だと思ってたとしても......あなたは私を、助けてくれた」 「たとえマツじゃなくても、俺はきっと君を助けてたよ」 ヴィンセントは彼女をそっと離し、その肩に両手を置いた。 真剣な眼差しで言った。 「俺、女が傷つけられるのを見るのが耐えられないんだ」 ふたりの視線が交わる。 その間に流れる空気は、言葉では表せない感情に満ちていた。 若子は、彼の心の痛みを少しでも理解しようとした。 ―もしかしたら、自分が人の痛みに敏感だからかも
若子はほんの少し眉をひそめた。 しばらく考え込んだあと、こう言った。 「私には、あなたの代わりに決めることはできない。あなたが復讐したのは、間違ってないと思う。でも......もしも、まだ彼を苦しめるつもりなら......私は先に上に行ってもいい?見ていられないの」 あまりにも残酷な光景に、若子は夜に悪夢を見るかもしれないと思った。 ヴィンセントは彼女の顔を見て振り返った。 若子の表情は、少し青ざめていた。 彼女は確かに、怖がっていた。 そうだ。 彼女はまともな人間だ。 自分のように、何もかも見てきたような人間じゃない。 怖がって当然だ。 若子は、真っ白なクチナシの花。 自分は、血と泥にまみれた人間。 「......行っていい。すぐに俺も行く」 若子は「うん」と頷き、地下室を出て行った。 扉を閉めると、地下室から音が漏れてきた。 声の出ないその男は、うめくことも叫ぶこともできない。 聞こえてくるのは、ヴィンセントの行動音だけだった。 ナイフが肉を刺す音、物が倒れる音― 若子は耳を塞ぎ、背中を壁に押しつけた。 この世界では、日々さまざまな出来事が起こっている。 善と悪は、簡単に区別できない。 人を殺すことが、必ずしも「悪」ではなく、 人を救うことが、必ずしも「善」とは限らない。 たとえば、殺されたのが凶悪な犯罪者だったなら、それは正義かもしれない。 逆に、そんな人間を救えば、また誰かが被害に遭うかもしれない。 世の中は、白と黒で割り切れない。 極端な善悪の二元論では、何も見えてこない。 しばらくして、扉が開いた。 ヴィンセントが出てきた。手にはまだ血のついたナイフを持っていた。 彼はそのまま、近くのゴミ箱にナイフを投げ捨てた。 「殺した......地獄に落ちて、マツに詫びてもらう」 若子は彼をまっすぐに見つめた。 そこにいたのは、復讐を果たして満足している男ではなかった。 魂を失ったような、抜け殻のような男だった。 突然、ヴィンセントが「ドサッ」とその場に倒れ込んだ。 「ヴィンセント!」 若子は駆け寄って、彼を支えようとしゃがみ込む。 だが、彼は起き上がろうとせず、地面に崩れたまま笑い出した。 「なあ......天
男の体は血だらけで、すでに人間の姿とは思えないほどに痛めつけられていた。 全身からはひどい悪臭が漂っている。 若子は吐き気をこらえながら、口を押さえて顔を背け、えずいた。 「この人......誰?どうして......あなたの地下室に......?」 「こいつが、マツの彼氏だ」 若子は驚愕した。 「えっ?彼女の彼氏が、どうしてここに......?」 ヴィンセントは語った。 妹を殺したのはギャングたちだ― だから、彼はそのすべての者たちを殺して復讐を果たした、と。 だが、その中に彼氏の話は一切出てこなかった。 ―もしかして、妹を失ったショックで、理性を失ってるの......? 「こいつがマツを死なせた張本人だ」 「どういうこと......?ギャングがマツを襲ったって......それならこの人は......?」 「こいつがチクったんだ。マツが俺の妹だって、やつらに教えた」 ヴィンセントは男の前に立ち、声を荒げた。 「こいつが共犯だ!」 その目には殺意が宿っていた。 この男を殺したところで、気が済むわけではない。 それでも―殺さずにはいられないほど、憎しみは深かった。 男は顔も腫れ上がり、誰だか分からない。 身体中を鎖で縛られ、長い間、暗く湿った地下に閉じ込められていた。 声も出せず、体を動かすことすらできず、助けも呼べず― ただ、毎日苦しみ続けていた。 ヴィンセントは彼を殺さず、生かしたまま、マツが受けた苦しみを何倍にもして返していたのだ。 「......そういうことだったのか」 若子は心の中で思った。 マツは―愛してはいけない男を愛してしまったのだ。 女が間違った男を選べば、軽ければ心が傷つくだけで済む。 だが、重ければ命すら奪われる。 修なんて、この男に比べれば、まだマシだ。 少なくとも、彼は命までは奪わない。 ......でも、そういう問題じゃない。 傷つけられたことには変わりない。 「ヴィンセントさん......これからどうするの?ずっとここに閉じ込めて、苦しませ続けるつもり?」 若子には、彼の行動を否定することもできなかった。 非難する資格が自分にはないと分かっていた。 でも、心のどこかで―怖さもあった。 だが、
言葉のない慰め。 それが、今の若子にできる唯一のことだった。 人と人との共感。 他人の悲しみを知ったときに生まれる感情。 それは、冷淡や無関心、ましてや嘲笑とは違う。 ―それが、人間と獣の違いなのかもしれない。 ヴィンセントが幻覚を見続け、マツの名前を呼び続け、「ごめん」と繰り返していた理由が、ようやくわかった。 「それで......それであなたは、マツを傷つけたやつらに復讐したの?全部......殺したの?」 若子は声を震わせながら尋ねた。 「その通りだ」 ヴィンセントの瞳に、凶暴な光が宿った。 「奴ら全員殺した。去勢して、自分のモノを食わせた。内臓をくり抜いて、犬に食わせて、一人残らず消した」 溢れ出す怒りが、今も彼の心の中で燃え続けていた。 奴らはもう死んだ。 けれど、この憎しみは消えない。 一生、忘れることなんてできない。 「この街では、あいつらは神みたいな存在だったらしい。すべてを支配する者たち。 ......でもな、地べたに這いつくばって命乞いして、腐って、臭って、ただの肉塊になった。ははっ、ざまあみろってんだ!」 ヴィンセントは狂ったように笑った。 けれど、笑いながら、大粒の涙が頬を伝って落ちた。 若子はそっとティッシュを取り出し、彼の涙をぬぐおうとした。 その瞬間―「パシッ」 ヴィンセントが彼女の手首を掴んだ。 「......地下室の音。君が聞いたのは、幻覚じゃない。知りたいか?」 若子は唇を噛みしめながら、黙ってうなずいた。 「来い。案内する」 ヴィンセントは若子の手を取って立ち上がり、地下室へと向かった。 ふたりで地下室の前まで来ると、古びた扉が目の前に現れた。 ドアノブは錆びていて、古さを感じさせる。 夕食を作る前、若子はここで音を聞いた。 扉を開けようとして、恐怖で逃げ出した― そして今、ヴィンセントがその話を終え、彼女をここへ連れてきた。 胸の奥にある不安が、ふくらんでいく。 「下にあるものは......見て気分が悪くなるかもしれない。覚悟しておけ」 若子は振り返って答えた。 「覚悟はできてる。あなたが一緒なら、私は怖くない」 一人だったら、絶対に降りられない。 でも今は、ヴィンセントがそばにい
「それで、マツって結局どんな人だったの?」 若子はそう思ったが、口には出さなかった。 彼が話し始めるのを、ただ真剣に聞いていた。 ヴィンセントは、きっと自分から語ってくれると思ったから。 「マツがあの男のことを好きなのは知ってた。だから、そんなに強くは殴ってない。でも、あいつが浮気したって聞いて......腹が立った。マツみたいにきれいな子がいるのに、なんで浮気なんかするんだってな。 でも、その後であいつも自分の過ちに気づいて、マツに謝ったんだ。マツも許して、ふたりはまた付き合い始めた。楽しそうに一緒に遊んで、勉強して...... でも俺は、あいつがまたマツを傷つけるんじゃないかと怖くて、陰で忠告してやった。『次またマツを泣かせたら、お前を終わらせる』ってな。 それでもふたりの関係はどんどん良くなっていって、大学を卒業した後、結婚の話まで出てた。 うちの親は早くに死んだから、マツとはふたりで支え合って生きてきた。『兄は父の代わり』って言うだろ。だから俺は、父親にも母親にもなった。でも、マツも俺を支えてくれた。 でも、マツは大人になって、愛する男ができた。いつまでも兄とだけ一緒にいるわけにはいかない」 若子はようやく、マツが彼の妹だということを理解した。 ふたりは子どもの頃から一緒に育ち、互いに支え合ってきた。 彼が幻覚に陥ったときに叫んでいたその名前― 深い痛みと共に繰り返していた「ごめん」は、すべて彼女に向けたものだったのだ。 若子はどうしても聞きたくなった。 「......マツは今、どこにいるの?その男の人と、まだ一緒なの?」 「マツに食わせるために、学費を貯めるために......俺は命がけの仕事をしてた。あいつは何も知らなかった。 俺のこと、真っ当な人間だって信じてた。自動車整備工場で働いてるって。 でも、ある日―マツは血まみれでベッドに倒れてる俺を見てしまった。 あいつ、びっくりしてた。『兄ちゃんは、そんな人間だったの......?』って」 ヴィンセントの目は虚ろで、焦点を失っていた。 ここまで話すと、彼はしばらく黙り込んだ。 若子は何も言わず、静かに待った。 数分後― ヴィンセントが再び口を開いた。 「マツは俺がひどくケガしてるのを見て、夜中に薬を買いに行っ
「監禁じゃないっていうの?」若子は問い返した。 ヴィンセントは鍵を彼女の手元に置いた。 「俺としては、それを『取引』と呼びたい」 若子は車の鍵を手に取り、ぎゅっと握った。 「どうして、予定より早く帰してくれるの?」 ヴィンセントは缶のビールを飲み干し、さらに若子が一口だけ飲んだビールまで手に取り、それも全部飲み干した。 二缶を一気に飲み干した彼の目は虚ろだった。 「夢から覚める時が来たんだ。君はマツじゃない。俺はただ、偽物の記憶にすがってただけだ」 このままでは、自分はどんどん抜け出せなくなる。 この女をずっとここに閉じ込め、マツとして扱ってしまう― でも、それは不可能だ。 若子は黙って彼を見つめた。何か聞きたかったが、ヴィンセントは何度も「マツのことは口にするな」と言っていた。 結局、口をつぐみ、ただ黙って見守った。 彼の目には悲しみが浮かんでいたが、笑顔でそれを隠していた。 「首を傷つけちまって、悪かったな。普段から誰かに命を狙われるから、寝てても常に警戒してる。何か動きがあると、自動的に危険だと判断するんだ」 「なんでそんなに多くの人に命を狙われるの?よかったら教えてくれない?私、誰にも言わないから」 若子はヴィンセントに対して、さらに好奇心を抱いた。 彼には、何か大きな物語がある気がしてならなかった。 普通の人とは明らかに違う。 「俺は大勢の人間を殺した。家族ごと全員だ。犬一匹すら残さなかった」 その言葉を発したとき、ヴィンセントの拳は握り締められ、眉間は寄り、目には鋭い殺気が宿っていた。 若子は背筋に寒気が走った。 「誰の家族を......全部、殺したの?」 「たくさんの人間だ」 ヴィンセントは顔を向け、静かに彼女を見つめた。 「数えきれない。血の川をつくるほど殺してきた」 若子は緊張し、両手を握りしめた。 手のひらは冷や汗で濡れていた。 「どうして......?」 「どうしてだと?」 ヴィンセントは笑った。 「人を殺すのに理由がいるか?俺はただの殺人鬼ってことでいい」 「でも、あなたは違う。どうして殺したのか、それが知りたいの」 この世には理由もなく人を殺す者がいる。 単なる異常者もいる。 でも、若子はヴィンセントは
「子ども」この言葉を聞いた瞬間、若子は眉をひそめた。 「......どうして知ってるの?」 ヴィンセントは立ち上がり、冷蔵庫を開けてビールを一本取り出し、のんびりと答えた。 「妊娠してから他の男と結婚して、子どもが生まれてまだ三か月ちょっと。ってことは、離婚を切り出された時点で、すでに妊娠してたわけだ。でも、子どもは今の旦那の元にいる。ってことは、可能性は二つしかない。 ひとつは、元旦那が子どもの存在を知ってて、それでもいらなかった。 もうひとつは、そもそも子どもの存在を知らない。君が教えたくなかったんだろう。俺は後者だと思うね。だって、あいつはクズだ。そんな奴に父親なんて務まらない」 若子は鼻の奥がツンとして、喉に痛みを感じながらかすれた声を出した。 「......彼はそんなに悪い人じゃない。あなたが思ってるような人じゃないの」 「どんなやつかなんて関係ない。ただ、浮気者のクズって一面があるのは否定できないだろ」 「ヴィンセントさん、人間は完璧じゃないの。もう彼の話はやめて。私たちは幼い頃から一緒に育ったの。だから......どうしても憎めないの」 「わかったよ」ヴィンセントはソファに戻って腰を下ろした。 「そいつがここまでクズになったのは、君が甘やかしたせいだな」 「やめてってば」若子は少し苛立ったように言った。 「いい加減にして」 そして、ソファの上のクッションを手に取り、彼に向かって投げつけた。 ヴィンセントはその様子を見て、少し嬉しそうにしていた。 彼はクッションを横に置きながら言った。 「わかった、もう言わないよ」 そして、新しいビール缶を開けて、若子に差し出した。 若子は気分もモヤモヤしていたので、それを受け取り一口飲んだ。 普段あまりお酒は飲まないが、ビールならまだ飲める。 けれど、彼に締められた首がまだ痛くて、その一口で喉が強く痛んだ。 すぐにビールを置き、喉に手をやる。 顔をしかめるほどの痛みだった。 それを見たヴィンセントはすぐに彼女のそばに来て、体を向けさせ、あごを軽く持ち上げた。 「見せて」 若子の首は腫れていた。 もう少しで折ってしまうところだった。 「腫れ止めの薬を取ってくる」 立ち上がろうとしたヴィンセントを、若子は腕を