「もしそんなことが起きたら、私はこの子と一緒に死ぬ」 若子はそっと西也の頬を拭いながら涙をぬぐった。その仕草は優しかったが、声は冷徹で残酷だった。 「西也、忘れないで。この子がいる限り、私もいる。この子がいなくなったら、私もいなくなる。私は修を諦めた。だから、この子だけは絶対に諦められないの」 若子の瞳に宿る強い意志を見て、西也はすでに説得の余地がないことを悟った。 彼の心は苦しみと怒り、そして悲しみでぐちゃぐちゃだった。 ついに西也は感情を抑えきれず、若子を力強く抱きしめた。 「若子、お前はなんて残酷な女だ。俺はお前が憎い!」 若子は痛みに耐えるように目を閉じ、涙が止めどなく頬を伝った。 自分の言葉が西也を深く傷つけることはわかっていた。それでも、お腹の中の赤ちゃんを守るため、彼女にはそうするしかなかった。一切の妥協も許されなかった。 この世に完全無欠な人間なんていない。人間には必ず弱さや迷いがある― それが現実だからこそ、若子は一切の油断を許せなかった。 「西也、ごめんなさい。私が悪かったの。本当にごめんなさい。もし私のことが嫌いになったなら、私たちは離婚しましょう。何もいらない。全部あなたに渡す」 「嫌だ!」西也は彼女の言葉を遮り、声を荒げた。 「若子、どうしてこんな時に離婚なんて言い出すんだ?どうして今なんだ!」 若子は真っ赤に充血した目で西也を見つめた。これまで離婚について話せなかったのは、彼が記憶を失っていたせいだった。刺激を与えたくなかった。しかし、今の状況ではもう隠し続けることはできなかった。 「西也、ごめんなさい。隠してたことがあるの。実は私たちの関係は―」 「言うな」西也は彼女の口を手で覆い、懇願するように言った。 「若子、お願いだから何も言わないでくれ。俺はもう十分苦しいんだ。お前がそんなことを言ったら、俺は本当に死ぬしかなくなる。頼むから、黙っていてくれ」 若子は西也の手をそっと握り、少し押し戻してから頷いた。 「だったら、私のお願いを聞いてくれる?何があっても、この子を守ってほしいの」 西也は彼女の手を握り直し、低く静かな声で答えた。 「若子、お前のお願いを聞く代わりに、俺のお願いも聞いてくれないか」 若子は少し戸惑いながら尋ねた。 「どんなお願い?
「若子、お願いだ。俺と離婚しないって約束してくれないか?」 「西也、それはあなたに不公平よ。このお腹の子はあなたの子じゃない。それに、私たちの結婚には別の理由があった。今、あなたは記憶を失っているけれど、記憶が戻ればきっとわかるはず。もしかしたら、自分から離婚を望むかもしれないわ」 「それなら......それならすべて記憶が戻ったあとに話そう。でも、それまでは頼むから離婚なんて言わないでくれ。俺に、お前の夫でいさせてくれないか?」 「でも、西也、こんなことはあなたにとって本当に不公平なの。今のあなたは過去を覚えていないけど、もしかしたら本当は私なんか愛していないのかもしれない」 「愛している!」 西也はほとんど叫ぶように言った。 「若子、俺はお前を愛しているんだ。だからもうそんなこと言うな!」 「......」 「西也、違うの。あなたは私を愛しているわけじゃない。あなたが愛しているのは別の女性で、彼女のことを......」 「どうでもいい!」西也は興奮したように言葉を遮った。 「他の女なんてどうでもいい!俺が欲しいのはお前だけだ。だから、他の女の話はしないでくれ」 「でも、他に女性がいるのよ。前にそう言ってたじゃない」 「それは前の話だろう?」西也は力強く続けた。 「若子、俺は今、お前を愛している。他の女なんて俺の心に何の意味も持たない。俺の目にはお前しか映っていないんだ」 「違う、西也。あなたは間違えてる。あなたが愛しているのは......」 「お前は馬鹿か?」西也は彼女を真っ直ぐに見つめた。 「俺がこんなにもお前を気にかけて、こんなにも大事にしているのが見えないのか?それとも、お前はわざと俺を避けているのか?」 「......」 その言葉に若子は何も返せなかった。 彼の言う通りだった。若子は、彼が自分を本当に愛しているのかどうか、ずっと迷っていた。西也は以前、「高橋美咲のことが好きだ」と言っていた。しかし、彼の言葉とは裏腹に、行動では彼女を大切にし、守ろうとしていた。 若子はそれを認めるのが怖かった。そして、美咲との仲を応援することで自分自身を逃避させてきた。しかし、西也が今、愛をはっきりと告白したことで、逃げ場はなくなった。 二人の間に存在していた薄い壁。それが今、完全に取り払
彼女は自分の体を差し出すことはできても、それ以外の何も西也に与えることはできなかった。 若子にとって西也には感謝も感動も、そして深い罪悪感もある。 しかし、彼女の愛はもうとうの昔に死んでしまっていたのだ。 西也は痛みを堪えるように目を閉じた。若子の沈黙は答えそのものだった。それがどんなに彼を傷つけるものであっても、彼女の答えは変わらない。それは西也も薄々感じ取っていた。だが、それでもその痛みに耐えることは難しかった。 彼は深く息を吐き出し、胸を締め付けられるような感情を押し殺しながら口を開いた。 「わかった、若子。無理に答えなくていい。俺はお前に答えを強要したりしない。でも、どうかこれだけは約束してほしい。離婚だけはしないでくれ。それだけでいい。お前が離婚しない限り、俺はお前の望むことは何でもする。お前が言う通りにする」 「西也......」若子の声はかすれていた。 「それって取引なの?私がその約束をすれば、あなたも約束してくれるのね。もし何かあったとき、私の赤ちゃんを守るって」 「そうだ。もしお前がそう考えるなら、これは取引だ」 「私に、結婚生活を取引の材料にしろって言うの?」 「若子、お前が俺を憎んでもいい。嫌ってもいい。でも俺はどうしようもないんだ......」 西也は声を詰まらせ、嗚咽を堪えるように続けた。 「俺はお前を失うことが怖くて仕方ない。お前がいなくなったら、俺は生きていけない。離婚なんてされたら、俺は本当に......死んでしまうかもしれない」 その言葉を口にする頃には、西也の瞳は涙で赤く染まり、彼の表情は痛みと愛情に満ちていた。 「西也、こんなことをして、本当にそれだけの価値があると思う?あなたがこんなに苦しむ必要はないのよ。あなたにはもっといい女性がいる。あなたを愛してくれる人が......」 「言うな!」 西也は彼女の言葉を遮り、彼女の唇を手で覆った。 「言わないでくれ。俺は聞きたくない。ただ俺に答えてくれ。お前はその約束をするか、しないか、それだけだ」 若子は彼の手をそっと押し戻し、首を振りながら答えた。 「わからない。本当にわからないの、西也。お願いだから、そんなに私を追い詰めないで」 「お前も俺を追い詰めていることに気づかないのか?」西也の声には怒りが混じっ
若子は顔の涙をぬぐい、西也の胸から身を起こした。そして静かに言った。 「西也......私たちがこのまま結婚生活を続けることで、あなたが苦しむことになっても後悔しない?」 西也は彼女の手を取り、指をそっとなぞりながら答えた。 「後悔なんてしない。お前と一緒にいることが、俺にとって何よりの幸せだから。俺はお前を大事にする。お前の赤ちゃんも、同じくらい大事にする」 若子は痛みを噛みしめるように目を閉じ、小さく頷いた。 「......わかった。西也、離婚はしない」 そう言ったあと、若子は目を開けて彼を見つめた。 「でも、西也。もしいつかあなたが記憶を取り戻して、離婚したいと思ったら、言ってね。そのときは、あなたの気持ちを尊重するから」 その言葉は西也の耳にとても刺々しく響いた。 この女はなんて冷酷なんだ。いつだって彼と離婚することばかり考えている。彼は彼女のためにこれほどまでに尽くしてきたのに、彼女はその愛を少しも返してくれない。たとえほんの少しの愛でもいい、一瞬だけでも、彼女が彼を本当の夫として見てくれればそれでいいのに。夫婦生活を拒むのは仕方ないとしても、せめて一つのキスくらいなら、そんなに難しいことだろうか?でも、彼女はそのたった一つのキスすらも与えてくれなかった。 「......わかった。若子。もし俺がいつか離婚したいと思ったら、その時はちゃんと言う。でもそれまでは、二度と離婚の話をしないでくれ。お前は、永遠に俺の妻だ」 若子は小さく頷いた。 「......わかった。西也、約束するわ」 その瞬間、西也は彼女を強く抱きしめた。彼の腕は彼女を逃さないようにしっかりと絡められ、まるで自分の一部にしようとするかのようだった。 「若子......これからは、俺の命は全部お前のものだ。お前が望むなら何でもする」 若子は彼の胸に黙ったまま身を預けた。 彼女は心の中で呟いた。 「......ここまで来てしまったのだから、もう後戻りはできない」 彼女は修とやり直すことなんて、もうできなかった。たとえ修がまだ生きていても、彼は自分を憎んでいるだろう。それに、自分が修の元に戻る資格はどこにもなかった。 西也は彼女のために、あまりにも多くの犠牲を払ってくれた。彼を裏切り、離婚すれば、彼を深く傷つけてし
「若子、赤ちゃんはどうしたの?何があったの?」 光莉の声には心配が滲んでいた。 「お母さん、先生に言われたの。私、子宮頸管が緩んでいて、子宮頸管縫縮術をしないと赤ちゃんが危険なんです」 光莉は少し苛立ったように声を上げた。 「そんな大事なこと、どうしてもっと早く言わなかったの?」 「今日になって初めてわかったんです。それに、電話をしてもお母さんが出てくれなくて......」 光莉は少し間を置いてため息をついた。 「そうね。明後日、手術を受けるんでしょ?」 「はい。明後日手術をすることになっています。だからお願いです。修が今どこにいるか教えてくれませんか?」 若子は言葉を詰まらせながらも懸命に続けた。 電話越しの沈黙が痛いほどに重く感じられた。そして、光莉が低い声で答えた。 「若子、電話に出なかったのは、あなたを避けていたからよ。どうせ修のことを聞かれると思ってね。でも......私も嘘はつけない」 「お母さん......じゃあ、修が今どこにいるか知っているんですね?彼は生きているんですか?それとも......?」 若子の声は震え、言葉にならない涙が込み上げた。 光莉は長い沈黙の後、ため息交じりに言葉を絞り出した。 「修は生きてる。でも、重傷を負って命を繋ぎ止めるのがやっとだった。病院に運ばれたとき、胸に矢が刺さっていて、前と後ろを貫通してたんだよ」 その言葉に、若子は口元を押さえ、悲痛な嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えた。 彼女の頭には、修が胸を矢に貫かれ血を流している光景が浮かんだ。夢で見たあの場面が、現実だったのだ― 若子の体は崩れ落ちそうになり、壁に手をついてなんとか立っていた。震える息を整えながら涙を拭った彼女は、掠れた声で尋ねた。 「私......あの時修を探しに行きました。でも、修はいなかった。血だまりだけが残っていて......あのとき彼を助けたのは、お母さんたちなんですか?」 光莉は静かに答えた。 「私たちが病院から連絡を受けて駆けつけたときには、もう修は病院に運ばれてた。誰が彼を助けたのかはわからない」 若子はその答えに驚き、混乱した。 修を助けたのは、いったい誰なのか?彼の家族がその場にいなかったとすれば、あの場にいたのは― あの犯人?でも、犯人が彼
「若子、誘拐されたことは知ってる。みんな心配してたんだよ。修が『若子は助け出されて無事だ』って言ってたけど、修自身はあなたに会いたくないって言うんだ。理由を聞いても、何も話そうとしない」 若子は涙を拭き、声を震わせながら言った。 「お母さん、お願いです。修がどこにいるか教えてください。彼に会いたいんです。手術を受ける前に、どうしても一度話をしなきゃいけないんです。お願いです......彼に会えないと、手術に集中できません」 光莉は一瞬黙り込んだ後、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「でも......もし修がそれでも会いたくないと言ったら、どうするの?」 「それでもいいんです。でも、まず私は彼を探しに行かなきゃ。お願いです、お母さん。お腹の中の赤ちゃんのためだと思って......」 その時、不意に廊下から声が響いた。 「若子、どこにいるんだ?」 若子はその声に驚き、振り返った。西也が起きて、彼女を探している声だった。 若子は急いで電話に向かって囁くように言った。 「お母さん、修の居場所をメッセージで送ってください。私が直接そこに行きます」 「迎えに行こうか?」光莉が提案した。 「いえ、大丈夫です。場所だけ送ってくれればいいです」 「わかったわ」 電話を切った若子は、深呼吸をして気持ちを落ち着け、病室のドアを開けた。 廊下には焦った様子の西也が立っており、彼女を見つけるとすぐに駆け寄り、強く抱きしめた。 「どこに行ってたんだ?目が覚めたらお前がいなくて、俺は心臓が止まるかと思った」 「ちょっと......空気を吸いに行ってたの」若子は小さく答えた。 「空気を吸いに?」西也は一瞬不審そうな表情を浮かべ、近くの空の病室を見て言った。 「どうして空っぽの病室に入ったんだ?俺と同じ部屋にいたくなかったのか?」 「違うの、そんなことじゃなくて......」 若子はどう説明すればいいかわからず、視線を落とした。 その時、西也の目が彼女の手にあるスマホに向けられた。そしてすぐに気づいたように言った。 「電話をしてたのか?」 若子は小さく頷いた。 「ええ。修のことを探していたの」 その名前を聞いた瞬間、西也の表情が一瞬固まった。しかし、以前のように激しく動揺することはなく、今は冷静を保ってい
そのことを考えた末、西也はすぐに口を開いた。 「藤沢に会いに行くのは構わない。俺が連れて行くよ」 若子は首を横に振った。 「それはダメよ。一人で行くわ。あなたは修のことが嫌いでしょう?一緒に行ったら、きっと気分が悪くなる」 「そんなことは気にしなくていい」西也は微笑んで言った。 「俺はただお前が心配なんだ。一人で行くのは危険だ。もし俺が邪魔になるのが嫌なら、遠くで見守ってるだけにする。彼とが何を話そうと、絶対に干渉しない。ただお前を安全に送り届けて、また安全に連れ帰りたいだけだ」 若子は小さくため息をつきながら問いかけた。 「西也......本当に、そこまでする価値があると思う?」 「もちろんだ。お前のためなら何だってするさ。俺を心配させないでくれ」 最終的に、若子は頷いた。 「......わかった。でも西也、私は修に赤ちゃんのことを直接話すつもりよ。それが嫌なら......」 「大丈夫だ」西也は彼女の言葉を遮り、きっぱりと言った。 「心の準備はできている。俺の目的はシンプルだ。お前を無事に連れて行って、無事に戻ってきてもらう。それだけでいい。その他のことは一切干渉しない。お前に自由を与えるつもりだ」 そこまで言われてしまえば、若子も断る理由がなかった。 彼女は既に西也に対して大きな負い目を感じていた。 「若子、まずは病室に戻って休もう。もう遅いし、話の続きは明日でいいだろう?」 若子は小さく頷いた。「......うん」 西也は彼女をそっと支え、病室に戻った。 修が生きていると知ったことで、若子はようやく安心することができ、その夜は久しぶりに深く眠ることができた。そして朝を迎えた。 翌朝。 若子は悪夢から目を覚ました。夢の中で修が死んでしまう場面を見てしまったのだ。 目を開けると、頬には涙が伝っていた。 「若子、起きたのか」 西也はベッドのそばの椅子に座り、彼女の顔を心配そうに見つめていた。 「今、何時?」若子は急いで尋ねた。 「7時半だよ。もう少し寝てもいいんじゃないか?」 若子は布団を跳ね除けて起き上がり、言った。 「いや、修に会いに行かなきゃ」 彼女はベッドから降りようとしたが、腕を西也に掴まれた。 「ちょっと待って」 「邪魔しないで。もう朝
松本若子は小さな体を布団に包み込み、お腹を優しく撫でながら、ほっと息をついた。よかった、赤ちゃんは無事だ。昨晩、修が帰ってきて、彼女と親密になろうとした。夫婦として2ヶ月会っていなかったため、彼女は彼を拒むことができなかった。藤沢修はすでに身支度を整え、グレーのハンドメイドスーツに包まれた長身で洗練された彼の姿は、貴族的で魅力的だった。彼は椅子に座り、タブレットを操作しながら、ゆったりとした動作で指を動かしていた。その仕草には、わずかな気だるさとセクシーさが漂っていた。彼は、ベッドの上で布団に包まって自分を見つめている彼女に気づき、淡々と言った。「目が覚めた?朝ごはんを食べにおいで」「うんうん」松本若子はパジャマを着て、顔を赤らめながらベッドから降りた。ダイニングで、松本若子はフォークで皿の卵をつつきながら、左手でお腹を撫で、緊張と期待が入り混じった声で言った。「あなたに話があるの」「俺も話がある」藤沢修も同時に口を開いた。「…」二人は顔を見合わせた。沈黙の後、藤沢修が言った。「先に話してくれ」「いや、あなたからどうぞ」彼が自分から話を切り出すことは滅多にない。彼は皿の目玉焼きをゆっくりと切りながら言った。「離婚協議書を用意させた。後で届けさせるから、不満があれば言ってくれ。修正させるから、できるだけ早くサインしてくれ」「…」松本若子は呆然とし、頭の中が真っ白になった。椅子に座っているにもかかわらず、今にも倒れそうな感覚だった。呼吸することさえ忘れてしまった。「あなた、私たちが離婚するって言ったの?」彼女はかすれた声で尋ねた。そのトーンには信じられないという気持ちが込められていた。密かに自分の足を摘んで、悪夢から目覚めようとさえしていた。「そうだ」彼の返事は、冷たさすら感じさせないほど平静だった。松本若子の頭は一瞬で混乱した。昨夜まで二人で最も親密な行為をしていたというのに、今では何でもないように離婚を切り出すなんて!彼女はお腹を押さえ、目に涙が浮かんだ。「もし私たちに…」「雅子が帰国した。だから俺たちの契約結婚も終わりだ」「…」この1年間の甘い生活で、彼女はそのことをほとんど忘れかけていた。彼らは契約結婚をしていたのだ。最初から彼の心には別の女性がいて、いつか離婚す
そのことを考えた末、西也はすぐに口を開いた。 「藤沢に会いに行くのは構わない。俺が連れて行くよ」 若子は首を横に振った。 「それはダメよ。一人で行くわ。あなたは修のことが嫌いでしょう?一緒に行ったら、きっと気分が悪くなる」 「そんなことは気にしなくていい」西也は微笑んで言った。 「俺はただお前が心配なんだ。一人で行くのは危険だ。もし俺が邪魔になるのが嫌なら、遠くで見守ってるだけにする。彼とが何を話そうと、絶対に干渉しない。ただお前を安全に送り届けて、また安全に連れ帰りたいだけだ」 若子は小さくため息をつきながら問いかけた。 「西也......本当に、そこまでする価値があると思う?」 「もちろんだ。お前のためなら何だってするさ。俺を心配させないでくれ」 最終的に、若子は頷いた。 「......わかった。でも西也、私は修に赤ちゃんのことを直接話すつもりよ。それが嫌なら......」 「大丈夫だ」西也は彼女の言葉を遮り、きっぱりと言った。 「心の準備はできている。俺の目的はシンプルだ。お前を無事に連れて行って、無事に戻ってきてもらう。それだけでいい。その他のことは一切干渉しない。お前に自由を与えるつもりだ」 そこまで言われてしまえば、若子も断る理由がなかった。 彼女は既に西也に対して大きな負い目を感じていた。 「若子、まずは病室に戻って休もう。もう遅いし、話の続きは明日でいいだろう?」 若子は小さく頷いた。「......うん」 西也は彼女をそっと支え、病室に戻った。 修が生きていると知ったことで、若子はようやく安心することができ、その夜は久しぶりに深く眠ることができた。そして朝を迎えた。 翌朝。 若子は悪夢から目を覚ました。夢の中で修が死んでしまう場面を見てしまったのだ。 目を開けると、頬には涙が伝っていた。 「若子、起きたのか」 西也はベッドのそばの椅子に座り、彼女の顔を心配そうに見つめていた。 「今、何時?」若子は急いで尋ねた。 「7時半だよ。もう少し寝てもいいんじゃないか?」 若子は布団を跳ね除けて起き上がり、言った。 「いや、修に会いに行かなきゃ」 彼女はベッドから降りようとしたが、腕を西也に掴まれた。 「ちょっと待って」 「邪魔しないで。もう朝
「若子、誘拐されたことは知ってる。みんな心配してたんだよ。修が『若子は助け出されて無事だ』って言ってたけど、修自身はあなたに会いたくないって言うんだ。理由を聞いても、何も話そうとしない」 若子は涙を拭き、声を震わせながら言った。 「お母さん、お願いです。修がどこにいるか教えてください。彼に会いたいんです。手術を受ける前に、どうしても一度話をしなきゃいけないんです。お願いです......彼に会えないと、手術に集中できません」 光莉は一瞬黙り込んだ後、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「でも......もし修がそれでも会いたくないと言ったら、どうするの?」 「それでもいいんです。でも、まず私は彼を探しに行かなきゃ。お願いです、お母さん。お腹の中の赤ちゃんのためだと思って......」 その時、不意に廊下から声が響いた。 「若子、どこにいるんだ?」 若子はその声に驚き、振り返った。西也が起きて、彼女を探している声だった。 若子は急いで電話に向かって囁くように言った。 「お母さん、修の居場所をメッセージで送ってください。私が直接そこに行きます」 「迎えに行こうか?」光莉が提案した。 「いえ、大丈夫です。場所だけ送ってくれればいいです」 「わかったわ」 電話を切った若子は、深呼吸をして気持ちを落ち着け、病室のドアを開けた。 廊下には焦った様子の西也が立っており、彼女を見つけるとすぐに駆け寄り、強く抱きしめた。 「どこに行ってたんだ?目が覚めたらお前がいなくて、俺は心臓が止まるかと思った」 「ちょっと......空気を吸いに行ってたの」若子は小さく答えた。 「空気を吸いに?」西也は一瞬不審そうな表情を浮かべ、近くの空の病室を見て言った。 「どうして空っぽの病室に入ったんだ?俺と同じ部屋にいたくなかったのか?」 「違うの、そんなことじゃなくて......」 若子はどう説明すればいいかわからず、視線を落とした。 その時、西也の目が彼女の手にあるスマホに向けられた。そしてすぐに気づいたように言った。 「電話をしてたのか?」 若子は小さく頷いた。 「ええ。修のことを探していたの」 その名前を聞いた瞬間、西也の表情が一瞬固まった。しかし、以前のように激しく動揺することはなく、今は冷静を保ってい
「若子、赤ちゃんはどうしたの?何があったの?」 光莉の声には心配が滲んでいた。 「お母さん、先生に言われたの。私、子宮頸管が緩んでいて、子宮頸管縫縮術をしないと赤ちゃんが危険なんです」 光莉は少し苛立ったように声を上げた。 「そんな大事なこと、どうしてもっと早く言わなかったの?」 「今日になって初めてわかったんです。それに、電話をしてもお母さんが出てくれなくて......」 光莉は少し間を置いてため息をついた。 「そうね。明後日、手術を受けるんでしょ?」 「はい。明後日手術をすることになっています。だからお願いです。修が今どこにいるか教えてくれませんか?」 若子は言葉を詰まらせながらも懸命に続けた。 電話越しの沈黙が痛いほどに重く感じられた。そして、光莉が低い声で答えた。 「若子、電話に出なかったのは、あなたを避けていたからよ。どうせ修のことを聞かれると思ってね。でも......私も嘘はつけない」 「お母さん......じゃあ、修が今どこにいるか知っているんですね?彼は生きているんですか?それとも......?」 若子の声は震え、言葉にならない涙が込み上げた。 光莉は長い沈黙の後、ため息交じりに言葉を絞り出した。 「修は生きてる。でも、重傷を負って命を繋ぎ止めるのがやっとだった。病院に運ばれたとき、胸に矢が刺さっていて、前と後ろを貫通してたんだよ」 その言葉に、若子は口元を押さえ、悲痛な嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えた。 彼女の頭には、修が胸を矢に貫かれ血を流している光景が浮かんだ。夢で見たあの場面が、現実だったのだ― 若子の体は崩れ落ちそうになり、壁に手をついてなんとか立っていた。震える息を整えながら涙を拭った彼女は、掠れた声で尋ねた。 「私......あの時修を探しに行きました。でも、修はいなかった。血だまりだけが残っていて......あのとき彼を助けたのは、お母さんたちなんですか?」 光莉は静かに答えた。 「私たちが病院から連絡を受けて駆けつけたときには、もう修は病院に運ばれてた。誰が彼を助けたのかはわからない」 若子はその答えに驚き、混乱した。 修を助けたのは、いったい誰なのか?彼の家族がその場にいなかったとすれば、あの場にいたのは― あの犯人?でも、犯人が彼
若子は顔の涙をぬぐい、西也の胸から身を起こした。そして静かに言った。 「西也......私たちがこのまま結婚生活を続けることで、あなたが苦しむことになっても後悔しない?」 西也は彼女の手を取り、指をそっとなぞりながら答えた。 「後悔なんてしない。お前と一緒にいることが、俺にとって何よりの幸せだから。俺はお前を大事にする。お前の赤ちゃんも、同じくらい大事にする」 若子は痛みを噛みしめるように目を閉じ、小さく頷いた。 「......わかった。西也、離婚はしない」 そう言ったあと、若子は目を開けて彼を見つめた。 「でも、西也。もしいつかあなたが記憶を取り戻して、離婚したいと思ったら、言ってね。そのときは、あなたの気持ちを尊重するから」 その言葉は西也の耳にとても刺々しく響いた。 この女はなんて冷酷なんだ。いつだって彼と離婚することばかり考えている。彼は彼女のためにこれほどまでに尽くしてきたのに、彼女はその愛を少しも返してくれない。たとえほんの少しの愛でもいい、一瞬だけでも、彼女が彼を本当の夫として見てくれればそれでいいのに。夫婦生活を拒むのは仕方ないとしても、せめて一つのキスくらいなら、そんなに難しいことだろうか?でも、彼女はそのたった一つのキスすらも与えてくれなかった。 「......わかった。若子。もし俺がいつか離婚したいと思ったら、その時はちゃんと言う。でもそれまでは、二度と離婚の話をしないでくれ。お前は、永遠に俺の妻だ」 若子は小さく頷いた。 「......わかった。西也、約束するわ」 その瞬間、西也は彼女を強く抱きしめた。彼の腕は彼女を逃さないようにしっかりと絡められ、まるで自分の一部にしようとするかのようだった。 「若子......これからは、俺の命は全部お前のものだ。お前が望むなら何でもする」 若子は彼の胸に黙ったまま身を預けた。 彼女は心の中で呟いた。 「......ここまで来てしまったのだから、もう後戻りはできない」 彼女は修とやり直すことなんて、もうできなかった。たとえ修がまだ生きていても、彼は自分を憎んでいるだろう。それに、自分が修の元に戻る資格はどこにもなかった。 西也は彼女のために、あまりにも多くの犠牲を払ってくれた。彼を裏切り、離婚すれば、彼を深く傷つけてし
彼女は自分の体を差し出すことはできても、それ以外の何も西也に与えることはできなかった。 若子にとって西也には感謝も感動も、そして深い罪悪感もある。 しかし、彼女の愛はもうとうの昔に死んでしまっていたのだ。 西也は痛みを堪えるように目を閉じた。若子の沈黙は答えそのものだった。それがどんなに彼を傷つけるものであっても、彼女の答えは変わらない。それは西也も薄々感じ取っていた。だが、それでもその痛みに耐えることは難しかった。 彼は深く息を吐き出し、胸を締め付けられるような感情を押し殺しながら口を開いた。 「わかった、若子。無理に答えなくていい。俺はお前に答えを強要したりしない。でも、どうかこれだけは約束してほしい。離婚だけはしないでくれ。それだけでいい。お前が離婚しない限り、俺はお前の望むことは何でもする。お前が言う通りにする」 「西也......」若子の声はかすれていた。 「それって取引なの?私がその約束をすれば、あなたも約束してくれるのね。もし何かあったとき、私の赤ちゃんを守るって」 「そうだ。もしお前がそう考えるなら、これは取引だ」 「私に、結婚生活を取引の材料にしろって言うの?」 「若子、お前が俺を憎んでもいい。嫌ってもいい。でも俺はどうしようもないんだ......」 西也は声を詰まらせ、嗚咽を堪えるように続けた。 「俺はお前を失うことが怖くて仕方ない。お前がいなくなったら、俺は生きていけない。離婚なんてされたら、俺は本当に......死んでしまうかもしれない」 その言葉を口にする頃には、西也の瞳は涙で赤く染まり、彼の表情は痛みと愛情に満ちていた。 「西也、こんなことをして、本当にそれだけの価値があると思う?あなたがこんなに苦しむ必要はないのよ。あなたにはもっといい女性がいる。あなたを愛してくれる人が......」 「言うな!」 西也は彼女の言葉を遮り、彼女の唇を手で覆った。 「言わないでくれ。俺は聞きたくない。ただ俺に答えてくれ。お前はその約束をするか、しないか、それだけだ」 若子は彼の手をそっと押し戻し、首を振りながら答えた。 「わからない。本当にわからないの、西也。お願いだから、そんなに私を追い詰めないで」 「お前も俺を追い詰めていることに気づかないのか?」西也の声には怒りが混じっ
「若子、お願いだ。俺と離婚しないって約束してくれないか?」 「西也、それはあなたに不公平よ。このお腹の子はあなたの子じゃない。それに、私たちの結婚には別の理由があった。今、あなたは記憶を失っているけれど、記憶が戻ればきっとわかるはず。もしかしたら、自分から離婚を望むかもしれないわ」 「それなら......それならすべて記憶が戻ったあとに話そう。でも、それまでは頼むから離婚なんて言わないでくれ。俺に、お前の夫でいさせてくれないか?」 「でも、西也、こんなことはあなたにとって本当に不公平なの。今のあなたは過去を覚えていないけど、もしかしたら本当は私なんか愛していないのかもしれない」 「愛している!」 西也はほとんど叫ぶように言った。 「若子、俺はお前を愛しているんだ。だからもうそんなこと言うな!」 「......」 「西也、違うの。あなたは私を愛しているわけじゃない。あなたが愛しているのは別の女性で、彼女のことを......」 「どうでもいい!」西也は興奮したように言葉を遮った。 「他の女なんてどうでもいい!俺が欲しいのはお前だけだ。だから、他の女の話はしないでくれ」 「でも、他に女性がいるのよ。前にそう言ってたじゃない」 「それは前の話だろう?」西也は力強く続けた。 「若子、俺は今、お前を愛している。他の女なんて俺の心に何の意味も持たない。俺の目にはお前しか映っていないんだ」 「違う、西也。あなたは間違えてる。あなたが愛しているのは......」 「お前は馬鹿か?」西也は彼女を真っ直ぐに見つめた。 「俺がこんなにもお前を気にかけて、こんなにも大事にしているのが見えないのか?それとも、お前はわざと俺を避けているのか?」 「......」 その言葉に若子は何も返せなかった。 彼の言う通りだった。若子は、彼が自分を本当に愛しているのかどうか、ずっと迷っていた。西也は以前、「高橋美咲のことが好きだ」と言っていた。しかし、彼の言葉とは裏腹に、行動では彼女を大切にし、守ろうとしていた。 若子はそれを認めるのが怖かった。そして、美咲との仲を応援することで自分自身を逃避させてきた。しかし、西也が今、愛をはっきりと告白したことで、逃げ場はなくなった。 二人の間に存在していた薄い壁。それが今、完全に取り払
「もしそんなことが起きたら、私はこの子と一緒に死ぬ」 若子はそっと西也の頬を拭いながら涙をぬぐった。その仕草は優しかったが、声は冷徹で残酷だった。 「西也、忘れないで。この子がいる限り、私もいる。この子がいなくなったら、私もいなくなる。私は修を諦めた。だから、この子だけは絶対に諦められないの」 若子の瞳に宿る強い意志を見て、西也はすでに説得の余地がないことを悟った。 彼の心は苦しみと怒り、そして悲しみでぐちゃぐちゃだった。 ついに西也は感情を抑えきれず、若子を力強く抱きしめた。 「若子、お前はなんて残酷な女だ。俺はお前が憎い!」 若子は痛みに耐えるように目を閉じ、涙が止めどなく頬を伝った。 自分の言葉が西也を深く傷つけることはわかっていた。それでも、お腹の中の赤ちゃんを守るため、彼女にはそうするしかなかった。一切の妥協も許されなかった。 この世に完全無欠な人間なんていない。人間には必ず弱さや迷いがある― それが現実だからこそ、若子は一切の油断を許せなかった。 「西也、ごめんなさい。私が悪かったの。本当にごめんなさい。もし私のことが嫌いになったなら、私たちは離婚しましょう。何もいらない。全部あなたに渡す」 「嫌だ!」西也は彼女の言葉を遮り、声を荒げた。 「若子、どうしてこんな時に離婚なんて言い出すんだ?どうして今なんだ!」 若子は真っ赤に充血した目で西也を見つめた。これまで離婚について話せなかったのは、彼が記憶を失っていたせいだった。刺激を与えたくなかった。しかし、今の状況ではもう隠し続けることはできなかった。 「西也、ごめんなさい。隠してたことがあるの。実は私たちの関係は―」 「言うな」西也は彼女の口を手で覆い、懇願するように言った。 「若子、お願いだから何も言わないでくれ。俺はもう十分苦しいんだ。お前がそんなことを言ったら、俺は本当に死ぬしかなくなる。頼むから、黙っていてくれ」 若子は西也の手をそっと握り、少し押し戻してから頷いた。 「だったら、私のお願いを聞いてくれる?何があっても、この子を守ってほしいの」 西也は彼女の手を握り直し、低く静かな声で答えた。 「若子、お前のお願いを聞く代わりに、俺のお願いも聞いてくれないか」 若子は少し戸惑いながら尋ねた。 「どんなお願い?
「西也、ごめんなさい」若子は悲しげに言った。 「私、一時の感情に流されてしまったの。お腹の子が大切すぎて、無神経なことを言ってしまった。あなたを傷つけるつもりなんてなかったの」 西也は顔を伝う涙を拭き取り、振り返った。 「若子、俺にはわかってる。この子がどれほどお前にとって大切なのか。俺なんて、この子よりも大切な存在にはなれないことくらい、十分わかってる。でも......お願いだ、俺の気持ちも少しだけ考えてくれないか?俺の真心を疑わないでほしい。俺はお前のためなら、どんなことでもするし、命だって惜しくない。だから、俺を誤解しないでほしいんだ」 彼の声は切実だった。 「確かに、この子が藤沢の子だということに心の中で引っかかる部分はある。でも、それ以上にお前が大事だから、俺はこの子を大切に育てるよ。傷つけるようなことは絶対にしない。この子が幸せに育つよう、責任を持って守り、教育する。絶対に不自由な思いはさせない」 西也の言葉は真実だった。彼は若子を深く愛していた。だからこそ、彼女の大切なものも守る覚悟があった。 それでも、若子の冷たい言葉は鋭く彼を傷つけ、その痛みは彼の胸を締めつけていた。 若子は涙を堪えきれず、ポロポロとこぼしながら謝った。 「西也、本当にごめんなさい。私が悪かった。あなたを誤解して、ひどいことを言った。もうこんなことは言わないから、どうか悲しまないで」 西也は溢れる涙を拭いながら、若子の手をそっと握り、自分の頬に当てた。 「そう言ってくれるなら、それだけで俺は安心だ。お前のためなら、俺は何でもする」 若子は少しだけ微笑んでから、真剣な表情になり、西也に伝えた。 「西也、この子は私にとって命そのものなの。この子がいなくなったら、私はもう生きていられない。絶対に、この子を守らなきゃいけない」 「若子、俺は......」 「西也」若子は西也の手を力強く握り締めた。 「もし私が意識を失うようなことがあったら、絶対にこの子を最優先に守って。私の命はどうなっても構わない。この子が無事に生まれるためなら、私はどんな犠牲も惜しまない。もし私が管に繋がれて生きているだけの状態でも、この子が安全に生まれるまで絶対に手を止めないで」 西也は驚き、そして苦しそうに顔を歪めた。 「若子、そんなこと言うな。
若子の態度は非常に強硬で、冷徹にすら見えた。 「松本さん、そんなに急がなくても大丈夫です。もちろん、あなたが手術に同意することは可能です。すぐに手配します」 医者は落ち着いた声で答えた。 法律では若子の言う通りだったが、通常、病院側は医療トラブルを避けるために家族の同意を求めることが多い。それでも、若子の強い決意と「弁護士」という言葉に、病院としてもそれ以上拒むことはできなかった。 若子は婦人科のVIP病室に入院することになり、西也はずっと彼女のそばに付き添っていた。 彼は若子の肩に布団を掛け、優しく整えた。 「西也、もう帰って」若子は冷たい口調で言った。 その言葉に、西也は驚き、動揺を隠せなかった。 「どうしたんだ?」 若子は振り返り、冷たい視線で彼を見つめた。 「あなたは私に手術を受けさせたくないんでしょう?この子を望んでいないんでしょう?」 もし自分があの場で強く主張しなかったら、彼は手術に反対していただろう。そうすれば、自分の赤ちゃんは危険な状態のままだった。 「若子、そんなわけないだろう。この子は俺にとっても大切だ。俺がどうして無関心でいられる?」 「違うわ、この子はあなたの子じゃない」若子の声は冷たかった。「西也、あなたが私を大切にしてくれているのはわかってる。でも、この子は修の子なの。修が怪我をして、私は彼を心配している。それに、あなたがこんなに気にするのなら、どうやってあなたが修の子を実の子のように扱ってくれると信じられるの?」 かつてなら、若子はこんな言葉を口にすることはなかった。しかし今の彼女は心が限界を迎え、何もかも気にする余裕がなくなっていた。 西也はその言葉にショックを受け、信じられないというような目で彼女を見つめた。 「若子、俺を疑うのか?俺がこの子に何かするとでも思ってるのか?」 若子は視線をそらしながら答えた。 「わからないわ。あなたは手術に賛成しなかった。赤ちゃんにとって最善の手術なのに、あなたがそれを止めようとした理由がわからない」 「理由を知りたいのか?」西也の声は傷つき、怒りが滲んでいた。「俺が考えていたのは、お前のことだけだ。医者が手術にはリスクがあるって言ったとき、俺はお前が傷つくんじゃないかって怖かった。それで他の医者にも相談して、より良い方法が