若子は隣の部屋に戻り、シャワーを浴びてからベッドに入った。スマホを手に取ると、新しいメッセージが届いているのに気づいた。 開いてみると、ノラからだった。 「お姉さん、まだ起きてますか?」 若子は返信した。 「ちょうど寝ようとしてたところよ。何かあったの?」 「特に何もないんです。ただ、お姉さんにおやすみの挨拶をしたかったのと、新しい研究チームに参加したんですよ」 若子は微笑みながら返信した。 「それは良かったわね。おめでとう」 「お姉さん、本当に一緒にご飯を食べたいんですが、なかなかタイミングがなくて。旦那さんはもう良くなりましたか?」 「ええ、退院したわ。回復も順調よ」 「それなら良かったです。お姉さん、この間きっとすごく大変だったと思いますから、ゆっくり休んでくださいね」 「大丈夫よ。どんなに大変でも、それだけの価値があるものだから。今はようやく雨が上がった感じね」 「そうですね、雨が上がったのは良いことです。でも、また嵐が来ないことを願います。本当に嫌な気分になりますから」 「ええ、でも人生ってそんなものよね。嵐もあるけど、大事なのは目の前のことをしっかりやること。それに、自分を大切に思ってくれる人を大切にすること」 「お姉さん、本当にその通りです!僕もお姉さんを大事にします。だって、この世の中でお姉さんほど僕を気にかけてくれる人はいませんから」 若子は小さく笑った。 「ノラ、いつかきっと、ノラを大事にしてくれる素敵な人に出会えるわよ。そしてノラもその人を大事にするようになるよ」 ノラはしばらくの間、黙り込んだ。その後、メッセージが返ってきた。 「そうなるといいんですけどね。でも、今はお姉さんだけを大事にしたいです。お姉さんが一番ですから」 若子は困ったように微笑みながら返信した。 「もう遅いわよ。早く寝なさい。私も寝るわ」 「分かりました。おやすみなさい、お姉さん」 若子はスマホを置き、ベッドに横になった。 様々なことが頭を巡り、ため息をつきながら自分のお腹にそっと手を置く。 「赤ちゃん......お母さんはどうしたらいいのかな?このまま流されるように過ごすべき?それとも、何か行動を起こすべきなのかな。でも、何をしても悪い方向に向かってしまう気がして......」
「似合ってる?」 雅子は数歩後ろに下がり、ウェディングドレスの裾を軽く持ち上げながら、修の前でくるりと一回転してみせた。 客観的に見れば、雅子はこのドレスを美しく着こなしていた。しかし、修の反応は冷ややかで、どこか上の空だった。 その様子に気づいた雅子は、不安そうに問いかけた。 「修、どうしたの?このドレス、似合ってない?これ、修が私に贈ってくれたものでしょう?やっと今日着ることができたの。私たち、もうすぐ結婚するんだから、喜んでくれてもいいんじゃない?」 修は、これまで彼女に何度も約束してきたことを思い出していた。しかし、その約束を守る気がないことも、今の彼には分かっていた。 彼は静かに雅子を見つめた後、口を開いた。 「雅子、お前は以前、音楽が好きだって言ってたよね。けど、学ぶ機会がなかったんだっけ」 雅子は頷いた。 「そうよ。私、小さい頃は音楽が大好きだった。でも、修も知ってるでしょ?桜井家ではあまり可愛がられてなかったから、夢みたいな学問、例えば芸術や音楽なんて選べるはずもなかった。将来自分を養える現実的な分野を選ばなきゃならなかったの」 修も頷き返した。 「そうだよな、大変だったね。でも、夢なら諦めるべきじゃない。お金のことは気にしなくていい。費用は全部俺が出すから、音楽の道を追いかけてみたらどうかな」 彼の言葉に、雅子は驚き、信じられないという顔を浮かべた。 「修、どういうこと?まさか今さら音楽を学べって言ってるの?」 修は小さく頷いた。 「そうだよ。お前がやりたがっていたことを、俺は応援したい。ちょうど、国外にいい音楽学校を見つけたんだ。そこに行ってみないか?学費は全部俺が出す。好きなだけ学んで、進学でも、他にやりたいことが見つかっても構わない」 雅子は目を見開き、修をじっと見つめたまま言葉を失った。そして、しばらくして口を開いた。 「どうして突然そんなことを?だって、私はつい最近帰国したばかりなのよ。なのに、また国外に行けって?」 そう言いながら、雅子はふと笑みを浮かべた。 「まさか、修も一緒に行くつもりなの?」 修は彼女の言葉を遮った。 「いや、俺は行かない。お前一人で行くんだ。それはお前の夢だから、お前自身が叶えるべきものだと思う」 突然、部屋の中には冷たい沈黙
雅子は雷に打たれたかのように呆然と立ち尽くしていた。驚愕で目を大きく見開き、まるで信じられない話を聞かされたかのように震えていた。 「違う、修!嘘をついている!絶対に嘘よ、私は信じない!」 修は目を伏せ、深く息を吸い込むと、どこか諦めたような声で言った。 「全部、本当のことだ。お前が信じようと信じまいと、それが事実だ」 「私は信じない!」雅子は泣きながら叫んだ。 「だって、私が病気だったとき、修はずっと私を世話してくれた。国外に治療に行かせてくれたのもそう。修が私にしてくれたことは愛じゃないっていうの?それが愛じゃないなら、なぜこんなに私に気を配ってくれたの?結婚してるなら、利用するだけでよかったでしょう?離婚して若子さんを自由にするために、適当に『別の女を愛してる』って言えば済む話だったはずよ。でも、修が私にしてくれたことは本物だった、私はそう信じてる......!」 「それは全部、俺の罪悪感からだ!」 修は雅子の言葉を遮るように、鋭い声で言い放った。 雅子はその言葉に息を呑み、信じられないという表情で呟いた。 「罪悪感......?」 「そうだ。お前の肺の問題があったとき、俺はずっと、ばあさんが何かして移植手術に悪影響を及ぼしたんじゃないかと疑ってた。だからこそ、お前に対する罪悪感が強くなって、俺はお前に良くしよう、償おうとしていたんだ」 「罪悪感......」 その言葉を聞いた瞬間、雅子の心はまるで裂けたかのように痛んだ。 「私にしたことが、全部罪悪感からだったなんて、私は信じない......」 「本当のことだ、雅子」修の声は冷たく響いた。 「彼女は俺のおばあさんだ。たとえばあさんが何かしたとしても、俺には責めることなんてできない。だから、俺にできる唯一の償いは、お前に良くして、面倒を見ることだったんだ。正直、俺は一生お前を世話し続けるんだろうと思ってた。だって若子は俺を愛してないし、俺たちには何の希望もないと思ってたから。でも、後になっていろんなことがあって、俺にはもう続けることができなくなった。これ以上逃げるわけにはいかないんだ」 雅子は何歩か後ずさり、ついにベッドの端に座り込んでしまった。 彼女の顔には冷や汗が滲み、涙に濡れた瞳で修を見上げる。 「修は私を愛してる......私を
「修、ダメよ!私と結婚しなきゃいけないのよ!こんな残酷なこと、いきなり私に言える?私を簡単に切り捨てるなんて!私は青春を全部修に捧げてきたのよ。こんなにもずっと愛してきたのに......私は修のためにどれだけ頑張ってきたと思ってるの?それなのに、どうしてそんな仕打ちができるの?あんた、何度も結婚を約束してくれたじゃない!それを破るなんて、あまりにも酷いじゃない!」 「俺が悪いんだ。どんなに責められても構わない。全部、俺の責任だ」 「だったら、私と結婚してよ!」雅子は声を張り上げた。「私はただ、修と結婚したいだけ。他には何もいらないの。修が約束したこと、全部守ってよ!そうでなければ、どうして男だなんて言えるの?松本を傷つけて、今度は私まで......本当に最低よ!」 「ごめん」修はそれ以上、何も言えなかった。 「謝ってほしいんじゃない!結婚してほしいのよ!」 「それはできない」 「そんなの認めない!修は私に約束したのよ!結婚すると言ったじゃない!修、お願い、こんなことしないで!」 雅子は激しく身を寄せ、彼のスーツを掴んだ。「修が約束したのよ!絶対に守るって言ったじゃない!それができないなら、この心臓なんていらないわ。これが何のためにあるのよ?」 彼女は拳を握りしめ、自分の胸を強く叩いた。「この心臓は、修のために動いてるのよ!それがなければ、私が手術なんて受ける理由もない!もう死んだほうがマシよ!」 「雅子、そんなこと考えちゃいけない。命はお前自身のものだ。人生はまだまだ素晴らしいんだよ。お前は若いし、俺なんかを唯一の存在にしちゃダメだ。お前にはもっと素敵な夢があるはずだろ」 「そんなこと言わないで!」雅子は顔中の涙を乱暴に拭いながら叫んだ。「私はただ、修に結婚してほしいだけ。修が約束したことを守ってほしいだけ!破るなんて許せない!そうでなければ、死んでも死にきれないわ!」 雅子の言葉は重く、その表情からは今にも命を絶つ覚悟が見えるほどだった。 修は彼女の両腕を掴んで言った。「雅子、落ち着いて。頼むからそんなこと言わないでくれ」 「どうやって冷静になれって言うのよ!」雅子は怒りに震えながら叫んだ。「こんなことされて、冷静でいろって言うの?修、あんたの心はどれだけ冷たいの?どうして私の希望を打ち砕くの?だったら最初から、
雅子は泣き続けていたが、突然息苦しさを覚えた。胸を押さえ、呼吸が乱れる。 修はすぐにかがみ込み、彼女を床から抱き起こしてベッドに座らせた。慌てて枕元の緊急ボタンを押す。 医療スタッフがすぐに駆けつけ、雅子の体を診察した。医師は修に向かって説明した。 「彼女は心臓移植手術を受けていて、病み上がりの状態です。安静が必要で、特に感情の激しい起伏は心臓に大きな負担をかけますので、絶対に避けてください」 医療スタッフが去ると、白いウェディングドレスを着た雅子がベッドに横たわっていた。修はそっと彼女のそばに歩み寄る。 彼は彼女の手を取らず、代わりにため息混じりに言った。 「雅子、こんなことして何になる?俺は約束を守れないどうしようもない男だ。お前が時間を無駄にする価値なんてないよ。この世界には、もっとお前を愛してくれる男がたくさんいる。お前にはもっといい人がいるんだ」 「よくそんな軽々しく言えるわね」雅子は冷たく笑った。「じゃあ、修はどうなの?どうして松本を愛して、私を愛せないの?それとも他の誰かを選べばいいじゃない」 修はしばらく黙り込んだまま、何も言わなかった。 「修、あんたって本当に残酷だわ」雅子は泣きながら言った。「このウェディングドレスを着たとき、どれだけ嬉しかったか分かる?私は自分の尊厳を捨てて、心を差し出してまであなたに尽くしたのに。結果はこれよ。こんなふうに私を侮辱するなんて。それにこのドレスだって、あんたが送ってくれたものじゃない!」 修は静かにため息をつく。「あのとき、お前は重病で、適合する心臓を見つけるのも大変だった。だから......」 「だからって、結婚するなんて約束をしたのね?それで今になってその約束を反故にするの?それなら、こんな心臓なんていらなかった!」 「雅子」修は眉をひそめる。「でもこうやってお前が生きている。それで良いじゃないか。普通に生活できるんだから、それで十分だろう」 「良くないわ。全然良くない。あなたがそばにいないなら、何の意味もないのよ」 「こんなことをしてまで、俺に執着する意味があるのか?お前、本当に俺じゃなきゃダメなのか?」 修には、女性のこうした執着が理解できないこともあった。しかし、ふと、自分も似たような執着を抱えていることに気づく。それは若子への想いだ。 彼
修は微かに目を伏せ、小さく「うん」とだけ答えた。「俺はお前に後ろめたさを感じてる。でも......愛してはいない」 その瞬間、雅子はバサッと布団を跳ね飛ばし、ベッドから飛び降りて窓のほうに駆け出した。 修はその動きを見て、慌てて雅子の後を追い、叫んだ。「雅子!」 彼は矢のように素早く雅子のそばに駆け寄り、その腕を掴んだ。 しかし、雅子は強引に前へ進もうとする。「放して!放してよ!」 「雅子、そんなことするな!」修は必死で彼女を引き戻そうとした。 「嫌よ!死なせてよ!生きてたって意味なんかない、死なせて!放してよ、放して!」 雅子は泣きながら修の力に逆らい、しかしそのまま引き戻される形で彼の胸に飛び込んだ。彼の胸に顔を埋めて、震える声で泣きじゃくる。 「どうしてこんなことするのよ!どうして......結婚するって言ったじゃない!約束したじゃない!」 「雅子、医者の言葉を聞いてなかったのか?感情を抑えなきゃダメだ」 「そんなのどうでもいい!せっかく生き延びたのに、あんたにこんな仕打ちをされるくらいなら死んだほうがマシよ!死なせてよ!」 修は彼女の肩を掴み、胸からそっと引き離した。そして、真剣な表情で一言一言を丁寧に問うた。 「雅子、そんなに俺と結婚したいのか?」 雅子は涙で潤んだ目で修をじっと見つめ、「そんなの聞くまでもないでしょ?」と震える声で返した。 「俺が愛してなくても、それでも『修の奥さん』になりたいのか?」 「愛してるかどうかなんて関係ない!あんたが私に約束したことを守ればそれでいい。修、私はあんたを愛してる。それで十分じゃない!私の愛をあんたに分けてあげる。いや、たくさん分けてあげる。それでもまだ無限に残ってるわ!この愛はこの世の何にも比べられないくらい大きいのよ。ただあんたのそばにいられれば、それだけでいい。私は何もいらない、ただそれだけ......」 修は肩を落とし、目を伏せた。 彼の脳裏には、別の女性―若子の悲しげな顔が浮かんでいた。 それは絶望そのものだった。 修が若子にこんなにも絶望を与えたことはなかった。だが、その絶望は自分自身から生まれたものだった。若子との未来がないことは明白だったし、彼女が修を許すことも二度とないだろう。 若子はもう西也と結婚してしまった。覆水盆
「今のうちにこれだけは伝えておく。俺は他の女を受け入れることができない。心も、体も」 「他の女......」 その言葉が、雅子の傷口にまた塩を塗り込む。「今のあんたにとって、私は『他の女』なのね?」 「若子以外の女はみんな『他の女』だ。それは昔からずっと変わらない。だから、雅子、今ならまだ間に合う。俺から離れろ。本当に、俺なんかに執着しても無駄だ。結婚しても、後悔するだけだぞ」修はすべての醜い本音を、容赦なく雅子の前に突きつけた。 冷たく、残酷な現実が彼女の目の前に赤裸々に広がっていた。 そのすべてが、雅子にとって予想外だった。 これまで彼を巧みに操っているつもりだった。涙を一滴流すだけで、あるいはか弱く無垢なふりをするだけで、修が信じてくれる。いつでも彼は味方でいてくれるし、愛し続けてくれる。そう思っていた。 だが今日、修がこんな言葉を口にするのを聞いて、雅子は悟った。実際には、全て修の掌の上だったのだ。彼の態度も優しさも、すべて若子への思いに縛られていた。 ずっと若子と修が離婚することを望んでいた。二人が離婚すれば、自分が『修の妻』になれると信じていた。しかし現実は全く違った。離婚した結果、修は自分の心を再確認することになったのだ。 こうなってしまった以上、どんなに泣いて喚いても仕方がない。 雅子は、状況に応じて妥協する術を心得ている。彼女の駆け引きは成果を得た。修は結婚を承諾した。だが、愛を与えることはないと言った。 それでも、『修の妻』にはなれる。これが彼女の望みだった。 「落ち着け」と自分に言い聞かせる。修がどれだけ冷酷な言葉を並べようと、雅子は心を冷静に保つ。 彼女は最悪の状況からでも、自分にとって有利な点を見つけ出す才能を持っているのだ。 「私は修のことを愛してる。だから、どんなに辛くても、その気持ちは変わらない。修と結婚することが私の夢なの。ずっとそのために生きてきたのよ。今は分からないかもしれないけど、いつか気づくわ。結婚したら時間はたっぷりある。人は変わるものよ。きっと修も変わる」 「もし俺が一生変わらないとしても?俺がお前を愛することが永遠になくて、形だけの夫婦関係しか築けないとしても、それでも耐えられるか?」 「構わないわ。未来なんて誰にも分からないもの。ある日突然、あんたが
リビングで、成之はそっと茶碗をテーブルに置いた。 「若子、西也の回復は順調だな。これでみんな一安心だ」 「ええ、そうですね」若子は頷きながら答えた。「西也は本当に強運の持ち主です。ただ、まだ記憶が戻っていないのが残念です。でも、私はあまり急いでいません。ただ......何度も西也がこっそり記憶を取り戻そうとしている姿を見てしまうんです。それで苦しんでいるようで、見ていてつらいんです。『無理に思い出さなくてもいい』って伝えるんですが、それでも自分を追い込んでしまうんです」 心配そうな表情を浮かべる若子を見て、成之は静かに言った。 「若子、実は俺が海外の医療機関に連絡してみたんだ。西也みたいな記憶喪失の患者を治療した実績がある機関でな。彼らの治療法は臨床試験でもいい結果が出ている。もしかしたら西也の記憶を取り戻す助けになるかもしれない」 若子はその言葉に目を輝かせた。「本当ですか?」 成之は頷いた。「ああ、彼らのレポートやデータ、成功例を見たが、確かに期待できる内容だ。後でスタッフに送らせるから、若子も目を通してみてくれ。もし納得できれば、俺が手配して、西也をそちらで治療を受けさせることもできる」 「その治療って、苦痛を伴うものですか?例えば開頭手術や電気ショックみたいな方法だとしたら、私は西也にそんなことをさせたくありません」 「いや、そういうのじゃない」成之は手を振って否定した。「彼らの治療法は非常に新しいアプローチで、手術や電気ショックみたいな古いやり方は必要ない。患者には何の痛みも感じさせないらしい。もしそんな痛い思いをさせるような治療なら、俺だって西也を送り出す気にはならないさ」 「そうですか、それなら後で送っていただける資料を確認しますね。その上で西也の意見を聞いてみます」 「分かった」成之は軽く頷いた後、何かを思い出したように言った。「そうだ、もう一つ話しておきたいことがある」 「何でしょうか?」若子が問いかけると、成之は言葉を選ぶように続けた。 「俺は西也の父親と話をしてきた。婚姻の件についてだ」 「どうなったんですか?お父さんは何と?」 「最初は俺が余計な口出しをしたと思ったのか、かなり不機嫌だった。でも説得した結果、ひとまず婚姻に干渉しないと約束してくれた」 「それで、私と西也のことをお父さ
今の若子には、他のことなんてどうでもよかった。たとえ医者が警察に通報しても、しなくても、彼女が望んでいるのは―ヴィンセントを、生かすこと。 彼がここで死んでしまったら、すべてが終わってしまう。 ヴィンセントは手を上げて、そっと若子の頬に触れた。涙を指でぬぐいながら、弱々しく笑う。 「泣くなよ......どうせ、俺たちそんなに親しくもないし。俺が死んだって、別にいいだろ」 「だめ!絶対にだめ!ヴィンセントさん、お願い、生きて......生きてよ、頼むから!」 「俺が死ねば、妹のところに行ける。だから......そんなに悲しむな。あのふたりの男、君のことすごく愛してるみたいだな。でもさ......俺は、君には幸せでいてほしい。誰かに愛されてるからって、それに縛られなくていいんだ。松本さん、男なんて、あんまり信じるなよ」 「冴島さん、目を開けて!ねぇ、お願い、開けてってば!」 若子は震える手でヴィンセントの瞼を押し開こうと必死になった。 そして、奥歯を噛み締めながら、全力で彼の体を背負い上げる。 「病院に連れてく!絶対に死なせない、私が死んでも、あなたは生きるの!マツだって、きっと同じ気持ちよ!」 そのとき、修がやっと我に返って駆け寄った。 「若子―!」 「来ないでっ!!」 若子は振り返って怒鳴りつけた。 「触らないで、修!あれだけ『撃たないで』って言ったのに、どうして聞いてくれなかったの?なんで私の話を、無視するの!?西也、あんたもよ!何も知らないくせに、勝手に撃って......ひどいよ、ふたりとも、ひどすぎる!」 怒りと絶望が入り混じった叫び声は、途中で息が続かなくなるほどだった。目には怒りの火が灯り、血の気の引いた顔には氷のような冷たさが宿っていた。彼女のその表情に、沈霆修も西也も言葉を失う。 ―まるで、憎しみを湛えているみたいだ。 「若子、俺だって、助けたかったんだよ......」西也は慌てたように言った。「この男が、まさかお前を助けたなんて......そんなの知らなかったんだ!これは、全部、誤解なんだよ!ワザとじゃない、信じてくれ!」 「どいて、もう何も話したくない。どいて!」 彼女の体は小さくても、気迫は誰にも負けなかった。全身が血と汗にまみれても、彼を背負って一歩一歩、出口へ向かおう
「大丈夫、少なくとも彼は助けに来てくれた。もう危ないことはない」 ヴィンセントは、もう死を恐れてなんかいなかった。首の皮一枚で生きる日常、いつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えたような人生。今日死ぬか、明日死ぬか、それに大した違いなんてない。 早く死ねば、それだけ早く楽になれる。 若子は力いっぱいヴィンセントを支えて立たせると、修に向かって叫んだ。 「修、お願い―」 その言葉が終わる前に、突然、もう一組の人間がなだれ込んできた。 「若子!無事だった?こっちに来て!俺が助けに来たよ!」 西也はヴィンセントと一緒に立っている若子を見て、全身血まみれの彼女にショックを受けた。そして、反射的に銃を構え、バンバンバンとヴィンセントに向けて数発撃った。 「やめてええええええ!」 若子は喉が裂けそうなほど叫んだ。ヴィンセントが撃たれて、その場に崩れ落ちるのを、目の前で見ることしかできなかった。 「やだ......やだ!」 彼女はその場に膝をついて、苦しげに叫ぶ。 「ヴィンセントさん、冴島さん......冴島さん、お願い、死なないで、お願い......!」 「遠藤、お前ってほんと狂犬ね!」 修が彼を止めに入る。 「何やってんだ!」 「俺は若子を助けに来たんだ!彼女はいま危険だったんだぞ!それをお前は何もせずに突っ立ってただけじゃないか!何の役にも立ってない!だから俺が、夫の俺が守るって決めたんだ!」 西也は修を強く押しのけ、若子のもとへ走り出した。 「来ないで!」 若子は怒りに震えながら、西也に向かって叫んだ。 「なんで事情も知らないのに撃つの!?ひどすぎるよ!」 西也はその場で固まった。若子に責められるなんて思ってもみなかったのだ。 ―こんなこと、初めてだ。 「若子......俺は、助けたかったんだ。電話も繋がらないし、もう心配で、心配で......寝る間も惜しんで探し回って......こいつがどんな奴か知ってるのか?『死神』ってあだ名で呼ばれてる、殺しに躊躇しない化け物なんだぞ!」 「でも、彼は私を助けてくれたの。命の恩人よ。彼がいなかったら、私はもうとっくにあのギャングたちに......殺されてたかもしれない! ねぇ、あと何回言えば伝わるの!?なんでみんな、私の話を聞こうとしな
「......お前......」 修が歩み寄ろうとした瞬間、若子は彼を強く突き飛ばした。 「彼が言ったこと、間違ってなんかない!一言だって間違ってないわ!」 若子の瞳には怒りが燃えていた。 「修、私がギャングに捕まって、暴行されそうになって、殺されかけたとき―助けてくれたのはヴィンセントさんだった!......じゃああんたは?どこにいたの!? どうせあれでしょ、山田さんと手を繋いでアイス舐めあってたんでしょ?あの女の唾液を嬉しそうに食べてたんでしょ? ベッドででも盛り上がってた?私が死にかけてるときに!」 「......っ」 修は言葉を失った。 「はっきり言っておくわ。私は今、助けなんか求めてない。 今さら『心配してる』なんて顔して現れて、正義ぶらないで。全部、自己満足じゃない!」 「自己満足だって......俺は、必死にお前を探した。命がけで心配したんだぞ、それが『無駄』だっていうのか!?」 彼の叫びは、若子の怒りを前に粉々に砕けた。 「感謝するわよ、『探してくれてありがとう』って。でも、結局あんたがしたことは、私の恩人の家を爆破して、彼を傷つけたこと。 私、明日には自分で帰るつもりだった。放っておけばよかったのよ。 それをあんたが余計なことして、勝手に盛り上がって、感動して、自分に酔って―それを私が理解しないって怒る?」 「若子......お前、あんまりだ......どうして、そんなに冷たいんだ......」 修の声はかすかに震えていた。 「冷たい?じゃあ、聞くけど― さっき私が止めたよね?でもあんた、全然聞かなかった。彼に銃を向けて、撃とうとした。 あげくの果てには、『私が正気じゃない』とか言って、自分の都合で全部決めつけて......そんなあんたの努力、私がどうして感謝できるの? 修、あんたの『努力』はやりすぎなのよ」 若子は涙を拭いながら、冷たく言い放った。 「それに― 山田さんとラブラブなんでしょ? だったら彼女のそばにいなよ。なんでこっち来てまで『頑張って助けに来た』とか言ってるの?彼女、あんたの子どもを妊娠してるんでしょ?戻って、ちゃんと支えてあげなよ」 修は目を閉じ、深く息を吸った。 心の中で何かが音を立てて崩れていく。 若子の言葉は、す
「修、彼は私の命の恩人なの!絶対に傷つけさせない!誰にも彼を傷つけさせない!」 「......今、なんて言った?」 修の目が信じられないものを見るように大きく見開かれた。 「......あいつが、お前の命の恩人......だと?」 「そうよ。私が危ないところを助けてくれたのは彼なの。だから、彼を傷つけるってことは、私を傷つけるのと同じなの!」 その言葉に、修は言葉を失った。 事態は、彼の想定を完全に超えていた。 若子が何か薬を盛られて、意識が朦朧としてるんじゃないか― そんな疑念がよぎる。 けれど、彼の目にははっきりと見えていた。 若子の首筋にくっきり残った、指の跡。 明らかに暴力によるものだ。あの男がやったに違いない。 だとしたら、なんで彼女はこんなところにいるんだ? なんで家に帰らず、連絡もよこさなかった? これが「救い」だっていうのか? 「若子、わかった......まず、銃を返して。もう彼には手を出さない」 彼女の感情が高ぶっている中で下手に手を出せば、逆効果だ。 今は、冷静にするのが先。 「本当に?」 若子が疑うように問い返す。 修は静かに頷いた。 「本当だ。銃を、返してくれ」 もしこのまま彼女の手元に銃があれば、暴発の危険すらある。 若子は少し迷いながらも、ゆっくりと銃を修に手渡した。 だが、修は銃を受け取るや否や、すぐさま部下に命じた。 「囲め。あいつから目を離すな」 部下たちが一斉に動き、ヴィンセントを取り囲む。 銃口が一斉に彼へ向けられる。 「あんた......私を騙した......」 若子の叫びが響いた。「なんで......なんでそんなことができるの!?」 彼のもとへ走り寄り、その胸倉を掴む。 「やめて!銃を向けるな!お願い、彼にそんなことしないで!」 「若子、あいつはお前に何をした?」 修は彼女の肩をしっかりと掴み、必死に訴える。 「何か注射されたのか?薬を使われたのか?あいつに傷つけられたのに、なぜそこまでかばう!?病院に連れて行く、すぐに検査を―」 ―バチンッ! 乾いた音とともに、若子の平手打ちが修の頬を打った。 「藤沢修、あんたって人は......!」 「桜井さんのために私と離婚すると決めた
若子が生きていると確認して、修はようやく安堵の息を吐いた。 これまで幾度となく、彼女を探し続けるなかで何度も遺体を見つけ、そのたびに胸が潰れそうな絶望を味わった。 けれど、若子だけは見つからなかった。 代わりに、他の行方不明者ばかりが見つかった。 そして今ようやく、彼女を見つけた。 彼女は―生きていた。 だが彼女がどんな目に遭っていたのか、想像するだけで胸が痛んだ。 「修......なんであなたが......?」 若子は信じられないような目で彼を見つめた。 「どうしてここに?」 まさか来たのが修だったなんて、夢にも思わなかった。 ヴィンセントは目を細めて振り返った。 「この男......テレビに出てたやつじゃないのか?君の前夫だろ?」 若子はうなずいた。 「うん。彼は......私の前夫よ」 修が来たと分かって、若子は少しだけ安心した。 「若子、こっちに来い!」 修は焦った様子で手を伸ばした。 「修、どうしてここに......?」 「お前を助けに来たに決まってるだろ!お前がいなくなって、俺は気が狂いそうだった!」 「わざわざ......私のために......?」 若子は、てっきりヴィンセントの敵が来たのだと思っていた。 「若子、早く来い!そいつから離れて!」 「修、違うの!誤解してる!彼は......ヴィンセントって言って、彼は......」 若子が話し終える前に、修は彼女を後ろへ引っ張り、銃を構えてヴィンセントに発砲した。 ヴィンセントはまるで豹のような動きで避けたが、すぐに更なる銃弾が飛んできた。 すべての男たちが一斉にヴィンセントへ発砲を始めた。 彼はテーブルの陰に飛び込んで避けたが、ついに銃弾を受けてしまった。 「やめて!」 若子は絶叫した。 銃声が激しく響き、彼女の声はかき消されていった。 「修、やめて!」 彼女は必死に彼を掴んで叫んだ。 「撃たせないで、やめて!」 「若子、お前は何をしてるんだ!?あいつは犯罪者だぞ!お前を傷つけたんだ、正気か!?」 修には、なぜ若子がヴィンセントを庇うのか理解できなかった。 「彼は違う、彼はそんな人じゃない......!」 「違わない!」 修は彼女の言葉を遮った。 「
彼女に違いない、絶対に若子だ! あの男は誰だ?一体若子に何をした? 修の目には、あの男が若子をここに連れてきたようにしか見えなかった。 若子がどれほどの苦しみを受けたのかも分からない。 修は考えれば考えるほど、動揺と焦りで頭がいっぱいになった。 部下が周囲を確認していた。 この家は簡単に入れない。どこも厳重に警備されていて、爆破しないと入れない状態だった。 突然、監視カメラの映像に映った。 男が女をソファに押し倒したのだ。 その瞬間、修の怒りが爆発した。 若子が襲われていると誤解し、理性を失った彼は即座に命令を出した。 「扉を爆破しろ、早く!」 ...... ソファの上で、ヴィンセントは若子の上から身体を起こした。 「悪い」 「大丈夫、気をつけて」 さっきはヴィンセントがバランスを崩してソファに倒れ、その勢いで若子も倒れたのだった。 ヴィンセントが姿勢を整えると、若子は言った。 「傷、見せて。確認させて」 彼女はそっと彼の服をめくり、包帯を外そうとした。 ―そのとき。 ヴィンセントの眉がぴくりと動いた。 鋭い危機感が背中を駆け抜けた次の瞬間、彼は若子を抱き寄せ、ソファに倒れ込ませた。 「きゃっ!」 若子は驚き、思わず声を上げた。 何が起きたのか分からず、反射的に彼を押し返そうとしたが― その瞬間、「ドンッ!」という轟音が響き、爆発が扉を吹き飛ばした。 煙と埃が宙に舞い、破片が飛び散る。 ヴィンセントは若子をしっかりと抱きかかえ、その身体で彼女を庇った。 その眼差しは鋭く、まるで刃のようだった。 若子は呆然としながら言った。 「何が起きたの?あなたの敵?」 もし本当にそうだったら― この状況は最悪だった。 ヴィンセントはまだ傷が癒えていない、今の彼に戦える力があるか分からない。 「怖がらなくていい。俺が守る」 その声は強く、闇を貫くように響いた。 彼はもうマツを守れなかった。 今度こそ、若子だけは―何があっても守り抜く。 扉が吹き飛んだあと、黒服の男たちが銃を持って突入してきた。 「動くな!両手を挙げろ!」 ヴィンセントはそっとソファの上にあった車のキーを手に取り、若子の手に握らせた。 そして、彼女の耳
ヴィンセントは「なぜだ、なぜなんだ!」と叫び続け、頭を抱えて自分の髪を乱暴に引っ張った。 その姿は絶望そのものだった。 若子は彼の背中をそっと撫でた。 何を言えば慰めになるのか、彼女には分からなかった。 ―すべての苦しみが、言葉で癒せるわけじゃない。 最愛の人を、あんな形で失った彼の痛み。 誰にだって耐えられることじゃない。 もしそれが自分だったら―きっと、同じように壊れていた。 突然、ヴィンセントは手を伸ばし、若子を抱きしめた。 若子は驚いて、思わず彼の肩に手を当て、押し返そうとした。 だが、彼はその耳元でかすれた声を漏らした。 「動かないで......少しだけ、抱かせて......お願いだ」 「......」 若子は心の中でそっとため息をついた。 彼の背中を軽く叩きながら言った。 「これはあなたのせいじゃないよ。全部、あいつらみたいな悪人のせい。 マツさんも、きっとあなたを責めたりしない。 きっと、あなたにこう言うよ。『今を大切にして、毎日をちゃんと生きて』って」 「松本さん......ごめん......君をここに閉じ込めて、マツとして扱って...... ただ、昔の記憶にすがりたかっただけなんだ...... 君を初めて見たとき、マツが帰ってきたのかと思った...... 君があいつらに傷つけられるって思ったら......もう耐えられなかった」 ヴィンセントの表情には、後悔と悲しみが滲んでいた。 その瞳は、内面の葛藤と苦しみに囚われ、涙が滲むような声で語った。 彼は若子に謝っていた。 そして、自分の弱さを―心の奥にある痛みを告白していた。 「それでも、助けてくれてありがとう。私をマツだと思ってたとしても、松本若子だと思ってたとしても......あなたは私を、助けてくれた」 「たとえマツじゃなくても、俺はきっと君を助けてたよ」 ヴィンセントは彼女をそっと離し、その肩に両手を置いた。 真剣な眼差しで言った。 「俺、女が傷つけられるのを見るのが耐えられないんだ」 ふたりの視線が交わる。 その間に流れる空気は、言葉では表せない感情に満ちていた。 若子は、彼の心の痛みを少しでも理解しようとした。 ―もしかしたら、自分が人の痛みに敏感だからかも
若子はほんの少し眉をひそめた。 しばらく考え込んだあと、こう言った。 「私には、あなたの代わりに決めることはできない。あなたが復讐したのは、間違ってないと思う。でも......もしも、まだ彼を苦しめるつもりなら......私は先に上に行ってもいい?見ていられないの」 あまりにも残酷な光景に、若子は夜に悪夢を見るかもしれないと思った。 ヴィンセントは彼女の顔を見て振り返った。 若子の表情は、少し青ざめていた。 彼女は確かに、怖がっていた。 そうだ。 彼女はまともな人間だ。 自分のように、何もかも見てきたような人間じゃない。 怖がって当然だ。 若子は、真っ白なクチナシの花。 自分は、血と泥にまみれた人間。 「......行っていい。すぐに俺も行く」 若子は「うん」と頷き、地下室を出て行った。 扉を閉めると、地下室から音が漏れてきた。 声の出ないその男は、うめくことも叫ぶこともできない。 聞こえてくるのは、ヴィンセントの行動音だけだった。 ナイフが肉を刺す音、物が倒れる音― 若子は耳を塞ぎ、背中を壁に押しつけた。 この世界では、日々さまざまな出来事が起こっている。 善と悪は、簡単に区別できない。 人を殺すことが、必ずしも「悪」ではなく、 人を救うことが、必ずしも「善」とは限らない。 たとえば、殺されたのが凶悪な犯罪者だったなら、それは正義かもしれない。 逆に、そんな人間を救えば、また誰かが被害に遭うかもしれない。 世の中は、白と黒で割り切れない。 極端な善悪の二元論では、何も見えてこない。 しばらくして、扉が開いた。 ヴィンセントが出てきた。手にはまだ血のついたナイフを持っていた。 彼はそのまま、近くのゴミ箱にナイフを投げ捨てた。 「殺した......地獄に落ちて、マツに詫びてもらう」 若子は彼をまっすぐに見つめた。 そこにいたのは、復讐を果たして満足している男ではなかった。 魂を失ったような、抜け殻のような男だった。 突然、ヴィンセントが「ドサッ」とその場に倒れ込んだ。 「ヴィンセント!」 若子は駆け寄って、彼を支えようとしゃがみ込む。 だが、彼は起き上がろうとせず、地面に崩れたまま笑い出した。 「なあ......天
男の体は血だらけで、すでに人間の姿とは思えないほどに痛めつけられていた。 全身からはひどい悪臭が漂っている。 若子は吐き気をこらえながら、口を押さえて顔を背け、えずいた。 「この人......誰?どうして......あなたの地下室に......?」 「こいつが、マツの彼氏だ」 若子は驚愕した。 「えっ?彼女の彼氏が、どうしてここに......?」 ヴィンセントは語った。 妹を殺したのはギャングたちだ― だから、彼はそのすべての者たちを殺して復讐を果たした、と。 だが、その中に彼氏の話は一切出てこなかった。 ―もしかして、妹を失ったショックで、理性を失ってるの......? 「こいつがマツを死なせた張本人だ」 「どういうこと......?ギャングがマツを襲ったって......それならこの人は......?」 「こいつがチクったんだ。マツが俺の妹だって、やつらに教えた」 ヴィンセントは男の前に立ち、声を荒げた。 「こいつが共犯だ!」 その目には殺意が宿っていた。 この男を殺したところで、気が済むわけではない。 それでも―殺さずにはいられないほど、憎しみは深かった。 男は顔も腫れ上がり、誰だか分からない。 身体中を鎖で縛られ、長い間、暗く湿った地下に閉じ込められていた。 声も出せず、体を動かすことすらできず、助けも呼べず― ただ、毎日苦しみ続けていた。 ヴィンセントは彼を殺さず、生かしたまま、マツが受けた苦しみを何倍にもして返していたのだ。 「......そういうことだったのか」 若子は心の中で思った。 マツは―愛してはいけない男を愛してしまったのだ。 女が間違った男を選べば、軽ければ心が傷つくだけで済む。 だが、重ければ命すら奪われる。 修なんて、この男に比べれば、まだマシだ。 少なくとも、彼は命までは奪わない。 ......でも、そういう問題じゃない。 傷つけられたことには変わりない。 「ヴィンセントさん......これからどうするの?ずっとここに閉じ込めて、苦しませ続けるつもり?」 若子には、彼の行動を否定することもできなかった。 非難する資格が自分にはないと分かっていた。 でも、心のどこかで―怖さもあった。 だが、