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第512話

著者: 夜月 アヤメ
last update 最終更新日: 2025-01-07 18:00:00
すぐに、車内には百合の花の香りが漂い始めた。

その香りを嗅いだ若子は、とても心地よい気分になり、思わず口を開いた。「おばあさん、百合の花が好きだから、あなたもちゃんと考えてくれたのね」

この言葉に特別な意図はなく、純粋に感謝の気持ちを込めていた。

「俺の気遣いなんて、こういうところにしか使えない。他の人に向けても、感謝されることはないけどな」修は前を見据えながら、淡々と運転を続けた。

若子は彼の言葉の意図を察した。

「もしあなたが突然愛を告白したり、強引で横暴なやり方をしたりしてるって意味なら、確かに感謝なんてされるわけないわね」

反撃しなければ、あたかも自分が感謝しないのが悪いように思われてしまう。

「じゃあ、どうすれば人に感謝されると思う?」

若子は膝の上で握った拳をそっと締め付け、手のひらに冷たい汗を感じた。「時には、人が欲しがらないものを無理に与えないこと。それを引き下げるのが一番だと思うわ」

「うっかりばら撒いてしまったら、もう引き戻せないけどな」修は淡々とした声でそう言った。視線は前を向いたままだったが、その言葉にはどこか怨念のような響きがあった。

若子はそっと彼の引き締まった横顔を見て、口を開こうとしたが、おばあさんの家に向かう途中でまた口論になったら困ると思い、結局何も言わずに黙り込んだ。

二人の会話は、修の「もう引き戻せない」の一言で途切れたまま、静かな時間が流れた。車はやがて華の家に到着した。

修と若子が来たことに、華はとても嬉しそうだった。

しかし、二人が驚いたのは、華が車椅子に座っていたことだった。以前会ったときには杖をついて自分で歩いていたのに、今は使用人に押されて登場した。

若子と修は、自分たちのことで忙しく、おばあさんを気にかけられなかったことを深く後悔した。

人は年を取ると、体調が日に日に悪くなるものだ。華も高齢で、いくつかの慢性疾患を抱えていた。時間の流れがその影響を一層速めていた。

「おばあさん」若子は車椅子のそばにしゃがみ込み、その手を握った。「ごめんなさい。今日になってやっと会いに来られました」

若子の目は赤く潤んでいた。

華は優しく微笑みながら、若子の頭を撫でた。「大丈夫よ。あなたたちが忙しいのは分かってるわ。毎日来てもらうなんて、時間の無駄にしちゃ悪いもの」

「おばあさん、修と一緒に病
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    修が突然、若子の器にチキンの腿肉を一つ取って入れた。 若子は慌てて、「もうお腹いっぱい」と言った。修が目を上げて若子を一瞥し、そのまま彼女と視線を交わした。若子の心臓がドキッと跳ね、急いで目をそらした。華はそんな二人を見て微笑んでいたが、特に何も言わなかった。やがて、修は若子の器に入れた腿肉を再び取り戻し、自分で食べ始めた。その様子はまるで「食べないなら俺が食べる」という態度そのものだった。若子はほっと息をつき、むしろこれで良かったと思った。無理に押し付けられるよりずっといい。若子はそもそも、そういう「強引な押し付け」が苦手だった。食べたくないのに勧められたり、飲みたくないお酒を無理やり注がれたりするような状況。断れば「失礼だ」とか「常識がない」と言われる、そんな押し付けが嫌いだった。少なくとも修は、この点でその「怪しいルール」から抜け出していた。「そうだ」華が突然思い出したように言った。「若子、修。おばあさんがちょっとお願いしたいことがあるんだ」「何ですか?おばあさん、何でも言ってください」修が答えた。「実はね」と華は話し始めた。「おばあさんには昔から仲の良い友達がいるんだけど、その孫娘さんが結婚するのよ。それで、おばあさんも結婚式に招かれたんだけど、最近ちょっと疲れていてね、賑やかな場所に行く気力がなくてね。それで、その友達に『孫夫婦が代わりに行くか聞いてみる』って言っちゃったのよ」華が話を終える頃には、若子も修も、華の言いたいことを理解していた。「おばあさん、でも私と修はもう離婚していますよ」若子がためらいながら言った。華は気まずそうに笑った。「それは言ってないよ。正直に言うとね、私たちおばあさん世代の友達同士って、どうしても比べ合っちゃうのよ。何を比べるかって言ったら、そりゃあ、子どもや孫の話くらいしかないんだ。だからさ、お願いだけど、おばあさんのちょっとした見栄のために、二人で夫婦のふりをしてその結婚式に行ってくれないかい?」「おばあさん、それは......」若子は少し困った様子で言葉を濁した。「ちょっと無理があるんじゃないでしょうか。もし向こうに気づかれたら......」「あなたが言わなければ、私も言わない。誰が気づくっていうんだい?」華は申し訳なさそうに若子を見つめた。「......」

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    おばあさんに嘘をつくのは、若子にとって一番したくないことだった。けれど、どうしても「修とうまくいっていない」と正直に言うことはできなかった。そんなことを言ったら、おばあさんを悲しませてしまうのは分かり切っていたからだ。「それならいい。それならいいんだよ」 華は少し目を伏せ、その瞳にほんの少しだけ寂しさがよぎった。彼女には分かっていた。若子と修がどれだけ良い関係でいようとも、二人がもう離婚しているという事実は変わらない。「そうですね、おばあさん」修が続けて言った。「安心してください。若子がどんな困難に直面しても、俺が必ず助けます。いつまでも、絶対に」この言葉は、単におばあさんを安心させるためだけではなかった。修の本音でもあった。若子は驚いたように修の方を見つめた。過去に二人の間で起きた数々の争いを思い出しながら、こんな穏やかで和やかな瞬間が訪れるなんて、想像もできなかった。この穏やかさがどれほど本物なのか、どこまで偽りが混じっているのかは分からなかった。でも少なくとも、今は前のように醜く争っているわけではなかった。「修」 華は修の手を取り、しっかりと握りながら言った。「おばあさんは、修が言ったことをちゃんと守れるって信じてるよ。でも、彼女を助けるのと、彼女を傷つけるのは全然別の話だ。何があっても、もう若子を傷つけないでおくれ」修が返事をする前に、若子が慌てて言った。 「おばあさん、修は私を傷つけたりしていません。離婚した後も、私たちはちゃんと仲良くやっています。それに―」「もういい」華は彼女の言葉を遮った。「分かってるよ、若子が修のことをかばってるのも。だけど、おばあさんは修が何をしてきたか知ってるんだよ。修はね、あなたに甘えすぎたんだ。あなたが優しすぎたせいで、取り返しのつかない間違いをたくさん犯してしまったんだよ」「おばあさん、私はそんな―ただ―」「若子」華は再び彼女の言葉を遮り、静かに言った。「あなたがどうだったかなんて、もうどうでもいいんだよ。ただ、おばあさんが今ここで言いたいのはね、修にはもう二度と傷つけさせないってこと。それだけだよ。だから、修をかばう必要なんてないんだよ」若子は何も言えなくなり、ただ黙り込むしかなかった。「おばあさん」修が静かに口を開いた。「俺はもう二度と若子を傷つけません。以前のことは、確

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第513話

    「まったく、あなたって子はどうしてこんなに抜け目ないんだい?おばあさんが嘘ついてると思うのかい?」 華は彼女の額を軽く指でつつきながら言った。「見せてやるよ」華は執事に向き直り、「私の健康診断の結果を持ってきて」と頼んだ。しばらくして、執事が健康診断の報告書を手に持ってやって来た。若子は立ち上がり、その報告書を受け取ると、一通り目を通した。若子が見終わるのを待って、修も報告書を手に取り、隅々まで目を通す。記載されている数値は、前回の結果とほとんど変わっていなかった。「ほら、見たかい?」華がわざと不満そうな声を出す。「おばあさんが嘘をつくなんて思ったのかい?ほんと、疑り深いんだから」「おばあさん」修は報告書の数値をじっと見つめながら言った。「血圧がちょっと低めみたいですね」「そうなのかい?若子、あなたは気づかなかったね。どれのことだい?」修が報告書のある項目を指差した。「あ、本当だ。おばあさん、血圧がちょっと低いですね」若子が少し心配そうに声を漏らした。「分かってるよ。お医者さんも言ってたけど、少し低いだけで大したことはないってさ。歳を取るといろいろ出てくるのは普通のことだよ。薬ももらってるし、そんなに心配しなくていいよ」修は報告書を執事に手渡しながら、「おばあさん、これからは3日に一度くらい顔を出します」と宣言した。「そんな頻繁に来なくてもいいよ。忙しいのは分かってるんだから。時間がある時にふらっと来てくれればそれで十分だよ」華は小言を言うようなタイプではなく、若者たちを必要以上に引き留めることはしない。ただし、あまり長い間顔を見せないのも嫌だと思っている。修の言葉を聞いて、若子は何も言えずにいた。彼女も修のように「頻繁に来ます」と言いたかったが、自分のお腹はどんどん大きくなっていて、そうなれば隠し通せなくなるだろう。その時、華の視線が若子に向けられた。「若子、あなた、前に気分転換に旅行に行くって言ってたよね。どうしてまだ行ってないんだい?」「あの......」最近いろいろなことが立て続けに起きたせいで、その計画はすっかり延期になってしまい、実現できていなかった。「どうしたんだい?何かあったのかい?おばあさんに話してごらん」華が心配そうに尋ねた。若子は首を横に振り、「特に何もないです。ただ、

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第512話

    すぐに、車内には百合の花の香りが漂い始めた。その香りを嗅いだ若子は、とても心地よい気分になり、思わず口を開いた。「おばあさん、百合の花が好きだから、あなたもちゃんと考えてくれたのね」この言葉に特別な意図はなく、純粋に感謝の気持ちを込めていた。「俺の気遣いなんて、こういうところにしか使えない。他の人に向けても、感謝されることはないけどな」修は前を見据えながら、淡々と運転を続けた。若子は彼の言葉の意図を察した。「もしあなたが突然愛を告白したり、強引で横暴なやり方をしたりしてるって意味なら、確かに感謝なんてされるわけないわね」反撃しなければ、あたかも自分が感謝しないのが悪いように思われてしまう。「じゃあ、どうすれば人に感謝されると思う?」若子は膝の上で握った拳をそっと締め付け、手のひらに冷たい汗を感じた。「時には、人が欲しがらないものを無理に与えないこと。それを引き下げるのが一番だと思うわ」「うっかりばら撒いてしまったら、もう引き戻せないけどな」修は淡々とした声でそう言った。視線は前を向いたままだったが、その言葉にはどこか怨念のような響きがあった。若子はそっと彼の引き締まった横顔を見て、口を開こうとしたが、おばあさんの家に向かう途中でまた口論になったら困ると思い、結局何も言わずに黙り込んだ。二人の会話は、修の「もう引き戻せない」の一言で途切れたまま、静かな時間が流れた。車はやがて華の家に到着した。修と若子が来たことに、華はとても嬉しそうだった。しかし、二人が驚いたのは、華が車椅子に座っていたことだった。以前会ったときには杖をついて自分で歩いていたのに、今は使用人に押されて登場した。若子と修は、自分たちのことで忙しく、おばあさんを気にかけられなかったことを深く後悔した。人は年を取ると、体調が日に日に悪くなるものだ。華も高齢で、いくつかの慢性疾患を抱えていた。時間の流れがその影響を一層速めていた。「おばあさん」若子は車椅子のそばにしゃがみ込み、その手を握った。「ごめんなさい。今日になってやっと会いに来られました」若子の目は赤く潤んでいた。華は優しく微笑みながら、若子の頭を撫でた。「大丈夫よ。あなたたちが忙しいのは分かってるわ。毎日来てもらうなんて、時間の無駄にしちゃ悪いもの」「おばあさん、修と一緒に病

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第511話

    若子は電話が繋がったのを確認して、ほっと息をついた。修が自分の番号をブロックしていなかったことに、少し驚きつつも安心した。少なくとも、その点では彼は寛容なようだ。しかし、電話の向こうでは誰も出る気配がなく、数十秒後に通話が切れた。若子は深いため息をついた。どうやって修をおばあさんに会わせればいいのだろう?「何か用か?」 背後から冷たい声が聞こえた。若子が振り返ると、修が立っていた。彼女は一瞬緊張が緩んだ。「まだ病院にいたのね。もう帰ったかと思ってたわ」「なんで俺に電話した?」修は無表情で問いかけた。若子はスマートフォンを握りながら、不安そうに一歩前に進んだ。「おばあさんに、今夜一緒に夕食を取るって約束したの。それも二人でね」「それはお前が約束したことだろ?俺を巻き込むな」修の冷淡な声に、若子は彼の不満を理解していた。この件は彼に相談せず、自分で勝手に決めたことだった。申し訳なさを感じつつも、彼女は冷静に答えた。「分かってる。でも、私たちが揉めてることは、おばあさんには関係ないわ。今日電話で話したとき、おばあさんが咳をしていて、声も以前より弱々しかったの。お願いだから、一緒に会いに行ってくれない?おばあさんに安心してもらえるように、私たちが仲良くしてるフリをしてでも」修はポケットに手を突っ込んだまま、「つまり、芝居をしろってことか?」と皮肉げに言った。若子は苦笑いを浮かべながら答えた。「前にも一年以上そうしてたじゃない?少し長く続けるだけよ。おばあさんのためにお願いしてるの。あなたは私に腹を立ててもいいけど、おばあさんには優しくしてあげて」修の声はさらに冷たくなった。「考えるまでもない」若子の胸が少し締めつけられる。「つまり、嫌だってこと?」修はポケットから車の鍵を取り出しながら言った。「車で送っていくよ」彼の「考えるまでもない」は、同意の意味だった。おばあさんを訪ねることに、迷いなど必要なかった。それは当然のことだった。若子はほっと息をついた。「ありがとう」「礼なんて言うな。俺は彼女の孫だ。責任を果たすだけだ。それに、お前は俺の車に乗るのか?」若子は頷いた。「ええ、乗せてもらうわ。一緒に行けば、おばあさんも喜ぶと思うから」「それなら、遠藤には説明したのか?」「もう伝えたわ。あなたは桜

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