「どんな問題なんだ?」「俺は......」修は若子がもう結婚したことを華に伝えるつもりはなかった。別の言い訳を考えようとしたその時、ポケットの中でスマホが鳴った。取り出して確認すると、若子からメッセージが届いていた。「洗面所に来てくれる?お願い、ありがとう」修はスマホをポケットに戻して立ち上がった。「おばあさん、ちょっと洗面所に行ってきます」修は食堂を出て、洗面所の前に着くと、若子が扉を開け、彼を中へと引き入れた。そして「バタン」と勢いよくドアを閉めた。「ずいぶん礼儀正しいな」修はスマホを取り出し、若子の前で軽く振ってみせた。彼女からのメッセージには「お願い」だの「ありがとう」だのと、まるで他人に送るような丁寧な言葉が並んでいた。「じゃあ、どうすればいいの?失礼な言い方でもすればよかった?」若子は眉を寄せながら問いかけた。「むしろ、そのほうがいい。俺には冷たくしてくれたほうが落ち着く」若子は眉をしかめた。「冷たくするのがそんなにいいわけ?」「ああ。お前に冷たくされる方がまだマシだ。礼儀正しく丁寧に接されると、なんだか居心地が悪い」彼女が丁寧に接するほど、修にはその距離が遠く感じられた。怒られるのでも、叩かれるのでもいい。ただ、まるで他人に対するような敬語や礼儀正しい態度だけは嫌だった。若子は小さく笑いながら首を振った。「変な人ね。普通、誰もそんなこと思わないわよ。怒ったら態度が悪いって思われるし、丁寧にしたら居心地が悪いって、どう対応すればいいのよ。ほんと難しいわね」「そうだな。俺は確かに難しい奴だ。そんな俺を相手にしてくれて、一年半も嫁でいてくれたお前には感謝してる。だけど、お前がいなくなった今、俺の中の大黒柱が折れたような気分だ」普段はそんなことを考えることもなかったが、失った今になってその大切さが心に突き刺さるようだった。若子は修の言葉を冗談だと思ったようで、軽く笑いながら答えた。「何よ、大黒柱って。私のことをからかってるの?それとも皮肉?」「からかいでも皮肉でもない。今になって分かったんだ。俺たちの結婚生活で、一番必要だったのはお前だってこと。お前が俺から離れて、もっと広い世界を手に入れた。他の男に愛されて、そいつは俺よりずっと良い男で、お前を傷つけずに全てを捧げてくれる。でも、俺が失ったの
「どうして俺が同意しないって思ったんだ?」修が静かに尋ねた。「思ったわけじゃない。ただ、同意するかどうか分からなかったから、確認したかったの」若子は淡々と答えた。「随分と慎重だな。こう考えていいのか?俺の気持ちを気にしてくれてるって。だって、普通なら『これくらい当然のことだから行きなさい』って言えただろう?だって俺のおばあさんなんだから、願いを叶える責任があるってさ」「勘違いしないで。それはあなたの気持ちを気にしてるからじゃなくて、ただの礼儀。私たちはもう離婚したんだから、昔みたいにはいかない。それに、厳密に言えば、おばあさんに会いに行くのはあなたの責任かもしれないけど、彼女の見栄を叶えるのは義務じゃない。拒否しても、あなたが悪い孫だというわけじゃないわ」若子の声は平静そのものだった。「つまり、お前はおばあさんが俺たちを使って見栄を張るべきじゃないと思ってるのか?」「そう思うかどうかは関係ない。もう起きてしまったことだし、おばあさんの気持ちも分かるから、できる範囲で願いを叶えるのも悪くないと思うだけ」「でも、おばあさんがこれに味をしめて、もっとひどいことを頼むようになったらどうする?」「ひどいって言ったって、せいぜい二人で顔を合わせるくらいでしょう?私たちが状況をちゃんと分かっていれば、それ以上のことは起きないわよ」若子の言葉には、表向き以上の重い意味が含まれていた。最後の一言が妙に耳に残った。「お互い分かっていれば、それでいい」という言葉は、通常は恋人同士の間で愛情を表すために使われるものだ。周りの目なんて気にせず、二人が心の中でつながっていることを意味する言葉だ。けれど、若子の口から出たその言葉は、全く別の意味を持っていた。彼女が言いたかったのは、「お互い分かっていること」、つまり二人の関係がもう修復不可能だという現実。今の平穏は、おばあさんのために作り上げた一時的なものにすぎなかった。あたかも散らかった部屋を布で覆って隠しているだけのように。布を剥がせば、乱雑さはそのまま残っている。それどころか、さらにひどい状態になっているかもしれない。「そうだな。お互い分かっていれば、それでいい」修の声は、感慨深く、どこか無力感を漂わせていた。「それで、行く気はあるの?」若子が慎重に尋ねた。「俺にできることだか
修は彼女の警戒するような目つきを見て、鼻で軽く笑った。「ここでお前を押さえつけてキスするんじゃないかって思ってる?そんな心配するなら、俺をこんな場所に呼び出すべきじゃなかったな」若子は目を伏せた。「ここでそんなことをしないでほしいわ」「ここでは、か」修は悪戯っぽく口元を歪めた。「つまり、他の場所なら構わないってことか?」若子は眉をひそめた。「冗談はやめて、早く出ましょう」彼女は修の過去の行動を思い出していた。彼なら本当にそんなことをしかねないと思えて、疑いが消えなかった。それに、自分からメッセージを送って彼を呼び出したのだから、仮に何かあった場合、誰に説明するにしても困るのは自分だ。「ちょっと聞きたいことがある」「何?」若子が短く答えた。修は少し真剣な顔で言った。「お前はおばあさんのことを心配してるし、俺も心配だ。おばあさんは『大丈夫』だって言うけど、俺たちは信じなくて、健康診断の結果まで確認した。でも、今度はお前のことが気になってきた。最後に健康診断を受けたのはいつだ?」若子は心の奥に刺さるような痛みを感じた。「離婚前に一度行ったでしょう?その時、全部分かってるはずよ」あの時、たまたま看護師をしている秀ちゃんが手を貸してくれたおかげで、彼に気づかれずに済んだのだ。「その時は体調が悪いって話だっただろ?医者も食べ物が原因だと言ってたけど、ちゃんとした検査をしたわけじゃない。俺が言ってるのは、全身をしっかり調べるような健康診断のことだ」「それがどう関係あるの?」若子は少し焦りながら言った。「もう私たち......」「離婚したことは分かってる」修は彼女の言葉を遮った。「でも、前夫が前妻の顔色が悪いのを見て心配するのはおかしいか?法律でも道徳でも、どちらもそれを禁じちゃいないだろう?」若子は平静を装いながら、落ち着いた口調で返した。「気遣ってくれてありがとう。でも私は大丈夫。自分の体調くらい、自分が一番分かってるわ」「そうか?俺にはそうは見えないけどな」修は指の甲で彼女の顔にそっと触れた。若子は思わず身を引いて、その手を避けた。修は空中に残った手を寂しそうに下ろしながら、落ち着いた声で続けた。「お前が自分を大事にしてるのは分かってる。でも、人間だって完璧じゃないから、どうしても見落としがある時もある。だか
「分からない」若子は悲しげに修を見つめた。「ただ、彼を傷つけるのは、私を傷つけるのと同じことだって分かる」修は思わず拳をぎゅっと握りしめた。そうだ、彼女たちは夫婦になった。今や一つの存在のようなもの。どちらかを傷つけることは、もう片方を傷つけることに繋がる。修は何か言おうとしたが、言葉が喉まで出かかった瞬間、それをぐっと飲み込んだ。こんな場所で、二人で洗面所に隠れてまで争って何になる?どうせ最後はまたくだらない痴話喧嘩のような結末になるだけだ。話せば話すほど、間違いも増えるだけだと分かっていた。深い溜め息をつき、修は何も言わずに背を向けて洗面所のドアを開け、そのまま出て行った。若子はその場に立ち尽くし、動けなかった。胸の奥に強い痛みが広がり、耐えられないほどだった。彼女はそっと目尻に滲んだ涙を拭い、気持ちを整理してから、ようやく洗面所を後にした。華は、若子と修が夫婦として結婚式に参加することに同意したと知り、非常に喜んだ。「本当に良い子たちだね。ありがとう。おばあさんのくだらない見栄を満たしてくれて、なんだか申し訳ないよ。次からはもうこんなことで頼んだりしない。私もこんな年になって、まだ見栄なんか張ってるなんて、恥ずかしいね」若子は穏やかに言った。「そんなふうに思わないでください。私たち孫が少しでもおばあさんの力になれるなら、それだけで嬉しいんです」「本当に孝行だね」華は満足そうに頷いた。二人がきっと裏で相談したのだろうと思ったが、どうやらその相談は穏やかに進んだようで、何よりだった。少なくとも二人が冷静に話せる関係に戻れたのが嬉しかった。その後、修と若子は華と一緒に食事を終えた後、長い間世間話をして過ごした。話しているうちにすっかり夜も更け、二人が帰る時間となった。華は名残惜しそうに二人を玄関まで送り出しながら、修に向かって言った。「修、若子をちゃんと無事に送り届けなさいよ。もし髪の一本でも抜けてたら、許さないからね」修は短く「分かりました」と答えた。「心配しないでください。安全に送ります」「若子を絶対にいじめちゃダメ。怒鳴るなんてもってのほか。分かった?」華の口調はどこか修を信用していないような雰囲気があった。若子が前に出てフォローするように言った。「おばあさん、来るときも問題なかったですし、何
「彼のことをこれ以上勝手に推測しないでくれる?」若子は冷静ながらも強い口調で言った。「彼の状況を全然分かってないくせに、自分の主観で彼を判断しないで。私が病院にいるのは、ちゃんと理由があるからよ」西也は記憶を失い、彼女を必要としている。今の彼は迷子になった子どものように、自分の居場所も分からず、周りの全てが未知のものに見えている。彼女がそばにいなければ、きっと恐怖に押し潰されてしまうだろう。しかも、脳の手術というのは冗談で済まされるものではない。ほんのわずかな誤差でも麻痺や死に繋がる可能性がある。彼が生き残れたのは奇跡に近かった。修がこうして軽々しく口を挟むこと自体、若子には耐えがたかった。修は、若子がこれほどまでに西也を守ろうとする姿を見て、二人の絆がどれほど強いのかを痛感した。二人の関係は、まるでどんな衝撃にも揺るがない鉄壁のようだった。その事実が修の胸に苦い感情を呼び起こす。「お前がそう思うなら、それでいい」修は淡々とそう言った。何の感情も込めていないように聞こえたが、若子の耳には刺々しく響いた。彼女は反論したい気持ちに駆られたが、言葉が見つからなかった。口を開きかけて、それを飲み込む。そして胸の中で小さな怒りを燃やしながら黙り込んだ。静かな車内の雰囲気は、どんよりとした空気に包まれた。心地よかったはずの時間が、一気に重苦しいものへと変わった。その状態が約10分続いた後、修が突然車を路肩に停めた。若子は窓の外を見た。濃い木々が連なり、街灯のない暗い道だった。「どうしてこんなところで停めたの?」修は少し間を置いて低い声で言った。「俺は遠藤が好きじゃない。いや、憎んでいる。もし彼がいなかったらって考えることがある。そうすれば、お前は俺のもとに戻ってきたかもしれないから。俺にとって彼は、俺たちの間にある障害そのものだ」修の陰鬱な声に、若子は不安を覚え、すぐに言った。「彼がいなくても、私は戻らないわ。離婚したその時点で、もう二度と振り返らないって決めたの」「それでも認めざるを得ないだろう。あいつは、俺たちの間で重要な要素だったってことを。もし彼がいなかったら、お前はまだ独り身のままだったはずだ。俺たちが彼のことで何度も争うこともなかった」「それでも認めざるを得ないだろう。あいつは、俺たちの間で重要な要素だったって
「俺が怒りに駆られるたび、いつも深刻な結果を招いてた。なぜかって?お前を追いかけて、当然のように詰め寄って、責めて、怒らせて、泣かせて、挙げ句の果てには傷つけてた。まるで俺が被害者かのように振る舞って。でも、よく考えたら、全部俺の自業自得だったんだ。俺が他の女のためにお前と離婚して、雅子に約束をして、自分の妻を捨てたんだ。それなのに、お前が遠藤と親しくすることを、俺に責める資格なんてあるわけがない」修の言葉は低く、どこか自嘲めいていた。 「たとえお前が遠藤と親しくしてたとして、それがどうしたっていうんだ。俺が先にお前を手放して、それでお前が、自分を大切にしてくれて、苦しいときに寄り添い、守ってくれる男に出会った。そんな相手に感動しない方がどうかしてるだろ?若子、お前に聞きたい。遠藤がしてくれたことに感動して、それがきっかけで、普通の友達から深い絆で結ばれた同志みたいな関係になったんじゃないのか?」若子はしばらく黙ったあと、軽く頷いた。「そうね、彼のことはすごく感動したわ」彼女の心は石ではできていない。西也が見せた優しさや献身を感じれば、それを無視することなどできない。ただ、それは愛情とは少し違う。世の中には、男女の恋愛以外にも多くの形の愛がある。家族への愛、友人への愛、そして恋人への愛。どれも愛であり、その形は一つではない。「感動、か。なんて美しい言葉だ」修は目を伏せ、静かに言った。「最初は、お前が『ただの友達』だと言ったとき、俺は信じられなかった。どうしても、お前たちの間に何かあると思い込んでた。でも、やがて気づいたんだ。俺が自分の心を汚してたから、他のすべてが汚く見えただけだったってことに。お前は、誰かに十倍の優しさを受けたら、二十倍にして返そうとする人間だ。だからお前はあいつにも優しくして、彼を気遣い、助けて、支えたんだろう。それはあいつが、お前に同じようにしてくれたからだ。俺がお前を一番傷つけたとき、そばにいてお前を守ってくれたのはあいつだった。結局、それを可能にしたのも俺だ。俺が彼にそのチャンスを与えて、最後にはお前たちを責めるという最低なことをしていた。俺は狭量で、愚かだった。お前が友達だと言うなら、どうしてお前たちがそんなに近くにいるのかと、そこに文句をつけたかった。男女の間には距離が必要だ、なんて思い込んでいたんだ。でも、数日
「でもさ、俺みたいなクズは、お前とあいつが一緒にいるところを見るたびに、どうしても『そんなはずはない』って思っちまうんだよ。たとえお前たちがただの友達だって言っても、『なんでそんなに親密なんだ?』って。自分が何をしてきたかなんて忘れて、もっと言えば、俺がどれだけお前を追い詰めたのかなんて気にもせずにさ。その時、お前がどれだけ苦しんでたか、あいつがどれだけお前に希望を与えたかも全部無視してた」だからさ、普通の友達と、苦難を共にする友達ってのは全然違うんだ。これを一緒くたにして、『普通の友達』の基準で他人の関係を批判するのは、本当に浅はかだと思う。複雑な感情を理解できない人間には、本当の友達なんてできやしない。たとえいたとしても、いずれ失うだけだ。お前たちの関係を、俺は普通の友達の基準で測ろうとしてた。それがどれだけ馬鹿げたことだったか分かってる。俺は自分の視点だけで、お前たちを狭い考え方の中に押し込めて、偏った物の見方をしていた。そしてその結果、お前を傷つけ、疑い、見下すような言葉を繰り返してたんだ。愚かで浅はかな人間って、物事を全て白か黒かでしか見られない。でも、この世界には白か黒かで割り切れないことがたくさんある。あいつはお前のために命を懸けて俺とぶつかる覚悟をしたんだ。だったら、あいつが困難に直面している時に、お前が迷わず助けようとするのは当然のことだろう。もし誰かが命がけでお前を守り、支え、心からお前を大事にしてくれる人だったとして、その人が困難に直面した時に、何もしないで放っておくような人間がいるなら、そいつは誰からも優しくされる価値なんてないよ。だって、そんな奴には誰かの愛を受ける資格がない。でも、お前は違う。若子、お前には誰からでも愛される資格があるんだ。お前が誰かに優しくされたら、それを倍以上にして返す人間だから。俺がかつてお前を大切にした時、お前は全身全霊で応えてくれた。俺にできる限りのことをした結果、今度はあいつの番になった。ただ、俺はそれを受け入れられず、何度もお前を疑い、傷つけた。自分でお前をあいつの元に追いやって、普通の友達だった関係を深めさせてしまった。そしてついには、お前たちを苦難を共にする友にして、最後には夫婦にしてしまった。もし、最初からお前を信じ抜いていたら、もし、どんな時でもそばにいる覚悟ができていたら、お前が
だが、「もしも」は存在しない。チャンスが再び訪れることもない。現実はSFドラマではないのだ。時空を越えて運命を変える機会など、どこにもない。現実はただの現実。失ったものは、二度と戻らない。それだけだ。「修......」若子の目元が少し赤くなり、震える手をそっと修の肩に近づけた。彼を慰めたかった。だが、あと数センチのところでその手を止め、再び引っ込めた。そして、静かに言った。「そんなに自分を追い詰めないで。もう全部、過ぎたことなの。時には、手放すことを覚えた方が、自分を楽にできるのよ」修は深く息を吸い込み、ハンドルから手を離して体を起こした。その目は赤く充血している。若子に向き直り、彼は軽く微笑んだ。ただ、その笑みは絶望感に満ちていた。「お前はもう、手放せたのか?」若子は小さく頷いた。「ええ、もう手放したわ。この世界には、もっと大事にすべきことがたくさんあるから」例えば、彼女のお腹にいる子ども。そして、彼女を大切に思ってくれる人々。そう言い終わった瞬間、若子は自分の言葉が少し冷たすぎたことに気づいた。慌てて言葉を補足する。「そ、そういう意味じゃないのよ。別に、あなたが大事じゃないってことじゃなくて......」「じゃあ、俺のことをまだ気にかけてるのか?」修はかすかな希望を抱いて尋ねた。「そ、そういう意味でもないわ......」若子は少し慌てた様子で、感情を抑え込むように冷静に言った。「私が言いたいのは、この世界にはあなたを気にかけている人がたくさんいるってこと。失ったものについては仕方ないの。きっと、それは最初から私たちのものじゃなかったんだと思う」彼女自身も、一時期は修を失ったことで大きな苦しみを味わった。それは、彼女の人生で一度きりの「本物の愛」を失ったような感覚だった。だが、彼女は時間をかけて手放すことを学んだ。それなのに、修の方は、ますますその執着から抜け出せなくなっているようだった。時に、終わった恋愛に対する男女の反応はまるで違う。最初、男は自由になったと感じ、解放された気持ちになる。だが、女はその時、胸が引き裂かれるような痛みを感じる。しかし、時間が経つと、男は突然虚しさを感じ始める。生活の中にぽっかりと空いた穴が見え、悲しみが押し寄せてくる。そして、それがある瞬間に爆発する。一方、女はその痛みの頂点を超えた
高峯は、息を呑んで西也を見つめた。 「お前......正気か?彼女と一緒に死ぬつもりなのか?」 「そうだ。若子が死んだら、俺も一緒に逝く」 若子は、彼のすべてだった。 「お前......」 高峯は怒りに震えながら息子を指差す。 「世の中には、女なんていくらでもいる。なぜ、そこまで―」 その瞬間― 冷たい視線が突き刺さるように感じた。 高峯が言葉を止め、振り向くと、光莉が真っ赤に腫れた目で彼を睨みつけていた。 ―パァン!! 鋭い音が響き渡る。 光莉の手が振り抜かれ、高峯の頬を強く打った。 彼女の瞳には、怒りと憎しみが渦巻いていた。 その光景を目にして、西也は驚愕した。 「俺に手を出すのはまだしも、お父さんにまで手を上げるなんて、正気か!?」 怒りを抑えきれず、彼は叫ぶ。 「いい気になるなよ!お前が藤沢家の後ろ盾を持ってるからって、遠藤家が怯むとでも思ってるのか?」 「......やっぱりね」 光莉は涙を拭いながら、吐き捨てるように言う。 「親子揃って同じクズね。口では綺麗事を言うくせに、女なんて使い捨ての道具くらいにしか思ってない。死んでもどうでもいいんでしょ?でも覚えておきなさい。もし若子が死んだら、遠藤家の誰一人として無事では済まないわ」 そう言い残し、光莉は背を向ける。 この父子と一緒にいると、息が詰まる。 これ以上ここにいれば、本当に理性を失ってしまいそうだった。 西也は、ゆっくりと高峯の方を振り返った。 ―お父さんが、殴られた? 信じられなかった。 あの光莉が、お父さんに手を上げるなんて― しかし、高峯は怒っている様子はなかった。 むしろ、彼の瞳には― 失望と、罪悪感が滲んでいた。 「......お父さん、大丈夫ですか?」 高峯は、ぼんやりとした表情で立ち尽くしていた。 「......お父さん」 西也は、眉をひそめる。 「彼女と知り合いですか?」 どうしても、腑に落ちなかった。 二人の間には、何か説明できない感情のやり取りがあった。 「西也......」 高峯は、低く言った。 「彼女を責めるな。彼女は、何も知らない」 「......は?」 西也の眉間に、深い皺が刻まれる。 「なんであんな女
高峯の姿を目にした瞬間、光莉の表情が険しくなった。 彼女は乱れた服を整えながら、冷たく言い放つ。 「やっぱり、親子そろって同じね。遠藤高峯、あんたの息子が何をしたか知ってる?若子を殺そうとしてるのよ。彼女を手術台の上で死なせるつもりなのよ!」 光莉の言葉を聞いた高峯は、すぐには信じなかった。 彼は西也のことをよく知っている。 西也が若子を殺すはずがない。 だが、息子の頬にくっきりと残る手形を見ると、光莉が西也に手を上げたことは明らかだった。 「誤解があるんだろう」 高峯は沈着に言う。 「二人とも、落ち着いて話せないのか?手を出す必要はなかったはずだ。光莉、西也は年下なんだ。なぜ、そこまで責め立てる?」 「年下?」 光莉は鼻で笑った。 「ただの雑種でしょうに」 その言葉を聞いた瞬間― 高峯の表情が一変した。 光莉がこれまでにどれだけ西也を罵ったのか、想像に難くない。 彼はすぐさま光莉の腕を掴むと、低く、鋭い声を発した。 「今の言葉、撤回しろ。西也に謝れ」 光莉は軽く鼻を鳴らし、侮蔑の目を向ける。 「彼に謝れですって?冗談じゃないわ」 高峯は怒りを押し殺しながら、ゆっくりとした口調で言った。 「いいか、光莉。今ならまだ間に合う。謝るなら、今のうちだ。後悔することになるぞ」 「後悔?」 光莉は力任せに腕を振り払い、吐き捨てるように言った。 「ええ、後悔してるわ。若子があんたの息子と付き合うのを止めなかったことをね。あんた、本当に見事な息子を育てたわね!」 西也は黙ったまま拳を握り締め、光莉を睨みつける。 怒りだけじゃない―胸の奥に、冷たい悲しみが広がっていくのを感じた。 それが何なのか、自分でも分からない。 「......!」 高峯は手を上げ、彼女を殴ろうとした。 だが― その手は、空中で止まった。 光莉は顎を上げ、不敵に笑う。 「どうしたの?親子で一緒に手を上げるの?いいわよ、殴ってみなさいよ! どうせ、私だって彼をぶったわ。やり返せば?」 高峯は、悔しそうに拳を下ろした。 「......俺は、お前に手を上げるつもりはない」 そして、低く言い放つ。 「光莉、お前は今日のことを、必ず後悔することになる」 「はははっ!」
光莉には、西也の決断がどうしても理解できなかった。 純粋に利益だけを考えたとしても、妊娠を終わらせることは西也にとってメリットしかないはずだ。 何より、これは彼の子供ではないのだから。 なぜ、西也はそこまでリスクを冒してまで、若子のお腹の子を守ろうとするのか? 普通なら、迷うことなく妊娠を終わらせるべきじゃないのか? だって― その子は修の子供であって、西也のものじゃない! 西也は、ゆっくりと頬を撫でた。冷たい眼差しを光莉に向ける。 もし彼女が女でなければ、とっくに拳を振り上げていた。 「若子を殺す気なの!?」 光莉は西也の胸ぐらを掴み、怒鳴りつけた。 「愛してるなんて口では言うけど、結局は彼女を死なせるつもりなんでしょ!?彼女のお腹にいる子はあんたの子供じゃないのよ!何を守るっていうのよ!」 西也は光莉の手を強く振りほどいた。 「お前に何が分かる?」 冷たく言い放つ。 「説明する気もない。とにかく、ここで騒がないでくれ」 この決断がどれほど辛いものか、誰にも分かるはずがない。 彼は若子のために、これを選んだのだ。 そうでなければ― 彼女は、自分がこんな残酷な選択を望んでいるとでも思っているのか? 若子は、俺のすべてだ。 もし子供がいなければ、若子は生きる気力を失ってしまう。 だから彼は子供を守る。 それは、若子を守ることと同じなのだ。 この女に、その想いが理解できるはずがない。 「......よく分かったわ」 光莉は忌々しげに吐き捨てた。 「結局、あんたは若子を死なせたいんでしょ?まさか、財産を取られるのが怖いとか?」 パァン!! 鋭い音が響き渡る。 光莉の平手打ちが、西也の頬を激しく打ち抜いた。 頬がみるみるうちに腫れ上がっていく。 西也の目が、怒りに燃え上がる。 殴り返してやりたい― そう思ったが、不思議なことにどうしても手を上げることができなかった。 まるで、何か見えない力が彼の手を止めているような感覚だった。 「やっぱりね。あんたって父親そっくりだわ。クズの血は争えないわね!このろくでなしのクソ野郎!もし若子に何かあったら、あんたを殺してやる!」 光莉がこれほど激しく怒るのは、初めてだった。 彼女の口から、
「妊娠を終わらせる以外に、母子を助ける方法はないのか?早く言え!」 西也はほとんど怒鳴り声を上げた。 医者は少し考えた後、すぐに答えた。 「もう一つ方法があります。子宮内輸血です。胎児のへその緒や胎盤に直接カテーテルを挿入し、血液を供給することで、物理的に子宮の出血を抑えます。これは胎児の生命を守るための緊急処置ですが、通常は胎児が深刻な危機に陥った場合にのみ行われます。確かに、胎児の生存率を上げることはできますが......今の妊婦さんの状態では、もし失敗すれば胎児は子宮内で酸素不足になり、死亡する可能性が高い。そして妊婦さんも助からないでしょう!」 光莉がすかさず聞いた。 「つまり、妊娠を終わらせれば、若子は助かる。でも赤ちゃんは失う。一方で、強引に胎児を守ろうとすれば、失敗した時に二人とも死ぬ、そういうことね?」 医者は静かに頷いた。 「はい。そのため、私たちは母体の安全を最優先に考え、妊娠の中止を推奨します」 だが、妊婦本人は手術前にこう言っていた。 「どんなことがあっても、絶対に赤ちゃんを守って」 今、彼女は意識を失い、判断能力を失っている。 万が一を考えて、医者たちは西也の決断を求めた。 「西也!」 光莉は彼の腕を強く掴んだ。爪が食い込み、彼の筋肉に沈むほどの力で。 「何をぼんやりしてるの!?早く若子を助けなさい!こんなこと、迷う必要ある?早く決めなさい!」 光莉の焦りは頂点に達していた。 もし自分が決定権を持っていたなら、すぐにでも妊娠を終わらせるよう指示したはずだ。 だが、決定できるのは西也だけ。 彼らは法律上の夫婦だった。 若子のお腹の中にいるのは、自分の孫だ。 しかし、それでも―彼女の命こそが最優先。 子どもを守るために、母子ともに失うなんて、そんなことは絶対にあってはならない。 光莉の心は、燃え上がるような焦燥感で満たされていた。 ―その時、西也の脳裏に、若子の言葉がこだました。 「赤ちゃんがいる限り、私は生きていける。でも、目が覚めて赤ちゃんがいなかったら、私も生きていけない」 西也は、痛む頭を抱えるように目を閉じた。 「遠藤さん、早く決めてください!時間がありません、母体が持ちません!」 医者が焦燥を滲ませながら、彼を急かす。 「
光莉は冷たい視線を向けた。 「遠藤西也......結局、あなたは若子を独占したいだけでしょう?彼女が本当にあなたを愛していると確信してるの?」 西也は拳を握りしめた。 「彼女が僕を愛していようが、そんなことはあなたには関係ありません。 今、若子は手術を受けてるんです。たとえ無事に終わったとしても、術後の体調は良くないはずだ。そんな彼女に、藤沢が行方不明だと伝えるつもりですか?それで彼女を絶望させて、追い詰めるつもりですか?」 西也の声には、はっきりとした怒りが滲んでいた。 「あんたたち藤沢家の人間は、若子のことなんて何も考えていない。もし本当に彼女を大事に思っているなら、ここに来るべきじゃなかった! あんたたちの『愛』っていうのは、ただ彼女を縛り付けることだけだ。でも、彼女にとって本当に必要なのは、解放されることだ......いつになったら気づくんだ?」 光莉は冷笑する。 「言葉巧みに論点をすり替えようとしても無駄よ。若子と藤沢家のことに、あなたが口を挟む権利はない。あなた、記憶を失ってるのよね?じゃあ、なぜ若子があなたと結婚したのかも忘れたんじゃない?」 ―彼女と西也の結婚は、ただの「偽装結婚」だった。 なのに、この男は本気で「夫」のつもりで若子を支配しようとしている。 「......」 西也の拳が、ギリギリと音を立てた。 「たとえどんな理由があろうと、若子は僕の妻です」 低く、はっきりとした声で言い切る。 「僕は彼女を守ります。愛する......一生」 彼の目は、鋭く光莉を見据えた。 「藤沢家とは違う。彼女の両親を死なせておいて、その罪悪感を誤魔化すように育て、感謝しろと押しつけ、挙句の果てに『藤沢家の嫁』として藤沢修に押し付けた。彼女がどれほど傷ついたか、あなたたちには分からないでしょう?」 「......!」 光莉が何か言い返そうとしたその時― 手術室のドアが開いた。 医師が急ぎ足で出てくる。 「遠藤さん!」 西也はすぐに立ち上がった。 「どうなった?」 医師の表情は険しい。 「予想以上に状況が悪化しています。手術中に合併症が発生しました。妊婦の子宮頸部から出血が続いており、現在、昏睡状態です。最善の方法は、妊娠を中断することです。 さもないと、子
「はい。彼に会いに行ったせいで体調を崩し、今朝緊急手術になりました。息子さんは、夫だった頃も、元夫になった今も、彼女にとってはただの負担でしかないね」 光莉は西也とこれ以上話す気になれず、無言のまま通話を切った。 ―30分後。 光莉が手術室の前に現れた。 それを見た西也は、ゆっくりと立ち上がる。 「......どうしてここに?」 光莉は腕を組み、きっぱりと言った。 「若子は私にとって娘みたいなものよ。彼女が手術を受けているのに、来ないわけがないでしょう?それより、あなたの家族はどうなの?結婚したんでしょう?あなた以外に誰も来ていないじゃない」 西也は無表情で言い返す。 「僕がここにいれば十分です。彼女の夫は僕ですから。他の誰が来ようと、関係ありません。それに、若子の手術は予定より早まったんです。まだ誰も知らないだけです」 そして、皮肉げに唇を歪めた。 「......とはいえ、すべての原因は、伊藤さんの息子ですよ。若子は昨夜、命をかけて彼に会いに行った。そのせいで体調を崩し、今こうして手術を受けているんです。あなたの息子は、本当に疫病神ですね」 光莉は鼻で笑った。 「そう?じゃあ、若子が昨夜修に会いに行ったことを知ってるのよね?それなら、二人が何を話したのかも知ってるの?」 「さあ、そこは息子さんに聞いてみたらどうです?」 西也は冷ややかに言い放つ。 「若子は命がけであいつのもとへ行った。それなのに、彼は一言も返さなかった。結局、彼女は扉越しに話すしかなかったんです。もし本当に彼が彼女との縁を切るつもりなら、きっぱり断ち切るべきです。もう二度と若子の前に現れないでほしい。彼女をこれ以上、傷つけないでください」 光莉は眉をひそめる。 「修が若子を無視したのは当然よ。だって、修は病室にいなかったんだから」 「......」 その言葉に、西也の胸がざわめく。 ―やっぱり、俺の予想通りだ。 藤沢は、若子の言葉を何一つ聞いていない。 彼女がどれだけ必死に語りかけても、彼には届いていなかったのだ。 西也は最初、違和感を覚えていた。 あの男が、若子の妊娠を知って何の反応もしないなんて、そんなことがあるはずがない。 だが、彼が病室にいなかったとすれば― 彼は、何も知らないままな
西也は深く息を吸い込んだ。 その瞳は、ますます赤く染まっていく。 ―これは、過去の話だ。 全部、昔の記録。 あの頃、若子と修は夫婦だったんだから、こういうやりとりがあるのは当然だ。 怒る必要なんて、どこにもない。 ―だって、今の若子は俺の妻なんだから。 これから先、若子と過ごす日々は、すべて俺だけのものになる。 あいつとの思い出なんか、もう増えることはない。 ......けれど。 ―若子、お前はどうして離婚したのに、こんな記録をまだ残してる? 捨てきれないのか? 夜、一人で寂しくなったとき、このチャットを見返して、あの頃を思い出してるのか? ―あいつとの時間が、そんなに幸せだったのか? ならば、これからお前を満たすのは、俺だ。 心も、体も、完全に俺のものにする。 俺たちには、俺たちだけの子どもができる。 若子、お前は俺の女だ。 西也は天井を見上げる。 神様、どうか若子と子どもを守ってくれ。 俺は藤沢を心の底から憎んでいる。だが、若子が産む子どもは、俺が大事にする。 ......なぜなら、その子は、いずれ俺のものになるから。 彼のものだった女も、彼のものだった子どもも、すべて俺のものになる。 そして、彼はただそれを見ているしかない。 苦しみながら、一生。 彼が大切にしなかった女を、俺が大切にする。 彼が捨てたものを、俺が拾う。 それなのに、後悔したからって許されると思うなよ。 間違ったことは、間違いなんだ。 どれだけ悔やんだところで、どれだけ償おうとしたところで、過去は変わらない。 他の女を選んだのは、彼自身だ。 だったら、若子に未練を持つ資格なんて、もうない。 ―たとえ、命を懸けて若子を取り戻そうとしても、関係ない。 俺だって、命をかけられる。 俺はいい人間じゃない。 でも、少なくとも、俺は若子を裏切らない。 他の女のために、彼女を傷つけたりしない。 すべては、若子のため。 俺は、若子を愛してる。 もし、いつか俺が変わってしまったとしても...... それは、愛しすぎたせいだ。 時間が、ゆっくりと過ぎていく。 西也は焦燥を滲ませながら、手術の終わりを待ち続けた。 すると、突然、スマホの着信音が鳴っ
若子が手術に同意すると、すぐに医療スタッフが病室のベッドを押して移動を始めた。 西也は若子のスマホをポケットにしまいながら、ずっと彼女の手を握りしめていた。 「若子、心配するな。俺はずっと外で待ってるから。どこにも行かない。お前も、子どもも、絶対に無事だ」 「西也......忘れないで。何があっても、子どもを守って。私が息をしている限り、この子は私のお腹の中にいなきゃいけない。無事に産まれるまで、絶対に」 「......ああ、約束する。絶対に守る」 西也は若子の顔を両手で包み込むようにして見つめた。 そして、手術室の前に着くと、医者に止められた。 「先生、ちょっと待ってくれ」 そう言って、スタッフがベッドを止めると― 西也は身を屈め、若子の額にそっと口づけた。 彼女の瞳から、静かに涙が流れる。 どんな時も、そばにいてくれたのは西也だった。 ―私は、彼に借りができすぎている。 この先、一生かかっても返せない。 西也は深く彼女を見つめ、「待ってるからな」と囁く。 若子は静かに頷いた。 次の瞬間、医療スタッフがベッドを押し、彼女は手術室へと消えていった。 西也はその場で数歩後ずさり、そのまま力なく椅子に腰を下ろす。 ポケットから、若子のスマホを取り出した。 ロック画面を見つめながら、彼女が教えてくれたパスコードを思い出し、解除する。 ―整然としたホーム画面。 派手なアプリもなく、妙なメッセージもない。 写真フォルダを開くと、最初に並んでいるのは風景写真ばかりだった。 しかし、スクロールしていくと― そこには、修と一緒に写った写真が大量にあった。 二人寄り添い、抱き合い、まるで幸せの象徴のような笑顔。 ―クソが。 西也は眉間に皺を寄せる。 今すぐ削除したい衝動に駆られたが、ギリギリのところで踏みとどまった。 代わりに、二人の過去のメッセージを開く。 特に、離婚前のやりとりを。 そこには、夫婦としての甘いやりとりが残っていた。 「今日は修の26歳の誕生日だよね。早く帰ってきてね。サプライズがあるんだから!」 「サプライズ?」 「教えないよ。教えたらサプライズにならないでしょ?だから聞かないで」 「わかった、聞かない。でも、もし期待外れだっ
医者の表情が険しくなるのを見て、若子は不安になった。 「先生......何か問題でも?」 医者は聴診器を首にかけ、真剣な声で言った。 「心拍が少し遅くなっています。横になって、もう少し詳しく診察させてください」 若子は頷き、大人しくベッドに横になる。 医者はそっと彼女の腹部に手を当て、ゆっくりと圧をかけるように触診していく。 しかし― 「......っ!」 突然、若子が鋭い痛みを訴えた。 「痛い!」 医者は眉をひそめる。「ここを押すと、まるで針で刺されるような痛みがありますか?」 若子は小さく息を飲みながら頷く。 「......はい、すごく痛い......どうして?」 医者の表情は一層厳しくなった。 「症状が進行しています。緊急手術が必要です」 「......何だって?」 西也がすぐさま声を上げ、険しい顔になる。「どうしてこんなことに?」 医者は西也を見て尋ねる。「患者さんは昨夜、しっかり休めていましたか?」 「それは......」 西也は若子をちらりと見るが、すぐには答えなかった。 若子が自分で答える。「昨夜は少し外出しました。でも、車と車椅子で移動しただけで、無理なことは何もしていません」 医者はため息をつく。「松本さん、私は前にもお伝えしましたよね。体を動かさなくても、精神的な負担が影響を与えることもあるんです。今すぐ手術をしないと、危険な状態になります」 医者の厳しい口調に、若子の心臓がぎゅっと縮まる。 彼女はそっとスマホに視線を落とした。 「......でも、せめて十時まで待つことはできませんか?」 「確かに手術は十時予定でした。しかし、今は緊急性が増しています。時間を延ばせば、それだけリスクが高まります。これはあなたと赤ちゃんの命に関わる問題です。十時まで待つことが、どれだけ危険なことかわかりますか?」 医者の言葉に、若子は息苦しさを覚えた。 「でも......」 彼女はまだ待ちたかった。修からの電話を。 もし今手術を受けたら、修が電話をかけてきても、出られなくなる。 そのとき、西也がすっと若子の手を握った。 「若子、今は子どものほうが大事だ。これ以上、先延ばしにするな」 西也の声は真剣だった。 「ちゃんと手術を受けてくれ。