車内の沈黙が続く中、光莉はふと若子の顔を覗き込んだ。「何かあったの?世界が終わったような顔してるわよ」「いえ、そんなことないです」若子はぎこちなく微笑み、視線をそらした。「ただ、ちょっと緊張しているだけです」西也のことを光莉に話しても仕方がない。きっと取り合ってもらえないどころか、怒られるのがオチだ。「ふーん。でも、もし修が昨日あんなに酔っ払った理由が、あんたが何か言ったせいなら、それは少し問題かもね」若子はハッとしたように顔を上げる。「昨日、修がそんなに酔ってたんですか?」光莉は短く頷き、ハンドルを握りながら続けた。「ええ、夜中にうちに来たのよ。どれだけ飲んだのか知らないけど、フラフラで、まともに歩けない状態だった。しかも、ずっと『若子が俺を嫌っている』『若子は俺をもういらない』って、酔いどれの戯言みたいに繰り返していたわ」若子の顔に驚きが広がり、言葉が詰まる。「そんな......本当ですか?」「嘘ついてどうするのよ」光莉の声には少し苛立ちが混じっている。「朝は言わなかったけど、結局伝えた方がいいと思ったの。だって、あれは明らかにあんたが原因で酔っ払った様子だったもの」「でも......」若子は目を伏せ、かすかな声で答える。「昨夜ちゃんと話したんです。私、彼が私を愛してないって分かったんです。それに…もしかしたら、修は桜井さんのことで心配してたのかもしれません」「桜井が心配で酔っ払った?」光莉は鋭く問い返す。「そんなのありえないわよ。彼が酔った理由は全部、あなただって分かるわ。あの子がずっと呼んでたのは、あなたの名前だけだったんだから。彼があんたを愛してない?そんなの、私は信じない。むしろ彼があなたを愛してるとしか思えない!」光莉はイライラしてた。あの二人のぐずぐずした様子を見ているだけで、殴りたくなってきた。しかも、本気でボコボコにしてやりたいくらいに!その瞬間、若子は急に体を硬直させた。胃のあたりからせり上がってくる不快感が彼女を襲い、顔色を失った。「お母さん、車を止めてください!」「どうしたの?」「早く止めてください!吐きそう!」彼女は口を押さえながら、必死に気持ち悪さを堪えていた。光莉は慌てて車を停めた若子は急いでシートベルトを外し、車から飛び出して道端にしゃがみ込み、吐き気を抑えきれなかった
「お母さん、もうそんなこと言わないでください!修は私を愛してなんかいません!」若子は声を荒げ、感情が抑えきれなくなった。「もし修が私を愛していたなら、桜井さんのために離婚しなかったはずです。私を何度も傷つける選択なんてしなかった。だから、修は私を愛してないんです!」「だって修はただのバカだもの!」光莉は言い放つ。「あの子は幼いころに愛情を知らなかったから、愛が何かなんて理解してないのよ。自分の気持ちすら整理できないくせに!だから今日、私はあの子と話すつもり。あんたたち二人を会わせて、はっきりさせる。修が本当に誰を愛しているのか!」「お母さんが修と話すのは、そのためだったんですか?」若子は数歩後ずさりし、首を横に振った。「無理です。修と会うなんてできません。もうお互い別々の人生を歩むって決めたんです。私は行けません!」「待ちなさい!」光莉は若子の腕を掴んだ。「何を怖がってるの?ただ会うだけでしょ?」「修は私を愛してない。会ったところで恥をかくだけです。もう桜井さんのために私を捨てた人なんです。どうしたって無理なんです!」若子の心は痛みで溢れていた。修を愛している気持ちが消えないのに、それでも彼を取り戻そうとは思えなかった。「もしあいつがあんたを侮辱したら、私があいつを殴る!もう一度チャンスを自分にあげなさいよ。あんたも苦しんでるし、修も同じ。見ていて辛いのよ。あんたたちが私と修の父親みたいになるのを見たくない。でも、あんたたちは私たちとは違う。二人にはちゃんとした愛情があるじゃない!」普段は冷たい言葉が多い光莉だったが、今回はその目に涙を浮かべていた。かつての痛みを思い出し、若子の苦しみに共感していたのだ。「愛情?」若子は首を大きく振った。「そんなの何になるんですか?本当にそんなものがあるなら、桜井さんなんて存在しなかったはずです。お母さん、ごめんなさい。でも、もし修と会うためにここに来たのなら、私は行けません」「若子!」光莉はその背中に向かって声を張り上げた。「これが最後よ!せめて修が何を言うのか聞きなさい。よく考えてみなさい、あの子がはっきり『愛してない』なんて言ったことがある?」「修が何を言ったかなんて重要じゃありません。一番大事なのは、彼が何をしたかです。それだけ見ていればわかります」若子の声は震えていた。「だから、もう
若子は、再び修との思い出が詰まった家へと足を踏み入れた。ここはかつて彼らが新婚生活を送った場所で、内装のスタイルもすべて若子の好みに合わせていた。あの一年間、二人はここで幸せな日々を過ごしたのだ。けれど、家はそのままでも、そこに住む人たちは変わってしまった。広々としたリビングに入ると、光莉の視線がソファに座っている曜に向いた。「どうしてあんたがここに?」曜は立ち上がり、スーツの襟を軽く整えながら姿勢を正した。中年に差し掛かっても、彼は見た目に気を遣うことを忘れない。まるで大人の魅力を誇る財閥ドラマの主役のようで、その場にいるだけで圧倒的な存在感を放っていた。「光莉、お前たちもここに来るなんて思わなかった」と、曜は言った。光莉は眉をひそめ、不安を感じ始めた。そのとき、修が部屋の奥から姿を現した。「俺が父さんを呼んだ」白いシャツに黒のスラックスというシンプルな装い。疲れが見える顔でも、彼の端正な容姿は目を引く。そして、その鋭い視線が若子に向けられる。若子は視線をそらしかけたが、光莉の言葉を思い出し、ほんの少し顎を上げて修を見返した。逃げちゃだめ。怯えたら、まだ修を愛していると認めることになる。彼への想いを断ち切るには、まず正面から向き合うしかない。「どうしてお父さんを呼んだの?」光莉が問い詰める。「今日は三人で話すはずじゃなかった?」「父さん、母さん」修は両親を見渡しながら言った。「今日は、どうしても伝えたいことがあるんだ。それを二人に見届けてほしい」「そう」光莉は若子の手を握り、彼女を一歩前に押し出した。「なら早く言いなさい。ぐずぐずしてる暇はないわよ。こういう機会は一度きりなんだから」その言葉には明らかな意図が込められていた。修も母親の言いたいことを理解しているはずだった。若子は胸の奥に不安を感じながら、修が両親を呼んだ理由を考えた。もしかして、自分に関する大切な話?期待と不安が入り混じり、どうしてもその答えにたどり着けない。逃げ出したい気持ちをこらえると、光莉がそっと腰を押さえ、耳元でささやいた。「何を怖がってる?」若子は鼓動が早くなるのを感じた。ちらりと修を見れば、修も彼女をじっと見つめていた。その目は深く、何かを隠しているような複雑な感情が宿っている。修は何
「若子が好きな料理ばかりで、私の好きなものはないのか?」光莉はわずかに不満げな声を漏らした。修は顔を上げ、冷静な表情のまま答えた。「お母さんが何を好きか、俺は知らない。お母さんは教えてくれたことがないし、俺たち一緒に食事をする機会なんてほとんどなかっただろ。」その冷めた言葉に、光莉の顔が一瞬強張った。修は特に気にする様子もなく、再び若子の皿に料理を取り分け始める。若子は修の真剣な横顔をじっと見つめていた。胸の奥が締め付けられるような気持ちになる。どうしてこんなに矛盾しているんだろう。一方では彼女を傷つけながら、一方ではこうして優しさを見せる。耐えきれず、若子はそっと箸を置いて席を立った。 「少しお手洗いに行ってきます」彼女がレストランを出ると、光莉は修に問いかけた。「修、どうしてそんなに若子に近づくの?」その問いには暗に何か含まれているようだった。「彼女が俺を助けてくれたんだから、これくらいしてもおかしくないだろ?礼には礼で返すってだけだよ」修はそう言い訳するが、その理由はあまりにも稚拙だった。「彼女が助けた?」光莉が鋭い目で問い返す。「お前が言ってるのは、あの日、私の家で夜遅くまで瑞震の資料を調べてたことか?」母親の挑発的な視線を受けながら、修は顔をわずかにしかめた。「SKグループは瑞震に足を引っ張られるのを避けられた。それに、俺が瑞震を空売りして大儲けした。それって大きな助けじゃないのか?」光莉は短く「ええ」と答えたあと、さらに続けた。「確かにそれは助けになった。でも......」「でも何?」修が追及するように尋ねる。光莉は眉を少し持ち上げ、皮肉な笑みを浮かべた。「ただね、誰かさんは小心者で、自分の気持ちすら正直に言えない。それで他人を傷つけてばかりなんだから」修はその言葉に反応するように箸を置き、硬い口調で言った。「それ、若子が言ったのか?」光莉は自分の目元を指さしながら、冷静に言い放つ。「この目で見たのよ。彼女が一日中悲しそうにしてたの、誰のためだと思う?犬のため?」曜はそのやりとりを黙って聞いていたが、完全に話についていけず、箸を持ったままぽかんとしていた。だが、彼は何も言えなかった。修は突然立ち上がると、無言のままレストランを後にした。「ちょっと修、どこへ行くんだ?」曜が不安
修の記憶を辿っても、若子が「愛していない」と明言したことは一度もなかった。もっと言えば、「愛している」とも一度も口にしていない。それが、修にとっての謎だった。彼女は本当に愛していないのか、それとも彼の想像に過ぎないのか。彼女との結婚生活が不幸だと勝手に思い込んでしまったのではないか。若子は胸の奥に酸味がこみ上げるような感覚を抱き、修を見上げた。唇の端を上げ、皮肉げな笑みを浮かべる。 「何がしたいの?今さら私にこんなこと聞いて、何を求めてるの?」「お前の本当の気持ちを知りたい。それだけだ」 修は彼女の耳の両脇に手を置き、彼女を自分の腕の中に閉じ込めるように囲んだ。そして彼女に顔を近づけながら低く言う。彼は若子よりずっと背が高く、話しかけるときに自然と顔を少し下げて、彼女との距離を詰める。「だから、今教えてくれ。お前の俺に対する本当の気持ちは何だ?正直な答えが聞きたい」若子は答えない。ただ、沈黙が二人の間に降り注ぐ。修は、若子が考えていることが分からなかった。若子もまた、修の考えが全くわからなかった。彼らはお互いの心の内を理解していない。いや、理解できないと言ったほうが正しいかもしれない。 しかし同時に、二人の間には何かを今すぐにでも打ち破らなければならないという緊張感が漂っていた。それでも、その「何か」を打ち破ることを恐れている。そんな曖昧な状態が続き、次第に誤解が重なっていくばかりだった。「真実を聞きたいの?」若子が静かに問いかける。「もし本当のことを言えば、何かが変わるの?」「言わなければ何も変わらないだろう」修は眉間にシワを寄せたまま、言葉を続ける。「若子、お前は俺に隠し事が多すぎる。もう全部話せ。本当の気持ちでも、俺に隠してきたことでも、全部だ」修自身、若子に関する大事なことを知るタイミングが、いつも自分だけ最後だという現実が悔しかった。それどころか、外野のはずの西也ですら、自分よりも多くのことを知っているのだ。若子は目を伏せ、軽くため息をついた。この男は、自分の本心を知りたがるくせに、決して自分からリスクを冒そうとしない。離婚した後になってから、自分の気持ちを問いただすなんて、滑稽だとしか思えなかった。「いいわ。全部話してあげる。でも、ひとつ条件がある」「条件?」修は、若子を見つめたまま問い
修の両手が彼女の肩を掴む力が徐々に緩み、やがてそっと離れた。「本気で俺に彼女との縁を切らせたいのか?」「それは私が望んでいるかどうかじゃない。ただの条件よ。できるかどうかはあなた次第」彼女の冷静な口調の裏には、自分でも気付かぬほどの揺れが潜んでいる。修がこの条件を飲むとは思えなかった。むしろ、彼の口を封じるために提案したに過ぎない。彼に真実を話して何になる?どうせまた雅子のもとに戻るのだろう。その未来を想像するだけで、若子の胸は鋭く痛んだ。せめて、自分だけが抱えている秘密を最後の砦にしておきたかった。修は伏せたままの目をゆっくりと上げ、目の前の若子をじっと見つめる。その深い眼差しが、彼女の心をかき乱す。 「もし......俺が本当に彼女と縁を切ったら」 修の唇が若子の頬に近づき、熱を帯びた彼の息遣いが彼女の肌をかすめる。 「お前は、俺とやり直すか?」若子の手が無意識に服の裾をぎゅっと握りしめる。彼の吐息の近さに、全身が強張った。彼女はなんとか冷静を装いながら、顔を横に向けて修の視線を避ける。「修、もうやめて」 彼女の声は微かに震えていた。「そんな意味のない質問を繰り返さないで」「どうして意味がないと言える?」修はまっすぐに言い返す。「お前の条件は、俺が雅子と縁を切ることだろ?だったら聞かせてくれ。もし俺がそれを飲んだら、お前は俺と復縁するのか?」修の真剣な声が響くたびに、若子の胸が締め付けられる。彼の真剣さに圧倒され、若子は思わず修を見つめ返した。一体、どういうつもりなの―?彼女が最初に予想していたのは、この条件が修に即座に拒絶されることだった。雅子を手放すなんて、修が考えるわけがない。それどころか、一瞬も迷わずに却下するだろうと。だが、目の前の修の様子は違った。彼は本当にこの条件について考えているようだった。―この人、何を考えているの?若子の心は混乱した。修は本当に自分との復縁を望んでいるのか、それともこれはただの皮肉なのか。若子は唇を噛み締めて、感情を抑えながら口を開く。 「私が聞いた質問、まだ答えてないよね。それなのに今度は私に問い返してくる。こんなふうにぐるぐる回ってばかりで、何一つ答えが出ない。だったら、もう何も言わなくていいから、ここから出して」彼女は修を力いっぱい押した。しかし、修
若子は静かに修を見つめた。この男は、まだ彼女に何を言わせようとしているのだろう?怒りを爆発させて、彼を罵倒し、感情をぶつける姿を期待しているのか?愛していない女性に発狂させることで、男としての優越感を得ようとしているのだろうか?修は壁に置いていた両手を静かに下ろし、一歩後ろに下がった。二人の間には微妙な距離ができ、彼の目には何とも言えない暗い影が宿る。低い声で、彼は口を開いた。「言いたくないことがあるなら、そのまま墓場まで持っていけばいい。お前の言う通り、聞いたところで、結果は変わらないんだろうから」若子の拳が自然と固くなった。心の奥から怒りが沸き上がり、彼女は歯を食いしばった。この男は、まるで彼女を弄ぶように振る舞う。彼の思うままに感情をかき回され、放り出され、そしてまた突き落とされる。彼の無邪気を装った仕草や無関心な態度が、彼女の心をこれでもかと傷つける。それが藤沢修だ。それが彼女が何年も愛し続けてきた男だ。若子の手が勢いよく振り上がり、そして大きな音と共に修の頬を打った。 パシン!音が響いた瞬間、修の顔に痺れるような感覚が広がる。手で軽く頬を押さえ、彼は無表情で若子を見返した。まるで、何事もなかったかのように静かだ。若子の手のひらは痺れ、痛みが走った。まるで心の中の怒りがそのまま掌に宿ったかのように、痛みが収まらない。彼女はその場で叫び出し、修に飛びかかってしまいたい衝動に駆られた。だが、彼女はその感情をぐっと飲み込み、勢いよく洗面所のドアを開けて外へ出た。これ以上ここにいたら、本当に何もかも失いそうだった。彼女のプライドも、最後の一片の理性も。若子はレストランへ戻った。顔には平然とした表情を保ち、何事もなかったかのように振る舞う。だが、心の中ではここに留まることすら苦痛に感じていた。若子は意を決して、光莉の元へ向かい、静かに声をかけた。「お母さん」光莉は若子の顔色が少し青ざめているのに気づいた。先ほど入って行った時と明らかに様子が違う。「どうしたの?」「先に帰りたいです」若子は小声で答えた。「今帰るって?」光莉は驚いたように言った。「まだ食事も終わってないのに」「お母さんはここで食事を続けてください。私は一人で帰ります」若子の声にはいつも以上に強い意志が感じられた。彼女は一刻
修が黙って若子を見つめ続けているのに気づいた光莉は、すっかり苛立っていた。その目には容赦のない光が宿り、厳しい声で怒鳴った。 「何でもいいから早く言いなさい!」本当に、もうイライラする!一方、曜はビクリと体を震わせた。驚いたように光莉を見つめた後、その目にはなぜか感激の色が浮かぶ。まるで憧れのスターを目の前にしたかのようだ。―かっこいい......なんて堂々としてるんだ......内心では彼女に完全に支配され、遊ばれてみたいという邪な欲望が膨らむ。スーツ姿で一見厳格そうな曜だったが、その胸の奥には、こんな低俗でひねくれた思いが潜んでいるとは、誰も思いもしなかった。人間も動物である以上、社会的な道徳や規律があっても、ときには原始的な本能が顔を出す。たとえば、ムチで誰かを打ちたいとか、逆に、誰かに打たれてみたいとか。若子はそんな曜の内心など知るよしもなく、修と光莉を見比べていた。 どうやらこの二人、もう特に関係を深めるための努力を必要としていないらしい。光莉が修を叱りつける様子は、どこからどう見ても普通の母親そのものだった。そこに疎遠さや後ろめたさは感じられない。修もまた、母親に責められてもまったく怒る気配はない。彼はわずかに視線を落とし、長い睫毛が陰を作る。沈んだ表情で口を開いた。 「三日以内に、俺は雅子と結婚する。今、ドレスをオーダーして結婚式の準備を進めている。式には皆に来てもらいたい。もちろん、若子は来なくてもいい。ただ、もし来るならちょうどいい。雅子には付き添いの人が必要だからな」場の空気が一瞬にして凍りついた。重苦しい沈黙が押し寄せ、息苦しささえ感じるほどだった。若子はふいに頭がクラクラしてきた。修が何を言おうと、もう彼女には関係ないはずだった。意識しないようにしなければならないのに、彼の口から出る一言一言が、彼女の心を深く抉る。それは、いつもそうだった。修の言葉を聞き、若子は信じられない気持ちでいっぱいだった。付添人が必要だから、前妻にその役を頼む―これほどの言葉をよくも口にできたものだ。どこまで自分勝手で、どれだけ人の気持ちを踏みにじれるのか。若子は表情すら作れず、呆然としていた。その場で何かを言うこともできず、ただ無力感に苛まれるばかりだった。「お前、正気か?」曜が突然テーブル
若子は、これほどまでに狂気じみた修の姿を見たことがなかった。本当に、理性を失い、正気ではないように見えた。だが、彼の瞳に映る感情だけは、あまりにも真実味があった。「分からない。私には本当に分からない。どうしてこうなるの?あなたは私が愛していないと思っているけど、じゃあ聞くけど、あなたは10年間、私を愛していたの?たった一瞬でも......」「愛してる!」その言葉を、修はほとんど叫ぶように吐き出した。熱い涙が彼の瞳から溢れ出し、頬を伝って落ちていく。彼は若子を力強く抱きしめ、その体をまるで自分の中に埋め込むかのように押し付けた。「どうして愛していないなんてことがあるんだ?俺はお前をずっと愛してる。お前を妹だなんて思ったことは一度もない。あれは嘘だ。本心じゃないんだ。お前は俺の妻だ。どうして妻を愛さないなんてことがある?」修は目を閉じ、彼女の温もりを感じ、彼女の髪の香りを嗅いだ。その香りに、どれほど恋い焦がれていたことか。離婚してから、彼女をこうして抱きしめることも、近くに寄ることもなくなってしまった。ずっとこうして抱きしめていたい。永遠に、この瞬間が続けばいいのに。彼は本当に彼女が恋しかった。狂おしいほどに、会いたかった。だから、もう我慢できなかった。こうして彼女を探しに来たのだ。若子の涙は、堰を切ったように溢れ出した。ついに抑えきれなくなり、激しく泣き崩れた。彼女は拳を握りしめ、力いっぱい修の肩や背中を叩き続けた。「修!あんたなんて最低よ!本当に最低の男!」彼女が10年間愛し続けた男。彼女を深く傷つけたその男が、今になって愛していると言う。そして、離婚は彼女のためだったなどと言い出す。なんて滑稽なんだろう。「俺は最低だ。そうだ、俺は最低だ!」修は目を閉じたまま、苦しそうに声を震わせた。「俺はただの最低な男で、それにバカだ。お前を手放すなんて。若子......俺のところに戻ってきてくれないか?頼むから、俺のそばに戻ってきてくれ!」「いや、いやだ!」若子は泣きながら叫んだ。「あんたなんて大嫌い!どうしてこんなことができるの?私がどれだけ時間をかけて、あなたに傷つけられた痛みを乗り越えようとしたと思ってるの?それなのに、今さら突然愛してるだなんて言い出すなんて、本当に馬鹿げてる!私はあなたが嫌い、大嫌い!」「
若子は鼻で冷たく笑った。「それなら、どうして私のところに来たの?そんなことして誰が幸せになるの?彼女が目を閉じるとき、後悔のない人生だったなんて思えるとでも?」彼たちの間には、常に雅子の影が立ちはだかっていた。修の瞳には深い痛みが宿り、じっと若子を見つめていた。長い沈黙の後、その目には複雑で濃い感情が溢れ出していた。「お前が選べと言ったんだろ?」修は彼女の顔を強く掴みながら言った。「今ここで選ぶよ。俺はお前を選ぶ。雅子のことは気にするな。後のことは全部俺が背負う!俺のせいで起きたことなんだから」若子は目を閉じ、悲しみに満ちた声で答えた。「修、もう遅いの。今さら選んでも、もう遅いのよ!」込み上げてくる悲しみが彼女を覆い、堪えきれず泣き崩れた。「泣かないでくれ」彼女の涙を見た修は、ひどく動揺し、慌ててその涙を拭おうとした。だが、涙は次から次へと溢れ出て、拭いても拭いても止まらなかった。「どうして遅いって言うんだ?あの日俺が言った言葉のことをまだ怒ってるのか?あれは本心じゃない。雅子が死にそうだったから、他に選択肢がなかったんだ。だから俺はクズのフリをして、お前に恨まれた方が、俺のために涙を流されるよりずっとマシだと思ったんだ」「じゃあ、今は選択肢があるの?」若子は涙声で問い詰めた。「どうしてあの時は選べなかったのに、今になって私を選ぶと言うの?それなら私がもう悲しまないとでも思ってるの?修、あなたは変わりすぎる!今日私を選んだとしても、明日また桜井雅子を選ぶんじゃないの?それとも、山田雅子でも佐藤雅子でもいいわけ?」彼の言葉があまりにも信用できなくて、彼女は恐怖すら感じていた。「そんなことはしない!」修は力強く言った。「お前が俺と復縁してくれるなら、絶対にそんなことはしない。お前が少しでも俺を愛してるって感じさせてくれるなら、俺は変わらないって誓う!」「修、あなたは本当におかしい!完全に狂ってる!」若子は彼の言葉に圧倒され、声を失いかけながら叫んだ。「あなたは本当にどうかしてる!」「そうだ、俺は狂ってるんだ!」修は今にも壊れそうな目をしていた。「俺は雅子と結婚して、彼女の最後の願いを叶えようと思っていた。でも、今日、お前を見てしまったんだ。遠藤と一緒にリングを選んでいるところを見てしまった!あいつと結婚するつもりか?俺
若子は修の言葉に完全に圧倒された。彼女の目は大きく見開かれ、驚きの表情を浮かべたまま、まるで時間が止まったかのように固まってしまった。しかし、その呆然とした瞬間は一瞬だけだった。すぐにそれは消え去り、代わりに強烈な皮肉が心に湧き上がってきた。「修、それじゃつまり、こういうこと?この全部があなたと桜井さんの関係とは全く無関係で、ただ私があなたを愛していなかったから、あなたは寛大な心を持って私を解放し、私を幸せにしようとしたってこと?」そう言いながらも、若子はその考えがどれほど滑稽であるかに自分でも呆れた。だが、修の言葉から察するに、彼の言い分はまさにそういうことのようだった。修は突然彼女にさらに近づき、かすれた声で問いかけた。その声には沈んだ悲しみが滲んでいた。 「もしそうだと言ったら、お前は俺に教えてくれるか?お前が俺を愛したことがあるか、ないかを」「修、結局またこの話に戻るのね。あなたが私を愛したかどうかを問うけど、それが分かったところで何になるの?もし私が愛していなかったと言えば、あなたはすべてを私のせいにできるわけ?もし愛していたと言ったら、あなたは桜井さんとの関係を断ち切るって言うの?」「断ち切る!」修の声は強く響き渡り、その決意には一片の迷いもなかった。若子の世界はその瞬間、音もなく静止した。まるで周囲すべてが止まったように感じた。目の前の修さえも、彼女の視界では動きを失っていた。彼が言った「断ち切る」という言葉が、彼女の心の奥深くに黒い渦を巻き起こし、全てを吸い込んでいった。その渦は暗闇の中で果てしなく広がり、無音の恐怖と衝撃だけを残していた。現実感を失う一瞬、若子はこれが夢であると思い込もうとした。だが、不安定に鼓動する心臓、乱れた呼吸、そして目の前にいる修の燃えるような視線。それらすべてが、彼女にこれが現実であることを告げていた。 修の目は、まるで燃え盛る炎を宿したかのようだった。それは彼女を燃やし尽くそうとするような強さで、彼女に近づいていた。その目はとても激しく、それでいて熱かった。若子の唇が微かに震えた。喉はまるで泥水で満たされたかのように重く、やっとの思いでいくつかの言葉を絞り出した。 「何を言ってるの......?」修は右手を肩から離し、そっと若子の顎を掴むと、顔を上げさせた。深い瞳で
修は冷たい表情のまま、若子の許可を待たずに部屋に踏み込み、バタンと扉を閉めた。「何してるの?」若子は眉をひそめた。「まだ中に入るなんて言ってないでしょ」「でも入った」修は投げやりな態度で答え、まるで道理を無視するかのようだった。若子はなんとか怒りを抑えようとしながら、「それで、何の用なの?」と尋ねた。「お前、俺のことをクズだって何人に言いふらしたんだ?」若子は眉をひそめ、「何の話か分からないけど」と答えた。彼女には身に覚えがなかった。「本当に知らない? じゃあ、なんで遠藤の妹が俺をクズ呼ばわりするんだ?お前が吹き込んだんだろ?」若子は呆れて、「そんなこと知るわけないでしょ。とにかく、私じゃない。それより、出て行って。あなたなんか見たくないわ」と突き放した。修はその言葉にさらに苛立ちを覚えた。若子が自分を追い出そうとするのを見て、彼はここに来た理由が、ただ若子に会う口実を探していただけだと心の奥では気づいていた。それでも、彼女を責めずにはいられなかった。「そんなに急いで俺を追い出したいのか。遠藤に知られるのが怖いのか?お前ら、どこまで進展してるんだ?ジュエリーショップなんて行って、随分楽しそうだったな」その言葉に、若子の眉はさらに深く寄せられた。「それがあなたに何の関係があるの?私たちはもう離婚したのよ。どうして家まで来て詰問するの?」彼の態度に、彼女は心の底から嫌気がさしていた。「離婚したらお互い干渉するべきじゃないってことか?」「その通り。だから前にも言ったでしょ。あなたはあなたの道を行けばいいし、私は私の道を行くの」修は冷たい笑いを浮かべ、「お前が俺と関係を断ちたいって言うなら、どうして俺を助けるんだ?」「助ける?何の話?」若子は困惑した表情で尋ねた。「お前、瑞震の資料を夜通し調べてただろ?俺には全部分かってるんだ。関係を切りたいんだったら、なんでそんなことをする?」その言葉に、若子はようやく修の言っていることが何なのか理解した。彼女は以前、修が送ってきた不可解なメッセージの意味を悟った。修は彼女が夜更かしして瑞震の資料を見ていたのは自分のためだと思い込んでいたのだ。「はは」若子は突然笑い出した。「何がおかしい?」修は苛立ちを隠せない様子で言った。彼の怒りに反して、若子は笑っ
修は静かにリングを選んでからさっさと帰るつもりだったが、こんなにあからさまな挑発を受けるとは思っていなかった。彼はリングをガラスのカウンターに叩きつけた。「なるほど、遠藤様ですか。偶然ですね」「ええ、偶然ですね」西也は不機嫌そうに言った。「藤沢様こそ、誰とリングを選んでいるんだ?」考えるまでもなく、あの雅子と関係があるに違いない。修は冷たい声で言った。「関係ないだろ」若子は不快な気持ちが全身に広がり、そっと西也の袖を引っ張った。「ちょっとトイレ行ってくる」西也は心配そうに言った。「俺も一緒に行く」二人は一緒に離れて行った。花はその場に立ち尽くして、手に持ったリングを見ながら困惑していた。一体、これはどういう状況なんだ?花は修の方に歩み寄り、言った。「ねぇ、あなた、うちの兄ちゃんと知り合い?」「お前の兄ちゃん?」修が尋ねた。「あいつが君の兄か?」花は頷いた。「うん、そうだよ。あなた、うちの兄ちゃんと何か関係あるの?」「君の兄が俺のことを教えなかったのか?」花は首を振った。「教えてくれなかった。初めて見るけど、なんだか顔が見覚えあるな。もしかして、ニュースに出たことある?」修は冷たく言った。「君と若子はどういう関係だ?」「若子とは友達だよ。なんで急に若子を言い出すの?」突然、花は何かに気づいたようで、目を見開き、驚きの表情を浮かべて修を見つめた。「まさか、あなたって若子のあのクズ前夫じゃないよね?」「クズ前夫」と聞いて、修の眉がぴくっと動いた。「若子が、俺のことをクズだって言ったのか?」彼女は背後で自分の悪口を言っていたのか?「言わなくても分かるよ」花は最初、修のイケメンな外見に目を輝かせていたが、若子の前夫だと知ると、すぐに態度を変えた。若子の前夫がクズなら、当然、彼女に良い顔をするわけがない。「若子、あんなに傷ついていたのに、あなたは平気でいるんだね。あなた、顔はイケメンでも、結局、クズ男なんでしょ」修の冷徹な目に一瞬鋭い光が走った。まるで冷たい風が吹き抜けたようだ。花はその目を見て震え上がり、思わず後退した。修の周りには、何か得体の知れない威圧感があって、花は無意識に怖さを感じていた。だが、若子のために勇気を振り絞り、花は言った。「でも、よかったね。若子はもうあ
三人は高級ブランドを取り扱うショッピングモールに到着した。西也は普段、あまりショッピングに出かけることはない。彼が普段使う腕時計はブランドから直接家に送られてきて、それを自分で選ぶことが多いし、スーツも彼の家に来てフィッティングをしてくれる。でも、花は買い物に出かけるのが好きだ。自分で店を回って、手に取って選ぶのが楽しいし、賑やかな雰囲気も好きだった。宅配で届くよりも、店を歩き回る方が気分が良い。「西也、後で買うときは、私のカード使ってよ。あなたが買わなくていいから」若子はそう言いながら、ちょっと気を使っていた。ここに置いてあるものはすべて高価だし、西也が彼女に何か買ってしまうとかなりの金額になるだろう。結局、二人は偽の結婚なんだから、無駄にお金を使わせたくないと思った。西也は苦笑いを浮かべて、「そんなこと言うなよ。偽の結婚だとしても、感謝の気持ちも込めて買わせてもらうよ」「でも、ここは本当に高いんだよ。あなたにこんなにお金を使わせるのは申し訳ない」「俺にとっては大したことないさ。それに、何も買わないと、父さんが怪しむからな」「それなら......わかった。でも、高すぎるのは避けてね」その時、花が横から口を挟んだ。「あー、若子、無駄に遠慮しないで。うちの兄ちゃん、金がありすぎて使いきれないんだから」若子は右手に何も着けていなかった。「そうだな、まだ指輪を買ってなかった。好きなのを選んで、買ってあげるよ。きっと役に立つから」結婚指輪は必須のものだ。偽の結婚でも、若子はつけていなければならない。だから、彼女は頷いた。三人はジュエリーショップに入り、店員が笑顔で近づいてきて、いろいろな種類のリングを紹介してくれた。実は若子は、自分が本当に好きなリングを選ぶ気分ではなかった。ただ適当に一つ指さしただけだ。しかし、花がその横で口を挟み、これはダメ、あれはダメと言い続けた。若子は数回指を差しながらも、花に却下されてしまい、結局、だいぶ時間がかかってしまった。その時、どこからか声が聞こえてきた。「藤沢様、この指輪はいかがですか?サイズを自由に調整できるので、指の太さに合わせて使いやすいですよ」「藤沢様」という名前を聞いた瞬間、若子は少し驚いた。彼女は思わず振り返って一瞬見ただけで、特に深い意味はなかった。ただ「藤沢」
「お前らには言ってもわからんだろうけど、まぁ、だいたい半月から一ヶ月くらいの間だ。そん時は、遠藤家のこと、お前ら夫婦二人でしっかり見ておけよ」父母がしばらく家を空けることは、西也にとっても悪いことではなかった。「わかった、会社や家のことは俺がしっかりやる」高峯は軽く頷き、「うん、俺と紀子は少し休んでくる。家に誰もいなくなるから、お前と若子はその間、ここに住んでていい」と言った。西也は、若子が両親の家で不安に感じるのではないかと心配していた。「父さん、俺と若子は結婚したばかりだから、新しい家を買うつもりだし、だから......」「買うこと自体はかまわん」高峯はすぐに言った。「ただ、俺と紀子がいない間、ここに住んでてくれ。お前が家を買ったら、俺たちが戻った後に引っ越せばいい。お前が親と一緒に住むのが嫌だってのは分かってるから」「それは......」西也は少し迷ったが、若子が高峯の目つきが少し険しくなったことに気づいた。どうやら、高峯は譲歩しているようだった。無理に同居しなくてもいい、という意図が伝わってきた。若子は静かに西也の服の裾を引っ張り、そして高峯に向かって言った。「わかりました、遠藤さん。西也と私は、遠藤さんがいない間、ここにお世話になります」高峯はにっこりと笑い、少し優しさが増したように見えた。「まだ遠藤さんって呼んでるのか?お前はもう、俺たちの娘だ。「お父さん」、「お母さん」って呼べ」若子は軽く笑って、少し緊張しながら言った。「お、お父さん、お母さん」高峯は満足げに頷いた。「お前、賢いな。西也の傍にいて、しっかり支えてやれ。それが一番大事だ。あとは、お前と一緒にいることで、息子は本当に幸せそうだし、俺が厳しくしても文句言わんだろう」若子はうなずきながら、「はい、できるだけ西也を支えます」と答えた。高峯はふと妻の方に目をやり、「紀子、これはお前の息子の嫁だぞ。何か言いたいことはないのか?」と聞いた。紀子は自分の存在がまるで空気のように感じたが、急に話を振られて微笑んだ。「若子、あなたのことはあまり知らないけれど、西也があなたを選んだ理由があるのだろうから、幸せを祈っているわ」「ありがとうございます、お母さん」若子は「西也があなたを好き」と聞いて、胸がドキドキと早鐘のように鳴り出した。だが、幸いなことに、彼
二人は市役所に到着した。高峯の秘書はすでに待っていて、手続きは順調に進み、無事に結婚証明書を受け取った。若子は手に持った結婚証明書をじっと見つめていた。心臓が激しく鼓動しているのを感じ、突然、重いプレッシャーを感じる。偽装結婚だと頭ではわかっている。友達を助けるためだけにしたことだと理解しているのに、結婚証明書を目の前にすると、どうしても修と一緒に証明書を受け取った時のことを思い出してしまう。それはたった一年ちょっと前の出来事だったが、まるで何年も前のことのように感じられた。「若様、若奥様。お二人の結婚証明書が無事に発行されましたので、社長様からの指示で、すぐにお帰りになり、みんなで食事をするようにとのことです」西也は頷いた。「わかった、若子を連れて帰る」秘書はその後、離れた。彼は任務を終え、二人が結婚証明書を手に入れるのを直接目にしただけで、偽りではなかった。秘書が去った後、二人は結婚証明書を手にしたまま、しばらく見つめ合う。少し気まずい空気が流れる。若子は結婚証明書をバッグにしまい、少しの間黙った後、彼にプレッシャーをかけないようにと、ふっと笑顔を見せた。「ほら、これで問題は解決したわね?あなたはもう、政略結婚なんてしなくて済むんだから」「でも、こんな形でお前に負担をかけることになって、すまん」西也は低い声で言った。若子は首を振る。「そんなことないわ。全然苦しくないわよ。心配しないで。結婚した後、あなたは自由よ。家族にバレなければ、何をしてもいいんだから」西也は少し考えた後、「うん」とだけ答えた。「さ、行こう。帰って家族と一緒に食事して、ちゃんと演技しきろう」若子は軽く笑いながら、車に向かって歩き出した。二人は車に乗り込み、西也の家、遠藤家へ向かう。食卓には遠藤家の人々だけが集まっており、他の人は誰もいなかった。紀子はいつも静かな人で、昨晩もほとんど言葉を交わさなかった。高峯が少し言わせたが、その後はほとんど彼が喋り続けていた。今日もまた、紀子は何も言わず、まるで自分のことではないかのように静かだった。若子は少し不安な気持ちでいた。あまりにも静かすぎて、皆が何かを考えているような気がしてならなかった。「若子、このお肉、美味しいわよ」花が若子の皿に肉を乗せながら言った。「花」高峯が冷ややかな声
「たとえ偽装結婚でも、結婚して夫婦関係ができた以上、俺も外で浮気したりはしないよ」西也の心はすっかり若子に占められていた。愛情の中に第三者が入る余地はない、あまりにも狭すぎるから。若子は西也をじっと見つめる。瞳の奥に一瞬、疑念が浮かんだ。その様子に気づいた西也が、少し不安そうに聞いた。「どうした? 俺の顔に何かついてる?」運転に集中しつつも、視界の隅で若子が疑いの目を向けているのを感じ、少し焦りを覚えた。まさか、何か気づかれたのか?若子は少し笑ってから答える。「何でもないわ。ただ、あなたがちょっと......」彼女は少し戸惑い、急に西也をどんな言葉で表すべきか分からなくなった。「ちょっと?」西也は興味深げに聞き返した。若子は少し考えた後、言葉を絞り出すように言った。「あなた、ちょっと素直すぎる」「素直?」西也はその言葉に驚いた。「俺が素直だって?」そんな形容をされたのは初めてだった。若子は肩をすくめて言う。「私たちは偽装結婚なんだから、あなたが私に忠実である必要なんてないのよ。結婚しても、私があなたに何かを要求するわけじゃないし、自由にすればいい。結婚後だって、私があなたのことを束縛するつもりなんてない。いつでも離婚できるわ」若子はあくまで冷静だった。結婚はあくまで西也を助けるためのもの、それ以上でもそれ以下でもない。西也の手がハンドルをぎゅっと握りしめる。彼の黒い瞳には、薄く氷が張ったように冷たい光が宿っていた。彼は口元を引きつらせ、冷笑を浮かべた。 「じゃあ、お前はどうなんだ?」少し皮肉を込めて、続ける。「お前も真実の愛を追い求めるのか?」若子の言葉を受けて、西也は思わず沈黙した。まさか、若子が修と会うつもりなのか? 彼は若子が心の中で修を手放せないことを知っている。何年も愛してきた相手を、簡単に忘れられるわけがない。だから、若子が本当に愛を見つけるのは、簡単なことではないだろう。「そんなことはないよ」 若子は頭を少し後ろに傾け、窓の外を流れていく景色をじっと見つめた。「もう真実の愛なんて追い求めない。今はただ、子どもを産んで、ちゃんと育てることだけを考えているの」「若子、前に子どもを産んだら、どこかに行くって言ってなかったか?でも今は結婚したから、もう行けなくなったんじゃないか?」「うん、