義母は一瞬目を見開いた。「あの人は二十年も話せてないのよ。耳が不自由なのは間違いないわ」私は義母の手を取った。「お母さん、今日だけ会社休んでもらえない?」私の真意は分からないものの、義母は一日の休暇を取ってくれた。私たちはまず、健二が事故に遭った後に運ばれたという病院を訪ねた。健二の保険証で病歴を確認すると、そこには単なる打撲との記録しかなかった。入院どころか、ICUに運ばれた形跡すらない。義母は病歴を食い入るように見つめ、声を震わせた。「これ、どういうこと?」私は静かに言った。「お母さん、お父さんはここの病院の医師だったんですよね」この病院の医師なら、診断書や病歴の改ざんなど造作もないことだったはず。義母の顔から血の気が引いていく。「まさか、健二は本当は......」私は黙って頷き、スマホを取り出した。昨日、買い物のついでに隠しカメラを仕掛けておいたのだ。夜中、健二が寝静まった頃を見計らって設置していた。映像には健二の姿がない。少し巻き戻すと、義父が寝室に入り、健二を起こす場面が映っていた。「おい、起きろよ」健二は目を開け、意地の悪い笑みを浮かべた。「母さんと由美は出かけたの?」「ああ」その一言で、健二はぱっとベッドから飛び起き、足を伸び伸びと動かし始めた。「いやあ、麻痺のふりも骨が折れるよ。夜中に寝返りも打てないなんて」健二は不満げに言った。「父さん、もし由美が本当に漢方医に連れて行ったらどうする?」義父は冷静に答えた。「我慢できさえすれば問題ない。名医が来ても治せないふりをすればいいだけだ」「でも、もう限界だって」「漢方なんて大したことないさ。せいぜい鍼と漢方薬だろう。しばらく様子を見れば飽きてくる。その後で適当な口実を作って、母さんと由美を遠くへ行かせれば、俺たちは自由になれる」健二は親指を立てて笑った。「さすが父さんだな。こんな策を考えつくなんて、天才的だよ!」その後、父子は気取った様子で肩を組んで寝室を後にした。映像を止めた。二人の偽装は分かっていたものの、この会話を耳にすると怒りが込み上げてきた。真実を知った義母はさらに激しい怒りに震えていた。スマホを握り締めた手が震え、顔は朱に染まっていた。「
私は顔を上げた。健二の顔は土気色で、目には恐怖の色が浮かんでいた。「何を言ってるの。もともと動かないはずでしょう」私は冷ややかに言った。健二は口をとがらせ、義父の方を見やった。義父も鍼を打たれていたが、二十年来の演技の玄人だけあって、顔色一つ変えず、まったく動じる様子もない。鍼を抜いた後、義母が具合を尋ねると、義父は首を振り、手話で伝えた。「効果なし。私の病気は治らない。もう諦めて、健二の手術代を残した方がいい」義母は優しく微笑んだ。「これが初めてだからよ。何度か通えば、きっと良くなるわ」家に戻り、私と義母は薬を受け取りに行くと言って外出した。団地を出るとすぐに監視カメラの映像を確認する。映像には義父が健二の足をマッサージしている姿が映っていた。「具合はどうだ?」義父のかすれた声が響く。健二は不安げな表情を浮かべながら言った。「まだ足が痺れてる。父さん、もう母さんと由美に正直に話そうよ。父さんの声だってあんなになって......このまま鍼を続けたら、本当に体が不自由になっちゃうかもしれない」「お前は慌てすぎだ。さっきもばれそうになった」義父は咳払いをして声を取り戻しながら続けた。「確かにあの牛島の鍼は下手だが、命に関わるほどじゃない」さすがは義父、冷静さを崩さない。「数日我慢すればいい。あの二人は焦って何でも試そうとしているだけだ。お前の母さんも昔は私をよく病院に連れて行ったが、そのうち諦めた。それに、二人が働きに出れば、後は私たちの思い通りだ」その言葉に、父子は目を合わせてほくそ笑んだ。「そうだな。母さんと由美は仕事の虫だもんな。仕事に出れば、家の中は俺たちの自由だ」前世では、なぜ健二が障害を装ったのか理解できなかった。私の死の間際、彼は得意げに真相を明かした。最初は母への漢方薬を紛失し、私に責められるのが怖く、自分の金で弁償したくなかったため、事故を装ったのだ。その時、義父の秘密も知ることになった。義父が聴覚障害を装い始めたのは、若い頃の義母との口論に疲れ果てたためだった。しばらくすると、病人を装うことで楽な生活が送れることに気づいた。仕事も育児も免除され、健二が小学生になると、義母は出稼ぎに出て、義父は息子の食事を作るだけでよくな
私がお金の心配はないと言うと、健二は私が家や車を売り払う決心をしたと思い込んだようだ。にやりと笑みを浮かべ、芝居がかった声で言った。「由美、お前には本当に感謝してる。俺が治ったら、もっと立派な家と高級車を買ってやるからさ」私は感動したように振る舞った。「あなたのためなら何でも惜しくないわ。それで、今日はあなたの車を持っていくわね」健二は目を見開いた。「俺の車を売るって?どうして勝手に俺の車を」結婚前、私の実家からは家と車が贈られ、義母も健二に同じものを用意してくれていた。当時、健二は私が得をすることを嫌がり、義母が大半を出資していたこともあって、彼の家と車はすべて義母名義になっていた。前世では私は愚かにも自分の持参財産を全て手放してしまった。それなのに健二は、老後の保障だからと言って、自分の家は売らなかった。私は優しく諭すように言った。「あなた、今の状態で車なんて運転できないでしょう。売って治療費に充てた方がいいわ」「じゃあ俺は何に乗れば」「まあまあ、足が治ってからの話よ」私は軽く笑って鞄を手に取った。「もう行かなきゃ。仕事帰りに、また漢方薬の材料を集めないと」「何だって?」健二の顔が一瞬で真っ赤になった。「何を使うんだ?」「童子尿よ。牛島先生が言うには、十八歳の若者のでないとダメなんですって。探すの苦労したわ。あなたとお父さん、二人分用意してあるから」そう言って部屋を出ると、すぐに激しい嘔吐の音が聞こえてきた。同時に義父も別室から飛び出し、トイレに駆け込んでいく。義母はゆっくりと後ろから姿を現し、私と目が合うと意味深な笑みを交わした。その日から、私と義母は珍しい民間療法を探し回り、健二と義父に次々と試していった。童子尿を拒否すると、今度はヒキガエルを用意し、それも嫌がれば生の蛙卵を食べさせた。ネズミの糞を漬け込んだ酢から期限切れの漢方薬まで、思いつく限りのものを試した。その結果、健二は食中毒で二度も救急搬送される始末だった。担当医からは厳しい警告を受けた。「このような民間療法は大変危険です。寄生虫感染の危険があるだけでなく、最悪の場合、腎不全に至る可能性もございます」その言葉を聞いた健二は、青ざめた顔で私たちを見つめた。「今の
健二は鍼を抜いたばかりで、足はまだ痺れており、全く動かせない状態だった。漢方薬を取り除くと、足首からふくらはぎにかけて大きな水疱ができていた。私が診療所に駆けつけた時には、すでに包帯がぐるぐると巻かれていた。牛島先生は病院に行かせることもなく、自分で処置を済ませたようだった。「このヤブ医者!」車椅子に座った健二が怒鳴り散らした。「俺の足をこんな目に遭わせておいて、後遺症が残ったら、ただじゃ済まないぞ」数々の医療訴訟を経験してきた牛島先生は、その脅しなど意に介する様子もなく、むしろ得意げに言った。「感謝すべきですよ。今、痛みを感じましたよね?」義母までが追い打ちをかけるように言った。「そうよ、健二。火傷は気の毒だけど、痛みを感じたってことは、治療が効いてきた証拠じゃない」「ふざけるな!」健二は激怒した。「痛みを感じるのは鍼のおかげじゃない。俺の足が......」そこで急に言葉を切り、慌てて言い直した。「とにかくこんなヤブ医者とは関係ない。早く連れて行ってくれ。このまま続けたら死ぬかもしれない」私たちは即座に反対した。「やっと効果が出てきたのに、なぜ諦めるの?もう少し頑張れば、必ず立てるようになるわ」義母も同調した。「牛島先生は本当に一生懸命してくださってるのよ。健二、病は気からって言うでしょう」私たち二人の言葉に反論できなくなった健二は、義父に助けを求めた。普段なら体裁を保つため黙して語らない義父だが、今回は健二の怪我を絶好の機会と捉えたようだった。手話で義母を激しく非難する。「お前たちは度を越している。私の長年の臨床経験からしても、この医者は明らかに危険だ。正規の病院で手術を受けるべきだ」義母は即座に切り返した。「何年も臨床から離れてる人に、人の医術を評価する資格なんてないわ」義父は顔を真っ赤にし、健二の車椅子を押して診療所を後にした。家に戻っても、二人の言い争いは収まる気配もなかった。健二は義父の意見に同調し、病院での手術を強く主張した。今の治療では時間の無駄だと繰り返す。義母は冷たい視線を向けながら言い放った。「そう。それなら大学病院でしっかり検査してもらいましょうか」その一言で健二の表情が凍りついた。他の病院で
私は口を押さえた。「切断......ですって?他に方法は......」医師は厳しい表情で首を振った。「感染が重症化しすぎています。切断しなければ命の保証もできません。一体どんな処置をされたんですか。なぜもっと早く来院されなかったのですか」私と義母は顔を見合わせた。あの薬の主成分は牛糞だった。そんな不潔なものを患部に塗れば、感染は避けられなかった。義母は涙ながらに訴えた。「私たち素人には分からなかったんです。もう切断するしかないなら、そうするしかありません」医師は難しい顔をした。「保存的治療も検討できますが......まだ若いのに、足がないと今後の生活が」私は無理やり涙を絞り出した。「構いません。主人はもともと立てないんですから。どうぞ切断してください」病床で横たわっていた健二が意識を取り戻したようだった。「切るな!」健二は全身の力を振り絞って叫んだ。「俺の足は......足は大丈夫なんだ!」私は咄嗟に飛びかかり、彼の口を押さえた。「あなた、熱で正気を失ってるのよ。もう足は駄目なの。現実を受け入れて」義母は慌ててバッグから診断書とカルテを取り出し、医師に差し出した。「先生、これがこちらの病院の診断書です。早く手術を」医師は他院の記録を確認し、決心を固めたようだった。「分かりました。では手術の準備を」「待ってくれ!」健二は私の手を振り払って絶叫した。「切断なんてできない!麻痺なんてない。足は正常なんだ!」私は目を見開いて演技を続けた。「ああ、あなた......現実を見て。もう足は駄目なの。切断したって同じことでしょう」「違う......足は本当は大丈夫なんだ」健二はついに泣き崩れた。「由美、全部嘘だったんだ。事故も嘘、足が動かないのも全部嘘だった」私は目を赤くして問い詰めた。「どうして......そんな嘘を」「父さんに言われて......」健二は切断手術だけは避けたい一心で、義父との計画を全て吐き出した。真実を告白し終えると、健二は声を上げて泣き続けた。「由美、すまない。わざと騙そうとしたんじゃないんだ。全部父さんに唆されて......」義母はすぐさま義父を呼びつけた。健二の告発に対し、義父は知らぬ存ぜぬの表情を
二ヶ月後、私と義母はそれぞれ離婚が成立した。健二は結局、足を守ることはできなかった。感染は重症化の一途を辿り、保存療法を試みても好転の兆しすら見えず、むしろ症状は日に日に悪化していった。最終的には切断という選択肢しか残されていなかった。義父が愛人に注ぎ込んだ金は、義母が法的手段で全額取り戻した。さらに義父の聴覚障害詐称の証拠を提出し、結果として義父は着の身着のままで家を後にすることとなった。全てが片付いた後、私と義母は手持ちの財産を整理し、それぞれの家を売却して一軒の大きな家を購入した。共に暮らす日々は、まるで前世のように穏やかで心地よいものとなった。前世で義母が私にしてくれた深い愛情を、今度は私が返す番だった。母も事情を知ると、義母のことを心から気遣い、私に言った「義母さんのことを大切にしてあげてね」健二の消息が再び届いたのは、それから一年が経った頃だった。実家から義母に電話があり、健二の容態が危篤だという。その時初めて知ったのだが、健二は足の切断後、義父によって田舎の実家へ送られていたのだ。障害を抱えての生活は想像以上に過酷で、最近では車椅子から転落して唯一動く腕まで骨折したという。発見された時には既に十数日も水も食べ物も取れない状態で、病院に搬送された時には既に手遅れだった。実の子を看取ることに耐えられない義母に代わり、私が健二に会いに行くことにした。狭い病室に漂う重苦しい臭気。痩せ衰えてベッドに横たわる健二の姿に、私は前世の自分の最期を重ね合わせていた。あの時はこうして横たわっていたのは私だった。健二の虚ろな瞳が私を捉え、不気味な笑みを浮かべた。「俺の惨めな姿を見に来たんだろう?こんな目に遭わせて、さぞ気分がいいんだろうな」私は腰を下ろし、彼の目を見つめた。その瞬間、全てを悟った。「あなたも過去の記憶を持って生まれ変わったのね」「も」という言葉に、健二は身を震わせた。「やはり。全ては計算づくの復讐だったんだな」彼も前世の記憶を持っているなら、私の行動が全て意図的だったことは明らかだった。私は静かに頷いた。「分かっているなら、それでいいわ」「由美、今の俺を見て喜ぶな。必ず良くなってみせる。そしたら必ず仕返しをする」私は冷笑を浮かべた。「まだ治
「由美、健二はもう歩けなくなってしまったのよ。このまま若い人生を棒に振るのはもったいないわ。離婚を考えてみたら?」目を開けた時、義母は台所で料理を作り終えたところだった。鏡に映る若かりし日の自分の姿、お気に入りの花柄のワンピース姿を見て、私は確かに過去に戻ってきたのだと実感した。前世では、母のために高価な漢方薬を買い、急な出張で健二に届けてもらった。その帰り道で事故に遭い、下半身が動かなくなったと聞かされた。診断書を見た時は、この先どうなるのかと途方に暮れた。義父は涙を流し、夫の佐藤健二は暗い表情を浮かべていた。ただ義母だけは私との離婚を勧めてきた。まだ若いのだから、寝たきりの夫の介護に人生を費やすべきではないと。義母も波乱の人生を送ってきた。義父は健二が二歳の時に聴覚を失い、それ以来働けなくなった。義母は一人で家計を支えてきたのだ。前世では、義母のその言葉に胸を打たれ、涙ながらに決して離婚しないと誓った。そして私たちの生活は一変した。義父が家で健二の世話をして毎日リハビリに付き添い、私と義母は遠方で働いて生活費を稼ぐ日々が始まった。健二の手術費用と、その後毎月かかる三十万円のリハビリ代を工面するため、私は実家からもらった家と車を売り払い、安定していた会社を辞めた。義母と一緒に、給料は良いものの社会保険のない】工場で働き始めたのだ。私と義母は一日三つの仕事を掛け持ちした。朝は牛乳配達、昼間は工場で十二時間の重労働、夜は宅配便のバイト。古びた六畳一間のアパートで暮らし、肉も果物も贅沢過ぎて手が出せなかった。百円のパンに五十円の素麺、百円の漬物だけが私たちの一ヶ月の食事だった。そんな過酷な生活に耐え切れず、義母は数年後に息を引き取った。私も健二が体が不自由になってから十年後に乳がんが見つかった。幸い初期だったが、もう治療する気力さえ残っていなかった。最期に一度だけ健二の顔を見たくて家に戻った時、目を疑うような光景が広がっていた。健二が若い女と楽しげにダンスを踊り、義父はカラオケマイクを片手に上機嫌で歌っていた。その瞬間、全ての謎が解けた。健二の体の不自由も、義父の聴覚障害も、全てが芝居だったのだ。血の滲むような思いで貯めた金を返すよう懇願したが、健二は逆に離婚を切り出
二ヶ月後、私と義母はそれぞれ離婚が成立した。健二は結局、足を守ることはできなかった。感染は重症化の一途を辿り、保存療法を試みても好転の兆しすら見えず、むしろ症状は日に日に悪化していった。最終的には切断という選択肢しか残されていなかった。義父が愛人に注ぎ込んだ金は、義母が法的手段で全額取り戻した。さらに義父の聴覚障害詐称の証拠を提出し、結果として義父は着の身着のままで家を後にすることとなった。全てが片付いた後、私と義母は手持ちの財産を整理し、それぞれの家を売却して一軒の大きな家を購入した。共に暮らす日々は、まるで前世のように穏やかで心地よいものとなった。前世で義母が私にしてくれた深い愛情を、今度は私が返す番だった。母も事情を知ると、義母のことを心から気遣い、私に言った「義母さんのことを大切にしてあげてね」健二の消息が再び届いたのは、それから一年が経った頃だった。実家から義母に電話があり、健二の容態が危篤だという。その時初めて知ったのだが、健二は足の切断後、義父によって田舎の実家へ送られていたのだ。障害を抱えての生活は想像以上に過酷で、最近では車椅子から転落して唯一動く腕まで骨折したという。発見された時には既に十数日も水も食べ物も取れない状態で、病院に搬送された時には既に手遅れだった。実の子を看取ることに耐えられない義母に代わり、私が健二に会いに行くことにした。狭い病室に漂う重苦しい臭気。痩せ衰えてベッドに横たわる健二の姿に、私は前世の自分の最期を重ね合わせていた。あの時はこうして横たわっていたのは私だった。健二の虚ろな瞳が私を捉え、不気味な笑みを浮かべた。「俺の惨めな姿を見に来たんだろう?こんな目に遭わせて、さぞ気分がいいんだろうな」私は腰を下ろし、彼の目を見つめた。その瞬間、全てを悟った。「あなたも過去の記憶を持って生まれ変わったのね」「も」という言葉に、健二は身を震わせた。「やはり。全ては計算づくの復讐だったんだな」彼も前世の記憶を持っているなら、私の行動が全て意図的だったことは明らかだった。私は静かに頷いた。「分かっているなら、それでいいわ」「由美、今の俺を見て喜ぶな。必ず良くなってみせる。そしたら必ず仕返しをする」私は冷笑を浮かべた。「まだ治
私は口を押さえた。「切断......ですって?他に方法は......」医師は厳しい表情で首を振った。「感染が重症化しすぎています。切断しなければ命の保証もできません。一体どんな処置をされたんですか。なぜもっと早く来院されなかったのですか」私と義母は顔を見合わせた。あの薬の主成分は牛糞だった。そんな不潔なものを患部に塗れば、感染は避けられなかった。義母は涙ながらに訴えた。「私たち素人には分からなかったんです。もう切断するしかないなら、そうするしかありません」医師は難しい顔をした。「保存的治療も検討できますが......まだ若いのに、足がないと今後の生活が」私は無理やり涙を絞り出した。「構いません。主人はもともと立てないんですから。どうぞ切断してください」病床で横たわっていた健二が意識を取り戻したようだった。「切るな!」健二は全身の力を振り絞って叫んだ。「俺の足は......足は大丈夫なんだ!」私は咄嗟に飛びかかり、彼の口を押さえた。「あなた、熱で正気を失ってるのよ。もう足は駄目なの。現実を受け入れて」義母は慌ててバッグから診断書とカルテを取り出し、医師に差し出した。「先生、これがこちらの病院の診断書です。早く手術を」医師は他院の記録を確認し、決心を固めたようだった。「分かりました。では手術の準備を」「待ってくれ!」健二は私の手を振り払って絶叫した。「切断なんてできない!麻痺なんてない。足は正常なんだ!」私は目を見開いて演技を続けた。「ああ、あなた......現実を見て。もう足は駄目なの。切断したって同じことでしょう」「違う......足は本当は大丈夫なんだ」健二はついに泣き崩れた。「由美、全部嘘だったんだ。事故も嘘、足が動かないのも全部嘘だった」私は目を赤くして問い詰めた。「どうして......そんな嘘を」「父さんに言われて......」健二は切断手術だけは避けたい一心で、義父との計画を全て吐き出した。真実を告白し終えると、健二は声を上げて泣き続けた。「由美、すまない。わざと騙そうとしたんじゃないんだ。全部父さんに唆されて......」義母はすぐさま義父を呼びつけた。健二の告発に対し、義父は知らぬ存ぜぬの表情を
健二は鍼を抜いたばかりで、足はまだ痺れており、全く動かせない状態だった。漢方薬を取り除くと、足首からふくらはぎにかけて大きな水疱ができていた。私が診療所に駆けつけた時には、すでに包帯がぐるぐると巻かれていた。牛島先生は病院に行かせることもなく、自分で処置を済ませたようだった。「このヤブ医者!」車椅子に座った健二が怒鳴り散らした。「俺の足をこんな目に遭わせておいて、後遺症が残ったら、ただじゃ済まないぞ」数々の医療訴訟を経験してきた牛島先生は、その脅しなど意に介する様子もなく、むしろ得意げに言った。「感謝すべきですよ。今、痛みを感じましたよね?」義母までが追い打ちをかけるように言った。「そうよ、健二。火傷は気の毒だけど、痛みを感じたってことは、治療が効いてきた証拠じゃない」「ふざけるな!」健二は激怒した。「痛みを感じるのは鍼のおかげじゃない。俺の足が......」そこで急に言葉を切り、慌てて言い直した。「とにかくこんなヤブ医者とは関係ない。早く連れて行ってくれ。このまま続けたら死ぬかもしれない」私たちは即座に反対した。「やっと効果が出てきたのに、なぜ諦めるの?もう少し頑張れば、必ず立てるようになるわ」義母も同調した。「牛島先生は本当に一生懸命してくださってるのよ。健二、病は気からって言うでしょう」私たち二人の言葉に反論できなくなった健二は、義父に助けを求めた。普段なら体裁を保つため黙して語らない義父だが、今回は健二の怪我を絶好の機会と捉えたようだった。手話で義母を激しく非難する。「お前たちは度を越している。私の長年の臨床経験からしても、この医者は明らかに危険だ。正規の病院で手術を受けるべきだ」義母は即座に切り返した。「何年も臨床から離れてる人に、人の医術を評価する資格なんてないわ」義父は顔を真っ赤にし、健二の車椅子を押して診療所を後にした。家に戻っても、二人の言い争いは収まる気配もなかった。健二は義父の意見に同調し、病院での手術を強く主張した。今の治療では時間の無駄だと繰り返す。義母は冷たい視線を向けながら言い放った。「そう。それなら大学病院でしっかり検査してもらいましょうか」その一言で健二の表情が凍りついた。他の病院で
私がお金の心配はないと言うと、健二は私が家や車を売り払う決心をしたと思い込んだようだ。にやりと笑みを浮かべ、芝居がかった声で言った。「由美、お前には本当に感謝してる。俺が治ったら、もっと立派な家と高級車を買ってやるからさ」私は感動したように振る舞った。「あなたのためなら何でも惜しくないわ。それで、今日はあなたの車を持っていくわね」健二は目を見開いた。「俺の車を売るって?どうして勝手に俺の車を」結婚前、私の実家からは家と車が贈られ、義母も健二に同じものを用意してくれていた。当時、健二は私が得をすることを嫌がり、義母が大半を出資していたこともあって、彼の家と車はすべて義母名義になっていた。前世では私は愚かにも自分の持参財産を全て手放してしまった。それなのに健二は、老後の保障だからと言って、自分の家は売らなかった。私は優しく諭すように言った。「あなた、今の状態で車なんて運転できないでしょう。売って治療費に充てた方がいいわ」「じゃあ俺は何に乗れば」「まあまあ、足が治ってからの話よ」私は軽く笑って鞄を手に取った。「もう行かなきゃ。仕事帰りに、また漢方薬の材料を集めないと」「何だって?」健二の顔が一瞬で真っ赤になった。「何を使うんだ?」「童子尿よ。牛島先生が言うには、十八歳の若者のでないとダメなんですって。探すの苦労したわ。あなたとお父さん、二人分用意してあるから」そう言って部屋を出ると、すぐに激しい嘔吐の音が聞こえてきた。同時に義父も別室から飛び出し、トイレに駆け込んでいく。義母はゆっくりと後ろから姿を現し、私と目が合うと意味深な笑みを交わした。その日から、私と義母は珍しい民間療法を探し回り、健二と義父に次々と試していった。童子尿を拒否すると、今度はヒキガエルを用意し、それも嫌がれば生の蛙卵を食べさせた。ネズミの糞を漬け込んだ酢から期限切れの漢方薬まで、思いつく限りのものを試した。その結果、健二は食中毒で二度も救急搬送される始末だった。担当医からは厳しい警告を受けた。「このような民間療法は大変危険です。寄生虫感染の危険があるだけでなく、最悪の場合、腎不全に至る可能性もございます」その言葉を聞いた健二は、青ざめた顔で私たちを見つめた。「今の
私は顔を上げた。健二の顔は土気色で、目には恐怖の色が浮かんでいた。「何を言ってるの。もともと動かないはずでしょう」私は冷ややかに言った。健二は口をとがらせ、義父の方を見やった。義父も鍼を打たれていたが、二十年来の演技の玄人だけあって、顔色一つ変えず、まったく動じる様子もない。鍼を抜いた後、義母が具合を尋ねると、義父は首を振り、手話で伝えた。「効果なし。私の病気は治らない。もう諦めて、健二の手術代を残した方がいい」義母は優しく微笑んだ。「これが初めてだからよ。何度か通えば、きっと良くなるわ」家に戻り、私と義母は薬を受け取りに行くと言って外出した。団地を出るとすぐに監視カメラの映像を確認する。映像には義父が健二の足をマッサージしている姿が映っていた。「具合はどうだ?」義父のかすれた声が響く。健二は不安げな表情を浮かべながら言った。「まだ足が痺れてる。父さん、もう母さんと由美に正直に話そうよ。父さんの声だってあんなになって......このまま鍼を続けたら、本当に体が不自由になっちゃうかもしれない」「お前は慌てすぎだ。さっきもばれそうになった」義父は咳払いをして声を取り戻しながら続けた。「確かにあの牛島の鍼は下手だが、命に関わるほどじゃない」さすがは義父、冷静さを崩さない。「数日我慢すればいい。あの二人は焦って何でも試そうとしているだけだ。お前の母さんも昔は私をよく病院に連れて行ったが、そのうち諦めた。それに、二人が働きに出れば、後は私たちの思い通りだ」その言葉に、父子は目を合わせてほくそ笑んだ。「そうだな。母さんと由美は仕事の虫だもんな。仕事に出れば、家の中は俺たちの自由だ」前世では、なぜ健二が障害を装ったのか理解できなかった。私の死の間際、彼は得意げに真相を明かした。最初は母への漢方薬を紛失し、私に責められるのが怖く、自分の金で弁償したくなかったため、事故を装ったのだ。その時、義父の秘密も知ることになった。義父が聴覚障害を装い始めたのは、若い頃の義母との口論に疲れ果てたためだった。しばらくすると、病人を装うことで楽な生活が送れることに気づいた。仕事も育児も免除され、健二が小学生になると、義母は出稼ぎに出て、義父は息子の食事を作るだけでよくな
義母は一瞬目を見開いた。「あの人は二十年も話せてないのよ。耳が不自由なのは間違いないわ」私は義母の手を取った。「お母さん、今日だけ会社休んでもらえない?」私の真意は分からないものの、義母は一日の休暇を取ってくれた。私たちはまず、健二が事故に遭った後に運ばれたという病院を訪ねた。健二の保険証で病歴を確認すると、そこには単なる打撲との記録しかなかった。入院どころか、ICUに運ばれた形跡すらない。義母は病歴を食い入るように見つめ、声を震わせた。「これ、どういうこと?」私は静かに言った。「お母さん、お父さんはここの病院の医師だったんですよね」この病院の医師なら、診断書や病歴の改ざんなど造作もないことだったはず。義母の顔から血の気が引いていく。「まさか、健二は本当は......」私は黙って頷き、スマホを取り出した。昨日、買い物のついでに隠しカメラを仕掛けておいたのだ。夜中、健二が寝静まった頃を見計らって設置していた。映像には健二の姿がない。少し巻き戻すと、義父が寝室に入り、健二を起こす場面が映っていた。「おい、起きろよ」健二は目を開け、意地の悪い笑みを浮かべた。「母さんと由美は出かけたの?」「ああ」その一言で、健二はぱっとベッドから飛び起き、足を伸び伸びと動かし始めた。「いやあ、麻痺のふりも骨が折れるよ。夜中に寝返りも打てないなんて」健二は不満げに言った。「父さん、もし由美が本当に漢方医に連れて行ったらどうする?」義父は冷静に答えた。「我慢できさえすれば問題ない。名医が来ても治せないふりをすればいいだけだ」「でも、もう限界だって」「漢方なんて大したことないさ。せいぜい鍼と漢方薬だろう。しばらく様子を見れば飽きてくる。その後で適当な口実を作って、母さんと由美を遠くへ行かせれば、俺たちは自由になれる」健二は親指を立てて笑った。「さすが父さんだな。こんな策を考えつくなんて、天才的だよ!」その後、父子は気取った様子で肩を組んで寝室を後にした。映像を止めた。二人の偽装は分かっていたものの、この会話を耳にすると怒りが込み上げてきた。真実を知った義母はさらに激しい怒りに震えていた。スマホを握り締めた手が震え、顔は朱に染まっていた。「
私は食事を寝室に運んだ。健二は携帯の電源を切り、私を見上げた。「由美、母さんが離婚を勧めてきたんだろう?母さんの言う通りかもしれない。俺みたいな不自由な体の男と一緒にいても、お前の将来のためにならない」彼は心から言っているように見えた。 前世では、この言葉に心を打たれ、即座に「一生あなたと共に」と誓ってしまった。その時は気づかなかったが、私と義母の会話はキッチンでのことで、防音の寝室からは聞こえるはずもない。健二がどうやって内容を知ったのか。自分で立ち聞きしたか、リビングにいた義父から聞いたか、そのどちらかだったはずだ。私は目を見開いて言った。「本当なの?離婚したいなら、今日にでも区役所に行きましょうか」予想外の返事に、健二は一瞬にして表情を変えた。「由美、お前の母さんのために薬を届けようとして、俺はこうなったんだぞ。それなのに離婚だって?人でなしもいいところだな」ふん、もう演技が続かないのね。せめて区役所まで一緒に行くくらいは演じ続けると思ったのに。「冗談よ。離婚なんかするわけないでしょう」前世の借りを返していない。そう簡単には解放してあげない。「さあ、食事にしましょう」私は微笑みながら、わざとスープの入った器を震わせた。熱々のスープが健二の足にこぼれた。彼は悲鳴を上げ、反射的に足を跳ね上げ、器が床に落ちた。「由美!火傷させる気か!」「あら、足が動いたわ......」布団のおかげで実際には火傷していない。健二の足は白くて滑らか、一点の傷もない。自分の嘘がばれたと思ったのか、青ざめた顔で】「由美、これは......」私は更に強く太ももを叩いた。「見て!反応があるじゃない。まだ治る可能性があるってことよ」健二は私が気づいていないと思い、安堵の吐息を漏らした。「医者の話では手術すれば歩けるようになる可能性があるんだ。ただ、手術費用が100万円かかるって。由美、治療する気はあるか?」手術の話は健二と義父が仕組んだ芝居だった。健二の本当の狙いは、私の持参財産を売らせて新しい家を買うことだった。持参財産は婚前財産だから、離婚しても健二には一切権利がないのだ。「するわよ!もちろん治療するわ!」私は彼の太腿を思い切り叩いた。健二が叫び声を必死
「由美、健二はもう歩けなくなってしまったのよ。このまま若い人生を棒に振るのはもったいないわ。離婚を考えてみたら?」目を開けた時、義母は台所で料理を作り終えたところだった。鏡に映る若かりし日の自分の姿、お気に入りの花柄のワンピース姿を見て、私は確かに過去に戻ってきたのだと実感した。前世では、母のために高価な漢方薬を買い、急な出張で健二に届けてもらった。その帰り道で事故に遭い、下半身が動かなくなったと聞かされた。診断書を見た時は、この先どうなるのかと途方に暮れた。義父は涙を流し、夫の佐藤健二は暗い表情を浮かべていた。ただ義母だけは私との離婚を勧めてきた。まだ若いのだから、寝たきりの夫の介護に人生を費やすべきではないと。義母も波乱の人生を送ってきた。義父は健二が二歳の時に聴覚を失い、それ以来働けなくなった。義母は一人で家計を支えてきたのだ。前世では、義母のその言葉に胸を打たれ、涙ながらに決して離婚しないと誓った。そして私たちの生活は一変した。義父が家で健二の世話をして毎日リハビリに付き添い、私と義母は遠方で働いて生活費を稼ぐ日々が始まった。健二の手術費用と、その後毎月かかる三十万円のリハビリ代を工面するため、私は実家からもらった家と車を売り払い、安定していた会社を辞めた。義母と一緒に、給料は良いものの社会保険のない】工場で働き始めたのだ。私と義母は一日三つの仕事を掛け持ちした。朝は牛乳配達、昼間は工場で十二時間の重労働、夜は宅配便のバイト。古びた六畳一間のアパートで暮らし、肉も果物も贅沢過ぎて手が出せなかった。百円のパンに五十円の素麺、百円の漬物だけが私たちの一ヶ月の食事だった。そんな過酷な生活に耐え切れず、義母は数年後に息を引き取った。私も健二が体が不自由になってから十年後に乳がんが見つかった。幸い初期だったが、もう治療する気力さえ残っていなかった。最期に一度だけ健二の顔を見たくて家に戻った時、目を疑うような光景が広がっていた。健二が若い女と楽しげにダンスを踊り、義父はカラオケマイクを片手に上機嫌で歌っていた。その瞬間、全ての謎が解けた。健二の体の不自由も、義父の聴覚障害も、全てが芝居だったのだ。血の滲むような思いで貯めた金を返すよう懇願したが、健二は逆に離婚を切り出