楓真は私をじっと見つめ、眼鏡の奥で少し困ったような笑みを浮かべた。「いいですよ。ただ、時間をしっかり決めたほうがいいですね。ここは人の出入りが多いので、落ち着けるとは限りません」彼の許可を得て、私はようやく胸のつかえが下りた気分だった。深々とお礼を言い、薬の入った紙袋を抱えて寮に戻る。部屋に入ると、優奈がすでに戻っていた。同室の他の子たちはまだお互い遠慮があるようで、黙々と身支度を整えてベッドに入っていく。でも優奈だけは違った。彼女は机に座り、ゲームに熱中していた。ヘッドセット越しに聞こえる男の声は、どうやら彼女を楽しませようと一生懸命のようで、優奈は笑い声を上げていた。どうやら彼女の周りが静かになるのは、消灯後になりそうだ。私はスマホを手にベッドに上がり、横になりながら通知を確認する。そこには楓真からの友達申請が来ていた。彼のアイコンは、ボールを咥えて草原を走り回るコーギーだった。柔らかな毛並みが風に舞う様子がとても生き生きしていて、思わず見入ってしまう。......不思議なことに、どこかで見たような気がする。けれど、その感覚がどこから来るのか思い出せず、首を振って気を取り直した。申請を承認すると、すぐに彼からメッセージが届く。「薬は飲みましたか?」「飲みました。ありがとうございます、橘先生」そう返信すると、「入力中」の表示が長く続いたあと、次のメッセージが届いた。「橘でいいですよ」それに答える間もなく、続けて長いメッセージが送られてくる。「この薬には少し副作用があります。吐き気や頭痛を感じることがあるかもしれませんが、これは正常な反応です。もし副作用が強く出た場合は、相談に来てください。この期間の訓練を休めるように手配することもできます」その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなった。このよくわからない症状に悩まされて一人で耐えてきたこの数週間。痛みも、不安も、誰にも打ち明けられずにいた。でも―楓真の存在は、まるで暗闇に差し込む一筋の光のようだった。「ありがとう」と打ち込んで送ろうとしたけど、どうにも軽すぎる気がしてやめた。代わりに、コーギーの可愛いスタンプをいくつか検索して送ることにした。すぐに返事が来る。「もう寝たかと思いました。おやすみなさい。訓練は
「へぇ~」優奈が声を引き伸ばして返事をする。その後、椅子を引く音が聞こえ、どうやら座ったようだ。「るいがこっちに来てたから、具合が悪いのかなって思って。あ、橘先生、私最近あんまり眠れてなくて、心拍数が変な感じがするんです。診てもらえますか~?」優奈の甘えるような声は、夜に男の子とゲームをしているときの騒がしい声とはまるで違っていて、聞いているだけで背中がゾワッとした。橘は無言で彼女の状態を確認しているのか、部屋の中はしばらく静かだった。数分後、ようやく冷たい声で答えた。「特に問題はありません。もし体調に不安があるなら、早めに休んだほうがいいですよ」その冷ややかな返事に気づいたのか、優奈は平然を装って続けた。「そうですか~。それなら安心しました。最近、部活の仕事でちょっと忙しくて疲れちゃってたみたいです。それと橘先生、よかったら友達追加してもらえませんか?何かあったときにすぐ連絡できるようにしたいんです~」私は道具の重さで腕がだるくなり始めていて、早く橘が彼女のお願いを聞いて送り出してくれるのを願っていた。しかしーー「必要ありません。何かあれば、直接こちらに来てください。いつでも誰かが対応しますから」橘は即座にきっぱりと断った。なぜだかわからないけれど、その言葉を聞いたとき、私は少し嬉しくなってしまった。自分の妙な感情に気づいて慌てて気を引き締めたところで、ドアが閉まる音が聞こえ、ようやく優奈が出ていったことを確認した。重い機械をそっと床に置き、安堵の息をついたそのとき、近づいてくる足音がした。「今の人、君の友達?」カーテンを開けずに立ったまま、楓真が声をかけてきた。その声はいつもの柔らかさを取り戻している。「友達ってほどじゃないです。同じ部屋の子です」正直に答えると、楓真はあっさりと頷いた。「なるほど。もし他の人に知られたくないなら、少し遠回りして食堂の裏から来るといい。これを持っていれば簡単に入れるよ」そう言いながら、カーテンを開けようとした気配がしたが、彼は少し迷った様子で動きを止めた。「テーブルに置いておくから、帰るときに持っていって」私は少し驚いて尋ねた。「先生はどうするんですか?」軽い笑い声がカーテンの向こうから聞こえ、楓真が答える。「隣の部屋から予備を
「盗んだんじゃない、これは―」慌てて説明しようとしたけれど、優奈が冷笑とともに私の言葉を遮る。「これは医務室のカードキーだよ。中の医者しか持ってないはずだけど?盗んでないって言うなら、まさか再就職でもしたの?」彼女の皮肉混じりの言葉に、周りにいた学生会のメンバーたちが笑い声を上げた。全員が面白がるような視線を向けてきて、恥ずかしさと悔しさで胸が苦しくなる。そのとき、渚が突然、優奈の手からカードキーを取り上げた。「見回りならそれだけしてればいいでしょ。なんで他人の持ち物を勝手に漁るの?」大きな声でそう言い放つと、優奈の高圧的な態度が一気に萎んだ。私は感謝の気持ちを込めて、渚からカードキーを受け取る。それから、自然と優奈の方を見た。優奈は面目を潰されたようで笑顔が消え、口を開きかけたものの言い返す言葉が見つからない様子だった。それでも私に矛先を向け、「で?」とさらに問い詰める。「どこでそのカードキーを手に入れたのか、言いなさいよ」渚がまた何か言おうとするのを、私は急いで止めた。彼女は関係ないのに私をかばってくれただけだ。これ以上、優奈に目をつけられてほしくない。私は深呼吸をしてから、できるだけ落ち着いた声で言った。「先生からもらったものです」優奈は明らかに疑わしそうな顔をして尋ねる。「橘先生?」私が頷くと、彼女は目を見開いて驚きながら言った。「嘘でしょ?橘先生がそんなもの渡すわけないじゃない。彼、学生の友達申請さえ断るのに、カードキーなんて渡すわけがないじゃない!」これ以上言い争っても無駄だと思った私は、携帯を取り出して楓真に電話をかけた。呼び出し音が鳴る前に、彼の柔らかな声が受話器越しに聞こえる。「どうしましたか?」その瞬間、不思議な感情が胸にこみ上げた。まるで子どもの頃、誰かにいじめられて泣きそうになったとき、お母さんが助けてくれたときのような安心感。でも、なんとかその気持ちを抑え、普通を装って答える。「橘先生、先日いただいたカードキーですが、いつお返しすればいいでしょうか?」普段、彼との会話では「先生」と呼ぶのをやめてほしいと言われているのに、あえてそう呼んだ。私の意図に気づいたのか、彼はすぐに答えてくれる。「診断が終わったら返してください」
優奈とカードキーを巡って揉めた数日後、学校の掲示板に私の名前が現れた。 それを教えてくれたのは渚だった。 彼女はゲーム好きで、いろいろなゲームグループに入っている。その中で誰かが掲示板の書き込みを転送してきたらしい。 最初に広まった噂は、私が目立ちたがりで、毎日のように医務室に通って楓真に会いに行っている、というものだった。 実際、軍事訓練が終わったあとはどの新入生もおしゃれに気を使っていて、少しでも「あの迷彩服時代」のイメージを払拭しようとしていた。 そんな中、私は長袖やパンツスタイルばかりで目立つような服は着ていない。 楓真の「気にしなくていい」という言葉を思い出し、その書き込みも無視することにした。 掲示板には毎日何百もの書き込みがあり、誰かの悪口や恋人探しの書き込みで溢れている。 私のことなんてすぐに埋もれるはず―そう思っていた。 しかし、数日後、渚がまた怒った顔でスマホを私の目の前に叩きつけてきた。 「これ、ふざけすぎでしょ!こんな嘘まで書くなんて、ただのいじめじゃん!」 私は彼女の剣幕に戸惑いながら画面を覗き込むと、そこには私が妊娠したという信じがたい内容が書かれていた。 その書き込みはまるで私の日常を知り尽くしているかのような詳細さだった。 どんな薬を飲んでいるか、どの時間に寮を出入りしているかまで書かれている。 さらにコメント欄を見ると、内容はどんどん悪化していく。 「大一の新入生がこんなに奔放なの?3年彼女いない俺も見習わないと!」 「この薬、泌乳を抑えるやつだよね。うちの薬局にもよく問い合わせがある」 「正解!自分で調べたけど、マジで新しい世界が広がったよ!」 「いやいや、天川さんって男の子ともほとんど話さないよね?なんか違和感ある」 「そこがわかってないな~。毎日医務室に通ってるってことは、どっかのじいさんと......とか?www」 その酷い内容に目を通していると、渚が肩を掴んで揺らし、心配そうに聞いてきた。 「大丈夫?しっかりしてよ」 私はスマホを置き、混乱した頭を整理しようとした。 そんな私を見て渚はさらに焦ったように言う。 「慌てなくていいから!これ、管理者に頼めば投稿者の情報を調べられるから、今すぐ連絡してみる!」 でも、彼女に頼むまで
掲示板の書き込みには楓真の名前がちらほら出ていた。 私と彼が付き合っているという憶測もあれば、関係ない話題で「イケメンだ」と絶賛するコメントまである。 おそらく、山田先生が父にそのあたりの情報を伝えたのだろう。だからこそ父は楓真を呼べと言い出したのだ。 母に抱きしめられた私は、なんとかして父を止めようとしたが、母に手を引かれて抑えられた。 「余計なこと言わないの。お父さん、ここまで来る間ずっと怒ってたんだから」 頭の中がぐるぐるして、耳鳴りが鳴り響くような感覚に襲われる。 「これは私の病気なんだ!先生は何も関係ない!」 思わず声を荒げてしまう。 父は私の反抗にさらに怒りを募らせたのか、鋭い視線で怒鳴りつける。 「だったらその人のカードキーを持ち歩いてるのはなんなんだ!毎日医務室に通って、どんな病気が半月も治らないって言うんだ!」 私は答えられず黙り込む。すると、父は冷笑して続けた。 「軍事訓練をサボりたかっただけだろう?そんなの、俺の若い頃からよくいるタイプだ」 昔から、父は私の言い分を聞こうとしなかった。 試験で1位を取れなかったら「努力が足りない」。風邪をひけば「遊び歩いていたせい」。高校3年生の受験期、ストレスで倒れそうになったときも「怠けたいからそういうことを言うんだ」と一蹴された。 彼は私を最悪の人間扱いする一方で、私が名門大学に合格したときは「自分の教育が良かったおかげだ」と自慢する。 父は何も手助けをしていないのに。 私は涙で視界がぼやけ、頭を下げたまま、いつものように沈黙で怒りを受け流すしかなかった。 そのとき、オフィスのドアが勢いよく開く音がした。 思わず振り返ると、息を切らした楓真が入ってくる。 彼はまず私の方を一瞥し、少し心配そうな表情を見せた。 次に視線を山田先生と父に向け、落ち着いた声で話しかける。 「山田先生、天川さん」 父の顔がみるみる柔らかくなり、声まで穏やかになる。 「楓真君?」 私が驚いているのが顔に出たのか、母が私の頭を軽く叩いて笑う。 「楓真君は、橘さんの息子よ。あなたと同じ学校で、2年上の先輩だったじゃない」 高校時代の私は勉強に追われてばかりで、楓真という先輩がいることなどまるで知らなかった。 ただ、父と母が「橘さん
私は天川るい。ただの平凡な大学生のはずだった。けれど、最近ずっと悩みのタネが尽きない。恋愛なんてしたこともないのに、ある日突然、謎の現象に襲われたーー乳汁が分泌されるようになったのだ。しかも量がとんでもない!3時間ごとにこっそり搾らないと、乳腺炎になりかねない。最悪なことに、軍事訓練で迷彩服を着て走ったり跳んだりしなきゃいけないから、布が擦れて胸が痛くて痒くて......もう耐えられない!涙が出そうなほど辛い私は、意を決して医務室に向かうことにした。その日、昼休みの時間にこっそりシャワーを浴びたあと、新校舎の3階にある唯一開いている医務室へ急いだ。幸いにも新入生たちは教官のスパルタ指導で疲れ果てているから、廊下には誰もいない。大丈夫、誰にも見られない。そう自分に言い聞かせながら、緊張した気持ちで扉をノックした。「どうぞ」簡潔で落ち着いた男性の声が返ってきた。男の先生だと気づいた瞬間、帰りたくなったけれど、胸の重たい痛みがそれを許さなかった。深呼吸して気持ちを整え、顔を赤らめながらドアを押し開けた。なるべく視線を下げたまま、そっと椅子に腰を下ろす。「どうしましたか?」清らかで穏やかな声が響いた。意外と若そうな印象だ。その声に促されて、私はさらに顔が熱くなるのを感じながら答えた。「えっと、その......先生......」小さな声で震えながら口を開く。「お休みが欲しくて......診断書をお願いできませんか?」「軍事訓練を休みたがる学生は多いですが、本当に具合が悪い場合に限りますよ。どこが調子悪いんですか?」その冷静な質問に、私はどうしようもなく恥ずかしくなって、蚊の鳴くような声で答えた。「む......胸が......」その言葉を口にした瞬間、彼の反応が気になって、私はこっそり視線を上げた。目の前にいたのは―ただの医者じゃなかった。彼の端正な顔立ちは、まるで彫刻みたい。高い鼻梁にかかった金縁眼鏡、その奥で冷静に視線を落としながらペンを走らせる姿はまさに「草食系」そのもの。まさか、こんなにイケメンな人が先生だなんて............いやいや、そんなことに気を取られてる場合じゃない!胸の痛みをどうにかするために来たのだから。彼の白衣姿はまるで光をまとっ
「痛かったですか?」「いえ、私が......その......敏感すぎるだけで......」私は慌てて首を振り、勘違いされないように必死で説明した。顔が熱くなるのを感じながら、もう一度目を閉じるしかない。楓真にすべてを任せるしかなかった。しかし、次第に空気が何だかおかしな方向に変わっていった。自分の体なのに、まるで知らないものに思える。彼がようやく手を離し立ち上がったときーーなぜか言葉にできない虚しさが胸の奥に広がった。楓真は工具を片付け、真剣な表情で告げる。「今の段階では原因を断定できません。ただ、このまま放置するともっと悪化する可能性があります。なので、適切に流れを良くしないといけません」その言葉は、私がネットで調べた情報とだいたい一致していた。でも、具体的に「流れを良くする」ってどうやるの?その答えを聞こうとした瞬間―ドアが激しくノックされる音が聞こえた。私は驚いて、とっさに服を引き寄せる。どうやら誰かが何かを借りに来たらしい。私は息を潜めた。誰かに見られたら―この状態を知られたら―恥ずかしくて消えたくなるに違いない。慌てて服を整えたものの、楓真が触れた後の胸元は濡れてしまい、引っ張り上げた服にも痕がにじんでしまっていた。すぐに楓真が鍵をかけ、カーテンをもう一度引いた。「どうしました?」彼が私の顔を見て、不安げに声をかける。その整った顔立ちにまた顔が熱くなりながら、私は口を開いた。「先生、少しだけ......外していただけますか?搾らないと、このまま軍事訓練に戻るのは......」私は恥ずかしさで言葉を詰まらせつつ、なんとか説明した。楓真はしばらく私の様子を見て、それから小さく頷いた。彼がカーテンを閉めたのを確認して、私はどうにかしようと手を動かす。......でも、どうすればいいのかわからない。シャワーを浴びてそのままここに来たから、準備なんて全然していない。それに、この部屋には何もない。搾ったものを入れる容器すらないし、新品のベッドを汚してしまうわけにもいかない。「先......先生、使い捨ての紙コップか何かありませんか?」試すように、恐る恐る楓真にお願いしてみた。すぐに彼の手がカーテンの向こうから差し出され、紙コップを渡してくれた。だけど
掲示板の書き込みには楓真の名前がちらほら出ていた。 私と彼が付き合っているという憶測もあれば、関係ない話題で「イケメンだ」と絶賛するコメントまである。 おそらく、山田先生が父にそのあたりの情報を伝えたのだろう。だからこそ父は楓真を呼べと言い出したのだ。 母に抱きしめられた私は、なんとかして父を止めようとしたが、母に手を引かれて抑えられた。 「余計なこと言わないの。お父さん、ここまで来る間ずっと怒ってたんだから」 頭の中がぐるぐるして、耳鳴りが鳴り響くような感覚に襲われる。 「これは私の病気なんだ!先生は何も関係ない!」 思わず声を荒げてしまう。 父は私の反抗にさらに怒りを募らせたのか、鋭い視線で怒鳴りつける。 「だったらその人のカードキーを持ち歩いてるのはなんなんだ!毎日医務室に通って、どんな病気が半月も治らないって言うんだ!」 私は答えられず黙り込む。すると、父は冷笑して続けた。 「軍事訓練をサボりたかっただけだろう?そんなの、俺の若い頃からよくいるタイプだ」 昔から、父は私の言い分を聞こうとしなかった。 試験で1位を取れなかったら「努力が足りない」。風邪をひけば「遊び歩いていたせい」。高校3年生の受験期、ストレスで倒れそうになったときも「怠けたいからそういうことを言うんだ」と一蹴された。 彼は私を最悪の人間扱いする一方で、私が名門大学に合格したときは「自分の教育が良かったおかげだ」と自慢する。 父は何も手助けをしていないのに。 私は涙で視界がぼやけ、頭を下げたまま、いつものように沈黙で怒りを受け流すしかなかった。 そのとき、オフィスのドアが勢いよく開く音がした。 思わず振り返ると、息を切らした楓真が入ってくる。 彼はまず私の方を一瞥し、少し心配そうな表情を見せた。 次に視線を山田先生と父に向け、落ち着いた声で話しかける。 「山田先生、天川さん」 父の顔がみるみる柔らかくなり、声まで穏やかになる。 「楓真君?」 私が驚いているのが顔に出たのか、母が私の頭を軽く叩いて笑う。 「楓真君は、橘さんの息子よ。あなたと同じ学校で、2年上の先輩だったじゃない」 高校時代の私は勉強に追われてばかりで、楓真という先輩がいることなどまるで知らなかった。 ただ、父と母が「橘さん
優奈とカードキーを巡って揉めた数日後、学校の掲示板に私の名前が現れた。 それを教えてくれたのは渚だった。 彼女はゲーム好きで、いろいろなゲームグループに入っている。その中で誰かが掲示板の書き込みを転送してきたらしい。 最初に広まった噂は、私が目立ちたがりで、毎日のように医務室に通って楓真に会いに行っている、というものだった。 実際、軍事訓練が終わったあとはどの新入生もおしゃれに気を使っていて、少しでも「あの迷彩服時代」のイメージを払拭しようとしていた。 そんな中、私は長袖やパンツスタイルばかりで目立つような服は着ていない。 楓真の「気にしなくていい」という言葉を思い出し、その書き込みも無視することにした。 掲示板には毎日何百もの書き込みがあり、誰かの悪口や恋人探しの書き込みで溢れている。 私のことなんてすぐに埋もれるはず―そう思っていた。 しかし、数日後、渚がまた怒った顔でスマホを私の目の前に叩きつけてきた。 「これ、ふざけすぎでしょ!こんな嘘まで書くなんて、ただのいじめじゃん!」 私は彼女の剣幕に戸惑いながら画面を覗き込むと、そこには私が妊娠したという信じがたい内容が書かれていた。 その書き込みはまるで私の日常を知り尽くしているかのような詳細さだった。 どんな薬を飲んでいるか、どの時間に寮を出入りしているかまで書かれている。 さらにコメント欄を見ると、内容はどんどん悪化していく。 「大一の新入生がこんなに奔放なの?3年彼女いない俺も見習わないと!」 「この薬、泌乳を抑えるやつだよね。うちの薬局にもよく問い合わせがある」 「正解!自分で調べたけど、マジで新しい世界が広がったよ!」 「いやいや、天川さんって男の子ともほとんど話さないよね?なんか違和感ある」 「そこがわかってないな~。毎日医務室に通ってるってことは、どっかのじいさんと......とか?www」 その酷い内容に目を通していると、渚が肩を掴んで揺らし、心配そうに聞いてきた。 「大丈夫?しっかりしてよ」 私はスマホを置き、混乱した頭を整理しようとした。 そんな私を見て渚はさらに焦ったように言う。 「慌てなくていいから!これ、管理者に頼めば投稿者の情報を調べられるから、今すぐ連絡してみる!」 でも、彼女に頼むまで
「盗んだんじゃない、これは―」慌てて説明しようとしたけれど、優奈が冷笑とともに私の言葉を遮る。「これは医務室のカードキーだよ。中の医者しか持ってないはずだけど?盗んでないって言うなら、まさか再就職でもしたの?」彼女の皮肉混じりの言葉に、周りにいた学生会のメンバーたちが笑い声を上げた。全員が面白がるような視線を向けてきて、恥ずかしさと悔しさで胸が苦しくなる。そのとき、渚が突然、優奈の手からカードキーを取り上げた。「見回りならそれだけしてればいいでしょ。なんで他人の持ち物を勝手に漁るの?」大きな声でそう言い放つと、優奈の高圧的な態度が一気に萎んだ。私は感謝の気持ちを込めて、渚からカードキーを受け取る。それから、自然と優奈の方を見た。優奈は面目を潰されたようで笑顔が消え、口を開きかけたものの言い返す言葉が見つからない様子だった。それでも私に矛先を向け、「で?」とさらに問い詰める。「どこでそのカードキーを手に入れたのか、言いなさいよ」渚がまた何か言おうとするのを、私は急いで止めた。彼女は関係ないのに私をかばってくれただけだ。これ以上、優奈に目をつけられてほしくない。私は深呼吸をしてから、できるだけ落ち着いた声で言った。「先生からもらったものです」優奈は明らかに疑わしそうな顔をして尋ねる。「橘先生?」私が頷くと、彼女は目を見開いて驚きながら言った。「嘘でしょ?橘先生がそんなもの渡すわけないじゃない。彼、学生の友達申請さえ断るのに、カードキーなんて渡すわけがないじゃない!」これ以上言い争っても無駄だと思った私は、携帯を取り出して楓真に電話をかけた。呼び出し音が鳴る前に、彼の柔らかな声が受話器越しに聞こえる。「どうしましたか?」その瞬間、不思議な感情が胸にこみ上げた。まるで子どもの頃、誰かにいじめられて泣きそうになったとき、お母さんが助けてくれたときのような安心感。でも、なんとかその気持ちを抑え、普通を装って答える。「橘先生、先日いただいたカードキーですが、いつお返しすればいいでしょうか?」普段、彼との会話では「先生」と呼ぶのをやめてほしいと言われているのに、あえてそう呼んだ。私の意図に気づいたのか、彼はすぐに答えてくれる。「診断が終わったら返してください」
「へぇ~」優奈が声を引き伸ばして返事をする。その後、椅子を引く音が聞こえ、どうやら座ったようだ。「るいがこっちに来てたから、具合が悪いのかなって思って。あ、橘先生、私最近あんまり眠れてなくて、心拍数が変な感じがするんです。診てもらえますか~?」優奈の甘えるような声は、夜に男の子とゲームをしているときの騒がしい声とはまるで違っていて、聞いているだけで背中がゾワッとした。橘は無言で彼女の状態を確認しているのか、部屋の中はしばらく静かだった。数分後、ようやく冷たい声で答えた。「特に問題はありません。もし体調に不安があるなら、早めに休んだほうがいいですよ」その冷ややかな返事に気づいたのか、優奈は平然を装って続けた。「そうですか~。それなら安心しました。最近、部活の仕事でちょっと忙しくて疲れちゃってたみたいです。それと橘先生、よかったら友達追加してもらえませんか?何かあったときにすぐ連絡できるようにしたいんです~」私は道具の重さで腕がだるくなり始めていて、早く橘が彼女のお願いを聞いて送り出してくれるのを願っていた。しかしーー「必要ありません。何かあれば、直接こちらに来てください。いつでも誰かが対応しますから」橘は即座にきっぱりと断った。なぜだかわからないけれど、その言葉を聞いたとき、私は少し嬉しくなってしまった。自分の妙な感情に気づいて慌てて気を引き締めたところで、ドアが閉まる音が聞こえ、ようやく優奈が出ていったことを確認した。重い機械をそっと床に置き、安堵の息をついたそのとき、近づいてくる足音がした。「今の人、君の友達?」カーテンを開けずに立ったまま、楓真が声をかけてきた。その声はいつもの柔らかさを取り戻している。「友達ってほどじゃないです。同じ部屋の子です」正直に答えると、楓真はあっさりと頷いた。「なるほど。もし他の人に知られたくないなら、少し遠回りして食堂の裏から来るといい。これを持っていれば簡単に入れるよ」そう言いながら、カーテンを開けようとした気配がしたが、彼は少し迷った様子で動きを止めた。「テーブルに置いておくから、帰るときに持っていって」私は少し驚いて尋ねた。「先生はどうするんですか?」軽い笑い声がカーテンの向こうから聞こえ、楓真が答える。「隣の部屋から予備を
楓真は私をじっと見つめ、眼鏡の奥で少し困ったような笑みを浮かべた。「いいですよ。ただ、時間をしっかり決めたほうがいいですね。ここは人の出入りが多いので、落ち着けるとは限りません」彼の許可を得て、私はようやく胸のつかえが下りた気分だった。深々とお礼を言い、薬の入った紙袋を抱えて寮に戻る。部屋に入ると、優奈がすでに戻っていた。同室の他の子たちはまだお互い遠慮があるようで、黙々と身支度を整えてベッドに入っていく。でも優奈だけは違った。彼女は机に座り、ゲームに熱中していた。ヘッドセット越しに聞こえる男の声は、どうやら彼女を楽しませようと一生懸命のようで、優奈は笑い声を上げていた。どうやら彼女の周りが静かになるのは、消灯後になりそうだ。私はスマホを手にベッドに上がり、横になりながら通知を確認する。そこには楓真からの友達申請が来ていた。彼のアイコンは、ボールを咥えて草原を走り回るコーギーだった。柔らかな毛並みが風に舞う様子がとても生き生きしていて、思わず見入ってしまう。......不思議なことに、どこかで見たような気がする。けれど、その感覚がどこから来るのか思い出せず、首を振って気を取り直した。申請を承認すると、すぐに彼からメッセージが届く。「薬は飲みましたか?」「飲みました。ありがとうございます、橘先生」そう返信すると、「入力中」の表示が長く続いたあと、次のメッセージが届いた。「橘でいいですよ」それに答える間もなく、続けて長いメッセージが送られてくる。「この薬には少し副作用があります。吐き気や頭痛を感じることがあるかもしれませんが、これは正常な反応です。もし副作用が強く出た場合は、相談に来てください。この期間の訓練を休めるように手配することもできます」その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなった。このよくわからない症状に悩まされて一人で耐えてきたこの数週間。痛みも、不安も、誰にも打ち明けられずにいた。でも―楓真の存在は、まるで暗闇に差し込む一筋の光のようだった。「ありがとう」と打ち込んで送ろうとしたけど、どうにも軽すぎる気がしてやめた。代わりに、コーギーの可愛いスタンプをいくつか検索して送ることにした。すぐに返事が来る。「もう寝たかと思いました。おやすみなさい。訓練は
朝からずっと続いていた胸の張りが、楓真の処置でかなり楽になった。部屋の中には、静寂を破る微かな音だけが響いていた。気づけば10分ほど経っていたころ、ようやく楓真は私を解放してくれた。そのときには、胸の痛みもほぼ消えていた。自分で解消するよりも、彼のやり方のほうがはるかに効果的だったみたい。私は未だにぼんやりしたままで、服を着直す手さえ震えていた。そんな私を見て、楓真は手首をそっと掴むと、袖に手を通してくれた。最後に服の裾を整えると、カーテンを引き開けて言う。「とりあえず軍事訓練に戻りましょう。薬が必要か確認して、夜に届けます」その声はどこかよそよそしく、彼は目線を合わせようとしない。まるで、さっきまで私を積極的に助けていたのが他人だったかのように振る舞う。私はこくりと頷き、ベッドから降りようとしたけれど、全身が妙に力が入らなくて、ふらついてしまった。そのまま楓真の胸に倒れ込むと、頭の上から小さな笑い声が聞こえた。その音に、さっきまでのぼんやり感が吹き飛ぶ。慌てて立ち直った私に、楓真は落ち着いた声で続けた。「午後の訓練は18時半に終わりますよね?ご飯を食べて、19時ごろにここに来てください」私は慌ただしく頷くと、急いで部屋を飛び出した。外に出ると、強い日差しが肌に刺さる。それでようやく現実に引き戻された気がした。でも、さっきの出来事を思い出すと、どうにも自分が信じられない。こんな大胆なことが私に起きるなんて......幸い、服に汚れが残っていない。これなら誰にもバレないはず。午後の訓練中、私はずっとぼんやり考え込んでいた。そのせいで内容はほとんど頭に入らなかったけど、気づけば解散する時間になっていた。私は医務室に近い食堂を選び、適当に列に並んだ。すると突然、背中に軽く触れる感触があった。振り返ると、新しいルームメイトの優奈が笑顔で立っていて、自然な動きで私の前に割り込む。後ろから文句を言う声が聞こえたけど、みんな新入生だからか、大事にはならない様子だった。優奈は気にする様子もなく、振り返って私に話しかける。「ねえ、昼休みどこ行ってたの?なんで戻ってこなかったの?」医務室での出来事が頭をよぎり、私は思わず顔を赤らめた。「ちょっと......具合が悪くて
「痛かったですか?」「いえ、私が......その......敏感すぎるだけで......」私は慌てて首を振り、勘違いされないように必死で説明した。顔が熱くなるのを感じながら、もう一度目を閉じるしかない。楓真にすべてを任せるしかなかった。しかし、次第に空気が何だかおかしな方向に変わっていった。自分の体なのに、まるで知らないものに思える。彼がようやく手を離し立ち上がったときーーなぜか言葉にできない虚しさが胸の奥に広がった。楓真は工具を片付け、真剣な表情で告げる。「今の段階では原因を断定できません。ただ、このまま放置するともっと悪化する可能性があります。なので、適切に流れを良くしないといけません」その言葉は、私がネットで調べた情報とだいたい一致していた。でも、具体的に「流れを良くする」ってどうやるの?その答えを聞こうとした瞬間―ドアが激しくノックされる音が聞こえた。私は驚いて、とっさに服を引き寄せる。どうやら誰かが何かを借りに来たらしい。私は息を潜めた。誰かに見られたら―この状態を知られたら―恥ずかしくて消えたくなるに違いない。慌てて服を整えたものの、楓真が触れた後の胸元は濡れてしまい、引っ張り上げた服にも痕がにじんでしまっていた。すぐに楓真が鍵をかけ、カーテンをもう一度引いた。「どうしました?」彼が私の顔を見て、不安げに声をかける。その整った顔立ちにまた顔が熱くなりながら、私は口を開いた。「先生、少しだけ......外していただけますか?搾らないと、このまま軍事訓練に戻るのは......」私は恥ずかしさで言葉を詰まらせつつ、なんとか説明した。楓真はしばらく私の様子を見て、それから小さく頷いた。彼がカーテンを閉めたのを確認して、私はどうにかしようと手を動かす。......でも、どうすればいいのかわからない。シャワーを浴びてそのままここに来たから、準備なんて全然していない。それに、この部屋には何もない。搾ったものを入れる容器すらないし、新品のベッドを汚してしまうわけにもいかない。「先......先生、使い捨ての紙コップか何かありませんか?」試すように、恐る恐る楓真にお願いしてみた。すぐに彼の手がカーテンの向こうから差し出され、紙コップを渡してくれた。だけど
私は天川るい。ただの平凡な大学生のはずだった。けれど、最近ずっと悩みのタネが尽きない。恋愛なんてしたこともないのに、ある日突然、謎の現象に襲われたーー乳汁が分泌されるようになったのだ。しかも量がとんでもない!3時間ごとにこっそり搾らないと、乳腺炎になりかねない。最悪なことに、軍事訓練で迷彩服を着て走ったり跳んだりしなきゃいけないから、布が擦れて胸が痛くて痒くて......もう耐えられない!涙が出そうなほど辛い私は、意を決して医務室に向かうことにした。その日、昼休みの時間にこっそりシャワーを浴びたあと、新校舎の3階にある唯一開いている医務室へ急いだ。幸いにも新入生たちは教官のスパルタ指導で疲れ果てているから、廊下には誰もいない。大丈夫、誰にも見られない。そう自分に言い聞かせながら、緊張した気持ちで扉をノックした。「どうぞ」簡潔で落ち着いた男性の声が返ってきた。男の先生だと気づいた瞬間、帰りたくなったけれど、胸の重たい痛みがそれを許さなかった。深呼吸して気持ちを整え、顔を赤らめながらドアを押し開けた。なるべく視線を下げたまま、そっと椅子に腰を下ろす。「どうしましたか?」清らかで穏やかな声が響いた。意外と若そうな印象だ。その声に促されて、私はさらに顔が熱くなるのを感じながら答えた。「えっと、その......先生......」小さな声で震えながら口を開く。「お休みが欲しくて......診断書をお願いできませんか?」「軍事訓練を休みたがる学生は多いですが、本当に具合が悪い場合に限りますよ。どこが調子悪いんですか?」その冷静な質問に、私はどうしようもなく恥ずかしくなって、蚊の鳴くような声で答えた。「む......胸が......」その言葉を口にした瞬間、彼の反応が気になって、私はこっそり視線を上げた。目の前にいたのは―ただの医者じゃなかった。彼の端正な顔立ちは、まるで彫刻みたい。高い鼻梁にかかった金縁眼鏡、その奥で冷静に視線を落としながらペンを走らせる姿はまさに「草食系」そのもの。まさか、こんなにイケメンな人が先生だなんて............いやいや、そんなことに気を取られてる場合じゃない!胸の痛みをどうにかするために来たのだから。彼の白衣姿はまるで光をまとっ