一度誰かを意識すると、不思議とその人に何度も会うものだ。 彼女もそうだった。 いつも一人でいるか、せいぜい数人の友人と一緒にいる彼女。 変わらないのは、どんな時でも淡々としたその表情だ。 ある日、教授が急用で、隣のクラスの授業と合同になったことがあった。 大教室に集められた学生たちの中に、また彼女の姿を見つけた。 その時初めて知った。 彼女は同じ学年で、隣のクラスだったのだ。 だけど、彼女は私のことを覚えていなかった。 あの日、トレーをひっくり返してしまった時のことも、全く。 それが何とももどかしかった。 正直、私はこれまで異性に困ったことなんてない。 周りにはいつだって誰かがいる。 でも、彼女に対して自分が抱いている感情が一時的な興味なのか、それとも本気なのかが分からなかった。 彼女に惹かれる理由が「好奇心」なのか、「恋」なのか――それすらも曖昧だった。 その後、実習や研修で忙しくなり、彼女と会うこともなくなった。 そして、少しずつ彼女への思いも薄れていった。 それでも時々、あの時もっと勇気を出していれば――そんな後悔が胸をよぎることもあった。 だからこそ、もう一度彼女に会えた時は本当に驚いた。 ドアの向こうに立つ彼女。 あの淡々とした表情は変わらないけれど、目元にはわずかな哀しみが宿っている。 こんな偶然があるなんて。 この研修に参加して、本当に良かったと思った。 「Hello,I'm very hungry and can't stand Western food. Can I borrow some food from you?」 (こんにちは。お腹が空いて西洋料理が耐えられないの。何か食べ物を分けてもらえない?) 「俺、日本人だから日本料理が少し作れるよ。よかったら一緒に食べる?」 もちろん、彼女は私のことを覚えていない。 でも、それでいい。最初からやり直せばいいだけだ。 お盆の夜、わざと彼女を誘い、一緒に酒を飲んだ。 ただ、彼女の酒量があまりに低いのには驚いた。 たった二杯で酔いつぶれるなんて……まるでお酒を飲んだことがない人みたいだ。 彼女が夢の中でつぶやいた言葉を聞いて、さらに驚いた。 「悠真……悠真……」 その名前を聞
悠真サイドストーリー 今日もまた、お姉ちゃんと喧嘩してしまった。 いつも通り、彼女は一言も僕をなだめようとはしない。 僕たちの喧嘩は、いつも僕が一方的に怒りをぶつけるだけだ。 お姉ちゃんは、僕の言葉をまるで気にしていないように見える。 だけど、喧嘩をすることでようやく感じられるんだ。 彼女が僕の隣にいること。彼女が僕のものだってことを。 喧嘩が終わると、結局また僕から謝りに行く。 彼女を失うのが怖いからだ。 今回もいつも通り、MINEで歩み寄ろうと思ったのに、彼女は完全に無視してきた。 半日待っても既読がつかないなんて、ひどすぎる! 怒りのあまり、彼女をブロックしてしまった。 だけど、ブロックした瞬間から後悔が押し寄せた。 もしかして、彼女が僕に何か伝えようとしていたのを逃してしまったのでは? だから翌日、こっそり彼女をブロックリストから外した。 これで、彼女が何かメッセージをくれたら、ちゃんと見られる。 でも、どれだけ待っても彼女からの返信はなかった。 10日以上経っても、一言も。 試しに卒業写真を送ってみた。 僕のカッコいい姿を見れば、少しは僕のことを思い出してくれるかもしれない。 それだけじゃ足りないと思って、こう付け加えた。 「この中で、誰が一番可愛いと思う?」 彼女に危機感を与えたかったのだ。 「僕を放っておくと、他の子を好きになっちゃうよ」って。 でも彼女は、ただ淡々とこう聞いてきただけだった。 「新しいターゲットってこと?」 久しぶりにメッセージを交わしたのに、そんなそっけない反応…… 僕は意地になって「そうだよ」と返した。 僕だって需要があるんだ。彼女だけが僕を軽く見ているだけなんだって、証明したかった。 再び彼女と顔を合わせたのは、卒業祝いの飲み会だった。 わざと彼女の病院の近くにあるバーを選んだのだ。偶然を装って会えるかもしれないと思って。 だけど、僕がいない間、彼女は随分楽しそうにやっているようだった。 酒を飲んで笑っている。あんなに酒を飲まない人だったのに。 僕がいない方がそんなに楽しいのか? 彼女の気を引こうとして、わざと瑠奈と親密な様子を見せた。 瑠奈はいい演技をしてくれた。僕が頼んで少し多めにお金を
一日の疲れを終え、腰をトントンと叩きながら手を洗い、着替えて家に帰る準備をする。幸いなことに、病院から母が借りてくれた家まではほんの数分の距離だ。疲れ切った体をすぐに休められるのはありがたい。 何度目になるかわからない喧嘩のせいで、橘悠真(たちばな ゆうま)にまたブロックされてしまった。スマホの「送信できませんでした」の横にある赤い感嘆符を見つめ、ため息をつく。 付き合い始めて4年。 最初の1年は、お互いに密接で争いなんてなかった。 2年目になると、小さな意見の食い違いが顔を出し始めた。 そして3年目、4年目では、取るに足らないことで関係がギクシャクし、私たちの絆を蝕んでいった。 無数の喧嘩をしては仲直りし、また喧嘩しては元に戻る……その繰り返し。 喧嘩といっても、実際にはほとんど彼が一方的に怒っているだけだった。 私は年上だからと、彼を気遣い、できるだけ譲るようにしていた。 どうしても我慢できないときは病院に逃げ込んで、目の前の問題から距離を取ることで冷静になろうとした。 今回の喧嘩のきっかけは、彼のパジャマを乾かしてアイロンがけするのを忘れたことだった。 「最近、本当に忙しいの。新しいのを買えばいいじゃない」と、私は穏やかに説明した。 「新しいのだって、結局洗わないと着られないでしょ? 何回も頼んだのに、約束してくれたのに、なんで守らないんだよ?」 悠真の怒りが立て続けに爆発し、私は言葉を失う。彼がその件について繰り返し言っていたのは覚えているが、それを真剣に受け止めていなかった自分が悔やまれる。 「透子、君は僕のことを本気で考えたことがあるのか? どうせ僕なんて、ずっと普通の弟みたいな存在なんだろう? それに、毎回喧嘩した後、僕が君をなだめるなんて、惨めすぎるよな」 悠真は自嘲気味に笑みを浮かべると、私は無性に不安になった。手のひらを強く握りしめ、心が折れないように必死で堪える。 元々、問題に向き合うのが苦手な性格の私は、彼の言葉に対して説明するよりも、ただ逃げたくなる。 「そんなことない!」と震える手で彼を引き留めようとするも、悠真は私の手を冷たくかわし、ドアを乱暴に閉めて出て行った。「夏休みのせいで......入退院する患者がめっちゃ増えて......本当にただ忙しかっ
悠真と初めて出会ったのは、彼が高校三年生の時だった。その年、彼は18歳、私は23歳。 3年間の受験のプレッシャーから解放された途端、羽目を外しすぎて暴走。結果、自分の腕を骨折して病院送りになるという大惨事だった。 その時、私が彼の主治医を務めることになったのだ。 病院での毎日は、遊びたい盛りの男の子にとって退屈そのもの。 周囲には彼と同じ年頃の人間はおらず、話が合う人なんて誰もいない。そんな中で唯一、私という「年の近い女医」が、時々暇つぶしに相手をしていた。 そして、まるでどこかのラブコメのように、悠真はすぐに私に興味を持った。 「お姉ちゃん、おはようございます!今日も早いんですね!」 「お姉ちゃん、昨日の夜、ゲームやるって約束したじゃないですか!」 「お姉ちゃん、今日ちょっと腕がまた痛くなってきたんですけど……」 「お姉ちゃん……」 「お姉ちゃん……」 彼の話し方は、なぜか語尾が少し上がる。年齢のせいなのか、それとも私の気のせいか、そのトーンがどこか甘えたように聞こえてくる。 正直、私は彼の話を聞くのが好きだった。 骨折が治るまでには3カ月かかるという。 小さな腕の骨折とはいえ、接骨、ギプス、薬の処置など、悠真は結局その間ずっと入院生活を送ることになった。 その3カ月の間に、私たちの関係はどんどん近づいていった。それだけではない。ナースステーションの看護師たちもこの少年を気に入り、彼を話題にするようになった。 私は研修医として1年目を迎えたばかりで、彼が担当する中で最も年下の患者だった。 だから、自然と「弟みたいな存在」として接するようになったのだ。 でも、彼は頻繁に理由をつけて医局にやってくる。これがまた看護師たちの格好のネタになった。 「ねえ、あの子、深川のこと好きなんじゃない?」 「めっちゃ懐いてるよね!」 そんな噂話が聞こえてくるたびに、私は軽く流して答えた。 「いやいや、だって私、彼よりかなり年上だよ? ただ信頼できる、普通のお姉さんって思われてるだけでしょ」 何度も同じ説明を繰り返した。 当時の私は本当に、悠真が私に恋心を抱いているなんて思ってもいなかった。 だって普通、患者って医者に対してどこか怖れを持つものじゃない? 少なくとも、私が子供の頃
昼夜を問わず忙しさに追われ、何日も休む暇がなかった私。ついには朦朧とした状態になり、主任から強制的に休暇を取らされることになった。 「しっかり休んで体調を整えてから来なさい」との命令。失恋の痛みを仕事で紛らわせるという計画は、あっさりと潰えてしまった。 ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめる。そんなとき、スマホが振動して通知が届いた。画面に映る送り主の名前を見て、一瞬、自分が幻覚を見ているのかと思った。 送り主は……悠真。 両手で目を何度もこすり、再び画面を見ても、確かに「悠真」と書かれている。驚きで体を起こし、急いでメッセージを確認すると、そこには一枚の集合写真が添付されていた。 それは彼の卒業写真だった。 ブロックされてから再び連絡が来るまで、半月以上が経っていた。 「怒りが収まったのかな?」と思いながら、私は少し期待してメッセージを開いた。きっとこれがきっかけで、また彼と話せるようになるのではないかと。 ところが、続けて送られてきたメッセージには、こう書かれていた。 「ねえ、お姉ちゃん。この中でどの子が一番可愛いと思う?」 私は写真を拡大し、彼の立ち位置を探す。中央に立ち、少し口元を上げた微笑みを浮かべる悠真。しばらく彼を見つめた後、ふと思い出した彼の質問に目を向けた。 悠真が男子の中で目立つのと同じように、女子の中で一際目を引く子がいた。その子は女子列の中央に立っている。私はその子の顔をマークして、悠真に送り返した。 返事はすぐに来た。 「ハハハ、同じこと考えてたな!」 『同じこと』、それは心の通じ合いでもなく、私の目が良いという称賛でもない。 私はその言葉に含まれる意味を敏感に捉えた。 「新しいターゲットってこと?」 「お姉ちゃんはどう思う?僕、彼女を狙ってもいいかな。それとも、狙ってほしくない?」 「ダメだし、そんなの望んでない」と答えたい気持ちをぐっと飲み込む。 少しの間ためらった末、こう返した。 「もし彼女が悠真にとってぴったりだと思うなら、そして彼女を手に入れられるなら……私も嬉しいよ」 「それなら、お姉ちゃんの望み通りにしてあげるさ」 その後、私たちは意地を張るかのように連絡を絶った。 さらに後日、彼のSNSでカップル写真が投稿されたのを目にした。
病院から2年間の海外研修の話が持ち上がったのは、まだ悠真と別れる前のことだった。 彼を置いて行くのが寂しくて断りたい気持ちと、せっかくのチャンスを無駄にしたくない気持ちで、どう切り出すべきか迷っていた。彼の意見を聞いてから決めたいと思っていたけれど、その前に私たちは別れてしまった。 今となっては、あの時すぐに断らなくて良かったと思っている。 研修の準備をするため、久々に英単語帳を開いた。英語の試験が終わってからずっと放置していたせいで、語彙力はすっかり落ちている。それに加えて、医療用語まで覚えなければならないのは本当に大変だ。 ふと、無意識に口をついて出た言葉に、自分で驚いた。 「悠真、お水持ってきて」 気づいた時には、彼がもういないのだと思い知らされる。それと同時に、もし彼がまだそばにいてくれたらと、切ない気持ちが胸を締めつけた。 そして再び、悠真に会うことになる。 それは思わぬ形で訪れた。胸の奥が締めつけられるような痛みとともに、遠くの席でサイコロゲームを楽しんでいる彼の姿を目にしたのだ。 彼の傍らには、卒業写真で見たあの女の子がいる。悠真は彼女の背もたれに軽く手を置き、柔らかく笑っていた。 「どうしたの?透子、ぼーっとして」 一緒に来ていた同僚が、不思議そうに声をかけてきた。 「ううん、何でもないよ。行こう」 私の送別会が行われたその日、ディナーの後で誰かが「クラブで踊ろう」と提案した。普段なら社交的ではない私は断るところだが、みんなの熱意に押されて仕方なく同行することにした。 まさか、その場で悠真たちに出くわすなんて思いもしなかった。 普段は酒をほとんど飲まない私が、この日はひたすらグラスを重ねていた。頭がぼんやりして、胸がじわりと痛む。 周りの喧騒に混ざれない私は、一人で隅に縮こまり、彼らが楽しそうに乾杯を繰り返す様子を眺めていた。 なんだかこの賑やかさが、自分にはまるで合わない気がした。今日の送別会は私が主役のはずなのに、どこかよそよそしい居心地の悪さを感じていた。 おしっこしたくなって、トイレに向かうことにした。ふらつく足取りで歩いていると、運悪く悠真たちと鉢合わせてしまった。 彼らのグループは、悠真とその女の子をからかって盛り上がっていた。 彼女は恥ずかしそうに悠真の腕の
真心を疑ったことはないけれど、真心は儚く変わるものだ。 悠真が私を愛してくれたのは確かだった。そして、もう私を愛していないのもまた確かなことだった。 私たちはいつからこんなにも遠ざかってしまったのだろう。 いつも鈍感な私は、それすらはっきりとは分からない。 もしかしたら、彼が私を「お姉ちゃん」と呼んでいたのが「透子さん」に変わり、また「お姉ちゃん」に戻った時だったのかもしれない。 同僚たちに簡単な挨拶を済ませてから、私は家に帰ることにした。気持ちを少しだけ整えて、迎えの車を待つために交差点で立っていると…… 「悠真、今夜は一緒にいてもいい?」 背後からそんな声が聞こえ、胸がドキリと鳴る。まさか、こんな偶然があるだろうか? 次の瞬間、聞き覚えのある声が続いた。 「一緒に?何するのさ?」 「もう、やだぁ」 女の子の甘えた声が耳に届く。 私は視線を下げ、できる限り自分の存在感を消そうとした。でも、彼らもどうやら車を待っているようだ。 「お姉ちゃん?」 その声が私を完全に動けなくさせた。もう知らないふりはできない。 仕方なく振り返り、できるだけ自然な笑顔を作ってみせた。 「悠真、偶然だね」 「誰、この人?」 悠真の隣にいる女の子が私を見て問いかけた。その顔は写真で見たときよりも可愛らしく、生き生きとして見えた。 「俺が小さい頃、腕を骨折した時の主治医だよ」 それだけ。たった十数文字で、私たちの関係を片付けてしまった。 前の恋人という言葉すら出てこない。それが何とも苦々しくて、心の中で小さく笑った。 「信頼できる、とてもいいお姉ちゃんだよ」 悠真がすぐに補足し、「お姉ちゃん」という部分を妙に強調していた。 「お姉さん、こんにちは。私、水無瀬瑠奈(みなせ るな)って言います」 その女の子はにこやかに手を差し出してきた。 もし彼女が、私が彼の元カノだと知ったら、それでもこんなに友好的でいられるのだろうか? 「ごめんね。外科医の癖でさっき手を洗って消毒したばかりだから、握手は控えておくよ」 そう言って、私は軽く彼女をかわしながら、二人から少し距離を取って離れた場所で車を待つことにした。 今日の迎えの車はなぜだかやけに遅い。 その間、彼女は悠真の胸に小さく身を寄せて
車に揺られながら、胸の奥がどうしようもなく締めつけられているような気がして、思わず行き先を変えるように運転手に頼んだ。 「少し遠回りしてもらえますか」 街をいくつか巡り、気持ちを紛らわせてからようやく家に戻ったのは、もう深夜に近い時間だった。 ふらふらと階段を上がり、鍵を探してドアを開ける。 すると、不意に誰かが私を壁際に押しつけた。 何が起こったのかわからず戸惑っている間に、唇に降り注ぐ荒々しいキスの雨。 慌てて力いっぱい突き放そうとしたが、相手はびくともしない。だが、次第にその香りが誰のものなのかを理解した。 「何、これ……?」 目の前の状況に混乱する。彼には新しい彼女がいるはずなのに…… 思いが巡るほど、抑えきれない悔しさと悲しみが押し寄せてくる。気づくと、涙が頬を伝っていた。 彼の唇が涙に触れた瞬間、動きが止まった。 「どうしたの?お姉ちゃん、泣かないで」 彼はそっと私の目元の涙を拭いながら、優しく語りかけてきた。 「何で……?何でキスなんてするの?私を何だと思ってるの?それに、あなたの彼女をどう思ってるのよ!」 言葉が詰まりそうになるほど嗚咽が込み上げる。 彼は明らかに狼狽え、必死に涙を拭き続けた。 「お姉ちゃん……ごめん。僕、どうしても諦めきれないんだ。愛してるのはお姉ちゃんだけだよ……彼女と付き合ったのだって、ただお姉ちゃんを怒らせたかっただけなんだ」 「出ていって。もうあなたが嫌いになった。これ以上、憎ませないで」 悠真は口を開きかけたが、結局何も言わずにその場を去った。 私はドアを閉め、鍵をかけた後、念のため二重ロックにした。 その後、無意識のまま洗顔を済ませ、ベッドに倒れ込むように横たわり、すぐに深い眠りについた。 翌日、目を覚ますとすでに昼近く。二日酔いのせいで頭がズキズキと痛む。 こめかみを揉みながら洗面所に向かい、支度を始めた。今日は夜勤だったのが幸いだ。 軽く片づけを済ませてから玄関を開けると、そこには眠そうな顔をした悠真が立っていた。 「何、ずっと起きてたの?それとも朝からここにいたの?」 「昨日、結構飲んでたみたいだからさ。二日酔いが辛いだろうと思ってスープ持ってきたんだ」 しゃがれた低い声でそう言う彼の顔は、少し疲れているように見
悠真サイドストーリー 今日もまた、お姉ちゃんと喧嘩してしまった。 いつも通り、彼女は一言も僕をなだめようとはしない。 僕たちの喧嘩は、いつも僕が一方的に怒りをぶつけるだけだ。 お姉ちゃんは、僕の言葉をまるで気にしていないように見える。 だけど、喧嘩をすることでようやく感じられるんだ。 彼女が僕の隣にいること。彼女が僕のものだってことを。 喧嘩が終わると、結局また僕から謝りに行く。 彼女を失うのが怖いからだ。 今回もいつも通り、MINEで歩み寄ろうと思ったのに、彼女は完全に無視してきた。 半日待っても既読がつかないなんて、ひどすぎる! 怒りのあまり、彼女をブロックしてしまった。 だけど、ブロックした瞬間から後悔が押し寄せた。 もしかして、彼女が僕に何か伝えようとしていたのを逃してしまったのでは? だから翌日、こっそり彼女をブロックリストから外した。 これで、彼女が何かメッセージをくれたら、ちゃんと見られる。 でも、どれだけ待っても彼女からの返信はなかった。 10日以上経っても、一言も。 試しに卒業写真を送ってみた。 僕のカッコいい姿を見れば、少しは僕のことを思い出してくれるかもしれない。 それだけじゃ足りないと思って、こう付け加えた。 「この中で、誰が一番可愛いと思う?」 彼女に危機感を与えたかったのだ。 「僕を放っておくと、他の子を好きになっちゃうよ」って。 でも彼女は、ただ淡々とこう聞いてきただけだった。 「新しいターゲットってこと?」 久しぶりにメッセージを交わしたのに、そんなそっけない反応…… 僕は意地になって「そうだよ」と返した。 僕だって需要があるんだ。彼女だけが僕を軽く見ているだけなんだって、証明したかった。 再び彼女と顔を合わせたのは、卒業祝いの飲み会だった。 わざと彼女の病院の近くにあるバーを選んだのだ。偶然を装って会えるかもしれないと思って。 だけど、僕がいない間、彼女は随分楽しそうにやっているようだった。 酒を飲んで笑っている。あんなに酒を飲まない人だったのに。 僕がいない方がそんなに楽しいのか? 彼女の気を引こうとして、わざと瑠奈と親密な様子を見せた。 瑠奈はいい演技をしてくれた。僕が頼んで少し多めにお金を
一度誰かを意識すると、不思議とその人に何度も会うものだ。 彼女もそうだった。 いつも一人でいるか、せいぜい数人の友人と一緒にいる彼女。 変わらないのは、どんな時でも淡々としたその表情だ。 ある日、教授が急用で、隣のクラスの授業と合同になったことがあった。 大教室に集められた学生たちの中に、また彼女の姿を見つけた。 その時初めて知った。 彼女は同じ学年で、隣のクラスだったのだ。 だけど、彼女は私のことを覚えていなかった。 あの日、トレーをひっくり返してしまった時のことも、全く。 それが何とももどかしかった。 正直、私はこれまで異性に困ったことなんてない。 周りにはいつだって誰かがいる。 でも、彼女に対して自分が抱いている感情が一時的な興味なのか、それとも本気なのかが分からなかった。 彼女に惹かれる理由が「好奇心」なのか、「恋」なのか――それすらも曖昧だった。 その後、実習や研修で忙しくなり、彼女と会うこともなくなった。 そして、少しずつ彼女への思いも薄れていった。 それでも時々、あの時もっと勇気を出していれば――そんな後悔が胸をよぎることもあった。 だからこそ、もう一度彼女に会えた時は本当に驚いた。 ドアの向こうに立つ彼女。 あの淡々とした表情は変わらないけれど、目元にはわずかな哀しみが宿っている。 こんな偶然があるなんて。 この研修に参加して、本当に良かったと思った。 「Hello,I'm very hungry and can't stand Western food. Can I borrow some food from you?」 (こんにちは。お腹が空いて西洋料理が耐えられないの。何か食べ物を分けてもらえない?) 「俺、日本人だから日本料理が少し作れるよ。よかったら一緒に食べる?」 もちろん、彼女は私のことを覚えていない。 でも、それでいい。最初からやり直せばいいだけだ。 お盆の夜、わざと彼女を誘い、一緒に酒を飲んだ。 ただ、彼女の酒量があまりに低いのには驚いた。 たった二杯で酔いつぶれるなんて……まるでお酒を飲んだことがない人みたいだ。 彼女が夢の中でつぶやいた言葉を聞いて、さらに驚いた。 「悠真……悠真……」 その名前を聞
もしかしたら大げさかもしれないけれど、長い間まともに自国の料理を食べていなかった私にとって、晴臣の料理はまさに人間の宝だった。 そんな彼と私は、いわゆる「ご飯仲間」になった。 私は食材を持参し、彼が料理を担当する。それを何度か繰り返すうちに、私たちはすっかり打ち解けた。 「透子、俺と付き合わないか?」 あまりに突然の告白に、私は驚きすぎて口の中の料理を噛むのも忘れて彼を見つめた。 「ほら、俺たち同じ仕事だし、話も合う。それに君、俺の料理が大好きだろ?君ってお金もかからないし、顔も悪くない。俺とならお似合いだと思うけどな」 真剣な表情の彼をじっと見つめて、本気なのだと理解した私は、落ち着いて首を横に振った。 「ごめんね。私、ちょうど恋愛が終わったばかりで、新しい関係を始める自信がないの」 「それって悠真さんのことか?」 「えっ……なんで彼の名前を知ってるの?」 彼は不思議そうな笑みを浮かべた。 「君、この前、俺の家で酔っ払って寝ちゃっただろ?そのとき寝言で彼の名前を呼んでたんだ。正直、羨ましいよ。そんなに長い間、君の心に残るなんて」 思い出した。あの日はお盆で、本来なら家族が集まるべき日だった。 でも、家族から遠く離れた私たちは、酒を飲んで寂しさを紛らわせていたのだ。そのとき、私は酔いつぶれて寝てしまい、悠真の名前を口にしていたらしい。 「彼のこと、本当に好きだったの?」 「……前はね。でも、今思えば、好きというより悔しかっただけだと思う」 私の答えを聞いて、晴臣は静かに頷き、それ以上何も言わなかった。 「じゃあ、晴臣はどうなの?こんなにイケメンなのに、忘れられない元カノとかいないの?」 「元カノはいないよ。でも、大学の頃からずっと片思いしてる子が一人いる」 「ええっ、マジ?この顔で片思いなんて、何で告白しないの?」 晴臣は私をじっと見つめ、穏やかな笑みを浮かべると、それ以上は何も言わなかった。 その様子を見て、私はそれ以上踏み込むのをやめた。 これは、私が異国で迎えた初めてのお正月だった。 いつもなら両親や悠真と一緒に過ごしていたけれど、今年は違う。 今年私の隣にいるのは、晴臣だけだった。 「明けましておめでとう、晴臣」 「明けましておめでとう、透子」 異国の
海外での生活は自由で快適な面もあったけれど、正直言って、環境の違いにはなかなか慣れなかった。 食事に至っては、もう絶望的だ。 朝ごはんは、命よりも硬いパンに、風味が奇妙なバターを塗って食べる。 私の指導教授は嬉しそうにそれを頬張るけど、私にはどうにも理解できない。 昼は、大量の緑色の野菜と数個のプチトマトが入ったサラダ。 夜は魚や肉が出てくるけれど、なんと血が滴っている状態。 そんな中、私の唯一の救いが「ラー油」だ。 まるで宝物のように大事に保管していて、特別な日だけ、ほんの少しだけご飯に混ぜて食べる。 留学生たちがみんな飢えた狼のように食べ物を求める気持ちが、今では痛いほどわかる。 日本料理店もあるにはあるけど、味はいまいちで値段は高い。 このままでは、私は異国の地で飢え死にしてしまうのではないか――そんな不安が頭をよぎる。 夜風が心地よく、高層ビルの明かりが遠くに輝き、車の音が行き交う中、私は一人で見知らぬ街を歩いていた。 けれど、胸に残るのは広々とした虚無感と、底のない孤独だけだった。 ふと、悠真と一緒だった頃を思い出す。 あの頃、私たちは手をつないで街を歩きながら、何気ない会話を楽しんでいた。 けれど今では、彼の隣にはもう私はいないし、私もこんな遠い国の街を一人で歩いている。 たまに両親と長電話をすることがある。 電話越しに聞こえる彼らの声を聞くと、不思議と心が落ち着く。 この世界がどれほど傷だらけでも、誰かが私のためにその傷を繕ってくれる――それだけで十分だと思える。 外国の病院では、新しい知り合いもできた。 アレックス――彼の元々の名前は神楽坂晴臣(かぐらざか はるおみ)。彼も私と同じ年の医師だ。 私たちはそれぞれの病院を代表して研修に来ているので、自然と意気投合した。 晴臣は、ユーモアに溢れていて、真面目な性格の持ち主だ。 彼のトレードマークは、よく仕立てられたスラックスと白シャツ、そして黒の革靴。 そこに白衣を羽織ると、彼の端正な顔立ちがさらに際立つ。 正直に言うと、私は「顔」で選ぶタイプだ。 研修医の頃に悠真と付き合った理由だって、それが大きい。 だから、彼のような人と友達になるのは、もはや当然の流れだった。 それに、彼の料理の腕前は顔に
あっという間に出国の日がやってきた。 私は友達が少ないから、空港まで見送りに来てくれる人なんていない。 それに、そもそも別れの日というのが好きじゃない。 それでも、両親には伝えた。 二年もの間、異国で過ごすのだから。私が戻る頃には、もう三十手前だ。 両親が「絶対に見送りに行く」と聞かなかったので、私はそれを止めることはしなかった。 心のどこかで、誰かが見送りに来てくれるのを期待している自分がいる。 けれど、その「誰か」に会いたくない自分もいる。 自分がなぜこんなに矛盾しているのか、私には分からなかった。 頭の中で、これまで歩んできた道を思い返す。 私は天才なんかじゃない。 たとえ一万人に一人の天才だとしても、一億人の中には数万人の天才がいる。 たとえ私が輝く金のような存在だったとしても、この世界はどこもかしこも金色に輝いている。 私はただ、少しでも努力して、もっと頑張って、押しつぶされないようにしているだけだ。 十数年の学び、受験で奇跡的な実力を発揮して医大に合格した。 それは両親に少しは誇りを与えられたと思う。 研修後も地道に働き続けて、大病院に残るために必死に努力した。 その努力が認められて、今回の海外研修の機会を掴むことができた。 二年間の研修を終えて戻ったときには、少なくとも「ただの医者」ではなくなっていたい。 もしかしたら、私が掴み損ねたものは、別の形で戻ってくるのかもしれない。 この恋があまりにも雑な形で終わったことを、いつか後悔するのかもしれない。 それでも、私には仕事がある。 仕事で一つの完璧な結末を迎えられたら、それで十分だと思う。
考え事で頭がいっぱいのまま夜勤を終え、考え事を抱えたままオフィスに戻って医師指示を書き始めた。 しばらくすると、夜勤の看護師がドアをノックしてやってきた。 「深川先生、3番ベッドの処方、ちょっと確認してもらえますか?量が違う気がするんです」 慌てて確認すると、まさにその通りだった。 本来50mgの薬を500mgで処方していたのだ! 危うく大問題を起こすところだった。「やっぱり、私って一つのことに集中できない人間なんだよね。二つのことを同時にこなすのは向いてないのかも」そう思いながら、看護師に申し訳なく笑い、顔を軽く叩いて気合いを入れた。「どうしたんですか?私が一緒のシフトのときって、そんなミスしないじゃないですか」 「……ちょっと寝不足でね」 「出国が近いから、ストレス溜まってるんじゃないですか?」 「まあ、そんなところかな」 無理に笑顔を作って答えると、彼女はため息をついてそれ以上は何も言わなかった。 よく「恋に破れたら仕事で成功する」と言うけれど、私は医療事故なんて絶対に起こさないよう気を引き締めた。 出国が近いからか、最近は担当患者も減っていて、新しい患者もあまり来ない。 だけど、心のどこかで悠真のことが気になってしまう。結局、看護師に連絡を頼んで、家に戻ることにした。 家に帰ると、悠真はベッドで相変わらずじっと寝ていた。 「……まさか、動かなくなった?」 慌てて彼の額に手を当てる。 ……良かった。熱はもう下がっている。焼けつくような熱があったから、正直、脳に影響が出たんじゃないかと心配していた。 そのとき、不意に彼が目を開けた。 「悠真!目が覚めたの?」 気まずさを隠しきれず、苦笑いを浮かべる私に、彼はボソリと口を開いた。 「お姉ちゃん……もう仕事終わったの?」 「そうよ。じゃあ、起きたついでに荷物を片づけてくれる?」 自分が心配で抜け出して帰ってきたなんて、言えるわけがない。 「……後悔してるんだ、お姉ちゃん。僕たち、もう一度やり直せないかな?」 彼の言葉に一瞬だけ迷ったけれど、深く息を吸い、窓の向こうから差し込む明かりを背に彼を見つめた。 「悠真。今日あなたがここに泊まれたのは、私たちにまだ可能性があるからじゃないの。私たちはもう終わってるのよ
車に揺られながら、胸の奥がどうしようもなく締めつけられているような気がして、思わず行き先を変えるように運転手に頼んだ。 「少し遠回りしてもらえますか」 街をいくつか巡り、気持ちを紛らわせてからようやく家に戻ったのは、もう深夜に近い時間だった。 ふらふらと階段を上がり、鍵を探してドアを開ける。 すると、不意に誰かが私を壁際に押しつけた。 何が起こったのかわからず戸惑っている間に、唇に降り注ぐ荒々しいキスの雨。 慌てて力いっぱい突き放そうとしたが、相手はびくともしない。だが、次第にその香りが誰のものなのかを理解した。 「何、これ……?」 目の前の状況に混乱する。彼には新しい彼女がいるはずなのに…… 思いが巡るほど、抑えきれない悔しさと悲しみが押し寄せてくる。気づくと、涙が頬を伝っていた。 彼の唇が涙に触れた瞬間、動きが止まった。 「どうしたの?お姉ちゃん、泣かないで」 彼はそっと私の目元の涙を拭いながら、優しく語りかけてきた。 「何で……?何でキスなんてするの?私を何だと思ってるの?それに、あなたの彼女をどう思ってるのよ!」 言葉が詰まりそうになるほど嗚咽が込み上げる。 彼は明らかに狼狽え、必死に涙を拭き続けた。 「お姉ちゃん……ごめん。僕、どうしても諦めきれないんだ。愛してるのはお姉ちゃんだけだよ……彼女と付き合ったのだって、ただお姉ちゃんを怒らせたかっただけなんだ」 「出ていって。もうあなたが嫌いになった。これ以上、憎ませないで」 悠真は口を開きかけたが、結局何も言わずにその場を去った。 私はドアを閉め、鍵をかけた後、念のため二重ロックにした。 その後、無意識のまま洗顔を済ませ、ベッドに倒れ込むように横たわり、すぐに深い眠りについた。 翌日、目を覚ますとすでに昼近く。二日酔いのせいで頭がズキズキと痛む。 こめかみを揉みながら洗面所に向かい、支度を始めた。今日は夜勤だったのが幸いだ。 軽く片づけを済ませてから玄関を開けると、そこには眠そうな顔をした悠真が立っていた。 「何、ずっと起きてたの?それとも朝からここにいたの?」 「昨日、結構飲んでたみたいだからさ。二日酔いが辛いだろうと思ってスープ持ってきたんだ」 しゃがれた低い声でそう言う彼の顔は、少し疲れているように見
真心を疑ったことはないけれど、真心は儚く変わるものだ。 悠真が私を愛してくれたのは確かだった。そして、もう私を愛していないのもまた確かなことだった。 私たちはいつからこんなにも遠ざかってしまったのだろう。 いつも鈍感な私は、それすらはっきりとは分からない。 もしかしたら、彼が私を「お姉ちゃん」と呼んでいたのが「透子さん」に変わり、また「お姉ちゃん」に戻った時だったのかもしれない。 同僚たちに簡単な挨拶を済ませてから、私は家に帰ることにした。気持ちを少しだけ整えて、迎えの車を待つために交差点で立っていると…… 「悠真、今夜は一緒にいてもいい?」 背後からそんな声が聞こえ、胸がドキリと鳴る。まさか、こんな偶然があるだろうか? 次の瞬間、聞き覚えのある声が続いた。 「一緒に?何するのさ?」 「もう、やだぁ」 女の子の甘えた声が耳に届く。 私は視線を下げ、できる限り自分の存在感を消そうとした。でも、彼らもどうやら車を待っているようだ。 「お姉ちゃん?」 その声が私を完全に動けなくさせた。もう知らないふりはできない。 仕方なく振り返り、できるだけ自然な笑顔を作ってみせた。 「悠真、偶然だね」 「誰、この人?」 悠真の隣にいる女の子が私を見て問いかけた。その顔は写真で見たときよりも可愛らしく、生き生きとして見えた。 「俺が小さい頃、腕を骨折した時の主治医だよ」 それだけ。たった十数文字で、私たちの関係を片付けてしまった。 前の恋人という言葉すら出てこない。それが何とも苦々しくて、心の中で小さく笑った。 「信頼できる、とてもいいお姉ちゃんだよ」 悠真がすぐに補足し、「お姉ちゃん」という部分を妙に強調していた。 「お姉さん、こんにちは。私、水無瀬瑠奈(みなせ るな)って言います」 その女の子はにこやかに手を差し出してきた。 もし彼女が、私が彼の元カノだと知ったら、それでもこんなに友好的でいられるのだろうか? 「ごめんね。外科医の癖でさっき手を洗って消毒したばかりだから、握手は控えておくよ」 そう言って、私は軽く彼女をかわしながら、二人から少し距離を取って離れた場所で車を待つことにした。 今日の迎えの車はなぜだかやけに遅い。 その間、彼女は悠真の胸に小さく身を寄せて
病院から2年間の海外研修の話が持ち上がったのは、まだ悠真と別れる前のことだった。 彼を置いて行くのが寂しくて断りたい気持ちと、せっかくのチャンスを無駄にしたくない気持ちで、どう切り出すべきか迷っていた。彼の意見を聞いてから決めたいと思っていたけれど、その前に私たちは別れてしまった。 今となっては、あの時すぐに断らなくて良かったと思っている。 研修の準備をするため、久々に英単語帳を開いた。英語の試験が終わってからずっと放置していたせいで、語彙力はすっかり落ちている。それに加えて、医療用語まで覚えなければならないのは本当に大変だ。 ふと、無意識に口をついて出た言葉に、自分で驚いた。 「悠真、お水持ってきて」 気づいた時には、彼がもういないのだと思い知らされる。それと同時に、もし彼がまだそばにいてくれたらと、切ない気持ちが胸を締めつけた。 そして再び、悠真に会うことになる。 それは思わぬ形で訪れた。胸の奥が締めつけられるような痛みとともに、遠くの席でサイコロゲームを楽しんでいる彼の姿を目にしたのだ。 彼の傍らには、卒業写真で見たあの女の子がいる。悠真は彼女の背もたれに軽く手を置き、柔らかく笑っていた。 「どうしたの?透子、ぼーっとして」 一緒に来ていた同僚が、不思議そうに声をかけてきた。 「ううん、何でもないよ。行こう」 私の送別会が行われたその日、ディナーの後で誰かが「クラブで踊ろう」と提案した。普段なら社交的ではない私は断るところだが、みんなの熱意に押されて仕方なく同行することにした。 まさか、その場で悠真たちに出くわすなんて思いもしなかった。 普段は酒をほとんど飲まない私が、この日はひたすらグラスを重ねていた。頭がぼんやりして、胸がじわりと痛む。 周りの喧騒に混ざれない私は、一人で隅に縮こまり、彼らが楽しそうに乾杯を繰り返す様子を眺めていた。 なんだかこの賑やかさが、自分にはまるで合わない気がした。今日の送別会は私が主役のはずなのに、どこかよそよそしい居心地の悪さを感じていた。 おしっこしたくなって、トイレに向かうことにした。ふらつく足取りで歩いていると、運悪く悠真たちと鉢合わせてしまった。 彼らのグループは、悠真とその女の子をからかって盛り上がっていた。 彼女は恥ずかしそうに悠真の腕の