啓司は何かを言おうとしたが、紗枝に止められた。「面倒だと思わないなら、彼らに任せておいて。確かに新年の始まりだし、林管理人、綾子さんにお礼を言っておいてください」林管理人はその言葉を聞いて一瞬言葉に詰まった。しわだらけの顔をしかめた。「かしこまりました」逸之は黙々とお餅を食べ、目には冷徹な意志が光っていた。彼の鬼の祖母はちょうど刑務所に入ったばかりで、今度はクズ親父方の鬼の祖母がママをまた困らせに来た。今回は絶対に、ママがまたいじめられるのを見過ごさない。決心した逸之は、箸を置いて言った。「ママ、もうお腹いっぱいだ」「散歩に行ってもいい?」紗枝も箸を置いて答えた。「いいよ、ママも一緒に行くね」「ママ、年越し料理の準備がまだだって言ってたでしょ?僕一人で行ってくるよ、すぐ帰るから、大丈夫だよ」逸之は甘えるような顔で言った。「それなら、雷おじさんと一緒に行ってもいい?」以前、逸之が一人で黒木家に行った時から、紗枝は彼を一人で出かけさせたくないと思っていた。逸之はため息をついた。「ママ、もうすぐ新年だよ。雷おじさんに今日は休暇をあげてよ」紗枝も一度は雷七に休ませようと思ったが、雷七は家族が亡くなっているので、帰る必要はないと言った。「俺が一緒に行くよ」啓司が口を開いた。逸之は断ろうとしたが、啓司はその隙を与えず、彼を引っ張って外に出た。「いや、いやいや......」紗枝は二人が外に出るのを見ていた。外に出ると、逸之は啓司に対して歯をむき出しにして言った。「なんでそんなにおせっかいなんだ?放してよ、僕にはやることがあるんだ」啓司は彼の尻に一発叩き込んだ。逸之はすぐに不快そうに叫んだ。「ううう、僕を叩くなんて、やっぱり後父ができたら後母もできるんだね、ううう、僕のパパ......ああ、うううう......」話が途中で終わる前に、啓司は彼の口を覆った。「うるさい」幸いにもこのガキは自分の息子じゃないから、じゃなきゃうるさくてたまらないよ。逸之は彼に口をふさがれ、全く抵抗できず、目で無言の訴えをするしかなかった。しかし、抗議しても無駄だった。啓司には全く見えなかった。「言ってみろ、また何か計画があるのか?」啓司は逸之を門のところに放り投げた。逸之はもう泣くことも
まず逸之を家に帰らせた後、啓司は綾子に電話をかけて、これ以上余計なことに口を出さないように言った。綾子は息子に叱責されることが少なく、納得がいかない様子で、紗枝と拓司のことを少し誇張して話し始めた。「啓司、あなたは目が見えなくて、記憶も失っているけれど、それでも黒木家の長男なのよ。どんな女性でも手に入るでしょう?紗枝のような、浮気を繰り返して、夫の弟に未練を持っているような女性は、黒木家にはふさわしくないわよ」「もしも二人の.......」子供のことを口にしようとしたが、言葉を飲み込んだ。まだ真実が明らかになっていないため、啓司には言えなかった。「誰からそんなことを聞いたの?」啓司は目を細めて言った。綾子は内心で少し怯み、不自然に言った。「他の人に聞かなくても、私が実際に見たことがあるのよ。紗枝と拓司が親しくしているところを」嘘をつく人間は、最初に自分自身を騙すことがある。啓司は電話を握りしめ、指の関節がわずかに白くなるほど力を入れた。「もうこの話をするな」そう言って、すぐに電話を切った。綾子は切られた電話を見つめ、眉をひそめた。ここまで言ったのに、啓司はまだあの女に心を残しているのか。彼は事故の後、まさか幽霊に取り憑かれたのではないか?残念ながら、医者は記憶の治療が非常に難しいと言っていた。もし啓司が記憶を取り戻したら、今のようにはならないだろう。......啓司は電話を切った後、別荘に戻ろうとしたが、突然声が響いた。「黒木さん」彼は足を止めた。元々、澤村和彦に精神病院に送られ、その後、拓司に助け出された柳沢葵が、今、再び啓司の前に現れた。彼女は淡い色のコートを着て、髪を肩に流し、顔色は青白く、全体的にかなり痩せて見えた。「黒木さん......」葵は啓司が立ち止まるのを見て、急いで彼に歩み寄り、手を取ろうとした。だが、触れた瞬間、啓司に力強く振り払われた。「どけ」葵の手は空中で固まった。啓司はこの女に全く関心を持っておらず、かつて彼女は紗枝の身代わりとして、綾子に命の恩を感じていると言っていた。そのため、彼はずっと彼女を許してきた。「黒木さん、私は葵よ。本当にあなたが好きだった人、私を忘れたの?」葵は涙声で言った。本当に好きだった人?自分の記憶が戻ら
「いいよ、最後にもう一度チャンスをあげる」と、拓司が言った。葵はまるで命拾いしたかのように感じた。「拓司さま、私たちの約束通り、もしこの件がうまくいったら、エンタメ業界に復帰させてくれるんですよね?」「もちろん」葵はそっと自分の計画を拓司に話し始めた。この計画は確かに悪質だが、紗枝を諦めさせるためにはこれが一番効果的だ。拓司はそれに同意した。......啓司が帰宅する際、別荘の外の監視カメラを調べさせた。その結果、やはり拓司が車の中に座り、葵と接触しているのが確認された。啓司の眉間に冷たい一線が走った。どうやら、この弟を早急に海外に追い出さなければならないようだ。しかし、今は目が見えないため、いろいろと不便だった。屋内。紗枝は大晦日の料理をすでに準備していた。夜になったら、少し温めるだけでいい。彼女は逸之が帰ってきたのを見て、少し不思議に思った。「逸ちゃん、啓司おじさんと散歩に行ってなかった?」逸之はあくびをしながら答えた。「ちょっと休みたくなった」「そうか、じゃあ、休んでなさい」紗枝は彼がまた体調が悪いのだと思い、すぐに言った。逸之は二階に上がっていった。紗枝は啓司がまだ帰っていないことに気づき、外に出て探しに行った。外に出た時、ちょうど見覚えのある背中が遠ざかるのが見え、胸がギュッと締め付けられるようだった。どれだけ時間が経っても、彼女は柳沢葵のことを忘れることができない。紗枝は手をぎゅっと握りしめ、その場で立ち止まった。啓司は部下との電話を切ってから振り返り、紗枝が来ていることに気づかなかった。「黒木啓司」彼女が突然、彼のフルネームを呼んだ。啓司は立ち止まり、「紗枝ちゃん?」と答えた。「こんなに寒いのに、どうして外に出てきたの?」彼は声のする方に歩み寄った。男の顔に浮かぶ心配そうな表情を見て、紗枝は昔のように何もかも心にしまい込むことなく、直接聞くことにした。「柳沢葵が何のために来たの?彼女のこと、覚えてる?」「何のために来たのか、俺もわからない」と啓司は答えた。葵のような女が自分を訪ねて来る理由は、何があるんだ?金や権力のためだろうとしか思えなかった。啓司はさらに別の質問にも答えた。「君と牧野はいつも彼女のことを話していたじゃないか。俺は彼
紗枝は少し驚き、顔を上げて彼を見つめ、素直に答えた。「分からない。今はただ二人の子供をしっかりと育てていきたい」そして、夏目家に属するものを取り戻し、その後今お腹にいる二人の子供が生まれたら、臍帯血を使って逸之の手術をするつもりだ。啓司の胸がひときわ詰まるような感覚に襲われた。「もし気にするなら、私たちは......」紗枝が言いかけたところで、啓司に遮られた。「気にしない」気にしない?気にするわけないだろう。だが、もし気にすると言ったら、紗枝はまた離れていく。啓司は今までにない卑屈さを感じていた。彼の熱い息が紗枝の頭の上に落ちる。「外は寒い、俺が部屋に抱えていこうか?」彼の声は少しかすれていた。紗枝は急いで首を振った。「大丈夫、私一人で歩けるよ」彼の腕から抜け出すと、紗枝は急いで後ろに歩き出した。啓司は慌てることなく、ゆっくりと彼女の後ろを追った。雪が降っているのに、紗枝は今日は寒さを感じていなかった。啓司はずっと彼女のそばに座り、キーボードを叩いていた。彼は目が見えないため、すべての道具は盲人用のものだった。紗枝は本を手に取り、横で読んでいた。彼は時々、そっと近づいてきた。広いソファなのに、わざわざ自分の横に座ろうとし、まるで狭くなったかのように感じさせた。「ちょっと外を散歩してくる」紗枝は立ち上がった。啓司は彼女の手を引いて言った。「一緒に行こう」「仕事はしないの?」紗枝は不思議そうに聞いた。「今日は大晦日だから、仕事はしなくていい」「じゃあ、いいわ」紗枝は着替えに行き、降りてきた時には、啓司が前回自分が買った鮮やかな色のダウンジャケットを着ており、全体的に柔らかい印象を与えていた。彼女はしばらく驚いていた。啓司は自分が着た服がどんなものかを見えないため、彼女に尋ねた。「どうかな?」「いい感じ」紗枝は素直に答えた。その後、彼女は逸之にメモを残し、二時間後に戻ることを書いた。逸之は通常、寝るときも三時間以上休むことが多い。雷七は最近特に用事もなく、車で二人を送り出した。「雷七、今夜一緒に年越しをしよう」紗枝は言った。一方、啓司の顔色が悪くなった。雷七というボディガードはあまりにも目立ちすぎて、彼は警戒せざるを得なかった。「いいえ」雷七
あの二人の女の子は、見た目は18歳くらいで、顔が赤くなっていた。紗枝は少し驚いた。今の啓司の年齢からすると、少なくとも彼女たちより10歳以上年上だろうし、彼女たちのおじさんになれる年齢だろうと思った。啓司は眉をわずかにひそめ、薄く唇を開いて言った。「どけ」その一言で、二人の女の子の顔はさらに赤くなった。最初は恥ずかしさからだったが、今は恥ずかしさと驚きが入り混じっている。紗枝も驚いた。啓司がこんなに短気だとは思わなかった。啓司が記憶を失ってから、大きな声を出すことはほとんどなかったし、ましてや「どけ」なんて言うことはなかった。やっぱり本性は変わらない、彼は優しさを装うことができない。紗枝は早足で前に進み、気まずさを和らげた。「買ってきたよ、行こうか?」啓司は紗枝の声を聞き、冷たい表情が少し和らいだ。二人の女の子は紗枝の美しい顔を見て、目を見開いた。紗枝は二人に礼儀正しく微笑んだ。二人の女の子はますます恥ずかしそうにして、お互いに手を引き合っていた。「行こう、行こう。あんなにかっこいい男には絶対彼女がいるって言ったじゃん」と、ひとりの女の子が小声で言った。二人はひそひそ話しながら、早くその場を去った。彼女たちが去ったのを見届けると、紗枝は手に持っていた焼き物を啓司に渡した。「はい、焼きたてだよ。食べる?」子供の頃、紗枝は辰夫と一緒に、揚げ餅やたこ焼きのおばさんの屋台の前でよく待っていた。時々、おばさんが売れ残ったものを無料でくれることもあり、そして彼らもおばさんの屋台を手伝っていた。今思えば、あの頃のたこ焼は格別に美味しかった。以前、啓司は外で売っているこういったものを食べなかったが、紗枝がそれを手渡すと、彼は断ることもできず、ゆっくりと食べ始めた。「後で逸ちゃんが食べられるものも買おうね」紗枝が言った。「うん」啓司は彼女に続いて歩き出した。時折、二人に目を向ける人がいた。啓司が盲目であることに気づいた人々は驚き、こそこそ話し始めた。「なんだあの人、目が見えないんだって」「こんなにイケメンなのに、盲目だなんて、もったいない」啓司の顔が険しくなった。紗枝は彼の手をそっと握った。聴覚に弱い彼女は、他の障害を持つ人の気持ちに一番敏感だ。「聞こえなかったこと
紗枝は今でもその時、啓司の顔がとても険しかったことを覚えている。彼は無理やり彼女を人目のない場所に引き寄せ、怒鳴った。「まだ足りないのか、恥をかきたいのか?」啓司は紗枝が持っていたバラの花をゴミ箱に投げ捨てた。「暇があったら仕事をしろ。こんな無駄なことをしていないで」その時、紗枝はその場で立ち尽くし、ただ彼を見つめるしかなかった。心の中が冷たくなった。「他の男の子が女の子に告白するのはよく見かけるけど、私はあなたに告白すれば嬉しいと思っていた」二人はもう結婚していて、進展は何もなかったから、彼女は......「これからは愛だの嫌いだの、そんな幼稚なことを言うな」啓司はそう言い捨てて去った。その日以来、紗枝は愛の言葉を口に出すことを怖れるようになった。街中にはたくさんの親密なカップルがいて、愛してるを口にするその感覚を、彼女は一度も感じたことがなかった。「ボン——!」今年、郊外では花火を上げることが許可されていて、まだ暗くなっていないのに、遠くで花火が打ち上がる音が聞こえ、紗枝はすぐに我に返った。自分を抱きしめている啓司を見ながら、やっぱり「愛してる」を言うことができなかった。一度できた心の傷は、本当に治すのが難しい。「啓司、私たちもう子供じゃないんだから、そんな幼稚なことはやめて」彼女は彼を引き離した。顔を上げると、啓司の美しい顔に赤い点がびっしりと浮かんでいた。「アレルギー......?」啓司はただ顔がかゆいだけだと感じていたが、まさか自分がアレルギー反応を起こすとは思っていなかった。紗枝は考える暇もなく、「行こう、今すぐ雷七に電話して、病院に連れて行く」と言った。雷七が到着した時、驚きました。たった1時間で啓司がアレルギー反応を起こしたなんて。彼を病院に連れて行き、検査を受けさせた。以前、紗枝は啓司が花粉アレルギーだと知っていたが、焼き串でアレルギー反応が出るとは思っていなかった。彼の体質があまり強くないことがわかる。後にアレルギー検査を受けた結果、啓司が焼き串にアレルギー反応を示したわけではなく、街中にいた人々が使っていた香水に反応した可能性が高いことがわかった。啓司香水の匂いが最も嫌いで、彼の周りの女性は誰も香水を使わないし、紗枝も香水を使う習慣はない。以前、外出
啓司は足音を聞いて、ドアの方向を見た。紗枝は彼を呼ばず、彼の前に歩み寄り、口を開いた。「辰夫を傷つけたのは、あなたなの?」啓司は一瞬、息を止めた。「嘘をつかないで」紗枝は続けて言った。啓司は心の中で不安が広がり、低い声で答えた。「うん」「うん?本当に辰夫を殴ったの?」紗枝は信じられなかった。目が見えない彼が、辰夫を殴るなんて、しかも重傷を負わせたなんて。紗枝は怒りを抑えきれず、拳を振り上げて啓司の肩に打ち込んだ。啓司は眉をひそめ、驚いた顔をした。まさか紗枝が辰夫のために自分を殴るとは思っていなかったからだ。それほど強くはないが、彼は非常に不満だった。たかが男だろう?殴るなら殴る、直接埋めなかっただけでも運が良かったと思え。心の中ではそう思っていたが、口に出すことはできなかった。「紗枝ちゃん、男同士の争いは普通だろう、それに俺たちはライバルだし、喧嘩くらいは何でもないさ」「喧嘩って何よ?雷七が言ってたけど、辰夫はまだ危険な状態から抜け出していないって」紗枝は怒りを抑えきれず、再び拳を彼に打ち込んだ。啓司は避けなかった。なぜか、紗枝が他の男を守っているのを見ると、辰夫のところに飛んで行って、彼を切り刻みたくなるほどだった。「もうしない」と、彼は口先で言った。紗枝はまだ気が済まず、彼があまりにも頑丈で、殴っても全く効いていないと感じた。彼女は辰夫が病室に運ばれたことを思い出し、これで済ませるわけにはいかないと、手を上げて彼の腕を強く掴んだ。啓司の顔色がようやく変わった。「紗枝ちゃん、痛い」本当に、彼女の掴み方が少し痛かった。「私がこんなに軽く掴むだけで痛いってわかるなら、辰夫はどうだったの?彼は私にあんなに助けてくれた。もし彼がいなかったら、私は海外で死んでいたかもしれない。でもあなたは?あなたは何をしたの?」紗枝はまだ納得がいかず、力を込めて彼を掴んだ。紗枝も反抗せず、今まで感じたことのないような委屈を感じていた。「でも、俺だって嫉妬してしまったんだ」紗枝は驚いた。「辰夫とは、何もないんだよ」「何もない......」啓司は軽く笑った。「子供は......」紗枝が「子供は辰夫の子じゃなくて、あなたの子よ」と言おうとしたその時、ちょうど電話がかかってきた。紗枝
紗枝が家に戻ると、買ってきた食べ物を逸之に渡して、まずは軽く食べるようにと言った。その後、彼女は一人でキッチンに向かい、忙しそうにし始め、啓司のことは完全に無視していた。最初、啓司はこれが一時的に機嫌を損ねただけだと思っていたが、夜の年越しの食事になっても、紗枝は彼に目もくれなかった。逸之も二人の間に漂う妙な雰囲気に気づき、誰よりも嬉しそうだった。クズ親父がママを怒らせたんだな?ハハハ、ざまあみろ。夕食中、逸之はわざと啓司の目の前で、紗枝に甘えるような態度を取った。「ママ、あの唐揚げ食べたいけど、遠いから取れないよ。食べさせて!」「いいわよ」紗枝はずっと逸之に付きっきりで世話をし、それでも彼女は手を貸そうとしなかった。啓司は何度か料理を取ろうとしたが、うまく取れず、それでも彼女は手を貸そうとしなかった。食事が終わると、みんなでリビングでテレビを見ることになった。部屋の中では、紗枝と逸之だけが話をしていた。紗枝がトイレに行くと、逸之は啓司の前で得意げに笑いながら言った。「啓司おじさん、分かったでしょ?僕こそがママにとって一番大切な存在なんだから!」あなたなんて、いつでも他の人に取って代わられるだけの物だよ」啓司はため息をつき、いくらか諦めの色が漂っていた。「その口を閉じろ」「嫌だもん、べー!」逸之は彼に向かって変顔をしてから、気になって聞いた。「でさ、どうしてママを怒らせたの?」ママはすごく優しい人だから、ほとんど怒ることなんてない。啓司はそう言われて、うんざりしたように言った。「ガキのお前に何が分かるんだ?」「ガキなのはあなただよ、ふん」逸之はそれ以上聞くのをやめて、ママがクズ親父を無視してくれるなら、それでいいや、原因なんてどうでもいいと思った。彼はそのままテレビに目を向けた。テレビの年越し番組は退屈で、いつもは出雲おばあちゃんのために見ていたが、今はいないため、さらに興味を持てなかった。間もなく、逸之は退屈そうに大きなあくびを漏らした。紗枝がお湯を準備して、逸之を呼んでお風呂に入らせようとしたとき、彼が既に啓司の肩にもたれて眠っているのを見た。紗枝は無理に起こさず、今晩はお風呂なしでも大丈夫だろうと考え、抱き上げようとした。すると、啓司が逸之を先に抱き
病室には、紗枝が去って間もなく異変が起きた。激痛に耐えかねた美希の容態が急変し、昭子が部屋に入った時には、既に不快な臭気が漂っていた。「昭子……」美希は恥ずかしそうに娘を見つめた。「介護人を呼んでくれない?我慢できなくて……シーツを汚してしまったの」その言葉の意味を理解した昭子の顔に、一瞬、嫌悪の色が浮かんだ。「お母さん、まだそんな年じゃないでしょう。どうして……」「ごめんなさい。病気の後遺症なの。昭子……私のこと、嫌いにならない?」昭子の前での美希は、いつになく卑屈な様子を見せていた。昭子は知っていた。確かに美希は資産の大部分を鈴木家に持ち込んだものの、まだ隠し持っている財産があるはずだ。父にも知らせていない秘密の貯金を。その分も死後は自分のものになるはず――「まさか!実の娘があなたを嫌うわけないじゃない。ただちょっとびっくりしただけ。これからどうしましょう……」昭子は優しく声を掛けた。「すぐに介護人を呼んで、それから医師や看護師にも診てもらいましょう」「ありがとう……」美希は安堵の表情を浮かべた。目の前にいるのは自分の実の娘。きっと自分を嫌うことも、傷つけることもないはず――昭子は急いで部屋を出ると、介護人に電話をかけた。やがて介護人がシーツ交換にやって来た。かつての誇り高い名バレリーナが、こんな姿になるなんて――誰が想像できただろう。医師の治療を受けた美希の容態は、何とか持ち直した。昭子は消毒液の匂いが漂う病室に居たくなかった。適当な言い訳をして、すぐに外へ出た。美希の前で孝行娘を演じなければならないとはいえ、こんな場所に長居する気など毛頭なかった。外に出ると、やっと新鮮な空気が吸える。昭子は太郎に電話をかけた。すぐに電話が繋がると、昭子は姉らしい口調で切り出した。「太郎、お母さんが病気なの。いつ戻ってくる?」拓司の支援で自分の会社を持つまでになった太郎は、その話を一蹴した。「昭子、母さんに伝えてくれ。もうそんな古い手は通用しないって。紗枝姉さんが母さんを告訴しようとしてるからって、病気のふりをしたところで無駄だ」もう鈴木家に頼る必要のない太郎は、昭子の名前を呼び捨てにしていた。「今回は本当よ。子宮頸がんの末期なの」昭子は不快感を隠しながら説明した。がんが見つかってから
美希は一瞬固まった。紗枝の言葉に何か引っかかるものを感じ、思わず聞き返した。「どういう意味?」「お父さんの事故……あなたと関係があるんじゃない?」「何を言い出すの!」美希の目に明らかな動揺が走った。その反応を見た紗枝の心は、さらに冷めていった。紗枝が黙り込むと、美希は自らの罪悪感に追い詰められるように話し始めた。「あの人の遺書に……他に何か書いてあったの?」紗枝は目の前の女性を見つめた。この人は自分の実の母親で、父の最愛の妻だったはずなのに、まるで見知らぬ人のようだった。「どうだと思う?」紗枝は逆に問い返した。美希の表情が一変し、紗枝の手首を掴んだ。「遺書を見せなさい!」紗枝は美希の手を振り払った。「安心して。法廷で公開するわ」実際の遺書には、太郎が役立たずなら紗枝が夏目家の全財産を継ぐことができる、とだけ書かれていた。美希の悪口など一切なかった。でも、紗枝は美希に疑わせ、恐れさせたかった。また激しい腹痛に襲われ、美希の額には冷や汗が浮かんでいた。「このバチ当たり、恩知らず!育てるんじゃなかったわ!」紗枝は美希の様子を見て、確信した。本当に重病を患っているのだと。因果応報というものかもしれない。紗枝が部屋を出ようとすると、美希が引き止めた。「なぜ私が昭子を可愛がって、あなたを嫌うのか、知りたくない?」紗枝の足が止まる。「昭子はあなたより優秀で、思慮深くて、私に似てる。でもあなたは……吐き気がするほど嫌!」その言葉だけでは飽き足らず、美希は更に罵倒を続けた。「このろくでなし!あなたの父が『残せ』と言わなければ、とっくに捨てていたわ。人間のクズね。実の母親を訴えるなんて。その母親が病気になったら、嘲りに来るなんて。覚えておきなさい。あなたには絶対に、永遠に昭子には及ばないわ」「呪ってやる。一生不幸になれ!」紗枝は背後からの罵声を無視し、廊下へと出た。そこで向かいから来た昭子とばったり出くわした。「妹よ」昭子は紗枝の顔の傷跡に視線を這わせながら、内心で愉悦を感じていた。こんな醜い顔になって、拓司はまだあなたを望むかしら?紗枝は冷ややかな目で昭子を見据えた。「義姉さんと呼んでください。私と美希さんは、もう母娘の関係は終わっています」それに、昭子のような冷酷な女の妹にな
牡丹別荘で、切れた通話画面を見つめながら、紗枝は最後に美希と会った時のことを思い出していた。顔面蒼白で、腹を押さえ、全身を震わせていた美希の姿が。あの様子は、演技とは思えなかった。しかも、二度も癌を言い訳にするなんて、逆に不自然すぎる。そう考えを巡らせた末、紗枝は病院へ様子を見に行くことを決めた。市立病院で、紗枝が病室へ向かう途中、思いがけず澤村和彦と鉢合わせた。紗枝の姿を認めた和彦は、彼女がマスクを着用していても、右頬から口元にかけて伸びる傷跡がはっきりと確認できることに気付いた。「お義姉さん」以前、幼稚園で景之を助けてくれた一件があり、紗枝は昔ほど冷たい態度ではなかったものの、親しげでもなかった。「ええ」そっけない返事を残し、紗枝は急ぎ足で上階の病室へと向かった。和彦は不審に思い、傍らの秘書に尋ねた。「病気か?」秘書はすぐにタブレットで確認したが、首を振った。「いいえ」そして見覚えのある名前を見つけ、報告した。「夏目さんのお母様が入院されているようです」「夏目美希が?」「はい」「どういう容態だ?」秘書はカルテを開き、声を潜めて答えた。「子宮頸がん末期です」和彦の目に驚きの色が浮かんだ。末期となれば治療の余地はほとんどない。生存期間は長くて一年か二年というところだ。「偽装の可能性は?」和彦は美希の収監が迫っていることを知っていた。「当院の専門医による診断です。通常、偽装は考えにくいかと」秘書は答えた。和彦は金の力の大きさを痛感していた。「念入りに調査しろ。この件に関してはミスは許されん」「承知いたしました」......病室の前に到着した紗枝は、軽くノックをした。美希は昭子が戻ってきたのだと思い、満面の笑みを浮かべた。「何よ、ノックなんてして。早く入っていらっしゃい」しかし扉が開き、紗枝の姿を目にした途端、その笑顔は凍りついた。「なぜ、あなたが……」紗枝は、この急激な態度の変化を予想していたかのように、平然としていた。「昭子に電話をさせたということは、私に来てほしかったんでしょう?」美希は冷笑を浮かべた。「不孝者に会いたいなんて誰が思うもんですか。これで満足でしょう?本当に癌になって、余命は長くて二年よ」いつもプライドが高く、美しさ
そこへ追い打ちをかけるように、紗枝から新しい通達が出た。園児の送迎時の駐車場の使用方法から、その他の諸々の規則まで、全面的な見直しを行うという内容だった。「明らかに私への報復じゃない!」夢美は歯ぎしりしながら、紗枝にメッセージを送った。「明一は黒木家の長孫よ。私のことはいいけど、明一に何かしたら、黒木家が黙ってないわよ」紗枝は苦笑しながら返信した。「あなたが私の子供をいじめていた時は、彼も黒木家の人間だって考えなかったでしょう?」夢美は不安に駆られた。このまま他のクラスメートが明一を避けるようになったらどうしよう……「紗枝さん、あなたは明一の叔母なのよ。あまりみっともないことはしないで」紗枝は夢美の身勝手な言い分を見て、もう返信する気にもなれなかった。人をいじめる時は平気で、自分が不利になると途端に「みっともない」だなんて。紗枝は前から言っていた。誰であれ、自分の子供に手を出せば、必ず百倍にして返すと。それに、子供が間違ったことをしたなら、叱らなければならない。明一の親でもない自分が、なぜ彼の我儘を許さなければならないのか。紗枝は早速、最近自分に取り入ろうとしていたママたちにメッセージを送った。要するに、以前景ちゃんに対してしたことと同じように、明一くんにも接するようにと。ママたちは今、夢美に対して激しい憤りを感じていた。多額の損失を出し、夫の実家でも顔が上げられなくなったのは、全て彼女のせいだと。明一は景之ほど精神的に強くなかった。幼稚園で遊び時間になっても、誰も相手にしてくれず、半日も経たないうちに心が折れてしまった。この時になって、やっと景之をいじめたことが間違いだったと身をもって知ることになった。帰宅後、夢美は息子を諭した。「今は勉強が一番大事なの。成績が良くなれば、お爺様ももっと可愛がってくれるわ。そうすれば欲しいものだって何でも手に入るのよ」「遊び相手がいないくらい、大したことじゃないでしょう?」明一は反論できなかった。でも、自分は絶対に景之には及ばないことを知っていた。だって景之は桃洲市の算数オリンピックのチャンピオンなのに、自分は問題の意味さえ分からないのだから。夢美には言えず、ただ黙って頷くしかなかった。幼稚園での戦いがこうして決着すると、紗枝は夏目美希との裁判
「それで、どう返事したの?」紗枝が尋ねた。「『お義姉さん、私に紗枝さんと付き合うなって言ったの、あなたでしょう?もう私、紗枝ちゃんをブロックしちゃったから連絡取れないんです』って答えたわ」唯は得意げに話した。「うん、上手な対応ね」紗枝は頷いた。「でしょう?私だってバカじゃないもの。投資で損した金額を他人に頼んで取り戻せるなんて、甘すぎる考えよね」「いい勉強になったでしょうね」唯は親戚たちの本質を見抜いていた。結局、自分のことなど何とも思っていないのだ。それならば、なぜ自分が彼女たちのことを考える必要があるだろうか。「そうそう、紗枝ちゃん。澤村お爺さまが話したいことがあるって」「じゃあ、かわって」紗枝は即座に応じた。電話を受け取った澤村お爺さんは、無駄話抜きで本題に入った。「紗枝や、保護者会の会長に立候補したそうだな?」紗枝と夢美の保護者会会長争いは幼稚園のママたちの間で大きな話題となっており、澤村お爺さんも老人仲間との話の中で耳にしたのだった。景之のことだけに、特に気にかかったようだ。「はい……でも選ばれませんでした」紗枝は少し気まずそうに答えた。「なぜ私に相談してくれなかったんだ?」老人の声は慈愛に満ちていた。「会長の席など、私が一言いえば済む話だ。任せておきなさい」「お爺さま、そんな……」紗枝は慌てて断ろうとした。澤村お爺さんが景之を可愛がっているがゆえの申し出だということは分かっていた。「遠慮することはないよ。私が若かった頃は、お前の祖父とも親しかったのだからな」澤村お爺さんはそう付け加えた。紗枝には祖父の記憶がほとんどなかった。生まれてすぐに出雲おばさんに預けられ、三歳の時には祖父は他界してしまっていたのだから。「お爺さま、もう保護者会の会長選は終わってしまいましたから……」「なに、もう一度選び直せばいい。お前が選ばれるまでな」澤村お爺さんは断固とした口調で告げ、紗枝の返事も待たずに電話を切ると、すぐさま行動に移った。この件で最も難しいのは、黒木おお爺さんの説得だった。しかし、澤村お爺さんが一本の電話を入れると、間もなく園長から通達が出された。前回の保護者会会長選出に公平性を欠く点があったため、本日午後にオンラインで記名投票による再選挙を行うという。マ
紗枝は足早に出てきたせいで、啓司に体が寄りかかりそうになった。啓司は手を伸ばし、紗枝を支えた。「ありがとう」お礼を言った後、紗枝は尋ねた。「逸ちゃんに会いに来たの?」「ああ」「早く行ってあげて。もうすぐ寝る時間だから」紗枝は声を潜めて言った。その吐息が啓司の喉仏に触れる。啓司の喉仏が微かに動き、声が低く沈んだ。「分かった」しばらくして紗枝が身支度を整え、部屋に戻ろうとした時、逸之が泣き叫ぶ声が聞こえてきた。「ママと一緒に寝たい!」逸之は涙声で訴えた。「幼稚園では我慢して一人で寝てたけど、お家に帰ってきたら、パパとママと一緒がいい!」紗枝は諦めて逸之の横に横たわり、啓司は反対側に寝た。三人で寝ることになった逸之は、両親の手を一本ずつ握り、自分の胸の上で重ねると、「ママ、パパ、手を繋いでよ」とねだった。紗枝は首を傾げた。「どうして手を繋ぐの?」「幼稚園のみんなのパパとママは手を繋いでるの。でも、僕のパパとママは一緒にいても手を繋がないよね。お願い、繋いで?」紗枝は頬を赤らめながら「でも、手を繋がないパパとママだっているわよ……」と言いかけたが、啓司はすでに紗枝の手を掴んでいた。逸之はさらに「パパ、指を絡めてやって!」とせがんだ。指を絡める……啓司は息子の願いを叶えるべく、紗枝の指と自分の指をしっかりと組み合わせた。紗枝は啓司に握られた手を見つめながら、頬が熱くなるのを感じていた。啓司にもう興味はないはずなのに。たぶん、あの整った顔立ちのせいね、と自分に言い聞かせた。夜、紗枝の心は少しざわめいていた。翌朝、目を覚ますと、なんと啓司の腕の中にいた。紗枝がぼんやりと目を開けると、啓司の端正な顔が目に飛び込んできた。少し身動ぎした時、啓司に強く抱きしめられていることに気付き、横を見ると逸之の姿はなかった。「啓司さん」思わず声が出た。啓司は声に反応し、ゆっくりと目を開けた。まるで今気づいたかのように「なぜ俺の腕の中で寝てるんだ?」と尋ねた。紗枝は本気で彼を殴りたくなった。よくもそんな厚かましいことが。「あなたが抱きしめていたんでしょう。夜中にこっそり抱きついてきたんじゃないの?」「むしろ、自分から俺の方に転がり込んできたんじゃないのか」紗枝は彼の厚顔無恥
綾子は夢美の母の前に立ちはだかった。「先日、私が外出している間に、逸ちゃんに明一への土下座を要求したそうですね?」夢美の母は綾子の威圧的な雰囲気に、思わず一歩後ずさりした。「ふん」綾子は冷ややかに笑った。「親戚だからと多少の面子は立ててきたつもり。それを良いことに、私の頭上で踊るおつもり?私の孫に土下座?あなたたち程度の身分で?」「仮に逸ちゃんが明一に何かしたとしても、それがどうだというの?」木村家の面々は、夢美も昂司も、一言も返せなかった。逸之は元々綾子が好きではなかったが、今の様子を見て驚きを隠せない。この祖母は、本当に自分のために声を上げてくれているのだ。綾子は更に続けた。「最近の経営不振で、拓司に融資や仕入れの支援を求めに来たのでしょう?」木村夫婦の目が泳いだ。「はっきり申し上げましょう。それは無理です」「この会社は私の二人の息子が一から築き上げたもの。なぜあなたたちの尻拭いをしなければならないの?息子か婿に頼りなさい」結局、木村夫婦は夕食も取らずに、綾子の痛烈な言葉に追い返される形となった。黒木おお爺さんは綾子に、あまり激しい物言いは控えるようにと軽く諭しただけで、それ以上は何も言わなかった。昂司と夢美も息子を連れて、しょんぼりと屋敷を後にした。夕食の席で、綾子は逸之の好物を次々と運ばせた。「逸之、これからお腹が空いたら、いつでも来なさい。おばあちゃんが手作りで作ってあげるわ」逸之の態度は少し和らいだものの、ほんの僅かだった。「いいです。ママが作ってくれますから」その言葉に、綾子の目に落胆の色が浮かんだ。紗枝も息子が綾子に対して、どことなく反感を持っているのを感じ取っていた。夕食後、綾子は紗枝を呼び止めて二人きりになった。「あなた、子供たちに私と親しくするなと言ってるんじゃないの?」「私は子供たちの祖母よ。それでいいと思ってるの?」紗枝は心当たりがなかった。これまで子供たちに祖母の話題を出したことすらない。「そんなことしていません。信じられないなら、啓司さんに聞いてください」「啓司は今やあなたなしでは生きていけないのよ。きっとあなたの味方をするわ」紗枝は言葉を失ったが、冷静に答えた。「綾子さんが逸ちゃんと景ちゃんを本当に可愛がってくれているのは分かります。ご
黒木おお爺さんは彼らの突然の来訪に少し驚いたものの、軽く頷いて啓司に尋ねた。「啓司、どうして景ちゃんを連れてこなかったんだ?」もう一人の曾孫にも会いたかったのだ。側近たちの報告によると、景之は並外れて賢く、前回の危機的状況でも冷静さを保ち続けた。まるで啓司そのものだという。「景ちゃんは今、澤村家にいる。数日中には戻る」啓司は淡々と答えた。「まだあそこにいるのか。あの澤村の爺め、自分に曾孫がいないからって、私の曾孫にべったりとは」黒木おお爺さんはそう言いながらも、目に明らかな誇らしさを滲ませていた。その時、遠く離れた別の区に住む澤村お爺さんがくしゃみをした。黒木おお爺さんは啓司たちに向かって言った。「座りなさい。これから一緒に食事だ」「はい」一家は応接間に腰を下ろした。この状況では、木村夫婦も金の無心も支援の要請もできなくなった。夢美は焦りを隠せず、昂司の袖を引っ張った。昂司は渋々話を続けた。「お爺様、夢美の両親のことですが……」黒木おお爺さんはようやく思い出したという顔をした。「拓司が来たら、彼に相談しなさい。私はもう年だから、経営には口出ししない」確かに明一を溺愛してはいた。幼い頃から側で育った曾孫だからだ。だが黒木おお爺さんは愚かではない。木村家は所詮よそ者だ。軽々しく援助を約束して、万が一黒木グループに悪影響が出たら取り返しがつかない。木村夫婦の顔が更に強ばる中、逸之が突然口を開いた。「ひいおじいちゃん、お金借りに来たの?」黒木おお爺さんが答える前に、逸之は大きな瞳を木村夫婦に向け、過去の確執など忘れたかのような無邪気な表情で言った。「おじいさん、おばあさん、僕の貯金箱にまだ数千円あるよ。必要だったら、貸してあげるけど」木村夫婦の顔が一瞬にして真っ赤に染まった。たかが数千円など、彼らの求めているものではなかった。夢美の母は意地の悪い口調で言い放った。「うちの明一の玩具一つの方が、その貯金箱より高価よ」啓司が静かに口を開いた。「ということは、お金を借りに来たわけではないと」夢美の母は言葉を詰まらせた。紗枝は、なぜ啓司が自分たちをここへ連れてきたのか、やっと理解した。啓司から連絡を受けていた綾子は、孫が来ると知って早めに屋敷を訪れていた。夢美の母が孫を皮
本家での夕食と聞いて、紗枝は首を傾げた。「急なのね」「食事ついでに、面白い芝居でも見られそうだ」啓司はそれ以上の説明はしなかった。紗枝もそれ以上は詮索せず、逸之の服を着替えさせると、三人で車に乗り込み黒木本家へと向かった。本家の黒木おお爺さんの居間では、おお爺さんが上座に座り、ただならぬ不機嫌な表情を浮かべていた。曾孫の明一が傍にいなければ、とっくに昂司を殴っていただろう。広間には、昂司の義父母が両脇に座り、昂司夫婦が立ったまま叱責を受けている。「お爺様、あのIMという会社が私の足を引っ張ってきたんです。あれさえなければ、とっくに桃洲市の市場の大半を掌握できていたはずです」昂司は相変わらず大言壮語を並べ立てる。黒木おお爺さんは抜け目のない人物だ。数百億円の損失と負債を知るや否や、すぐに調査を命じた。新しい共同購入事業だと?革新的なビジネスモデルと謳っているが、保証も何もない。ただ金を注ぎ込むだけの愚策だった。「啓司が黒木グループを率いていた時も、桃洲市の企業は総出で足を引っ張ろうとした。それでも破産申請なんてしなかっただろう。結局、お前に器量がないということだ」黒木おお爺さんは昂司に容赦ない言葉を浴びせた。昂司は顔を歪めた。啓司がどれほど優秀だったところで、今は目が見えない身だ。盲目の人間に何ができる?誰が目の見えない者に企業グループの運営を任せるというのか?「お爺様、損失を出したのは私だけじゃありません。拓司だって、グループを継いでからは表向き順調に見えても、IMに押され気味なはずです」昂司は道連れを作るつもりで言い放った。十年以上も経営から退いている黒木おお爺さんは、この言葉に眉を寄せた。「拓司は就任してまだ半年も経っていない。これまでの社員たちを纏められているだけでも十分だ。お前とは立場が違う。何年も現場で揉まれてきたんだろう?」昂司は再び言い返す言葉を失った。「今後はグループ内の一部長として働け。分社化などという無駄な真似は二度とするな。恥さらしだ」黒木おお爺さんの言葉は厳しかった。部長とは名ばかりの平社員同然。昂司夫婦がこれで納得するはずもない。夢美は明一に目配せした。明一は黒木おお爺さんの手を握りながら、「ひいおじいちゃん、怒らないで。明一が大きくなったら、き