「紀美子」塚原悟は入江紀美子を呼び止めた。紀美子は足を止め、振り返って淡々と返事した。「何しに来たの?」「学校まで送ってあげる」学校?紀美子の目つきは一瞬で冷たくなったが、素直に悟の方へ近寄っていった。会社の前なので、彼女は社員達の注意を引きたくなかった。紀美子は車に乗り込み、悟も乗り込んだのを確認してから厳しい声で問い詰めた。「何で私が今日学校に行くのを知ってんのよ!学校にまで子供達の監視役を付けたの?」悟はエンジンをかけながら淡々と説明した。「監視役など付けていない。ボディーガードがそれを聞いて私に報告してきたのだ」「それって監視と変わらないじゃない」紀美子は怒りを抑えながら尋ねた。「あんたが子供達に私へと同じことをしていたら、彼らは他のクラスメイトに差別されるわ!」「紀美子、考えすぎだ」悟は説明した。「ボディーガード達はただ、学校の入り口で彼らを見守っているだけだ」「もういいわ!そうだとしても、あんたはどうして私と一緒に行こうとしてるの?子供達は既にあんたがやらかしたことを知っているのに、よく行く気になったわね!それとも、私が子供達に会って、あんたに不利なことを計画するとでも疑ってるの?」悟は口を閉じたまま何も言わなかった。彼自身にも、なぜ今日突然紀美子と一緒に学校に行こうとしたのか分からなかった。あの2人の子供が自分のことをどう見ているかなど、彼は気にしたことはなかった。確かに、彼らの能力は気になった。彼らはいつもインターネットという仮想の世界を駆け巡っていたので、もしかしすると、ネットを介してとんでもないスキルを持つ人に出会ってしまうかもしれない。しかし、懇談会があることを聞いた瞬間から、悟の脳裏にはたった一つの考えしか思い浮かんでいなかった。自分が紀美子と一緒に行かなければ、彼女が自分の目の前から消え去る、と。その不安の気持ちが彼を自然とTycの前に導いたのだった。皮肉なことに、彼にはそんな考えを言い出す勇気はなかった。悟が返事してくれないのを見て、紀美子はあざ笑いをした。「エリーに監視を辞めさせたら、あんたが直々尾行しに出向いてくるとはね。本当にいい迷惑よ!」悟は軽く眉を顰めた。「紀美子、それはどういうことだ?」「どうやら、藍
「たかが紀美子のことで、あなたは私を見捨てるつもりなの?」藍子は信じられないという様子で問いかけた。悟は冷たく言い放った。「お前、自分を何か大したものだとでも思っているのか?」「あなた……」藍子は驚きの声を上げた。「どうしてそんなひどいことが言えるの?」悟は言った。「加藤家の力を除けば、俺にとってお前なんて価値はない」藍子は悟の侮辱的な言葉に耐えられなかった。「それならもう婚約を解消しましょう!」彼女は冷静さを次第に失っていった。「この話は俺が最初に切り出したんだ。だから、お前に終了を決める権利はない」「どうして私には権利がないの?!」藍子は怒りに任せて反論した。「私だって、家族にあなたが紀美子と浮気していることを公表させて、婚約を完全に解消させることだってできるわ!」「やれるもんならやってみろ。ただし、お前がどうして刑務所から出られたか、忘れるなよ」そう言い残し、悟は電話を切った。藍子は驚きのあまり、携帯の画面を見つめたまま固まった。彼は自分を脅しているのか……?藍子は呼吸を整えようと必死に深呼吸をした。こんなにも卑屈な、誰かの思い通りにされるような人生は、彼女のプライドが許さなかった。彼女はすぐに美知子に電話をかけた。しばらくして、電話がつながった。美知子は気だるそうな声で笑いながら言った。「藍子か。今日は珍しくおばあちゃんに電話をくれるのね」藍子は感情を抑え、静かに頼んだ。「おばあちゃん、一つお願いがあります」美知子は優しく答えた。「言ってごらん。おばあちゃんにできることなら、力になるわ」「悟との婚約を解消したいんです」藍子は真剣な口調で言った。「だめよ!」美知子の声が急に鋭くなった。「そんなことは許さない!」藍子は一瞬言葉を失った。「おばあちゃん、今日悟があの女のために私をどんな風に中傷したか知ってる?」「悟が何を言ったかは関係ない。あなたはそんなことを考える資格はない!」「どうして?」藍子は声が震えながら尋ねた。「悟があなたを助けてくれたこと、あれは私たち加藤家が彼に借りた大きな恩義よ!感謝しないどころか、婚約を解消したいなんて……あなた、自分が加藤家の名にどれだけ泥を塗ったか、どれだけ恥をかかせた
一方、学校にて。紀美子は二人のボディーガードを伴い、子どもたちの教室の前に到着した。多目的ホールでの保護者会が始まるまでまだ時間があったため、先に子どもたちの様子を見に来たのだ。入口の少し離れた場所に立った紀美子の目には、教室内の前後に座り真剣に授業を受けている佑樹と念江の姿を捉えた。その瞬間、彼女の目に宿っていた冷ややかさは消え、柔らかな表情に変わった。二人の子どもたちは、まるで何かを感じ取ったかのように同時に振り向き、教室の入り口を見た。そして紀美子を見つけた瞬間、二人の目は大きく見開かれた。「ママ!」佑樹は立ち上がるや否や、授業中の先生を無視して教室の外へと駆け出した。念江もすぐにその後を追い、普段では見せない焦りの表情を浮かべていた。先生は驚き、慌てて追いかけてきたが、紀美子の姿を見て安心したのか、再び教室内に戻っていった。佑樹は小さな両手で紀美子の服をぎゅっと掴み、涙を流しながら叫んだ。「ママ、会いたかったよ!!」念江も紀美子の前に立ち、赤くなった目で彼女を見つめていた。紀美子は心が痛みながら佑樹を抱きしめ、念江に目を向けて嗚咽混じりに言った。「念江、ママに抱っこさせてちょうだい」念江は唇をぎゅっと結び、足を動かして紀美子の腕の中へ飛び込んだ。「ママ……僕もすごく会いたかった……」二人の子どもを抱きしめ、その特有の柔らかいミルクの香りを感じると、紀美子の胸の中に渦巻く感情がさらに複雑になった。「ママも、すごくすごく会いたかった」念江が紀美子の胸元から顔を上げたその瞳は、晋太郎と瓜二つだった。「ママ、体調は良くなった?」紀美子はその目を見つめ、一瞬呆然とした。一瞬、彼女の目の前に晋太郎の姿が重なったからだ。もし彼がまだ生きていたら、きっと同じ表情で自分を見つめ、体調を気遣ってくれただろう。紀美子は晋太郎への思いを心の奥に押し隠し、そっと息を吐いて微笑んだ。「うん、ママはもうずっと元気だよ」佑樹も顔を上げ、涙を拭いながらボディーガードたちを冷たく睨みつけた。「ママ、会いに来てくれたのはいいけど、あの二人が悟に告げ口したりしないよね?」「大丈夫よ。彼にはもう話してあるから」その言葉を聞いて、二人の子どもたちは安心したように息をついた。だが、
紀美子は軽く頷き、優しく言った。「ええ、ママもわかってる。佑樹のプライドが高いところ、パパにそっくりなのよ」念江は紀美子の手をしっかり握りながら、言った。「ママ、僕が弟をちゃんと面倒見るから、ママも自分を大切にしてね。僕、教室に戻るよ」紀美子は名残惜しそうに念江を抱きしめた。「ママは必ず早くあなたたちを迎えに行くからね」念江は少し涙ぐみながら言った。「うん、ママなら絶対に僕たちを長く待たせないって信じてるよ!」子供たちが教室に戻ったのを見届けると、紀美子はようやくその場を後にした。……月曜日の午前中。会議中の紀美子に龍介からの連絡が届いた。彼女は携帯を手に取り、龍介から送られてきた資料を確認した。それは例の薬剤の解析説明書だった。資料にはこう説明されていた——この薬剤は、ゆっくりと五臓を蝕み衰弱させる毒薬である。通常の投与量を一週間続けると、内臓痛が顕著になり、高熱、吐血、下血といった症状が現れることがある。三か月以内に内臓の機能不全で死亡する可能性が高い。薬剤は吸収が早く、通常の検査では検出されない。説明を読み終えた紀美子は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。もし子供たちがエリーを監視していなかったら、自分はもう助からなかっただろう。龍介の分析とここ数日の探りから見る限り、悟はこの薬の存在を知らないようだ。しかし、万が一を考えて、さらに悟を探る必要がある。徹底的にやるためには慎重を期すしかない!夜。紀美子は自宅に戻った。珠代はすでに食事の準備を済ませ、食事の声かけをしてきたが、紀美子は食卓には向かわず、そのまま階段を上がっていった。少し戸惑いを見せた珠代は、後から入ってきたエリーに問いかけた。「入江さんは外で食べてきたんですか?」エリーはスリッパに履き替えながら言った。「いや、また何か機嫌でも悪いんじゃないか?」珠代はテーブルいっぱいの料理を見ながら、紀美子に言われて買ってきた血漿を握りしめた。「後で部屋に少し持っていってみます」エリーはテーブルにつきながら言った。「忘れずに薬を混ぜるよ」そう言うと、エリーは珠代を見上げて続けた。「まさか彼女に何か気づかれたんじゃないか?薬は?」珠代は慌ててポケットから偽物の薬を取り出し、
新しい服に着替えたばかりのところで、ノックの音が響いた。紀美子は扉を開けると、珠代が食事を持って立っていた。彼女の顔色を見た珠代は驚いて言った。「入江さん、顔色が……」紀美子は首を横に振り、ちらりとエリーの部屋のドアに目を向けた。珠代はその意図を察して小声で言った。「彼女は部屋にいます」それを確認すると、紀美子は言った。「食事は持ってこなくていい。食べる気にならないから」珠代は言い返した。「入江さん、私の仕事はあなたをお世話することです。あなたが食事をとらないと、先生に叱られてしまいます。私はただの使用人です。どうか私を困らせないでください」「じゃあ、そこに置いておいて。後で食べるから」珠代は食事を部屋に置き、ソファのクッションの後ろに血漿を隠した。「入江さん、例のものは置きました」珠代は声をひそめて言った。紀美子は軽くうなずいた。「わかった」珠代が部屋を出ようとすると、紀美子は彼女の手首をつかみ、小切手を手渡した。「これ、20万よ。とりあえず渡しておくわ。今夜は何度か私の部屋を見に来て、もし私が熱を出したらエリーに知らせて」珠代はすぐに受け取り、ポケットにしまいこんだ。「承知しました、入江さん。その時は先生にも連絡します」「ええ、お願いね」「それでは失礼します」二時間後。紀美子は再びエアコンの冷風を長時間浴びて、ついに高熱を出すことに成功した。彼女の咳が絶え間なく続いた。微かな物音が部屋から漏れると、待機していた珠代はすぐにエリーを呼びに行った。彼女は扉の前でノックしながら言った。「エリーさん、起きていますか?」間もなく、エリーが扉を開けた。「何?」「入江さんが咳をしているのを聞きましたが、薬を持って行ったほうがいいでしょうか?夕食を持って行った時、彼女の顔色が悪くて、どうやら体調が悪そうでした」エリーは眉をひそめながら言った。「それは病気だけど、薬の効果によるものよ」そう言いながら、エリーは紀美子の部屋の方向を顎で示した。「彼女が熱を出していないか確認して」珠代はすぐに応じ、紀美子の部屋へ向かった。何度かノックして、ようやく紀美子の弱々しい声が聞こえた。「入って」珠代が部屋に入ると、エリーが後ろから近づいてく
半時間後、紀美子はエリーに連れられ病院に到着した。悟もすぐに病院へ駆けつけた。紀美子は診察の順番を待ちながら入口付近で座っていた。悟の姿が見えても、彼女は弱々しく瞼を持ち上げるだけだった。悟の眉間には明らかな焦りの色が浮かんでいた。そして、彼は紀美子の前にしゃがみ込み、優しく声をかけた。「紀美子、どうして急に熱を出したんだ?」疲労困憊の紀美子は、瞼を重たげに閉じたまま悟の問いかけに答えなかった。悟もそれ以上問い詰めず、手を伸ばして彼女の額に触れた。手のひらに伝わる火照りに、悟の表情は瞬時に険しくなった。彼はすぐに立ち上がり、エリーに向けて命じた。「彼女を見ていてくれ。俺は検査の申請をしに行く」薬の効果を知っているエリーだが、この言葉に動揺する様子はなかった。「分かりました、先生」悟がその場を離れると、エリーは壁にもたれながら、椅子に座る紀美子の青ざめた顔をじっと見つめた。「辛いでしょう?」エリーは冷淡な声で紀美子に問いかけた。紀美子は目を開け、冷たい視線をエリーに向けた。「どういう意味?」エリーは薄く笑みを浮かべると、嘲るように言った。「今の苦しみなんて大したことない。本当の苦しみはこれから始まるんだから」紀美子の視線が鋭くなった。悟がいるときには何も言わなかったくせに、悟がいなくなった途端に喋り始めるなんて。慎重だわね。紀美子は怒りを装いながら問い詰めた。「一体何が言いたいの?」エリーは体を起こして彼女に近づき、腰をかがめながら一言ずつ切り出した。「これだけは覚えておきなさい。本当の苦しみはまだまだ先よ。この程度の発熱なんて、前菜に過ぎないわ」紀美子はエリーの腕を掴み、怒りに満ちた目で睨みつけた。「あなた、私に何かしたでしょう!?」エリーは眉をひそめ、紀美子の手を振りほどいた。「何を言っているの?証拠でもあるの?」「もしあなたが何か仕掛けたなら、検査ですぐに分かるはずよ!少しでも怪しいことがあれば、私は絶対に許さない!」「へぇ」エリーは軽く笑いながら応じた。「じゃあ、検査結果を楽しみにしていればいいわ」エリーの余裕を目にして、紀美子は心の中で冷笑した。検査では薬の成分が一切検出されないから、こんな余裕を見せているのだろ
来月末には株主総会が控えている。自分は何としても理事長の座を手に入れなければならない。荒唐な考えを振り払い、悟はすっと立ち上がった。紀美子に意味深な視線を投げかけると、そのまま急診病棟を後にした。その頃、州城――龍介は接待を終え、クラブから出てきたところだった。その時、彼の携帯が鳴り、アシスタントからの電話だと確認すると通話を繋いだ。「社長、悟がMKを引き継ぐ前の行動を調査しました。森川社長が事故に遭った後、彼は部下を連れて刑務所へ貞則さんに会いに行っていました。監視カメラの映像も手に入れましたので、後ほどお送りします」「わかった」通話を切った後、龍介は送られてきた監視カメラ映像を再生した。映像には、悟が貞則と会い、エリーがいくつかの書類を取り出して署名を強要する場面が映っていた。映像には彼らの行動が全て映っていたが、契約書に何が書かれているのかまでは読み取れなかった。龍介は携帯を閉じ、車窓の外に目を向けた。悟が貞則に会いに行ったのは、彼がMKを引き継ぐことになったことに関係しているだろう。しかし、悟と貞則は何の関係もないはずだ。彼が貞則を訪ねた目的は一体何なんだ?しばし考え込んだ龍介は、MKの株主たちに直接聞いてみる必要があると判断した。そう考えながら、携帯を取り出し、MKの株主の一人に電話をかけた。しばらくして電話がつながり、株主の石田が出た。龍介は直球で聞いた。「石田さん、お忙しいところ申し訳ありません。一つお伺いしたいことがあるのですが」石田は親しげに答えた。「吉田社長、何をおっしゃいますか!迷惑だなんてとんでもない。何でも聞いてください。知っていることはすべてお答えしますよ」「悟はMKでどのようにして社長の座を手に入れたのですか?」石田はため息をつきながら答えた。「彼は、遺言書とMKにとって非常に重要な二つのプロジェクト計画書を持ち出して話してきました」「遺言書?」龍介は聞き返した。「そうです、吉田社長」石田が続けた。「遺言書には、悟と貞則さんが血縁関係にあることが記されていました」龍介は眉をひそめた。「皆その内容を調査しなかったのですか?」「遺言書には貞則さん自身の指紋が押されており、私たちはそれを鑑定しました」「たとえ
「今夜彼女が目を覚ますことはなさそうです」エリーは目を閉じたままの紀美子を見下ろしながら言った。「彼女、高熱を出しているんです。用件があるなら明日にしてください。では」そう言うと、エリーは一方的に通話を切った。切れた電話の画面を見つめながら、龍介は眉をひそめた。紀美子が熱を出しただと?彼女に薬の作用について連絡したばかりなのに、どうして?冷静に考えた後、龍介は悟った。これは紀美子がわざとやったのだ。自分の体を犠牲にすることさえも厭わないのか。龍介は心中でため息をつくと、携帯で帝都行きの深夜便を予約した。翌朝。紀美子は病室のベッドでゆっくりと目を覚ました。目を開けると、すぐ隣に、じっと自分を見つめるエリーの姿が目に入った。紀美子の胸に一瞬、言葉にできない緊張感が走ったが、彼女は無理やり体を起こした。咳を二回ほどしてから、彼女は口を開いた。「まだ死んでないわよ。そんなにじっと見なくてもいいでしょ!」エリーは冷たい笑みを浮かべた。「どう?体の調子は?」紀美子は唇をきつく結び、無言で彼女を見つめ返した。「答えられないのなら、私が代わりに言いましょう。全身がだるくて、体のあちこちが痛む感じかしら?」紀美子は驚いたふりをし、それから冷たい目でエリーを睨みつけ、怒鳴った。「一体私に何をしたの!?」エリーは軽く笑いながら答えた。「別に何もしていないわ。ただの推測よ。そんなに慌てることないでしょう?昨日の検査結果だって、何も問題なかったじゃない」紀美子は震える手で布団を握りしめた。「私に何かしたんだったら、絶対悟に言うわよ!そのときは、あなたがどうなるか考えなさい!」エリーの目には一瞬動揺の色が見えたが、すぐに冷静さを取り戻した。「冗談でしょう?あなたみたいに力のない人間に、わざわざ手を出す暇なんてないわ」そう言うとエリーは立ち上がった。「もう十分休んだでしょう?さっさと起きて、別荘に戻るわよ!」紀美子は弱った体を引きずりながらエリーに連れられて別荘に戻った。部屋に入ると、携帯がメッセージを受信した音が響いた。画面をタップしてロックを解除すると、送り主は龍介だった。「調子はどうだ?」紀美子はソファに腰を下ろし、メッセージを打ち始めた。「どうい
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言
「俺は何も言わない!」ボディガードが運転手の口に貼られたテープを剥がすと、運転手は晋太郎を見上げて言った。晋太郎は冷たく笑った。「美月」運転手は晋太郎の側に来た女性を見て、次に何が起こるかをよく理解していた。「暴力で自白させようとしても無駄だ。俺は塚原社長を裏切るつもりはない。殺すならさっさとやってくれ!」運転手は歯を食いしばって言った。「誰が暴力を振るつもりだと言った?」「どういう意味だ?」運転手は一瞬呆然とした。「この世には特殊メイクがあるじゃない」美月が笑いながら言った。運転手は一瞬固まったが、すぐに気づいた。自分は、捕まってからただ口を塞がれ連れて来られたが、暴力を振るわれることはなかった。その間の動きは非常に静かで、部屋の中からは何の音もしなかっただろう。「社長がそう簡単に騙されると思うのか?」そう言い終わると、運転手は内心不安になり上階に向かって叫ぼうともがいたが、傍らのボディガードに素早く再び口を塞がれた。すぐに美月は道具を取り出し、彼とよく似た体型のボディガードの変装を始めた。30分後、美月はそのボディガードを完全に運転手に化けさせた。自分とそっくりに変装したボディガードを見て、運転手の瞳は恐怖に満ちた。美月は変声器を取り出してボディガードにつけた。「ほら、何か喋ってみて」ボディガードが声を出すと、運転手はひどく衝撃を受けた。もう終わりだ、完全に終わりだ!「上に行ったら、悟に夕食が要るかどうかと尋ねるだけ。もし『要る』と言われたら、食事を届けながら部屋の様子を窺う。もし『要らない』と言われたら、この盗聴器を中に入れ、ドアの前で待機して。中の状況を常に把握したいの」運転手の表情を見て、美月はボディガードに言った。「分かりました、美月さん」そう言うと、ボディガードはホテルに入り、美月の指示通りに三階に上がった。「社長、夕食はいかがですか?」悟の部屋の前で、彼はドアをノックして尋ねた。「いい」部下の声を聞いて、悟は疑うことなく答えた。「入江さんの分もいいのですか」ボディガードはゆっくりしゃがみ込み、盗聴器を入れた。「ああ、彼女は寝ている」美月と晋太郎の耳には悟の声がはっきりと届いた。晋太郎は眉をひそめた。悟はま
「あんたはもう逃げられないわ。いつ私を解放してくれるの?」紀美子が尋ねた。「紀美子、私に二つだけ約束してくれないか?」悟は俯いて、掠れた声で言った。「私のできる範囲なら、約束するよ」早くそこを離れるために、紀美子は悟の話に合わせた。「ありがとう」悟は笑みを浮かべた。紀美子は彼の要求を待ったが、しばらく経っても悟は何も言わなかった。「約束って何?」紀美子が怪訝そうに尋ねた。「一つは後で教える」悟は再び立ち上がった。 そして、彼は彼女に向かって一歩ずつ近づいた。紀美子は緊張して椅子の肘掛けを握りしめた。「もう一つは、今夜だけ、私と一緒にいてくれないか、紀美子」悟は彼女の前で止まり、跪いて耳元で囁いた。「悟、変なことを言わないで」紀美子は目を見開いて彼を見た。悟は首を振った。「心配するな。ただ静かに眠って、そばにいてほしいだけだ」そう言うと、悟はそっと一本の針を取り出し、紀美子が気づかないうちに彼女の手のツボに素早く刺した。 「痛っ!」紀美子は手を引っ込め、恐怖に満ちた目で悟を見た。「何をしたの?」 「言っただろう。ただ一晩眠って、一緒にいてほしいだけだって」悟は冷静に答えた。その言葉と同時に、紀美子は急激な疲弊感に襲われた。彼女はまだ何か言おうとしたが、猛烈な睡魔に脳を支配され、次第に視界がぼやけていった。やがて紀美子はゆっくりと目を閉じ、横に倒れこんだ。悟は彼女の体を受け止め、腰をかがめてベッドに運んだ。階下。晋太郎が民宿に着くと、美月は車から飛び出して彼の元へ駆け寄った。 晋太郎が質問する前に、晴が先に詰め寄った。「彼女たちはどこにいるんだ?」 「佳世子さんは無事ですが、紀美子さんはまた部屋に連れ戻されました」美月は答えた。「森川社長、無闇に上るのは控えた方がいいでしょう。悟が部屋に爆発物を仕掛けている可能性がありますので、不用意に動けません」美月は晋太郎に向き直って忠告した。「偵察班を出せ」晋太郎は険しい表情で言った。「もう手配済みです」美月は答えた。「既に悟の部下の一人を排除しました」晋太郎はホテルの窓を見上げた。「奴はどの階にいるか特定できたか?」「3階です。廊下には悟の
「美月さん、山田大河という技術者が紀美子さんを人質に取っています。奴らは銃を持っていますが、どうしますか?」少し離れた場所に立っていた二人の男は、彼らの会話を聞きながら、通信機を通じて美月に低い声で報告した。「騒ぎ立てる必要はないが、その場を離れるな。とりあえずは威圧感を与えるだけでいいわ。紀美子さんは私が何とかする」美月は周囲を見回して、指示を出した。 「了解です、美月さん」 二人のボディガードが座るのを見て、大河の緊張はさらに高まった。 彼らは晋太郎の部下に違いない。 一般人であれば、銃を持っている奴を見た途端に逃げるはずだ。悟はゆっくりと大河に近づいた。「大河、言うことを聞け、銃を下ろせ」 目が充血した大河は首を振った。「できません、社長……もう逃げられません。奴らがここにいるということは、外も囲まれているはずです」 「分かっているさ。だから、銃を下ろせと言っているんだ」 「社長……」大河は涙を浮かべた。「どうか生き延びてください。こんな女に惑わされて命を投げ出さないで!彼女は災いのもとです。俺が彼女を始末します!社長、生きて……」そう言い終わると、大河は銃の安全装置を外し、再び紀美子の額に銃口を向けようとした。その瞬間、彼の視覚には悟が銃を抜く姿が映った。「社長……」大河は動きを止め、驚愕して目を見開いた。「バン——」突然、ガラスが砕ける音が響いた。紀美子が慌てて振り向くと、顔に温かく湿った感触と強烈な血の匂いがした。背後からの拘束が弱まり、紀美子は大河が目を見開いたまま倒れるのを見た。銃弾は彼のこめかみを貫通し、傷口から血が止めどなく噴き出してきた。顔が青ざめた彼女の目を覆い、悟は最速で彼女を連れてエレベーターに乗り込んだ。ロビーに座っていた二人のボディガードはすぐに追いかけようとしたが、エレベーターの扉はすぐに閉まってしまった。「美月さん、奴らは上の階へ逃げました!」ボディガードの一人が報告した。「大河が手を出さなければ、こっちも動くつもりはなかったのに。困ったわ。部屋のカーテンを閉められたら、こちらの狙いは定まらない」「強行突破しましょうか、美月さん!」 「ダメだ!部屋に爆弾を仕掛けられたかもしれない。悟が危険
「大河さんからいろいろ聞いた」紀美子は優しい口調で、悟のそばに座った。「全ての恨みを捨てて、どこかでまたやり直そう」悟は大河を一瞥し、明らかに不満げな視線を向けた。「君もついて来てくれるか?」紀美子は悟の浅褐色の、澄み切った瞳を見つめた。これほどの苦難を乗り越えたとは信じ難いほどの、純粋な眼差しであった。彼には彼の事情があるが、彼女にも許せないことがあった。悟を去るように説得することは、彼女の最大の譲歩だった。「それができないのは分かっているでしょう?晋太郎は私を探すのを諦めないわ。一生ビクビクしながら生きていきたいの?」紀美子は言った。「君がそばにいてくれれば、私はどうなっても構わない」悟はそう言いながら、紀美子の手に触れようとした。しかし、紀美子はとっさに手を引っ込めた。悟の手は空中で止まり、数秒間硬直した後、静かに下ろされた。「紀美子、もうこれ以上言わなくていい。君がここに少しでも長くいてくれるだけで十分だ」悟は紀美子に言った。「そして大河、お前の気持ちは分かるが、彼女を脅す必要はない」大河は一瞬呆然とした。「しかし、社長……」「もうこれ以上言うな」悟は言った。「もう十分に話したはずだ。これ以上説明しても無駄だ。お前は大海と行け」大河は納得いかず、まだどう説得しようか考えていたその時、民宿の入り口から二人の男が入ってきた。大河はその二人の体格から、彼らは訓練を受けた者たちだとすぐに分かった。彼らは普段着を着ていたが、明らかに危険なオーラを帯びていた。大河は視線を紀美子に移し、いきなり彼女を掴んだ。その急な挙動に、紀美子も悟も反応できなかった。次の瞬間、大河は悟の目の前で、再び銃を紀美子のこめかみに突きつけた。「大河、紀美子を放せ!」悟の表情は一気に冷たくなった。「嫌です!」二人の男は足を止め、険しい表情で大河を見つめた。「社長、奴らが来ました。この女を人質にして逃げましょうよ!社長もこの女を連れていきたいでしょう?俺が無理やり連れていきます!」「大河!」悟は怒声を上げた。「お前、そんなことをして何の得がある?そう簡単に彼女を連れ去れるとでも思うのか?私は強要ではなく、彼女自身の意思でついて来てほしいんだ!」「社長!
大河は一歩ずつ紀美子に迫ってきた。「社長があいつらに手を出したのは仕方がなかったんだ!本当は社長だってそうしたくなかった!あの忌まわしい父親さえいなかったら、社長だって子供の頃からお前たちと同じように過ごせた!あいつに脅迫されなかったら、彼は一生消えない傷を負わされずに済んだんだ!」「社長が最も惨めだった頃のこと、お前は知らないだろうけど、俺はよく知っている!俺は社長の資料を調べ、昔の監視カメラの録画映像も観たからな。社長は毎日のように殴られ、ドブ川の汚水をぶっかけられるどころか豚や犬の餌を食わされそうになっていた。いかがわしい女を呼び寄せ、社長の体をボロボロになるまで弄んだこともあった!社長は一人でその時期を耐え抜いたんだ!あんなことをされたら、誰でもあいつらを恨むのは当然だ。」「確かに社長の手によって多くの人の命が失われた。だが彼は、正当な理由がなければ絶対に命を奪ったりしない!社長が、自分の医療技術でどれだけの人を救い、どれだけの家庭を助けてきたかわかってるのか?俺と外にいる運転手の大海も、社長の助けがあってここまで来られたんだ!社長は資金援助だけでなく、生きる希望を与え、病気を治し、薬を提供してくれた!あんな素晴らしい人間に、なぜ世界はこんなにも不公平なんだ?」大河が怒りに震えながら吐き出した言葉を聞いて、紀美子は完全に呆然とした。彼の話からすると、悟に関してまだまだ知らないことがたくさんあるらしい。いや、知らなかったわけではない!聞いていたとしても、自分の同情を引くための嘘だと思い込んでいたのだろう。本人が話すのと、他人から聞かされるのとでは全く印象が違う。「悟に話がしたいと伝えてくれる?できるだけ早く、彼を説得してみるから」「お前のような女、何を考えてるかわかったもんじゃない!」大河は紀美子の話を遮り、いきなり彼女の襟首をつかんだ。彼は紀美子を拘束しながら、拳銃を彼女のこめかみに突きつけた。紀美子は全身が硬直したが、それでも冷静さを保ち、交渉を続けようとした。「私を殺したら、悟があんたを許すと思う?」落ち着いて話すのは通じない。紀美子は強気に出るしかなかった。「怒られるのはわかってる。俺は殺されても構わない。社長の命さえ救えればそれでいい!」「私が死んで、彼は一人で生きようとすると思
悟の部屋を出て、大河はしばらく躊躇ってからエレベーターに乗り込んだ。三階に着くと、彼は紀美子の部屋の前へと歩み寄った。「お前一人で来たのか?社長は?」佳世子を見張っていた大海は不審そうに尋ねた。「社長に内緒で来た」そう言って、大河は殺意に満ちた視線を紀美子の部屋のドアに向けた。「お前、何をする気だ?」大河の視線に気づいた大海は尋ねた。「この女さえいなければ、社長はきっと俺たちと一緒に逃げてくれる!」大河は歯を食いしばって言った。「大海、お前は社長が命を落とすのをただ見てるつもりか?こんな女のせいでよ!」「どういう意味だ?」大河は今の状況を説明した。「どんな事情があろうと、社長の命令なしでは彼女に手を出してはならん!彼女はお前に何の恨みもないだろ!」「恨みがないだと?」大河は問い詰めた。「もし社長が本当に行かなかったら、社長の言う通りに俺達だけで逃げるのか?」大海は黙り込んだ。「いや……社長は俺の家族を六年も面倒見てくれた。この恩は命をかけても返しきれない」「だから社長を連れて逃げないと、俺たち全員がこの女のせいで殺されるんだ!」大河は警告した。「たとえそうだとしても、彼女を殺しちゃいけない。彼女は社長が最も愛した女だ。もし殺したら、社長はどうなる?」大海は依然として反対した。「時間が全てを癒やしてくれるはずだ!」大河は言い放った。「俺は、たとえ社長に恨まれ、殺されても構わない!」そう言い残すと、大河はドアを押し開け紀美子の部屋に入った。その時、背後からドアが開く音がした。二人の会話を聞いていた佳世子が、我慢できずに部屋から出てきたのだ。「部屋に戻れ!」大海は慌てて振り返り、彼女を遮った。「紀美子に手を出すなんて、許さないわよ!」佳世子は焦って横を見ながら叫んだ。「紀美子!早く逃げて!この二人があんたを殺そうとしてるわ!!紀美子!!」佳世子は身を乗り出しながら叫び続けた。部屋の中では、紀美子が驚いた様子で入ってきた男を見つめた。そして外から聞こえる佳世子の叫び声に耳を澄ませた。大河が速足で近づいてくるのを見て、紀美子はすぐに布団を蹴り飛ばし、ベッドの反対側に立った。「何をする気?」彼女は警戒しながら大河に問いかけた
「お父さん、悟の車の位置がわかった!前僕たちが泊まってたホテルだ!」晋太郎は早急に電話を切り上げ、立ち上がって佑樹の元へ駆け寄り、パソコンの画面を見た。確かに、以前宿泊していたホテルだ。「悟ってやつは本当に計算高い。父さんが監視役を引き上げた途端、そこを選んぶだなんて。父さんをバカにしてるの?それとも、父さんがそこを狙わないと踏んだのか?」「今はそんなことを言っている場合じゃない。すぐに人を送って状況を確認させる」晋太郎は美月の携帯に電話をかけた。「森川社長、何かご指示ですか?」美月はすぐに応答した。「前の民宿だ。佑樹が悟の車の場所を突き止めた」美月は佑樹がこんなに早く手がかりを見つけ出したことに驚いた。彼女は携帯を持ちながら、隣でまだコードを打ち続ける技術者たちに目をやった。こいつら、子供二人にも及ばないのね!口元を少し歪ませながら、美月は心の中でそう思った。「わかりました、すぐ偵察班を向かわせます」電話を切ると、晋太郎もテーブルの上の車の鍵を手に取った。「父さんも行くの?」佑樹が声をかけた。「母さんが悟の手中にいるんだ。ここに座っていられない」晋太郎は頷いた。「俺も行く!」晴は慌てて立ち上がり、晋太郎の側へ歩み寄った。「佳世子は抑えられてるし、俺もじっとしていられない」「分かった」晋太郎は佑樹を見た。「お前と念江はここで大人しく待っていろ。何かあったらすぐに電話しろ。ボディガードも外で待機させておく」「わかった。父さん、必ず母さんと佳世子おばさんを助けてきて!」今回の民宿への移動では、晋太郎は多数のボディガードを分散させて配置した。しかし、どれだけ慎重に行動しても、大河の監視網から逃れることはできなかった。ホテル。大河は再び悟のもとへ駆けつけた。「社長、もうここはバレています!晋太郎の手下がすでに向かってきています!」しかし、座って茶を飲んでいた悟は、大河の言葉にも大して動揺を見せなかった。「彼女が行きたがらない」声は淡々としていたが、悟の心は万本の針で刺されるように痛み苦しくなっていた。「社長!命あっての復讐です!女なんかより、自分の命の方が大事じゃないんですか!」「大河、行くならお前と大海だけで行け。もう私のことを構うな
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪