そう言い終えると、ゆみは容赦なく線香を引き抜き、地面に投げ捨てた。そしてすぐに顔を上げ、晋太郎を見て言った。「パパ、行こう」晋太郎は手のひらで守っていた灯を一瞥し、口を開こうとした瞬間、ゆみが言った。「もう無駄よ」晋太郎は軽く頷き、立ち上がると、ゆみの手を引いて車へと戻った。……一時間後、都江宴。晋太郎は、ゆみのために用意させた煮込みスープを運ばせた。さらに、紀美子のために特別に用意させたお粥もあった。二人が目の前で一口ずつ食べるのを見ながら、晋太郎の脳裏には悠斗の言葉が何度繰り返し再生されていた。彼が必要としていたとき、母親はそばにいなかった。今、もう必要としていないのに、母親が自分を探しに来た。考え込むうちに、晋太郎の視線は自然と紀美子の疲れた顔に向けられた。彼女はまだ、自分を必要としてくれている。今の自分は彼女に冷たい態度を取っている。もし記憶を取り戻し、改めて彼女が必要に感じても……その時彼女はもう自分を必要としていないかもしれない。しかし、記憶がない今の状態で、どうやってこの女性を受け入れればいいのか。「食べないの?」紀美子の声が彼の思考を遮った。彼女の空になったお椀を見て、晋太郎は問いかけた。「食べ終わってから聞くなんて、どういうことだ?」「いいじゃない!」ゆみが口を挟んだ。「パパが食べないからママが親切に聞いてくれたのに、そんな言い方するなんて」晋太郎はゆみに言い返せず、横を向いて時計を見るふりをした。「もう遅いから、今夜はここに泊まろう」彼は少し離れたところに立っているウェイターに手を振った。ウェイターに向かって晋太郎がいくつか指示を出すと、彼は部屋の準備に向かった。紀美子も特に断るつもりはなかった。数日後にはゆみは小林さんのところに戻ってしまう。今は、少しでも長く一緒にいたかった。しかし、予想外だった。都江宴はあくまでレストランで、宿泊できる部屋は二つしかないとのことだった。一つは美月の部屋、もう一つは晋太郎の部屋。晋太郎の部屋に入った瞬間、紀美子の頬が一気に赤くなった。部屋には、ソファとベッドが一つだけ。一体、どうやって寝ればいいの?ゆみはさっさと柔らかいソファを占領し、抱き枕を抱えながら体を
翌日。晋太郎はぼんやりと目を開け、周りを見回した。すると、紀美子が血走った目で心配そうにベッドのそばに座り、じっとこちらを見つめているのが目に入った。彼は眉をひそめ、カーテンの向こうに広がる明るみ始めた空を一瞥すると、無理に体を起こそうとした。紀美子はすぐに手を伸ばして支えた。「横になってて。無理しないで。体の具合はどう?頭はまだ痛む?」彼女の手に押し戻されるようにして晋太郎は再び横になり、かすれた声で尋ねた。「俺……昨夜、気を失ったのか?」紀美子は頷いた。「ええ。本当に驚いたわ。すぐに医者を呼んだけど、大したことはないって。点滴を打ったらすぐに帰っていったわ」「そうか……」晋太郎は淡々と応じた。彼はまだ覚えていた。昨夜、気を失う前に頭に浮かんだ、紀美子に関する幾つかの記憶を。そこにいた彼女は、服を抱え、裸のまま浴室へと入っていった。一方の自分はただ冷淡にベッドに座っており、その姿を一瞥するとすぐに視線を逸らした。こんな場面が、一度きりではなかった気がする。いったい何度、同じことを繰り返していたのか。そう思うと、彼の胸の奥に得体の知れない罪悪感と痛みが込み上げてきた。「……俺たちって、どうやって出会ったんだ?」かすれた声でそう問いかけると、紀美子は驚いたように彼を見た。「どうしたの?いきなりそんなこと聞いてくるなんて……もしかして、何か思い出したの?」晋太郎はじっと紀美子の黒い瞳を見つめ、静かに言った。「いいから、教えてくれ。俺たちは、どうやって知り合ったんだ?」彼の執拗な問いかけに、紀美子の手が一瞬止まり、それからそっと耳たぶに触れた。「私の耳たぶには、ほくろがあるの……」約一時間かけて、紀美子は当時の出会いと、誤解の経緯をすべて説明した。晋太郎の表情は、困惑から次第に驚愕へと変わっていった。「つまり……君は、俺に三年間も身代わりとして扱われていたってことか?」彼の声はかすれ、胸の奥は締めつけられるような感覚に襲われた。紀美子は苦笑した。「そうよ。どんなに説明しても、あなたは私の言葉を信じようとしなかった。あなたにとって、本当に大切なのは静恵だけだったから」彼女は鼻をすすり、一息ついて続けた。「でも、もう過去のことよ。今さら話したって
「ゆみをもう少しここにいさせようとは思わないの?」「今の彼女の状態では、とてもじゃないが引き止められない」晋太郎の声には、わずかな無力感がにじんでいた。紀美子はそれ以上何も言わず、携帯を取り出して三人分の航空券を予約した。正午。昼食を終えた後、紀美子と晋太郎はゆみを連れて空港へ向かった。ちょうどその時、ボディーガードがゆみの身の回りの荷物を届けに来た。搭乗直前の瞬間、紀美子は空港のあちこちから現れる大勢のボディーガードを目にした。その物々しい光景に、彼女は戸惑いながら晋太郎を見上げた。「安全のためだ。この便には、俺の部下しかいない」「ほかの安全確認もできてるの?」「ああ」晋太郎はゆみの手を引き、検査場へと向かいながら答えた。「すべて確認済みだ」そうは言われても、紀美子はどうにも落ち着かず、念入りに周囲を見回した。不審な人物がいないことを確認して、ようやく安心し、二人の後を追うように中へ入った。彼らの姿が完全に消えたその瞬間、悟が空港の隅から静かに姿を現した。彼は、去っていく紀美子の背中をじっと見つめ、胸の奥から湧き上がる寂しさに胸を痛めた。「行動に移しますか?」悟の隣に立つボディーガードが問いかけた。「彼女が彼と一緒にいる限り、手を出せば彼女まで巻き込んでしまう」紀美子が同行していることで、彼は計画を中止せざるを得なかった。ボディーガードは慎重に進言した。「今回の機会を逃せば……」「そんなことは百も承知だ」悟は言った。「だが、彼女を失うわけにはいかない」ボディーガードは密かにため息をついた。結局、どんな男でも愛情の試練からは逃れられないのか。無感情で何事にも動じないように見える彼でさえたった一人の女性に縛られているとは。悟は、しばらくその場に立ち尽くした後ようやく視線を落とし、静かに言った。「行こう」「わかりました」飛行機の中。紀美子は一晩中眠れなかったため、頻繁にあくびをしていた。それを見たゆみが気を利かせ、客室乗務員に頼んで薄手のブランケットを持ってきて、そっと紀美子にかけた。「ママ、寝ていいよ。パパも私もちゃんとそばにいるから」紀美子はゆみの頭を優しく撫でた。「ゆみ、最近すごくしっかりしてきたね」「もちろん
その頃、Tyc。佳世子が昼休みから戻ってくると、翔太がオフィスで座っていた。彼を見て、佳世子は驚いて声をかけた。「翔太さん?どうしてここに?」「ああ、紀美子に会いに来たんだ」翔太は穏やかに笑いながら立ち上がり、佳世子の後ろを見た。「紀美子はいないのか?」「紀美子から聞いてないの?」佳世子は冷蔵庫から水を取り出し、翔太に手渡した。「晋太郎と一緒にゆみを小林さんのところに送り届けに行ったよ」翔太は水を受け取った。「二人は和解したのか?」「多分、まだ」佳世子は不安そうな様子で言った。「私の知る限りではまだしてない。翔太さん、今日は紀美子に何か話があったの?」翔太はうなずいた。「ああ、紀美子が集めた悟の犯罪の証拠をもらいに来たんだ。上から人が来て、ツテを使って明日会えることになったんだ」「コンコン——」翔太の話が終わらないうちに、ノックの音が聞こえてきた。「どうぞ」佳世子はドアに向かって応じた。ドアが開き、美月が入ってきた。彼女は佳世子に軽く挨拶した後、翔太に目を向けた。「翔太さんもいらっしゃったんですね。それでは失礼しますわ」佳世子は立ち上がって迎えた。「いいえ。まだ何も話してないから、どうぞ座って」美月は堂々と入ってきて、翔太の隣のソファにどっかりと座った。「どうぞ、お話を続けてください。私にお構いなく」美月は二人を見て言った。「存在感が大きすぎて、気にしないなんてできないと思うのですが?」翔太は敵意を持って美月を見つめた。前回、晋太郎が紀美子を連れ去った時、美月が彼を引き止めたからだ。「翔太さん、美月さんは味方だから。大丈夫だよ」佳世子はその場の雰囲気を和らげようとした。「翔太さん、私に何か不満でもあるんですか?」美月はわざとらしく眉を上げた。「そうだな」「翔太さんは根に持つタイプなんですね。あの日、入江さんは何も損していないのに。私があなたを引き止めたことをまだ覚えているなんて」美月は扇子で口を隠しながら笑った。「紀美子は損して、されて嫌だったことも覚えてちゃいけないのか?」翔太は問いかけた。それを聞いて佳世子は呆れた。「翔太さん、そろそろ本題に戻りましょうか?」「本題って?」翔太は視線を戻し
「翔太さん。うちのボスが味方なのか敵なのかを考えてるんでしょう?」美月は口元を手で隠しながら笑った。翔太は唇を噛み、何も言わなかった。「もしうちのボスが何かを企んでいるなら、今日まで待つ必要はありませんし、森川社長を救うために人手やお金を使う必要もありません」「そう言われると、ますますあんたのボスの動機が気になるわ。理由もなく人を救うなんて。ただ彼が晋太郎だから?」佳世子は我慢できずに尋ねた。「その辺りのことは、いずれボスに会えば分かると思います。ボスの指示がない限り、私は何も言えません。ただ一つ覚えておいてほしいのは、私たちは森川社長に危害を与えるつもりはないし、森川社長の周りの誰も傷つけるつもりはないということです」美月は少し苛立ちながら答えた。彼女のその言葉で、オフィス全体は沈黙に包まれた。しばらくして、翔太がようやく口を開いた。「じゃあ、これから私たちは何もする必要がないってことか?」「ええ」美月はうなずいた。「すべて森川社長本人に任せましょう」そう言うと、美月は扇子を広げて扇ぎ始めた。「さて、本題に戻りましょう。森川社長と入江さんは帝都を離れました。佳世子、これからの計画を話し合いましょう」翔太は二人を訝しげに見た。「君たちの間には何か計画があるのか?どんな計画だ?」佳世子は口を尖らせた。「晋太郎の、男としての独占欲を刺激するのよ」「……」女性同士の会話に、自分はあまり深入りしない方が良さそうだ。翔太はそう思った。……夕方、紀美子と晋太郎はゆみを連れて飛行機を降りた。空港を出た瞬間、激しい雨が降っていることに気がついた。車に乗り込むと、ボディガードから、フライトが欠航になるとの連絡を受けた。「これからの天気はどうなる?」晋太郎は尋ねた。「これから数日間、降雨量が多くなるようです」ボディガードは答えた。晋太郎の表情は少し曇ったが、ゆみは大喜びだった。「じゃあ、お父さんとお母さんはここで何日かゆみと一緒にいてくれるの?」ゆみの目は笑みで新月のように細くなった。仕事のことが頭に浮かんだが、ゆみが喜んでいるのを見て晋太郎の心は穏やかになった。彼は大きな手を伸ばし、ゆみの頭を撫でた。「ああ、お父さんはもう二日間、ゆみと一緒に
晋太郎たちがリビングに入ると、美味しそうな香りが漂ってきた。テーブルの上には、小林が作った料理が並べられていた。紀美子は後から入ってきた小林を見た。紀美子は他に客がいるのかと聞こうとしたが、その前に小林が口を開いた。「ちょうどこの時間に着くだろうと計算して、料理を作っておいたんだ」晋太郎の目には驚きの色が浮かんだ。「ゆみが教えたのですか?」「ううん!」ゆみは横から答えた。「私は何も言ってないよ。おじいちゃんは本当にすごいんだよ!何でも分かるの!」小林の能力の話になると、ゆみは誇らしげに胸を張った。その様子に、みんなは思わず笑みを浮かべた。小林は紀美子たちを座らせ、みんなに茶を注いだ。「まずはお茶を飲んでゆっくりしててくれ。スープができたら食べよう」そう言いながら、小林は急いでキッチンに向かった。晋太郎の視線は雨水が流れ落ちる窓ガラスに向けられた。窓を叩く雨音聞きながら、彼は低い声で言った。「今夜ここに泊まるのは無理だ」紀美子は軽く眉をひそめた。「まだ環境のことを気にしてるの?」晋太郎は彼女を一瞥した。「そうじゃない。後ろの山が雨で崩れる可能性がある」紀美子も晋太郎の視線を辿って窓の外を眺めた。すると、心の中には漠然とした不安が湧き上がってきた。彼女は、以前山崩れに遭ったことを思い出した。「私から小林さんに言っておこうか?今夜は皆で外に泊まりに行こう」紀美子は晋太郎に尋ねた。「ああ」晋太郎は言った。「食事が終わったら一緒に連れて行こう」ちょうどその時、小林がご飯とスープを運んできた。紀美子は慌てて立ち上がり、料理を並べるのを手伝った。皆が座ると、紀美子は先に口を開いた。「小林さん、今夜は私たちと一緒に町に行きましょう」「雨が心配なのか?」小林は箸を持った手を少し止め、紀美子に尋ねた。「はい」紀美子は心配そうに答えた。「山崩れに備えなくては」小林は黙って箸を置いた。「私はここに何十年も住んでいるが、こんな大雨でも山崩れに遭ったことはない」紀美子はまた説得しようとしたが、小林が先に言った。「だが、君たちの心配も当然だ。山崩れはないが、大雨で深刻な浸水が起こることがあるんだ」紀美子は安堵の息をついた。
小林は言葉に詰まった。「ゆみ、自然には自然の法則があるんだ。爺さんも万能じゃない。それに、わしは陰陽の稼業をしているんだ。それをちゃんとわきまえないといかん」「つまり、お爺さんにもわからないことがあるってこと?」小林は黙ってうなずいた。「ボディガードをずっと外に待機させ、何かあったらすぐに対応してくれるようにしてくれない?」膠着状態が続く中、紀美子は晋太郎に言った。「君もここに残るつもりか?」晋太郎は不機嫌そうに紀美子を見た。「ゆみが心配だから、ここに残って一緒にいる」紀美子はうなずいた。二人の意志を変えられず、晋太郎も諦めるしかなかった。夜10時半頃。リビングでビデオ会議を終えばかりの晋太郎は、窓の外から鈍い轟音が聞こえてきた。彼の目が鋭く光り、心の中で警報が鳴り響いた。彼は真っ暗な窓の外を見上げた。晋太郎だけでなく、階上の紀美子も外の物音が聞こえ、ベッドが微かに揺れ始めたのを感じた。紀美子は慌てて眠っているゆみを抱き上げた。靴を履く時間も惜しみ、素足でゆみを抱えて階下へ駆け下りた。角を曲がったところで、晋太郎も階上へ駆け上がってきて、二人はぶつかりそうになった。紀美子を見た時、彼は一瞬驚いた。彼女の純粋な目に溢れる恐怖が、彼の心を締め付けた。晋太郎は我に返り、慌てて娘を抱き上げた。「階下へ行け!ボディガードは準備できているから、いつでも出発できる!」「分かったわ……」紀美子は晋太郎について階下へ降りようとしたが、少し歩いたところで立ち止まった。「晋太郎!」紀美子は慌てて彼を呼び止めた。「小林さんはまだ階上にいる!先にゆみを車に乗せて、私は小林さんを呼んでくる!」晋太郎が返事をする間もなく、紀美子は再び階上へ駆け上がった。屋外の音がますます大きくなる中、晋太郎は歯を食いしばり、ゆみを抱えたまま階段を駆け下りて家を飛び出した。門の外で待機していたボディガードがすぐに迎えに来た。「森川社長、山崩れです!すぐに離れないと!」「子供を先に連れて行け!」晋太郎は腕の中のゆみをボディガードに渡し、厳しい声で命令した。「社長!」ボディガードは焦った声で警告した。「山崩れの勢いは半端じゃないんです!急がないと、家ごと押しつぶされます!」「黙れ
階上には、まだ紀美子の姿はなかった。後ろからは、ゆみの悲痛な泣き叫び声が聞こえ、目の前には今にも流れ落ちてきそうな土石流が迫っていた。本当に紀美子を置き去りにして逃げるのか?記憶の中、彼女が病院のベッドに横たわり、傷ついている姿が彼の心に鈍い痛みを引き起こした。紀美子を置き去りにするなんて、そんなこと……彼にはどうしてもできない!もしそうしてしまったら、間違いなく後悔することになる。晋太郎はボディガードの手を振り払い、階上へ駆け上がろうとした。彼の後ろにいたボディガードたちは互いに目を合わせ、晋太郎に続いて前に出た。晋太郎がそばに近づいてくると、ボディガードの一人は素早く彼の首筋に一撃を加えた。「申し訳ありません、社長!」一瞬、晋太郎の目の前が真っ暗になり、そのまま気絶して倒れ込んだ。ボディガードたちは手際よく彼を車に担ぎ込んだ。車の中のゆみは、気を失った晋太郎を見て恐怖に震えながら叫んだ。「お父さんに何をしたの?」「お嬢さん、社長は一時的に気を失っただけです。すぐに目を覚ますでしょう。これ以上ここにいるのは危険です!」「やだ、お母さんはまだ上にいる!」ゆみは狂ったように叫んだ。しかし、ボディガードは問答無用に車を発進させ、その場を離れた。一方、ボディガードたちが晋太郎たちを連れて去った直後、紀美子は足首を捻った小林を支えて部屋から出てきた。階段を降りようとした時、隣の部屋から激しい衝突音が響いた。地面が揺れ、紀美子は階段から転げ落ちそうになった。何とか体勢を整えた彼女の青ざめた顔には冷や汗が滲んだ。「わしのことはいいから、先に降りなさい」小林は紀美子を軽く押した。「ダメです、小林さん!」紀美子は声を震わせて断った。「もう少し頑張ってください。車に乗れば安全です」紀美子は小林に反論する余地を与えず、二人は壁に寄りかかりながらできるだけ早く階段を降りた。しかし、一階に着いた時、開けっ放しのドアの外に車がないのに気づいて、紀美子の心は一瞬で冷え切った。晋太郎は……自分たちを置き去りにしたのか?「ゴォォォ——」後ろの山から、再び耳をつんざくような音が響き渡った。紀美子は窓の外を見て、体が鉛のように重くなり、動けなくなった。午前3時頃。
「大河さんからいろいろ聞いた」紀美子は優しい口調で、悟のそばに座った。「全ての恨みを捨てて、どこかでまたやり直そう」悟は大河を一瞥し、明らかに不満げな視線を向けた。「君もついて来てくれるか?」紀美子は悟の浅褐色の、澄み切った瞳を見つめた。これほどの苦難を乗り越えたとは信じ難いほどの、純粋な眼差しであった。彼には彼の事情があるが、彼女にも許せないことがあった。悟を去るように説得することは、彼女の最大の譲歩だった。「それができないのは分かっているでしょう?晋太郎は私を探すのを諦めないわ。一生ビクビクしながら生きていきたいの?」紀美子は言った。「君がそばにいてくれれば、私はどうなっても構わない」悟はそう言いながら、紀美子の手に触れようとした。しかし、紀美子はとっさに手を引っ込めた。悟の手は空中で止まり、数秒間硬直した後、静かに下ろされた。「紀美子、もうこれ以上言わなくていい。君がここに少しでも長くいてくれるだけで十分だ」悟は紀美子に言った。「そして大河、お前の気持ちは分かるが、彼女を脅す必要はない」大河は一瞬呆然とした。「しかし、社長……」「もうこれ以上言うな」悟は言った。「もう十分に話したはずだ。これ以上説明しても無駄だ。お前は大海と行け」大河は納得いかず、まだどう説得しようか考えていたその時、民宿の入り口から二人の男が入ってきた。大河はその二人の体格から、彼らは訓練を受けた者たちだとすぐに分かった。彼らは普段着を着ていたが、明らかに危険なオーラを帯びていた。大河は視線を紀美子に移し、いきなり彼女を掴んだ。その急な挙動に、紀美子も悟も反応できなかった。次の瞬間、大河は悟の目の前で、再び銃を紀美子のこめかみに突きつけた。「大河、紀美子を放せ!」悟の表情は一気に冷たくなった。「嫌です!」二人の男は足を止め、険しい表情で大河を見つめた。「社長、奴らが来ました。この女を人質にして逃げましょうよ!社長もこの女を連れていきたいでしょう?俺が無理やり連れていきます!」「大河!」悟は怒声を上げた。「お前、そんなことをして何の得がある?そう簡単に彼女を連れ去れるとでも思うのか?私は強要ではなく、彼女自身の意思でついて来てほしいんだ!」「社長!
大河は一歩ずつ紀美子に迫ってきた。「社長があいつらに手を出したのは仕方がなかったんだ!本当は社長だってそうしたくなかった!あの忌まわしい父親さえいなかったら、社長だって子供の頃からお前たちと同じように過ごせた!あいつに脅迫されなかったら、彼は一生消えない傷を負わされずに済んだんだ!」「社長が最も惨めだった頃のこと、お前は知らないだろうけど、俺はよく知っている!俺は社長の資料を調べ、昔の監視カメラの録画映像も観たからな。社長は毎日のように殴られ、ドブ川の汚水をぶっかけられるどころか豚や犬の餌を食わされそうになっていた。いかがわしい女を呼び寄せ、社長の体をボロボロになるまで弄んだこともあった!社長は一人でその時期を耐え抜いたんだ!あんなことをされたら、誰でもあいつらを恨むのは当然だ。」「確かに社長の手によって多くの人の命が失われた。だが彼は、正当な理由がなければ絶対に命を奪ったりしない!社長が、自分の医療技術でどれだけの人を救い、どれだけの家庭を助けてきたかわかってるのか?俺と外にいる運転手の大海も、社長の助けがあってここまで来られたんだ!社長は資金援助だけでなく、生きる希望を与え、病気を治し、薬を提供してくれた!あんな素晴らしい人間に、なぜ世界はこんなにも不公平なんだ?」大河が怒りに震えながら吐き出した言葉を聞いて、紀美子は完全に呆然とした。彼の話からすると、悟に関してまだまだ知らないことがたくさんあるらしい。いや、知らなかったわけではない!聞いていたとしても、自分の同情を引くための嘘だと思い込んでいたのだろう。本人が話すのと、他人から聞かされるのとでは全く印象が違う。「悟に話がしたいと伝えてくれる?できるだけ早く、彼を説得してみるから」「お前のような女、何を考えてるかわかったもんじゃない!」大河は紀美子の話を遮り、いきなり彼女の襟首をつかんだ。彼は紀美子を拘束しながら、拳銃を彼女のこめかみに突きつけた。紀美子は全身が硬直したが、それでも冷静さを保ち、交渉を続けようとした。「私を殺したら、悟があんたを許すと思う?」落ち着いて話すのは通じない。紀美子は強気に出るしかなかった。「怒られるのはわかってる。俺は殺されても構わない。社長の命さえ救えればそれでいい!」「私が死んで、彼は一人で生きようとすると思
悟の部屋を出て、大河はしばらく躊躇ってからエレベーターに乗り込んだ。三階に着くと、彼は紀美子の部屋の前へと歩み寄った。「お前一人で来たのか?社長は?」佳世子を見張っていた大海は不審そうに尋ねた。「社長に内緒で来た」そう言って、大河は殺意に満ちた視線を紀美子の部屋のドアに向けた。「お前、何をする気だ?」大河の視線に気づいた大海は尋ねた。「この女さえいなければ、社長はきっと俺たちと一緒に逃げてくれる!」大河は歯を食いしばって言った。「大海、お前は社長が命を落とすのをただ見てるつもりか?こんな女のせいでよ!」「どういう意味だ?」大河は今の状況を説明した。「どんな事情があろうと、社長の命令なしでは彼女に手を出してはならん!彼女はお前に何の恨みもないだろ!」「恨みがないだと?」大河は問い詰めた。「もし社長が本当に行かなかったら、社長の言う通りに俺達だけで逃げるのか?」大海は黙り込んだ。「いや……社長は俺の家族を六年も面倒見てくれた。この恩は命をかけても返しきれない」「だから社長を連れて逃げないと、俺たち全員がこの女のせいで殺されるんだ!」大河は警告した。「たとえそうだとしても、彼女を殺しちゃいけない。彼女は社長が最も愛した女だ。もし殺したら、社長はどうなる?」大海は依然として反対した。「時間が全てを癒やしてくれるはずだ!」大河は言い放った。「俺は、たとえ社長に恨まれ、殺されても構わない!」そう言い残すと、大河はドアを押し開け紀美子の部屋に入った。その時、背後からドアが開く音がした。二人の会話を聞いていた佳世子が、我慢できずに部屋から出てきたのだ。「部屋に戻れ!」大海は慌てて振り返り、彼女を遮った。「紀美子に手を出すなんて、許さないわよ!」佳世子は焦って横を見ながら叫んだ。「紀美子!早く逃げて!この二人があんたを殺そうとしてるわ!!紀美子!!」佳世子は身を乗り出しながら叫び続けた。部屋の中では、紀美子が驚いた様子で入ってきた男を見つめた。そして外から聞こえる佳世子の叫び声に耳を澄ませた。大河が速足で近づいてくるのを見て、紀美子はすぐに布団を蹴り飛ばし、ベッドの反対側に立った。「何をする気?」彼女は警戒しながら大河に問いかけた
「お父さん、悟の車の位置がわかった!前僕たちが泊まってたホテルだ!」晋太郎は早急に電話を切り上げ、立ち上がって佑樹の元へ駆け寄り、パソコンの画面を見た。確かに、以前宿泊していたホテルだ。「悟ってやつは本当に計算高い。父さんが監視役を引き上げた途端、そこを選んぶだなんて。父さんをバカにしてるの?それとも、父さんがそこを狙わないと踏んだのか?」「今はそんなことを言っている場合じゃない。すぐに人を送って状況を確認させる」晋太郎は美月の携帯に電話をかけた。「森川社長、何かご指示ですか?」美月はすぐに応答した。「前の民宿だ。佑樹が悟の車の場所を突き止めた」美月は佑樹がこんなに早く手がかりを見つけ出したことに驚いた。彼女は携帯を持ちながら、隣でまだコードを打ち続ける技術者たちに目をやった。こいつら、子供二人にも及ばないのね!口元を少し歪ませながら、美月は心の中でそう思った。「わかりました、すぐ偵察班を向かわせます」電話を切ると、晋太郎もテーブルの上の車の鍵を手に取った。「父さんも行くの?」佑樹が声をかけた。「母さんが悟の手中にいるんだ。ここに座っていられない」晋太郎は頷いた。「俺も行く!」晴は慌てて立ち上がり、晋太郎の側へ歩み寄った。「佳世子は抑えられてるし、俺もじっとしていられない」「分かった」晋太郎は佑樹を見た。「お前と念江はここで大人しく待っていろ。何かあったらすぐに電話しろ。ボディガードも外で待機させておく」「わかった。父さん、必ず母さんと佳世子おばさんを助けてきて!」今回の民宿への移動では、晋太郎は多数のボディガードを分散させて配置した。しかし、どれだけ慎重に行動しても、大河の監視網から逃れることはできなかった。ホテル。大河は再び悟のもとへ駆けつけた。「社長、もうここはバレています!晋太郎の手下がすでに向かってきています!」しかし、座って茶を飲んでいた悟は、大河の言葉にも大して動揺を見せなかった。「彼女が行きたがらない」声は淡々としていたが、悟の心は万本の針で刺されるように痛み苦しくなっていた。「社長!命あっての復讐です!女なんかより、自分の命の方が大事じゃないんですか!」「大河、行くならお前と大海だけで行け。もう私のことを構うな
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪
悟は唇を強く結んだ。「ほら、私が提案したって無駄でしょ?あんたの結末はもう決まってるわ」「それでも、紀美子を諦めない」悟は立ち上がった。「三日あれば、全てを整えて彼女を連れていける。たとえ手下はいなくとも、金さえあれば何とかなる!」その最後の言葉に、佳世子の背筋が凍った。悟は、三日もあれば莫大な資金で逃亡経路を確保できる!「目を覚ましてよ!あんたに紀美子を連れ出せるはずがない!」佳世子は叫んだ。「道は二つだけだろ?」悟は、そう言い残すとドアを開けて出て行った。佳世子は急いでベッドから飛び降り悟を追いかけようとしたが、屈強な男に阻まれた。力づくでは無理だと悟ると、彼女は不貞腐れてベッドに戻った。一方、別の部屋では——悟はまだ眠っている紀美子の寝室に入った。ベッドの縁に座り、悟は彼女の整った顔に見入った。彼は手を伸ばし、そっと頬に触れて髪をかきあげた。「紀美子」悟は嗄れた声で呼びかけ、目に優しい眼差しを浮かべた。「五年前と何も変わっていないな。もしもっと早くこの気持ちに気づいていたら、全てが違っていただろうか?一歩踏み出していれば、今頃君は私のものになっていただろうか?」悟は声が震え出した。「負けを認めたくないが、これが現実だ。私は全てを失ってもいい。ただ……側にいてくれないか?」涙が紀美子の手の甲に落ちたのを見て、悟は慌てて拭いた。彼女には、まだ目覚めてほしくなかった。ただ静かに傍にいてくれればいい。冷たい言葉を浴びせなければいい。そう考えると胸がさらに締め付けられ、悟は涙を堪えれなかった。彼は手を引くと、シーツを強く握りしめた。その時突然、ドアがノックされた。悟は急いで涙を拭い、深く息を吸って顔を上げた。「入れ」「社長、我々のIDが特定されました!ここは時期に探知されます!」大河が慌てた様子でタブレットを持って入ってきた。「静かに」悟は唇に指を立て、紀美子の方を見た。「起こすな」大河は眠っている紀美子、そして悟の赤い目に気づいた。「社長、なぜこんな女のために危険を冒すのですか?馬鹿げています!」「お前も愛する女ができたら、きっとこの気持ちがわかるだろう」悟は静かに言った。大河には、今逃げなければ終わりだという
「馬鹿な真似はよしてよ!」佳世子は再び激怒した。「晋太郎が逃がしてくれると思う?寝言は寝てから言って」「不可能だと分かっているからこそ、君に頼んでいるんだ」悟は静かに答えた。「何で私が親友を裏切り、あんたのような悪者を助けなきゃいけないの?私の両親の命でもかけて脅すつもりなの?バカバカしい。あんたに手を貸す人なんて、もう誰もいないわ!」佳世子の言葉に、悟は無力感を感じた。「ああ、今の私には、もう紀美子しか残っていない」声を落として彼は言った。「そんな情に訴えても無駄よ。あんたは紀美子を撃ったのよ。忘れたの?彼女は、あんたの卑劣な手口のせいで飛び降り自殺しそうにもなったよね?」「嫌だ、死んでも絶対に協力しないわ!」「こうなることは分かっていた」悟は前かがみになり、肘を膝につけてうつむいた。「私は完全に敗北した。しかしまだ生きたいんだ」「生き延びてどうすんの?あんたのような悪魔は早く地獄に落ちてくれればいいのに」佳世子は罵った。「今の私が生きる唯一の希望は、紀美子の人生を見届けることだ」悟は言った。「何それ?」佳世子は問い詰めた。「好きな人を利用して、自分の人生の心残りを埋めようとしてるの?」悟は黙り込んだ。複雑な感情が佳世子の胸をよぎった。悟は確かに悪だが、その境遇は憐れでもあった。だが、そんな感情で人を傷つける権利などない!「もしあんたにまだ良心が残ってるなら、私と紀美子を帰しなさい。あんたはもう昔の力を完全に失ったのよ。それに、紀美子の子供たちがどれほど優秀かも知ってるでしょ?ここもいつか必ず晋太郎に見つかるし、その時のあんたの末路は言うまでもないわ」「一度始めたことはもう引き返せない」悟は目を上げて断言した。「死ぬか、紀美子を連れて行くかだ」「どうしてそんな極端な考え方しかできないの?」佳世子は眉をひそめた。「私に他に道があると思うか?」悟は自嘲的に笑った。「捕まれば獄死、見つかれば殺される。そうだろう?」それを聞いて、佳世子の胸は苦しくなった。昔仲が良かった頃のことを思えば思うほど、言葉は重くのしかかった。「悟、本当のことを教えて」佳世子は真剣な眼差しで悟を見つめた。「後悔しているかどうか聞きたいんだろう」
「念江がファイアウォールを突破したIDを特定してからでないと追跡できない」佑樹は小さな眉をひそめて説明した。「30分くれ。長くても30分で特定できる!」念江は言った。30分は長くないが、今は一分一秒が耐えがたいほど長く感じた。十数分経った頃、念江は極度の緊張で鼻血を出してしまった。周りの者は皆、念江の様子に胸を締め付けられた。だが念江は気に留めずに手で鼻血を拭うと、再びハッキングに集中した。「心配しないで。お医者さんに、回復期に時々鼻血が出るのは正常だと言われてるんだ。お母さんが見つかったら少し休めばいい」念江の説明を聞いて、皆はやや安心した。ちょうど29分経った時、念江はエンターキーを叩いた。「よし、IDを特定した。佑樹、後は任せた」「君は休んでおいて。残りは僕がやる」念江は青白い顔でうなずき、椅子にもたれかかった。晋太郎は彼の小さな体を抱き上げた。「父さん、大丈夫…」念江は疲れた目を開いた。「暫く休め。何かあればすぐ知らせる」晋太郎は息子をベッドに運びながら言った。「うん…」わずか数時間で、晴の顔には疲労の色が濃く出ていた。「何だか最近、自分が子供たちにすら及ばないのではないかと不安になるんだ」晋太郎が寝室から出てくると、晴は自嘲気味に笑った。「お前が役に立ったことなどあったか?」晋太郎は冷たく見下ろした。「まあ……そうだな」晴は言葉に詰まった。「唯一の長所は一途なことだな」晋太郎は軽く一言を付け加えた。「確かにその通りだ。俺の心には佳世子しかいない」晴は頭をかいた。一方、別の場所では——悟は、意識を失っている紀美子を以前滞在していた民宿に連れ込んだ。そこのボディガードは既に全員が撤収しており、最も安全な場所だった。佳世子は紀美子とは別の部屋に閉じ込められていた。悟は紀美子の布団を整えてから、佳世子の部屋に向かった。佳世子のベッドの横に座ると、悟は彼女の手を掴み、特定のツボを強く押した。すると、佳世子はパッと目を開いて、そして反射的に手を引っ込めた。見慣れない景色を見て彼女は慌てて起き上がり、ようやく隣に人が座っていることに気付いた。悟と目が合うと、佳世子は眉をひそめた。「悟!やはりあんただったのね!」
その時、晋太郎もボディガードからの連絡を受け取った。隅々まで探したが、結局紀美子と佳世子の姿は見つからなかった。警察もすぐに到着し、ホテル全体を捜索し始めた。それでも、二人が見つかることはなかった。その報告を聞いた晋太郎は、怒りで窓ガラスに拳を叩きつけた!ガラスの割れる大きな音に、佑樹と念江は体を震わせた。二人はそのまま、手から血を流しながら震える父を驚いた表情で見つめた。父に何を言っても無駄だということも分かっていたため、ただ歯を食いしばった。「悟の仕業だ」晋太郎は険しい表情で窓際に立った。ここまで完璧に痕跡を消せるのは、奴しかいない!今、彼を悩ませているのは、悟が紀美子たちをどこに隠したかということだ。奴の勢力はもう完全に潰したはずだが、今最も恐れているのは、奴が紀美子を連れて完全に姿を消すことだった。そうなると、大海原で針を探すようなもので、手がかりすらつかめないだろう。晴が事情聴取を終え警察署から戻ってきても、子供たちはまだパソコンを操作していた。晴はソファに崩れ落ち、頭を抱えてうなだれた。「くそっ!!!絶対に悟だ!!あいつに違いない!!晋太郎、何とかして二人を助けてくれ!悟は紀美子を傷つけないかもしれないが、佳世子は殺されるかもしれない!」晴は晋太郎に助けを求めた。「分かってる!既にあの辺りに配置していたボディガードを引き上げさせた。これからは山と町内を徹底的に調べさせる!美月も動き出している!」晋太郎は歯を食いしばりながら言った。「お父さん、相手の車のナンバーは分かる?正確な情報があれば、もっと早く調べられる!」突然、佑樹が振り返って言った。晋太郎は直ちに美月に電話をかけた。通話が繋がると、美月が話す前に佑樹が切り出した。「美月さん、悟たちの車のナンバーって分かる?」「分かるわ」美月は答えた。「9000だけど、あっちの技術者が、通った場所の監視カメラの録画データを全て消してるわ」佑樹は念江を見た。「念江、ダメなら先生に頼ろう!できるだけ早く母さんと佳世子さんを見つけないと」「わかった、今電話する!」念江は言った。隆久はすぐ電話に出た。念江が状況を説明しようとした時、電話の向こう側からマウスボタンのクリック音が聞こえてきた。