理仁はやはり素直になれなかった。「それは断じてない!」「ほんとのほんとに?」「ない!」唯花は姿勢をまっすぐにし、残念そうに言った。「もしあなたが私のことが恋しくて眠れないっていうんなら、清水さんにお姉ちゃんの家に残ってもらって、私はあなたと一緒にいようと思ったのになぁ。まあ、あなたがそう言うんだったら、やっぱりお姉ちゃんのところに行って来ようっと。最近どんどん寒くなってきたし、もう冬の気配だわ。一人で寝たらなんだかちょっと冷えるのよねぇ、はぁ」結城理仁「……」彼女はつまり、彼が彼女のことを恋しいとひとこと言えば、まくらを抱きかかえて彼の部屋にやって来て、一緒のベッドで寝ると言いたいのか?唯花は、やはり残念そうな様子で、手を伸ばし理仁の顔を二度触った。そしてその手を下のほうへ滑らし、彼の首を通って、最後は胸の位置まで来ると、またそこを触った。理仁が何を思っているのか読み取れない瞳で彼女をじっと見つめた時、彼女はスッとそのやりたいように動かしていた自由な手を離した。「お腹ペコペコだわ。ご飯食べましょ。うちの旦那さんが自ら作った料理の味を確かめに行かなくちゃね」唯花はからかい終わると部屋を出て行こうとした。彼女は理仁の横を通り過ぎて行った。理仁は突然彼女のほうへ体の向きを変え、後ろから彼女の腰を抱き寄せた。「俺をからかっといて、そのまま行く気?」彼の声は低くかすれていて、彼女の腰をぎゅっと強い力で抱きしめた。空手を習っていた彼女でも、彼のそのがっちりと絡みついているその両手を引き離すことができなかった。「ちょっと力を緩めてよ」唯花は彼の手をほどくことができず、彼に力を緩めるようにお願いするしかなかった。理仁は彼女の頬にキスをし、ようやくその力を緩めた。そして彼女は彼の胸の中でくるりと体の向きを変え、顔を上げて美しいその顔に彼をからかうような笑みを浮かべていた。瞳はキラキラと綺麗に輝いていて、まるで真っ暗な夜空に瞬く星のようだった。理仁の瞳にはこの時の彼女がとても魅力的に映っていた。「内海さん」「あなたに『唯花さん』って呼ばれるのが好きなんだけどなぁ」「君こそよく俺を『結城さん』って呼んでるだろ」理仁のこの言葉は少し拗ねているようだった。彼女はどうもあまり親しげに呼んでくれない。「私
夫婦はさっきまでお互いにからかい合っていた。それが食事の時には、理仁は唯花に対してとても細かいところまで気が利いて、彼女を気遣うじゃないか。唯花は彼にこのように優しくされて、驚いた。それと同時にまた心の中で思った。良い旦那さんって、なるほど自分の手で調教しないと出来上がらないのね。彼女自ら仕立て上げた良い夫を誰かに奪われないといいのだが。夕飯が終わってから、夫婦は一緒に彼女の姉の家に行った。陽はその時すでに目を覚ましていた。しかし、自分一人で遊ぼうとはせず、まるで金魚のフンのように母親の後にくっついて離れない。唯花は彼を抱っこすることはできたが、よく懐いていた清水でさえも、抱っこされるのを拒否されていた。「お姉ちゃん、明日って仕事?」唯花は甥を抱っこしたまま姉に尋ねた。唯月は陽を見つめ、暫く悩んでから言った。「唯花、私、仕事を辞めて自分で何かやり始めるわ」陽の現在の様子では、唯月は本当に安心できない。しかし、会社を休むと、まだ新入社員である彼女は仕事を失いかねない。一日考えて、唯月は子供の面倒を見ながら、自分で何か事業を始めようと決めた。「お姉ちゃん、何を始めるか考えてる?」唯月は相手の反応を気にしながら言った。「お弁当屋さんを開こうと思うけど、あなたはどう思う?会社で働く以外なら、料理は私自信があるし。だから、お昼だけのお弁当屋さんはどうかなって。午前中お弁当作りをしてお昼前に売ったら、午後からは店を閉めて陽の世話ができるでしょ」「お弁当を作るなら、かなり早起きしないといけないわよ。とても疲れるわ。お姉ちゃん、あなた一人だけで、やっていけそう?」最初は彼女はきっと問題ないだろうが、毎日毎日ではきついだろう。唯月は言った。「最初は小さなお店でお弁当の種類もそこまで作らないでやってみようかな。すぐ作れるおにぎりとか、卵焼きとか野菜炒めとかシンプルなおかずで。お金が稼げてきたら、ちゃんとした店舗を構えてバイトの子を雇ってやるの」ずっと話を聞いていただけの理仁がこの時、口を開いた。彼は義姉が自分で小さなお店から始めるのには賛成だった。「義姉さん、どこか弁当を売るのに適した場所は見つかっていますか?店じゃなくてお弁当をどこかに運んで道端で売るならどこがいいですか?初期費用はいくらかかるんですか?」「商店
「唯花、明日あなた達はそれぞれ自分の仕事に専念してちょうだい。私のところに来る必要ないから。私一人で陽の面倒を見るわ」唯花は安心できなかった。「だったら、清水さんにここにいてもらうわ」清水を雇ったのは、もともと昼間、陽の面倒を見てもらうためだ。それに彼女と理仁が住んでいる家の掃除もお願いしていた。唯月は少し申し訳なさそうにしていた。清水は妹の夫である理仁が、唯花を疲れさせたくないから雇ったベビーシッター兼家政婦だ。それが結局、いつも清水に自分の手伝いばかりさせることになっている。「お姉ちゃん、私たちは姉妹でしょ。お互いにサポートして当然よ」唯花は姉に心理的負担をかけたくなかった。「お姉ちゃんと陽ちゃんが何事もなく生活してくれるだけでいいの。他の何よりも重要なことよ」「清水さんの給料は、あなたが先に代わりに払ってもらえる?私が社会復帰してお金を稼ぐようになったら、あなたにお返しするから」妹が彼女を手伝ってくれることはとても心強く感謝していたが、それでもそれを当然のことだとは思いたくなかった。理仁は優しい声で言った。「義姉さん、俺たちは家族ですから、そんなに固く考えなくても大丈夫ですよ。俺も唯花さんも稼ぎはまあまああります。それに子供もまだいないし、生活へのプレッシャーはほとんどありません。清水さんの給料に関しては、気にしないでください。俺たちも清水さんへの待遇を悪いようにはしませんから」唯月は妹の夫である結城理仁のことを本当によくできた旦那だと、どんどん思うようになってきた。妹は彼女よりも幸運に恵まれている。理仁は責任感のある男性だ。夜九時過ぎ、夫婦二人は久光崎のマンションから自宅へと帰っていった。おばあさんはその時、すでにリビングのソファに座ってテレビを見ていた。夫婦二人が手を繋いで帰って来たのを見て、おばあさんはその瞬間すごくテンションを上げた。理仁は少しぎこちない様子だったが、唯花のほうは緊張せず自然体だった。二人は夫婦なのだから、手を繋いでも、別に後ろめたいことじゃないだろう?「おばあちゃん、どこに行ってたの?私が起きてからずっと見かけなかったけど」おばあさんの前までやって来ると、唯花は理仁の手を離し、おばあさんの隣に座った。「昔からの友達と一緒におしゃべりしてたのよ。さっきお姉さんのとこ
唯花をなぐさめた後、おばあさんは軽くあくびをし、それから、テレビのリモコンを置いて立ち上がり、夫婦二人に言った。「私は先に休ませてもらうわね。もう年寄りだから、これ以上は耐えられないわ」数歩進み、彼女はまた立ち止まって唯花のほうへ振り向いた。「唯花ちゃん、あなたの枕を持っていったほうがいいかしら?」唯花は笑って言った。「必要ないわ。客間にも枕はあるから」おばあさんは孫の顔をちらりと見ると、それ以上は特に何も言わずに部屋のほうへと歩いて行った。唯花がお風呂に入る時に、おばあさんはすでに大きないびきをかいて寝ていた。あのぐうぐうと大きな音を立てたいびきが、また彼女の部屋で鳴り響いている。唯花「……」十数分後。唯花がパジャマを着て、部屋から出てドアを閉めた瞬間、夫の姿が目に飛び込んできた。彼もパジャマを着ていて、両腕を胸の前に組み、彼の部屋のドアに寄りかかって立っていた。「まだ寝ないの?明日仕事でしょ」唯花は彼をからかった言葉は忘れたふりをして、まるで口から出まかせに彼にこう言ったような感じを出していた。そして彼の目の前を通り過ぎ、客間のほうへと歩いて行った。そして客間の扉を開くと、彼女はぽかんと口を開けてしまった。シーツは、ない。布団も、ない。枕も、見あたらない。明らかに彼女がベッド用品を揃えて買って来たというのに、どうしてなくなっているのだ?泥棒でも入ったの?泥棒が入ったといってもまさか、ただベッド用品だけを盗んで去って行くわけないだろう。彼女は振り返って、あの壁に寄りかかって立っているツンデレ男を見た。絶対に彼が彼女がお風呂に入っているうちに、客間にあるベッド用品を全て持ち去ってしまったのだ。理仁は依然として何も言わず、さっきと同じように静かに彼女を見つめていた。唯花は体を方向転換させ、彼の前にやって来ると、少しだけ足を止め、また彼の部屋のほうへと歩いて行った。歩きながら「確か誰かさんが言っていたわね、部屋に入って契約書を好きに探していいって」と言った。理仁は彼女が部屋に入った後、自分もその後に続き、ドアを閉めて冷静に言った。「ゆっくり探せばいいさ。見つからなかったら、今後はその契約書の話はしないでくれよ。だって、そんなもの初めから存在してなかったんだからね」彼の部屋にある金庫を
彼女は彼のベッドに上がると、横たわり、気持ちよさそうにこう言った。「前に一回ここで寝たけど、あなたのベッドって格別に暖かく感じるのよね。たぶん、これも私の幻覚なんでしょうけど」布団を引っ張って来て自分にかけると、彼女はニコニコと笑って言った。「理仁さん、おやすみ」理仁は黒い瞳をキラリと輝かせ、彼女を暫く見つめていた。そして急に、彼女の上の布団をはがし、その上に覆いかぶさろうとした。が、彼女は勢いよく起き上がり、素早く床に下りてスリッパを履いて出て行こうとした。「唯花さん」理仁は手を伸ばして彼女を掴まえた。「あの、わ、私部屋に戻ってトイレに行ってくる」月一回のあれがやって来て、雰囲気がぶち壊しだ。しかし、この場にいた某氏は理解できていない。「俺の部屋にもトイレくらいあるぞ」「だけど、あなたの部屋には足りない物があるのよ。部屋に戻ってトイレに行ってから、またここに戻ってくるわ。だけど、あなたは今日、私と寝られないわよ」唯花は少し残念そうに彼の頬をつねった。「もうちょっと我慢してね」理仁がいくらあっち方面に疎いとは言えども、この時ようやく状況を理解したようだ。彼はゆっくりと彼女を掴んでいた手を放し、彼女は自分の部屋へ戻っていった。少ししてから、唯花が再び彼の部屋へと戻ってきた。そこで彼女が見たのは理仁が彼女に背を向け、両手で枕を抱きしめて、なんだか悶々としている様子だった。唯花はその光景を目にして、やっぱり他の部屋で寝た方がいいだろうかと迷っていた。まあいい、やっぱりおばあさんと一緒に今夜は寝ることにしよう。唯花はまた身を翻して部屋の外へ出て行こうとした。「君を抱きしめることもさせてくれない気?」ん?唯花はその瞬間足を止め、振り返って、あの悶々としている男を見た。「ただ抱きしめてるだけも辛いかと思って」「一人じゃよく眠れないんだ」彼が我慢できるというのだから、だったら彼女は何も遠慮することはない。それで、唯花は嬉々として理仁の傍へと戻り、布団をめくりながら言った。「あなたもそんな様子を見せないでよ、夫に毎日愚痴をこぼす主婦みたいよ」「俺は男だ」「あ、女じゃなく男のほうの主夫だね」理仁は手を伸ばして彼女を引っ張り、横たわらせた。彼は彼女の上に覆いかぶさり、機嫌の悪そうなキ
神崎夫人は夫から差し出されたティッシュを受け取り、瞳に溜まった涙を拭いた。そしてやっと口を開いた。「陽君は私の妹と少し似ていたわ。彼のお母様は、唯月さんと言うのだけれど、彼女がちょっと痩せたら、もっと妹にそっくりだわ。姫華が唯花さんと初めて会った時、なんだか彼女にとても親近感が湧くって言ってた。私が唯月さん親子に会った時にも、姫華と同じような感覚になったわ。たぶん、それも親戚同士だからなんじゃないかしら。航さん、今回はたぶん、本当に妹が見つかったんだと思う……」神崎夫人は妹が早くに亡くなっていることを思い、涙がまた頬を流れた。「でも、あの子はもうこの世にいないのね。十五年も前に亡くなっていただなんて。だからこんなに長い間探し続けても、見つからなかったわけだわ。他界しているんだから、どこを探しても意味がないはずよね」夫である神崎航は妻を慰めた。「君は妹なんだろうと感じただけだろう。人と人との縁というのは時に本当に不思議なものだよ。まだ泣くのは早い、DNA鑑定をしてからの話だよ」一度も会ったことのない義妹がもしも本当に死んでいるのだとしたら、神崎航もとても残念だと思った。彼が妻と知り合ったばかりの頃、彼女は神崎グループのただの社員だった。その時から妹のことを捜し始めたのだ。あれから数十年が経っているが、彼女は一度も諦めたことはなかった。子供たちにも手伝ってもらい、彼女の妹捜しは続いていたのだ。長年の努力と信念が、ある日突然虚しいものへと変わったのだから、妻がそれを受け入れられないのは至極当然のことだ。「私の直感が教えてくれるの。唯月さんと唯花さんは妹の娘たちなんだって。妹がいなくなってからというもの、あの二人の女の子はとっても辛い日々を過ごして……二人が強く生きてきたおかげでどうにかなったけどね。あの子たちは私と同じようにとっても強い子たちだわ」彼女は当時たった8歳で幼く、妹を養う力はなかった。唯月姉妹は彼女よりも少しはマシだった。少なくとも両親が亡くなった時に賠償金が支払われ、クズな親戚たちに大部分を持っていかれはしたが、村役所が二千万を二人のために残してあげていたのだ。当時、唯月は15歳で、なんとか妹の面倒を見て養うことができた。姫華は母親に唯花は姉にとても良くしていると言っていた。神崎夫人は、彼女たち姉妹
「私は食欲がないわ」「丸一日、何も飲み食いしていないのに、食欲が出ないのか。私がどれほど心配しているかわかるかい?子供たちだって心配しているんだよ。次男だって君が気落ちしているのを心配して、わざわざ帰ってきたというのに」彼ら神崎家には三人の子供がいる。長男は大人で落ち着いていて、次男は家にじっとしているような性格ではなく自由人だ。一番下は大切に可愛がってきた愛娘だ。以前、毎日のように結城理仁の周りを衛星みたいに付き纏っていた。ここ最近はそれをせず落ち着いている。「ダイエットしてるとでも思ってちょうだい」神崎夫人はベッドに横たわり「私は寝るわ」とひとこと言った。神崎航は彼女の好きにさせるしかなかった。彼女が食べたくないと言うのだから、彼も彼女に食べるよう強制することはできない。彼女は昔からずっと一度決めたらそれを貫く性格だから。娘は彼女に似ていた。長年理仁を想い慕っていて、みんながいくら忠告しても姫華は絶対に諦めなかった。それが超えられない壁にぶつかって、しぶしぶ考えを変えるしかなかった。その夜はそれ以上の会話はなかった。翌日、天はまた小雨を大地に降らせた。もともと少し冷える朝が、雨のせいで余計に冷え込んで寒かった。理仁は先に目を覚ました。隣に寝ている女性は夜中過ぎからぐっと冷え込んでくると、無意識に彼の懐に潜り込み、本当に彼で暖を取っていた。頭を下に向け、まだ自分の体にぴったりとくっついている可愛い妖精を見つめ、理仁の顔はほころんだ。目を開くと真っ先に自分の好きな女性がすぐ傍にいるというのは、こんなに甘く、幸せなことだったのか。唯花を数分間そのまま見つめ続け、理仁はようやく優しく彼女の体を自分から離した。そして、彼女を起こしてしまわないように、音を立てないで、そっとベッドをおりた。窓のほうまで行き、カーテンを開き外の空模様を確認した。雨が降っているので、空は曇りで暗かった。朝のジョギングに出かけるには、あいにくの天気だ。暫くそこに立ったままで、彼は後ろを振り返り窓から離れた。十分後、彼は部屋から出てそのままキッチンへと向かい、一分も経たずにそこからまた出て来た。ベランダに行くと七瀬に電話をかけた。七瀬が電話に出ると、低い声で指示を出した。「七瀬、ホテルに行って三人分の朝食を買ってきて
理仁は七瀬に頼んで買って来させた朝食を持ってきて、食卓の上に置き、少し考えてからまたキッチンの中に入っていった。彼は唯花のためにジンジャーティーを入れてあげた。「てっきり朝食は自分で作るのかと思ってたら、なるほどテイクアウトしたものなのね」彼をからかっているような声が聞こえてきた。理仁が振り返って見る必要もなく、それは彼の祖母の声だった。彼は振り向くこともせず、返事もしなかった。「あなた何を作っているの?ショウガの匂いがきついわよ」おばあさんは自分がやりたいようにキッチンに自由に入ってきて、彼に近づくと、鍋の蓋を開けてちらりと見て、またその蓋を閉じた。「なにか進展があったかと思ったけど」おばあさんはぶつくさとひとこと言って、嫌そうな目つきで孫をちらりと一瞥すると、身を翻して離れた。その時、理仁の整った顔がこわばり、耐えきれず自分で自分を弁解した。「俺はもうかなり頑張っている」本来であれば、昨夜は絶好のチャンスだったのだ。それがまさか神様のいたずらに遭ってしまうとは。「もっともっと彼女にアタックしなさいよ。まずは彼女の心を掴むの。唯花ちゃんの両手の指には、なぁにもついていないわよ?」理仁「……」アタックしろと言われても、彼はもう十分努力している。指輪はもうすでに二人分買ってある。彼の分はすでに何回かはめたことがある。しかし、それは神崎姫華を諦めさせるためにしか使っていない。唯花の分は、まだ彼が大切に保管していて、まだ彼女にプレゼントしていない。「私のところにペアのダイヤリングがあるわ。それはあなたのおじい様が生前買ったものよ。本当は私たち夫婦がつけるつもりだったけど、おじいちゃんはダイヤの指輪をたくさん買ったからね、おばあちゃんはそんなにつけられないのよ。ジュエリーを保管している部屋にダイヤの指輪がいくつもあるわ。そこに置いておくのも場所を取るだけだし、あなたにあげるわ。あなたが決めて」おばあさんのジュエリー保管庫にあるものはどれも珍しく高価なものばかりだ。おばあさんが長年つけているダイヤの指輪は結婚指輪で、夫から他にもたくさんダイヤの指輪をプレゼントされても、やはりその結婚指輪がお気に入りだった。「ありがとう、ばあちゃん」理仁はおばあさんのジュエリー保管庫にあるものはどれも外のジュエリー
「唯花さん、どうしたんだ?」理仁は彼女の異様な様子に気づき、急いで近寄ってベッドの端に腰をおろした。そして手を伸ばして彼女の身体に当て心配そうに尋ねた。「具合が悪いの?」「お腹が痛いの」「お腹が?もしかして夜食を食べた時に、食べ過ぎで痛くなったの?」唯花は彼をうらめしそうに見ていた。「違うの?だったら、どうしてお腹が痛くなった?」唯花は体の向きを変えて彼に背を向けた。「あなたにはわからないわ。ちょっと横になって我慢してたら良くなるわよ」理仁は眉をひそめた。彼は立ち上がって、すぐに腰を曲げ唯花をベッドから抱き上げた。そして整った顔をこわばらせて言った。「俺には医学的なことはわからない。でも医者にならわかるだろう。病院に連れて行くよ。我慢なんかしちゃだめだ。もし何かおおごとにでもなったら、後悔してももう遅いだろ」「病院なんか行かなくていいの。私はその……月のものが来ただけよ。だからお腹が痛くなったの」理仁「……月のもの……あ、あー、わ、わかったよ」彼は急いで唯花をまたベッドに寝かせた。「どうして痛くなるんだ?」彼は女性が生理中にお腹が痛くなるということを知らなかった。彼の家には若い女の子はいないのだ。両親の世代には女性がいるが、若い女性には今まで接したことがない。そう、だから本気でこんなことは知らなかったのだ。唯花が生理になった当日は、彼は彼女にジンジャーティーを入れてあげたが、あれは彼が以前、父親が母親にそのようにしてあげていたのを見たからだった。それで女性は生理中にはジンジャーティーのようなものをよく飲むのだと理解していた。「たぶん昼間たくさん動いたし、寒かったし、それで痛くなったんだわ。またジンジャーティーでも作ってくれない?」「わかった。暫く耐えてくれ。すぐに作ってくるから」理仁はすぐにジンジャーティーを作りに行った。キッチンで彼は母親に電話をかけた。「理仁、お母さんは寝ているぞ。何か用があるなら明日またかけてくれ」電話に出たのは父親のほうだった。「父さん、母さんを起こしてくれないか?ちょっといくつか聞きたいことがあるんだ」「聞きたいことって、今じゃないとダメなのか?言っただろ、母さんはもう寝てるんだって。彼女を起こすな。何だ、どんな問題なんだ?父さんに言ってみろ、解決できるかも
俊介はかなり怒りを溜めていた。一方、唯花のほうは今日、かなりスッキリしているようだ。夫婦二人が姉の賃貸マンションから出て来た後、唯花はずっと笑顔だった。理仁は可笑しくなって彼女に言った。「そんなに豪快に笑ってないでよ。お腹が痛くなるよ」「笑いでお腹が痛くなるっていうなら、ウェルカムよ。今頃、佐々木俊介はあの家に帰ってる頃よ。あいつ家に着いてどんな反応をしたかしらね?絶対入る家を間違えたって思ってるわよ。あはははは、あいつの反応を想像しただけで、思わず笑いが込み上げてくるわ。またちょっと大笑いさせて、あはははははっ……」理仁も彼女につられて笑ってしまった。そして危うく街灯にぶつかってしまうところだった。驚いた彼は急いでハンドルを切り、それをなんとかかわした。唯花もそれに驚いて笑いを止めた。安全運転になってから唯花は言った。「理仁さん、あなたの運転技術は如何ほどなの?下手なら、今後は私が運転するわ。私運転は得意なのよ。カーレースだって問題ないわ」「俺は18歳の時に免許を取ったもう熟練者だぞ。さっきはちょっとした事故だ、笑いすぎて集中力が落ちてたんだよ」唯花「……まあいいわ。もう言わないから、運転に専念してちょうだい」彼女は後ろを向いて後部座席に座っているおばあさんを見た。おばあさんが寝てしまっているようだから、夫に注意した。「おばあちゃん、寝ちゃったみたい。音楽をちょっと小さくして」清水はまだ唯月の家にいて、一緒に帰ってきていないのだった。理仁は彼女の指示に従った。そして唯花はあくびをした。「私も眠くなってきちゃった」「もうすぐ家に着くよ」「ちょっと目を閉じてるから、家に着いたら起こしてね」「君は一度目を閉じたら朝までその目を覚まさないだろうが。寝ないで、あと十分くらいだから。おしゃべりしていよう」唯花は横目で彼を見た。「あなたとおしゃべりしたら、優しい神様ですら飽きて寝ちゃうかもしれないわよ」理仁「……」暫くして、彼は言った。「唯花さん、俺は大人になってから、君を除いて俺にそんなショックを与えられる人間は一人もいなかったよ」「私は事実を述べただけよ」唯花は座席にもたれかけ、携帯を取り出してショート動画を見始めた。ショート動画によってはとても面白いので、眠気も全部消えてしまった。そし
俊介「……こんなにあるゴミも片付けてねぇじゃねえか!」唯月は可笑しくなって笑って言った。「私が当時、内装を始めた時には同じようにゴミが散らかっていたじゃないの。それは私がお金を出してきれいに片付けて掃除してもらったのよ。その時に使ったお金もあんたは私にくれなかったじゃないの。今日、それも返してもらっただけよ」「人を雇って掃除してもらったとしても、いくら程度だ?そんなちっぽけな金額ですらネチネチ俺に言ってくるのかよ」「どうして言っちゃいけないの?あれは私のお金よ。私のお金は空から降ってきたものじゃあないのよ。どうしてあんたにあげないといけないのよ。一円たりともあんたに儲けさせたりするもんか」俊介「……」暫く経ってから、彼は悔しそうに歯ぎしりしながら言った。「てめぇ、そっちのほうが性根が腐ってやがる!」「私はただ私が使ったお金を返してもらっただけよ。そんなにひどいことしてないわ。あんたが当時、自分のお金で買った家と同じものにしてやっただけでしょ」俊介は怒りで力を込めて携帯を切ってしまった。そして、携帯を床に叩きつけようとしたが、莉奈がすぐにその携帯を奪いにいった。「これは私の携帯よ、壊さないでよね」「クッソ、ムカつくぜ!」俊介はひたすらその言葉を繰り返すだけで、成す術はなかった。唯月の言葉を借りて言えば、彼女はただ自分が内装に使ったお金を返してもらっただけだ。彼が買ったばかりの家はまだ内装工事が始まる前のものなのだから、誰を責めることができる?「俊介、これからどうするの?」莉奈も唯月は性根の腐った最低女だと思っていた。なるほど俊介が彼女を捨ててしまうわけだ。あんな毒女、今後一生お嫁には行けないだろう。莉奈は心の中で唯月を何万回も罵っていた。「こんな家、あなたと一緒に住めないわ」彼女は豪華な家に住みたいのだ。「私もマンションは大家さんに返しちゃったし、私たちこれからどこに住むの?」俊介はむしゃくしゃして自分の頭を掻きむしって、莉奈に言った。「ホテルに行こう。明日、部屋を探してとりあえずそこを借りるんだ。この家はまた内装工事をしよう。前は唯月の好みの内装だったことだしな。また内装工事するなら、俺らが好きなようにできるだろ。莉奈、君のところにはあといくらお金がある?」莉奈はすぐに返事をした。「
「ドタンッ」携帯が床に落ちた時、画面がひび割れてしまった。俊介は急いで屈んで携帯を拾い、携帯の画面が割れてしまったことなど気にする余裕もなく、再び部屋の中を照らして見渡してみた。莉奈も携帯を取り出して、フラッシュライトで彼と一緒に部屋の状況を確認するため照らしてみた。豪華な内装がないだけでなく、ただの鉄筋コンクリートの素建ての家屋にも負けている。「俊介、やっぱり私たち入る家を間違えてるんじゃないの?」莉奈はまだここは絶対に自分たちの家ではないと希望を持っていた。俊介は奥へと進みながら口を開いた。「そんなわけない。間違えて入ったんじゃない。それなら、この鍵じゃここは開かないはずだ。ここは俺の家だ。どうしてこんなことになってるんだ?うちの家電は?たったのこれだけしか残ってないのか?」俊介の顔がだんだんと暗い闇に染まっていった。彼は食卓の前に立った。このテーブルは彼がお金を出して買ったものだ。この時、頭の中であることが閃いた。俊介はようやく理解したのだ。唯月の仕業だ。「あのクッソ女ぁ!」彼はどういうことなのか思いつき、そう言葉を吐きだした。「あいつが俺の家をこんなにめちゃくちゃにしやがったんだ!」俊介がこの言葉を吐いた時、怒りが頂点に達していた。莉奈はすぐに口を開いた。「早く警察に通報してあの女を捕まえてもらいましょう。賠償請求するのよ。あなたの家をこんなふうにしてしまったんだから、どうしたって内装費用を要求しなくっちゃ」内装費?俊介は警察に通報しようと思っていたが、莉奈の言った内装費という言葉を聞いて、すぐにその考えを捨ててしまった。そして、警察に通報しようとしていたその手を止めた。「どうして通報しないの?まさかしたくないとでも?まだあの女に情があるから?」莉奈は彼が電話をかけたと思ったらすぐに切ってしまったのを見て、とても腹を立て、言葉も選ばず厳しく責めるような言い方をした。彼女は自分が借りていたあの部屋はもう契約を解消してしまったし、全てを片付けて彼と一緒にこの家に帰ってきたのだ。ここに着くまでは、豪華な部屋に住めると思っていて、家族のグループチャットにキラキラした自分を見せつけようと思っていたというのに。結果、目に入ってきたのは素建ての家屋にも遠く及ばない廃れ果てた家だったのだ
「私たちの家は何階にあるの?」「十六階だよ」俊介は莉奈のスーツケースを車から降ろし、それを引っ張って莉奈と一緒にマンションの中へと入っていった。エレベーターで、ある知り合いのご近所さんに出くわした。彼らはお互いに挨拶を交わし、そのご近所さんが言った。「佐々木さん、あなたの奥さん、午後たくさんの人を連れて来てお引っ越しだったんでしょ?どうしてまたここに戻ってきたんですか?」「彼女は自分の物を引っ越しで運んで行っただけですよ」相手は莉奈をちらりと見やり、どういう事情なのか理解したようだった。そして俊介に笑いかけて、そのまま去っていった。なるほど、この間佐々木さんが奥さんに包丁で街中を追い回されていたのは、つまり不倫していたからだったのか。夫婦二人はきっと離婚したのだろう。唯月が先に引っ越していって、俊介が後から綺麗な女性を連れて戻ってきたのだ。もし離婚していないなら、ここまで露骨なことはしないだろう。「さっきの人、何か知っているんじゃないの?」莉奈は不倫相手だから、なかなか堂々とできないものなのだ。俊介は片手でスーツケースを引き、もう片方の手を彼女の肩に回し彼女を引き寄せてエレベーターに入っていった。そして微笑んで言った。「今日の午後、俺が何しに行ったか忘れたのか?あの女と離婚したんだぞ。今はもう独身なんだ。君は正式な俺の彼女さ、あいつらが知ってもなんだって言うんだ?莉奈、俺たちはこれから正々堂々と一緒にいられる。赤の他人がどう言ったって気にすることはないさ」莉奈「……そうね、あなたは離婚したんだもの」彼女は今後一切、二度とこそこそとする必要はないのだ。エレベーターは彼ら二人を十六階へと運んでいった。「着いたよ」俊介は自分の家の玄関を指した。「あれだよ」莉奈は彼と一緒に歩いていった。俊介は預けてあった鍵をもらって、玄関の鍵を開けた。ドアを開くと部屋の中は真っ暗闇だった。彼は一瞬ポカンとしてしまった。以前なら、彼がいくら遅く帰ってきても、この家は遅く帰ってくる彼のためにポッと明りが灯っていたのだ。今、その明りには二度と火が灯ることはない。「とっても暗いわ、明りをつけて」莉奈は俊介と部屋の中へ入ると、俊介に電気をつけるように言った。俊介はいつものようにドアの後ろにあるスイッチ
賑やかだった午後は、暗くなってからいつもの静けさへと戻った。唯月は結婚当初、この家をとても大切に多くのお金を使って内装を仕上げた。それが今や、彼女が当時買った家電は全て持ち出してきてしまった。そして、新しく借りた部屋には置く場所がなかった。彼女は中からよく使うものだけ残し、他のものは妹の家にではなく、中古として売ることにした。それもまた過去との決別と言えるだろう。唯月が借りた部屋はまだ片付けが終わっていなかったので、料理を作るのはまだ無理で、彼女はみんなを連れてホテルで食事をすることにした。そして、その食事は彼女がまた自由な身に戻ったお祝いでもあった。唯月のほうが嬉しく過去と決別している頃、俊介のほうも忙しそうにしていた。夜九時に成瀬莉奈が借りているマンションへとやって来た。「莉奈、これだけなの?」俊介は莉奈がまとめた荷物はそんなに多くないと思い、彼女のほうへ行ってスーツケースを持ってあげて尋ねた。「もう片付けしたの?」「普段は一人暮らしだから、そんなに物は多くないのよ。全部片づけたわ。要らない物は全部捨てちゃったの」莉奈はお気に入りのかばんを手に持ち、それから寝る時に使うお気に入りの抱き枕を抱えて俊介と一緒に外に出た。「この部屋は契約を解消したわ」「もちろんそれでいいよ。俺の家のほうがここよりもずっと良いだろうし」「あの人はもう引っ越していったの?」莉奈は部屋の鍵をかけて、キーケースの中からその鍵だけ外し、下におりてから鍵をそこにいた人に手渡した。その人は大家の親戚なのだ。「もう大家さんには契約を解消すると伝えてあります。光熱費も支払いは済ませてありますから。おじさん、後は掃除だけです。部屋にまだ使える物がありますけど、それは置いたままにしています」つまり、その人に掃除に行って、彼女が要らなくなったまだ使える物を持っていってくれて構わないということだ。おじさんは鍵を受け取った後、彼の妻に掃除に行くよう言った。俊介はスーツケースを引いて莉奈と一緒に彼の車へと向かい、歩きながら言った。「暗くなる前に、あいつから連絡が来たんだ。もう引っ越したってさ」同時に唯月は彼女の銀行カードの口座番号も送っていた。今後、彼に陽の養育費をここに振り込んでもらうためだ。そして彼女は俊介のLINEと携帯番号を全て削
理仁は悟のことを好条件の揃った男じゃなかったら、彼女の親友に紹介するわけないと言っていた。確かに彼の話は信用できる。一方の悟は、来ても役に立てず、かなり残念だと思っていた。彼が明凛のほうを見た時、彼女はみんなが荷物を運ぶのを指揮していたが、悟が来たのに気づくと彼のもとへとやって来た。そして、とてもおおらかに挨拶をした。「九条さん、こんばんは」「牧野さん、こんばんは」悟は微笑んで、彼女に心配そうに尋ねた。「風邪は良くなりましたか?」「ええ。お気遣いありがとうございます」唯花はそっと理仁を引っ張ってその場を離れ、悟と明凛が二人きりで話せるように気を利かせた。そして、唯花はこっそりと夫を褒めた。「理仁さん、あなたのあの同僚さん、本当になかなかイイじゃない。彼も会社で管理職をしているの?あなた達がホテルから出て来た時、彼も一緒にいるのを見たのよ」「うん、あいつも管理職の一人だ。その中でも結構高い地位にいるから、みんな会社では恭しく彼に挨拶しているよ」そしてすぐに、彼は唯花の耳元で小声で言った。「悟は誰にも言うなって言ってたけど、俺たちは夫婦だから言っても問題ないだろう。彼は社長の側近なんだ。社長からかなり信頼されていて、会社の中では社長の次に地位の高い男だと言ってもいいぞ」唯花は目をパチパチさせた。「そんなにすごい人だったの?」理仁はいかにもそうだといった様子で頷いた。「彼は本当にすごいんだ。職場で悟の話題になったら、誰もが恐れ敬ってるぞ」唯花は再び悟に目を向けた。しかし、理仁は彼女の顔を自分のほうに向けさせ、素早く彼女の頬にキスをした。そして低い声で言った。「見なくていい、俺の方がカッコイイから」「彼って結城家の御曹司に最も近い人なんでしょ。だからよく見ておかなくちゃ。結城社長の身の回りの人がこんなにすごいんだったら、社長自身もきっとすごい人なんでしょうね。だから姫華も彼に夢中になって諦められなかったんだわ」理仁は姿勢を正して、落ち着いた声で言った。「悟みたいに優秀な男が心から補佐したいと思うような相手なんだから、結城社長はもちろん彼よりもすごいに決まってるさ」「お姉ちゃんのために佐々木俊介の不倫の証拠を集めてくれた人って、彼なんでしょう?」理仁「……」彼は九条悟が情報集めのプロだということを彼女
部屋の中から運び出せるものは全て運び出した後、そこに残っている佐々木俊介が買った物はあまり多くなかった。みんなはまた、せかせかと佐々木俊介が買った家電を部屋の入り口に置いて、それから内装の床や壁を剥がし始めた。電動ドリルの音や、壁を剥がす音、叩き壊す音が混ざりに混ざって大合唱していた。その音は上の階や階下の住人にかなり迷惑をかけるほどだった。唯月姉妹二人は申し訳ないと思って、急いで外に行ってフルーツを買い、上と下のお宅に配りに行き謝罪をし、暗くなる前には工事が終わることを伝えた。礼儀をもって姿勢を低くしてきた相手に対して誰も怒ることはないだろう。内海家の姉妹はそもそも上と下の住人とはよく知った仲で、フルーツを持って断りを入れに来たので、うるさいと思っても住人たちは暫くは我慢してくれた。家に子供がいる家庭はこの音に耐えられず、大人たちが子供を連れて散歩に出かけて行った。姉妹たちはまたたくさん食べ物を買ってきて、家の工事を請け負ってくれている人たちに配った。このような待遇を受けて、作業員たちはきびきびと作業を進めた。夕方になり、外せるものは全て外し、外せないものは全て壊し尽くした。「内海さん、出たごみはきれいに片付けますか?」ある人が唯月に尋ねた。唯月はぐるりと一度部屋を見渡して言った。「必要ありません。当初、内装工事を始めた時、かなりお金を使って綺麗に片付けてもらいましたから。これはあの人たちに自分で片付けてもらいます。私が当初、人にお願いして掃除してもらった時に払ったお金とこれでチャラになりますからね」唯花は部屋の中をしげしげと見て回った。壁の内装もきれいさっぱり剥がして、床もボロボロにした。全て壊し尽くしてしまった。姉が掃除する必要はないと言ったのだから、何もする必要はないだろう。これは佐々木俊介たちが自分で掃除すればいいのだ。「明凛、あなたの話を聞いてよかったわ。あなたの従兄に作業員を手配してもらって正解ね。プロの人たちだから、スピードが速いのはもちろん、仕上がりもとても満足いくものだわ」明凛は笑って言った。「彼らはこの道のプロだから、任せて間違いなかったわね」「彼らのお給料は従兄さんに全部計算してもらって、後から教えてちょうだい。お金をそっちに入金するから」明凛は頷いた。「もう従兄には言ってあ
「あ、あなたは、あの運転代行の方では?」唯花は七瀬に気づいて、とても意外そうな顔をした。七瀬は良い人そうにニカッと笑った。「旦那さんに名刺を渡して何かご用があれば声をおかけくださいと伝えてあったんです。仕事に見合うお給料がいただければ、私は何でもしますので」唯花は彼が運転代行をしていることを考え、代行運転の仕事も毎日あるわけじゃないから、アルバイトで他のことをやっているのだろうと思った。家でも暇を持て余して仕事をしていないのではないかと家族から疑われずに済むだろう。「お手数かけます」「いえいえ、お金をもらってやることですから」七瀬はそう言って、すぐに別の同僚と一緒にソファを持ち上げて運んでいった。明凛は何気なく彼女に尋ねた。「あの人、知り合い?」「うん、近所の人よ。何回か会ったことがあるの。普段は運転代行をしているらしくて、理仁さんが前二回酔って帰って来た時は彼が送ってくれたのよ。彼がアルバイトもしてるなんて知らなかったけどね。後で名刺でももらっておこう。今後何かお願いすることがあったら彼に連絡することにするわ。彼ってとても信頼できると思うから」陽のおもちゃを片付けていたおばあさんは、心の中で呟いていた。七瀬は理仁のボディーガードの一人だもの、もちろん信頼できる人間よ。人が多いと、作業があっという間に進んだ。みんなでせかせかと働いて、すぐに唯月がシールを貼った家電を外へと運び出した。唯月と陽の親子二人の荷物も外へと運び出した。「プルプルプル……」その時、唯花の携帯が鳴った。「理仁さん、今荷物を運び出しているところよ」唯花は夫がこの場に来て手伝えないが、すごく気にかけてくれていることを知っていて、電話に出てすぐ進捗状況を報告したのだった。理仁は落ち着いた声で言った。「何台かの荷台トラックを手配したんだ。きっともうすぐマンションの前に到着するはずだよ。唯花さんの電話番号を運転手に伝えておいたから、後で彼らに会って、引っ越し荷物を義姉さんの新しいマンションまで運んでもらってくれ。もし義姉さんのマンションに置く場所がなければ、とりあえずうちに荷物を置いておいていいから」彼らの家はとても広いし、物もそんなに多くないのだ。「うん、わかったわ。理仁さん、本当にいろいろ気を配ってくれるのね。私たちったら