「結構前から桐生さんの噂をかねがね伺っておりました。いつかぜひお会いしたいと思っていて、今回はちょうどいい機会だと思います」伊集院善は微笑んだ。「兄も同じように思っているはずです」二人はしばらく社交辞令を交わした。伊集院善が今回来たのはただ兄の代わりに招待状を結城理仁に届けただけだ。用事がもう済んだので、これ以上残る必要はなかった。それに、今の彼は結構忙しい身なのだ。すると、彼は言った。「結城さん、九条さん、まだ用事があるので、先に失礼します。今晩もしよければ、一緒にご飯でもしませんか?私の奢りで」九条悟は笑った。「私はいつでも問題ありませんが、うちの社長はもう予定があるみたいです」結城理仁は自然に話を続けた。「また日を改めて、私から伊集院さんを招待しますよ」今晩は妻と約束があるから。伊集院善は微笑みながら言った。「わかりました、それではご連絡お待ちしております」彼は腰を上げた。結城理仁と九条悟も一緒に椅子から立ち、伊集院善を外まで送るつもりだ。「結城さん、九条さん、ここまででいいですよ」伊集院善は一旦オフィスの前で止まって、二人を止めておいた。結城理仁と九条悟はオフィスの前で伊集院善がボディーガード達に囲まれて去って行くのを見送っていた。伊集院善の姿が見えなくなるまで見送った後、九条悟は親友を手で突いて、興味津々に尋ねた。「今晩は一体何の予定が入っているんだ?ビジネスの接待全部俺に押しつけて、せっかくの伊集院さんの誘いまでも断るなんてな。理仁、俺はもしかして前世お前に何か借りでも作ってたのかな。だから今はあんたの会社で社畜のように働いで、いつ呼ばれてもすぐ駆けて来るなんてことまでするんだ」結城理仁は振り返ってオフィスに入った。「逆じゃないか?君は俺のところにいるからこそちゃんと自分の価値をはっきりできるだろう。俺が君に相応しい舞台を立ち上げてやったから、君はやっと思うように踊れるだろう」九条悟はニコニコ笑いながら、オフィスのドアを閉めた。「もしかして奥さんとデートでもしに行く?」「そうだが、なんだ?ついてきてお邪魔虫にでもなりたいか?それとも羨ましいのか?じゃ、お見合いの場を用意してあげよう。お前もスピード婚の仲間になるか」九条悟は急いで否定した。「俺はちゃんと空気読める人だぞ、お
「俺はその場にいなかったけど、聞いた話では、彼女のおばである金城さんがつれて来たみたいだ。牧野さんが床に寝転んだと聞いて慌てて彼女を地面から引っ張って連れて帰ったんだって」結城理仁「……」彼はたまに内海唯花から牧野明凛がよく家から結婚しろと催促されることを聞いていた。前に、カフェ・ルナカルドでのお見合いに付き合って一緒に行ってほしいと彼女は内海唯花に頼んだことがあった。牧野明凛が大塚夫人の誕生日パーティーでそのようことをしたのは、わざとじゃないか。こうやったら、もう家族に結婚を催促されなくても済む話なのだ。「牧野さんはたぶん何も考えてなくてそこに寝転んだんだろうけど、それで上流社会での人間はほとんど彼女のことを知って、びっくりしたんだ」九条悟は笑った。「上流社会の女性なら万が一本当に酔ったとしても、あんなことしないだろう。名門のお嬢さんの素養がもう彼女の骨まで刻まれていたら、酔っても上品な振る舞いを完璧にこなすだろうな」結城理仁は少し沈黙してから、親友に聞いた。「じゃ、どっちがタイプなんだ。上品なお嬢さんたち?それともじゃじゃ馬系の子か?」「考えてないな。でも、本当に俺にお見合いに行かせようとするなら、その牧野さんに一応会ってみてもいいよ。彼女が一体どれだけ人を見る目があるか、自分の目で確かめたいんだ。それに、俺の正体を彼女に言わないでね」「俺の真似するな」「ちょっとだけいいじゃないか、だめか?」結城理仁は笑った。「好きにしていいぞ。じゃ、今晩帰ったら妻に頼んで、牧野さんに伝えるよ。もし牧野さんが承諾したら、お見合いの場を設けてあげよう。お前も結婚出来たら、毎日俺に妻がいることを羨ましがる必要もなくなるだろう」九条悟「……」彼は本当に一度も羨ましいと思ったことはない。結城理仁は最も重要ないくつかの書類にサインしてから、椅子から立ち上がり、九条悟に言った。「じゃ、俺は帰るぞ。結城グループが倒産する危機がないかぎり、今晩絶対俺に電話するなよ」九条悟は時間を確認すると、まだ午後四時だった。彼は結城理仁の後ろについて、歩きながら文句をこぼした。「理仁、ちゃんと時間を確認した?今は何時だと思う?四時だよ四時。定時にはまだ早いぞ。前はこうじゃなかっただろ。深夜十二時まで働かないと絶対帰らなかったのに」「以前は妻がい
内海唯花が一番重視しているのは姉と甥だった。とりあえず彼女の甥の佐々木陽を甘やかすのは間違っていない。お菓子を買うのは、内海唯花が食いしん坊だからだ。花束を贈っても、そんなに喜んでいかないかもしれないが、お菓子をいっぱい贈ると、きっと綺麗な笑顔を見せてくれるに間違いない。結城理仁が左手にお菓子を、右手に飛行機の模型をもって店に入る時、内海唯花はちょうど甥っ子にお粥を食べさせているところだった。「おいたん」陽は結城理仁を見ると、嬉しそうに挨拶した。内海唯花は夫が買ってきたおもちゃを見て言った。「結城さん、また陽ちゃんにおもちゃを買ったの。明凛が買ったばかりなのよ」結城理仁はお菓子の袋を内海唯花に、おもちゃの飛行機を佐々木陽に持たせると、陽を抱き上げた。「俺たちには陽君という一人の甥っ子がいるだけだ。彼を可愛がるのは当たり前だろう。牧野さんが陽君に買ったのは彼女の気持ちだ。俺が買ったのは違うんだ」内海唯花は茶碗をテーブルに置き、袋を開けた。「お菓子?多くない?」「陽君がずっとここにいて退屈する時もあると思って、多めに買ったんだ」内海唯花のために買ったのに、彼女を目の前にすると、結城理仁のあの面倒なプライドがまた邪魔をしに来て、葛藤してから、また陽を口実にした。「結城さん、陽ちゃんを甘やかしすぎるでしょ、よくないよ」内海唯花は別に疑わなかった。「陽君は賢い子だから、何をすべきか、何をしてはいけないかきちんと教えればきっとわかるよ。甘やかしても大丈夫だ」内海唯花は彼に視線を向けた。彼女に見つめられて、結城理仁の耳が少し赤くなった。「結城さん、前よりおしゃべりになったね」結城理仁「……」カッコイイと褒められるかと思っていたのに。前よりおしゃべりになったと言われた。彼がうるさいってことか。おばあさんはいつも彼が口下手だと言っているが、ほら見ろよ、彼が少しだけ多くしゃべると、妻にうるさいと言われるのだぞ。牧野明凛はお手洗いから出てきて、結城理仁が来たのを見ると、親切に笑って彼に挨拶した。「唯花、唯月姉さんもうすぐ仕事が終わるでしょ。陽ちゃんもお腹いっぱいになったし、陽ちゃんをつれて結城さんと一緒にお姉さんを迎えに行ってちょうだい。店には私がいるから」内海唯花は頷いて、茶碗を持ってキ
「そうだ」内海唯花は突然ペットたちのことを思い出して、結城理仁に尋ねた。「シロちゃんたちはどうする?一緒に連れて行くの?」 「シロちゃん?」結城理仁の目つきが鋭くなった。シロとは一体誰だ?「結城さんがくれたペットの子犬だよ、シロちゃんって名付けたの」結城理仁の目つきがまた和らいだ。なんだ、あの子犬のことか。知らない間に、また恋のライバルが一人増えたと思った。「唯花、連れて行くのが無理だったら、シロを店にいさせてもいいよ。私が家に帰るとき一緒に連れて行って、明日また店に連れて来るよ。うちもペットを飼っているから、ちゃんと世話してあげるよ」内海唯花は笑った。「わかった、じゃ、お願いするね」そう言いながら、彼女は牧野明凛に抱き付いた。「明凛、あなたって世界で一番最高の親友だよ」牧野明凛は笑いながら内海唯花を抱き返してから手を離した。「水臭いこと言わないで、小さい頃からずっと友達でしょ。早く行って、結城さんが待っているから」内海唯花はようやく安心して結城理仁と一緒に行った。「内海さん、俺の車で行こう、明日の朝送ってあげるから」結城理仁は車のドアを開けて、佐々木陽を車に座らせながら内海唯花に言った。「わかったわ」内海唯花は頷いた。結城理仁のホンダ車は結構広くて、快適だから、送ってもらっても悪い気がしないのだ。結城理仁の車にはチャイルドシートがついていないので、甥を一人で後ろに座らせることが出来ず、内海唯花も後ろに行き、佐々木陽を抱いて一緒に座った。結城理仁は止めなかったが、明日執事の吉田にチャイルドシートを買ってきてもらい、この車に取り付けようと密かに思っていた。そうすると、佐々木陽を後ろに一人でチャイルドシートに座らせ、内海唯花を自分の隣に座らせることができる。夫婦二人は陽を連れて、東グループへ向かった。東グループに着いた時、ちょうど退勤の時間だった。大勢の社員たちが出入りしていた。数分間待っていると、佐々木唯月が出てきた。内海唯花が迎えに来るとメールをしてきたので、佐々木唯月は仕事が終わると、すぐ出てきた。ただ、朝無理に会社の前で五周も走ったので、まだ両足に怠さが残っていた。長い間運動していなかったので、いきなり五周も走らせられ、朝走り終わったとき、両足が自分のものじゃないかの
「お姉ちゃん、仕事はどうだった?」姉妹二人はおしゃべりしながら結城理仁の車に近づいた。佐々木唯月は笑った。「お姉ちゃんが以前どんな仕事をしていたのかもう忘れた?心配しないで、仕事は順調だよ。最初はちょっと慣れなかったけど、すぐ感覚を掴めたよ」問題は人間関係だ。今のところ、付き合いのできる同僚はまだできていない。面接に来た日のあの一件のせいか、皆は彼女が東社長の知り合いだと知り、表で彼女に親切に接しているが、裏で彼女と東社長との関係についてヒソヒソと推測していた。多くの女子社員が彼女を見る目には、意味深な色が含まれていた。これは全部、佐々木唯月が偶然にトイレで同僚たちが話しているのを聞いたことだった。しかし、まだ初日だから、きっとだんだん良くなるだろう。「結城さん」佐々木唯月は車に乗ると、義弟に挨拶した。結城理仁は彼女に頷いて、視線を内海唯花に向けた。佐々木唯月は恋の経験者で、すぐに義弟のその目つきの深い意味を理解し、車に乗ると、妹が乗るのを待たず、すぐ後ろのドアを閉めた。内海唯花は多くのことは考えず、車を回って逆方向で車に乗るのも億劫に思って、そのまま助手席のドアを開けて乗り込んだ。「お姉ちゃん、先にご飯を食べに行こう。食べ終わったら、家まで送るね」「うん、ありがとう」佐々木唯月は仕事ができて、明らかに機嫌がよくなった。道中、姉妹二人はずっとおしゃべりしていた。結城理仁は運転に専念していたが、姉妹の会話がちゃんと耳に入っていた。結城理仁は妻と義姉に食事をご馳走するので、ケチをつけることはもちろんない。姉妹を連れてスカイロイヤルホテルに行った。ロビーの責任者は結城理仁がまたボディーガードを連れて来ていないのを見ると、結城辰巳の言葉を思い出して、慌ててその場を離れて背を向けた。そうじゃないと、不注意に若旦那様とでも呼んでしまったら、クビになるに違いない。「結城さん、近くのファミリーレストランでいいですよ、こんなに高級なレストランじゃなくても」佐々木唯月はそのお金が惜しいと思ったのだ。他人じゃないから、そんなに遠慮しなくてもいいのだ。屋台で食べても彼女は気にしないのに。結城理仁は姉妹二人を連れて上にあがって、ある上品な個室に入ってから返事した。「義姉さん、ここは俺が働く会社の傘下のホテルで
佐々木唯月は妹に向かって何回も瞬きをした。内海唯花は姉の視線の意味をちゃんと理解している。どうせ結城理仁がとてもいい人だから、ちゃんと彼と仲良くしなさいということだろう。内海唯花も結城理仁が時に横暴で、よく根に持つが、重要な状況において、しっかりしていて、多くの男よりはるかに優れた人だということを認めざるを得ないのだ。一番重要なのは、彼ら二人はゼロから突然夫婦になった関係で、現時点で彼が彼女に対してベストを尽くしてくれているということだ。姉に見せるためにも、内海唯花は食事の時、結城理仁に何度も料理を取り分けてあげた。結城理仁は喜んで食べていて、すっかり上機嫌になった。内海唯花が分けてくれた料理がこんなに美味しいものとは。ふっと、前にビストロ・アルヴァで彼女が金城琉生に料理を分けていたことを思い出した。その時、金城琉生はきっと狂うほど喜んでいただろう。しかし、ただ一回だけで何になるのだ?金城琉生は内海唯花にとってはただの弟でしかない!それ以外の感情など全く存在しないのだ!今晩、内海唯花は何回も彼のために料理を取り分けてくれた。金城琉生には一度しかやってないから、どうやっても比べようにならないだろう。金城琉生がどれほど内海唯花を愛しても仕方のないことだ。今は、この結城理仁こそ、内海唯花の夫である。夫婦の仲がどうであれ、戸籍上で、内海唯花の配偶者は結城理仁なのだ。金城琉生なんて、さっさとどっかに行っちまえ!彼は金城琉生に嫉妬心を抱く必要はない。逆に、金城琉生が嫉妬する身だろう。結城理仁は自分を諭して、前に内海唯花が金城琉生に料理を取り分けてあげた事を完全に気にしなくなった。三人は楽しく晩ご飯を食べ終わった。食べ終わると、佐々木唯月と陽を家まで送ってから、夫婦二人は散歩がてら、ショッピングしに行った。結婚してから、市場に行くのを除いて、これは二人が初めてするショッピングだ。この町は夜になっても人が多くて、賑わっている。彼の身分に相応しくない市場も一緒に何度も行ったことだし。一緒にショッピングするならもっと容易いこと。夫婦二人は人の流れに乗って、あてもなく歩いた。「内海さん、何か買いたいものある?」結城理仁は妻が店の中にも入らず、ただひたすら歩いているのを見て、とうとう我慢
多分あの契約書のせいだ。それで彼はこのように気が弱くなったのだろう。結城理仁は内海唯花の契約書をこっそり盗んでこようと思っていた。いや、盗むのではなくて、ただ返してもらうだけだ。彼は名門の結城家の当主だぞ。泥棒のような真似は断じてできない。あの契約書を返してもらったら、それを破棄すると決めた。手を繋ぐこともできない結城坊ちゃんは、大人しく一晩中奥様に付き添ってあちこち回った。文句の一つも言わず、両手に買った荷物をいっぱい持って、車に詰め込んだ。最初は内海唯花は買いたいものが何もないと言っていたが、見てるうちにあれこれ買い始めた。もちろん、彼女自身のお金で。結城理仁はお金を出してあげたいが、内海唯花に固く断られて、少し悶々としていた。夜十時、夫婦二人はようやく家に帰った。「私、ヒールを履くのがあまり好きじゃなくてよかった。じゃないと、今頃、足が痺れてるでしょうから」家に帰ると、内海唯花はソファに倒れ込んだ。結城理仁はおかしそうに笑った。「女の子たちはみんなショッピングするのが好きじゃないのか」男の彼は今まで人の買い物に付き合うのが嫌いだったのに、今回は文句を言わなかったのだ。「……それはそうね。明凛は特に好きだよ。私は彼女の買い物には付き合いたくないな。一緒に行ったら、町全体を回らないと彼女は気が済まないのよ」牧野明凛の話になると、結城理仁は近づいて、内海唯花の隣に座った。「内海さん、ちょっと聞きたいことがあるんだ」内海唯花は首をかしげて彼を見つめて、心配そうに返事した。「どうしたの?」ここは彼の家だから、いつも好きなようにしているのに、突然彼女に相談するなんて、一大事に違いない。暫く考え、結城理仁は口を開いた。「牧野さんはかなり家族に結婚を急かされているんだろ」「そうだよ。なに、明凛にいい人を紹介したいってこと?」内海唯花も興味を持ち、彼に聞いた。「会社の同僚なの?明凛のお母さんとおばさんはいつも彼女に玉の輿に乗らせようと思っていて、明凛本人がそれを嫌がっているのよ。名家の嫁は想像するように簡単になれるわけじゃないって。明凛のおばさんも金城に入ってから結構苦労してから、ようやく今の地位に落ち着いたのよ。でも、結城さんの会社は星城で一番大きな会社でしょ。結城グループに入る人は皆エリート中のエリート
少ししてから、内海唯花は言った。「その同僚さんの条件を聞いてみたら、確かに今までの明凛のお見合い相手の誰よりも優秀みたいね。じゃ、明日すぐ明凛に聞いてみるわ。結城さん、もう遅いから、私先に寝るね」今日は長い時間歩いていたので、内海唯花は疲れていた。結城理仁も腰を上げ、落ち着いて返事した。「うん、お休み」内海唯花も彼におやすみの挨拶をすると、買った物の片付けもせず、そのまま部屋に戻った。明日片付けても同じことだろう。内海唯花が何のためらいもなく、まっすぐに部屋に入ったのを見て、結城理仁は呆れて、暫くその場に立ち竦んでいた。少し黙ってから、彼はベランダに行き、ハンモックチェアに静かに座った。顔を上げて夜空を見ながら、彼と内海唯花の将来が一体どうなっていくのかを考えた。いつも夜遅く寝ることに慣れていた結城理仁は、十一時までブランコに座っていて、ようやく自分の部屋に戻った。同じ屋根の下に生活しているのに、夫婦二人は全く相手に干渉しなかった。お互いに相手の部屋に一歩も踏み入れなかったのだ。まるで部屋のドアを閉めると、二人は全く知らない赤の他人になってしまうようだった。この結果は、まさしく結城理仁の手によってもたらされたものだ。二人は静かな夜をそのまま過ごした。翌日、内海唯花は時間通りに起床した。起きてから、いつものようにベランダで花に水をやっていた。すると、ベランダに小さな蟻がいるのが見えたので、内海唯花は身をかがめてじっくり蟻が歩いているルートを観察してみると、いくつかの植木鉢の下から出てきていることがわかった。どうりで前にリビングにたくさんの蟻がいたわけだ。花の植木鉢の土の中に蟻の卵があって、時間がたつと蟻が卵からでて、あちこち這いまわっていたのだ。このベランダにある花を買ってきてから、まだ害虫駆除していなかった。普段水をやるとき、腰をかがめて確かめなかったので、植木鉢に蟻がいるのに全く気付かなかった。適当に花に水をやった後、内海唯花は財布を持ち、市場へ行こうと思った。そこでご飯の材料を買って店に持って行くつもりだ。ついでに、殺虫剤も買っておかないと。これから、定期的に害虫駆除しなければならない。じゃないと、蟻があちこち湧いてきてキリがなくなる。内海唯花は三十分かけて市場を回り、肉と野
「私たちの家は何階にあるの?」「十六階だよ」俊介は莉奈のスーツケースを車から降ろし、それを引っ張って莉奈と一緒にマンションの中へと入っていった。エレベーターで、ある知り合いのご近所さんに出くわした。彼らはお互いに挨拶を交わし、そのご近所さんが言った。「佐々木さん、あなたの奥さん、午後たくさんの人を連れて来てお引っ越しだったんでしょ?どうしてまたここに戻ってきたんですか?」「彼女は自分の物を引っ越しで運んで行っただけですよ」相手は莉奈をちらりと見やり、どういう事情なのか理解したようだった。そして俊介に笑いかけて、そのまま去っていった。なるほど、この間佐々木さんが奥さんに包丁で街中を追い回されていたのは、つまり不倫していたからだったのか。夫婦二人はきっと離婚したのだろう。唯月が先に引っ越していって、俊介が後から綺麗な女性を連れて戻ってきたのだ。もし離婚していないなら、ここまで露骨なことはしないだろう。「さっきの人、何か知っているんじゃないの?」莉奈は不倫相手だから、なかなか堂々とできないものなのだ。俊介は片手でスーツケースを引き、もう片方の手を彼女の肩に回し彼女を引き寄せてエレベーターに入っていった。そして微笑んで言った。「今日の午後、俺が何しに行ったか忘れたのか?あの女と離婚したんだぞ。今はもう独身なんだ。君は正式な俺の彼女さ、あいつらが知ってもなんだって言うんだ?莉奈、俺たちはこれから正々堂々と一緒にいられる。赤の他人がどう言ったって気にすることはないさ」莉奈「……そうね、あなたは離婚したんだもの」彼女は今後一切、二度とこそこそとする必要はないのだ。エレベーターは彼ら二人を十六階へと運んでいった。「着いたよ」俊介は自分の家の玄関を指した。「あれだよ」莉奈は彼と一緒に歩いていった。俊介は預けてあった鍵をもらって、玄関の鍵を開けた。ドアを開くと部屋の中は真っ暗闇だった。彼は一瞬ポカンとしてしまった。以前なら、彼がいくら遅く帰ってきても、この家は遅く帰ってくる彼のためにポッと明りが灯っていたのだ。今、その明りには二度と火が灯ることはない。「とっても暗いわ、明りをつけて」莉奈は俊介と部屋の中へ入ると、俊介に電気をつけるように言った。俊介はいつものようにドアの後ろにあるスイッチ
賑やかだった午後は、暗くなってからいつもの静けさへと戻った。唯月は結婚当初、この家をとても大切に多くのお金を使って内装を仕上げた。それが今や、彼女が当時買った家電は全て持ち出してきてしまった。そして、新しく借りた部屋には置く場所がなかった。彼女は中からよく使うものだけ残し、他のものは妹の家にではなく、中古として売ることにした。それもまた過去との決別と言えるだろう。唯月が借りた部屋はまだ片付けが終わっていなかったので、料理を作るのはまだ無理で、彼女はみんなを連れてホテルで食事をすることにした。そして、その食事は彼女がまた自由な身に戻ったお祝いでもあった。唯月のほうが嬉しく過去と決別している頃、俊介のほうも忙しそうにしていた。夜九時に成瀬莉奈が借りているマンションへとやって来た。「莉奈、これだけなの?」俊介は莉奈がまとめた荷物はそんなに多くないと思い、彼女のほうへ行ってスーツケースを持ってあげて尋ねた。「もう片付けしたの?」「普段は一人暮らしだから、そんなに物は多くないのよ。全部片づけたわ。要らない物は全部捨てちゃったの」莉奈はお気に入りのかばんを手に持ち、それから寝る時に使うお気に入りの抱き枕を抱えて俊介と一緒に外に出た。「この部屋は契約を解消したわ」「もちろんそれでいいよ。俺の家のほうがここよりもずっと良いだろうし」「あの人はもう引っ越していったの?」莉奈は部屋の鍵をかけて、キーケースの中からその鍵だけ外し、下におりてから鍵をそこにいた人に手渡した。その人は大家の親戚なのだ。「もう大家さんには契約を解消すると伝えてあります。光熱費も支払いは済ませてありますから。おじさん、後は掃除だけです。部屋にまだ使える物がありますけど、それは置いたままにしています」つまり、その人に掃除に行って、彼女が要らなくなったまだ使える物を持っていってくれて構わないということだ。おじさんは鍵を受け取った後、彼の妻に掃除に行くよう言った。俊介はスーツケースを引いて莉奈と一緒に彼の車へと向かい、歩きながら言った。「暗くなる前に、あいつから連絡が来たんだ。もう引っ越したってさ」同時に唯月は彼女の銀行カードの口座番号も送っていた。今後、彼に陽の養育費をここに振り込んでもらうためだ。そして彼女は俊介のLINEと携帯番号を全て削
理仁は悟のことを好条件の揃った男じゃなかったら、彼女の親友に紹介するわけないと言っていた。確かに彼の話は信用できる。一方の悟は、来ても役に立てず、かなり残念だと思っていた。彼が明凛のほうを見た時、彼女はみんなが荷物を運ぶのを指揮していたが、悟が来たのに気づくと彼のもとへとやって来た。そして、とてもおおらかに挨拶をした。「九条さん、こんばんは」「牧野さん、こんばんは」悟は微笑んで、彼女に心配そうに尋ねた。「風邪は良くなりましたか?」「ええ。お気遣いありがとうございます」唯花はそっと理仁を引っ張ってその場を離れ、悟と明凛が二人きりで話せるように気を利かせた。そして、唯花はこっそりと夫を褒めた。「理仁さん、あなたのあの同僚さん、本当になかなかイイじゃない。彼も会社で管理職をしているの?あなた達がホテルから出て来た時、彼も一緒にいるのを見たのよ」「うん、あいつも管理職の一人だ。その中でも結構高い地位にいるから、みんな会社では恭しく彼に挨拶しているよ」そしてすぐに、彼は唯花の耳元で小声で言った。「悟は誰にも言うなって言ってたけど、俺たちは夫婦だから言っても問題ないだろう。彼は社長の側近なんだ。社長からかなり信頼されていて、会社の中では社長の次に地位の高い男だと言ってもいいぞ」唯花は目をパチパチさせた。「そんなにすごい人だったの?」理仁はいかにもそうだといった様子で頷いた。「彼は本当にすごいんだ。職場で悟の話題になったら、誰もが恐れ敬ってるぞ」唯花は再び悟に目を向けた。しかし、理仁は彼女の顔を自分のほうに向けさせ、素早く彼女の頬にキスをした。そして低い声で言った。「見なくていい、俺の方がカッコイイから」「彼って結城家の御曹司に最も近い人なんでしょ。だからよく見ておかなくちゃ。結城社長の身の回りの人がこんなにすごいんだったら、社長自身もきっとすごい人なんでしょうね。だから姫華も彼に夢中になって諦められなかったんだわ」理仁は姿勢を正して、落ち着いた声で言った。「悟みたいに優秀な男が心から補佐したいと思うような相手なんだから、結城社長はもちろん彼よりもすごいに決まってるさ」「お姉ちゃんのために佐々木俊介の不倫の証拠を集めてくれた人って、彼なんでしょう?」理仁「……」彼は九条悟が情報集めのプロだということを彼女
部屋の中から運び出せるものは全て運び出した後、そこに残っている佐々木俊介が買った物はあまり多くなかった。みんなはまた、せかせかと佐々木俊介が買った家電を部屋の入り口に置いて、それから内装の床や壁を剥がし始めた。電動ドリルの音や、壁を剥がす音、叩き壊す音が混ざりに混ざって大合唱していた。その音は上の階や階下の住人にかなり迷惑をかけるほどだった。唯月姉妹二人は申し訳ないと思って、急いで外に行ってフルーツを買い、上と下のお宅に配りに行き謝罪をし、暗くなる前には工事が終わることを伝えた。礼儀をもって姿勢を低くしてきた相手に対して誰も怒ることはないだろう。内海家の姉妹はそもそも上と下の住人とはよく知った仲で、フルーツを持って断りを入れに来たので、うるさいと思っても住人たちは暫くは我慢してくれた。家に子供がいる家庭はこの音に耐えられず、大人たちが子供を連れて散歩に出かけて行った。姉妹たちはまたたくさん食べ物を買ってきて、家の工事を請け負ってくれている人たちに配った。このような待遇を受けて、作業員たちはきびきびと作業を進めた。夕方になり、外せるものは全て外し、外せないものは全て壊し尽くした。「内海さん、出たごみはきれいに片付けますか?」ある人が唯月に尋ねた。唯月はぐるりと一度部屋を見渡して言った。「必要ありません。当初、内装工事を始めた時、かなりお金を使って綺麗に片付けてもらいましたから。これはあの人たちに自分で片付けてもらいます。私が当初、人にお願いして掃除してもらった時に払ったお金とこれでチャラになりますからね」唯花は部屋の中をしげしげと見て回った。壁の内装もきれいさっぱり剥がして、床もボロボロにした。全て壊し尽くしてしまった。姉が掃除する必要はないと言ったのだから、何もする必要はないだろう。これは佐々木俊介たちが自分で掃除すればいいのだ。「明凛、あなたの話を聞いてよかったわ。あなたの従兄に作業員を手配してもらって正解ね。プロの人たちだから、スピードが速いのはもちろん、仕上がりもとても満足いくものだわ」明凛は笑って言った。「彼らはこの道のプロだから、任せて間違いなかったわね」「彼らのお給料は従兄さんに全部計算してもらって、後から教えてちょうだい。お金をそっちに入金するから」明凛は頷いた。「もう従兄には言ってあ
「あ、あなたは、あの運転代行の方では?」唯花は七瀬に気づいて、とても意外そうな顔をした。七瀬は良い人そうにニカッと笑った。「旦那さんに名刺を渡して何かご用があれば声をおかけくださいと伝えてあったんです。仕事に見合うお給料がいただければ、私は何でもしますので」唯花は彼が運転代行をしていることを考え、代行運転の仕事も毎日あるわけじゃないから、アルバイトで他のことをやっているのだろうと思った。家でも暇を持て余して仕事をしていないのではないかと家族から疑われずに済むだろう。「お手数かけます」「いえいえ、お金をもらってやることですから」七瀬はそう言って、すぐに別の同僚と一緒にソファを持ち上げて運んでいった。明凛は何気なく彼女に尋ねた。「あの人、知り合い?」「うん、近所の人よ。何回か会ったことがあるの。普段は運転代行をしているらしくて、理仁さんが前二回酔って帰って来た時は彼が送ってくれたのよ。彼がアルバイトもしてるなんて知らなかったけどね。後で名刺でももらっておこう。今後何かお願いすることがあったら彼に連絡することにするわ。彼ってとても信頼できると思うから」陽のおもちゃを片付けていたおばあさんは、心の中で呟いていた。七瀬は理仁のボディーガードの一人だもの、もちろん信頼できる人間よ。人が多いと、作業があっという間に進んだ。みんなでせかせかと働いて、すぐに唯月がシールを貼った家電を外へと運び出した。唯月と陽の親子二人の荷物も外へと運び出した。「プルプルプル……」その時、唯花の携帯が鳴った。「理仁さん、今荷物を運び出しているところよ」唯花は夫がこの場に来て手伝えないが、すごく気にかけてくれていることを知っていて、電話に出てすぐ進捗状況を報告したのだった。理仁は落ち着いた声で言った。「何台かの荷台トラックを手配したんだ。きっともうすぐマンションの前に到着するはずだよ。唯花さんの電話番号を運転手に伝えておいたから、後で彼らに会って、引っ越し荷物を義姉さんの新しいマンションまで運んでもらってくれ。もし義姉さんのマンションに置く場所がなければ、とりあえずうちに荷物を置いておいていいから」彼らの家はとても広いし、物もそんなに多くないのだ。「うん、わかったわ。理仁さん、本当にいろいろ気を配ってくれるのね。私たちったら
唯花は車を止めた。「唯花、どう?問題なさそう?」明凛が心配して尋ねた。唯花は笑って「大丈夫よ」と返事した。唯月は車を降りると、カードでマンションのエントランスを開けて管理人に言った。「引っ越しするんですけど、この方たちは引っ越しを手伝ってくれる人たちです」管理人はマンション前にいる大勢を見て、唯月に言った。「これは引っ越しですか?それとも、立て壊し作業ですか?あの人たちは、なんだかたくさん工具を持ってるみたいですけど、引っ越した後にまたリフォームをなさるんで?」「ええ、まあ、もう一度リフォームするようなものですね」しかし、それは彼女のお金を使ってではない。管理人はそれ以上は聞かなかった。喧嘩しに来たのでなければ、それでいいのだ。唯月が先頭に立ち、彼ら一行は威勢よくマンションの中へと入っていった。その仰々しい様子が多くの人の目を引き、みんな足を止めて見ていた。「唯月さん、こんなにたくさんの人を連れてきて、どうしたの?」知り合いが唯月に挨拶するついでにそう尋ねた。唯月は笑って言った。「引っ越しした後に、内装を壊すんです。もう一度リフォームする必要がありますから」「今のままでもすごく良い内装なのに、どうしてまた?」「今の内装はあまり好きじゃないので、一度壊してまたやり直すんです」その人は「ああ」とひとことだけ言い、すぐに褒めて言った。「それも旦那さんがよく稼いでらっしゃるから、こういうこともできるわね」普通の人なら、内装してある家をまたやり直すということはしないだろう。唯月は笑って言った。「それでは失礼します」佐々木俊介は確かに稼ぐことはできるが、今後の彼女にはそんなことなど何の関係もない。唯花と明凛はおばあさんを連れてその行列の一番最後についていた。先頭に立って一行を引っ張っていく姉を見て、唯花は親友に言った。「離婚したとたんに、お姉ちゃんが帰ってきたって感じがするわ。あの溌溂としていた昔のお姉ちゃんよ」明凛はそれを聞いて頷いた。結婚相手を間違えると、本当に女性を底にまで突き落としてしまう。「唯花ちゃん、お姉さんはこれからの生活はどうするつもりなの?」おばあさんは心配した様子で尋ねた。「もし再婚したいのであれば、おばあちゃんに声をかけてちょうだい。私が良い男性を選んでくる
「家電製品だって、全部あなたが買ったものじゃないわよ。勝手に持って行かないでちょうだいよ」佐々木母は唯月に全部の家電を持ち去られるのを心配していた。「おばさん、安心して。私がお金を出して買ったもの以外には一切触らないから。もし何か足りないものがあったら、遠慮なく私に言って」佐々木母は鼻を鳴らし、黙っていた。「プルプルプル……」俊介の携帯はまた鳴り出した。社長からの着信だとわかり、俊介は慌てて電話に出た。電話で社長に何を言われたのかわからないが、俊介の表情が急に険しくなり、慌てて返事をした。「社長、用事はもう済みましたので、今すぐ会社に戻ります。どうして注文が突然キャンセルされたんですか。わかりました、社長、ご安心ください。必ずその注文を取り戻します」電話を切ると、俊介は両親に言った。「父さん、母さん、会社に急用があるから、タクシーで帰ってくれないか」そして、唯月に言った。「唯月、今夜十時までに荷物をまとめて出て行ってくれよ。俺はその時間に帰るから」言い終わると、俊介は急いでその場を離れた。唯月に「お元気で」の一言も言わなかった。俊介の両親は息子の慌てて行った後ろ姿を見送った。佐々木父は唯月姉妹を一瞥したが、何も言わず、妻を連れてタクシーを探し、家へ帰ろうとした。唯花は姉を車に乗せ、荷物を運びに行った。「お姉ちゃん、どうやら彼の仕事がうまくいっていないみたいね」唯花は元義兄が上司の電話を受けた時の驚いたような顔を見逃さなかった。「彼が今の地位まで行けたのはお姉ちゃんのおかげかもよ。お姉ちゃんが人が良いから神様に家族が守られていたってことだよ。だからお姉ちゃんが傍にいなくなると、彼はすぐ谷底に落ちていくことになるんだわ」唯花は心からそう望んでいたのだ。ある男が成功できるためには、後ろにちゃんとできる妻がいることだ。こういう妻がいるからこそ、男たちは何の心配もなく、全力で仕事ができるのだ。こういう女性はお年寄りたちによく言われるいい嫁なのだ。唯月は淡々と言った。「彼の仕事なんてどうなってもいいの。どうせ私はもうちゃんとお金をもらったから。唯花、私が落ち着いたら、結城さんにあのお友達を呼んできて、食事に招待させてね。あの方はたくさん助けてくれたから。あの証拠がなかったら、俊介はきっと何の恐れもな
佐々木母は心を痛めて言った。「離婚して、あんな大金を唯月に分けたでしょ。唯月はせめてあなたのために息子を産んでくれたから、お金を分けてあげても一応義理はあるわ。母さんは惜しいと思うけど、仕方ないってわかるよ。でもすぐ結婚式を挙げて、結納も用意しないといけないなら、これもお金がかかるよ。俊介、自分が銀行でも経営してるつもりなの?そんなお金なんてないわよ」「母さん、心配しないで。莉奈との結婚式にかかる金は自分で出すから、父さんと母さんの手を煩わすことはないよ」自分からお金を出さなくても、佐々木母はそれが惜しいと思っていた。それに、彼女が愚かにも内海家に行って、彼らに唯月に離婚しないように説得してもらうために、数十万も出してしまったのを思い出し、道端の石で自分の頭を思い切り叩きたくなった。自分はどうしてあんな馬鹿なことをしたんだろうか?息子が離婚手続きが終わったら、彼女は絶対内海じいさんのところに行って出した数十万を取り戻そうと決めた。内海じいさんは図々しく数十万を要求し、唯花を通じて絶対唯月を説得すると大口をたたいたのに、何もできなかったから、お金を返すべきだ。十分後、全員役所に到着した。唯花姉妹は先に着いていて、役所の入り口で佐々木一家を待っていた。佐々木俊介が着くと、夫婦二人はためらうことなく、役所に入っていった。三年前、二人は手を繋いで役所に入って、結婚届を出したのだ。あの時、唯月は俊介と白髪になるまで一緒にいられると信じていた。まさかそれがたった数年だけで、夫婦二人はまたここに来ることになった。今回は離婚手続きのためだった。二人は協議離婚のため、これ以上の争うこともなく、必要な書類も揃っていた。順番が回ってくると、職員は毎日多くの離婚手続きをしていて、もう慣れたので、彼らを説得しようともせず、規定通りに離婚手続きを終わらせた。唯花と俊介の両親は傍で待っていた。三人を驚かせたのは、結婚届を出してくるカップルは少ないのに、離婚しにくる夫婦は長い列を作っていたことだった。唯花は隣の俊介の両親をちらりと見て、離婚率が高いのは夫婦二人の問題だけでなく、両方の家族にも問題があると心の中で思った。姉がここまで来たのも、佐々木家の人間のせいだった。「唯花」唯月が離婚手続きが終わり、気持ちが軽くなって妹を呼び
「今後、陽ちゃんに会いたい時、電話してちょうだい。陽ちゃんをあなたの実家のほうに連れて行くから。でも、ちゃんと時間通りに陽ちゃんを送ってきてちょうだいね」これは唯月が莉奈に保証したことだった。子供を利用して、莉奈と俊介の仲を壊すようなことはしない。そして、離婚後、できるだけ俊介と顔を合わせないようにするのだ。「わかった」俊介は特に異議はなかった。「今から役所へ行って手続きを済ませよう。俺は休みを取ってきているから、終わったら早く会社に戻らないと」俊介も落ち着いていた。唯月は妹の車に戻り、妹と一緒に役所へ行った。俊介は両親を乗せ、唯花の車について行った。佐々木母は車で暫く泣いていた。夫に散々説得され、もうどうしようもないとわかると、佐々木母は涙を拭きながら息子に言った。「手続きを済ませたら、唯月に荷物をまとめてさっさと出て行かせなさいよ。一晩も泊まらせないで。私はお父さんと先に家に帰って、荷物をまとめてからこっちに引っ越してくるよ。今年は星城で新年を迎えましょう。お姉ちゃんと義兄さんも休みになったら、彼女たちも呼んできてね。皆で一緒に新年を迎えましょう。それから、成瀬さんに正月は実家に帰らないで、私たちと一緒に過ごすように伝えなさい。その時、ご飯を作ってくれる人が必要だからね」俊介は、自分がどうしても離婚したくて、陽の親権も手放したことで、親たちをひどく悲しませたことを自覚していた。今両親が何を言ってきても、彼はできる限り全部応えた。莉奈に一緒に正月を過ごさせ、家族のために食事を作ってくれることについては、俊介は何の疑問も抱いていなかった。これまでは、正月の食事は全部唯月が作ってくれたからだ。役所へ向かう途中、俊介は莉奈からの電話を受けた。電話で、莉奈は彼に尋ねた。「俊介、手続きは終わった?」「今役所へ向かっているところだ。後十分ほど着くはず。さっき唯月の言った通りに、財産を分けたんだ」莉奈はほっとした。幸い、他のトラブルは起こっていないようだ。「全部終わったらメールをちょうだい」「わかったよ。莉奈、今夜、そっちへ行って、荷物を運んであげるからね」俊介は上機嫌だった。俊介は唯月が出て行ったら、すぐ莉奈を迎えに行くことにしていた。親と姉の家族たちが引っ越してくる前に、二人きりの時