クライアントにいきなり水をぶっかけられ、さらに怒声まで浴びて体が震えたその時、ふと見れば、彼─桐谷明彦はただ冷めた目で秘書の西園寺華音を抱きながら、私をじっと見下ろしていた。 「結花、お前、この程度の仕事もできないのか?会社にとって、役に立たない人間はいらないんだが?」 顔を伝う水をぬぐってから、私は手に持ったグラスをそのまま煽って飲み干し、すかさずもう一杯注いでそのまま相手にぶっかけてやった。 「......誰がこんな仕事やってやるか、勝手にやりたいやつにでも押しつければいい。私、辞めるから」
もっと見るその後、再び明彦の話を聞いた時には、盛岡テクニックはすでに倒産寸前。残っていた顧客も次々と去っていた。私と祐一はすぐに動き、すべてのリソースを引き継ぐことにした。業界のライバルたちが盛岡テクニックの顧客を奪おうとする中で、私たちは早くから準備を整えていたため、大半を手中に収めることができた。明彦は業界内での「一流社長」から一転、笑い者となった。そして、華音はそんな彼を責め、喧嘩しながらも金をせびる毎日。しかし、明彦が今や無一文であることを知ると、彼女は子どもを堕ろして、あっさりと他の男へと乗り換えた。怒り狂った明彦がその男に詰め寄ったが、返り討ちにあい、ついに男の「シンボル」まで折られてしまった。私が再び彼に遭遇したのは、病院での定期健診の時だった。彼は車椅子に座り、後ろから押しているのは彼の母親だった。彼女は私を見つけるなり、目を輝かせて駆け寄ってきた。「結花、あなた、元気でやっているのね!」かつて私が明彦と付き合っていた頃、彼の母親は私のことを見下していた。「明彦のコネがなければ会社に入れなかっただけの女」とでも言いたげな態度で、私の能力なんて机上の空論だと信じて疑わなかった。けれど、今は私が輝かしい経歴を背負い、彼女の息子が車椅子に座っている。その立場が逆転した瞬間、彼女はまるで手のひらを返したように私を利用しようと考え始めたのだ。私は丁寧に微笑んで答えた。「ええ、おかげさまで」彼女は笑みを浮かべながら私を見つめていたが、一方で明彦は羞恥と後悔の表情で、毛布を握りしめていた。青筋の立つ手を抑え込みながら、やがて彼が低くつぶやいた。「結花、これが俺への報いなのか......もう、子どもも望めなくなってしまった」私は少し目を瞬かせて、静かに返した。「でも、あなたにはかつて一人、いたじゃない」彼が私を見上げた瞬間、その目が赤く染まる。私たちが付き合い始めた頃、一度妊娠したことがあった。その時、彼の母親は「結婚したければ、持参金を用意しろ」と冷たく告げた。私は小さな田舎町の出身で、両親が必死に働いて私を学校に通わせてくれていた。それ以上の余裕なんてあるはずもなかった。タイミングの悪い妊娠に、私は何も言えず、堕胎費用すら明彦がネットで借金して工面したのだ。その時、私は病院のベッドで、苦痛に耐えながら
送った動画を見た途端、華音から怒り狂ったような罵りメッセージが届いた。私は特に感情を動かされることもなく、そのまま彼女をブロックした。これから先の修羅場は、明彦が自分で処理するしかない。それから約二ヶ月後、私のチームは本格的な攻勢を仕掛け、気づけば明彦の元にいた主要なクライアントのほとんどがこちらに流れてきた。明彦は、海外財団の支援があるからと、これらのクライアントを軽視していたが、私は遠慮なく契約更新のタイミングを狙ってすべて奪い取った。シビックテクニックの売り上げは一気に数百億円規模に跳ね上がり、私は営業部のトップに躍り出た。祐一から株をもらい、副社長の地位も任されたことで、私は会社内で注目の的となり、「かつての盛岡テクニックの交渉の達人」として知れ渡ることとなった。かつて、私が取りまとめた契約を見向きもせず、華音のために私を追い出した明彦の無能さも、皮肉たっぷりに語られるようになった。こうなった以上、遠慮はしない。私はこれまで培った全ての顧客とリソースをシビックテクニックに移した。明彦が事態に気づいたのは、全てが手遅れになってからのことだった。彼は長期的に資金を要する大規模な財団プロジェクトに着手し、全財産をつぎ込んでいたが、そんな計画を支えられるほどの体力など残っていなかった。それどころか、資金不足に陥り、手元にはほとんど資金が残らない始末。華音は妊娠を理由にさらにお金をせびるようになり、明彦は銀行からの借金に頼るしかなくなった。だが、彼一人では到底持ちこたえられる規模ではなく、誰も彼の事業に投資しようとはしなかった。次に彼と会ったのは、会社のオフィスビルのロビーだった。彼はシビックテクニックと提携するつもりで、祐一を訪ねてきたらしい。祐一は私を同席させ、目の前に現れた明彦を見て、思わず驚いてしまった。ほんの数ヶ月なのに、彼は見る影もなくやつれていた。以前は完璧に整えていたスーツも今は皺だらけで、まるで別人のようだった。明彦は低く沈んだ声で言った。「今は少し苦しい状況だが、あと少しだけ資金があれば、立て直せるんだ。この困難を乗り越えさえすれば、必ず成功してみせる」私は祐一と視線を交わした。すると、祐一がテーブルを指でトントンと叩きながら冷静に言った。「うちの資金はすでに別のプロジェクトに
明彦のその言葉に、吐き気がするほど嫌悪感を覚えた。彼を無視してさっさと階段を上がろうとすると、なんと彼はしつこく追いかけてきた。「結花、逃げても無駄だよ。俺、君の家の向かいに部屋を買ったんだ」「......あんた、頭おかしいんじゃない?」思わず振り返り、彼を睨みつけた。「桐谷さん、もう私たちは別れたの。いい加減にして、離れてくれない?」「結花、わかってるさ。俺たちの8年間は、君にとっても俺にとっても忘れられない思い出だろ?君がいなくなって初めて、交渉の大変さが身に染みたよ西園寺なんて、ただの飾りだ。彼女は人目を引くためだけの存在なんだよ。君がそんなことで気を悪くするなんて......」彼の必死の言葉が続く中、私は言い返さずにただ見ていた。「結花、俺が本当に求めているのは君なんだ。けど、君も知っている通り、祐一の下で働いても成果は出ない。もし仕事がうまくいってるように見えたとしても、それは彼が君に花を持たせているだけさ。だから......結花、戻ってきてくれ。俺が外で稼いで、君が内を守ってくれる。もう二度と君を離さないから、な?」彼の言葉に、私はただ呆れて笑ってしまった。「桐谷さん、女性は家で主婦をするのが当たり前だと思ってるわけ?彼女たちはキャリアも持たず、人と関わることもなく、ただ家にいればいいと?」「君を養っていける。だからそんなもの必要ないだろ?君が苦労するのは、早く引退して自由を手に入れるためなんだろ?だったら、俺が20年早く叶えてあげる」私は皮肉っぽく笑いながら言い返した。「でも、西園寺さん、もう妊娠してるでしょ。私が戻ったら、彼女はどうするの?」その言葉に、明彦は一瞬絶句した。まさか私がその事実まで知っているとは思わなかったのだろう。華音がSNSで幸せアピールをしてくれたおかげで、私は彼らの「恋愛の進展」を逐一把握していたのだ。最初は辟易していたけれど、最近では面白い気分で見物していたくらいだ。明彦が何か言おうとして唇を動かすが、私は構わず続けた。「どうせ、また俺が必要だとか思い始めて、自己満足のために声をかけたんでしょ。私が盛岡テクニックで契約をまとめていた頃は、あなたは私の真似をしていただけ。人からは『女の力を借りた男』って思われるのが嫌で、私を蹴り出した。それで証明したくて
私は考え込みながら言った。「そういえば、前に桐谷さんが豪華クルーズのパーティに参加するとか言ってたわ。主催は海外の財団らしいけど、リスクが高すぎると思って、私は参加を断ったの」どうやら誰かがわざと彼に契約させたようだ。でも、その誰がどんな目的でやったのかは、私には知る由もない。ただ......少しばかり気がかりだ。だから祐一に念のため警告した。「もしかしたら、盛岡テクニックは破産するかも」祐一は意外そうに眉を上げた。「随分と冷静だな、どうしてだ?」私は肩をすくめて答えた。「私には関係のないことですから。それに、ビジネスですし、私も稼がなくてはなりません。わざわざ競争相手に手を貸す必要もないですから。それに、盛岡テクニックを取り込むことができれば、もっと大きな財団と渡り合えるようにもなりますし」「確かに。じゃあ、しばらく様子を見ていよう」こうして盛岡テクニックはまるでダークホースのように急成長し、注目を集めるようになった。その一方で、華音も「バズりの秘訣」を掴んだようで、SNSにしきりに明彦とのツーショット写真を投稿し始めた。彼女は「社長を攻略中の記録」とでも言わんばかりのキャッチコピーをつけ、まるで恋愛ドラマのように投稿を続けている。すると、すぐにネットがざわつき始め、コメントが次々と寄せられた。「わお、職場恋愛!?しかも社長が相手だなんて!」「イケメンの上司に求めたら、なんでも聞いてくれるなんて最高じゃん!追っかけ始めてから100日目って感じ?」「今日のサプライズって何だろう?ドキドキする~」彼女の言葉にネットは沸き、彼と彼女の「恋愛ストーリー」に夢中になるフォロワーがどんどん増えていった。彼女の投稿で期待が煽られ、ネット上では二人の「社内恋愛物語」に興味津々のコメントがあふれ返った。まるでラブコメみたいな展開だ。私は裏でこの光景を眺め、思わず笑ってしまった。その時、以前の会社で人事部長だった人からメッセージが届いた。「白崎さん、シビックテクニックで採用ってやってないですか?」「えっ、どうして?盛岡テクニックは大きな契約を取ったばかりでしょ。今になって転職?」「このままじゃ本当にストレスで倒れそうですよ......あの二人、恋愛脳が過ぎて、まともに仕事してないのに、その下で働く人が
帰宅すると、なんと明彦がマンションのドアの前に立っていた。私の姿を見つけると、彼はいきなり腕を掴み、無理やり部屋の中へ引きずり込んで、壁に押しつけてきた。「桐谷、何のつもりよ!」「結花、君の勝ちだよ......俺が負けた。君がいなくなってから、何もかもがうまくいかない。お願いだ、俺のもとに戻ってくれないか?」そう言いながら、彼は私の手を取り、まるで心底から反省しているかのように見つめてくる。だが私はそのあまりの演技臭さに、思わず吹き出してしまった。私が笑うと、明彦は眉をひそめ、まるで決め顔をして尋ねてきた。「どうして笑うんだ?」「いや、桐谷さん、演技力が上がったのね。西園寺さんと一緒にいるうちに、教えてもらったのかしら?お似合いの先生だったんじゃない?」この言葉に、彼は一瞬固まった。私は手を振り払ってドアを開け放ち、冷たく告げた。「出て行きなさい、今すぐ。さもないと通報するわ。明日のニュースで『盛岡テクニックの桐谷社長、女性の部屋に不法侵入』とか見出しに出てもいいわけ?」彼は唖然とした顔でこちらを見つめた。「......結花、本気なのか?」「もちろん。私は今シビックテクニックの社員よ。ここで何かすれば、桜庭社長が黙っていると思う?それにもう退職して、きっちり引き継ぎも済ませたの。今の私に、あなたが関われる立場なんてないわ。何、私が冗談を言ってるとでも?」「そもそも、あなたが浮気して八年間の関係を裏切ったんでしょ?」明彦は、私を初めて見るかのように驚きの表情を浮かべて言った。「でも、結花......君、昔はこんなじゃなかっただろ?」「昔は我慢していたけど、今は全くその気がないの。私がどうして自分を犠牲にしなきゃならないの?」その言葉に、私は自分でも呆れて笑ってしまった。確かに昔の私はこうじゃなかったかもしれないが、昔の明彦もこんな人じゃなかった。彼に過去を語る資格はない。「まだ私を放さないつもり?」一瞬ためらった彼を前に、私は遠慮なく膝を突き上げた。彼は痛みに顔を歪め、私はその隙に彼の首元を掴んで外に突き飛ばした。「桐谷、これ以上みっともないことはやめな」警察沙汰にはしたくなかった。せっかくシビックテクニックに転職したばかりで、私の働きが結果を出さなければ、祐一だって私を守るのに限
拳を強く握りしめ、爪が深く食い込んでいるのに痛みすら感じなかった。かつて愛した男が、今やこんな形で私を侮辱してくるなんて......思わず手を上げかけたその時、そばから声が聞こえた。「彼女が君の私物だなんて思わないがね。それに、彼女の実力に君が及ばないのは明白だ。出世のために女性を利用しておきながら、成功した途端に蹴り飛ばすような真似をする男こそ、最も愚かだと思うが?そう思いませんか、桐谷さん」明彦が驚いて振り向くと、そこには祐一が立っていた。明彦は目を見開く、「桜庭社長!」そばにいた華音も嬉しそうな顔で彼に視線を送っている。彼女が祐一に興味を持っているのは知っていたが、あいにく彼が興味を持つタイプではなさそうだ。「結花、祐一を紹介してくれないか?二人はどういう関係だ?」私は彼の言葉を遮り、きっぱりと言い返した。「桐谷さん、私はすでにシビックテクニックに転職したの。つまり、これからはあなたのライバルよ。それに私たちはもう他人なんだから、私のことは白崎さんと呼んでくれる?」私が明彦との関係を祐一の前で断ち切ると、明彦の顔はみるみる険しくなった。すると、横から華音が茶々を入れるように言う。「白崎さん、早々に新しい居場所が見つかってよかったですね。ずいぶん前から桐谷さんのもとを離れるおつもりだったんでしょう?桐谷さんもお心配には及ばないですよ」私は淡々と微笑みながら返した。「そうね、心配ご無用。私はどこへ行ってもやっていける。桐谷さんに頼らなくても、必要とされるところがあるのよ」私の言葉に明彦は表情を曇らせた。私がここまで言い切るとは予想していなかったのだろう。私と祐一が手を組むことで、今後、明彦がシビックテクニックとの取引で困難を強いられることを悟ったに違いない。けれど、私はそれほど小さな人間ではない。利益があるならビジネスは歓迎するつもりだ。だが、その条件は、彼が私にもう二度と偉そうな態度を取らないことだけ。華音を一瞥し、笑みを浮かべて言った。「契約については桜庭社長の判断次第ですね。私はまだ入ったばかりの新人ですから」祐一はうなずきながら静かに言った。「私の会社では、実力だけではなく―」「じゃあ何を重視しているんですか?」華音が目を輝かせ、媚びるような仕草で尋ねた。祐一は淡々と答
私は軽くうなずいて答えた。「惜しくなんかないわ。明彦、あんたが言ったじゃない。私なんかいなくても会社は回るって。だったら、どうやって立て直すか見せてもらおうかしら?」その言葉に明彦の顔が険しくなり、ためらうことなく手を振った。「西園寺、お前が見張ってろ!」華音はすぐに従い、こくりと頷いた。私は一度引き継ぎ表をしっかり確認してサインし、抜け漏れがないことを確かめたうえで、自分のデスク周りの整理を始めた。すべて片づけて私物を箱に詰め、いざ出ようとすると、華音が立ちふさがる。「白崎さん、すみませんが確認させてください。会社の機密情報が外部に漏れないように、念のためです」その言葉に私は思わず笑ってしまった。「あんたに何の権限があるの?それとも、あなたが『奥さん』にでもなったつもり?」華音の顔がみるみる赤くなり、居合わせた同僚たちの視線が集まる。毒を含んだ目つきでこちらを睨む彼女の前に、背後からまた別の声がかかった。「彼女の言う通りだ。それが俺の意向でもある」振り向くと、明彦が出てきた。華音は待ってましたとばかりに明彦の腕にしがみつき、わざとらしくしおらしい声で訴える。「桐谷さん、ありがとうございます。桐谷さんがいなかったら、私、ここにいる資格すらないところでした桐谷さん以上に資格のある人間なんていないわ」彼は腕に抱いた華音を見下ろし、にやりと笑いながら私を睨みつけた。「結花、すべての持ち物をここに置いていけ。徹底的に調べさせてもらう」私は自分の荷物が詰まった箱を見下ろした。中身はただのカレンダーや水筒、ティッシュといった取るに足りない物ばかりだ。鼻で笑って、反転して箱を床に逆さまにした。バラバラと床に落ちる音が響き渡り、みんながこちらを見た。私は箱を蹴飛ばして彼の方へ転がし、「どうぞ」と中指を突き立てる。「明彦、この屈辱は絶対に忘れないわ」そう言い捨てて、エレベーターに向かい、ボタンを押すと、足早に去っていった。明彦は何も言えず、顔を険しくして私の背中を睨んでいた。その足で私は桜庭教授を訪ねた。教授は上場企業間での紹介人の役割を担っていて、私が退職を申し出た際、シビックテクニックの桜庭祐一社長を紹介してくれることになったのだ。面会に現れた祐一の顔を見て、私は息を呑んだ。教授が隣で微笑んでいた
明彦は腕を組み、まるで何も感じていないかのように冷たい目で言い放った。「行きたいなら勝手に行けばいいさ。ただし、一度出て行ったら、二度とチャンスはやらない」深く息を吸い込んで、私は静かに告げた。「もういいわ、明彦。八年も一緒にいたけど、もう疲れたの。終わりにする」そう言って、鍵を彼に押しつけ、そのまま振り返ることなく部屋を出た。背後から叫ぶように響く明彦の声が聞こえる。「結花、後悔しても知らないぞ!」冗談じゃない。この白崎結花は、一度だって後悔するようなことをした覚えなんてない。唯一の汚点は、この八年間彼に関わりすぎたことくらい。正直、もう限界だった。だから、心置きなく去れる。ホテルにチェックインして一息つくと、さまざまな思いが込み上げてきた。まずは手持ちの案件を整理して、会社には正式に辞職を申し出ることにした。その知らせを受けて、人事部の担当者が驚きのメッセージを送ってきた。「白崎さん、どうしたんですか?今まで順調だったのに、急に辞めるなんて。それってもしかして、西園寺さんのせいですか?あの人ひどすぎます!社長と仲がいいのを盾に、私たちを好き放題圧迫してくるんです。いくつかのプロジェクトも彼女の手で止められてます。白崎さんがいなくなったら、会社はどうなるんですか?」ほら、こんな風に人事の人も見抜いているくらいなのだ。華音が特別扱いされていることに、社内では不満が募っている。それでも、皆が従わざるを得ないのが現実だ。だが、私のキャリアまで明彦に潰される筋合いなんてない。「これは明彦が自分で選んだ道よ」私はただこう伝えた。「マニュアル通りに進めて。必要な手続きが終わればそれでいいから」人事担当者はその言葉で全てを理解したようだった。私は明彦と完全に決別するつもりだと気づいたのだろう。彼女の態度は一気に動揺へと変わっていった。この会社において、明彦が「トップ」なら、私はその右腕にあたるポジションだった。これまでの多くの案件は、私の計画や判断があってこそ実現してきた。明彦の前で「良い顔役」を務める一方で、私は「厳しい役」を担ってきたのだ。この役割分担で、数え切れない契約をものにしてきた。明彦はいつも「君は俺の完璧な補佐役だ」と言っていた。私がいればこそ会社は順調に発展したのに、いつの間にか明彦
胃がキリキリと痛む中、ようやく病院から帰ってきたところで、桐谷明彦が私の手首を掴んだ。「へえ......強気じゃないか。前田社長がなんて言ったか、知ってるか?『白崎を甘やかしすぎだ』ってさ。この契約、台無しにしたのはお前のせいだ。すぐに前田社長に謝ってこい」その手を振り払いながら、私は冷たく言い返した。「行かないわ。礼儀も知らないクライアントに頭を下げるなんて、冗談じゃない」そしてゆっくり、明彦を睨みつけながら続けた。「どうしてもあんな相手と取引を続けたいっていうなら、私は辞めるだけ」私の言葉に明彦が一瞬、驚いたように私を見つめた。それでも、私は動じず、テーブルの前まで歩くと、バッグから薬を取り出して口に放り込む。顔を上げると、彼はいつの間にかスマホに目を落としていて、気の抜けたような笑みさえ浮かべていた。「会社に用があるから、出かける」「......分かったわ」私の冷静さに驚いたのか、明彦は一瞬だけ戸惑いの表情を見せたが、そのまま部屋を出る前に言い捨てた。「前田社長の件、あとでちゃんと説明しておけよ」ふん、ともつかないように言い残して、さっさと彼は出ていった。私は気にせずノートパソコンを開き、メールを打ち込む。「桜庭先生、お話いただいていた上場企業への転職、前向きに考えております」半年ほど前、桜庭先生から「転職を考えた方がいい」と勧められた。私が明彦の会社で営業をしていると知ったとき、彼は驚きと落胆を隠せなかったようだった。「結花、君はもっと自分の学びを生かせる道を歩むべきだ。あの会社はリスクが大きすぎる」桜庭先生の言葉には心が揺れたけど、その頃の私はまだ明彦を愛していた。大学から数えて8年、私たちはまるで一つの存在のように溶け合っていると思っていたのだ。でも、それは幻想だった。彼にはもう「新しい相手」がいたのだから。そう、西園寺華音─あの新人秘書がね。明彦が私にとってどんな人間なのか、今はもうよく分かる。私の体調なんて気にも留めず、お酒まで飲ませて契約を取らせようとする。そんな彼に、未練なんて残るはずもない。私は退職願をすぐに送信し、スパッと会社に別れを告げた。その時、スマホが光って通知が入った。華音がSNSに、明彦の背中を撮った写真を載せていたのだ。「食べたいって言った
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