翌朝、紗雪は目覚まし時計の音で目を覚ました。寝ぼけまなこをこすりながら隣のスペースに手を伸ばすが、そこには誰もいなかった。京弥は昨晩戻ってこなかったのだ。紗雪の瞳に、何とも言えない複雑な感情がよぎる。彼女は布団をめくり、裸足のまま床を踏みしめてクローゼットへ向かった。適当にベージュのニットと黒のワイドパンツを選び、着替える。洗面所で身支度を整えた後、軽く朝食を済ませ、足早に家を出た。会社に到着すると、自分のデスクに向かい、パソコンを立ち上げて仕事に取り掛かろうとした。しかし、どうにも集中できない。昨夜、京弥が電話を受けたときの冷淡な表情や、慌ただしく去っていく背中ばかりが頭をよぎる。気を紛らわせるために熱いコーヒーを淹れ、一口飲んでようやく気持ちを切り替え、再び業務に集中した。終業時間が近づいたころ、スマホの画面が光り、新着のメッセージが通知される。緒莉からだった。【紗雪、お母さんの誕生日パーティーは来週の土曜日よ。忘れないでね。それから、あの謎の旦那様もぜひ連れてきてちょうだい。私もお母さんも楽しみにしてるわ】【妹婿の家ってどんな雰囲気なんでしょう?最近、辰琉は会社のことで忙しくて、なかなか私のドレス選びにも付き合ってくれないのよ】紗雪は画面を見つめ、眉をわずかにひそめた。緒莉の言葉の意図など、考えるまでもない。ただ辰琉を誇示しつつ、自分を見下し、笑いものにしたいだけだ。紗雪は冷笑し、指を動かして返信を打ち込んだ。【姉さんは本当に幸せね。安東社長のような若くて有能な方と結婚できて】【私の夫は辰琉ほど多忙ではないけれど、家族と過ごす時間を大切にしているわ。パーティーで皆さんに会えるのを楽しみにしてる。夫の見極め、よろしくね】スマホを机に置き、こめかみを軽く揉む。彼女と京弥の結婚は、そもそも予定外の出来事だった。それなのに、母の誕生日パーティーに彼を連れて行くことになるとは。緒莉の嫌味な態度に対応しなければならないと思うと、頭が痛くなる。だが、紗雪は逃げるような性格ではなかった。緒莉が面白がって騒ぎ立てるつもりなら、彼女も一芝居打ってみせるだけだ。間もなく、緒莉から返信が届いた。【もちろんよ。あなたの人生に関わることだもの、姉としてしっかり見極めさせても
紗雪はその言葉を聞いた瞬間、表情が一気に冷え込んだ。鋭い眼差しで加津也を見据え、まるで刃のように突き刺さる声で言い放つ。「加津也、口を慎みなさい!私のことはもうあんたに関係ないわ」「私がどんな人生を歩もうと、あんたに口を出される筋合いはない」加津也は一瞬言葉に詰まるが、すぐにまた尊大な態度を取り戻した。「ほう?お前に何ができる?お前は何者でもない!俺から離れたお前は、ただの役立たずだ!」その侮蔑的な言葉を聞いても、紗雪の心は微塵も揺れなかった。彼女はとうの昔に、加津也の偽善と傲慢さを見抜いている。かつては彼を光だと思っていた。救いだと信じていた。だが結局、彼はただの支配欲にまみれた男でしかなかった。「西山加津也」紗雪は静かに口を開いた。その声には、何の感情も滲んでいない。「3年前、私がバカだったからあんたを好きになった。でも、もう目が覚めたわ」「あんたは私にとって何の価値もない。侮辱するのももういい加減にしなさい」加津也は、その決然とした眼差しに動揺したのか、顔色を曇らせる。だがすぐに苛立ちを募らせ、一歩踏み出すと、彼女の腕を掴もうとした。しかし、紗雪は素早く身を引き、難なくかわした。「触らないで」冷ややかな声が響く。「もったいぶってんじゃねえよ!」加津也は苛立ちを露わにしながら、さらに一歩踏み込んだ。彼は紗雪の全身を値踏みするように眺め、ちらりと彼女の車に目を向けた。「お前の乗ってる車、高そうだな?」「また新しいスポンサーでも見つけたのか?それとも、汚い手を使って金持ちに取り入ったのか?」その言葉を聞いた瞬間、紗雪の眉が僅かに寄る。胸の奥から込み上げる嫌悪感を必死に抑えながら、一歩距離を取る。「あんたの目が汚れているから、何を見ても穢れて見えるのよ」「この車は私が自分で稼いだお金で買ったもの。あんたの歪んだ価値観で他人を測らないで」しかし、加津也は彼女の言葉を無視し、さらに攻撃的な態度を取る。「自分で稼いだ?冗談が上手くなったな。貧乏学生だったお前が、何の仕事でそんな金を稼げるっていうんだ?」「そういえば、この前ホテルで男と抱き合ってたよな?まさか囲われてるんじゃないだろうな?」紗雪の中で、怒りが一気に燃え上がる。拳を握りしめ、殴りか
「離してよ!あんた、本当に気持ち悪い!」紗雪は必死にもがいたが、相手の力が強すぎて、手首に激痛が走るだけだった。その時、暗がりに潜んでいた俊介が静かに姿を現し、そっとスマホを取り出した。彼はこれから起こる出来事を記録しようとしていたのだ。そう、加津也は一人で来たわけではなかった。彼はあらかじめ俊介に連絡し、証拠となる映像を撮影するよう手配していたのだ。この動画さえあれば、紗雪の人生を完全に破滅させることができる。「これは俺を怒らせた報いだ。二川家の連中にも、お前の淫らな姿を見せてやる!」加津也は狂ったように彼女の襟元を掴もうとした。しかし、その手が届く前に、強烈な蹴りが彼の体を吹き飛ばした。次の瞬間、紗雪の肩にふわりとジャケットが掛けられた。驚きと恐怖が入り混じる中、彼女を抱き寄せる温かな腕の存在に気付く。「大丈夫か?」低く落ち着いた声が耳元で響く。紗雪の緊張が少しだけ和らいだ。彼女は拳を握りしめ、冷たい視線を加津也に向けた。地面に叩きつけられた加津也は、みじめな姿で身を起こした。そして、ようやく目の前の男の顔をはっきりと見た。最初は軽蔑の眼差しを向けていた彼だったが、その瞬間、内心に動揺が走る。紗雪が自分と別れた後、もっと良い男を見つけられるはずがないと思っていた。だが、目の前の男は完璧に仕立てられたスーツを身にまとい、品格と威圧感を漂わせていた。その整った顔立ちは、ただそこに立っているだけで周囲の視線を惹きつけるほどだった。だが、どこかで見たことがあるような......記憶の奥を探るが、どこで会ったのか思い出せない。もしかすると、金持ちの愛人としてどこかで見かけたのかもしれない。加津也は口元を歪め、冷笑する。「ふん、てっきりパトロンを見つけたのかと思ったら、ヒモ男を飼ってたのか。なあ、紗雪。お前のスポンサーはこのことを知ってるのか?」彼の侮蔑の視線が京弥を値踏みするように這う。「愛人風情が、俺の前に立つ資格があるとでも?」紗雪が怒りを抑えきれず動こうとした瞬間、京弥が彼女の手を軽く叩いた。「任せろ」淡々とそう告げたかと思うと、次の瞬間、鋭い拳が唸りを上げて振り下ろされる。鈍い音が響き、加津也は地面に転がった。悲鳴を上げ、唇の端から鮮
紗雪は反射的に止めようとしたが、隣の京弥に手首を掴まれた。伝わる熱が、一瞬だけ彼女の心を落ち着かせる。加津也は電話を繋ぐと、自分が殴られたことを大げさに警察へ伝えた。ただし、自分の卑劣な行為については一切触れなかった。電話を切った後、地面に座ったまま、陰険な目で二人を睨みつける。「警察はもう来るぞ。紗雪、ヒモを飼うのがそんなに好きか?今日は見せてもらおうじゃないか、お前がどうやってそいつを庇うのかを。警察なら買収できないだろう?」邪悪な笑みを浮かべる加津也の顔は、異様に歪んでいた。だが、京弥は終始冷静だった。携帯を取り出し、手短にメッセージを送信すると、そのまま警察が到着するのを静かに待った。警察はすぐにやってきた。制服姿の警察官を見た瞬間、加津也は慌てて立ち上がり、自分がどれだけ酷く殴られたかを訴え始めた。鼻や口の周りに残る痣を指さしながら、必死に自分こそが被害者だとアピールする。「こいつが指示したんです!こいつが黒幕で、隣のヒモは実行犯です!警察さん、さっさとこいつらを逮捕して取り調べしてください!何日か閉じ込めておくべきですよ、こんな悪質なことをする奴らは!」警察は話を一通り聞いた後、紗雪を一瞥すると、無言のまま手錠を取り出した。紗雪が事情を説明しようとしたその時、警察が手錠を掛けたのは、加津也の手首だった。「えっ......?間違ってますよ!通報したの俺ですよ!?」加津也は状況が理解できず、呆然としたまま警察に押さえつけられる。「間違いかどうかは、警察署に来れば分かる。余計なことを言うな、さっさと歩け」警察官は鋭い口調で命じると、そのまま抵抗する彼を無理やり連れ出した。紗雪は、あまりの展開に呆気に取られていた。普通なら、連行されるのは自分たちのはずでは?警察が去った後、京弥はゆっくりと紗雪の手首を握り、車へと誘導する。「帰ろう」低く静かな声が響く。そう言いながら、彼は何のためらいもなく紗雪のシートベルトを丁寧に締めた。帰り道、紗雪の視線は何度も隣の男へと向けられた。「......」どう聞けばいいのか迷い、彼女が口を開こうとしたその瞬間、タイヤがアスファルトを擦る鋭い音とともに、車が急停車した。「どうしたの?」京弥の低い声が響く。表情は曇っていたが、
何日かが過ぎても、加津也の消息はまったくなかった。聞いた話では、彼は一時的に拘留されており、数日経たなければ釈放の可能性はないらしい。紗雪の生活は、次第に落ち着きを取り戻していった。ただ、京弥は相変わらず忙しく、ほとんど顔を合わせることがなかった。心の中に引っかかるものがあり、彼女の気もどこか上の空だった。そうして日々が過ぎていき、やがて、誕生日パーティーの当日が訪れた。「椎名奥様、今日は少し片付けなきゃならない用事があって、パーティーには遅れて行くかもしれない」出かける前、京弥はそう言い残した。その言葉に、紗雪は口を開きかけたものの、結局何も言えずに飲み込んだ。思い返したのは、緒莉からのメッセージ。その内容を思うと、彼女の顔色は少し沈み、無意識に拳を握りしめた。だが最後には、何も言わずにそのまま黙り込む。きっと、京弥はかつての初恋と会うために忙しいのだろう。この状況でわざわざ何か言っても、ただの迷惑になるだけだ。そう考えて、紗雪は眉をひそめながら、黙って男の背中を見送った。けれども、なぜか胸の奥にぽっかりと穴が空いたような気がしてならなかった。彼女はそっと胸元に手を当て、その得体の知れない寂しさをかき消そうとする。どれほどの時間が過ぎたのか、やがて彼女は気持ちを切り替え、用意していた贈り物を手に取った。誕生日パーティーの準備は前もって把握していたので、今日は仕事を休むことにしていた。紗雪はプレゼントを持ち、控えめなドレスを身にまとい、車を走らせ二川家へ向かった。屋敷の門をくぐるや否や、背後から緒莉の嫌味な声が飛んできた。「紗雪、一人で帰ってきたの?さっきのメッセージじゃ、旦那さんと一緒に来るって言ってたのに。もうお母さんにも話しちゃったのよ。それじゃあ場がしらけちゃうじゃない」この時、美月はまだ階下に降りてきていなかった。客間にはすでに何人もの招待客が集まっていた。男女問わず、どれも上流階級の面々であり、主にビジネス関係者が多かった。二川家は商界で一定の地位を持つ家柄。美月の誕生日ともなれば、当然、祝いのために訪れる者が絶えない。それだけではなく、この場は新たなビジネスパートナーを見つける好機でもあった。パーティーはすでに人で溢れ、賑やかさを増し
緒莉の笑みが一瞬で凍りついた。眉をひそめ、信じられないような表情で紗雪を見つめたが、すぐに言葉が出てこない。「紗雪、今日帰ってきたのは人をいじめるためか?姉もお前のためを思って言ってるんだぞ。当時、お前はどうしても加津也をアプローチするって言い張って、三年間も彼のそばにへばりついて、プライドなんか捨ててたくせに、結局みじめに戻ってきただけじゃないか?」辰琉は片腕で緒莉を庇いながら、鋭い言葉で紗雪の痛いところを突いてきた。その声はすぐに周囲の人々の関心を引き、多くの人が集まってきた。「二川家の次女じゃないか?聞いたことあるよ。愛を求めて、家まで捨てたって」「しかも、あの男にまったく相手にされなかったらしいよ。最後には捨てられたって話」「最近結婚したって聞いたけど、夫が誰か知ってる?」「でも今日は一人で来てるよな?よっぽど見せられない相手なんじゃない?恋愛脳って怖いね」そんな噂話が飛び交う中、緒莉は得意げに口元を持ち上げた。「紗雪、私はただ、また変な男に引っかからないか心配してるだけよ。今回の結婚はあまりにも急だったし、どんな人なのか見せてほしいの。あなたがもう二度と傷つかないようにね」その言葉は、周囲の憶測をさらに確信へと変えた。「緒莉、もういいだろう。彼女はプライドが高すぎて、どうせ私たちの話なんか聞く耳持たないよ。あれだけ必死に愛してた男に捨てられたのに、まだ懲りてないんだ。このままじゃ、ろくな結婚相手も見つからないんじゃないか?」辰琉は冷ややかに言い放ち、緒莉を連れて立ち去ろうとした。しかし、この場にいた誰もが気づいていなかった、美月がすでに階段を降りてきていたことを。彼女は険しい表情を浮かべ、沈黙のまま紗雪を見つめていた。「私の夫がどんな人かなんて、あんたたちには関係ないわ。私が良いと思えば、それで十分」紗雪は淡々と告げた。周囲の冷ややかな視線を気にする様子もなく、毅然とした態度を崩さない。この道を選んだのは自分。過去に間違った道を歩んだことも、彼女は認める。それでも今回は、彼女の意思で賭けに出たのだ。「あんた!」美月が何かを言いかけたその時。「ごめん、遅くなって」低く渋い声が、玄関の方から響いた。その瞬間、会場の空気が一変した。スラリとした長身の男
「大丈夫、忙しいのは分かってるから。来てくれただけで十分だよ」紗雪は柔らかく微笑み、まるで気遣いのできる妻のように振る舞った。二人が親しげに寄り添う姿に、周囲の人々の羨望の眼差しが隠しきれない。美月でさえも、京弥に対する視線には幾分かの好意が滲んでいた。だが、緒莉の表情はひどく険しく、外に停まっている車に目を向けると眉をひそめた。先ほど、この男はあの車から降りてきた。間違いなければ、これは最近発売されたばかりの最新モデルで、全国にたった十台しかない超高級車だ。その価値は計り知れない。以前、辰琉も購入を考えていたが、市場に出るや否やすぐに完売してしまったと聞いている。それほどの車が、なぜこの男の手に?見たところ、ただのヒモにしか見えないのに。まさか、紗雪が見栄を張るために大金をかけてレンタルしたんじゃ?そう考えると、緒莉はわざとため息をつき、呆れたような口調で言った。「紗雪、お母さんを安心させたくない気持ちは分かるけど、だからってこんな見え透いた嘘をつくのはやめなよ。レンタカーを借りるにもお金がかかるのよ?ないならないでいいじゃない、見栄を張っても余計に笑われるだけよ」一見すると姉らしい心配に聞こえるが、その言葉の端々には、「京弥の車は借り物だ」と断定する意図が込められていた。緒莉は言葉を操るのが上手い。紗雪は眉を上げて姉を見やり、何か言いかけたが、その前に京弥がそっと彼女の手の甲を軽く叩いた。彼女が視線を上げると、男は微笑みながら彼女を見つめ、何かを暗に示しているようだった。二人の間には、言葉にせずとも通じ合うものがある。そのため、ただの一瞬の視線のやり取りで、紗雪は彼の意図を理解した。緒莉の「善意の忠告」に対し、京弥は一切耳を貸さなかった。「紗雪、疲れただろう?向こうで少し休もう」そう言って、彼は紗雪の手を取ると、ソファへと向かった。「もういいわ。今日はお祝いの席よ、こんなことで雰囲気を壊さないでちょうだい」美月がちょうど良いタイミングで口を開き、騒ぎを収めた。緒莉は内心の不満を押し殺し、何も言わなかった。母親が口を挟んだ以上、これ以上は逆らえない。彼女は去っていく紗雪の背中をじっと見つめた後、美月の隣に戻った。「お母さん、怒らないでね。私はただ紗雪のことが心配で.
美月の笑顔が徐々に固まり、手元にある辰琉から贈られた玉瓶を見比べながら、その表情はますます厳しくなった。というのも、京弥が贈ったものも、同じ玉の瓶だったのだ。しかも、辰琉が贈ったものとまったく同じ。「どういうことだ?二人が贈ったものが同じだなんて。こういう年代物は、一つ手に入れるだけでも大変なのに、こんな偶然があるのか?」「この瓶、聞いたことがあるぞ。確か、一つしか存在しないはずだ。以前のオークションで、謎の人物が高額で落札した、唯一無二のものだって......」「それなら、この中のどちらかは偽物ってことになるじゃないか?」状況を理解した緒莉は、不満げに眉をひそめた。「義弟さんの車や他の贈り物がレンタル品か偽物かはともかく、今日は母の誕生日なのよ?せめて、ちゃんとした本物を用意する誠意は見せるべきよ」「こんなに大勢の前で偽物を贈るなんて、私の妹の顔に泥を塗るようなもの。もしかして、紗雪が周囲から笑いものにされても、気にしないってこと?」辰琉も不機嫌そうに口を開いた。「俺の立場で、偽物なんか贈るはずがない。逆に、お前はどうなんだ?本物がないなら、無理に贈る必要なんてなかったのに。こんな気まずい空気になってるのはお前のせいだぞ」「どうして、私の夫の贈り物が偽物だと決めつけるの?鑑定でもしたの?」紗雪は眉をひそめ、京弥の隣で強く反論した。「紗雪お嬢様、見苦しい言い訳はやめたらどうだ?偽物なら偽物で、素直に謝ればいいじゃないか」「そうだよ、ここまで騒ぎになったら、ただの恥さらしよ」周囲の言葉を聞いても、京弥は特に表情を変えず、静かにその場に立っていた。彼は手を伸ばし、紗雪の手をそっと包み込む。温かい感触に、紗雪は思わず彼を見上げた。落ち着いた眼差しが、静かに彼女を見つめている。京弥は、何も言わずに小さく首を横に振った。一方、辰琉は二人の様子を見て、ますます見下したような表情を浮かべる。所詮、顔がいいだけのヒモじゃないか。贈り物だって、まともなものを用意できるはずがない。しかも、よりによって自分と同じ贋作を選ぶとは、大胆にもほどがある。彼の瓶は、高額で購入した本物なのだから、偽物なはずがない。そこで、辰琉は提案を持ちかけた。「せっかくですし、義母さんの旧知の北島先生に鑑
彼は踵を返し、外へと歩みを進めながら携帯を取り出し、匠に電話をかけた。「二川グループの地下駐車場の監視カメラを調べて、紗雪の居場所を探せ」匠は、社長のただならぬ様子に緊張しながら、すぐに電話を切り、作業に取り掛かった。一方、京弥も手を止めることなく、引き締めた唇と険しい眉のまま、ノートパソコンを開き、紗雪の携帯の位置を特定しようとしていた。しばらくして、匠から電話がかかってきた。「社長、見つかりました。二川さんは誰かに連れ去られたようです。場所は……」「西の倉庫だな」京弥が低く声を落とす。「警察を連れて行け。俺も今から向かう」そう指示を出すと、京弥はすぐに通話を切った。匠は息をのんだ。電話越しでも、京弥の怒りが押し殺されているのがはっきりと伝わる。長年彼に仕えてきた匠は、この男がどれほど冷静で、どれほど容赦がないかを知っている。内心で紗雪を誘拐した者たちに手を合わせた。せめて、少しでも運がいいことを祈る。さもなければ、社長の手によって、地獄を見ることになるだろう。京弥の目元は鋭く、身体全体から冷たい威圧感が放たれていた。彼はすぐに車に乗り込み、西郊の倉庫へと向かった。その道中、車は猛スピードで走り抜け、いくつもの信号を無視していた。片手でハンドルを握りしめながら、京弥の心臓は激しく脈打っていた。下顎を引き締め、焦燥感で息が詰まりそうになる。さっちゃん、無事でいてくれ。西の倉庫。紗雪は必死に抵抗していた。林檎と俊介は、そんな彼女を余裕たっぷりに見下ろしている。俊介は携帯を構え、動画を撮影していた。この映像を、そのまま加津也に送るつもりだ。なるほどな。俊介は思った。あの西山加津也って男は、手に入らないなら壊す、そんな考えを持っているらしい。正真正銘の変態だ。紗雪は手足を縛られ、動きを封じられている。粗い手のひらが、彼女の滑らかな肌を撫でるたび、悪寒が背筋を駆け上がった。「触るな!」紗雪は鋭く叫んだ。その瞬間、不意に脳裏に浮かんだのは京弥の顔だった。彼のような男のそばにいるときだけ、わずかばかりの安心感を覚えていた。今、このときほど、彼が現れてほしいと願ったことはない。「へぇ、小娘のくせに気が強いじゃねえか」「こういう
紗雪は周囲の環境を一通り見渡し、自分が誘拐されたことを理解した。彼女は頭の中で状況を整理した。今まで恨みを買った相手なんて、数えるほどしかいない。そこへ俊介が現れると、紗雪の瞳には「やっぱりね」と言わんばかりの表情が浮かんだ。彼女は依然として冷静に相手を見つめ、まるで跳梁跋扈する小物を見ているような目を向ける。その視線を読んだ俊介は、苛立ちを覚えながら彼女の顎を乱暴につかみ、低い声で言った。「その目はなんだ?俺を脅してるのか?」「おい、何か言えよ?」紗雪は鼻で笑い、喉の奥から低く声を漏らした。わずかに視線を落とし、口を封じられていることを示すように顎を動かす。すると林檎が近づき、意地悪く彼女の口の布を剥がした。勝ち誇ったように言い放つ。「どうしたの?会議室であんなに得意げだったのにね」そう言いながら、彼女の頬を軽く叩き、口角を上げる。紗雪は軽蔑するように吐き捨てた。「何?私を誘拐したら二川グループに戻れるとでも?」「それから、前田」視線を彼の手元に向けながら、静かに言い放つ。「今すぐ解放しなさい。さもないと……私がここから出たとき、覚悟しておきなさいよ」しかし俊介は紗雪の脅しに怯むことはなかった。むしろ、こんな状況でも毅然としている彼女の姿に、邪な視線を向ける。その視線に紗雪は嫌悪感を覚えた。だが俊介は、すぐに表情を引き締め、嘲るように口を開いた。「恨むなら、お前が怒らせた相手が悪かったことに恨めよ」紗雪は眉をひそめる。その言葉の意味を考えようとしたが、俊介は彼女の顎を乱暴に放し、手をパンパンと叩いた。すると、外から三、四人のガラの悪い男たちが入ってきた。紗雪の瞳がかすかに揺れる。足元から冷たい感覚がせり上がってくる。林檎の目には狂気が宿る。「え?怖くなった?」「もう遅いのよ。あんたみたいな女、調子に乗るからこうなるのよ」チンピラたちは椅子に縛りつけられた紗雪を見て、卑しい笑みを浮かべた。「へえ、今日はツイてるな」「こんな美人が俺たちの前に転がり込んでくるなんてな」「安心しろよ、お嬢ちゃん。たっぷり可愛がってやるからさ」その言葉を聞いた瞬間、紗雪の瞳にかすかな動揺が走る。彼女は俊介を睨みつけ、声を張り上げた。「やめな
ちょうどいいことに、加津也の命令で俊介はずっと紗雪をどうにかする機会を探していた。口実がなくて困っていたところだったが、まさにこれは渡りに船というものだ。まだすすり泣いている林檎を宥めた後、俊介は少し離れた場所で加津也に電話をかけた。林檎はその様子を見つめ、目を細める。彼女はずっと知っていた。俊介が会社であれほど横暴に振る舞えたのは、二川お嬢様だけが後ろ盾だったわけではなく、もう一人——西山さんという存在がいたからだ。西山さんに頼めば、紗雪はもう終わりだ!一方、加津也は携帯に表示された俊介の名前を見て、苛立ちを隠せなかった。このところずっと二川家の次女の動向を探っていたものの、何の手がかりもつかめずにいた。前回、受付で一度顔を合わせたきり、その後はまるで霧のように姿を消してしまった。思うようにいかないことで苛立っていたところに、俊介からの電話。ますます気分が悪くなる。通話を繋げるなり、不機嫌そうに吐き捨てた。「役立たずめ、なんの用だ?」「お前に紗雪を見張れと言ったはずだが、どうなってる?あいつは椎名のプロジェクトを進めているらしいな?俺がお前に指示したこと、何一つできてねえじゃねえか!」俊介が口を開くよりも早く、加津也の罵声が飛んでくる。しかし、俊介は逆らうことができず、悔しさを噛み殺しながら言葉を選んだ。「西山さん、今回はその相談に来たんです……」「相談?どうせまたくだらない話だろうが、聞いてやるよ。いい案があるんだろうな?」パーティーで恥をかかされて以来、紗雪への復讐を考え続けていたが、なぜか彼女には手が出せない状況が続いている。どうやら背後に誰か強力な存在がいるらしく、送り込んだ手駒はことごとく無力だった。そして俊介。こいつは無能なうえに、会社から追い出される始末。考えれば考えるほど苛立ちが募る。俊介は林檎の件を簡単に説明し、紗雪への恨みを滲ませた。「西山さん、頼みますよ。あの女のことをそこまで好きってわけじゃないですが、俺の女ですよ?このまま引き下がったら、俺のメンツが立たないじゃないですか!」加津也は考え込み、ふと妙案を思いつく。「まあ、黙ってるわけにはいかないな。ちょうどいい、こうしよう……」加津也が言い終わると、俊介は内心震えた。まさか自
林檎は会社から放り出された。ちょうど会社の入り口前、警備員に突き飛ばされるようにして。フロントの受付たちは首を伸ばして様子をうかがい、何が起こったのかと興味津々だ。こんな光景、初めて見る。次の瞬間、警備員たちは林檎の持ち物まで投げつけるように彼女の体にぶつけた。「さっさと消えろ。二度と会社の周りに顔を出すな」そう言い捨てると、警備員は手を払うようにして、軽やかにその場を去っていった。これはすべて、マネージャーからの指示通り。完璧にやり遂げたと満足げだ。長年この仕事をしてきたが、こんなみっともない形で会社を去る人間は初めて見る。ある意味、珍しいことだ。林檎は目の前に立つフロントの二人を見た。彼女たちの視線には、嘲笑と好奇心が入り混じっている。林檎は唇を強く噛み、拳を握りしめると、心の中で復讐を誓った。今日の屈辱、決して忘れない。受付の一人が彼女の表情に気づき、軽くため息をついた。「こんなザマになっても、まだあんな目をするんだね」もう一人は呆れたように肩をすくめた。「ずっとそういう人だったじゃん。地味な格好してたから目立たなかっただけで」「私もさっき聞いたけど、今回の件、パクリが原因らしいよ。それに、前田なんかと関わってたんだって」「なるほどね」二人はひとしきり感想を述べると、外にいる林檎のことなんてどうでもいい様子だった。どうせ会社を去る人間。何を言われようと気にする必要はない。その分、二人の態度はますます遠慮がなくなった。もし以前なら、林檎は何かしら言い返していたかもしれない。だが今の彼女にそんな気力はない。反論することもできず、地面に散らばった荷物を拾い集めると、足取りも重く去っていった。車の行き交う大通りに立ち尽くす。一瞬、何をすべきかわからなくなる。だが、ダメだ。林檎は奥歯を噛み締めた。「二川紗雪……あんただけは絶対に許さない」タクシーを止めると、彼女は俊介の家へ向かった。俊介は会社をクビになって以来、新しい仕事を探すこともなく、時折加津也と連絡を取りながら、紗雪を潰す機会をうかがっていた。そんな彼のもとへ、突然林檎が飛び込んできた。予想外のことに、彼は少し驚いた。「林檎?どうしたんだ?この時間なら、会社にいるはずだろ?」その
「お願いだから許して、二川さん!本当に反省していますから!次は絶対にしないから!」「次?」紗雪は美しい瞳を細め、林檎の必死な懇願にも微塵の情けを見せなかった。彼女は、聖母のような優しさを持ち合わせているわけではない。もし彼女が事前に準備をしていなかったら、今日のこの場で、自分の潔白を証明できただろうか?さらに言えば、今日この標的になったのが自分ではなく、無力なインターンだったら?その子のキャリアは、人生は、もう終わっていたかもしれない。その考えに至った瞬間、紗雪の目の奥に冷たい光が閃いた。「い、いえ違います!二川さん、今回だけです!本当に、これが最初で最後……!」林檎は首を激しく振り、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら必死に訴える。だが、周囲に同情する者は一人もいなかった。それが、彼女のこれまでの人望の結果だった。一方で、円は心の底から痛快な気分だった。紗雪が「黙って」と言ったときは、悔しくてたまらなかったが……まさか、こんな形で決定的な一撃を準備していたとは!紗雪は林檎が掴んでいた自分の服をそっと引き抜くと、マネージャーに向かって静かに言った。「浅井が心から反省しているのなら、彼女にチャンスを与えましょう」林檎は一瞬、希望の光を見た。だが、次の瞬間――紗雪の冷酷な声が響く。「彼女を解雇してください。それと……業界から締め出しましょう」最後の言葉は、一語一語、はっきりと発せられた。林檎の顔から血の気が引いていく。まるで、雷に打たれたかのように、その場に崩れ落ちた。絶望に染まったその表情は、まさに生きる屍のようだった。もう……終わりだ。全てを失っただけではない。業界全体から締め出されるということは、もう他の企業に移ることすら許されないということ。転職の道も、未来も、完全に閉ざされたのだ。マネージャーの目が輝く。確かにいい考えだ。「わかった。その通りにしよう」紗雪は林檎の横を通り、席へ戻ろうとした。しかし、その瞬間、林檎が突如立ち上がり、狂ったように紗雪に飛びかかった。「二川紗雪……!このクソ女!よくもここまで……!!」「お前なんか、地獄に落ちればいいんだ!!」「道連れにしてやるわ!!」紗雪の目が一瞬鋭く光る。素早く身
そう言いながら、林檎は冷笑を漏らした。「ふん、ハッタリでしょ」「証拠を見せなさいよ」紗雪はその挑発には一切取り合わず、淡々とパワーポイントを開いていく。画面に映し出されたのは、まったく新しい企画案だった。それは林檎のものより遥かに洗練され、細部に至るまで完璧に仕上げられている。さらには、すでに芸能人との契約交渉まで済んでいるという詳細な進捗も記されていた。紗雪の冷静な声が、静まり返った会議室に響く。「浅井さんが持っているもの、それは私が初期に作った案のコピー」「でも、最新版はこれです」「温泉リゾートは、高級路線だけではなく、一般家庭のニーズも考慮すべき。だからこそ、私のこの最終案は、より幅広いターゲットに向けて実現可能なものになっています」「さらに、コラボ企画についても現在進行中で、すでに一部の企業と調整を進めています」彼女の説明が終わると同時に、会場に拍手が鳴り響いた。誰もが席を立ち、心からの敬意を込めて紗雪に拍手を送る。その音は、先ほど林檎がプレゼンをしたときのものとは比べものにならないほど大きい。どちらの企画が優れているか、一目瞭然だった。それだけではない。紗雪の案を見た今、林檎がどこから自分の「企画」を持ってきたのか、誰の目にも明らかだった。「まさか、浅井ってこんな奴だったのか……」「そうだよな、普段は目立たないくせに、裏でこんなことしてたなんて」「こんな人間、関わらないほうがいい。根っからの策略家じゃないか」「アイデアを盗むようなやつを会社に置いといたら、次は機密情報を外部に漏らすかもしれないぞ」この言葉を聞いたプロジェクトマネージャーも、ようやく事態を把握したようだった。彼は紗雪に向き直り、まずは祝福の言葉をかけた。「さすが二川さんだ。君の企画は、まるで違っていた」「ありがとうございます、私はただ、自分の正しさを証明しただけです」紗雪は淡々と答えた。「そもそも、これが本来の新企画案でしたから」「それで、こいつをどうするつもりですか?」紗雪の言葉に、皆の視線が再び林檎へ向けられる。その瞬間、林檎は逃げ出したいほどの羞恥に襲われた。紗雪にバックアップがないと踏んでいたからこそ、あんなにも強気に出られたのに……だが今や、事態は完全に彼
振り払った後、紗雪は優雅な仕草でウェットティッシュを取り出し、一本一本、長い指を拭った。その動作が、林檎の怒りにさらに火をつける。気を取り直した彼女は、紗雪に詰め寄り怒鳴った。「二川紗雪!このクソ女!よくもそんなことを!絶対に許さない!」怒りで頭がいっぱいになり、自分が先に他人のアイデアを盗んだことなど、すっかり忘れていた。しかし、その時だった。プロジェクトマネージャーが林檎の腕を引き、落ち着いた口調で言った。「まあまあ、浅井君。ここは職場だぞ。そんなに騒ぎ立てるな」「二川さんにもそれなりの理由があるのかもしれない」この一言で、場の空気が変わった。紗雪は静かに口を開く。「もちろん、理由はあるわ」「浅井さんのこの企画案、もともと盗作なのよ」「嘘つけ!」林檎はまるで最後の砦を奪われたかのように叫び、声のボリュームも一段と大きくなる。「何を言ってるのよ!あんたとマネージャーこそグルになってるんじゃないの!?どうせ後ろ暗い関係でもあるんでしょ!」「ふん、それはどうかしら」紗雪はゆっくりと言葉を継ぐ。「そう言えば、浅井さんと前田さんの関係って、どういうものだったの?」「……何の話よ?」その瞬間、林檎の足元から冷たい感覚が這い上がってくる。紗雪がどうしてその名前を知っているのか、まったく見当がつかない。彼女の目は泳ぎ、紗雪と目を合わせようとしない。その様子を見て、周囲の人々もすべてを察した。今まで紗雪とマネージャーが怪しいと思っていたが、どうやら立場が逆だったらしい。紗雪は紅い唇をゆるく持ち上げ、にやりと笑う。「浅井さん、人に知られたくないことがあるなら、最初からやらないことね」「それとこの企画案も、わざわざ私に全部暴かれたいの?」その場にいた者たちは全員、察しのいい人間ばかりだ。この一言で、何が起こっているのかすぐに理解した。円が思わず声を上げる。「ってことは……紗雪の言う通り、浅井は盗作したってこと?」「でたらめ言わないで!」林檎は紗雪を睨みつける。「証拠でもあるって言うの?」そう言い切れるのは、紗雪が証拠を持っていないと確信しているからだ。だが、紗雪はそんな林檎の心中を見透かしたように、ふっと笑う。「私がこのまま黙っていると思
「この企画は浅井さんにふさわしくないからだよ」紗雪はゆっくりと立ち上がった。精緻な顔立ちは冷淡に彩られ、表情には微塵の動揺もない。まるでサーカスの道化を眺めるかのように、彼女は林檎が舞台の上で滑稽な振る舞いをする様子を見つめていた。林檎は拳を握り締め、怒りをあらわにした。「どういう意味よ?」次の瞬間、彼女の表情は険しく歪んだ。「まさか、私の企画に嫉妬してるんじゃない?だからそんなこと言うんでしょ?この器の小さい女!」林檎は最初、紗雪が立ち上がったのを見て、一瞬だけ怯んだ。だがすぐに思い出した。紗雪のデータはすでに自分が転送済みで、しかも自分が先に発表してしまったのだ。紗雪がどれだけ怒ろうと、先に出した者勝ち。もはや、彼女にはどうしようもない。プロジェクトマネージャーも紗雪の毅然とした表情を見て、目を細めた。心の中で何かを考え込んでいる様子だった。「二川さん、つまり……?」「マネージャー!」林檎は鋭い声で彼の言葉を遮った。「二川さんは今、同僚を誹謗中傷していますよ?彼女の言い分をまともに聞く必要がある?……まさか、マネージャーと二川さん、何かやましい関係でもあります?」この言葉が放たれた瞬間、会議室はざわめきに包まれた。人々の視線が一斉に紗雪とプロジェクトマネージャーに向けられる。元々保守的な性格のプロジェクトマネージャーは、この発言に顔を真っ赤にして憤った。「でたらめを言うな!」「俺は二川さんとは何の関係もない、ただの仕事仲間だ!」だが、彼の激しい反応は、周囲の人間にかえって「動揺している」と受け取られた。人々の目には、一層含みのある色が浮かび、紗雪とマネージャーの関係に疑問を抱く者も出てくる。円は焦って釈明しようとしたが、それを紗雪が制した。彼女は冷笑を漏らし、悠然と歩みを進める。堂々とした姿勢で林檎の前に立つと、彼女の視線を鋭く捉えた。洗練されたタイトなビジネススーツを纏い、凛とした雰囲気を纏う紗雪。対する林檎は派手な服装をしており、その過剰な華やかさが逆に安っぽさを際立たせていた。単体で見ればそれなりに綺麗かもしれないが、紗雪と並ぶと、その格の違いがはっきりと分かる。比べるまでもなく、そもそも土俵が違うのだ。林檎は威圧され、無意識に後ずさる。
紗雪は何も言わず、右手で顎を支えながら、気だるそうに林檎を眺めていた。時折、気まぐれに視線を上げるその仕草は、まるで気品あふれるペルシャ猫のようだった。林檎は紗雪の表情を観察し、その余裕たっぷりな態度に思わず拳を握りしめる。いいわ。今のうちに勝ち誇っていればいい。でも、もうすぐあんたは何も言えなくなる。この企画がなかったら、マネージャーの前で一体どんな顔をするのか、楽しみだわ。林檎は堂々とステージに上がると、少し顎を上げ、自信満々に胸を張る。まるで戦いに挑む雄鶏のようだった。それを見た紗雪は、ただただおかしくて仕方がなかった。林檎がUSBメモリをパソコンに接続し、企画の内容がスクリーンに映し出される。紗雪の瞳がかすかに光を帯びる。やっぱりね。彼女の企画を盗んだのは、浅井林檎だった。だが、紗雪は特に動揺することもなく、ただ眉をわずかに上げ、口元にうっすらと笑みを浮かべるだけだった。まるで林檎の挑発的な視線など、初めから見えていないかのように。林檎は内心で歯ぎしりする。ふん、そんな余裕ぶっていられるのも今のうちよ。彼女は咳払いをし、堂々と話し始めた。「この企画は、ここ数日間、私が考え抜いて作り上げたものです。椎名の高級温泉リゾートは、某ラグジュアリーブランドとのコラボを検討するべきだと考えました。それに加えて、有名なアンバサダーを起用し、リアリティ番組を制作することで、リゾートの魅力を最大限にアピールできます」そう言って、林檎は次のページへとスライドを進める。プロジェクトの具体的な戦略が詳細に説明されると、会議室全体が静まり返った。全員が息を呑み、画面を食い入るように見つめる。まるで現実感がないほどの内容だった。プロジェクトマネージャーですら、思わず口を開く。「こ、これは……浅井君、本当に君が作った企画なのか?」林檎は不満げに眉をひそめる。「マネージャー、それはどういう意味ですか?」「このプレゼンは私が準備したんです。他に誰がいるって言うんですか?」プロジェクトマネージャーは、林檎の自信満々な表情を見つめながら、どこか違和感を覚えていた。この企画、どこかで見たことがあるような……だが、はっきりと思い出せない。何より、今この場で林檎が企画を発表している以