京弥は紗雪を助手席に優しく座らせると、自分も運転席に乗り込んだ。彼の視線は紗雪に向けられていた。その眼差しは柔らかく、しかしその奥には、深い痛みが滲んでいた。二人の距離は近すぎた。この男は、まるで妖のように整った顔立ちをしている。紗雪は、ほんのりと頬を染めた。「な、なんでそんなに近づくの!離れてよ」だが、京弥は聞き入れず、さらに身を寄せてきた。彼の体は、ほとんど紗雪の上に覆いかぶさるようになっていた。「ごめん、さっちゃん......君にこんな思いをさせて」彼の声には、深い後悔が滲んでいた。今回、紗雪を傷つけたのは、間違いなく自分の不注意のせいだ。彼が部屋に踏み込んだ瞬間、数人の男たちに囲まれ、血の滲んだ唇をしている紗雪を目にしたとき、その場で奴らを全員地獄へ送ってやりたかった。彼のさっちゃんは、どんな気持ちで彼の到着を待っていたのだろうか。なぜもっと早く来られなかったのか。もし、あと少しでも早ければ、紗雪はあの一撃を受けずに済んだのではないか?「私はもう平気よ?だから、そんなに自分を責めないで」紗雪はそう言って、小さな手を伸ばし、京弥の頭をぽんぽんと撫でた。京弥は驚いたように顔を上げ、紗雪と視線を交わす。彼女は、こんなにも優しい。紗雪自身はただ慰めようと思っただけだったが、こうして見つめ合うと、急に気恥ずかしくなってしまう。咳払いをして手を引っ込めようとした瞬間、京弥は彼女の手首を掴み、そのまま唇を重ねた。今回のキスは、いつもとは違っていた。彼の唇は優しく、じっくりと外側をなぞるだけで、すぐには深めようとしない。紗雪は、ゆっくりとその甘い感触に溶かされていく。思わず唇をわずかに開いた。京弥はこの一瞬を逃さず、深く入り込んできた。手首を解放し、代わりに彼女の腰をしっかりと抱き寄せる。紗雪の鼓動は、不安から安心へと変わっていった。二人の心が、ゆっくりと、しかし確実に近づいていく......家に帰ると、紗雪は京弥に抱えられたまま車から降ろされた。「ちょっと、歩けるってば......!」小さな声で抗議するが、「俺は、自分の妻を抱きしめるのが好きなんだ」京弥は満足げに微笑む。紗雪はふくれっ面になったが、特に何も言い返さなかった。歩かなくて済むなら、それも悪くない。京弥は紗雪をベッドにそっと降ろすと
紗雪は、それが自分がもがいたときに擦れてできた痕だと気づき、少し気まずそうに手を引いた。「大したことないわ、ただのかすり傷よ」そう言いながら、もう一度京弥を追い出そうとする。「いいから、出て行って。一人で大丈夫だから」京弥の目がわずかに暗くなった。こんな時まで、紗雪は本当のことを話そうとしない。なぜ、彼に心を開こうとしないのか?なぜ、ちゃんと彼に話してくれないのか?「これが、かすり傷?」紗雪はまだ京弥の低い声の中に滲む怒りに気づかず、気楽そうに言う。「そうよ、だから気にしなくていいわ。寝ればすぐに良くなるから」早くお風呂に入りたかった彼女は、再び京弥を追い払おうとしたが、ふと目を上げた瞬間、深い瞳と真正面からぶつかった。「......どうしたの?」紗雪はきょとんとした表情を浮かべる。京弥は静かに彼女を見つめ、落ち着いた口調で言った。「さっちゃん......これからは、無理をしないでほしい」彼の言葉には、優しさと哀しみが入り混じっていた。「俺がいる。だから、そんなに強がらなくてもいいんだ」紗雪は一瞬、呆然とした。こんな言葉を、誰かにかけてもらうのは初めてだった。幼い頃から、母親に厳しく育てられ、甘えたり頼ったりすることは許されなかった。愛情を求めることすら、許されなかった。だからこそ、彼女は独りで生きる強さを身につけた。ずっとそうやって生きてきたのに、こんな風に、誰かに「頼ってもいい」と言われたのは、生まれて初めてだった。紗雪はどう返せばいいのか分からなかった。「......わ、分かったわ。でも、先に出て行ってくれる?」彼女は視線をそらし、ぎこちなく答えた。浴室はもともと狭い空間だ。二人でいると、呼吸が詰まりそうになる。紗雪は、肺いっぱいに広がる京弥の香りに、なんとなく落ち着かなくなった。京弥は、彼女の体に残る汚れや傷を見て、胸が痛んだ。少しだけためらったが、最後は折れた。「......分かった。ゆっくり入ってくれ。何かあったら呼んで」そう言い残し、京弥は浴室を出た。彼がいなくなった途端、紗雪はようやく大きく息を吐いた。そのまま浴槽に身を沈め、天井をぼんやりと見上げる。今日一日、本当に疲れた。まさか、こんなことまで
京弥の細やかな気遣いを感じるたびに、心が揺れないわけがなかった。だが——紗雪の脳裏には、彼のメモ帳と「初恋」の存在が浮かぶ。途端に、理由もなく気分が沈んでいく。この感情がどこから来るのか、自分でも分からない。彼女は、かつて胸の奥にひっそりと秘めていた淡い恋心を思い出した。それは決して口にすることのない、誰にも知られない想いだった。京弥は視線を落とし、彼女の髪を静かに見つめる。まるで、貴重な宝物に触れるかのように、慎重で優しい手つきだった。契約額が何百億にも及ぶプロジェクトをまとめる彼の手が、今こうして紗雪の髪を乾かしている。匠が見たら、きっと「お天道様が西から昇りそうだ」と冗談を言うに違いない。ようやく髪が乾いた頃には、紗雪の心の整理もついていた。何があっても、今の京弥は彼女の「夫」だ。彼があまりにも分別を欠くようなことをしない限り、紗雪は彼と他の人の関係には干渉しない。だが、最低限の体面だけは守ってもらう必要がある。そう考えていた時、ふと疑問が湧いてきた。「そういえば......どうやって私を見つけたの?」あの男たちに囲まれ、身動きが取れなくなったとき、本当に、全てが終わるのではないかとさえ思った。だが、その瞬間、まるで神のように京弥が現れた。京弥は少し黙り込んだ後、昼間のことを思い出しながら口を開く。「会社の下で待っていたんだ。受付に聞いたら、紗雪はとっくに帰ったと言われた」「電話をかけても繋がらなかったから、嫌な予感がした」その瞬間のことを思い出し、京弥は無意識に拳を握りしめる。あの男たちを、決して許さない。紗雪は納得したように頷いた。「なるほどね」それなら、彼がどうやって見つけたのかも納得がいく。「......で?あの連中はどうするつもり?」彼女は京弥の顔をじっと見つめた。彼がどんな答えを出そうと、彼女の一言で全てが決まる。京弥が手を下せば、奴らは二度と外の世界に戻って来られないだろう。紗雪は少し考え、最終的に決断した。「警察に引き渡して、あとは法の裁きに任せましょう?」結局何もされなかったし、普通の手続きで進めればいい。ただし、刑務所で楽な暮らしができるとは思わないでほしい。自分は聖母マリアじゃなんだから。京弥は微
いい夢を見たような気がした。翌朝。紗雪が目を覚ますと、いつものように京弥が用意した朝食が待っていた。昨日の出来事があったせいか、紗雪は今では京弥と自然に向き合えるようになっていた。余計なことを考えることも、もうない。誰の心にも秘密や隠しておきたいことの一つや二つはある。それを深く追求したところで、何になるだろうか。皆、大人なのだから、それぞれのプライバシーは、尊重すべきものだ。「今日の目玉焼き、すごくきれいにできてるね」紗雪は、ごく自然にそう褒めた。京弥は一瞬驚いたようだったが、彼女の明るい笑顔を見ると、すぐに口元を緩ませる。「気に入ったなら、次もこの焼き加減で作るよ」「じゃあお願いしようかな」二人の関係は、以前よりもずっと穏やかで心地よいものになっていた。紗雪は食事を終えると、そのまま車で会社へ向かった。京弥は送るつもりだったが、彼女がすでに車のキーを手にしているのを見て、それ以上は何も言わなかった。紗雪は、籠の中で飼われる鳥ではない。彼女は自由を求める。自分の意志で羽ばたき、堂々と生きる人間だ。だからこそ、京弥は彼女を縛りたくなかった。手を差し伸べるよりも、彼女自身の力で経験し、成長する方がずっと意味があるのだから。紗雪が会社に着くと、受付を通りかかった際に軽く会釈をした。受付の女性たちは、その姿を見て好奇心を抑えきれない様子だった。彼女がエレベーターに乗り、姿が見えなくなると、「やっぱり二川さん、めちゃくちゃ綺麗だよね。あの人があんなに焦ってたのも納得......」「ほんと、それ。二人とも美男美女すぎて、もう完璧カップルって感じ!」「もうダメ......私、尊すぎて頭が爆発しそう......!」紗雪は、そんな彼女たちの盛り上がりを知る由もなく、デスクへ向かい、すぐに仕事に取り掛かった。椅子に腰を下ろして間もなく、円がこそこそと近寄ってきた。「紗雪、昨日のことはもう聞いた?」「何のこと?」パソコンの電源を入れながら、紗雪は怪しげな円に目を向ける。「あの浅井のことよ!」円は憤った様子で声を潜める。「やっぱり悪事を働くと天罰が下るんだね」「彼女がどうかしたの?」紗雪は、少し驚いたふりをしながら尋ねた。自分が知っていること
紗雪は目の前のパソコンを見つめながら、ひとつひとつの企画やアイデアを頭の中で整理していった。そんな中、紗雪が進めている企画と林檎に関する件は、緒莉と二川母・美月の耳にも入っていた。同時刻、二川家。この日、美月は会社に行かず、緒莉と家で過ごしていた。前回、辰琉の件で緒莉は怒って家を飛び出した。そのため、こうして美月と二人きりになるのは、どこか気まずさが残る。緒莉は、目の前で優雅にコーヒーを飲みながら本を読んでいる美月の顔をじっと見つめた。手入れが行き届いており、年齢を感じさせないその顔には、何の感情も浮かんでいない。彼女は拳をそっと握りしめた。前回の件については、すでに辰琉が美月に説明している。しかし、そのとき美月は表向きには何も言わなかったものの、緒莉にはわかっていた。たとえ彼女が辰琉を許したとしても、美月が納得するにはまだ時間がかかるだろう。なにせ紗雪の手元には録音があるのだ。それを考えると、美月の立場としても簡単には流せないはずだった。「お母さん、聞いたんだけど、紗雪が会社で誰かをクビにしたらしいわ。浅井林檎っていう人」緒莉がそう言うと、美月はコーヒーを飲む手を一瞬止め、彼女に目を向けた。かけているメガネのチェーンが、わずかに揺れる。「そう......その話なら、少しだけ耳にしているわ」「ええ、それなら特に言うことはないけれど......」緒莉は何か言いたげに言葉を濁し、不安げな表情を浮かべた。その様子を見て、美月は少し興味を引かれる。「どうしたの?緒莉、気になることがあるなら遠慮せずに言いなさい」美月は、生粋の女実業家だ。これまでの人生で、ありとあらゆる人間を見てきた。緒莉のような人間など、珍しくもない。だが、彼女は娘を甘やかしてきた自覚があるため、あえて口を挟まず、ただ話を促した。すると、緒莉は少し躊躇った後、ため息混じりに口を開く。「ただ、ちょっと気になったの。紗雪が会社でああいうことをするのって、少し目立ちすぎじゃないかしら」「何しろ、彼女は二川家の次女よ?そんなことをしたら、『二川家が権力を振りかざしている』なんて噂が立つかもしれないわ」彼女の言葉に、美月はすぐには同意しなかった。むしろ、静かに考え込むような表情を見せる。彼女は、
しかし、緒莉は幼い頃から体が弱かった。だからこそ、美月も緒莉にはより一層の気遣いを持って接してきた。加えて、緒莉という子は......そう思いながら、美月はそっと唇を引き結ぶ。そして緒莉に向かって静かに言った。「緒莉の気持ちはよくわかったわ。紗雪のことは、ちゃんと話しておく」「あなたが言ってることも一理あるわ。人を従わせるには、下の者たちの意見も重要。ただ強引に物事を進めるだけではいけない」緒莉は、ぱっと笑顔を浮かべる。「お母さんがちゃんとわかってくれて、本当によかった。私も、紗雪のことを思って言っただけだから」「緒莉はいい子ね」美月は緒莉の手の甲を軽く叩きながら、話題を変えた。「緒莉のこと、わかるつもりよ」「だけど、辰琉の件について、どうするつもりなの?」美月の心の中には、いまだにこの件に対するしこりが残っていた。何しろ、どちらも自分の娘なのだ。それなのに、一人の男をめぐってここまで揉めることになるとは、世間に知られたら、二川家の恥を晒すことになるだろう。緒莉はスカートの裾をきつく握りしめ、僅かに顔を曇らせた。「......お母さん。辰琉は前回、ちゃんと説明したはずよね?」やっぱり、母はまだこの件を気にしていたのだ。「彼は、ただお酒を飲みすぎて、紗雪のことを私と間違えただけ」美月が何か言いかけたが、それを遮るように緒莉が続ける。「それにお母さん。私たちはもう婚約しているのよ?いまさら何を言っても、意味がないわ」「二川家の体面こそが、一番大切なことじゃない?」その言葉を聞いた美月は、再び沈黙した。緒莉の顔には、決意の色が濃く浮かんでいる。彼女は、もう迷いもしないのだろう。結局、美月もそれ以上何も言わなかった。彼女が言うことにも、一理あった。現在の二川グループには、無数の目が注がれている。もしも何か悪い噂が立てば、それは即座に株価に影響を及ぼすことになる。美月はため息をつき、緒莉の手を優しく握った。「......わかったわ。辛い思いをさせて、ごめんなさい」緒莉は微笑んだ。「辛くなんてないよ、お母さん」「私は体が弱いから、お母さんの手伝いもできないし、ずっと申し訳ない気持ちでいた」「それに、辰琉は私が選んだ人よ。彼のことで辛い思
紗雪には、ずっと厳しく接してきた。だが、緒莉に対しては、むしろ心が痛むことの方が多かった。この子は、幼い頃から体が弱かったうえに、とても物分かりのいい子だった。何をするにしても、常に母である自分の立場を考えてくれる。だからこそ、紗雪と緒莉の間で、彼女は無意識のうちに緒莉の方を贔屓してしまっていた。彼女は口下手な人間だ。日々、会社のことで頭を悩ませるだけで精一杯で、他のことを考える余裕などなかった。そのせいで、子供たちの間で何が起こっているのか、時に気が回らなくなることもある。「緒莉。いつでもいいわ。何か辛いことがあったら、必ず私に言いなさい。お母さんは、いつだって緒莉の味方よ」緒莉は小さく頷き、穏やかに微笑む。「お母さん、ちゃんと分かってるよ。いつもありがとう」「いい子ね。もう行っていいわ」緒莉はようやく美月の腕の中から離れる。そして、母に別れを告げた後、自室へと戻った。部屋に入るなり、彼女は手元の水の入ったコップを払い落とす。床に砕け散ったガラスの破片、彼女の胸は、大きく上下に波打っていた。幸い、この部屋の防音はしっかりしている。これくらいの音では、階下の美月に気づかれることはない。それにしても、納得がいかない。母は、どうしても自分を二川グループに入れようとしない。紗雪が会社で活躍する姿を見るたびに、胸がざわつく。その輝かしい姿が、ひどく目障りだった。「紗雪。調子に乗らないで」深く息を吸い込み、スマホを手に取る。そして、素早くメッセージを打ち込んだ。少し待つと、相手から返信が届く。その内容を確認した緒莉の表情は、ようやく落ち着きを取り戻した。視線を落とせば、床にはまだ散乱したままのガラスの破片。不機嫌そうに眉を寄せると、すぐさま使用人を呼びつけた。使用人は、恐る恐る部屋に入るなり、ガラスの破片を片付け始める。終始、緊張した様子だった。二川夫人は気づいていないかもしれないが、この屋敷で長年働いている彼女には、よく分かっていた。このお嬢様の機嫌は、まるで天気のように変わりやすい。機嫌が悪い時には、こうして物を投げつけることも少なくない。それは、彼女にとって日常的なことだった。聞いた話では、以前、若い使用人たちの中には、
前回の対面以来、次女と一度も会っていない。それが、加津也を焦らせた。部下たちに二川家の次女の行方を探らせても、まったく情報が入ってこない。「使えない連中ばっかりだな」苛立ちを隠せず、思わず悪態をつく。部屋の中を行ったり来たりしながら、最近起こったことを整理する。その中で、紗雪の存在が、やけに引っかかった。付き合っていた頃の紗雪は、あれほど従順に振る舞っていたのに、別れた途端、本性を露わにし始めた。「紗雪、このクソ女が!」「いいだろう。お前がその気なら、俺も遠慮しない」「最後に笑うのがどっちか、見せてやるよ」スマホを強く握りしめたせいで、手の甲に青筋が浮かぶ。加津也の脳裏には、一つの策がよぎった。椎名と親しい、とある人物、そいつは、会社の中でもそれなりの地位にいる。彼を利用すれば、紗雪に痛い目を見せることができる。「このプロジェクトだけは、絶対に渡さない」すぐさま、その人物に電話をかけた。内容は単純、紗雪が提出した投票書を、白紙とすり替えろというものだった。電話の向こうの相手は、一瞬ためらった。「......いや、それはさすがにまずくないか?」「温泉開発のプロジェクトは、うちの社長がかなり重視してる案件なんだぞ」「こんなことしてバレたら、俺の首が飛ぶよ......」だが、加津也は、冷静な声で言い放つ。「心配するな。あいつはただの貧乏学生だ。二川グループに実習生として入ってるだけで、大したコネもない」「仮に騒がれても、会社のトップ層まで届くことはない」その言葉を聞いた相手は、ようやく安心したようだ。「なら、まあ、やってやるよ」その一言を聞いた瞬間、加津也の目に宿っていた険しい光が、ほんの少しだけ和らいだ。これでいい。紗雪、お前に勝ち目はない。......一方、二川グループ。紗雪は、椎名グループの過去のプロジェクトデータを研究していた。彼らが求めるスタイルをより深く理解するために。時間をかけて分析するうちに、確かな手応えを感じ始める。円は、そんな彼女の様子を一日中そっと見守っていた。あまりにも真剣に取り組んでいたので、邪魔するのをためらっていたのだ。日が傾き、退勤時間が近づく頃、紗雪はゆっくりと背伸びをした。その小
「ご次女様」という言葉を耳にした瞬間、加津也は呆然と立ち尽くした。まるで思考が止まったかのように、しばらく反応できない。目を見開き、口を半開きにしたまま、ひどく間抜けな顔で叫ぶ。「お前が......二川家の次女?」紗雪は眉を軽く上げ、当然のように頷いた。「それがどうした?そんなに驚くこと?」こうしてみると、なんとも滑稽な話だ。三年間も付き合っていながら、目の前の相手が誰なのかすら知らなかったなんて。パーティー会場のマネージャーも、怪訝な顔で加津也を見た。そこまで驚くこと?彼のあまりに大げさな反応が、周囲の注目を集める。小さな騒動の中心が、ここにできあがった。加津也の頭の中には、過去の記憶が一気に駆け巡る。三年間、彼女はいつも地味な服装だった。住んでいた部屋も質素な賃貸で、あまりにみすぼらしく見えたため、見かねた自分が「一緒に住め」と言ったのだ。そんな女が、噂の二川家の次女だと?ありえない。ようやく状況を理解した途端、彼の表情は驚愕から嫌悪へと変わった。「苗字が二川だからって、適当なエキストラを雇って俺を騙せるとでも思ったのか?」「バカバカしい。三年間も一緒にいた俺が、お前の正体を知らないとでも?」紗雪は呆れ顔で、肩をすくめる。「三年間も一緒にいたからこそ、西山さんがどれだけ見る目がないかよく分かったよ」「クソ女が......!二川家の次女を騙るとは、よっぽどの命知らずだな?」加津也は正義を振りかざすような口調で言い放った。「お前みたいなパトロン頼みの女が、あの品のある次女に敵うと思うなよ」紗雪とマネージャーは、一瞬視線を交わした。どちらの目にも、「こいつ、何を言ってるんだ?」という疑問が浮かんでいる。「目が悪いなら病院に行けば?西山さんみたいのを付き合う暇はないの」彼女が立ち去ろうとすると、加津也はますます得意げな顔をした。「おやおや、俺が二川家の次女を知ってると分かって怖気づいたか?」「当然だよな。彼女は俺に好意を持ってるし、俺が二川グループで働くお前なんか、たった一言でクビにできるんだからな」彼は顎を少し持ち上げ、傲慢に言い放つ。「紗雪、今すぐ真剣に謝るなら、許してやってもいいぜ?」「......頭おかしいのか?」紗雪は
この言葉が発せられるや否や、周囲はざわめきに包まれた。「本当に?」疑う者もいる。「いやいや、椎名グループの社長がこんなパーティーに出席するわけがないだろ?普段から彼の素顔を見たことがある人すらほとんどいないんだぞ」「俺も噂で聞いただけだ。真偽のほどは分からない」「だが、もし本当に彼が来るなら、二川グループの地位は一気に跳ね上がるぞ」皆、一様に頷いた。誰もが知っている。あの男が鳴り城で振るう手腕を。椎名グループの名は、この街では絶対的な権力の象徴なのだ。二階。緒莉はその光景を見下ろし、表情が歪む。美しい顔に、嫉妬と怒りが滲み出ていた。彼女には分かっていた。このパーティーが何のために開かれたのか。だが、なぜ?同じ二川家の娘であるはずなのに、なぜ母はあの女ばかりを贔屓するのか?緒莉の胸の中で、不満が溢れ出しそうになる。そのとき、ふと視線の先に並ぶ扉が目に入った。「更衣室」と書かれたプレートを見つけると、彼女の目が細められる。いいことを思いついた。「紗雪、主役の座がそんなに好きなら、鳴り城中の人間にしっかり覚えてもらうといいわ」そう呟くと、緒莉は更衣室へ向かい、静かに扉を押し開けた。......紗雪はメイクを終え、着替えるために更衣室へ向かった。そこに用意されていたのは、淡いブルーのビスチェ風マーメイドドレス。その裾には、なんと繊細なダイヤモンドが散りばめられていた。紗雪の瞳が、一瞬だけ驚きに染まる。母の本気度が分かる。このドレスからも、どれほど今回のパーティーに力を入れているかが伝わってきた。相当な大金をかけたことは間違いない。紗雪はドレスを身に纏い、無言で背中のファスナーを引き上げる。そして、静かに更衣室の扉を開けた。ゆるく巻いた髪を無造作に後ろへ流し、その姿は洗練された優雅さとダボダボ感を兼ね備えていた。ビスチェデザインのドレスは、彼女の美しい鎖骨を際立たせ、一つ一つの仕草が、どこか艶やかで魅惑的だった。その頃、パーティー会場に現れた加津也は、期待に胸を躍らせていた。彼は今日のために、わざわざヘアスタイルまで整え、念入りに準備をしてきたのだ。二川家の次女は来るのだろうか?そんなことを考えながら、彼はワイングラスを手に、会場
紗雪は終始微笑を湛えながら、その場に立っていた。今回ばかりは、ようやく肩の力を抜くことができる。美月の試練を乗り越えた。だが、これからが真の挑戦だ。社員たちの興奮がようやく落ち着くと、美月は柔らかな笑みを浮かべながら紗雪を見つめた。「紗雪、ちょっと私のオフィスに来なさい」紗雪は少し驚いたが、ただ「はい」とだけ返事をし、美月の後についていく。「会長は絶対、二川さんに何かご褒美をあげるつもりね」「昇進じゃないかな?」「それ、あり得るな。二川さんの実力は、誰の目にも明らかだし」「そうそう。このプロジェクトを取れたのも、二川さんが大活躍したもんな」部署の皆は、それぞれ思い思いに話しながらも、誰も疑いや妬みを抱くことはなかった。全員が心から紗雪の成功を祝福していた。紗雪は美月とともにオフィスへと入り、心の中で、これは「賭けの清算」の時間だと悟る。だが、あの一件以来、彼女の心には、どうしても拭えない棘が残っていた。「会長、私に何かご用ですか?」紗雪はドアを閉めると、表情を崩さずに美月を見つめる。美月はゆっくりと振り返り、目の奥に満足の色を滲ませた。「今回は、本当によくやったわ。椎名グループのプロジェクトを手に入れたことで、二川グループはさらに大きく成長できる」「次のプロジェクト進行も、気を抜かないようにね」「そのつもりです」紗雪の冷静な返答に、美月の満足感はさらに深まる。まさか本当にこのプロジェクトを勝ち取るとは。彼女には、若き日の自分の姿が重なって見えた。「このプロジェクトの成功を機に、商業パーティーを開こうと思っているの」「うちがこの案件を手にしたことを、取引先にしっかり伝えるためよ」紗雪が口を開こうとした瞬間、美月が続けて言葉を紡ぐ。「紗雪が何を考えているのか、分かっているわ。二川グループに入りたいのでしょう?」「賭けは賭けです。私はただ、母に約束を守ってほしいだけです」その言葉に、美月は思わずクスッと笑う。「本当に昔の私によく似てるわ」そして、美月の表情が少し引き締まる。「安心して、紗雪。このパーティーで、もう一つ発表することがあるの」「『二川家の次女』としての正式な身分を、公表するつもりよ」紗雪は少し驚いた。まさか、母がこんなにもあっ
「ないなら、それが一番」紗雪はゆるりと眉を上げ、「なら、西山さんは大人しく座って、私のスピーチでも聞いていればいいわ」加津也は紗雪の得意げな顔を睨みつけながら、拳を静かに握り締めた。クソ女、覚えてろよ。紗雪は微塵も怯むことなく、その視線を真正面から受け止めた。そんな二人の間の空気を感じ取った初芽が、加津也の腕を引いた。彼は渋々ながらも席に戻るしかなかった。その様子に、紗雪の唇はわずかに弧を描く。せっかく自ら道化役を買って出るのなら、こっちも付き合ってあげようじゃない。彼女は優雅に踵を返し、責任者の元へと向かった。そして、しっかりと書類を受け取る。「おめでとうございます、二川さん。我々椎名グループも、二川グループとの良い協力関係を築けることを願っています」「もちろんです」紗雪は落ち着いた笑みを浮かべながら答えた。そして、視線をパーティー会場にいる人々へ向ける。そこには、悔しさを隠せない加津也の姿もあった。彼女は優雅に息を吐き、自然な流れで感謝の言葉を述べる。その姿は、気品と自信に満ち溢れていた。この瞬間だけは、加津也も認めざるを得なかった。紗雪は、美しかった。かつての清楚なイメージは、彼女の本来の魅力を抑え込んでいただけだったのだ。本来の彼女は、野心を持ち、堂々と自分を貫く存在なのだ。結果はすでに決まった。加津也がどれほど怒ろうとも、もうこのプロジェクトを覆すことはできない。彼は悔しさを噛み締めながらスマホを取り出し、上層部にメッセージを送った。しかし、「相手があなたをブロックしました」画面に表示されたその通知を見た瞬間、加津也の表情は凍りつく。「使えねえな。貧乏学生も始末できないとは、前田と同レベルの無能か」二階から会場の様子を見下ろしていた京弥は、その一部始終を静かに見届けていた。隣に立つ匠が、腕を組んでぼそりと呟く。「どうやら、投票書をすり替えた黒幕は西山加津也で間違いなさそうですね」「でも、以前西山加津也って二川さんと付き合ってましたよね?相手にこんな手を使うなんて、下劣すぎません?」匠は思わず眉をひそめる。もし今回の件を京弥が事前に察知していなければ、紗雪の投票書は闇に葬られ、プロジェクトが二川グループに渡ることもな
紗雪は疑念を抱きつつも、じっと耐えて結果を待っていた。一方で、加津也は初芽を連れて彼女の前に立ちはだかった。「まだ待ってるのか?俺からの忠告だが、さっさと帰ったほうがいいぞ。どうせ結果は見えてるからな」「......どういう意味?」紗雪は眉をひそめた。今日の加津也は、やけに妙だった。まるで、彼女がこのプロジェクトを絶対に取れないと確信しているかのような態度だ。しかし、このプロジェクトの決定権は加津也にはない。なのに、なぜそこまで自信満々なのか?初芽はその言葉を聞いて、すぐに察した。なるほど、そういうことか。彼は、何か裏で手を回しているに違いない。二人が潰し合うのなら、それは彼女にとっても好都合だった。紗雪のあの顔つきが、昔から気に入らなかったのだ。加津也は誇らしげに顎を上げた。「俺の言うことなんて気にしなくていいさ。だが、一つだけ確かなことがある――お前は、このプロジェクトを絶対に取れない」「まあ、せいぜい覚えておけよ。今日のことは、前の恨みと一緒に清算させてもらうからな」「あんた、何をした」紗雪の声には、珍しく焦りが混じっていた。先ほどの責任者の発言、そして目の前の加津也の自信。どう考えても、ただの偶然ではない。悪い予感が頭をよぎる。しかし、加津也はその問いには答えなかった。「俺を敵に回した時点で、こうなることくらい覚悟しておくべきだったんだよ」そう言い残し、初芽を伴ってその場を去る。その背中からは、余裕と勝ち誇った空気が滲み出ていた。紗雪の胸の奥に、不安がじわじわと広がる。彼女の投票書に不備はなかった。何度も確認し、完璧な状態で提出した。ならば、一体どこで問題が起きたというのか?彼女が思案に沈んでいると、責任者が戻ってきた。その顔には、明らかに安堵の色が浮かんでいる。マイクを通し、会場に響き渡る声で告げた。「皆さま、大変お待たせしました」その言葉を聞いた瞬間、全員の視線が一斉に彼の手元へと向けられた。彼の持つ紙には、結果が記されているのだろう。会場は水を打ったように静まり返る。空気が張り詰めていた。「お待たせしました。では、結果を発表いたします」責任者の明瞭な態度に、場内の誰もが好感を抱いた。すでに長く待
このプロジェクトのために、彼女は長い時間をかけて準備してきた。椎名グループのデザイン理念にも最も適した内容であり、完璧な計画だった。何度も確認したのは、万が一のミスすら許さないためだ。それを、加津也のような男が数言で揺さぶれるはずがない。紗雪は席に戻り、加津也が投票書を箱に入れるのを静かに見届けた。その後、彼が自分の席へ戻る姿も目に入る。しかし、彼の口元に浮かぶ、意味ありげな笑みが、どうにも気にかかる。紗雪はもう一度、プロジェクトの流れと自分の投票書を慎重に思い返した。どこにも問題はない。だからこそ、余計なことは考えず、ただ結果を待てばいい。加津也など、ただの道化にすぎない。気にするだけ時間の無駄だ。投票がすべて終わるまでには、十数分が経過した。責任者が壇上で口を開く。「では、これより投票箱を控え室へ運びます。幹部たちが集計し、最終的に社長が確認します」「結果発表まで、もうしばらくお待ちください」その言葉に、紗雪はそっと唇を引き結んだ。指先が無意識に強く握りしめられる。これまで準備してきたすべてが、今、試されるのだ。加津也は、そんな彼女の様子を観察していた。強張った表情、緊張した仕草。それを見て、笑い出しそうになる。どれだけ不安になろうと、結果は変わらない。このプロジェクトは、絶対にお前のものにはならない。あの男が、しっかりと動いてくれているはずだ。......一方、会議室では。「二川グループの投票書は?」京弥が、最終選考に残った十通の投票書を前に、冷静な声で問いかける。壇上で進行を務めていた責任者が、怯えたように答えた。「私にもさっぱり......これらはすべて、幹部から集めたものです。それ以外の詳細は把握しておりません......」京弥の切れ長の目が、冷たく鋭く光る。「調べろ」この状況は明らかにおかしい。さっちゃんがどれほどこのプロジェクトに尽力してきたか、自分が一番よく知っている。どう考えても、最後の選考に残らないはずがない。それに、二川グループの提案内容も熟知している。さっちゃんのデザイン理念は、並みのものではない。京弥がさらに口を開く前に、匠がすばやく動いた。「すぐに調査いたします」責任者は額の
紗雪に気づいた人々が、次々と彼女に声をかけてきた。彼女は微かに頷くだけだった。その頷きの角度すら計算されたように完璧だった。上流の人々の間を歩く姿には違和感がない。まるで、彼女がいる場所こそが自然と中心になってしまうようだった。経営者たちでさえ、彼女の振る舞いを称賛していた。会場の端で、その様子をじっと見つめる男がいた。加津也は拳をゆっくりと握りしめる。「......あの女、俺から離れた途端に、ずいぶんといい気になってるじゃないか」その装いを見れば、以前のような貧乏学生には到底見えない。こんな高級な服、一体どこで手に入れた?そばにいた初芽が、心配そうな顔で口を開く。「こんな服を着られるなんて、おかしいと思わない?もしかして、レンタルしたのかも」その言葉を聞いた瞬間、加津也の表情が和らいだ。初芽を満足げに見つめる。「確かに」そう考えれば納得がいく。初芽はさらに話を続ける。「こんな大事な場でレンタルのドレスを着てるなんて、バレたらどうなると思う?こんな人が、まともにプロジェクトを取れるのかしら?」加津也もそれは分かっていた。だが、今ここで紗雪に言いがかりをつけるつもりはなかった。本番は、もっと後だ。彼はスマホを取り出し、届いたメッセージを確認する。椎名グループの幹部から、「手はずは整った」との報告が来ていた。加津也の唇がゆっくりと吊り上がる。「紗雪、お前がどこまで余裕でいられるか、楽しみだ」今回の件が終われば、このプロジェクトは二度と手に入らないだろう。一方、紗雪はそんなこととはつゆ知らず、椎名グループの幹部たちと今回の案件について話し合っていた。彼女の意見は高く評価され、周囲の反応は上々だった。「二川さん、こんなに若いのに、視点と洞察力が本当に素晴らしいですね」「まったくだ。今の時代は、君たち若い世代のものだよ」紗雪は柔らかく微笑む。「光栄です。まだまだ勉強中ですので、ぜひご指導ください」その謙虚な姿勢がさらに好印象を与えた。若さに驕ることなく、しっかりと礼を尽くす。周囲の評価はますます上がっていった。その時、ステージに司会者が上がり、声を張った。「えー、皆様、お時間ですので。そろそろお席にお戻りください」会場にいた者たちは、
二川グループを出ると、紗雪は目を細めた。陽射しは暖かく降り注いでいるのに、心の奥底はひやりと冷え切っていた。証拠は揃っているというのに、それでも美月は信じようとしなかった。紗雪は挫折感を覚えた。自分の言葉が、母親にとってこれほどまでに信憑性のないものだったとは。ならば、一人で調べるしかない。どんなに隠されていようと、必ず真相を突き止めてみせる。千の言葉を並べるより、一つの確かな証拠を突きつけた方が、よほど説得力があると分かった。そう考え、私立探偵に連絡を取ろうとしたその時。美月から電話がかかってきた。一瞬、出るべきかどうか迷ったが、結局心が揺らぐ。もしかしたら、母親の気が変わったのかもしれない。指が受話ボタンに触れた。しかし、言葉を発する間もなく、美月の焦った声が耳に飛び込んできた。「紗雪、何をするつもりでも、今は一旦やめなさい」紗雪の目が冷え込み、完全に失望しきった表情になる。反論しようとしたその時。まるで彼女の考えを読んだかのように、美月が続けた。「私を責めてもいいわ。でもこれは由々しき事態なの」「椎名のプロジェクトの入札会が、予定より前倒しになった。さっき椎名グループが発表したばかりの情報よ。すぐにあなたに知らせなければと思って」紗雪はゆっくりと拳を握りしめ、深呼吸を数回繰り返す。わずかな時間で、気持ちを切り替えた。「分かりました。そちらを優先します」美月は小さく息をついた。「私たちは家族よ。今はプロジェクトがかかっているのだから、足並みを揃えて外部と戦わないと」「......ええ」紗雪はそれ以上何も言わず、一歩引いた。この件は、ひとまず棚上げするしかない。電話を切ると、彼女はもはや他のことを考える余裕もなかった。椎名プロジェクト。彼女にとって、それはまるで自分の子どものような存在だ。何があっても、この企画を台無しにするわけにはいかない。一瞬のうちに決断を下し、二川グループへ戻るべく足を踏み出した。入札会の準備へ。......一方、緒莉は、社内に配置していた手下から「紗雪が会長室を訪れた」との報告を受けた。彼女は持っていたスマホを「ガンッ!」と床に投げつける。バキッと無惨な音を立て、画面が粉々に砕け散った。緒莉は理解していた。
円はこんな紗雪を見るのが初めてで、少し怯えた様子で小さく頷いた。「うん......すごく慌ててる感じだったし、家の事情じゃないかな。そうじゃなかったら、あんなに急ぐ理由がないよ......」紗雪はそれを聞いても、ただ冷笑するだけで、円の言葉には答えなかった。柴田がなぜ退職したのか、彼女には分かりきっている。彼女と顔を合わせるのが気まずかっただけのこと。それに、彼女と緒莉の間に挟まれて、どちらにも都合のいい態度を取るのは難しかったのだろう。紗雪は考えをまとめると、二人の社長と交わした契約書を手に持ち、足早に会長室へ向かった。ドアをノックし、中から声が聞こえてから、扉を押して中へ入る。部屋に入ると、美月がチェーン付きの眼鏡をかけ、洗練された雰囲気を漂わせていた。紗雪は恭しく口を開いた。「会長」美月は顔を上げ、来たのが紗雪だと分かると、少し驚いたようだった。「珍しいわね。どうしたの?」会社に勤めてこれだけの時間が経っているのに、紗雪が彼女を訪ねてくることはほとんどなかった。この娘には厳しく接してきたが、それは彼女を早く成長させたかったからだ。温室で甘やかされた花にはしたくなかった。「会長、お話があります。この契約書を見てください」紗雪は契約書を美月に差し出した。美月はじっくりと目を通し、それが今の二川グループにとって重要なものだとすぐに理解した。さらに、通常よりも5%も安く契約を結んでいる。その瞬間、美月の表情には隠しきれない称賛の色が浮かんだ。「よくやったわね。今回の件は見事だったわ」叱るべきときは厳しくするが、褒めるべきときは惜しみなく称賛を与えるのが美月のやり方だった。だが、紗雪は冷静に口を開いた。「会長、実はお願いがあって来ました」その言葉に、美月の笑顔が少し引き締まる。紗雪の表情が真剣だったため、ただ事ではないと察した。この子は、いつも自分で問題を解決しようとする性格だった。たとえ何かあっても、他人に頼ることはほとんどない。そんな彼女が「お願い」を口にするのは、今回が初めてだった。「続けて」紗雪は昨日の出来事を包み隠さず、すべて話した。美月の顔色がみるみるうちに険しくなっていったが、思わず緒莉を庇うような言葉が口をついて出た。「そんなは