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第8話

作者: 香帰硯
彼の言葉に、私の心は微かにも揺れなかった。

愛が消え去ると、こんなにも冷徹になれるものなのね。

「あの日、何度も何度も電話したわ。全部切られたけど。

その時、月子とのキスに夢中だったものね」

川村月子が儚げな表情を浮かべながら、赤ワインを手に近寄ってきた。

「安奈さん、そんなに大事な用件だったなんて......

誠くんのこと、許してあげて?離婚したばかりなのに、もう次の人を見つけて。

誠くんの心にはまだあなたがいるの。これを受け取って。過去のことは水に流しましょ?」

周囲の視線を感じながら、私はゆっくりとグラスを受け取った。

そして、一瞬の躊躇いもなく、彼女の頭上から注ぎ込んだ。

赤ワインが月子の頭から滴り落ち、化粧が崩れ、惨めな姿へと変わっていった。

呆然としていた川村月子は、やがて泣き崩れながら鈴木誠の元へ駆け寄った。

「誠くん!あの女、こんなひどいことするなんて、許せないわ!」

でも川村月子がどれほど涙を流しても、鈴木誠は一瞥もくれなかった。

かつての慈しみも愛情も、跡形もなく消え去っていた。

充血した目で深いため息をつくと、鈴木誠は言った。

「安奈、本当に申し訳なかった。もう一度だけチャンスをくれないか。こ

れからはお前だけを見つめる。

もう一度、やり直させてくれ。

観覧車も、アイスランドのオーロラも、行きたいところ全て連れて行く。何でも......」

その言葉が終わる前に、佐藤凌が鈴木誠の顔面に渾身の一撃を叩き込んだ。

「安奈にしてきたことを忘れたのか。これからは俺が彼女を大切にする。

二度と近づくな」

鈴木誠は信じられない表情で佐藤凌を、そして私を見つめた。

首を横に振りながら、掠れた声で懇願を続けた。

「頼む、安奈。

プライドも何もかも捨てた。それでもダメなのか。

これからは必ず......」

私は両手で耳を覆った。もう彼の空虚な約束なんて、これ以上聞きたくなかった。

佐藤凌が私の手を取り、静かにホテルを後にした。

青空を見上げると、心が洗われていくような清々しさを感じた。

佐藤凌は私の目をまっすぐ見つめ、優しく言った。

「大丈夫だよ。俺がずっとそばにいる」

その後、川村月子は妊娠を終わらせた。

SNSで被害者面をして私への中傷を始め、私の会社を標的に執拗な攻撃を仕掛けてきた。

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    頭の中で何かが切れる音がした。  その瞬間、全てがはっきりと分かった。七年という歳月も、結局は川村月子の甘えた一言にも及ばなかったのだ。心が空っぽになって、体から魂が抜け出てしまったような感覚。疲れ切った体をベッドに投げ出すように横たわると、すぐに深い眠りに落ちた。目覚めた時には既に朝の光が差し込んでいた。予想通り、鈴木誠の気配はどこにもない。空腹を感じて、スマホで行きたかったレストランを探した。心が空っぽなら、せめて胃だけでも満たそう。レストランに入った瞬間、目に飛び込んできたのは誠と月子の姿だった。二人は肩を寄せ合い、まるで新しい恋を始めたばかりのカップルのように見えた。私を見つけた鈴木誠の表情が一瞬で曇った。「安奈、まさか俺のことを付けてきたのか?女としてそこまで落ちぶれるとは」私は疲れたように溜息をついた。こんな皮肉な巡り合わせもない。「違うわ。ただ食事に来ただけよ」このSNSで話題のカップル向けレストラン。このSNSで話題のカップル向けレストラン。何度か誠を誘ったことがあったけれど、その度に「そういう店は好きじゃない」と冷たく断られていた。今、鈴木誠は川村月子と向かい合って座り、ハート型に盛り付けられた特別コースを前に微笑んでいた。テーブルには、お揃いのカトラリーまで用意されている。「素敵なお店ですね」川村月子が笑顔で鈴木誠に甘えるように言った。「気に入ったの?また来ようね」鈴木誠も優しく微笑んだ。その光景が目に焼き付き、私の胸が痛んだ。そこへ店員が二人に近づいてきた。「カップルのお客様に限り、お二人で写真を撮っていただきますと、外の観覧車を無料でお楽しみいただけます」川村月子は目を輝かせながら言った。「まあ!誠くん、観覧車に乗りましょう!頂上でのハグ、素敵だと思いません?」鈴木誠は川村月子の髪を優しく撫でながら返事した。「うん、月子の言う通りにしよう」二人は観覧車をバックに寄り添って写真を撮った。その写真は店内の最も目立つ場所に飾られることになった。川村月子は私の姿を見つけると、得意げな表情で近づいてきた。「安奈さん、誤解しないでくださいね。誠くんは私の願いを叶えてくれただけですから。私たち、そういう関係ではないんです」

  • たかがキスごときで離婚するなんて大げさじゃないか   第2話

    鈴木誠との付き合いは七年。結婚生活も五年が経った。学生時代、私が鈴木誠に恋い焦がれていたことは、誰もが知っていた。必死に想いを伝え続けた甲斐があって、ついに結婚の夢を叶えることができた。結婚後、私たちは両親が所有する別荘に住み始めた。私は貯金を全て投じて鈴木誠の起業を後押しした。父の持つ人脈を総動員し、その会社は瞬く間に無名から年商数億円規模の企業へと成長を遂げた。わずか五年で、鈴木誠は「新進気鋭の実業家」として世間の注目を集めるようになった。結婚式の誓いの言葉が今でも耳に残っている。「安奈、この命ある限り、お前だけを愛し続けることを誓う」幸せに包まれていた私は、表舞台から静かに身を引き、経営権も全て夫に委ねた。しかし、富を手に入れた途端、鈴木誠は学生時代からの憧れだった川村月子を秘書として呼び寄せた。以前の私なら、きっと取り乱して大騒ぎしていただろう。そうすれば決まって、鈴木誠は高圧的な態度で「大げさすぎる」「疑り深い女だ」と私を責め立てたはずだ。だが今は違う。取引先との接待中に突然の出血で倒れ、救急搬送された私は、そこで初めて妊娠していたことを知り、そして同時に流産を告げられた。必死に夫に連絡を取ろうとしたが、かけた電話は全て拒否された。後になって分かったことだが、その時、夫は川村月子と熱い口づけを交わしていたのだ。その時、長年積み重ねてきた愛情も、信頼も、全てが砂のように崩れ落ちていった。怒号を浴びせる夫の顔を見つめながら、苦い笑みがこぼれた。外では激しい雨が降り注ぎ、轟く雷鳴が響く。まるで私の心の叫びを代弁するかのようだった。「鈴木誠、私たち、離婚しましょう。家も車も私の婚前財産よ。会社の株式は半分ずつ分けることで」鈴木誠は目を見開き、まるで私を見る目が変わったかのように睨みつけてきた。「バカなことを言うな。たかがキス一つで離婚だと?こんな心の狭い女性だったとは思わなかったぞ」反論しようとした私の言葉を遮るように、鈴木誠の携帯が鳴った。受話器から甘えた声が響いてきた。「誠くん......雷が怖くて......独りは寂しいの。そばにいてくれないかな?」「今から行くから。もう少しだけ待っていて」今まで一度も聞いたことのない、蜜のように甘い声だった。通話を切った

  • たかがキスごときで離婚するなんて大げさじゃないか   第1話

    お腹に手を当てた。流産してから、まだ鈍い痛みが残っている。ごめんね、赤ちゃん。あなたを守れなくて、ごめんね。体と心の痛みを抱えながら、もう一度川村月子の投稿した動画を開いた。画面の中の川村月子は頬を桜色に染め、艶やかな瞳で鈴木誠を見つめ、幸せに満ちた表情を浮かべていた。コメント欄はすでに盛り上がっていた。「私、現場にいたけど!誠さんと月子ちゃんのディープキス間違いなし!」「マジ最高!誠さんやばすぎ!あのキステクで落ちない女なんていないでしょ!月子ちゃんの顔見てよ、真っ赤になってる!」「やっぱり妻より外の女がいいでしょ......」一分後、二人は名残惜しそうに唇を離した。動画はそこで終わった。友達たちの茶化すようなコメントに、川村月子は選りすぐって返信していた。「もう、そんなこと言わないで!誠くんとは親友同士だよ!」「そんなこと言ったら、デブ姉が怒っちゃうよ!」彼女の言うデブ姉、それは私のこと。子供の頃、病気の治療でステロイドを使って60キロまで太ってしまった。今では45キロをキープしているのに。川村月子より細いくらいなのに。それなのに、彼女は特に鈴木誠の前では必ず私のことをデブ姉と呼ぶの。胸が押しつぶされそうで、息もできないほどだった。なるほど。鈴木誠が何年も連絡を取っていなかった同級生の結婚式で、億単位の商談を断ってまで付添人を引き受けた理由が、やっと分かった。最初は親友だからだと思い込んでいた。でも今なら分かる。鈴木誠の初恋の人、川村月子がブライズメイドだったから。結局、私が一番の馬鹿だったんだ。もう、この関係に区切りをつけるべきなんだ。夜になって、誠は酒臭い体で帰ってきた。白いワイシャツには、目障りな口紅の跡がいくつも付いていた。私の名前を何度か呼んだけど、ベッドで横になったまま動かなかった。鈴木誠は私の胸に顔を埋めて、甘えるように謝った。「ごめんね。月子とただゲームしてただけだよ。僕は付添人で、彼女はブライズメイドで。仕方なかったんだ」本当に仕方なかったの?キスしてる時の鈴木誠の目は、嬉しさと得意気な表情を隠せていなかったのに。私が黙っていると、鈴木誠はさらに胸元に擦り寄ってきた。「ねぇ、許してよ」昔なら、この様子を見ただけで怒りが消えていただろう

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