「由依には俺がいるだろ。俺がそばにいるから」 甘い言葉を紡いだ後、ジンがゆっくりと私の唇に自分のそれを重ねた。「絶対さみしくさせない」 ジンの唇はやわらかくて暖かくて、強弱のついた大人のキスに心も身体もとろけそうになる。 拒絶なんてしなかった。 なにもかもすべてを寛大に包み込むようなジンの行為に、私は心酔していた。「俺も寂しかったのかも。だから由依、俺のそばにいてくれ」 おでことおでこをくっ付けたまま、至近距離でジンが言う。 彼は明るい性格でカリスマがあるから、さみしい感情とは無縁の人だと思っていた。 ジンは芸能界という輝いた世界に身を置いていて、イケメンで女性からの人気が高い。それでも、ジンの中でさみしいと感じるなにかがあるのだろう。 翌々日の夕方、ショウさんがマンションに訪ねてきた。 甲さんが話していたジンの台湾のドラマ出演が正式に決まったらしく、その打ち合わせや挨拶などで共に台湾に戻らなければならないから彼を迎えにきたのだ。「さっき事務所で由依の脚本を見た」 唐突にショウさんにそう告げられ、まるで裸を見られたみたいに恥ずかしくなった。「ラブストーリーは書けるか? 長編じゃなくても構わないから」 だけど次に発せられたショウさんの言葉は、まったく予想外のものだった。「ぼんやりとした淡いストーリーじゃなく、はっきりと恋愛模様がわかるテイストで」 真剣な表情のショウさんに、私は「時間さえもらえれば」と答えた。 手直しではなく、話を作るところから始めるのだから、さすがにすぐに書き上げるのは無理だ。 ショウさんの真剣さと迫力に負け、思わず承諾してしまったが、私にラブストーリーなんか書かせてどうするのだろう。 そうは思うものの、趣味の一環として書くことにした。 ジンも台湾に行ってしまうからしばらくいないし、夜はひとりきりで時間があるから。 ジンは台湾へ旅立ったあと、暇さえあればメッセージを寄こしていた。 内容はたわいもないことばかりなのだが、私も律儀に返事をしていて、これではまるで恋人同士みたい。 だけど私とジンは、あの夜キスはしたけれど、互いに気持ちを確かめ合ってはいない。 そもそも知り合ってから日が浅いし、あのキスだけで『恋人』と定義づけるのは絶対に違う気がする。 私が作ったお雑煮を食べていたときの、彼の屈託のない笑
数年が経ち、ショウくんが日本の大学へ留学することを決めた。 ショウくんは大人になるにつれ、背格好も顔だちも人目を引くくらいのイケメンに成長していて、モデルをやらないかと街でスカウトされたらしい。 だけど自分は芸能人になるよりも育成のほうをやりたかったらしく、本格的に勉強を始めたそうだ。「ジン、俺みたいにモデルをやらないかと声をかけられても絶対に受けるなよ」「俺はないでしょ」「いや、絶対にあると言い切れる。だから忠告してるんだ。そんな話が来ても断れ」 日本に発つ前、ショウくんが俺に口酸っぱく言っていたけれど、そんなわけはない、どうせ冗談だろうと俺はこのとき流して聞いていた。「お前を育てるなら俺がやりたい。だから大人しくしといてくれ」 スカウトの人から声をかけられたら、とりあえず断ればいいのかと簡単に考えていた。 そうは言っても実際にそんなことは起こらず、俺はそのあとも普通に高校生活を送っていた。 ショウくんは大学を卒業すると台湾に戻って兵役に就いた。 俺は高校三年生になり、日本の大学に進学するために志望校を絞っている時期だったが、そんなときにクラスメートからとある誘いを受けたのだ。「俺さ、これに出ようと思ってるんだ。ジン、付き添いとして一緒に来てくれない?」 休み時間の教室で友人からペラリと見せられた紙は、なにかの応募用紙だった。「なにこれ。『十代限定・美男子コンテスト』?」 これにお前が出るのかと、微妙な顔で首をかしげると、友人は満面の笑みで首を縦に振った。「優勝するとハワイ旅行もらえるんだな」「おいおいジン、俺がまさか優勝するわけないだろ? 俺が狙ってんのはこっちだよ グランプリの優勝者には副賞としてハワイ旅行が贈られるらしい。 けれど友人の目当てはそれではないと言い、違うところをビシッと指さしたのだ。「入賞……カップ麺一年分?」 グランプリ(一名)、準グランプリ(二名)、入賞者(二名)にそれぞれ賞金や副賞が贈られる。 上位の三名にはほかにも豪華副賞が与えられるが、入賞者の二名にはカップ麺のみだ。「優勝は無理でもさ、五番に入ればいいわけだろ。たいして有名なコンテストじゃないんだからそれならいけそうだ」「そんなにカップ麺が欲しいのか」「だって一年分だぞ?」 俺は思わず声に出して笑い、付き添いなのだったらと一緒に
二十一年前、台湾人の父と日本人の母の間に、俺が生まれた。 悠菫(ヨウジン)という名は父親がつけたそうだが、母が『菫(すみれ)』の字を入れてほしいと父に頼んだらしい。 よく考えると、男の名前に花の漢字を入れたいだなんて不思議なのだが、母はすみれが好きだったのだろう。 住まいは台北市のはずれで、都会の喧騒から少し離れたところにある普通の一軒家に親子三人で暮らしていた。 すぐ近所に住んでいたのがショウくんの家族だ。 ショウくんには薫平(シュンピン)という四つ年下の弟がいて、男ふたりの兄弟だった。 ショウくんは俺よりも五つ年上で、薫平もひとつ年上だったから、物心つく前から俺にとってはふたりとも良き兄であり、年下でひとりっ子だった俺をいつもふたりが相手をしてくれた。 ショウくんは一番年上なだけあって、昔から賢くてしっかり者で面倒見がよかったけれど、薫平はショウくんと性格が真逆で、天真爛漫で明るくていつも元気いっぱいだった。 俺はというと、当時は引っ込み思案で何事にも物怖じする性格だったから、ふたりがそれぞれ正反対でも、俺にとってはどちらも尊敬できて敬愛する対象だった。「ジン、河川敷の原っぱででっかいカマキリを見つけたから一緒につかまえに行こ!」 そうやって家まで誘いに来てくれるのは決まって薫平で、俺は「うん」と元気よく返事をし、虫かごと網を持ってあわてて家を飛び出していた。 夏に虫取りをした記憶は、大人になった今でもまだ鮮明に残っている。 本当の三人兄弟のような仲の良い関係が永遠に続くと、このころの俺はそう思っていた。 しかし、人生は何が起こるかわからない。 まだ幼い俺の身に、突如不幸なことが起こった。 俺が七歳、薫平が八歳、ショウくんが十二歳の冬だ。―― 俺の両親が離婚した。『ジン、お父さんの言うことをよく聞いて、お利口にするのよ』 俺が聞いた母の最後の肉声がそれだった。 学校から帰ってきたあと、いつものように外に遊びに行こうとする俺を捕まえて母がそう言ったのを覚えている。
あらためて考えれば、遊びに行こうとする子供にわざわざ言う言葉ではない。 かなり不自然なのに、当時の俺は子供だから「うん」と返事をしたあと走って家の外へ飛び出した。 帰ってきたら母がいなくて、家の中をくまなく捜しても見当たらない。「母さん!……母さん!!」 何度も日本語で呼びかけたが反応がなかった。 すると、寝室にポツンと父が居て、肩を落としたまま座っていた。「母さんは日本に帰ってしまった」 父が非情にも幼い俺に真実を告げる。 このとき、離婚がなんたるものかを知らない俺は、何年か経ってようやく事の次第を理解したのだ。 母が台湾の生活に馴染めずに悩んでいたかどうかは、本人からなにも聞いていないからわからない。 当時はただ母がいなくなってしまい、さみしくて悲しくてたまらなかった。 母に会いたくて、毎日のようにメソメソと泣いていた。 元々活発ではなかった俺は、それを機にますます内向的になった。 台湾のテレビで、日本の国営放送やアニメはもちろんのこと、バラエティーや歌番組なども放送しているから、外で遊ばなくなった俺は家で日本のテレビばかり見ていた。 テレビから流れてくる日本語を自然な形で耳に入れ、脳内へ流す。 母と話していた言語だから、俺にとっては半分母国語なのでなんの違和感もなかった。 日本語に接していないと、今まで母と話した会話も、母自身のことですらも、いつか忘れてしまいそうで怖かったのだ。 無意識だが忘れたくない想いが俺の中で強かったのだろう。 必死に日本語を聞き、母と過ごした日々と母自身を記憶に残そうとしていた。「ジン、外でキャッチボールしよう!」 学校の通学以外で外に出なくなった俺を、どうにかして連れ出そうとしてくれたのは薫平だ。「……しない」「じゃあ、ミニカーで遊ぶのは? 俺が大事にしてる真っ赤なスポーツカー、ジンにやるからさ!」 年齢が一歳違いなのもあり、どんなもので遊べば俺が喜ぶかはショウくんよりも薫平のほうがよく知っていた。 薫平は持ち前の明るさや天真爛漫さを持ち合わせているから、今思えば「お前がジンの元気を取り戻してやれ」とショウくんが薫平に言っていたのだろう。
季節は過ぎて夏になり、俺たちはそれぞれひとつずつ大人になった。 夏休みになっても俺はほとんどを家で過ごす、外では遊ばない子どものままだった。 実の兄弟がいない俺は父が仕事に出かけると家でひとりぼっちになったけれど、意外にも寂しくはなかった。 もうこのころにはひとりで過ごす術を得とくしていたのかもしれない。「ジン、カマキリ捕まえに行こう!」「え……」「去年も行っただろ。今年はもっとでっかいやつ捕まえてやるから」 家に訪ねてきた薫平が、パックのオレンジジュースのストローをチューっと吸い上げながら俺を誘う。「今から行くの?」「おう!」「……めんどくさいよ」 やる気満々の薫平についていけず、俺はすかさず首を横に振った。「めんどくさいとか、子どもが言うな!」「てんとう虫もいるかな?」「いるんじゃないか? 一緒に行こ!」 カマキリよりもてんとう虫がいいと言ってはみたが、やはり外に行くのは気乗りしなかった。「俺はいい。薫平が捕まえてきたやつ見せてよ。明日でいいから」 力なく言う俺の言葉に、薫平はにっこり笑って大きくうなずいた。「よし。ジンのためにビックリするほどでっかいカマキリつかまえるからな! てんとう虫もついでに捕まえてきてやるよ」 楽しみにしてろよ、と薫平が明るく笑って帰っていく。 それが、俺が薫平を見た最後の姿だ。 河川敷の原っぱまでは距離的に遠いわけではないけれど、明日でいいよと言っておいたから、いくら薫平が張り切っていたとしても翌日に行くものだと思っていた。 だけどあとからショウくんに聞いた話だと、俺の家から戻ってきた薫平は虫かごと網を持ち、「ジンのために、カマキリとてんとう虫を捕まえに行く!」と言い残して、すぐにまた家を出たらしい。 夏の夕方には夕立がつきものだ。 そんなことは大人ならある程度予想もつくし、空の様子も気にするけれど、虫取りに夢中な子どもは実際に雨が降るまで気にしたりしない。 きっと薫平も夢中でカマキリを探していたに違いない。 もしくは俺が興味を示したてんとう虫を探していたのだろうか。 その日の夕方、集中豪雨のような強烈な雨が降り、近くを流れる小さな川はあっという間に増水して鉄砲水のようなことが起こったらしい。 運悪く薫平はそれに流されたのだ。
後日、薫平の葬式が執り行われても、俺はなにが起こったのかわからなかった。 なぜみんなが黒い服を着て泣いているのか、なぜ薫平がいないのか、なぜ祭壇に薫平の写真が掲げてあるのか、すべてが不思議な光景だった。「ねぇ、薫平はどこ?」 父に手を引かれて葬儀場に赴いた俺は、なにもわからないまま尋ねる。 すると父はぐっと苦しそうな表情を浮かべて、俺と視線を合わせるようにしゃがみこんだ。「薫平は、天国に行ったんだ」「天国? そこに行ったら会える?」「天国は遠いお空の上にあるんだ。生きている人間は行けないんだよ」 父はそう言って俺の頭をゆっくりと撫でた。「え……じゃあ、もう薫平には会えないの?」 虫取りをしたり、キャッチボールをしたり、ゲームをしたり、もう一緒に遊ぶことはできないのかと尋ねると、父は目を閉じて首を縦に振った。「話したり、一緒に過ごすことはもうできない。それが“死ぬ”ってことなんだ。わかるよな、ジン」「だからみんな……泣いてるんだね」 薫平の両親もショウくんも泣いていたけれど、特におばさんは壊れてしまうんじゃないかと思うくらい号泣していた。 薫平にもう会えないなんて…… そんなのは嫌だと思ったら、途端に俺の涙腺もブワっと緩んだ。「薫平は……あの子はまだ九歳だったのよ! たった九年しか生きていないのに、どうしてこんなことに!」 おばさんが棺に手をかけながら崩れるように座り込み、泣きながらそう叫んでいて、その背中をショウくんがやさしく摩っている。「母さん、俺が悪いんだ。俺が薫平を止めるか、一緒について行けばこんなことにはならなかった。だから恨むなら俺を恨んでくれ」「カマキリなんてどうでもいいじゃないの!」 ショウくんの声がまるで耳に入らないのか、おばさんは泣き崩れたままだ。 俺は家に帰ってもおばさんの言葉が頭から離れず、子ども心に自分のせいだと確信した。 俺があの時、てんとう虫もなどと言わなければよかったし、明日一緒に捕まえに行こうと薫平ときちんと約束していればよかったのだ。 俺が引きこもりのようになって、薫平を心配させたりしなければ…… ―― 全部、俺のせいだ。
それでもショウくんは以前とまったく変わらない態度で接してくれたし、しょんぼりとする俺に「お前のせいじゃない」と励ましてもくれた。 実の弟が亡くなったのだからショウくんのほうがよほどつらかっただろうに、この時十三歳のショウくんは俺と比べたら遥かに大人だった。「俺がショウくんの弟になるよ」 突然の不幸な事故からしばらく経ったころ、俺はショウくんにそう宣言した。 決して突発的に口走ったわけではなく、八歳の俺がきちんと考えてのことだった。「俺が薫平の代わりに、弟になるから!」「……ジン」「俺がちゃんと、おばさんのことも笑顔にする」 笑い飛ばされるかと思っていたけれど、ショウくんは黙って俺の話を聞き、しばらく考え込んでから「ありがとう」と言ってくれた。 泣くのをこらえているような、笑っているような、複雑な顔をしていたショウくんが今でも忘れられない。「ただ、俺とひとつ約束してほしい。これからは母さんの前で薫平の話はしないでくれ。薫平の名前も口には出さないでほしい」 おばさんは食欲がめっきりなくなり、それまでは健康的な体型だったのに今ではかなり痩せてしまった。 薫平の名前を聞いたら事故のことを思い出して食事が取れなくなってしまうかもしれないとショウくんは心配したようで、その忠告に俺は素直にうなずいた。 それからの俺は家に引きこもるのをやめ、人が変わったように学校でも友達と積極的に交友を深め、明るくするよう努めた。 いつも頭のどこかで『薫平ならこんなときどうするだろう?』と無意識に考えていた。 今の俺の明るい性格や笑うところは、すべて薫平が手本なのだ。 ショウくんも俺が薫平を模写していることに気づいていると思う。「ほら、テストで100点取ったよ!」 なにか良いことがあると、俺は真っ先にショウくんのおばさんのところに報告に行った。 なにもなくても、ただ遊びに行っておばさんの肩を揉んだりたわいもない話をしていた。「ジン、あなたは薫平じゃないわ」 三年経ったある日、突然おばさんが冗談ではなく真面目な顔をして俺にそう言った。 性格的に様変わりした俺が薫平になりきろうとしていたことに、おばさんも前々から気づいていたのだと思う。 だけど俺は突き放されたような気持ちになった。 もう必要ないから来なくていいと告げられたような気がした。 離婚して
兵役から戻ってきて芸能プロダクションで働いていたショウくんの耳にも、その情報はもちろんすぐに入った。「俺、大人しくしてろって言ったよな」 家にやってきたショウくんに迫力満点に説教をされた。「……ごめん。こうなると思ってなくて」「なんで自分からコンテストに出てるんだよ」「本当にごめん」 お前は全然わかっていないと、あらためて鬼の形相で怒られた。 ショウくんがよく言うのは、俺には人を惹きつけるような特別な光があるらしい。 だけど俺がそんなものを持っているだなんて、自分ではにわかに信じられなかった。 ショウくんは昔からそれに気づいていたから、自分がモデルをやるより俺を育てたいと思ったのだそうだ。 それからも様々な芸能プロダクションが専属契約をしたいと家にやって来たけれど、それにはもちろん応じなかった。 ショウくんが勤めるプロダクションと正式契約をして、そこから俺はポツポツと芸能の仕事をするようになり、現在に至っている。 顔が知られるようになった今では、台湾の街を自由に歩くのも困難で厄介な状態だ。 ショウくんが俺を芸能人にしたいと望むなら、それに従う。 どうせなら映画やドラマで主役をやれるくらいの、誰もが知る人気者になりたい。 そうなれば、天国の薫平も褒めてくれるだろうか。 日本に留学した俺は、普通に生活できることが楽しくて仕方がなかった。 仕事があるときだけ台湾に戻るスタイルならば、普段は日本で自由に羽が伸ばせる。 幸い日本語は達者だし、俺は日本で違和感なく暮らしていた。 由依と出会ったのは、そんな時だった。 なにか訳ありなのはすぐにわかったけれど、初めて会った日の由依は、相馬社長にも自分の姉にさえも気を遣いすぎているように感じた。 それを見ていると、昔の幼き日の自分と重なったのだ。 自分の父親にも、ショウくんのおじさんやおばさん、それとショウくんにも、全員に気を遣っていた俺と同じだった。 本当は余裕がなくて、胸の中は飽和状態で崩壊寸前なのにそれを吐き出すことができない。 表面上は笑うしかない彼女の痛みが、俺には手に取るようにわかった。 俺と彼女ではそうなるに至った背景は違うだろうけれど、“吐き出せない痛み”は同じだから、つらさは理解できる。 きっかけは同情心だったのかもしれないが、自分と同じ痛みを持つ由依にやさしく
「由依って占いっていうか、予知できる能力があったっけ?」 ツボにはまったようにクスクス笑うジンに、思わずプっと頬を膨らませた。「でもわかるの。この俳優さんはまだ若いけど、同世代のほかの人と比べたら演技力が全然違うし、将来はそれが評価されること間違いなしだよ」「そうか」「ジンもそうなれると思うんだけど」 隣にいるジンをそっと見上げた。 ジンがこのまま芸能の仕事を続けるのなら、きっとそうなれる。 息をのむような演技に誰もが見惚れる、そんな俳優になるだろう。「そうなって欲しいなって……思ってるんだけど……」「俺の話はいいって。ショウくんもドラマの話ばっかりしてくるし、うんざりだ」 デートの時にまでそんな話はしたくないと言わんばかりにジンが顔をしかめた。 最後のデートなのだから楽しく過ごしたいと思っていたのに、私はまたジンをこんな顔にしてしまうのだから本当にダメだな。「社長の不動産会社の話、由依も聞いたんだろ」「……うん」「資金調達は社長がなんとかするらしいし、俺もモデルの仕事を増やして協力すれば大丈夫だって」 ジンがあまりにも楽観的にそう言うから、本当にこのままなんとかならないかと心が揺らぎそうになる。「写真集を出す話もあって、その撮影であちこち海外に行くことになるかもしれないけど……」 ジンが色気をたっぷりと乗せて、私をまっすぐ見つめた。「俺、ちゃんと由依のところに戻ってくるから」 ぶわっと一瞬で目に涙が溜まっていく。 私は照れを装い、視線を外しながら笑ってその涙をごまかした。 そんなことを言われたら、離れられずにその胸にすがりつきたくなってしまう。 この日、私たちは映画を見たあとに食事をして会話を楽しんだ。 駅の改札で彼が私の額に素早くキスを落とし、繋いでいた手を放して彼の後ろ姿を見送ったら、すぐに涙があふれてきた。 こうすると決めたのは私なのだから、泣く資格なんてないのに。『ごめんなさい』と彼の後ろ姿に向けて、何度も謝りの言葉を心の中で唱える。 それと同時に、もっと愛情表現をすればよかったと後悔の念も押し寄せた。 愛していると、彼にもっと伝えればよかった、と。 このあと私は相馬さんのマンションを出て ――― 姿を消した。
「由依が観たい映画って、これか」 ジンが映画館のパネルポスターを見ながらポツリとつぶやいた。 私はその姿を目に焼き付けるように、隣に佇むジンを眺めていた。 今日のジンはなぜか黒ぶちめがねをかけている。 目は悪くなかったはずだから、おそらく伊達めがねだろう。 普通の大学生を装う意図があるのか、特に意味はないのかわからないけれど。「恋愛映画だな。由依と見るならなんでもいい」「なんだか楽しそうね」 以前と少し変わったことと言えば、今日のジンは表情が柔らかくて機嫌が良さそうな感じがした。「由依と会ってデートするのは久しぶりだから」「……あ」「どうした?」「ううん。何でもない」 私はふるふると頭を振り、照れくささから視線を外した。 思わず言葉が出たのは、ジンが左側にエクボを作り、パッと花が咲いたように笑ったからだった。 それは私が心待ちにしていた大好きな笑顔で、久しく見ていなかった光り輝く彼の顔を最後に目に焼き付けることができたのだから、これだけでもう十分だ。 少しずつでも、私の前でなくてもいいから、彼が笑えるようになってくれたならそれでいい。「何でこの映画なんだ? もっとほかにも面白そうな作品があったのに」「だってこの俳優さん……素敵」 ポスターに写っている俳優をじっと見つめながら言うと、隣から小さく舌打ちするような音が聞こえた。「由依はこういう顔がタイプなのか? たしかにイケメンだけど、どこにでもいる若い俳優だろ」 私はポスターに視線を注いだまま、ゆっくりと首を横に振る。 私が素敵だと感じたのは恋愛映画に向いていそうな綺麗な顔だからではなく、その俳優はとても演技が上手なのだ。 逆に甘いマスクが邪魔をして、それに気づかれにくいのではないかと思うくらいに。「顔じゃなくて演技がタイプなの。この人はきっとすごい俳優さんになる。今はまだ売れてる途中かな。将来はヒーローからヒールまでカメレオンみたいに変化してなんでも演じられる俳優さんになるよ。断言する!」 きっぱりと私がそう言い切ったので、ジンは驚いて目を丸くしていた。
私はマンションに帰ってさっそく荷造りを始めた。 来たときと同じようにボストンバッグひとつで出ていくわけにはいかない。 年始に姉が送ってきた八つのダンボールに再び荷物を詰め直す作業があるからだ。 幸いジンはしばらくここには来ないはずだから、彼に知られずに荷造りはできる。 実家に帰るのだと嘘をつきたくはないし、引っ越し先の新しい住所を教えてしまえばジンが訪ねてくるのは目に見えている。 それを避けるために『消える』道を選んだ私は卑怯者だ。 それにこのマンションにはジンとの思い出がたくさん残っているから、別れるのなら私も早くここを出たい。 そう思うくらいつらいと自覚したら、自然と涙が出た。 別れるという私の決断は間違っているだろうか。 ……いや、きっとこれが正解だ。 相馬さんも、姉も、母も、ショウさんも、みんなが幸せになれる。 ジンは私がいなくなれば少しは寂しがるかもしれないけれど、それはしばらくの間だけだろう。 たぶん私よりも彼のほうがダメージは少ないはず。 ―――私のほうが、ジンを愛してる。 だけど私と一緒にいることで彼が輝けないのは嫌だし、笑顔になれないのも嫌だ。 彼が身を置くべき場所は芸能界で、私のためだけに自分の住む世界を変えてほしくはない。 私のことは忘れてくれていい。 華やかな世界でキラキラと輝き、毎日を忙しく過ごしていれば私の記憶など薄れるはずだ。 彼には自分の道を行ってもらいたい。 私は不幸を呼ぶ女なのかもしれない。 だからといって、周りの人たちまで巻き込みたくはない。 それから五日が過ぎ、甲さんが新しい住処となるマンションを見つけたと連絡をくれた。 今のバイトは辞めて新しく探しなおすつもりだったから場所はどこでも良かったし、私はすぐにそのマンションを契約した。『会えないか?』 最後に一目、ジンの顔を見たい。 そう思っていたタイミングでジンから連絡が来た。 どうやら今は日本に帰ってきているらしい。『ジンと一緒に見たい映画があるの』 私は自分から誘うようなメッセージをジンに送り、映画デートをすることにした。 今日もじめじめと雨が降って蒸し暑い中、映画館に赴くとジンが待ち合わせ場所に先に来ていた。
「わかった。それは俺が責任を持って対処すると約束する。……君のお姉さんとお母さんを人質に取ったような言い方をしてすまないと思ってる。だけど俺にとってはジンしかいないんだ」 まさか謝られるとは思っていなかった。 ショウさんは、決して悪い人ではない。 誰にだって守りたい人や事柄があるし、ショウさんにとってジンは家族同然で、実の弟のような存在だから。 ショウさんはジンのことを思い、世界に羽ばたいて欲しいだけなんだと私にも理解できた。 私と一緒にいることで、彼が窮地に立たされてしまうのなら…… 私から離れるしかないじゃないか。「由依ちゃん、さっき『消える』って言ったけど、あのマンションを出るの?」 心配そうな面持で甲さんに問われ、私は小さくうなずいた。「相馬さんが大変なことになってるのにこれ以上お世話にはなれません。住むところを早急に見つけて引っ越します」「実家には帰らないのか?」 ショウさんが少しばかり気の毒そうな表情を浮かべて私の返事を待った。「帰りません」「わかった。甲、由依の住むとこ見つけてやって。引っ越し費用は俺が出す」 うなずきながら言うショウさんに、私は慌てて首をブンブンと横に振った。「私は大丈夫ですから。それよりショウさんにもうひとつ約束してほしいことがあります」「なんだ?」 頬の涙をぬぐい、ピンと姿勢を正す私を見てショウさんが様子をうかがうように眉根を寄せる。「ジンの笑顔を取り戻してください。ショウさんは頭が良くて勘の鋭い人ですから、こんなことを私から言われなくてもわかってると思いますけど、最近のジンは本当に笑わないんです。私と出会ったころはいつも明るく笑っていたのに」 私の言葉を聞き、ショウさんは無言で視線をテーブルへと下げた。「私、ジンの笑顔が好きなんです。片側だけにできるエクボが素敵だから。でもしばらくそんな笑顔は見ていません。エクボだって左側にできていたはずだけど、もしかしたら右側だったかな?って忘れちゃうくらい」「………」「彼がまた、自然に笑えるようにしてあげてください」 頭を下げると、ショウさんはつらそうに参ったという表情を浮かべていた。「自分も大変なのに、最後に頼むのがジンのことだなんてな」 呆れられたのかもしれないが、今言ったことが私の本心だ。 誰もが惹きつけられる不思議な空気を纏う笑顔
激しく動悸がして、息ができないくらい苦しくなった。 後頭部をなにかで殴られたような衝撃を受けている私を気の毒に思ったのか、さすがに言い過ぎだと甲さんが止めに入ってくれた。 姉と母は相馬さんの恩恵があってこそ今がある。 ジンのことで頭がいっぱいで、大事なことなのにすっかり抜け落ちていた。 就職するのだと、気恥ずかしそうに話していた姉の姿が頭に浮かんだ。 それがダメになったら、また夜の仕事を続けるのだろうか。 母も施設の入所が決まっているようだったし、そこで治療しながらゆっくりと過ごすはずだ。 なのに白紙となれば、また自宅で暴れたりするのかもしれない。 姉と母の幸せを奪って踏みつけるようなことをし、お世話になった相馬さんが大変なときに恩を仇で返すようなことをしてまでもジンと一緒にいたいだなんて、そんなワガママが許されるはずがないじゃないか。 ボキッと音を立てて、このとき私の心が折れた。 私はなんのために実家を出てあのマンションで暮らし、就職をして独り立ちしたかったのかと理由を思い返せば、すべては家族のためだったはず。「君が離れてくれればジンは必ず大成する。台湾と日本だけじゃない。韓国、フィリピン、タイ、シンガポール、中国本土、香港……必ずアジアは制覇する。俺がさせてみせる。そしてその次はハリウッドだ」 夢で終わらせるつもりはないのだと、ショウさんが至極真面目に言ってるのが伝わってくる。「君が思っているより、ジンの“光”は強い」 ジンは生まれもってのスターで、その使命をもって生まれてきた。同じ人間でも私とは全然違う。 そんな、星のような人に近づきたいだとか、今なら手が届きそうだなんて願った私が ―――身の程知らずだったのだ。「もし、姉の就職や母の施設入所が白紙になりそうになったら、ショウさんが助けてくれませんか?」 ボロボロと止まらない涙を流す私を見て、ショウさんは黙って聞いていたがなにかを感じ取ったらしい。「由依、それは……」「…………私は消えます」 涙で濡れて視界が歪んで見えるけれど、ショウさんがホッと息をついたのがわかった。「その代わり、姉と母を助けてください。お願いします」 最初から許されない身分違いの恋だったのだ。 周りに反対され、ほかの人を不幸にしてまで突き進むだなんて、私にはやっぱりできない。 私の大切な人
「ちょっと待ってください。なぜそうなるんですか?」「俺だってこんなことを君に頼みたくはなかった。だけどジンがドラマの仕事を受けない理由はただひとつなんだ。君と一緒にいたい気持ちが強い」 最初はそうだったかもしれないけれど、相馬さんの会社の資金繰りの話をすればジンだって気持ちが変わるかもしれないのに。「私が説得してみます。事情があるとわかればジンはオファーを受けるはずです」「いや、無理だ。ジン自身がこの倒産危機を知らないとでも思ってるのか? すでに話してある。それでもジンは君と離れるのが嫌で、芸能活動を辞めるとまで言った。そうなると俺は、アイツと君を無理にでも引き離すしかない。なりふり構わないと言ったろ。必ずドラマには出演させる。俺は本気だ」 決して激高はしていなかったが、ただ淡々と話すショウさんが私は逆に怖くなった。 誰がなんと言おうと絶対に自分の意見を押し通して、この局面を必ず乗り越えるのだという固い決意がショウさんの中に見えたから。「気づいたんだ。今後もし同じことが起きたらジンはまた君を優先する。それは芸能活動をしていくにあたって“支障”になる。だったら今のうちに別れさせるべきだろう」 いつも助け舟を出してくれる甲さんも、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。 次から次へと矢継ぎ早に言葉を並べられ、私は頭が混乱してなにも言い返せない悔しさからかじわりと目頭が熱くなった。「それでも………どうしても一緒にいてはダメですか?」「……由依」「私はジンのことが、すごく好きなんです」 涙がポロリと両目からこぼれ落ちた。 一度だけワガママが許されるのならば、ジンと一緒にいたい。 ほかには何も望まない。愛する彼と笑って一緒に生きていきたいだけだ。 そんなたったひとつの切なる願いを訴えてみたけれど、ショウさんは眉間にグッとシワを寄せて私を真正面から見つめた。「もっとすんなりとわかってもらえると思ってた。君は今俺が話したことをなにも理解できなかったのか?」「いえ、そういうわけでは……」 手の平で頬の涙を拭う私に、ショウさんは動揺することなく視線を送り続けてきた。「今回の倒産危機は君も他人事ではない。今君が住んでるマンションも社長は手放すことになるだろう。それにお姉さんの就職もきっと白紙だ。系列会社だといっても間違いなく危機に陥り、コネで
「俺らはポラリス・プロの人間だが他人事じゃない。相馬コーポレーションの資金力でポラリス・プロは成り立ってると言っても過言じゃないからだ。あっちに倒れられたら、こっちも共倒れだ」 いつも緩慢な笑みを浮かべる癒し系の甲さんまで神妙な顔つきでただ聞いているだけだから、どうやら私が思う以上に事は深刻なのだろう。「資金繰りは社長がなんとかするって言ってるけどね。だけどショウさんのツテで、台湾の事務所にも借り入れをお願いしてるんだ」 個人でなんとかなるような、そんな金額ではないと思う。 私は会社の経営に関しては詳しくないけれどその程度のことはわかる。「幸い、台湾の事務所は協力すると言ってくれてる。だけどそれには条件を突き付けられた」「……条件?」 おそるおそる聞き返すとショウさんはコクリと首を縦に振った。「例の長編ドラマにジンを出演させることだ」 あのオファーについては、ジンが頑なに嫌がっていて未だに保留の状態らしい。「こうなったら、なりふりなんて構っていられない。俺はこの話を受けるつもりでいる」「でもジンが……」「なんとしてでもあのドラマには出てもらう。俺が出させる」 強行突破、というのはこういうのを言うのだろう。 本人の意向を無視してでも出演させるとは、かなり強引なやり方だと思う。 だけどジンの気持ちを無視してまでも、その選択しかないのだと追い詰められているみたいだった。「どうして台湾の事務所はそのドラマにこだわるんですか?」 仕事ならほかにもオファーがあるはずなのに、本人が嫌がっている仕事をなぜ無理強いするのか私はそこが引っかかる。「長編ドラマの仕事を受けたら、ギャラとして事務所に大きなカネが入る。だけどそれだけじゃない。断れば懇意にしているプロデューサーの顔に泥を塗ることになる。事務所はプロデューサーと関係が悪化するのを避けたいんだ」 力のあるプロデューサーに逆らいたくないからだとショウさんが説明してくれた。 それにドラマのオファー自体は悪い話ではない。 むしろジンの人気を後押しするきっかけになるはずだから、あとはジン自身が首を縦に振るだけだとみんな思っているのだろう。「相馬コーポレーションもポラリス・プロも倒産回避。ジンは俳優として本格デビューして人気が上がる。ドラマはヒット間違いなし。それで全部丸く収まる」 たしかにシ
ジンは私の頭を優しく撫で、額にチュっとキスを落とす。「外で会って平気?」「日本は大丈夫だろ。不安ならホテルで密会する?」「え?! 」 一瞬動揺した私を見て、ジンが吹き出すように盛大に笑った。「なにを想像したんだよ。まぁ、間違ってはいないけど」「もう!」 ケラケラと笑う彼を見て、なぜか少しホッとした。 出会ったころはよく笑っていたのに、最近めっきり笑顔が減った気がしていたから。 彼にはいつも笑っていてほしいし、自分の周りにいる人たちもみんな笑顔になれたらいい。 だけど私にとって彼はもう特別な存在だから、誰よりも心から笑顔でいてほしいと願っている。 ジンとショウさんの言い争いが絶えなくなった、と甲さんから聞いたのは、それから一ヶ月ほど経ったころだった。 ドラマのオファーのことで大揉めになっているのかと思ったけれど、それだけではないらしい。 今後の仕事の方針や、プライベートの過ごし方など、あらゆることで衝突する日々なのだそう。 ほんの些細なことでも衝突するなんて以前なら考えられない光景だけれど、今のジンとショウさんならあり得ると思う。 空気が悪いなんてもんじゃない、と甲さんが嘆くぐらいだから相当殺伐としているのだろう。 そんな日々も過ぎていき、季節は梅雨も半ばを迎えようかという蒸し暑さの中。―― 多くの人間が関係する大変な事が起きた。「話がある」 私を呼び出したのはショウさんで、用件はなんだろうかと特に気構えることなく待ち合わせのカフェへと向かった。 するとそこには甲さんもいて、私を手招きしている。 挨拶もそこそこに私の向かい側に座るふたりの顔を見て、なにか良くないことを告げられると予感した。 こういうときの勘は、なぜか当たるものだ。「回りくどく言うのは苦手だから結論から言う」 無表情に淡々とショウさんが話を切り出した。「ジンと、別れてくれ」 神妙な顔つきで私を見つめるショウさんは苦渋の表情だ。「あ、あの……」 一瞬で声が震えた。 誰かに交際を反対されるかもしれないと一定の覚悟はあったけれど、交際の事実を自分たちから伝えないままショウさんからいきなり別れろと言われて、私の頭は途端に混乱し始めた。「お前たちが数ヶ月前から付き合ってるのは知っていた。相手が由依だから黙認してただけだ」 ショウさんは私たちの交際を
「さっきショウさんに聞いたの。ドラマの話とか、第二弾の記事とか」「俺、しばらくここに来るのはやめる」 ジンは不本意だ、という気持ちを前面に出した表情をしていた。 さっきの電話の口調とは反対に、やけに素直なところに私は違和感を覚えた。「ショウくんに、お前が出入りすることで由依がそこに住めなくなるかもしれない。由依が追い出されてもいいのか? って説教された」 私のためを思って動けと、ショウさんはある意味ジンを脅したみたいだ。 自分のことを理由にされるのは気持ちよくはないけれど、それでもショウさんの助言どおり、ジンが不用意にここに出入りするのは危険だと私も思う。 彼がこれ以上週刊誌で騒がれて傷つかないためにも、しばらくここに立ち寄らないのは私も賛成だ。「ショウさんから聞いたけど、ドラマには出ないの?」 早速もう帰るつもりなのか、テーブルの上を片付け始めたジンに言葉をかけると、なんでもないことのようにあっさりと首を縦に振った。「断ってくれって言ってる」「せっかくの大きな仕事なのに」 考える余地なく断るにはもったいない話だと、私の気持ちが言葉尻で伝わったのか、ジンは私に小難しい視線を送って来た。「相手の女優が気に入らないのもあるんだ。柳 莉紋(リュウ リーウェン)で内定してるらしいから」「りゅ……?」「ほら、俺が初めて出たMVで共演した子」 あのMVでしか見たことはないけれど、今でもはっきりと覚えている。 男心をくすぐるようなほんわかとした雰囲気のとってもかわいらしい容姿をした女性だった。「すごくかわいい人なのに、どうして気に入らないの?」 彼女を思い出しながらも笑顔で話す私とは対照的に、ジンがうんざりだとばかりに顔をしかめた。「顔はどうでもいいとして性格が悪いんだ。ありえないくらいにワガママ」 おそらくだけれど、彼女のそのワガママな性格に以前直面したのだろう。「また共演なんてごめんだ」と、ジンが心の底から嫌そうに言った。 人は見かけによらないとはこのことで、あんなにかわいらしくて素直そうな女性なのに、性格の悪い一面があるとは思いもよらなかった。「これでドラマの話が来なくなるならそれまでだ。細々とモデルだけやってもいいし、全部やめたっていい」「……ジン」「俺は北京語ができるから、どこか日本の企業に就職できるだろう」 ジン