「俺は彼女たちのこと全員を好きだと思ってたし、一番とか二番とかなく平等だと思ってたけど。そうじゃなかったのかな、って今となっては思うんだ」 水滴の付いたグラスを持ち上げ、クイっと口に含ませる姿がカッコいいなと、目を奪われてしまった。「好きなようでいて、実は全員に本気じゃなかっただけなのかも……って」 せっかくこれだけカッコいいのに、している話の内容は最低だ。 八木沢さんに泣かされてきた女の子たちを気の毒に思った。「だから、ちゃんと本気で恋愛ができるように、その感覚を変えていきたい。こんな俺でもそうなれるようにしたいんだ」 どうして急にそれに気づき、今までの自分を変えようと思ったのか。 その理由はわからないけれど、八木沢さんは緩慢に笑って自分の思いを話してくれた。「咲羅ちゃんも一緒にリハビリしようよ。真剣な恋のやり方を忘れて出来ないって、さっき言っただろ? 一緒にそういうのを思い出そう」 サークルにでも勧誘するように言われても、二つ返事でうなずいたりできない。「テーマは“純愛”」 純愛……今さらだ。 そんな言葉は、私には似合わなくなってしまっている。「……クサいですね」 正直に感想をのべると、私の言葉が聞こえたのか、あははとマスターの笑い声がした。「俺もそれ聞いたときに最初はなにを言ってるんだと思った。けど、斗夜がそれを望むのは良いことだし、進歩だから」 「はぁ……」「大人になるにつれ、純粋だった頃の気持ちをついつい忘れちゃうもんだよね。適当に気の合った相手とくっ付いたり別れたり。もちろんする事だけはして」 マスターは、一般論を言っているのだろう。 八木沢さんや私のことも含まれているとは思うけれど。「だからね、俺も咲羅ちゃんが一緒にリハビリするのは賛成。ていうか、コイツと一緒にいろいろ考えてやってよ」 八木沢さんに視線を移すと、綺麗な顔でやさしく微笑んでいる。 真剣な恋のやり方を思い出すために、一緒にリハビリするもいいかもしれない。「中学生とか高校生のとき、咲羅ちゃんは彼氏とどんなデートした?」 「なんですか、急に……」 「俺はね、帰りに彼女と一緒にファーストフード行ったりしたな。学生だからね、休みの日に映画に行くので精一杯だったな」 「……私もそんな感じでした」 思い出すと懐かしい。 たしかにあの
*****「あ、それと白井さん、今夜リハビリ第一回目ね」 八木沢さんのデスクのそばで仕事の話をしていたら、彼は一番最後になんでもない口調で爆弾投下をしてきた。 私は内心ドキッと驚きつつ、自分の席へと戻って平然を装う。 バーでのリハビリの話については、私にはなにもデメリットがないようなので、面白そうだから少しだけ参加してみることにした。 仕事と、リハビリと言う名のプライベートは、きちんと分けようと私から提案した。 それなのに、今の奇襲爆弾はルール違反だ。 現代ではスマホという便利なツールがあり、彼にはメッセージアプリのIDを教えてあるのに、これではなんのために連絡先を交換したのかわからない。『リハビリの連絡ならメッセージに送ってください』 私は自分のスマホを操作し、愛想のない至極簡潔な文章を彼に送信した。『レストランを予約しておくよ。食事でもしながらリハビリしよう』 するとすぐさま私のスマホが点滅して、返事が来たことを告げた。 当たり前だが、どうやら彼はメッセージアプリを使えるらしい。 そのあと時間と場所を知らせる連絡が入り、私は仕事を終わらせたあと会社を出た。 指定された場所で少し待っていると、八木沢さんが微笑を浮かべながら颯爽と走り寄ってくる。「悪い、待った?」 この人は会社で見るより、外のほうがカッコよさは引き立っている。 手足が長くてスタイルがよく、色気が溢れ出ているので、これなら放っておいても女性が寄ってくるだろう。 そんなふうに思わず冷静に分析してしまった。「そんなに待ってないよ」 バーでの別れ際、八木沢さんが堅苦しいのは嫌だから、プライベートでは敬語はなしでと言ってきた。 そして、ズレた感覚を自覚することが大切なので、意見があるときはお互いに遠慮なくなんでも話し合うことにした。 考えてみると、私には本音で恋愛を語れる異性の友達がいない。 男性目線ならどう感じるのかと疑問を抱いても、今まで相談できる男性がいなかったので、気軽に聞ける相手ができたのは内心うれしい。「じゃあ、食事しに行こう」 「うん。レストラン?」 「ああ。でも俺、この辺りはよく知らないから、彰(あきら)に聞いたんだ。落ち着いた感じで、雰囲気の良い店はないかって」「……彰?」 「アイ
「俺のことも“斗夜”でいいよ」 「突然お互い呼び捨てって……別に付き合ってるわけでもないのに」 「まぁ、そうだけど。友達だと思えばいい」 軽く笑っている彼を見ていると、他意はないのだと悟った。 それにしても、下心のない男性とふたりで食事をするなんて何年ぶりだろうか。本当に気楽だ。「咲羅は、どんな男が好きなの?」 前菜のキッシュが運ばれてきて、その味をゆっくりと堪能しながら他愛のない会話をしていたはずなのに、唐突に斗夜が話題を切り替えた。「どんなって?」 「タイプとかあるだろ」 「そっか……」 好きな男性のタイプをなんとか捻り出そうと考えるものの、上手く思い描けず、言葉にもできない。 というより、あんまり今まで考えたことがなかったのだ。「見た目は……例の暴力男みたいな感じか?」 「は?」 ほんの一瞬、それが誰なのかわからなかったけれど、本城のことだ。 一刻も早く私の記憶から消し去りたい男なので、半分くらい忘れていた。「それは違う。居酒屋で飲んでて気が合ったと思っただけ。……誘われた勢いだよ」 あきれるような発言をしたはずなのに、斗夜は「そうか」と返事をしてワイングラスに口をつけた。「顔は別に……イケメンに越したことはないけど、とくにこういう顔じゃなきゃ嫌だとか、こだわりはないかな」 「性格は?」 「自分と合う人なら、それも別に。でも……軽すぎる人は嫌かも。信用できない」 「なるほど。重森くんはダメってことか。……あ、俺もだ」 やさしそうに目元を下げ、斗夜はキラキラとした笑みを見せた。 色気を含んだその顔は見とれるくらい綺麗で、彼のこういう表情にモテる要素があるのだと思う。「彼氏が軽い男だと、浮気されるから嫌なんだな?」 「いや、それは普通でしょ。……あ、堂々と何股もしてた斗夜にはわからない感覚か」 「あはは。痛いとこを突くね」 好きな相手に浮気されたらショックに決まっている。 なにを言っているのかと斗夜をじっと見つめると、彼はバツ悪そうに苦笑いしていた。「咲羅は俺より感覚がまともだよ。大丈夫。以前の俺なんて、それが最低だってこともわかってなかったから。でも……ひとりだけ、それはおかしいって言ってくれた子がいたんだ」 どこか懐かしむように、ふわりと笑った彼の顔に穏やかさが混じる。 その女性は斗夜
「正直、そんなに泣かれるとは思わなかったんだ。ほかの子は、嫌ならあっさりと去って行く子ばかりだったから。その子に泣かれて、そこで初めてひどく傷つけていたことに気がついて、もうそういう軽い恋愛はやめようと思った」 斗夜が自分の恋愛感を改めようとしたのは、その女性の影響だったのだ。 もしかしたら今でも斗夜の心の中には、その人がいるのかもしれない。「彼女とは……その後は?」 「俺がフラれて、それっきり」 「それでいいの?」 私の問いかけに、斗夜は目を細めてとびきり明るく微笑んだ。「いいもなにも、もう一年以上前の話だから」 「でも……」「今は、ほかの子たちと関係は切れてるけど、俺はまだリハビリ中の身で資格すらないんだ」 だけど斗夜の発言を聞く限り、リハビリを終えて、彼の言う“資格”とやらが出来たとき、もう一度その彼女とよりを戻したいのではないかと感じた。 彼女が今も斗夜を好きかどうかはわからないとしても、斗夜はいずれ会いに行きたいと思ってるに違いない。 これはきっと、彼女のためのリハビリなのだ。 斗夜にとって、彼女はほかの女の子たちとは違って特別で。 本気で好きだという自分自身の気持ちに、もしかしたら別れてから気がついたのかもしれない。 付き合っているときにそれに気づくことができていたなら、彼女を傷つけて別れずに済んだのにと、後悔があるのだろう。「俺の昔話はこれくらいに。恋愛って、お互いを知るところからだと俺は思うんだけど」 「それは私も同感」 「俺たち、相手をよく知りもしないで行動するからダメなんだろうな。いいなと思ったらすぐ付き合ったり、関係を持ったり」 「斗夜と一緒にしないでよ!」 本城のことは棚に上げ、私は即座に反論してしまう。 斗夜と私は似た者同士だとわかっているのに。「私はすぐに付き合ったりしないよ。無職とか、変な性格の人は嫌だし、そういう部分は重要だから」 斗夜は私の言葉に驚いたようで、ポカンとしながらまばたきを繰り返していた。「咲羅はちゃんとした考えを持ってるんだな。でも、付き合うに値しない男とは一夜限りなわけか」 「ひとこと多い!」 どうやら私は図星を突かれると言い返す癖があるようだ。 だけど“一夜限り”は、もう絶対にしないと心に決めている。「普通の仕事ならなんでもいいのよ。きちんと働
私が必死に否定したのがおかしかったのか、斗夜が声に出してあははと笑った。 働かずにフラフラしてる男性と付き合える女性のほうが少数派だろう。 お金はないよりはあったほうがいいし、貧乏すぎるのは困るけれど、“拝金主義”は言いすぎだ。「冗談だよ。咲羅は面白いな。飽きない」 褒められているのかどうかわからないが、「それはどうも」と苦笑いしてワイングラスに口をつける。「話してて楽しいのは重要だよ。そのうち、相手がどんなことに興味があるのか、もっと知りたくなっていくもんだろ。好きになる第一歩だと、俺は思う」 斗夜の意見は至極真っ当で、今言った感覚はズレていないと感じた。 むしろ、良いことを言ったと感心するほどだ。「でも、大人になればなるほど、だんだんそういう新鮮な気持ちが薄らいで、めんどくさくなるんだよね」 「咲羅もリハビリが必要だな。よし! 俺とシンプルなデートして、ピュアな感覚を取り戻すか」 下心のある男性ばかりと関わっていたから、ピュアな感覚なんて擦り切れて無くなった気がする。 果たして私の心の片隅にでもまだ残っているのだろうか。 今、ぼうっと聞いていたけれど、私は斗夜とデートをすることが決まったの? ……いや、それもリハビリのうちだ。「今度の日曜、俺とデートね。もちろん昼間に」 「昼間ね。わかった」 いちいち、そうやって下心がないことを宣言するところが斗夜らしい。「買い物に行こう。俺、引越しでいろいろ買い足したいものがあるから、付き合ってよ」 「うん、わかった」 健全な買い物デートなんて久しぶりだ。 バーで初めて会った日に、斗夜が私の分まで会計を支払ってくれたことにようやくお礼を言えた。 だから今日は私がご馳走すると提案したのだけれど、斗夜は断じてそれを許してくれなかった。 そして、夜道は危ないからと、わざわざ私の住むアパートの前まで送ってくれた。 もちろん、送り狼しようなんて気持ちは微塵もなく、部屋に上がろうとせず帰っていく男性は久しぶりだった。 そして、約束の日曜日がやって来た。「うわ! 絡まった!」 斗夜との待ち合わせの午前十一時が迫る中、私は未だにドレッサーの前でヘアアイロンと格闘していた。『明日はデートなんだから、服装はオシャレに。相手が俺でも手抜き禁止』 昨夜、斗夜から釘を刺すよう
だけど自分磨きもリハビリのうちだ。 たまにはオシャレをしないと女として干からびていくかもと、そんな恐ろしい顛末が頭をよぎり、すごく久しぶりにお気に入りのワンピースを着て、丁寧にメイクを施した。 そして今は、自分の髪と戦っている。 ふんわりとした上品な巻き髪にすれば、メイクとの相乗効果で、普段の私とはガラリとイメージが変わるはず。 斗夜は今日の私を見て、驚いた顔をするだろうか。 なんだかドッキリを仕掛けているみたいで面白い。 髪が綺麗に巻けたところで壁の時計に目を向けると、もう出かけないと間に合わない時間になっていた。 慌ててパンプスに足を突っ込んで玄関を出る。 たまにしか履かないこの靴も、ヒールが高すぎなくて上品だからお気に入りだ。 待ち合わせの場所に赴くと、スラリとスタイルの良い男性がすぐに視界に入った。 深いブラウンの髪は、一番最初に会ったときのようにふんわりと緩くセットされていて、白っぽいシャツと黒のジレにブラックジーンズを合わせた服装だった。 美容師がやるようなモノトーンなスタイルが目を見張るように素敵で、私は数秒間じっと見惚れてしまった。 休日の朝から本気でメイクをして、髪もかわいく巻いて、こちらが驚かせようと思って来たのに、これでは逆だ。 それを少しばかり悔しく思いながらも、まだ私に気づいていない斗夜に声をかける。「お待たせ」 振り返った斗夜が私を目にした途端、ポカンとしたまま固まった。 そのあと我に返ったように、口角を上げて笑顔になる。「見違えた」 「そう? いつもよりかわいい?」 「ああ。かわいすぎてビックリした」 お世辞でも褒められるとうれしいものだ。 『いつもと同じだ』などと言われたら、朝から気合いを入れて頑張った自分が報われない。「ヤバい。俺、咲羅にハマりそう」 斗夜は目を細めて私に近づき、緩く巻いた髪先に触れる。 彼の一連の言葉と動作に、女慣れしているなと感じてしまった。 男性なのに指先まで綺麗で、さらに色気があるなんて反則だ。「あのね、斗夜は誰にでも言うからダメなのよ?」 未だに近くにある斗夜の瞳と視線を合わせ、私は静かな口調でたしなめた。「そういう発言は、女の子はうれしいの」 「だったら問題ないだろう」 「斗夜が言うとお世辞に聞こえないから」 斗夜
「俺、お世辞は言わないけど?」 私と視線を合わせたまま、斗夜は真面目な表情でポツリと言う。「こういうのは殺し文句だから、誰かれ構わずに言ってたら大変なことになる」 どうやらそれはわかっているようだ。 だとしたら、私に対する先ほどの発言も真剣だったと聞こえるけれど、それは考えすぎだろうか。「あ、でも俺……今リハビリ中だった。軽いと思われる言動は慎まなきゃ、誤解されるよな」 斗夜は眉をひそめ、残念そうに一歩あとずさりして私から距離を取った。 慎んでくれるのはありがたい。 斗夜は重症のようだから、リハビリはかなりの時間を要するだろう。『ヤバい。俺、咲羅にハマりそう』 先ほどの斗夜の言葉が頭から離れない。 爆発しそうにドキドキと鼓動している心臓が痛くて、右手でそっと胸を押さえた。 私たちは並んで歩き、ショッピングモールへと向かった。 街は日曜日なので家族連れが多く、どこの店内も混み合っていた。「何を買いたいの?」 おもむろに私が尋ねると、斗夜は「こっち」と私を手招きして一軒の雑貨屋さんへと足を踏み入れた。 お店には様々な洒落た雑貨が並んでいて、見ているだけで私も楽しくなってくる。「こういう置時計、カッコいいよな。アラーム機能も付いてるし、ベッドサイドに置いてもいいか」 斗夜はブツブツと独り言のように言いながら、気に入った時計を手に取って眺めている。「俺、朝弱いんだよ」 斗夜が参った、というような顔を私に向ける。 なんとなくだけど、斗夜の雰囲気からして夜型人間だと私は予想していた。「うん、強そうには見えない。起きる時間になっても、ずっとベッドの上でゴロゴロしてそう」 「当たってるよ。前日、真夜中までがんばりすぎたら全く起きれないんだよな」 「…………」 なにをがんばるの? などと聞かなくてもわかってしまい、溜め息が出た。「でもその時計、すごく良いデザインだよ。カッコいい」 「買おうかな。咲羅も買う?」 「なんで私まで」 「お揃いにしよう」 女子高生か! と心で突っ込みながら、差し出された置時計を「私はいらない」と押し返す。 だけど斗夜自身は購入を決めたようだ。 私たちがフラっと立ち寄ったこの雑貨店は奥行きのある造りで、意外と店内は広かった。「お、弁当箱だ」 斗夜がとある一角で、おもむろに
「弁当男子になろうかな」 男性用の黒っぽいシンプルなお弁当箱を手に取って、斗夜がにこにこしながらそうつぶやく。「斗夜が自分で作るの?」 まさか……適当な女性と付き合って、その子に毎日お弁当を作らせるつもり? 一瞬心配になったが、リハビリ中だと本人が断言しているのだから、それはないだろう。「俺、けっこう料理するんだよ」 「へぇ、意外」 「咲羅は料理しなさそうだな」 「失礼ね!」 私だって少しくらいは料理する。……ほんの少しだけど。 私が視線を逸らせたのを見て、あまり料理をしないことを見抜いたのか、斗夜が疑いの眼差しで微笑んでいる。「まぁ、女の子だからって料理できなくても別に……ね」 「少しは出来るわよ!」 「なんなら俺が教えてやろうか? 初心者用のメニューで」 料理どころか家事をまったくやらない女だと思われるのが嫌で反論してみるけれど、斗夜は私の言葉を聞き入れないので会話がかみ合わない。「あれはなんだろう?」 私はそんな斗夜を放って、小さな機械がブクブクと音を立てている方角へ足を進める。 近づいてみると、それは小さな簡易型のフットバスだった。 風呂桶の中に足の置き場があるような形をしていて、デモ用に水が入れてあり、ブーンと電気の音がして動いていた。「気持ち良さそうだな」 気がつくと、斗夜が私の隣に来て一緒にそれを見ていた。「仕事して一日が終わると、足が疲れてるの。事務でもそうなんだから、外回りの営業はなおさらだよね」 今度は私が独り言のようにつぶやき、フットバスの周辺にあったバスグッズを手に取って眺める。「営業は慣れだから。最初は疲れるけどな」 「そっか。あ! 私はこれ買う。入浴剤が欲しいって思ってたの」 私はかわいらしい入浴剤のシリーズに目を奪われ、斗夜への返事が適当になってしまった。 桃の花、ローズ、レモングラスなど、ほかにもいろんな香りがあって、見ているだけで癒される。 “潤うミルクプロテイン配合”や、“しっとりなめらか天然コラーゲン配合”という謳い文句も、女子にはそそられる文言だ。「楽しそうだな」 私が急ににこにこしながら商品を物色し始めたのを見て、斗夜はうれしそうな表情で私の様子を傍観していた。「どれがいいかなぁ。やっぱり潤いは大切だもんね。すべすべになるなら、やっぱりこれかぁ……」
戸羽さんの金銭感覚はいったいどうなっているのだろうと、心配になってくる。「すみません、今日彼女は機嫌悪いみたいで。またプロポーズするときに、あらためて来ますから」 戸羽さんが穏やかににっこりと笑うと、女性店員の頬がみるみるうちに赤く染まり、「うわぁ」と小さく歓声まであがった。 ……誰が機嫌悪いのだ。いや、それよりも「おめでとうございます」という視線を送られている私は、いったいどうすればいいのか。「もう! 戸羽さん!」 「あはは。面白かったね」 店の外に出た途端に早速抗議してみるものの、戸羽さんは可笑しそうに笑い出だした。 それを見て、あれはわざと芝居したのだと私はようやく気づいた。「最初から買う気はなかったんですね?」 「咲羅ちゃんの好みは知りたいけどね。でも、店員さんの前で堂々と買わない!なんてハッキリ言うわけにもいかないから」 「だからって、プロポーズがどうのって……。今度行ったとき、ご結婚されるんですよね? って聞かれますよ? エンゲージリングとマリッジリングを売りつけられちゃうじゃないですか。そうなっても 私は知りませんからね」 他人事のように私がおどけて言うと、戸羽さんは再び吹き出すように笑う。「その時は……彼女がプロポーズをなかなか受けてくれないことにしようか」 「私が悪者ですか?」 「あははは」 戸羽さんの茶目っ気のある一面を初めて見た。 出会ったときから穏やかでやさしそうだとは感じていたけれど、こんなに冗談を言って笑う人だとは思わなかった。 素直に心の内を言うと、今日のデートは楽しい。 このあと、私は豪華じゃなくてもいいと言ったのだけれど、高そうなランチをご馳走になった。 有名なシェフがいるフレンチレストランで、味もおいしかったし、ラグジュアリーな空間が素敵で優雅な気持ちになれた。 そして、ふらりと大型書店に寄って、並べてある本を見ながらふたりで話した。 こうして少しずつ、相手を知っていくことが大切なのだ。 どんなものに興味があって、普段どんなことをするのか。 そうするうちにだんだんと、人となりがわかっていく。 その結果、必ずしも恋愛感情が生まれるとは限らないけれど、私はずいぶん前からこの過程を飛ばしていた。 相手の中身を見ようとしていなかったのだから、恋愛なんてできるはずがな
ショーケースには煌びやかなリングやネックレスを中心に、ブランドものがずらりと並んでいる。 桁がひとつ違うくらい価格帯に幅はあるものの、どれもこれも高額だ。 そんなふうに、庶民は価格ばかり気にしてしまう。「どれか、お気に召したものはございましたか?」 少し見ていただけだったのに、女性の店員がすかさず声をかけてきた。 その姿は頭のてっぺんからつま先まで隙がなく、私には何時間かけても真似できないと思うほど、全身綺麗に手入れされている。 長いまつげでまばたきをする彼女の完璧な営業スマイルを前に、私も愛想笑いを浮かべた。「お客様は指がとても綺麗でいらっしゃるので、どのリングでもお似合いだと思いますよ」 どう見ても、彼女のネイルのほうが断然綺麗だ。 お好みは? などと問われても困ってしまう。どう転んでも私には買えないから。「あ、大丈夫です。綺麗だから見ていただけで……」 今は目の保養にするしかできないけれど、いつの日か思い切って買えたらいいなと夢を思い描く。 具体的に欲しいものが出来たら、もっと貯金する気持ちも芽生えるだろう。「どうしたの?」 気がつけば戸羽さんが私の真後ろに立っていて、突然声をかけられて驚いた私は心臓が飛び出るかと思った。「な、なんでもないです! 用事が終わったのなら出ましょう」 あわてて戸羽さんの腕をグイっと引っ張ってみるが、彼は足を動かしてくれない。「指輪かぁ。女の子はこういうの好きだよね」 戸羽さんがおもむろにショーケースに近づいて行ってしまい、私たちは再び女性店員の綺麗な笑顔に捕まってしまう。「お客様は指が綺麗でいらっしゃるので……とお話していたのですが、こちらなど私はお似合いかと思います」 「そうですか。人気なのはどの辺り?」 戸羽さんが話に食いついていくのを見て、私は顔が引きつって来た。「今は別のこちらのシリーズになりますね」 「へぇ」 「ピンクサファイアが可愛いと評判なんですよ?」 ついに、女性店員がショーケースの鍵を開けて実物を出してきてしまった。「咲羅ちゃん、嵌めてみたら?」 私は戸羽さんの袖口をそっと引っ張って、待ったをかける。 この流れでは買うはめになってしまうから。「戸羽さん……まさか買う気じゃないでしょうね?」 「ははは」 目の前に店員がいることも忘れ、大
次の日の朝、デートだから髪を巻こうと頑張ってみたけれど、以前ほど上手にできない。 ふと、斗夜と買い物デートをした日の記憶が蘇ってきた。 あの日も自分なりに頑張ってオシャレをして出かけたのを思い出し、この前はもう少しマシに髪が巻けたのに、と鏡の前で眉を寄せながらヘアアイロンと格闘した。 今日の服装は、清楚と上品をテーマに選んでみた。 薄いピンクのブラウスに、白のフレアスカートを合わせ、胸元には小さな石の付いたネックレスをあしらう。 女子アナのように知的さも出たので、自分の中では及第点だ。 五分前に待ち合わせの場所に着くと、戸羽さんもちょうど同時に姿を現した。「咲羅ちゃん」 私に気づいて声をかけてくる戸羽さんは、髪をワックスで遊ばせているせいか、前よりもカッコいい。 今日も相変わらず、黒縁眼鏡の奥から覗く瞳が穏やかで優しい感じがする。「来てくれてうれしいよ」 目を細める戸羽さんを見ながら、私も大人なのでさすがに連絡もなしに約束をすっぽかしはしない、と心に浮かんだ。「どこに行きますか?」 「えっと……ちょっと付き合ってもらいたい場所があるんだ。実は腕時計の金具が壊れて、修理に出そうかと」 デートなのに所用に付き合わせて悪いと思ったのか、眉尻を下げてこちらを伺う戸羽さんが、少しばかりかわいらしい。「大丈夫ですよ。行きましょう」 私の返事を聞いた戸羽さんに優しい笑顔が戻り、ふたりで時計店を目指して歩き出す。 高級そうなお店の前で戸羽さんが歩みを止めた。 そこは間違っても私が普段フラっと立ち寄ることの出来ない雰囲気を纏った場所だった。 不審者のようにじろじろと店内を見回してしまいそうになったが、自制心でそれをぐっと堪える。 戸羽さんはカウンターの中にいる店員に声をかけ、金具が壊れた腕時計の修理の話を進めた。 待っている間、私はなにをするでもなく店内をうろうろとしていたのだけれど、手垢ひとつなくピカピカに磨かれたショーケースの中に展示されている、存在感のある腕時計がふと目に入ってきた。 別にそれを気に入ったわけではないのだけれど、隣に置かれていたプライスカードの値段を目にし、高すぎて目玉が飛び出た。 ケタを見間違えたかと思ったけれど、450万円だ。 だけどブランドものの時計ならば、それくらいの値段でもおかし
斗夜は去り際になにか言ってから出てきたようで、それは私に関することだと思うから内容が気になってしまう。「なにを言ったの?」 クスっと電話口で思い出し笑いをする史香とは反対に、私はスマホを持つ手がわずかに震えた。『白井さんの噂は彼女をやっかんだ人が言いふらしたんです。あなたは彼女のなにを知ってるんですか? 彼女を傷つけて侮辱するような発言は、例え先輩でも俺は今後一切許しません!……って言ってた』 まるで魂を抜き取られたみたいに、私はボーっと聞き入ってしまった。 喉が急に熱くなってきて、声がうまく出て来ない。『あの時、確信しちゃった。八木沢さんも咲羅が好きなんだ、って』 斗夜が時枝さんに対してそんなことを言ったなんて信じられない。 この一週間、ふたりは蜜月に見えていたのに。『どう考えても咲羅に気があるとしか思えない。あの場に居た人はみんなそう感じてたよ。私の隣にいた重森なんて口があんぐりと開いてたわ。たぶん、八木沢さんには勝てないって思ったんだろうね』 ……違うよ。斗夜は私と同じでリハビリ中だもの。 彼には純粋に心から好きだと思える恋愛ができない欠点がある。 身体の関係にはなれても、相手と本気で心を繋げられないのだ。 今はその欠点を治すためにリハビリをしているのに、私を好きだなんて感情が簡単に芽生えるわけがない。 それは史香が彼をわかっていないだけだと思う。『私は重森だけじゃなくて、八木沢さんも慰めなくちゃいけないのかな? そうなったら重森なんて放っておくけど』 「……へ?」 『だって咲羅は明日の戸羽さんとのデートに乗り気なんでしょ? 重森が肩を落として言ってたよ』 別に乗り気じゃないのに、と私は重森を思い浮かべて口をとがらせた。 どうして史香が誤解するようなことをわざわざ言うのだろう。『明日のデート、どうなったか報告待ってるよ』 史香がフフフと楽しそうに笑い声を漏らす。「戸羽さんは、穏やかでいい人だから……明日いきなりどうにかなることはないと思う。それにね、戸羽さんと恋が出来そうかどうか、ちゃんと見極めたいんだ」 彼がどういう人なのかを理解するところから始めなければいけない。それが心を通わせる第一歩だから。『なんか咲羅……最近、変わったね』 「そう?」 本城との失敗の経験があってから、慎重になろうと
悪く言われたくはないけれど、万人に私を受け入れてもらえるなんて、さすがに思っていないから、私は史香のような人を大切にできればそれでいい。 仲良くできる人は少数でもかまわない。『あの人、咲羅がモテるから妬いてるんだろうね』 「……私、別にモテてないよ」 『自覚症状なしですか』 私を笑わせるために一定のトーンで言葉を発する史香がおかしくて癒される。『重森がさ、今日私に泣きついてきたよ? いくら咲羅を口説いても、デートどころかまったく相手にされないって』 「……は?」 重森と話している内容が自分のことだったなんて思わなかった。 私はどういうことかと、スマホから聞こえる史香の話を集中して聞いた。『明日は他の男とデートするみたいだから、俺はやっぱり脈なしなのか? って、私は延々と愚痴を聞かされたんだから!』 「……そうだったの」 『重森も咲羅と一緒で誤解されやすいみたい。たぶん……あんまり遊んでないよ、アイツ。咲羅のこと、けっこうマジで好きみたい』 ―――― 重森が? そんな、まさかだ。 いつも彼の誘いは、ふわっと飛んで行きそうな綿雲のように軽かった。 なので、そこに少しでも真面目な思いが含まれているなどと、私は考えたこともなかった。 私はもしかして、今まで重森に対してかなりひどい態度だったのだろうか。『重森、八木沢さん、バーのマスター、戸羽さん。これでモテてないなんて言わせないからね? で、結局咲羅は誰にするのよ』 「……え?!」 いきなり四択を迫られても、どこから突っ込んでいいか頭がついていかず、思わず声が裏返った。「ちょっと、なに言ってるの」 『あはは。マスターの話も聞こえてきちゃったもん』 居酒屋での時枝さんの発言を、史香はけっこう漏らさずに聞いていたようだ。 重森と話しながら小耳に挟むなんて、器用だなと感心してしまう。「マスターは全然そんなんじゃないよ」 『そうなの? まぁ、重森は元からないとしても……あとは、八木沢さんか戸羽さんね』 ……あっという間に二択に減った。 史香の言葉で、斗夜と戸羽さんの顔が交互に思い浮かぶ。 バーで戸羽さんと偶然再会して、土曜日にデートの約束をしたことは、史香には翌日の朝にすべて話した。 戸羽さんと今までに会ったのはたったの二回で、ふたりきりでデートするのも明日
斗夜にとって、リハビリ相手である私は必要なくなった。 でもどうして私までリハビリを中止しなくてはいけないのか。 斗夜が辞めるなら、私は違う相手で続けるまでだ。 真剣な恋ができるように、そのやり方を思い出せるようにと、せっかく始めたことなのだから。 リハビリから先に卒業できた斗夜は、以前傷つけてしまった元カノに思いを告げればいい。「誤解だよ。連絡できなかったのは仕事が忙しかったせいだ。それはホントだから」 火曜日に時枝さんとバーに行く時間はあったのに? などと考える私は、意地が悪い。 それを実際に口にしなかっただけマシだけれど。「だから、行くなよ……」 斗夜の瞳がゆらゆらと揺れていて、心配と不安と切なさが入り混じっていた。 だけど私は、それに気づかないフリをする。「行くよ。約束しちゃったもの」 「咲羅……」 私は小さくつぶやいて斗夜に背中を向け、路地裏から表通りに出た。 抱きしめられていたときからずっと、心臓が掴まれたように痛くて、熱い頬が元に戻らない。 人の心をこんなに掻き乱せるのだから、斗夜がモテるのは当たり前だ。 無心になろうとすればするほど、至近距離で囁かれた斗夜の甘い声が耳から離れないままだったけれど、私はそのまま家路を急いだ。 家に帰ってシャワーを浴びた直後に、テーブルの上のスマホが着信を告げていることに気づいた。 私は画面に表示された相手を確認し、人差し指でスライドさせる。『咲羅、今ひとりなの?』 電話をかけてきたのは史香だった。 私がひとりでいるのかどうかなんて、いつもは気にしたことがないのに、なぜ聞くのだろうと思ってしまう。「帰ったんだからひとりだよ」 『そっか。八木沢さんもすぐに出て行ったから……』 私が居酒屋の座敷を出たあと、すぐに斗夜が追いかけて来たから、今もふたりで一緒にいるのかもしれないと考えたのだろう。『大丈夫?』 「なにが?」 『時枝さんが居酒屋できついこと喚(わめ)いてたでしょ。あの人、性格悪そうだもん』 史香の言葉を聞いて、私が抱いた時枝さんのイメージと同じだったことに軽く笑いがこみ上げた。 重森と話し込んでいた史香は、私たちの話は聞こえていないのかと思っていたけれど、最後のほうは時枝さんの声が大きかったから、自然と耳に入ってきたのだろう。「大丈
マスターは私と戸羽さんのことを斗夜に密告したらしい。 物静かな人だと思っていたけれど、どうやらおせっかいな面もあるようだ。「『咲羅ちゃんは草食系だって豪語してるけど、俺にはそう思えない!』って、興奮気味に電話をかけてきた。時枝さんが言ってたこと、あながち間違っていないのかもな」 「え?」 「……彰、咲羅に気があるのかも」 どうして時枝さんの発言を真に受けるのかと、私は腹が立ってしまう。 キュっと眉間にシワを寄せ、不快だと言わんばかりに斗夜を見上げれば、深いブラウンの髪の隙間から覗く瞳と視線が絡んだ。「バカなこと言わないでよ。マスターは単純に私を心配してくれただけでしょ」 「そうかな?」 「そうに決まってる」 斗夜が再び私の背にまわしていた腕の力を強めた。 ギューっと抱きしめられ、自然と斗夜の逞しくて温かい胸板にピタリと密着してしまう。 その行為に、今更私の心臓はドキドキと早打ちを始めた。「今週は時枝さんが来たから思いのほか仕事が忙しくて、連絡出来なくて悪かった。けど……ほかの男とデートってひどくないか?」 「……は?」 斗夜の言葉の意味がまったくわからなくて、なにを言ってるのだろうと、思わず素っとん狂な声を上げてしまった。 どうして私がひどいのだろうか。「なにもひどくないでしょ。私たち、付き合ってるわけじゃないんだから」 「…………」 「それを言うなら、時枝さんをあのバーに連れて行くことないじゃない。ひどいのはどっちよ」 あのバーは、“私たちの隠れ家”なんて言うつもりはないけれど、唯一私がほっこりできる場所だった。 だけど斗夜に気がある時枝さんを招き入れたことで、あの空間の雰囲気を変えられた気持ちになってしまった。「悪かったよ。もうしない」 耳元から響く斗夜の低い声が、脳まで浸透していく。 やさしくて甘い声が聞こえたらなにも考えられなくなって、強く抱きしめられていることに違和感がなくなった。 斗夜の胸板に自分自身が溶け込んでしまいそう。「だから………明日のデートは辞めてくれないか?」 抱きしめられていて顔は見えないけれど、彼はきっと切ない表情をしているのだと声でわかってしまった。「なんで……そんなこと言うの」 このタイミングと体勢を考えたら、その発言はずるい。どうしても期待してしまうから。
『そんなだから敵を作るのよ』 先ほどの時枝さんの言葉が頭の中で響いていた。 理由は、痛いところを突かれたからだろう。 その部分は、彼女の言う通りなのだ。 多少嫌な発言をされても、我慢して笑顔を作り、平然と耐えていればもう少し人間関係はうまくいくのかもしれない。 私は正直にすぐに顔に出るし、器用にお世辞も言えないから、それが完全に裏目に出ている。 自覚はあるけれど、彼女がやっていたようにわざとらしい作り笑顔をしようとしても、顔が引きつってしまうのだ。 それに、正直な態度のなにが悪いのかと思っている。「咲羅……」 頭の整理がつかなくて、座敷から出て無意識に立ち止まっていたら、後ろから私の名を呼ぶ声が聞こえた。「大丈夫か?」 振り返ると、心配そうな顔をして斗夜が立っていた。「大丈夫……なわけないでしょ」 私はひとことだけ言い残し、逃げるように店の出口へと向かう。 だけど斗夜が足早に追いついて来て、彼は私の手首を掴んでそのまま店の外へと出た。「ちょ、ちょっと!」 狭い路地へ引っ張り込まれ、そのまま彼の広い胸に閉じ込められる。 あんな風に正面きって罵(ののし)られ、気持ちはズタズタだから、やさしくされたら堪えている涙が溢れそうになる。「止めてやれなくて悪かった。時枝さんは本社で世話になった先輩だから、遠慮があった。でも……そんなの関係ないよな。ごめん」 最後まで言い終わらないうちに、斗夜は私を抱きしめる腕に力を込めた。 彼のスーツからは心地良い香りがして、この腕から抜け出したくないと思ってしまいそうになる。「斗夜はちゃんとフォローしてくれたよ。私が拝金主義じゃないってかばってくれた」 あの発言が彼女のトゲをさらに鋭くした要因ではあるけれど、援護してくれたことはうれしかった。「相手が医者だなんて言ったのは失敗だったな」 斗夜の言う通り、口は禍の元で、私が余計なことを口走ったのがいけなかった。「行くのか?」 「なんの話?」 「明日、医者とデートなんだろ?」 私は無表情でコクリとうなずいた。 明日は普通の健全デートだから、別にやましくはないと、自分の中で言い訳をする。「彰も心配してた」 「マスターが?」 「ああ。俺にわざわざ連絡してきたからな」
時枝さんはにっこりと笑っていたけれど、私にはまるで鼻で笑われたように感じた。 先ほどの“さすが”という言葉は、思った通り良い意味ではなく、高収入な男を狙うあざとい女、とでも言いたいのだろう。 これは私の被害妄想ではなく、確実に当たっている。「仕事がお医者様だからとか、関係無いです」 「え……そんなことないんじゃない?」 だから嫌いなのだ。 裏表が激しそうで陰口が大好きな女性は、話すと虫唾が走るし吐きそうだ。 早くこの場から立ち去りたい。「白井さんは……違いますよ」 今の今まで黙ったままで、助け舟をまったく出さなかった斗夜が、深いブラウンの髪をかきあげて突然口を挟んだ。「彼女は時枝さんが思ってるような“拝金主義”ではないです」 真顔でトゲを含んだような彼の言い方が冷たくて、いったいどうしたのかと私が驚いた。 現に、時枝さんの様子をうかがい見ると、カっと瞬時に顔が赤くなり、こめかみ辺りがヒクヒクしている。 彼女は今まで頑張って作り笑いしていたのに、この一瞬で仮面が剥がれるように崩れた。 今は彼女とは逆に、斗夜のほうが薄っすらと不敵な笑みを浮かべていて少々怖い。 だけど斗夜は、確実に私の味方をしてくれたのだ。 そう考えたら少なからず胸が疼いて、彼の言葉に感動しているのだと思い知らされる。「な、なによ、八木沢くんまで。白井さんは噂通り、男を手玉に取るのがお上手のようね」 なるほど、と彼女の発言で合点がいった。 最初から私を蔑(さげす)むように上から目線だったのは、社内の噂を聞いたからだ。「私は誰も手玉に取っていませんし、あなたにバカにされるような覚えも一切ありません。あなたのせいで気分が悪いので私は帰ります」 いくら先輩だと言えど、ここまで侮辱されて、なぜこの場にまだ居なければいけないのかと思うと、限界だった。 この飲み会が就業後の任意のもので、強制ではないのなら、堂々と帰らせていただく。「かわいくないわね」 バッグを持って立ち上がった瞬間、背後から彼女の言葉がボソリと聞こえ、振り向くと作り笑いが面白いように消えた時枝さんと目が合った。「あなた、そんなだから敵を作るのよ。自分が社内でなにを言われてるか、知らないわけないわよね? 私もここに来た初日に聞いたもの。あなたはこの支社の誰もが知る有名人になっ