「正直、そんなに泣かれるとは思わなかったんだ。ほかの子は、嫌ならあっさりと去って行く子ばかりだったから。その子に泣かれて、そこで初めてひどく傷つけていたことに気がついて、もうそういう軽い恋愛はやめようと思った」 斗夜が自分の恋愛感を改めようとしたのは、その女性の影響だったのだ。 もしかしたら今でも斗夜の心の中には、その人がいるのかもしれない。「彼女とは……その後は?」 「俺がフラれて、それっきり」 「それでいいの?」 私の問いかけに、斗夜は目を細めてとびきり明るく微笑んだ。「いいもなにも、もう一年以上前の話だから」 「でも……」「今は、ほかの子たちと関係は切れてるけど、俺はまだリハビリ中の身で資格すらないんだ」 だけど斗夜の発言を聞く限り、リハビリを終えて、彼の言う“資格”とやらが出来たとき、もう一度その彼女とよりを戻したいのではないかと感じた。 彼女が今も斗夜を好きかどうかはわからないとしても、斗夜はいずれ会いに行きたいと思ってるに違いない。 これはきっと、彼女のためのリハビリなのだ。 斗夜にとって、彼女はほかの女の子たちとは違って特別で。 本気で好きだという自分自身の気持ちに、もしかしたら別れてから気がついたのかもしれない。 付き合っているときにそれに気づくことができていたなら、彼女を傷つけて別れずに済んだのにと、後悔があるのだろう。「俺の昔話はこれくらいに。恋愛って、お互いを知るところからだと俺は思うんだけど」 「それは私も同感」 「俺たち、相手をよく知りもしないで行動するからダメなんだろうな。いいなと思ったらすぐ付き合ったり、関係を持ったり」 「斗夜と一緒にしないでよ!」 本城のことは棚に上げ、私は即座に反論してしまう。 斗夜と私は似た者同士だとわかっているのに。「私はすぐに付き合ったりしないよ。無職とか、変な性格の人は嫌だし、そういう部分は重要だから」 斗夜は私の言葉に驚いたようで、ポカンとしながらまばたきを繰り返していた。「咲羅はちゃんとした考えを持ってるんだな。でも、付き合うに値しない男とは一夜限りなわけか」 「ひとこと多い!」 どうやら私は図星を突かれると言い返す癖があるようだ。 だけど“一夜限り”は、もう絶対にしないと心に決めている。「普通の仕事ならなんでもいいのよ。きちんと働
私が必死に否定したのがおかしかったのか、斗夜が声に出してあははと笑った。 働かずにフラフラしてる男性と付き合える女性のほうが少数派だろう。 お金はないよりはあったほうがいいし、貧乏すぎるのは困るけれど、“拝金主義”は言いすぎだ。「冗談だよ。咲羅は面白いな。飽きない」 褒められているのかどうかわからないが、「それはどうも」と苦笑いしてワイングラスに口をつける。「話してて楽しいのは重要だよ。そのうち、相手がどんなことに興味があるのか、もっと知りたくなっていくもんだろ。好きになる第一歩だと、俺は思う」 斗夜の意見は至極真っ当で、今言った感覚はズレていないと感じた。 むしろ、良いことを言ったと感心するほどだ。「でも、大人になればなるほど、だんだんそういう新鮮な気持ちが薄らいで、めんどくさくなるんだよね」 「咲羅もリハビリが必要だな。よし! 俺とシンプルなデートして、ピュアな感覚を取り戻すか」 下心のある男性ばかりと関わっていたから、ピュアな感覚なんて擦り切れて無くなった気がする。 果たして私の心の片隅にでもまだ残っているのだろうか。 今、ぼうっと聞いていたけれど、私は斗夜とデートをすることが決まったの? ……いや、それもリハビリのうちだ。「今度の日曜、俺とデートね。もちろん昼間に」 「昼間ね。わかった」 いちいち、そうやって下心がないことを宣言するところが斗夜らしい。「買い物に行こう。俺、引越しでいろいろ買い足したいものがあるから、付き合ってよ」 「うん、わかった」 健全な買い物デートなんて久しぶりだ。 バーで初めて会った日に、斗夜が私の分まで会計を支払ってくれたことにようやくお礼を言えた。 だから今日は私がご馳走すると提案したのだけれど、斗夜は断じてそれを許してくれなかった。 そして、夜道は危ないからと、わざわざ私の住むアパートの前まで送ってくれた。 もちろん、送り狼しようなんて気持ちは微塵もなく、部屋に上がろうとせず帰っていく男性は久しぶりだった。 そして、約束の日曜日がやって来た。「うわ! 絡まった!」 斗夜との待ち合わせの午前十一時が迫る中、私は未だにドレッサーの前でヘアアイロンと格闘していた。『明日はデートなんだから、服装はオシャレに。相手が俺でも手抜き禁止』 昨夜、斗夜から釘を刺すよう
だけど自分磨きもリハビリのうちだ。 たまにはオシャレをしないと女として干からびていくかもと、そんな恐ろしい顛末が頭をよぎり、すごく久しぶりにお気に入りのワンピースを着て、丁寧にメイクを施した。 そして今は、自分の髪と戦っている。 ふんわりとした上品な巻き髪にすれば、メイクとの相乗効果で、普段の私とはガラリとイメージが変わるはず。 斗夜は今日の私を見て、驚いた顔をするだろうか。 なんだかドッキリを仕掛けているみたいで面白い。 髪が綺麗に巻けたところで壁の時計に目を向けると、もう出かけないと間に合わない時間になっていた。 慌ててパンプスに足を突っ込んで玄関を出る。 たまにしか履かないこの靴も、ヒールが高すぎなくて上品だからお気に入りだ。 待ち合わせの場所に赴くと、スラリとスタイルの良い男性がすぐに視界に入った。 深いブラウンの髪は、一番最初に会ったときのようにふんわりと緩くセットされていて、白っぽいシャツと黒のジレにブラックジーンズを合わせた服装だった。 美容師がやるようなモノトーンなスタイルが目を見張るように素敵で、私は数秒間じっと見惚れてしまった。 休日の朝から本気でメイクをして、髪もかわいく巻いて、こちらが驚かせようと思って来たのに、これでは逆だ。 それを少しばかり悔しく思いながらも、まだ私に気づいていない斗夜に声をかける。「お待たせ」 振り返った斗夜が私を目にした途端、ポカンとしたまま固まった。 そのあと我に返ったように、口角を上げて笑顔になる。「見違えた」 「そう? いつもよりかわいい?」 「ああ。かわいすぎてビックリした」 お世辞でも褒められるとうれしいものだ。 『いつもと同じだ』などと言われたら、朝から気合いを入れて頑張った自分が報われない。「ヤバい。俺、咲羅にハマりそう」 斗夜は目を細めて私に近づき、緩く巻いた髪先に触れる。 彼の一連の言葉と動作に、女慣れしているなと感じてしまった。 男性なのに指先まで綺麗で、さらに色気があるなんて反則だ。「あのね、斗夜は誰にでも言うからダメなのよ?」 未だに近くにある斗夜の瞳と視線を合わせ、私は静かな口調でたしなめた。「そういう発言は、女の子はうれしいの」 「だったら問題ないだろう」 「斗夜が言うとお世辞に聞こえないから」 斗夜
「俺、お世辞は言わないけど?」 私と視線を合わせたまま、斗夜は真面目な表情でポツリと言う。「こういうのは殺し文句だから、誰かれ構わずに言ってたら大変なことになる」 どうやらそれはわかっているようだ。 だとしたら、私に対する先ほどの発言も真剣だったと聞こえるけれど、それは考えすぎだろうか。「あ、でも俺……今リハビリ中だった。軽いと思われる言動は慎まなきゃ、誤解されるよな」 斗夜は眉をひそめ、残念そうに一歩あとずさりして私から距離を取った。 慎んでくれるのはありがたい。 斗夜は重症のようだから、リハビリはかなりの時間を要するだろう。『ヤバい。俺、咲羅にハマりそう』 先ほどの斗夜の言葉が頭から離れない。 爆発しそうにドキドキと鼓動している心臓が痛くて、右手でそっと胸を押さえた。 私たちは並んで歩き、ショッピングモールへと向かった。 街は日曜日なので家族連れが多く、どこの店内も混み合っていた。「何を買いたいの?」 おもむろに私が尋ねると、斗夜は「こっち」と私を手招きして一軒の雑貨屋さんへと足を踏み入れた。 お店には様々な洒落た雑貨が並んでいて、見ているだけで私も楽しくなってくる。「こういう置時計、カッコいいよな。アラーム機能も付いてるし、ベッドサイドに置いてもいいか」 斗夜はブツブツと独り言のように言いながら、気に入った時計を手に取って眺めている。「俺、朝弱いんだよ」 斗夜が参った、というような顔を私に向ける。 なんとなくだけど、斗夜の雰囲気からして夜型人間だと私は予想していた。「うん、強そうには見えない。起きる時間になっても、ずっとベッドの上でゴロゴロしてそう」 「当たってるよ。前日、真夜中までがんばりすぎたら全く起きれないんだよな」 「…………」 なにをがんばるの? などと聞かなくてもわかってしまい、溜め息が出た。「でもその時計、すごく良いデザインだよ。カッコいい」 「買おうかな。咲羅も買う?」 「なんで私まで」 「お揃いにしよう」 女子高生か! と心で突っ込みながら、差し出された置時計を「私はいらない」と押し返す。 だけど斗夜自身は購入を決めたようだ。 私たちがフラっと立ち寄ったこの雑貨店は奥行きのある造りで、意外と店内は広かった。「お、弁当箱だ」 斗夜がとある一角で、おもむろに
「弁当男子になろうかな」 男性用の黒っぽいシンプルなお弁当箱を手に取って、斗夜がにこにこしながらそうつぶやく。「斗夜が自分で作るの?」 まさか……適当な女性と付き合って、その子に毎日お弁当を作らせるつもり? 一瞬心配になったが、リハビリ中だと本人が断言しているのだから、それはないだろう。「俺、けっこう料理するんだよ」 「へぇ、意外」 「咲羅は料理しなさそうだな」 「失礼ね!」 私だって少しくらいは料理する。……ほんの少しだけど。 私が視線を逸らせたのを見て、あまり料理をしないことを見抜いたのか、斗夜が疑いの眼差しで微笑んでいる。「まぁ、女の子だからって料理できなくても別に……ね」 「少しは出来るわよ!」 「なんなら俺が教えてやろうか? 初心者用のメニューで」 料理どころか家事をまったくやらない女だと思われるのが嫌で反論してみるけれど、斗夜は私の言葉を聞き入れないので会話がかみ合わない。「あれはなんだろう?」 私はそんな斗夜を放って、小さな機械がブクブクと音を立てている方角へ足を進める。 近づいてみると、それは小さな簡易型のフットバスだった。 風呂桶の中に足の置き場があるような形をしていて、デモ用に水が入れてあり、ブーンと電気の音がして動いていた。「気持ち良さそうだな」 気がつくと、斗夜が私の隣に来て一緒にそれを見ていた。「仕事して一日が終わると、足が疲れてるの。事務でもそうなんだから、外回りの営業はなおさらだよね」 今度は私が独り言のようにつぶやき、フットバスの周辺にあったバスグッズを手に取って眺める。「営業は慣れだから。最初は疲れるけどな」 「そっか。あ! 私はこれ買う。入浴剤が欲しいって思ってたの」 私はかわいらしい入浴剤のシリーズに目を奪われ、斗夜への返事が適当になってしまった。 桃の花、ローズ、レモングラスなど、ほかにもいろんな香りがあって、見ているだけで癒される。 “潤うミルクプロテイン配合”や、“しっとりなめらか天然コラーゲン配合”という謳い文句も、女子にはそそられる文言だ。「楽しそうだな」 私が急ににこにこしながら商品を物色し始めたのを見て、斗夜はうれしそうな表情で私の様子を傍観していた。「どれがいいかなぁ。やっぱり潤いは大切だもんね。すべすべになるなら、やっぱりこれかぁ……」
「すべすべって、いい響き」 「変なこと想像しないで!」 買ってもらっておいて、こんな悪態を言いたくはないが、咄嗟に口から出てしまったので仕方がない。 テーマは“純愛”のはずでしょう? 純粋な気持ちを取り戻そうとどんなにリハビリしても、こういう妄想をしていては治らないと思う。 口を尖らせる私をよそに、斗夜は機嫌良さそうに笑っている。 私をからかっているのだろうか。 私たちはショッピングモール内のレストランで昼食を取ることにした。 ランチタイムとしては遅い時間になってしまったのもあり、待つことなくテーブルに案内される。 ざわざわと混雑した場所での食事は落ち着かないので、店内が空いていてホッとした。 斗夜がカレーを選択したのに影響されて、私も同じものを注文した。 向かい合わせに座った私たちは、ほどなくして運ばれてきたカレーに手を伸ばす。「これ……あんまりおいしくないな」 半分くらい食べ進めた頃、斗夜が今さらのようにつぶやいた。「え……そう?」 私は小首をかしげ、再びカレーを口の中で味わってみる。 私はとくに不味いとは思わなかった。 おいしい! と絶賛するほどの味ではないけれど、普通のカレーだ。 私はあまり食に興味がないので、おいしいものが食べたいという欲がなく、味にも鈍感なのだろう。「俺が作ったカレーのほうが断然うまいよ」 「言い切ったね」 「絶対そうだから」 ちなみに私もカレーくらいなら作れる。 市販のルウを使って、箱に書いてあるレシピ通りに作ればいいだけなので簡単だ。 斗夜が言うのは、どうやらそれとは違うみたいだけれど。「今度試してみる?」 「なにを?」 「俺の作ったカレー、食べに来たら?」 斗夜にとってはなんでもない発言だったとしても、私は驚いて挙動不審になってしまう。 キラキラとした綺麗な笑顔で、ドキッとさせるようなことを言わないでもらいたい。「なんか………楽しいな」 「え?」 「買い物して、こうして飯食って会話するの。純粋にそれだけで楽しい。……あれ? もしかしてそう思ったのは俺だけ?」 私は笑ってゆっくりと首を横に振る。「私も楽しい」 なんだか今日は充実した休日を過ごせたような気持ちになった。 それは間違いなく斗夜のおかげ
買い物デートという名のリハビリから、十日が経った。 昼間に楽しく過ごして、そのまま別れる。 そんな健全なデートの良さを思い出した私と斗夜は、三日前の日曜にも会い、一緒に映画を観て過ごした。 映画館を出たあと、カフェでその映画の感想を語りあって帰るだけで、お酒も飲まず、夜の危うい雰囲気もなかった。 会話だけで心が弾んだことが、私たちにはとても新鮮に思えた。 どこか遠くに置いてきてしまった懐かしい感情を、私は斗夜に感じずにはいられなかった。 その感情の名は、もしかしたら“ときめき”なのかもしれない。 私の心の中は、やわらかく温かで色めき立つような感覚を覚え始めていたけれど、次の日であるおとといの月曜日、それが早くも粉々に砕けそうな予感が走った。「八木沢さんは今日も一日中、時枝(ときえだ)さんと一緒なのね」 仕事中、隣のデスクの史香が何気なく放った言葉が、私の心にグサリと刺さる。 時枝さんは本社の営業の女性社員で、うちとの合同プロジェクトの案件で、今週一週間だけこちらに来ている人だ。 彼女が本社の営業部にいた斗夜と面識があるのは当然なのだが、同僚という関係以上に仲が良く見えるのは、気のせいではないと思う。 おとといから今日までの三日間、ふたりは片時も離れずにいると感じてしまうほどだ。 社外に出るときも一緒ならば、社内に居るときもふたりでミーティングをしていて、他を寄せ付けない空気を醸し出している。 時枝さんが斗夜に向ける視線には、特別な色を含んでいるのは明白なのだけれど、斗夜はそれにきちんと気づけているのだろうか。「時枝さんは本社でも優秀らしいよ。見るからにデキる女って感じだもんね。八木沢さんと良いコンビだわ」 史香の言葉に私は軽く顔が引きつるが、悟られてはいけないと思い、パソコンの画面を見つめてキーボードを叩いた。 斗夜は彼氏でもなんでもないのだから、行動をいちいち気に留めても仕方がない。 考えるのはやめようと試みたけれど、この三日間は斗夜の仕事が忙しいせいで、私とは同じ部署にいながら視線すら合っておらず、私の気分は沈んだまま浮上できないでいた。 今日は私が出社した頃には、既にふたりで得意先へと外出していたので、朝の挨拶すらしていない。 仕事とプライベートは別だと重々承知はしているが、会社での斗夜を見る
私はなんとなくこのまま帰るのが嫌で、例のバーへと足を向けた。「いらっしゃい」 いつもと変わらず、イケメンマスターが緩い笑顔で迎えてくれる。 この癒しの空間にいると、私の心に刺さったトゲが抜けていく気がした。「今日は……ひとり?」 マスターの問いかけに、笑顔で「はい」とうなずいた。 あとからよく考えてみると、このときマスターが、そんなふうに尋ねたのは不可解だった。「斗夜がね、リハビリデート楽しかったって言ってたよ」 私が注文したカクテルを差し出しながら、マスターがやさしく微笑む。「マスターに教えていただいたイタリアンレストラン、雰囲気が良くて美味しかったです」 斗夜は良いお店を教えてもらった手前、友達であるマスターに私とのリハビリデートのことをいくらか話しているようだ。「別の日にもショッピングしたり、映画を観たりしたんですけど……私、人混みとかザワついてる場所が苦手だから、あのレストランでの食事が一番落ち着けて、ゆっくり楽しめました」 今のはお世辞ではなく本心で、本当に良いお店を教えてもらったと、マスターに感謝したい。「斗夜も同じことを言ってた。パスタもうまかったし、気に入ったからまた行きたいって」 話しているマスターの顔が本当にやさしそうで、やはりこのバーの雰囲気と気さくなマスターの存在が、私を癒してくれているのだと思えた。 だけど次のマスターの言葉で、私の笑顔が曇ることになる。「それと、もうリハビリは必要ないかもって言ってたよ」 「……え?」 「斗夜はなにか大事なものを見つけられそうなんじゃないかな。心に変化が生じているんだけど、まだ自分でそれに気づけていない気がする」 平然と聞く素振りを見せていたけれど、心臓がギュっと掴まれたように痛い。 私には想定外だったこともあり、衝撃的すぎてしばし固まってしまった。 リハビリが必要ないということは……斗夜にとって私は必要なくなるのだ。 それに、後半マスターが口にした言葉は私には抽象的過ぎて、理解するには難しすぎる。「あ、マスター。これ、斗夜さんに聞いてみてもらえませんか? たぶん、昨日一緒に来ていた女性が忘れて行ったと思うんですよ」 若いバーテンダーの男の子が、無意識に私の心臓にとどめを刺した。 マスターが女性ものの淡いピンクのハンカチを受け取りながら、そのバ
次の日の朝、デートだから髪を巻こうと頑張ってみたけれど、以前ほど上手にできない。 ふと、斗夜と買い物デートをした日の記憶が蘇ってきた。 あの日も自分なりに頑張ってオシャレをして出かけたのを思い出し、この前はもう少しマシに髪が巻けたのに、と鏡の前で眉を寄せながらヘアアイロンと格闘した。 今日の服装は、清楚と上品をテーマに選んでみた。 薄いピンクのブラウスに、白のフレアスカートを合わせ、胸元には小さな石の付いたネックレスをあしらう。 女子アナのように知的さも出たので、自分の中では及第点だ。 五分前に待ち合わせの場所に着くと、戸羽さんもちょうど同時に姿を現した。「咲羅ちゃん」 私に気づいて声をかけてくる戸羽さんは、髪をワックスで遊ばせているせいか、前よりもカッコいい。 今日も相変わらず、黒縁眼鏡の奥から覗く瞳が穏やかで優しい感じがする。「来てくれてうれしいよ」 目を細める戸羽さんを見ながら、私も大人なのでさすがに連絡もなしに約束をすっぽかしはしない、と心に浮かんだ。「どこに行きますか?」 「えっと……ちょっと付き合ってもらいたい場所があるんだ。実は腕時計の金具が壊れて、修理に出そうかと」 デートなのに所用に付き合わせて悪いと思ったのか、眉尻を下げてこちらを伺う戸羽さんが、少しばかりかわいらしい。「大丈夫ですよ。行きましょう」 私の返事を聞いた戸羽さんに優しい笑顔が戻り、ふたりで時計店を目指して歩き出す。 高級そうなお店の前で戸羽さんが歩みを止めた。 そこは間違っても私が普段フラっと立ち寄ることの出来ない雰囲気を纏った場所だった。 不審者のようにじろじろと店内を見回してしまいそうになったが、自制心でそれをぐっと堪える。 戸羽さんはカウンターの中にいる店員に声をかけ、金具が壊れた腕時計の修理の話を進めた。 待っている間、私はなにをするでもなく店内をうろうろとしていたのだけれど、手垢ひとつなくピカピカに磨かれたショーケースの中に展示されている、存在感のある腕時計がふと目に入ってきた。 別にそれを気に入ったわけではないのだけれど、隣に置かれていたプライスカードの値段を目にし、高すぎて目玉が飛び出た。 ケタを見間違えたかと思ったけれど、450万円だ。 だけどブランドものの時計ならば、それくらいの値段でもおかし
斗夜は去り際になにか言ってから出てきたようで、それは私に関することだと思うから内容が気になってしまう。「なにを言ったの?」 クスっと電話口で思い出し笑いをする史香とは反対に、私はスマホを持つ手がわずかに震えた。『白井さんの噂は彼女をやっかんだ人が言いふらしたんです。あなたは彼女のなにを知ってるんですか? 彼女を傷つけて侮辱するような発言は、例え先輩でも俺は今後一切許しません!……って言ってた』 まるで魂を抜き取られたみたいに、私はボーっと聞き入ってしまった。 喉が急に熱くなってきて、声がうまく出て来ない。『あの時、確信しちゃった。八木沢さんも咲羅が好きなんだ、って』 斗夜が時枝さんに対してそんなことを言ったなんて信じられない。 この一週間、ふたりは蜜月に見えていたのに。『どう考えても咲羅に気があるとしか思えない。あの場に居た人はみんなそう感じてたよ。私の隣にいた重森なんて口があんぐりと開いてたわ。たぶん、八木沢さんには勝てないって思ったんだろうね』 ……違うよ。斗夜は私と同じでリハビリ中だもの。 彼には純粋に心から好きだと思える恋愛ができない欠点がある。 身体の関係にはなれても、相手と本気で心を繋げられないのだ。 今はその欠点を治すためにリハビリをしているのに、私を好きだなんて感情が簡単に芽生えるわけがない。 それは史香が彼をわかっていないだけだと思う。『私は重森だけじゃなくて、八木沢さんも慰めなくちゃいけないのかな? そうなったら重森なんて放っておくけど』 「……へ?」 『だって咲羅は明日の戸羽さんとのデートに乗り気なんでしょ? 重森が肩を落として言ってたよ』 別に乗り気じゃないのに、と私は重森を思い浮かべて口をとがらせた。 どうして史香が誤解するようなことをわざわざ言うのだろう。『明日のデート、どうなったか報告待ってるよ』 史香がフフフと楽しそうに笑い声を漏らす。「戸羽さんは、穏やかでいい人だから……明日いきなりどうにかなることはないと思う。それにね、戸羽さんと恋が出来そうかどうか、ちゃんと見極めたいんだ」 彼がどういう人なのかを理解するところから始めなければいけない。それが心を通わせる第一歩だから。『なんか咲羅……最近、変わったね』 「そう?」 本城との失敗の経験があってから、慎重になろうと
悪く言われたくはないけれど、万人に私を受け入れてもらえるなんて、さすがに思っていないから、私は史香のような人を大切にできればそれでいい。 仲良くできる人は少数でもかまわない。『あの人、咲羅がモテるから妬いてるんだろうね』 「……私、別にモテてないよ」 『自覚症状なしですか』 私を笑わせるために一定のトーンで言葉を発する史香がおかしくて癒される。『重森がさ、今日私に泣きついてきたよ? いくら咲羅を口説いても、デートどころかまったく相手にされないって』 「……は?」 重森と話している内容が自分のことだったなんて思わなかった。 私はどういうことかと、スマホから聞こえる史香の話を集中して聞いた。『明日は他の男とデートするみたいだから、俺はやっぱり脈なしなのか? って、私は延々と愚痴を聞かされたんだから!』 「……そうだったの」 『重森も咲羅と一緒で誤解されやすいみたい。たぶん……あんまり遊んでないよ、アイツ。咲羅のこと、けっこうマジで好きみたい』 ―――― 重森が? そんな、まさかだ。 いつも彼の誘いは、ふわっと飛んで行きそうな綿雲のように軽かった。 なので、そこに少しでも真面目な思いが含まれているなどと、私は考えたこともなかった。 私はもしかして、今まで重森に対してかなりひどい態度だったのだろうか。『重森、八木沢さん、バーのマスター、戸羽さん。これでモテてないなんて言わせないからね? で、結局咲羅は誰にするのよ』 「……え?!」 いきなり四択を迫られても、どこから突っ込んでいいか頭がついていかず、思わず声が裏返った。「ちょっと、なに言ってるの」 『あはは。マスターの話も聞こえてきちゃったもん』 居酒屋での時枝さんの発言を、史香はけっこう漏らさずに聞いていたようだ。 重森と話しながら小耳に挟むなんて、器用だなと感心してしまう。「マスターは全然そんなんじゃないよ」 『そうなの? まぁ、重森は元からないとしても……あとは、八木沢さんか戸羽さんね』 ……あっという間に二択に減った。 史香の言葉で、斗夜と戸羽さんの顔が交互に思い浮かぶ。 バーで戸羽さんと偶然再会して、土曜日にデートの約束をしたことは、史香には翌日の朝にすべて話した。 戸羽さんと今までに会ったのはたったの二回で、ふたりきりでデートするのも明日
斗夜にとって、リハビリ相手である私は必要なくなった。 でもどうして私までリハビリを中止しなくてはいけないのか。 斗夜が辞めるなら、私は違う相手で続けるまでだ。 真剣な恋ができるように、そのやり方を思い出せるようにと、せっかく始めたことなのだから。 リハビリから先に卒業できた斗夜は、以前傷つけてしまった元カノに思いを告げればいい。「誤解だよ。連絡できなかったのは仕事が忙しかったせいだ。それはホントだから」 火曜日に時枝さんとバーに行く時間はあったのに? などと考える私は、意地が悪い。 それを実際に口にしなかっただけマシだけれど。「だから、行くなよ……」 斗夜の瞳がゆらゆらと揺れていて、心配と不安と切なさが入り混じっていた。 だけど私は、それに気づかないフリをする。「行くよ。約束しちゃったもの」 「咲羅……」 私は小さくつぶやいて斗夜に背中を向け、路地裏から表通りに出た。 抱きしめられていたときからずっと、心臓が掴まれたように痛くて、熱い頬が元に戻らない。 人の心をこんなに掻き乱せるのだから、斗夜がモテるのは当たり前だ。 無心になろうとすればするほど、至近距離で囁かれた斗夜の甘い声が耳から離れないままだったけれど、私はそのまま家路を急いだ。 家に帰ってシャワーを浴びた直後に、テーブルの上のスマホが着信を告げていることに気づいた。 私は画面に表示された相手を確認し、人差し指でスライドさせる。『咲羅、今ひとりなの?』 電話をかけてきたのは史香だった。 私がひとりでいるのかどうかなんて、いつもは気にしたことがないのに、なぜ聞くのだろうと思ってしまう。「帰ったんだからひとりだよ」 『そっか。八木沢さんもすぐに出て行ったから……』 私が居酒屋の座敷を出たあと、すぐに斗夜が追いかけて来たから、今もふたりで一緒にいるのかもしれないと考えたのだろう。『大丈夫?』 「なにが?」 『時枝さんが居酒屋できついこと喚(わめ)いてたでしょ。あの人、性格悪そうだもん』 史香の言葉を聞いて、私が抱いた時枝さんのイメージと同じだったことに軽く笑いがこみ上げた。 重森と話し込んでいた史香は、私たちの話は聞こえていないのかと思っていたけれど、最後のほうは時枝さんの声が大きかったから、自然と耳に入ってきたのだろう。「大丈
マスターは私と戸羽さんのことを斗夜に密告したらしい。 物静かな人だと思っていたけれど、どうやらおせっかいな面もあるようだ。「『咲羅ちゃんは草食系だって豪語してるけど、俺にはそう思えない!』って、興奮気味に電話をかけてきた。時枝さんが言ってたこと、あながち間違っていないのかもな」 「え?」 「……彰、咲羅に気があるのかも」 どうして時枝さんの発言を真に受けるのかと、私は腹が立ってしまう。 キュっと眉間にシワを寄せ、不快だと言わんばかりに斗夜を見上げれば、深いブラウンの髪の隙間から覗く瞳と視線が絡んだ。「バカなこと言わないでよ。マスターは単純に私を心配してくれただけでしょ」 「そうかな?」 「そうに決まってる」 斗夜が再び私の背にまわしていた腕の力を強めた。 ギューっと抱きしめられ、自然と斗夜の逞しくて温かい胸板にピタリと密着してしまう。 その行為に、今更私の心臓はドキドキと早打ちを始めた。「今週は時枝さんが来たから思いのほか仕事が忙しくて、連絡出来なくて悪かった。けど……ほかの男とデートってひどくないか?」 「……は?」 斗夜の言葉の意味がまったくわからなくて、なにを言ってるのだろうと、思わず素っとん狂な声を上げてしまった。 どうして私がひどいのだろうか。「なにもひどくないでしょ。私たち、付き合ってるわけじゃないんだから」 「…………」 「それを言うなら、時枝さんをあのバーに連れて行くことないじゃない。ひどいのはどっちよ」 あのバーは、“私たちの隠れ家”なんて言うつもりはないけれど、唯一私がほっこりできる場所だった。 だけど斗夜に気がある時枝さんを招き入れたことで、あの空間の雰囲気を変えられた気持ちになってしまった。「悪かったよ。もうしない」 耳元から響く斗夜の低い声が、脳まで浸透していく。 やさしくて甘い声が聞こえたらなにも考えられなくなって、強く抱きしめられていることに違和感がなくなった。 斗夜の胸板に自分自身が溶け込んでしまいそう。「だから………明日のデートは辞めてくれないか?」 抱きしめられていて顔は見えないけれど、彼はきっと切ない表情をしているのだと声でわかってしまった。「なんで……そんなこと言うの」 このタイミングと体勢を考えたら、その発言はずるい。どうしても期待してしまうから。
『そんなだから敵を作るのよ』 先ほどの時枝さんの言葉が頭の中で響いていた。 理由は、痛いところを突かれたからだろう。 その部分は、彼女の言う通りなのだ。 多少嫌な発言をされても、我慢して笑顔を作り、平然と耐えていればもう少し人間関係はうまくいくのかもしれない。 私は正直にすぐに顔に出るし、器用にお世辞も言えないから、それが完全に裏目に出ている。 自覚はあるけれど、彼女がやっていたようにわざとらしい作り笑顔をしようとしても、顔が引きつってしまうのだ。 それに、正直な態度のなにが悪いのかと思っている。「咲羅……」 頭の整理がつかなくて、座敷から出て無意識に立ち止まっていたら、後ろから私の名を呼ぶ声が聞こえた。「大丈夫か?」 振り返ると、心配そうな顔をして斗夜が立っていた。「大丈夫……なわけないでしょ」 私はひとことだけ言い残し、逃げるように店の出口へと向かう。 だけど斗夜が足早に追いついて来て、彼は私の手首を掴んでそのまま店の外へと出た。「ちょ、ちょっと!」 狭い路地へ引っ張り込まれ、そのまま彼の広い胸に閉じ込められる。 あんな風に正面きって罵(ののし)られ、気持ちはズタズタだから、やさしくされたら堪えている涙が溢れそうになる。「止めてやれなくて悪かった。時枝さんは本社で世話になった先輩だから、遠慮があった。でも……そんなの関係ないよな。ごめん」 最後まで言い終わらないうちに、斗夜は私を抱きしめる腕に力を込めた。 彼のスーツからは心地良い香りがして、この腕から抜け出したくないと思ってしまいそうになる。「斗夜はちゃんとフォローしてくれたよ。私が拝金主義じゃないってかばってくれた」 あの発言が彼女のトゲをさらに鋭くした要因ではあるけれど、援護してくれたことはうれしかった。「相手が医者だなんて言ったのは失敗だったな」 斗夜の言う通り、口は禍の元で、私が余計なことを口走ったのがいけなかった。「行くのか?」 「なんの話?」 「明日、医者とデートなんだろ?」 私は無表情でコクリとうなずいた。 明日は普通の健全デートだから、別にやましくはないと、自分の中で言い訳をする。「彰も心配してた」 「マスターが?」 「ああ。俺にわざわざ連絡してきたからな」
時枝さんはにっこりと笑っていたけれど、私にはまるで鼻で笑われたように感じた。 先ほどの“さすが”という言葉は、思った通り良い意味ではなく、高収入な男を狙うあざとい女、とでも言いたいのだろう。 これは私の被害妄想ではなく、確実に当たっている。「仕事がお医者様だからとか、関係無いです」 「え……そんなことないんじゃない?」 だから嫌いなのだ。 裏表が激しそうで陰口が大好きな女性は、話すと虫唾が走るし吐きそうだ。 早くこの場から立ち去りたい。「白井さんは……違いますよ」 今の今まで黙ったままで、助け舟をまったく出さなかった斗夜が、深いブラウンの髪をかきあげて突然口を挟んだ。「彼女は時枝さんが思ってるような“拝金主義”ではないです」 真顔でトゲを含んだような彼の言い方が冷たくて、いったいどうしたのかと私が驚いた。 現に、時枝さんの様子をうかがい見ると、カっと瞬時に顔が赤くなり、こめかみ辺りがヒクヒクしている。 彼女は今まで頑張って作り笑いしていたのに、この一瞬で仮面が剥がれるように崩れた。 今は彼女とは逆に、斗夜のほうが薄っすらと不敵な笑みを浮かべていて少々怖い。 だけど斗夜は、確実に私の味方をしてくれたのだ。 そう考えたら少なからず胸が疼いて、彼の言葉に感動しているのだと思い知らされる。「な、なによ、八木沢くんまで。白井さんは噂通り、男を手玉に取るのがお上手のようね」 なるほど、と彼女の発言で合点がいった。 最初から私を蔑(さげす)むように上から目線だったのは、社内の噂を聞いたからだ。「私は誰も手玉に取っていませんし、あなたにバカにされるような覚えも一切ありません。あなたのせいで気分が悪いので私は帰ります」 いくら先輩だと言えど、ここまで侮辱されて、なぜこの場にまだ居なければいけないのかと思うと、限界だった。 この飲み会が就業後の任意のもので、強制ではないのなら、堂々と帰らせていただく。「かわいくないわね」 バッグを持って立ち上がった瞬間、背後から彼女の言葉がボソリと聞こえ、振り向くと作り笑いが面白いように消えた時枝さんと目が合った。「あなた、そんなだから敵を作るのよ。自分が社内でなにを言われてるか、知らないわけないわよね? 私もここに来た初日に聞いたもの。あなたはこの支社の誰もが知る有名人になっ
マスターの愛想笑いした顔を思い浮かべ、私は小さく息を吐きだした。 時枝さんの口ぶりからすると、マスターはわざと私の話をしたのではないだろうか。 なぜそんな行動に出たのか私には意味不明だけれど、同僚から妙な誤解をまた受けるのかと思うと気が滅入ってくる。 噂なんか気にしないとはいえ、事と次第によってはマスターに文句のひとつでも言わないといけない。「そんなわけないじゃないですか。マスターが私を……なんて」 「あら、そうかしら?」 時枝さんはわざわざ私に顔を寄せ、ニヤリと意味ありげに笑う。 その顔がわざとらしくて、私は背筋がゾクリとした。 やはり彼女は、私が一番不得意なタイプの女性だ。「今度デートに誘ってみたらどう? きっとマスターは喜ぶわよ。お似合いだと思う」 時枝さんが隣で大人しく聞いていた斗夜に同意を求めると、彼は一瞬曖昧に微笑んで私に視線を向けたけれど、その瞳は不機嫌そうだった。 そんな顔をしていないで、なにか反論してくれればいいのに。 それにしても、時枝さんの思い込みの話はもう聞きたくない。 私とマスターはお互いにその気がないのに、くっつけようとしているのだろうか。「私とお似合いなんて言われたら、マスターが気の毒ですよ。それに私は、違う人と明日デートなので」 時枝さんの目の色が変わったのを見て、しまったとすぐさま後悔の念が押し寄せた。 彼女の言動にイラっとしたとはいえ、これでは自ら新しい火種を撒いてしまったのと同じだ。「え?! 明日デートなの? 白井さん、付き合ってる彼がいたの? どんな人?」 たちまち時枝さんから質問の集中砲火を浴びせられたけれど、これは不用意な発言をした自分が悪い。「彼氏ではないです。デートも明日が初めてなので」 「イケメン?」 「……普通じゃないですかね? 眼鏡をかけてて知的な感じの人です。お医者様なので雰囲気も落ち着いてるかな」 私が笑顔もなく淡々と答えていても、時枝さんの食いつきぶりがすごくてウンザリする。「お医者様なの?! さすが白井さんね。勤務医だとしてもなかなかの高収入じゃないの!」 戸羽さんは見た目も中身もインテリで大人だし、物腰や雰囲気が柔らかくて落ち着いている。 その人物像を私は正直に話しただけなのに、彼女の言った“さすが”という言葉が私の中でどうしても引
私たちより少し遅れて斗夜と時枝さんが座敷に入ってきて、たまたま私と史香の向かいが空いていたのでそこに座った。 このときばかりは失敗したと思った。 私もなにか理由をつけて遅れ、出入り口に一番近い下座にちょこんと座ればよかった。この位置だと、ふたりが丸見えだから。 仏頂面とまではいかないが、愛想のない表情で私はジョッキをかかげて乾杯した。 堅苦しい上司のいない飲み会のため、同僚たちは最初から砕けまくっていて、ほどなくすると酒に酔った男性社員たちがガハハと下品な笑い声を上げ始めた。 私はずっとうつむき加減でビールを飲んでは料理に手を伸ばし、意識的に斗夜たちのほうを見ないように心がけた。 正直に言うと、ふたりを視界に入れたくなかった。 どうして仕事のあとまで見せつけられなきゃいけないのかと思うと腹立たしい。 斗夜と一切視線を合わせず、ふたりの会話もできるだけ聞かないようにシャットアウトしていた。 その方向だけ聴力を遮断できるなんて、我ながら素晴らしい能力だ。「白井さん、お疲れ様でした。一週間ありがとう」 だけど、斜め前に座る時枝さんが笑顔で私に話しかけてきた。 せっかく気配を消していたのに、無駄になってしまった。「いえ……私は別に。お疲れ様でした」 私も社会人であり大人だから、例えこの一週間、とくに彼女と関りがなかったとしても、愛想笑いをして無難に挨拶を済ませる。 意識的に見ないようにしていたのに、なんとなく視線を感じた方向に顔を向けた私は、時枝さんの隣に座る斗夜とバチっと目が合ってしまった。 斗夜は不機嫌さを含んだような顔で、なにか私に文句でもありそうだ。「八木沢くんとね、この前会社帰りにバーに行ったのよ。八木沢くんの友達がマスターをやってるお店」 私は時枝さんとほとんど話をしたことがないのだけれど、彼女は心のこもっていなさそうな話し方をし、すごく裏がありそうな作り笑いをする人だ。 私の苦手なタイプの女性なのだろうと敏感に感じ取ってしまい、自然と警戒して自己防衛のためにバリアを張ってしまう。「マスターが言ってた“咲羅ちゃん”って、白井さんのことなんだってね?」 バーで私のことを話すなんて、なにを考えているのだと、一瞬斗夜を横目で睨んだ。「私が前から通ってたバーのマスターが、偶然八木沢さんとお知り合いだっ