「知らない」 修は冷たく言い放った。 「お前が侑子の妊娠を知ってるってことは、若子が教えたってことだろ?つまり彼女と連絡を取ったんだ。じゃあ、彼女は自分の居場所を教えなかったのか?それとも、お前が彼女と連絡取れなくなったってことか?」 それは修自身も気になっていた。 まさか、若子が戻ったあと、何かトラブルに巻き込まれたんじゃないだろうか。 あの時、彼女をひとりで帰すべきじゃなかった― 「ふざけるな、話を逸らすな!若子はどこだ!」 「知らないと言ってるだろ!」 修は激しく西也を突き飛ばした。 「お前の嫁なんだろ?守れもしないくせに、どの口で『俺の嫁』なんて言える?遠藤......お前は本当に、どうしようもない男だな」 「お前......死ぬ間際まで強気か!」 西也は怒りに任せて拳を振り上げ、修の顔を殴ろうとする― だが、その直前。修の口元に浮かんだ皮肉な笑みを見て、拳は空中で止まった。 「......怖くないのか?さすが藤沢総裁、肝が据わってる」 怒りを押し殺すように西也は吐き捨て、すぐさま侑子の前に立ちはだかる。 そして部下のひとりから銃を受け取り、銃口をそのまま彼女の首筋へと押し当てた。 「ひっ......!」 侑子は恐怖で叫び、修の名を呼んだ。 「修、助けて!」 「彼女には関係ない!手を放せ!」 修の眉は鋭く吊り上がり、瞳には怒りの炎が燃え盛っていた。 その様子を見た西也は、愉快そうに鼻で笑う。 「へぇ......随分大事にしてるんだな。ほんと女には不自由しないんだな、お前。桜井雅子の次は山田侑子か。お前みたいな奴に、若子が戻るわけないんだよ。自業自得だ」 そう言って、侑子の髪を荒々しく掴む。 「痛っ......!」 侑子は悲鳴を上げる。 「手を離せ!」 修は怒りに満ちた声で叫んだ。 「どうせお前の周りには次から次へと女が寄ってくるんだ!それでもまだ若子まで奪うつもりか!返せよ、俺の若子を返せえええ!!」 西也は完全に理性を失っていた。 「本当に居場所は知らない。だから、まずは侑子を放せ、若子のこと、俺がなんとか探させる」 修は自分の軽率さを痛感していた。 ここなら誰にも邪魔されず、静かに過ごせると思っていた― まさかこんなふうに追
「きゃっ!」 侑子は再び悲鳴を上げ、床に倒れ込んだ。 修が思わず彼女に駆け寄ろうとしたその瞬間、後ろで銃を構えていた男が警告の声を上げる。 「動くな!」 西也は銃を修の額に向け、冷たい声で命じる。 「跪け!」 しかし― 「バカが」 銃声のような衝撃音が響いた。 修は電光石火の勢いで西也の顔面に拳を叩き込み、彼の手から銃を奪い取ると、そのまま背後から拘束。 奪った銃を西也の首元、大動脈に押し当てた。 室内にいた全員が一斉に銃を構え直し、修と侑子に狙いを定める。 「遠藤様を放せ!」 緊迫した空気の中、修は鋭く命じた。 「全員、銃を下ろせ。さもないと、お前らのボスの喉元を吹き飛ばす」 西也の顔が凍りつく。 まさか、修がこんな強硬な手に出るとは― 後ろにも銃、前にも銃― それでも逃げきった。 ―くそっ、油断した...... 「遠藤」 修は耳元で低く囁いた。 「今すぐ状況を理解しろ。手下に銃を下ろさせろ。でなきゃ、ここで死ぬのはお前だ」 西也は拳を握りしめ、悔しさに歯を食いしばる。 「......銃を下ろせ」 部下たちは一瞬迷ったが― 今、ボスが相手の手にある以上、逆らうことはできなかった。 彼らはしぶしぶ、手にした銃をゆっくりと地面に置いた。 「修!」 侑子が震えながら修の元へ駆け寄り、その背中に隠れるようにしがみつく。 「もう銃は下ろした。今すぐ放せ!」 西也が怒鳴る。 「今放したら、お前が逆襲してくるだろう?」 修は冷静に続けた。 「彼たちを外に出せ」 「出て行かせたら俺が殺されるに決まってるだろ!俺をバカだと思ってるのか?」 「殺しはしない。だから出させろ」 ここで西也を殺してしまえば、自分もただでは済まない。 それに―若子がこのことを知ったら、きっと一生自分を憎むだろう。 その一瞬、修の心をよぎったのは「いっそ殺してしまおうか」という衝動だった。 たとえ一生恨まれたとしても、それでもいい。 心のどこかで、自分の存在を刻み込めるのなら。 たとえそれが「憎しみ」という形だったとしても― だが結局、彼はそれを選べなかった。 若子と、そんな関係になってしまうのは、どうしても耐えられなかった。 修は
リビングにはもう、修と西也の二人だけが残されていた。 床に散らばっていた銃はすでに片づけられ、今は丸腰同士の対峙だ。 「藤沢、お前今さら何がしたい?言っとくがな、もし俺に何かしてみろ、若子は一生お前を恨むぞ。俺は彼女の子どもの父親であり、夫なんだからな!」 ドンッ! 修は容赦なく西也を床に叩きつけた。 西也は転がるように倒れ込み、起き上がる頃には口元から血が滲んでいた。 「......この野郎......!」 西也は歯を食いしばり、怒りに震えながら立ち上がろうとする。 だが修の手には、まだ銃が握られていた。 「怖くなったか?」 修が冷笑する。 「部下を引き連れて、偉そうに銃を突きつけて乗り込んできたときは、そんな顔してなかっただろ。結局、お前もその程度か」 ―武器があるときだけ威張り散らし、丸腰になった瞬間、ただの雑魚。 修は無言でマガジンを外し、弾を抜き出して床に投げ捨てた。 そして、そのまま銃本体も床に放り投げる。 次の瞬間、修は獣のように西也へと襲いかかった。 二人はもつれ合うように殴り合いとなり、瞬く間に激しい肉弾戦に発展する。 西也は完全に劣勢だった。 顔は腫れ、鼻血が流れ、抵抗する暇もなく、ただ殴られるだけ。 修はまるで殺意でも込めているかのように、容赦なく拳を振り下ろした。 外にいる部下たちは、室内から聞こえてくる殴打音に焦りを募らせる。 数分後― 西也は傷だらけで床に転がっていた。 修はゆっくりと立ち上がり、口元の血を拭いながら、不敵に笑う。 「どうだ?自業自得ってやつ、気分はどうだ?」 西也は仰向けに倒れたまま、拳をぎゅっと握り締め、怒りに満ちた目で修を睨みつける。 その目は、今にも噛みついてきそうなほどの憤怒を宿していた。 修はそんな彼の隣に立ち、見下ろすように言った。 「さあ、若子にチクりに行けば?俺に殴られたって泣きつけば、彼女もお前を気の毒に思って俺を責められなくなるかもな。行けよ」 西也はさらに目を見開き、怒りで声も出ない。 「ハハハハッ!」 修が声を上げて笑う。 「遠藤、お前も所詮はこの程度だったな」 西也の怒りは限界を超えそうだった。 こんな屈辱、思ってもみなかった。 まさか自分が仕掛けた争いで、
―修にとっても、西也にとっても、若子を見つけ出すことが最優先だった。 彼女が外にいるよりも、誰かの元にいたほうがまだ安全。 「いちいち指図すんな!」 西也が怒鳴る。 「藤沢、お前なんてただのクズ男だ。探す権利なんてない。探すなら俺だ、俺こそが若子の夫だ!」 その瞬間、修は一気に距離を詰め、西也の胸ぐらを掴み上げた。 「......俺だって、かつては彼女の夫だった。それに、お前よりずっと長く彼女を知っている。何があろうと、若子は俺にとって最も大切な女だ。だから、俺が彼女を愛し、探しに行くことに―お前が口出しする資格なんかない!」 怒鳴り終えると、修は力いっぱい西也を突き飛ばした。 西也の身体が床に叩きつけられる。 修はそのまま背を向け、階段へ向かって歩き出した。 「藤沢!お前なんかに彼女を愛する資格なんてない!お前は彼女を裏切った!手に入れたくせに他の女と関係を持って、離婚して、失ってから後悔して、今さら俺と彼女を取り合うつもりか?そんなのお前、人間じゃねぇ、ただの獣だ!」 修は振り返らず、ただ言い放つ。 「警備システムは作動した。警察はあと五分以内に到着する......今、お前には残り四分ある。その間に出て行け」 彼は何を言われようが、もう構わなかった。 人間じゃなくていい。 獣でもいい。 若子と離婚した。それが自分の犯した過ちの代償。 彼女が別の男と一緒になることを責める気はない。 裏切ったのは自分なのだから。 だが― 西也のやり方は、あまりにも卑怯だった。 西也は歯を食いしばり、床から体を起こす。 「藤沢......これで終わりだと思うな。俺たちの間は、まだ終わっちゃいない。絶対に、絶対にお前を許さない!」 そう吐き捨て、彼はよろよろと玄関へ向かって歩いていく。 ドアが開いた瞬間、彼の身体はよろけて前に倒れ込んだ。 待機していた部下が慌てて駆け寄る。 「遠藤様、大丈夫ですか!?」 「......行くぞ!」 西也は部下の手を振り払うようにして、怒りに燃える目で前を見据え、ふらつきながらも歩き出した。 一方― 修は階段を上がり、侑子の部屋の前まで来て、静かにノックをした。 「侑子、俺だ。もう大丈夫だ......ドア、開けて」 その声を聞いた
修がその言葉を口にしたとき、その声は驚くほど静かだった。 まるでそれが、彼の本能の一部であるかのように。 誰にも止められない。揺るぎようのない決意。 侑子は、その姿を呆然と見つめていた。 まるで雷に打たれたように、目の光がすうっと失われていく。 「じゃあ、私は?」 その声は、ひどくかすれていた。 「私たちの間に起きたこと......私にしたことは、全部......何だったの? 私の心も、体も......修にとっては、ただの何だったの?」 一言ひと言に、深い痛みがにじんでいた。 まるで心を火にかけられているような、じわじわと焼かれていくような苦しみ。 修は目を伏せた。 その瞳の奥に、一瞬だけ、後悔のような色が過ぎる。 「......お前にしたことは、本当にすまなかった」 彼はそっと手を伸ばし、侑子の涙を拭った。 「若子の代わりになってくれて、俺を支えてくれて......感謝してる」 ―若子の代わり。 その言葉を聞いた瞬間、侑子の心に絶望が広がった。 やっぱり、彼女はただの代用品。 最初から、彼女自身なんて、どこにも存在してなかった。 キスをされても、抱きしめられても、愛されていると錯覚した夜も。 全部、若子の顔を思い浮かべていた。 ―だから、いつも後ろから抱いてきたのか。私の顔を見なくて済むから。 湯船の中で後ろから抱きしめられ、耳元に熱を落とされたあの瞬間でさえ。 彼の瞳の中には、最初からずっと―若子がいた。 「感謝......なんて」 そう、彼は感謝すべきだった。 だって、全部自分で望んだことだから。 自分が「代わりになる」と言ったんだから。 今さら苦しいなんて―笑えるよね。 だけど、どうしても抑えきれなかった。 心に、あってはならない「期待」が芽生えてしまったから。 人は、一度でも期待を持ってしまえば― それが裏切られた瞬間、心が崩れていく。 理性が保てなくなって、感情の暴走が始まる。 そして気づけば、狂ったように傷つけたくなる。 ―まるで、狂犬みたいに。 「......侑子、部屋に戻ってくれ」 修の声が優しく響く。 「これからボディーガードをつける。若子を見つけたら、すぐに戻る」 修が背を向け、歩き出そ
修は侑子の手を掴み、そのまま強く引きはがした。 「帰って、ちゃんと休め。ぐっすり寝るんだ......もしかしたら、明日の朝には戻ってくるかもしれない」 そう言ったとき、彼の声にはどこか願いが込められていた。 ―明日の朝、戻ってこれたらいい。 けれど、それは侑子に会いたいからではなかった。 ただ、少しでも早く若子を見つけたい―それだけだった。 修はくるりと向き直り、侑子の華奢な肩に手を置いた。 涙を浮かべ、苦しそうな表情を浮かべる侑子を見て、彼はため息混じりに言った。 「侑子......俺にあまり感情を注がないでくれ。たぶん、俺にはお前に与えられるものが多くない」 それは彼自身もよくわかっていた。 最初に、きちんと伝えていたはずだった。 それでも、彼女はすべてを投げ打って、彼に尽くしてきた。 その姿に心を動かされたのは、間違いない。 だからこそ、彼は彼女を「若子の代わり」として受け入れた。 侑子の存在を通して、かつて若子と過ごした結婚生活の甘さを追憶するために。 けれど―彼の心の奥底には、やはり若子の姿が根強く残っていた。 彼はまだ過去に囚われていて、その沼から抜け出せずにいた。 罪悪感に駆られながら、修は侑子の頬を濡らす涙をそっと指で拭った。 そしてその額に、静かに唇を重ねた。 「早く寝ろよ」 その言葉を残し、修は背を向けて病室を後にする。 「修っ、修!」 侑子は涙声で彼を追いかける。 だが、彼はいくら呼ばれても振り返らない。 足取りはどんどん早まり、あえて彼女を置いていくかのように。 階段の前に着いたとき、修は扉を勢いよく開け、ためらいもなく出て行った。 「修っ!行かないで!お願いだからっ......!」 ドサッという音とともに、侑子はその場に倒れ込んだ。 「どうして、どうしてそんなことするの?私に...... 全部、全部あげたのに......私のすべてを、あなたにあげたのに......なんでこんな仕打ちするの......」 侑子はその場に座り込み、声を殺して泣き続けた。 そしてしばらくしてから、まるで魂が抜けたかのような表情で部屋へ戻る。 彼女はスマホを取り出し、従妹に電話をかけた。 頼れる人なんて他にいなかった。 彼女がいつも
修は、アメリカ現地の組織に協力を仰いでいた。 ここで若子を探すには、どうしても彼らの力が必要だった。 現地に詳しく、豊富なリソースや地下のコネクションを持ち、広範な情報網を使って様々な情報を集めることができる。 SKグループもアメリカで大規模なビジネスを展開しており、各地の勢力と取引があった。 その関係を通じて、ニューヨーク中の監視映像を調べあげた。 たしかに若子が運転していた車は確認できた。だが― その車がどこに向かったのか、最終的な目的地までは追えなかった。 ニューヨークのカメラ網は完全じゃない。 商業エリア、政府機関、重要施設や交通の要所などにはカメラが設置されているが、住宅街や人口の少ない郊外では設置率が極端に低く、場合によっては全くない場所もある。 映像を頼りに可能性のある経路を一つずつ洗い出し、あらゆる手を尽くしていた。 確実に言えることは―若子は失踪した、という事実だった。 電話も繋がらない。 彼女が乗っていた車も消えていた。 異国の地で、ひとりの女性が忽然と姿を消す。 それがどれほど恐ろしいことか。 どんな目に遭っているか、想像すらしたくない。 修は、眠ることもなく、ただひたすらに若子を探し続けていた。 アメリカには、人の気配がまったくない土地が無数にある。 広大な砂漠も。 誰かに殺され、砂漠に埋められれば―きっと、誰にも見つけられない。 ......そんなこと、あってたまるか。 若子がいなくなったら、自分も生きていけない。 今、彼らは人の気配がほとんどない砂漠地帯の一角で捜索を行っていた。 若子の走行ルートから推測すれば、彼女がこのあたりに来ている可能性は高い。 ただし、それも確実ではない。 ここはあくまで「候補のひとつ」にすぎない。 だが、それでも―ひとつずつ、確かめていくしかなかった。 捜索隊は特殊な機器を使い、砂漠の地表を調べていた。 地中に何か不審なものが埋まっていないか、細かく確認していく。 修は、その広大な砂漠の中をさまよっていた。 まるで魂の抜けた亡霊のように、苦しげな眼差しをさまよわせながら― やせ細った体は風化した岩のように荒れ、乾燥しきった肌は枯れ葉のようにひび割れていた。 唇には血がにじみ、よろよろと
突然、乾いた空気を切り裂くように、誰かの叫び声が響いた。 「砂の下に、人がいるぞ!」 その言葉を聞いた瞬間、修は狂ったように駆け出した。 途中、何度も転びながらも、必死に立ち上がる。 まるで全身をすり減らしながら、呼吸も忘れて走った。 そして、ようやく指差された場所へたどり着いた。 ―衣服の一部が、砂の下から覗いていた。 修の心臓が、まるで見えない手でぎゅっと握り潰されるように締めつけられる。 その目は恐怖と茫然に染まり、絶望と痛みが怒涛のように押し寄せ、魂を押し流していく。 彼は崩れるように両膝を地面に突き立て、震える手で砂に手をついた。 そして― そのまま、発狂したように手で砂を掻き始めた。 焦燥と恐怖が胸を支配し、心が張り裂けそうになる。 ひと掻き、またひと掻きと砂を除けるたび、時間が無限に引き延ばされていくような錯覚に陥る。 ―その一粒一粒が、心を千切り裂く刃だった。 「藤沢さん、やめてください!」 数人の男が駆け寄り、彼を止めようとする。 けれど、修の手はすでに血まみれだった。 指先は裂け、爪は剥がれ、手は真っ赤に染まっていた。 「離せ、離せって言ってるだろ!」 修は、もう何も見えていなかった。 体力も尽き果てていたはずなのに、どこからか底知れぬ力が湧き上がって、二人の男を振りほどき、再び地面に這いつくばった。 膝をつき、砂に指を滑らせながら、ただひたすらに希望を探していた。 「藤沢さん、俺たちが掘るよ。道具もあるし、少しだけ下がってください」 「ダメだ!」 修は怒声を張り上げる。 「お前らじゃダメだ!傷つけちまうだろ!どけ、全部俺がやる!」 もはや、常軌を逸していた。 目は血走り、今にも血の涙がこぼれそうだった。 誰も何も言えなかった。 埋められた人間が無事なわけがない。 仮に掘り起こしたとして、それは「生きている」とは呼べないものだ。 だからこそ、「傷つけるかどうか」なんて、もはや意味のないことだった。 そんな冷静な意見を、誰も口にできなかった。 狂気に満ちた修の姿を見て、何人かは無言で手袋をはめ、自ら手で掘り始めた。 しばらくして、砂の下から、ようやく一つの人影が姿を現す。 それは、腐敗が進んだ遺体だった。
今の若子には、他のことなんてどうでもよかった。たとえ医者が警察に通報しても、しなくても、彼女が望んでいるのは―ヴィンセントを、生かすこと。 彼がここで死んでしまったら、すべてが終わってしまう。 ヴィンセントは手を上げて、そっと若子の頬に触れた。涙を指でぬぐいながら、弱々しく笑う。 「泣くなよ......どうせ、俺たちそんなに親しくもないし。俺が死んだって、別にいいだろ」 「だめ!絶対にだめ!ヴィンセントさん、お願い、生きて......生きてよ、頼むから!」 「俺が死ねば、妹のところに行ける。だから......そんなに悲しむな。あのふたりの男、君のことすごく愛してるみたいだな。でもさ......俺は、君には幸せでいてほしい。誰かに愛されてるからって、それに縛られなくていいんだ。松本さん、男なんて、あんまり信じるなよ」 「冴島さん、目を開けて!ねぇ、お願い、開けてってば!」 若子は震える手でヴィンセントの瞼を押し開こうと必死になった。 そして、奥歯を噛み締めながら、全力で彼の体を背負い上げる。 「病院に連れてく!絶対に死なせない、私が死んでも、あなたは生きるの!マツだって、きっと同じ気持ちよ!」 そのとき、修がやっと我に返って駆け寄った。 「若子―!」 「来ないでっ!!」 若子は振り返って怒鳴りつけた。 「触らないで、修!あれだけ『撃たないで』って言ったのに、どうして聞いてくれなかったの?なんで私の話を、無視するの!?西也、あんたもよ!何も知らないくせに、勝手に撃って......ひどいよ、ふたりとも、ひどすぎる!」 怒りと絶望が入り混じった叫び声は、途中で息が続かなくなるほどだった。目には怒りの火が灯り、血の気の引いた顔には氷のような冷たさが宿っていた。彼女のその表情に、沈霆修も西也も言葉を失う。 ―まるで、憎しみを湛えているみたいだ。 「若子、俺だって、助けたかったんだよ......」西也は慌てたように言った。「この男が、まさかお前を助けたなんて......そんなの知らなかったんだ!これは、全部、誤解なんだよ!ワザとじゃない、信じてくれ!」 「どいて、もう何も話したくない。どいて!」 彼女の体は小さくても、気迫は誰にも負けなかった。全身が血と汗にまみれても、彼を背負って一歩一歩、出口へ向かおう
「大丈夫、少なくとも彼は助けに来てくれた。もう危ないことはない」 ヴィンセントは、もう死を恐れてなんかいなかった。首の皮一枚で生きる日常、いつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えたような人生。今日死ぬか、明日死ぬか、それに大した違いなんてない。 早く死ねば、それだけ早く楽になれる。 若子は力いっぱいヴィンセントを支えて立たせると、修に向かって叫んだ。 「修、お願い―」 その言葉が終わる前に、突然、もう一組の人間がなだれ込んできた。 「若子!無事だった?こっちに来て!俺が助けに来たよ!」 西也はヴィンセントと一緒に立っている若子を見て、全身血まみれの彼女にショックを受けた。そして、反射的に銃を構え、バンバンバンとヴィンセントに向けて数発撃った。 「やめてええええええ!」 若子は喉が裂けそうなほど叫んだ。ヴィンセントが撃たれて、その場に崩れ落ちるのを、目の前で見ることしかできなかった。 「やだ......やだ!」 彼女はその場に膝をついて、苦しげに叫ぶ。 「ヴィンセントさん、冴島さん......冴島さん、お願い、死なないで、お願い......!」 「遠藤、お前ってほんと狂犬ね!」 修が彼を止めに入る。 「何やってんだ!」 「俺は若子を助けに来たんだ!彼女はいま危険だったんだぞ!それをお前は何もせずに突っ立ってただけじゃないか!何の役にも立ってない!だから俺が、夫の俺が守るって決めたんだ!」 西也は修を強く押しのけ、若子のもとへ走り出した。 「来ないで!」 若子は怒りに震えながら、西也に向かって叫んだ。 「なんで事情も知らないのに撃つの!?ひどすぎるよ!」 西也はその場で固まった。若子に責められるなんて思ってもみなかったのだ。 ―こんなこと、初めてだ。 「若子......俺は、助けたかったんだ。電話も繋がらないし、もう心配で、心配で......寝る間も惜しんで探し回って......こいつがどんな奴か知ってるのか?『死神』ってあだ名で呼ばれてる、殺しに躊躇しない化け物なんだぞ!」 「でも、彼は私を助けてくれたの。命の恩人よ。彼がいなかったら、私はもうとっくにあのギャングたちに......殺されてたかもしれない! ねぇ、あと何回言えば伝わるの!?なんでみんな、私の話を聞こうとしな
「......お前......」 修が歩み寄ろうとした瞬間、若子は彼を強く突き飛ばした。 「彼が言ったこと、間違ってなんかない!一言だって間違ってないわ!」 若子の瞳には怒りが燃えていた。 「修、私がギャングに捕まって、暴行されそうになって、殺されかけたとき―助けてくれたのはヴィンセントさんだった!......じゃああんたは?どこにいたの!? どうせあれでしょ、山田さんと手を繋いでアイス舐めあってたんでしょ?あの女の唾液を嬉しそうに食べてたんでしょ? ベッドででも盛り上がってた?私が死にかけてるときに!」 「......っ」 修は言葉を失った。 「はっきり言っておくわ。私は今、助けなんか求めてない。 今さら『心配してる』なんて顔して現れて、正義ぶらないで。全部、自己満足じゃない!」 「自己満足だって......俺は、必死にお前を探した。命がけで心配したんだぞ、それが『無駄』だっていうのか!?」 彼の叫びは、若子の怒りを前に粉々に砕けた。 「感謝するわよ、『探してくれてありがとう』って。でも、結局あんたがしたことは、私の恩人の家を爆破して、彼を傷つけたこと。 私、明日には自分で帰るつもりだった。放っておけばよかったのよ。 それをあんたが余計なことして、勝手に盛り上がって、感動して、自分に酔って―それを私が理解しないって怒る?」 「若子......お前、あんまりだ......どうして、そんなに冷たいんだ......」 修の声はかすかに震えていた。 「冷たい?じゃあ、聞くけど― さっき私が止めたよね?でもあんた、全然聞かなかった。彼に銃を向けて、撃とうとした。 あげくの果てには、『私が正気じゃない』とか言って、自分の都合で全部決めつけて......そんなあんたの努力、私がどうして感謝できるの? 修、あんたの『努力』はやりすぎなのよ」 若子は涙を拭いながら、冷たく言い放った。 「それに― 山田さんとラブラブなんでしょ? だったら彼女のそばにいなよ。なんでこっち来てまで『頑張って助けに来た』とか言ってるの?彼女、あんたの子どもを妊娠してるんでしょ?戻って、ちゃんと支えてあげなよ」 修は目を閉じ、深く息を吸った。 心の中で何かが音を立てて崩れていく。 若子の言葉は、す
「修、彼は私の命の恩人なの!絶対に傷つけさせない!誰にも彼を傷つけさせない!」 「......今、なんて言った?」 修の目が信じられないものを見るように大きく見開かれた。 「......あいつが、お前の命の恩人......だと?」 「そうよ。私が危ないところを助けてくれたのは彼なの。だから、彼を傷つけるってことは、私を傷つけるのと同じなの!」 その言葉に、修は言葉を失った。 事態は、彼の想定を完全に超えていた。 若子が何か薬を盛られて、意識が朦朧としてるんじゃないか― そんな疑念がよぎる。 けれど、彼の目にははっきりと見えていた。 若子の首筋にくっきり残った、指の跡。 明らかに暴力によるものだ。あの男がやったに違いない。 だとしたら、なんで彼女はこんなところにいるんだ? なんで家に帰らず、連絡もよこさなかった? これが「救い」だっていうのか? 「若子、わかった......まず、銃を返して。もう彼には手を出さない」 彼女の感情が高ぶっている中で下手に手を出せば、逆効果だ。 今は、冷静にするのが先。 「本当に?」 若子が疑うように問い返す。 修は静かに頷いた。 「本当だ。銃を、返してくれ」 もしこのまま彼女の手元に銃があれば、暴発の危険すらある。 若子は少し迷いながらも、ゆっくりと銃を修に手渡した。 だが、修は銃を受け取るや否や、すぐさま部下に命じた。 「囲め。あいつから目を離すな」 部下たちが一斉に動き、ヴィンセントを取り囲む。 銃口が一斉に彼へ向けられる。 「あんた......私を騙した......」 若子の叫びが響いた。「なんで......なんでそんなことができるの!?」 彼のもとへ走り寄り、その胸倉を掴む。 「やめて!銃を向けるな!お願い、彼にそんなことしないで!」 「若子、あいつはお前に何をした?」 修は彼女の肩をしっかりと掴み、必死に訴える。 「何か注射されたのか?薬を使われたのか?あいつに傷つけられたのに、なぜそこまでかばう!?病院に連れて行く、すぐに検査を―」 ―バチンッ! 乾いた音とともに、若子の平手打ちが修の頬を打った。 「藤沢修、あんたって人は......!」 「桜井さんのために私と離婚すると決めた
若子が生きていると確認して、修はようやく安堵の息を吐いた。 これまで幾度となく、彼女を探し続けるなかで何度も遺体を見つけ、そのたびに胸が潰れそうな絶望を味わった。 けれど、若子だけは見つからなかった。 代わりに、他の行方不明者ばかりが見つかった。 そして今ようやく、彼女を見つけた。 彼女は―生きていた。 だが彼女がどんな目に遭っていたのか、想像するだけで胸が痛んだ。 「修......なんであなたが......?」 若子は信じられないような目で彼を見つめた。 「どうしてここに?」 まさか来たのが修だったなんて、夢にも思わなかった。 ヴィンセントは目を細めて振り返った。 「この男......テレビに出てたやつじゃないのか?君の前夫だろ?」 若子はうなずいた。 「うん。彼は......私の前夫よ」 修が来たと分かって、若子は少しだけ安心した。 「若子、こっちに来い!」 修は焦った様子で手を伸ばした。 「修、どうしてここに......?」 「お前を助けに来たに決まってるだろ!お前がいなくなって、俺は気が狂いそうだった!」 「わざわざ......私のために......?」 若子は、てっきりヴィンセントの敵が来たのだと思っていた。 「若子、早く来い!そいつから離れて!」 「修、違うの!誤解してる!彼は......ヴィンセントって言って、彼は......」 若子が話し終える前に、修は彼女を後ろへ引っ張り、銃を構えてヴィンセントに発砲した。 ヴィンセントはまるで豹のような動きで避けたが、すぐに更なる銃弾が飛んできた。 すべての男たちが一斉にヴィンセントへ発砲を始めた。 彼はテーブルの陰に飛び込んで避けたが、ついに銃弾を受けてしまった。 「やめて!」 若子は絶叫した。 銃声が激しく響き、彼女の声はかき消されていった。 「修、やめて!」 彼女は必死に彼を掴んで叫んだ。 「撃たせないで、やめて!」 「若子、お前は何をしてるんだ!?あいつは犯罪者だぞ!お前を傷つけたんだ、正気か!?」 修には、なぜ若子がヴィンセントを庇うのか理解できなかった。 「彼は違う、彼はそんな人じゃない......!」 「違わない!」 修は彼女の言葉を遮った。 「
彼女に違いない、絶対に若子だ! あの男は誰だ?一体若子に何をした? 修の目には、あの男が若子をここに連れてきたようにしか見えなかった。 若子がどれほどの苦しみを受けたのかも分からない。 修は考えれば考えるほど、動揺と焦りで頭がいっぱいになった。 部下が周囲を確認していた。 この家は簡単に入れない。どこも厳重に警備されていて、爆破しないと入れない状態だった。 突然、監視カメラの映像に映った。 男が女をソファに押し倒したのだ。 その瞬間、修の怒りが爆発した。 若子が襲われていると誤解し、理性を失った彼は即座に命令を出した。 「扉を爆破しろ、早く!」 ...... ソファの上で、ヴィンセントは若子の上から身体を起こした。 「悪い」 「大丈夫、気をつけて」 さっきはヴィンセントがバランスを崩してソファに倒れ、その勢いで若子も倒れたのだった。 ヴィンセントが姿勢を整えると、若子は言った。 「傷、見せて。確認させて」 彼女はそっと彼の服をめくり、包帯を外そうとした。 ―そのとき。 ヴィンセントの眉がぴくりと動いた。 鋭い危機感が背中を駆け抜けた次の瞬間、彼は若子を抱き寄せ、ソファに倒れ込ませた。 「きゃっ!」 若子は驚き、思わず声を上げた。 何が起きたのか分からず、反射的に彼を押し返そうとしたが― その瞬間、「ドンッ!」という轟音が響き、爆発が扉を吹き飛ばした。 煙と埃が宙に舞い、破片が飛び散る。 ヴィンセントは若子をしっかりと抱きかかえ、その身体で彼女を庇った。 その眼差しは鋭く、まるで刃のようだった。 若子は呆然としながら言った。 「何が起きたの?あなたの敵?」 もし本当にそうだったら― この状況は最悪だった。 ヴィンセントはまだ傷が癒えていない、今の彼に戦える力があるか分からない。 「怖がらなくていい。俺が守る」 その声は強く、闇を貫くように響いた。 彼はもうマツを守れなかった。 今度こそ、若子だけは―何があっても守り抜く。 扉が吹き飛んだあと、黒服の男たちが銃を持って突入してきた。 「動くな!両手を挙げろ!」 ヴィンセントはそっとソファの上にあった車のキーを手に取り、若子の手に握らせた。 そして、彼女の耳
ヴィンセントは「なぜだ、なぜなんだ!」と叫び続け、頭を抱えて自分の髪を乱暴に引っ張った。 その姿は絶望そのものだった。 若子は彼の背中をそっと撫でた。 何を言えば慰めになるのか、彼女には分からなかった。 ―すべての苦しみが、言葉で癒せるわけじゃない。 最愛の人を、あんな形で失った彼の痛み。 誰にだって耐えられることじゃない。 もしそれが自分だったら―きっと、同じように壊れていた。 突然、ヴィンセントは手を伸ばし、若子を抱きしめた。 若子は驚いて、思わず彼の肩に手を当て、押し返そうとした。 だが、彼はその耳元でかすれた声を漏らした。 「動かないで......少しだけ、抱かせて......お願いだ」 「......」 若子は心の中でそっとため息をついた。 彼の背中を軽く叩きながら言った。 「これはあなたのせいじゃないよ。全部、あいつらみたいな悪人のせい。 マツさんも、きっとあなたを責めたりしない。 きっと、あなたにこう言うよ。『今を大切にして、毎日をちゃんと生きて』って」 「松本さん......ごめん......君をここに閉じ込めて、マツとして扱って...... ただ、昔の記憶にすがりたかっただけなんだ...... 君を初めて見たとき、マツが帰ってきたのかと思った...... 君があいつらに傷つけられるって思ったら......もう耐えられなかった」 ヴィンセントの表情には、後悔と悲しみが滲んでいた。 その瞳は、内面の葛藤と苦しみに囚われ、涙が滲むような声で語った。 彼は若子に謝っていた。 そして、自分の弱さを―心の奥にある痛みを告白していた。 「それでも、助けてくれてありがとう。私をマツだと思ってたとしても、松本若子だと思ってたとしても......あなたは私を、助けてくれた」 「たとえマツじゃなくても、俺はきっと君を助けてたよ」 ヴィンセントは彼女をそっと離し、その肩に両手を置いた。 真剣な眼差しで言った。 「俺、女が傷つけられるのを見るのが耐えられないんだ」 ふたりの視線が交わる。 その間に流れる空気は、言葉では表せない感情に満ちていた。 若子は、彼の心の痛みを少しでも理解しようとした。 ―もしかしたら、自分が人の痛みに敏感だからかも
若子はほんの少し眉をひそめた。 しばらく考え込んだあと、こう言った。 「私には、あなたの代わりに決めることはできない。あなたが復讐したのは、間違ってないと思う。でも......もしも、まだ彼を苦しめるつもりなら......私は先に上に行ってもいい?見ていられないの」 あまりにも残酷な光景に、若子は夜に悪夢を見るかもしれないと思った。 ヴィンセントは彼女の顔を見て振り返った。 若子の表情は、少し青ざめていた。 彼女は確かに、怖がっていた。 そうだ。 彼女はまともな人間だ。 自分のように、何もかも見てきたような人間じゃない。 怖がって当然だ。 若子は、真っ白なクチナシの花。 自分は、血と泥にまみれた人間。 「......行っていい。すぐに俺も行く」 若子は「うん」と頷き、地下室を出て行った。 扉を閉めると、地下室から音が漏れてきた。 声の出ないその男は、うめくことも叫ぶこともできない。 聞こえてくるのは、ヴィンセントの行動音だけだった。 ナイフが肉を刺す音、物が倒れる音― 若子は耳を塞ぎ、背中を壁に押しつけた。 この世界では、日々さまざまな出来事が起こっている。 善と悪は、簡単に区別できない。 人を殺すことが、必ずしも「悪」ではなく、 人を救うことが、必ずしも「善」とは限らない。 たとえば、殺されたのが凶悪な犯罪者だったなら、それは正義かもしれない。 逆に、そんな人間を救えば、また誰かが被害に遭うかもしれない。 世の中は、白と黒で割り切れない。 極端な善悪の二元論では、何も見えてこない。 しばらくして、扉が開いた。 ヴィンセントが出てきた。手にはまだ血のついたナイフを持っていた。 彼はそのまま、近くのゴミ箱にナイフを投げ捨てた。 「殺した......地獄に落ちて、マツに詫びてもらう」 若子は彼をまっすぐに見つめた。 そこにいたのは、復讐を果たして満足している男ではなかった。 魂を失ったような、抜け殻のような男だった。 突然、ヴィンセントが「ドサッ」とその場に倒れ込んだ。 「ヴィンセント!」 若子は駆け寄って、彼を支えようとしゃがみ込む。 だが、彼は起き上がろうとせず、地面に崩れたまま笑い出した。 「なあ......天
男の体は血だらけで、すでに人間の姿とは思えないほどに痛めつけられていた。 全身からはひどい悪臭が漂っている。 若子は吐き気をこらえながら、口を押さえて顔を背け、えずいた。 「この人......誰?どうして......あなたの地下室に......?」 「こいつが、マツの彼氏だ」 若子は驚愕した。 「えっ?彼女の彼氏が、どうしてここに......?」 ヴィンセントは語った。 妹を殺したのはギャングたちだ― だから、彼はそのすべての者たちを殺して復讐を果たした、と。 だが、その中に彼氏の話は一切出てこなかった。 ―もしかして、妹を失ったショックで、理性を失ってるの......? 「こいつがマツを死なせた張本人だ」 「どういうこと......?ギャングがマツを襲ったって......それならこの人は......?」 「こいつがチクったんだ。マツが俺の妹だって、やつらに教えた」 ヴィンセントは男の前に立ち、声を荒げた。 「こいつが共犯だ!」 その目には殺意が宿っていた。 この男を殺したところで、気が済むわけではない。 それでも―殺さずにはいられないほど、憎しみは深かった。 男は顔も腫れ上がり、誰だか分からない。 身体中を鎖で縛られ、長い間、暗く湿った地下に閉じ込められていた。 声も出せず、体を動かすことすらできず、助けも呼べず― ただ、毎日苦しみ続けていた。 ヴィンセントは彼を殺さず、生かしたまま、マツが受けた苦しみを何倍にもして返していたのだ。 「......そういうことだったのか」 若子は心の中で思った。 マツは―愛してはいけない男を愛してしまったのだ。 女が間違った男を選べば、軽ければ心が傷つくだけで済む。 だが、重ければ命すら奪われる。 修なんて、この男に比べれば、まだマシだ。 少なくとも、彼は命までは奪わない。 ......でも、そういう問題じゃない。 傷つけられたことには変わりない。 「ヴィンセントさん......これからどうするの?ずっとここに閉じ込めて、苦しませ続けるつもり?」 若子には、彼の行動を否定することもできなかった。 非難する資格が自分にはないと分かっていた。 でも、心のどこかで―怖さもあった。 だが、