「雲上牧場大冒険、ステージ1:にんじんを守れ!親子三人乗り自転車で、3キロ先のキャンプ場を目指せ。道中にはクレイジーアルパカ部隊が出没。親子チームは一バケツ分のにんじんとキャベツを持って走行中、アルパカに食べられないよう守ること。ゴール時点で、にんじん1本につき3ポイント、キャベツの葉1枚につき1ポイント。獲得ポイントはお昼ごはんの食材と交換可能」瑛優はほとんどの文字が読めたので、カードを読み上げた後「おじちゃん、分かった?分からなかったら、もう一回説明してあげるよ?」——自分の知能を何だと思ってるんだ?天野は頷きながら、むっつりと「分かったよ」と答えた。先生たちは三人の姿を眺めながら、思わずため息をつく。「あの方が瑛優ちゃんのお母さんの兄じゃなかったら、絶対推しちゃうわ!イケメンに美人、体格差もたまらない!片手で瑛優ちゃんを抱き上げちゃうなんて!もう、すっごく似合ってる!」担任は手のミッションカードで顔を隠しながら、同僚に囁いた。「素敵な方だけど、瑛優ちゃんのお母さんと苗字が違うのよね。もしかして血の繋がらない兄妹かも……」同僚の目が輝いた。「擬似兄妹!?それは萌えるわ!」担任は夕月と天野の方を見つめ直し、心から言った。「最優秀ファミリー賞は、もう決まりね!」先生たちがこっそり話し込んでいる中、黒いマイバッハが牧場に滑り込んできた。車のドアが開き、まるで雑誌から抜け出てきたような男性が降りてきた。天野の男らしい魅力的な容姿と逞しい体格に見とれていたスタッフたちは、また違った雰囲気を持つ美しい男性に目を奪われた。「橘社長じゃない?うちのグループの橘社長よ!」雲上牧場エリアは橘グループが開発し、隣接するマンション群も橘グループの投資物件だった。「本当に橘社長だわ!」「かっこいい!噂どおりね!」騒がしい声に気付いた夕月と瑛優だったが、「橘社長」という言葉を耳にした途端、振り返る気も失せた。橘冬真?見る価値なんてないわ。キャップを被った悠斗が胸を張って先頭を歩く。上機嫌な様子だ。楓と冬真は肩を並べて歩いていた。二人とも同じアウトドアジャケットを着て、楓は悠斗と同じデザインのキャップを被っている。車から降りた楓は、ガムを口の中で転がしながら、時折ピンク色の風船を作っては割っていた
先生とスタッフが二人の前に歩み寄ってきた。「まあ、悠斗くんのお父様ですね?珍しいわ。悠斗くんの親子活動に参加されるのは初めてですものね」冬真はいつもの冷淡な表情のまま、無言で軽く頷いただけだった。その近寄りがたい、人を寄せ付けない態度に、先生は思わず身震いした。楓は得意げに口元を歪め、冬真の顔を指差しながら先生に言った。「この人ね、全然来る気なかったのよ。私が朝一で橘家に乗り込んで、ベッドから引きずり出してきたの」大げさな物言いだった。確かに早朝に橘家を訪れ、冬真の部屋に直行したものの、なんとドアにカギがかかっていた。楓が外で執拗にドアを叩き続け、しばらくして完璧に身支度を整えた冬真が姿を現した。悠斗は小さな胸を誇らしげに張った。パパを親子活動に連れてこれるのは、楓兄貴だけなんだ。楓兄貴がいなかったら、毎年の親子活動にパパは顔も出さなかっただろう。あの面倒くさい母さんが自分と瑛優の面倒を見てくれるだけで、いつも競技で母さんが一位を取れるか心配で心配で仕方なかった。「藤宮さんは橘社長のご友人としてご参加なんですか?」担任は当然楓のことを知っていた。学校で数々の問題を起こしてきた楓のことを、快く思っていなかった。楓の姿を見た瞬間、担任は直感的に悟った。今日の親子活動でも、また何か厄介なことを起こすに違いない。担任は厳かな表情で説明を始めた。「親子活動には明確な規定がございまして、実の親でない場合でも、必ずお子様の親族であることが条件となっています。それは子供たちに帰属意識を持たせるためです。親の存在は誰にも代替できません。もし誰でも親の代わりが務まるとなれば、活動中に子供たちが違和感を覚え、マイナスな感情を抱くかもしれません。それは子供の心身の発達に良くない影響を及ぼす恐れがあります」楓の表情が一変した。「私は悠斗くんのパパよ!!」担任を睨みつける楓の目には、明らかな警告の色が浮かんでいた。楓の剣幕に一瞬たじろぎながらも、担任は深く息を吸うと冬真の方に向き直った。「橘様、いつもなかなかご連絡が取れませんので、本日お会いできたついでに少しお話させていただきたいことが……」「あんた、ただの先生でしょ。保護者に余計な関心持たないでよ!」楓が嘲るように吐き捨てた。楓の言葉を無視し、担任は真剣な面
冬真の眉間に深い皺が刻まれた。「執事からそのような報告は一切受けていない」担任は諦めたような目で冬真を見つめた。以前なら、悠斗と瑛優に何か問題があれば、夕月に電話一本で即座に対応してもらえたものだ。だが今や悠斗は問題児と化し、何度も橘家の執事に連絡を入れても、いつも適当な返事で済まされるばかり。「そんな些細なことで大げさね!」楓が声を張り上げた。担任は怒りを抑えきれない様子で楓に向き直った。「あなたが悠斗くんのパパを名乗るのを見て、全て分かりました。悠斗くんのジェンダー認識の歪みは、誰が引き起こしているのかって」「なに言ってんだ!このやろう、ぶっ飛ばすぞ!」楓の表情が一変し、まるで鬼のような形相になった。今にも袖をまくり上げて担任に殴りかかりそうな勢いだ。楓の剣幕に担任が思わず後ずさると、悠斗が跳び上がって手を叩いた。「そうだ!ぶっ飛ばしちゃえ!」まさに大人の真似をしたがる年頃の悠斗は、悪態をつくことで自分が強くなったような気分になる。他の子供たちを怖がらせることができれば、自分も一人前の大人になれたような気がするのだ。「楓!」冬真の叱責の声が鋭く響いた。そして担任に向き直り「悠斗が学校で問題を起こしたことは、しっかりと指導いたします」担任は唇を引き結んでから切り出した。「子供の教育には環境が何より大切だと古くから言われています。良い環境で育てば良い子供に育つ。悠斗くんの健やかな成長のために、周りにいる大人の方々の影響というものを、もう一度じっくりとお考えいただければと……」「へぇ?女の争いを売ってきたわけ?」楓が挑発的な声を上げた。担任は呆気にとられた表情を浮かべる。なんという突飛な発想なのだろう。「藤宮さん、あなたは……」教養ある者としての矜持から、担任は楓から視線を外し、冬真にミッションカードを差し出した。「ステージ1のミッションカードです。悠斗くんと素敵な親子の時間を過ごしていただければ」楓の両手が拳を作る。担任を見つめる目には軽蔑と敵意が満ちていた。——このアマ、カードを渡す時にお尻フリフリして。こんな媚び媚びした態度!絶対に冬真のこと狙ってるわ!——待ってなさい。ただの保育士のくせに、私が悠斗を悪い方向に導いてるなんて匂わせて。こんな露骨な嫌がらせ、きっちり痛い目に遭わせてや
「ママは真ん中に座って!私が後ろでアルパカから守ってあげる!絶対に野菜泥棒なんかにママの近くに来させないよ!」瑛優が張り切って言った。三人で三人乗り自転車に乗り込んだ。一方、楓も役割分担を済ませていた。「冬真は前で、思いっきり漕いでね。悠斗くんは人参を守って。私がアルパカの追い払い係をするわ」楓は内心で計算していた。きっとアルパカは人参を狙ってくる。その時、人参を守っている人に唾を吐きかけたり、服を噛みちぎったりするはず。自分も冬真も唾をかけられるのは御免。だったら、それは悠斗に任せるしかない。もし悠斗が人参を守り抜けたら、きっと自分のことを頼もしく思ってくれるはず——楓はそう考えていた。冬真は息子に野菜の入ったバケツを抱えさせることに不安を覚えた。悠斗がこれを守り切れるとは思えなかったのだ。だが楓が言い終わるや否や、悠斗は人参とキャベツの詰まったバケツを抱えて飛び出していた。「絶対に野菜を守ってみせるよ!」小さな戦士のように目を輝かせる悠斗。大人である楓の方がアルパカの追い払いには適任だろうと考え、冬真もこの役割分担を了承した。三人乗り自転車の最前列に冬真、真ん中に悠斗、後部には楓が座った。出発の態勢が整った頃、天野たちのチームも動き出していた。「パパ、頑張って!追い抜くんだ!」悠斗が前のチームを見て叫んだ。冬真は夕月と瑛優の後ろ姿を見つめた。その前に座る天野は頭一つ分高く、まるで大きな盾のように二人を守っているように見えた。夕月が天野を呼んだのは、自分に見せつけるためか——冬真は内心で考えた。天野昭太に勝てると夕月は思っているのだろうか?冬真は軽蔑するように笑った。天野の身体能力は確かに優れている。だが親子遠足の勝負は単なる体力だけでは決まらない。園内を五、六百メートル進むと、アルパカの群れと遭遇した。まるでデリバリーを見つけたかのように、アルパカたちが一斉に駆け寄ってきた。夕月は素早く身を屈め、上半身でバケツの口を完全に覆い隠した。鮮やかな色のバケツを見つけたアルパカたちは、中に餌があると察したのか、一斉に夕月に噛みつこうと寄ってきた。「こらっ、離れなさい!」アルパカたちが夕月に近づこうとした瞬間、瑛優が小さな手でアルパカの頭を必死に押しのけた。「ママ、大丈夫!私が
全力でスピードを上げようとした瞬間、楓とのペダルの踏み方が全く合っていないことに気付いた。自転車が蛇行し始める。「楓!ペダル止めてくれ!」冬真が叫ぶ。楓が漕ぐことでかえって邪魔になっている。一人で漕いだ方がましだ。「きゃっ!やめてっ!服が!」楓は冬真の声など耳に入らない。アルパカが袖を引っ張り、髪に噛みつく。一匹の頭を押しのけても、すぐに別のアルパカが寄ってくる。「うぅ……パパぁ!早く行ってよぉ!」背後では悠斗が泣き叫んでいる。冬真はスピードを上げようとするが、楓のペダルのせいで進路が狂う。結局、夕月と瑛優の姿が視界から消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。キャンプ場には、すでに第1ステージをクリアした親子たちが三々五々と集まり、残りの参加者を待ちながら休憩を取っていた。「到着!」天野の呼吸は、激しい運動の後とは思えないほど安定していた。後ろを振り返った天野の表情が凍りつく。額から一筋の冷や汗が伝った。夕月は天野の声で危険地帯を脱したと悟り、野菜の入ったバケツを必死に抱えていた体勢をようやく緩めた。娘の無事を確認しようと後ろを振り返った瞬間、夕月も天野と同様に言葉を失った。自転車が止まったのを感じた瑛優は、不思議そうに左右を見た。「わっ!アルパカがついてきてる!ママ、人参守って!おじちゃん、早く漕いで!」瑛優が悲鳴のような声を上げる。「瑛優……そのアルパカさん、放してあげなさい」夕月が静かに言った。瑛優はその時初めて気付いた。両脇に挟まれたアルパカの頭を、自分の腕で締め付けていたのだ。いつの間にか首を掴まれていたアルパカたちは、舌を垂らし、目を白黒させて明らかに力尽きていた。慌てて腕を緩めると、二匹のアルパカは脱力したように地面にドサリと倒れ込んだ。「はぁ……はぁ……あははっ!自分でびっくりしちゃった!」瑛優は胸をなでおろしながら、照れ笑いを浮かべた。天野は言葉を失ったまま黙り込んだ。ずっと視界の端に映っていた二匹のアルパカは、まさかこんな状態だったとは……夕月は自転車から降りると、バケツを先生に手渡して採点を待った。人参もキャベツも、一枚の葉っぱも失うことなく守り抜いていた。先生はホワイトボードに瑛優の名前が書かれたマグネットを貼り付けた。「
「一匹につき五点加点です!」先生は五本の指を立てて瑛優に告げた。「は?アルパカを捕まえたら加点になるんですって?……早く言ってくれれば……」京花の声がだんだん小さくなっていく。だが、自分たち家族はアルパカを見ただけで逃げ出したのだ。加点を知っていたところで、捕まえられるはずもなかった。結局、京花は望月の名札が二位の位置に移されるのを黙って見つめるしかなかった。先生は瑛優の名前の横のスコアを書き換えた。藤宮瑛優:40点橘望月:30点そして、もう一人の先生が悠斗の点数を発表した。「橘悠斗くん、0点です」さっきまでマイバッハから颯爽と降り立った時の誇らしげな姿が嘘のように、悠斗は惨めな姿になっていた。アルパカに咥え取られたLVの帽子は行方不明、襟元は歪み、アルパカの唾液で服が臭くて思わず息を止めてしまう。楓も散々な有様だった。髪は蓬髪し、アウトドアジャケットのジッパーは半開き、まるでホームレスのような出で立ち。「ちょっと待って!零点ってどういうこと?計算間違ってんじゃない?」楓が我に返って声を荒らげた。先生は目を回したい衝動を抑えながら答えた。「到着した時点で野菜入りのバケツごと消失していたのですが。この状態でどうやって採点すれば?」楓は両手を空っぽにしている悠斗を見つめた。「バケツは?人参は?まさか……キャベツの葉っぱ一枚も残ってないの?」「あのね」悠斗は不機嫌な顔で言い返した。「アルパカが怖すぎたんだよ。一匹がバケツごと持ってっちゃったの」そして急に声を荒げ、楓を責め立てた。「なんで僕を守ってくれなかったの!」「だって私、自転車漕いでたでしょ!そもそも漕ぐのなんて悠斗には無理だし……あなた男の子なんだから、バケツくらい守れるでしょ!」「バケツを失くした分、さらにマイナス3点」先生が告げる。「橘悠斗くん家族の得点は、マイナス3点となります。次の競技では、頑張って挽回してくださいね」先生は悠斗の名札をホワイトボードの最下段に配置した。京花は最下位の悠斗を見て、あまりの珍事に瑛優のアルパカ捕獲による加点のことは忘れてしまった。「まぁ冬真さん!最下位なんて初めてでしょう?貴重な経験になりましたね!」からかうような声を上げる。冬真の表情は完全に曇っていた。夕月が瑛優と天野と一
楓は悠斗を連れて少し離れた場所に座った。幸い着替えは持参していた。アルパカの唾液で汚れた服を脱ぎ、嫌そうな顔で脇に放り投げる。自分の着替えに夢中になっていると、「僕の服も汚れちゃった」と悠斗が小さな声で言った。折りたたみ椅子に座ったまま、楓はあごを少し上げて答えた。「バッグの中に入ってるわよ」悠斗は頬を膨らませて不満気に呟いた。「着替え、自分でするの?」家では使用人が身の回りの世話をしてくれる。だから外でも、親しい楓が着替えを手伝ってくれるはずだと思っていた。楓は髪をウェットティッシュで必死に拭きながら、顔をしかめている。今の彼女の頭の中は、早くシャワーを浴びて髪を洗いたいという思いでいっぱいだった。悠斗の相手をしている余裕などなかった。周りを見渡すと、他の園児たちは皆、親に面倒を見てもらっていた。水を飲ませてもらったり、汗を拭いてもらったり、着替えを手伝ってもらったり。夕月は瑛優の髪を優しく整えている。悠斗の胸に複雑な感情が込み上げてきた。去年の親子行事。汗をかいた時は、夕月が優しく着替えを手伝ってくれた。汗取りパッドを背中に当ててくれて、顔も綺麗に拭いてくれた。喉が渇いたと言う前に、水筒を口元まで持ってきてくれた。でも楓は、そんなことは何一つしてくれない。悠斗は首を垂れて、汗と唾液で臭くなった服と、汚れた靴を見つめた。夕月がいた時だけ、自分はいつも清潔な子供でいられた。楓には、自分の面倒の見方さえ分からないんだ。「パパ、着替え手伝って?汗かいちゃった……」悠斗は冬真に声をかけた。「自分でやれ」冷たい一言が返ってきた。父親を怖がっている悠斗は、首を縮めて諦めたように小さなリュックから着替えを取り出した。楓が身なりを整え終わると、だらしなく声を上げた。「ねぇ悠斗、ポテチ開けてくれない?」悠斗は「自分で開けたら?」と言いかけて、ふと思い出した。楓を親子行事に誘った時、あの嫌な母親を怒らせる作戦を立てていたことを。楓の説明によると、夕月を怒らせるには、みんなの前で楓に対して優しく、献身的に振る舞えばいいのだという。楓が何を頼んでも、すぐに応えること。だって、夕月にはそんな態度を見せたことがないから。夕月が、楓に甘えまくる悠斗を見て、楓の言いなりになる悠斗を見たら、きっ
悠斗は心の中での不快感を必死に抑え込んだ。自分は橘家の跡取り息子なのに、大奥様に可愛がられている孫なのに!ふと夕月の方を見ると、この方を見ていた。やった!ちゃんと気付いてくれた!テンションの上がった悠斗は、さっそくイカの袋を開け始める。「あ〜ん、して」楓が手を汚したくないといった素振りで言う。悠斗は顔を曇らせた。夕月の視線が逸れてしまったのが気になる。それでも一切れのイカを取り出し、楓の口元まで運ぶ。でも目は夕月から離せない。こっち向いてよ!悠斗は心の中で叫んでいた。自分が楓にこんなに尽くしているのを見て、夕月はきっと嫉妬しているはず。ママになりたくないって言ったのは夕月の方だ。もう二度と、僕が食べさせるイカは食べられないんだから。「まぁ悠斗くんったら、楓さんにイカをあ〜んって!なんて優しいの!」京花の声が、大げさなほど高く響き渡る。楓は足を組んだまま、退屈そうに答えた。「何をそんなに驚いてるの?望月ちゃんだってお菓子を食べさせてあげることあるでしょ?」「私は望月のママよ。全然違うじゃない」「何が違うのよ」楓は口元を歪めて言い返した。「私は冬真のパパで、悠斗くんの兄貴なんだから」京花は鼻で笑った。何という支離滅裂な言い方。楓が十八の頃から、冬真への想いは見え見えだった。汐だけが、純粋な友情だと信じ込んでいただけ。京花は冬真の方をちらりと見やる。悠斗があれほど楓に尽くすなら、冬真も楓を可愛がっているに違いない。舌なめずりをしながら、京花は冬真と楓の関係がこじれることを望んだ。大奥様は最近、楓のことを特に嫌っている。夕月の妹なのに冬真と付き合いが深いのは、冬真の評判に関わると。たとえ夕月と離婚しても、二人目の藤宮家の娘を嫁に迎えるなんて、橘家では考えられないことだった。姉妹で同じ男性と……そんな話があるものか。でも京花にしてみれば、冬真の評判が落ちることは願ってもないことだった。そうすれば、自分と父親も橘家の事業から何かしら分け前にあずかれるかもしれない——イカを一切れ楓に食べさせるたびに、悠斗は夕月の方をちらちらと見た。おかしいな。あのうるさいママ、もう見てすらくれない?きっと、自分が楓に尽くしてるのを見て、耐えられなくなったに違いない!そうに決
凌一は既に天野から視線を外していた。「ご自由に」そして夕月に向き直り、穏やかな眼差しを向ける。「星来を助けてくれて、ありがとう」「違います。星来くんが私を助けてくれたんです」夕月は首を振った。星来は夕月の手を握り、自分の胸を叩いてから、スマートウォッチを指差した。夕月はすぐに星来の言いたいことを理解した。自分が夕月を守ると、そう言いたかったのだ。「今日の星来くん、とっても勇敢だったわね」夕月は優しく微笑んだ。「星来くん!チューしていい?」瑛優が星来に抱きついた。星来が嫌がる様子を見せなかったので、瑛優は星来の頬にキスをした。夕月も膝をついて、星来の頭に軽くキスを落とした。星来の頬が薔薇色に染まり、漆黒の瞳には無数の星が瞬いているようだった。先ほどキャンプ場に戻った時、夕月は瑛優に星来とキノコ採りをしていた時の出来事を話していた。瑛優は話を聞いて、悠斗と一戦交えたい気持ちでいっぱいになった。でも、悠斗が今夜斜面で野宿すると聞いて、学校で会った時に、拳を見せながらじっくり話し合おうと決めた。天野は凌一の様子を観察していた。氷のような眼鏡の奥で、凌一の瞳が夕月と星来を見つめる時、不思議な優しさを帯びていた。「橘博士、息子さんのお母さんを探してみては?」天野の言葉に、食事の準備をしていた使用人が続けた。「坊ちゃまは藤宮さんと本当に仲が良いですから、藤宮さんがお母様になってくだされば……」この屋敷で働く使用人たちは、夕月が以前凌一の甥の嫁だったことを知っていた。しかし橘家の人々との接点は少なく、ただ夕月が書斎に出入りを許され、星来が彼女との触れ合いを嫌がらない様子を見て、父子にとって特別な存在なのだと感じていた。その言葉が空気を切り裂いた途端、星来の様子が一変した。瑛優に抱きしめられていた星来が突然身をよじり始め、瑛優は慌てて腕を解いた。星来は後ずさりし、夕月を見上げた瞳が一瞬で赤く染まる。そして踵を返すと、自室へと駆け出した。「星来くん!」夕月の呼びかけに、星来の足取りはさらに速くなった。「申し訳ございません」使用人は自分の失言に気付き、深く頭を下げた。「下がれ」凌一の声が冷たく響く。夕月と瑛優が星来の走り去った方を見つめているのを見て、「放っておけ。食事にしよう
その時、天野は緊張した警戒犬のように身を固くしていた。夕月は車内に滑り込むと、優しい声で「星来くん、抱っこしていい?」と囁きかけた。まだ眠そうな星来は、夕月の方へふわりと身を寄せた。彼女の胸元に倒れ込むように身を預け、夕月は慎重に車から抱き出した。星来は夕月の肩に顔を埋めた。柔らかな甘い香りが鼻をくすぐる。半眼を閉じながら、夕月の温もりに甘えるように、小さな腕が自然と彼女の首に回された。出迎えた使用人たちは、星来を抱く夕月の姿に目を見開いた。人見知りの激しい星来は、誰とも身体的な接触を持とうとしない。最も親しい凌一でさえ、時には話しかけても相手にされないほどだった。夕月に抱かれている星来を見て、自閉症が改善に向かっているのだろうかと、使用人たちは驚きを隠せなかった。「坊ちゃまがお眠りのようですが、私が抱かせていただきましょうか?」使用人が一歩前に出て声をかけた。夕月は首を振った。「大丈夫です。頭は少し覚醒してきましたが、体がまだ眠たいみたいなの」星来の背中を優しく撫でながら、「もう少し、このまま抱かせてあげましょう」天野に抱かれてリビングに入った瑛優は、大きくあくびをして完全に目を覚ました。夕月は星来をソファに座らせ、ウェットティッシュで顔と手を丁寧に拭い始めた。かがんだ姿勢で、墨のような黒髪が滝のように垂れ、その仕草は限りなく優しく、指先から手のひらまでが暖かだった。星来の瞳は完璧なアーモンド形で、黒真珠のような漆黒の瞳が目全体の四分の三を占め、白目はほんの僅かしか見えなかった。その瞳で夕月をじっと見つめながら、無意識に手を伸ばし、夕月の髪に触れようとする。「凌一様がいらっしゃいました」使用人の声が響く。星来は夢から覚めたように、慌てて手を引っ込めた。振り返ると、電動車椅子に座った凌一が近づいてきていた。ベージュのカジュアルスーツを着こなし、縁なしメガネの奥の瞳は冷たく光っていた。夕月はずっと思っていた。凌一は白が似合う人だと。まるでこの世の穢れが寄り付かないかのように。まるで聳え立つ雪山のように、清らかで、畏怖の念を抱かずにはいられない存在。凌一は天野を一瞥した。自分の領域に侵入者を見つけたような眼差しだった。黒いコートを纏った天野は、中の黒シャツが逞しい筋肉で起
夕月の頬が一気に紅潮する。ボディーソープを押し出す音が響いてきて、夕月の想像は止まらなくなる。涼は今、体のどこを……彼女は慌てて頭を振った。浴室の反響が、彼の声をより艶めかしく響かせる。「何かあったのか?」夕月は熱くなった額を押さえた。頭の中が沸騰してしまいそうだ。かろうじて残った理性で、用件を告げる。「来週、私の友達が帰国するんです。あなたもご存知の、私の元コ・ドライバー、鹿谷伶なんですけど。コロナを貸していただけないでしょうか?」「いいよ。じゃあ、元月光レーシングクラブのオーナーとして、空港まで迎えに行ってもいいかな?」涼は気さくに返事をした。「ええ、もちろん」夕月は微笑んで答えた。その時、涼の小さな悲鳴が耳に響いた。夕月はハッとして、携帯の画面を覗き込んだ。そこには涼の濡れた前髪から水を滴らせた顔が映し出されていた。湯上がりの美形。首筋を伝う水滴の道筋が、妙に色めいて見える。夕月は思わず携帯を取り落としそうになった。「すまん。手が濡れてて、切ろうとしたんだけど」天野の耳にも涼の声が届いてしまう。運転中の天野は前方に視線を向けたまま、「どうした?」と尋ねた。「な、なんでもありません!」夕月は慌てて答える。「あっ!」バシャッという音と共に、携帯が落下する。カメラには鍛え上げられた——太腿が映し出された。水滴が画面を叩き、映像がぼやける。夕月は慌てて目を閉じる。見てはいけない、見てはいけない。慌てた指が画面をあちこち触る。涼は画面上で踊る指を見つめながら、羽毛のように柔らかな声を落とした。「夕月、そんなとこ触っちゃ……」夕月の顔が真っ赤に染まる中、前方の信号が赤に変わった。天野が車を止め、夕月の方を向く。反射的に携帯を背中側に隠す夕月。まるで天野の目の前で、誰かと密会してるみたいじゃないか。自分の行動に気付いた瞬間、恥ずかしさで全身が熱くなった。「桐嶋との話、私に聞かせたくないことでも?」天野の声が妙に重たい。「ち、違います!お兄さんは運転に集中して!」夕月は慌てて首を振る。身を屈めて、天野の視線を遮るように携帯を隠す。恐る恐る画面を覗き込むと、通話は既に切れていた。夕月は大きく息を吐き出し、緊張が解けて体の力が抜けた。
「ぎゃああっ!!」楓は悲鳴を上げながら転がり落ち、土埃と砂を口いっぱいに含んだ。低木の生い茂る斜面の下で、ロープに縛られたまま宙づりになっている。凌一の部下がロープをしっかりと固定し、両手を縛られた楓はもう這い上がれない状態となった。部下は大小二つの安全ロープを冬真と悠斗に手渡し、各自装着するよう促した。「凌一様がおっしゃるには、加害者が被害者と同じ目に遭わなければ、何が許されて何が許されないのか、本当の意味では分からないそうです。さらに、お子様の教育が不十分だったため、凌一様ご自身が人としての道を教えてくださるとか」冬真は無表情のまま、悠斗の襟首を掴んで斜面を滑り降り始めた。「うっ、うっ……パパ!怖いよ!」悠斗は冬真にしがみつき、泣き叫ぶ。「男なら泣くな!しっかりしろ!」男の怒鳴り声が響いた。帰り道、天野の視線が夕月の顔から離れないことに気付いた。夕月は思わず頬に手を当てた。「何か、顔に付いてる?」斜面から転げ落ちた時に何か付いたのかもしれない。天野は視線を逸らし、深いため息を漏らした。「凌一さんのことを、どう思う?」「先生は私にとても良くしてくださいます。大きな木のような存在で、仰ぎ見るような方なのに、私たちを守ってくださる」夕月は柔らかな声で答えた。「守ってるのは、お前だけだ」天野の呟きは低く、かすかだった。折しも強い風が吹き、木々のざわめきに言葉が消されていった。「え?今なんて?」夕月は聞き返した。そこへ私服の警備員が近づいてきた。「藤宮さん」恭しく一礼して、「星来お坊ちゃまを守ってくださったお礼に、先生が夕食にご招待したいとのことですが、本日はお時間よろしいでしょうか」天野は眉間に皺を寄せた。凌一からの誘いは、断れるような性質のものではないことを、彼は知っていた。「夕食の後、先生の書斎で資料を見せていただきたいのですが」夕月は遠慮がちに切り出した。凌一の書斎には、ネットや大学の資料室では見つからない極秘資料が数多く保管されているはずだった。部下は即座に頷いた。凌一から、夕月のどんな要望にも応えるよう指示されていたのだ。「もちろんです。先生も喜んでお迎えするはずです」その時、桐嶋家では涼が一本の電話を受けていた。夕月と星来の今日の出来事を部下から聞きな
冬真はスマホを取り戻したものの、グループの返信は見向きもしなかった。楓が痛めつけられる動画を見た仲間たちの反応など、今はどうでもよかった。右手でスマホを握り締める指に力が入る。三十発の竹刀を食らった左手の平は、まだ肉が痙攣するように疼いていた。手の平に溜まった血を誰も拭おうとしない。救護班は目の前にいるのに、誰一人として傷の手当てをしようとはしなかった。「満足か?」冷ややかな声を投げかける。答えを待たずに続けた。「権力を笠に着るとは」夕月は軽く笑い声を立てた。「私には後ろ盾がある。あなたには?」端正な眉を綺麗な弧を描き、白い素肌に笑みが深まる。「これからは尻尾を巻いて大人しくしていた方がいいわよ」夕月は深く息を吸い込んだ。新鮮な空気が肺を満たし、全身に心地よさが広がる。冬真は眉間に皺を寄せ、何か言い返そうとした瞬間、夕月が感慨深げに呟いた。「これが愛される側の特権なのね。守られ、庇護される感覚……体の中の血が、肉が、狂おしいほど生きているのを感じる」再び冬真を見つめる夕月の瞳は、清流のように澄んでいた。「あなたは私の夫だったのに、こんな感覚を一度も味わえなかった」自嘲的な笑みを浮かべる夕月を見つめ、冬真の呼吸が乱れた。五十回の竹刀が振り下ろされ、楓は地面に伏したまま身動きひとつできなかった。盛樹は息を切らしながら、自分の手のひらにも竹刀で切り裂かれた傷が残っていた。周りには橘凌一の部下たちが立ち並び、盛樹は楓を罵ることしかできず、他の誰一人にも文句を言えなかった。さっき目にした凌一の夕月への甘やかしぶりが、まだ脳裏に焼き付いていた。盛樹は目を細め、夕月を見る目つきが僅かに変化した。悠斗の頬には涙の跡が残り、今は鼻水を拭ってくれる人さえいなかった。「楓兄貴、大丈夫?まだ生きてる?」悠斗が恐る恐る首を伸ばして尋ねた。冬真が医療スタッフに指示を出す。「楓を担架に乗せろ!」しかし医療スタッフは動かず、その視線の先を追うと、凌一の部下が楓の体にロープを巻き付けているところだった。「何をする気だ?」冬真が問い詰めた。部下は冷ややかに答えた。「凌一様のご指示で、楓様と悠斗様には今晩、この斜面で野宿していただきます」冬真の呼吸が荒くなる。「悠斗はまだ五歳だぞ。一人でここに置くなんて、危険
やってみろ、という無言の威圧が漂う。冬真は息を飲んだ。氷のような声で言う。「楓はもう反省してる。実の妹なんだろう。これ以上いじめるな」傍らに立っていた深遠が、突然冬真からスマホを奪い取った。「動画一つ送るのにグズグズして!」このまま放っておけば、また凌一の怒りを買うことは目に見えていた。両手を潰されでもしたら、明日の取締役会に出られなくなる。凌一の意向なら従うしかない。深遠は即座に送信ボタンを押した。「おじさま!お願い、送らないで!」楓の声は力なく響いた。「冬真さん」夕月が言う。「楓のその目つき、本当に反省してると思います?まあ、近視がそんなにひどいとは知りませんでしたけど」冬真は楓を見やった。その瞳の奥に潜む憎悪と残虐性が見えた。夕月を八つ裂きにしても、その怨念は消えそうにない。「昔は大人しくしていたわ。だって私が橘家の奥様だったから。でも、あなたが彼女と暗い関係を続けているのを見るのも吐き気がした。今度は、あなたの愛しい楓が私を害そうとする。我慢できるわけないでしょう?誰もがあなたみたいに脳みそを欠落させているわけじゃないのよ」「私と楓は何も……」冬真は眉間に深いしわを寄せた。「私に心も金も向けない男なんて、何の価値があるの?」その一言で、冬真の喉は完全に塞がれた。夕月は楓に向き直った。「まだ私に何か吐き出したいことがあるなら、どうぞ。ねえ、神様が人を滅ぼす時は、まず狂気を与えるって言うでしょう?」地面に這いつくばった楓は、蛆虫のように首を持ち上げ、目を血走らせて夕月を睨みつけた。『桜都会グループ』に投稿された折檻動画。御曹司たちは一様に沈黙した。「マジかよ……楓、酷い目に遭ってるな」盛樹に叩かれる様子は、目を覆いたくなるほどだった。謝罪の言葉を聞き終えた彼らは、事態の深刻さを一瞬で理解した。「橘家の国宝級天才の息子って、確か五歳だろ?楓、なんで子供に手を出すんだよ。あの人の子供に手を出すなんて正気か?」「え?マジで聞き違いじゃないよな?楓、お前二十五だろ?実の姉に石投げるとか……」御曹司たちは、すぐにプライベートで連絡を取り合い始めた。「この動画、冬真が投稿したんだよな。元奥さんの仕返しってことか?」「間違いない。楓のやったことで、冬真も完全に
「冬真、スマホを出せ」凌一の命令に、冬真は不本意ながらも従うしかなかった。部下が冬真の横に立ち、『桜都会グループ』というLINEグループが開かれているのを確認する。冬真は機械的な動きでスマホを掲げ、カメラを楓に向けた。彫刻のように整った顔立ちは、冷たく硬直していた。夕月の一手は、獲物を仕留める猟師のように的確だった。楓の弱みを完璧に突いている。「バシッ!」「ぎゃああああっ!」楓は激痛に耐えながら、必死に顔を隠す。撮らないで。撮られたくない。御曹司たちの前で必死に築き上げてきたイメージが、こんな惨めな姿で完全に崩れ去ってしまう。私服警備員が凌一に代わって命じた。「楓様、夕月様と星来坊ちゃまにお詫びを」楓は地面の雑草を掴み、爪の間に土が詰まるのも構わず握り締めた。顔を上げると、歯を食いしばり、真っ赤な顔に首筋の血管が浮き出ていた。謝るものか。夕月のこの策略になんか乗ってたまるか。「きゃっ!」また一発、竹刀が振り下ろされる。謝罪の言葉を発しない限り、もう一人の警備員は数を進めない。尻を打つ竹刀の回数は止まったままだ。「二十五、二十五、二十五……」盛樹が一発打つたびに、数を数える警備員は「二十五」を繰り返す。盛樹は腕が疲れ始め、叫んだ。「早く謝れ!」「うぅ!」楓は悲鳴を上げながら、「夕月姉さん!ごめんなさい!私が間違ってました!頭が変になって……石を投げたりして……冬真の恨みを晴らしたかっただけで、本気で傷つける気なんてなかったんです!お姉さん、どうか許してください!」「なんだか、謝り方が違うわね」夕月は冷静に言い放った。「楓様、もう一度お願いします」警備員が促す。もう一人の警備員は三十まで数えていたが、また二十五に戻した。冬真も撮影のやり直しを余儀なくされる。「どう謝ればいいの!」楓は憤然と叫んだ。「早く言え!このままじゃ尾てい骨を折るまで叩くぞ!」盛樹は怒鳴り声を上げた。楓は眉間に深いしわを寄せ、気を失いそうになっていた。従わない限り、盛樹の竹刀は止まることを知らない。楓は汗と泥にまみれた顔を歪ませ、口を大きく開けて絶叫した。その表情は苦痛で醜く歪んでいた。かすれた声で「星来くん、ごめんなさい……危害を加えるつもりじゃ……」「夕月姉さん
楓は一瞬固まった。「……父が?なぜここに?」「私どもから盛樹様に雲上牧場までお越しいただくようご連絡いたしました。悠斗お坊ちゃまも社長も父親から懲らしめを受けました。楓さんも当然、お父様からの指導を受けていただかねばなりません」部下は淡々と答えた。 会話の最中、藤宮盛樹が姿を現した。夕月も驚いていた。凌一の行動力は驚異的だった。事件発生からわずか三十分足らずで、星来の危機を把握し、即座に処罰を下したのだ。盛樹は息を切らして現場に駆けつけ、まさに冬真が竹刀で打たれる場面に遭遇した。竹刀に付着した血を目にした途端、全身が震えた。呼び出しを受けた道中で、凌一の部下から楓が星来を斜面から突き落としたと聞かされていた。その一報で、盛樹の顔から血の気が引いた。凌一の部下が近づいてくると、楓の姿が見当たらない盛樹は震える声で尋ねた。「私の……娘は、まだ生きているのでしょうか」部下は新しい竹刀を盛樹に差し出した。「楓様は夕月様と星来坊ちゃまを斜面から落とした首謀者です。盛樹様、楓様の平手を五十回、お願いいたします」斜面の下で這いつくばっていた楓は、その言葉に青ざめた。冬真の手のひらは三十回で血が滲むほどだった。五十回も打たれれば、自分の手は廃人同然になってしまう。「私の手はレースに使うんです!来週のレースに出場するのに……この手に何かあったら困ります!」国際レース大会・桜都ステージのスポンサーの一人である冬真の計らいで、楓はエキシビションマッチの出場枠を得ていたのだった。盛樹は自分の娘が勉強嫌いで、いつも男たちと兄弟のように付き合っていることを分かっていた。それでも、そんな生き方で少しばかりの成果を上げていた。どんな順位であれ、エキシビションマッチに出場すれば、楓は桜都で名が売れる。そう考えていた盛樹は、凌一の部下に向かって苦渋の表情を浮かべた。娘のレース人生を断つわけにはいかなかった。「手の平以外では……ダメでしょうか」「他の部位でも構いません」部下は即答した。盛樹は楓に向かって歩み寄った。「この馬鹿者!どこを打たれるか、自分で選べ!」楓は暫し考え込んだ後、不本意そうに自分の後ろを振り返った。「ズボン、厚いし……お尻なら」厚手のパンツを履いていることを確認しながら言った。凌一が出て
痛い!左手が痺れて感覚がなくなっていた。竹刀を握る冬真の手に力が入った。息子を打った手のひらが、自分も痛みを感じているかのように疼いた。だが凌一の前では、後継者としての威厳を示さねばならない。「星来くんを実の兄弟のように大切にするんだ。わかったか?二度と仲たがいをしているところを見たくない」返ってくるのは、悠斗の嗚咽だけだった。これで凌一の怒りも収まったはずだ——冬真がそう思った矢先。タブレットに目を向けると、凌一の声が響いた。「子を教えざるは親の過ち。冬真、三十発」「私が、ですか?」冬真は声を失った。深く息を吸い込んでから、冬真は部下に竹刀を差し出した。「叔父上、ご指示の通りに」恭しく頭を下げる。「待て。もうすぐ父上が到着する」凌一の声には焦りのかけらもない。冬真の表情が凍りついた。その場にいた全員が、予想だにしない展開に息を呑んだ。しばらくすると、先生の一人が林の向こうで何か光るものに気付いた。まるで誰かが鏡を掲げて歩いているかのような、まばゆい輝きだった。その光る物体が近づくにつれ、先生たちや救護班の面々は、スーツを着こなした坊主頭の男性であることが分かった。小走りでやって来たその中年の男性こそ、橘冬真の父、橘深遠だった。深遠の後ろには秘書、そして斎藤鳴を含む数人の保護者が続いていた。鳴は天野と冬真が戻って来ないことを不審に思い、他の保護者とともに様子を見に来たのだ。途中、林の中をぐるぐると歩き回り、明らかに道に迷っている様子の深遠と出くわした鳴は、何か重大な事態が起きているに違いないと直感した。他の保護者たちと共に、好奇心に駆られるままついて来たのだった。深遠はハンカチを取り出し、ピカピカの頭を拭うと、タブレットの前に立った。兄である立場ながら、弟の凌一に対して並々ならぬ敬意を示す。「凌一、来る途中で星来くんが危険な目に遭ったと聞いた。もし本当に悠斗くんが関わっているというのなら、あの小僧を決して許すわけにはいかん」悠斗は再び体を震わせた。左手を叩かれたばかりなのに、今度は右手まで叩かれるのだろうか。凌一が静かに告げた。「お前の孫は、既に息子が躾けた。今度は、お前が息子を躾ける番だ」凌一が言い終わると同時に、部下が竹刀を深遠の前に差し出した。「平手を三