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All Chapters of 銀の少女: Chapter 1 - Chapter 5

5 Chapters

第1章 邂逅 1/5

  優しい日差しが映り込み、川面が輝いていた。   昭和58年5月。  奈良県北部に位置する、この街に越して一ヶ月。  この小川にまで足を運んだのは初めてだった。 腰を下ろし木にもたれかかると、柚希〈ゆずき〉は少し顔をしかめた。  まだ痛む。殴られた頬が、そして蹴られた脇腹も、時間と共にずきずきとしてきた。  頭もまだ朦朧としている。制服の詰襟を外し、ベルトを緩めると呼吸が少し楽になった。   両手の親指と人差し指を使ってフレームを作り、小川や土手を眺める。  今度の休み、ここで写真を撮ろうか。  今しがた起こり、そしてまた、明日もあさっても続くであろう現実から目を背けるように、柚希は木にもたれたまま、フレーム越しに辺りを見渡した。 その時、柚希が気配を感じた。 今日はまだ許してくれないのか……あと何回殴られるんだ……勢いよく彼に近付いてくる足音に、柚希は目をつむり、諦めきった表情を浮かべた。 その時だった。  まだ少し血がにじんでいる彼の頬を、何者かが舐めてきた。「うわっ!」 予想外のことに、柚希が驚いて声を上げた。 振り向くと目の前に、太い眉を持った犬の顔があった。「え……犬……?」 息を荒げて柚希を見つめるその犬に、思わず柚希が微笑む。  そして次の瞬間、その犬に舐められた頬の傷に痛みが走り、顔をしかめた。 しかし犬はおかまいなく柚希の上に乗り、再び顔を舐めだした。「え? え? ちょ……ちょっと、やめろ、やめろってお前……ははっ、あははははははっ」 尻尾を振りながら顔を舐めてくるその犬に、いつしか柚希は声を上げて笑っていた。  散々殴られた後なので、犬を払いのける気力も残っていない。  柚希は笑いながら、しばらく犬にされるがままになった。  しかし不思議と、さっきまでの重い気持ちが軽くなっていくような気が
last updateLast Updated : 2025-04-26
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第1章 邂逅 2/5

  しばらくして。  羞恥のあまり、柚希〈ゆずき〉がうなだれた。  女はそんな柚希を怪訝そうに見つめながら、柚希の頭にそっと手を置いた。「大丈夫……ですか?」「いえ、その……すいません」「謝らないでください、その……」 女は何か言おうとしたが、思いとどまるように口を閉じた。「あの、何か……」 その助け舟に少し安堵の表情を浮かべた女が、緊張気味に柚希を見つめた。「よろしければ、その……お名前を……うかがっても……」「あ……はい。僕は柚希、藤崎柚希〈ふじさき・ゆずき〉です」「柚希さん……綺麗なお名前ですね。耳に響く音がとても心地いいです。あの、よければ……柚希さんってお呼びしてもいいですか」 手を合わせて微笑む女に、柚希の頬がまた赤く染まった。「は、はい。柚希でお願いします」 勢いよく頭を下げる柚希に、女は小さく笑った。「柚希さん、私は紅音、桐島紅音〈きりしま・あかね〉です。どうかよろしくお願いします。それからコウのこと、本当にすいませんでした」「いえそんな、こちらこそ。その……桐島さん」「柚希さんさえよろしければ、どうか私のことも紅音とお呼び下さい。私もお名前でお呼びさせてもらってますし、それに……その方が嬉しいです」 紅音の言葉に、柚希は胸の鼓動を抑えられなくなっていた。  * * * 柚希はこれまで、同世代の女子とほとんど話したことがなかった。  この街に越して来て、隣の家の同級生、小倉早苗〈おぐら・さなえ〉が初めてまともに会話した女子と言ってもよかった。 早苗は活発な子で、柚希の父からよろしくと頼まれたことを真剣に受け止め、色々と世話を焼いてくれていた。 家族ぐるみの付き合いをしていく中で、早苗は自分を小倉ではなく、早苗と呼ぶよう柚希に言ってきた。  でないと私を呼んでるのか、お父さんを呼んでるのかお母さんを呼んでるのか分からない。そんな理由だ
last updateLast Updated : 2025-04-26
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第1章 邂逅 3/5

 「柚希〈ゆずき〉さんはこの場所、初めてなんですよね」「あ、はい。いつもは学校が終わるとまっすぐ帰ってるんですけど、今日はちょっと色々あって、少し休むつもりで」「それって、その傷と関係あるのですか」「あ、いや、それは……」 その言葉に、柚希が少し表情を曇らせた。「ごめんなさい。私、余計なことを」「いえ、大丈夫です。気にしないで」「本当にごめんなさい。私、こうして人とお話するのが久しぶりなので、少し興奮してるみたいで……あの、柚希さん」 そう言って、紅音〈あかね〉が距離を詰める。甘い香りがした。「え……」「大丈夫です。少しだけ、動かないでもらえますか……」   紅音が腰を下ろすと、木にもたれる柚希に覆いかぶさるような格好になった。  紅音の動きに柚希は混乱し、慌てて目を閉じた。  手袋を外した紅音は右手で柚希の頬に触れ、左手を木に沿えると小さくつぶやいた。 「お願い……少しだけ、あなたの力を貸してください……」  不思議な感覚だった。  紅音の手のぬくもりが、頬から体全体に伝わってくるようだった。  そのぬくもりは温かく、そして心地よくて。  言い様のない安息感が柚希を包み込んだ。  * * *「どう……ですか?」「え……」「まだ痛みますか?」 紅音の声に柚希が目を開けると、目の前に紅音の顔があった。  吐息を間近に感じる。  目が合った柚希は、緊張の余り全身が硬直するような感覚に見舞われた。「あ、あの、紅音……さん……」「え?」「あのその……顔、顔が、その……近いです……」「あっ!」 柚希の言葉に、紅音が慌てて離れて目を伏せた。「ご、ごめんなさい、私……また変なことを……」「あ
last updateLast Updated : 2025-04-26
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第1章 邂逅 4/5

  木造二階建ての、古びた一軒家。それが柚希〈ゆずき〉の家だった。 門扉を開けて中に入ると、少しばかりの庭がある。  都会でマンション暮らしだった彼にとって、庭があるのは新鮮だった。 ここに越して真っ先に彼がしたことは、庭に菜園を作ることだった。  三年ほど誰も住んでいなかったせいもあり、来た時には雑草が生い茂って荒れ放題になっていた。  越してきて一ヶ月。ようやく土も落ち着き、二十日大根やトマトの芽が出ていた。  玄関の鍵を開けて土間に鞄を置くと、彼は菜園に水をまいた。「おかえり柚希。遅かったね」 彼の家の隣に、同じような造りをした一軒家がある。  その二階の窓から顔を出した早苗〈さなえ〉が、声をかけてきた。「もうすぐご飯出来るから。それ終わったら手を洗って来るんだよ」 そう言って早苗は大袈裟に手を振り、微笑んだ。  柚希も手を振って応える。 水をやり終えると家に入り、制服を脱いだ。  傷はなくなったが、あちこちが土で汚れていた。このまま行けば、また早苗から質問攻めにあってしまう。  クラス委員でもある早苗の親切は嬉しいが、こればかりは簡単に解決出来るものではない。  早苗も薄々感じていて、事あるごとに聞いてくるのだが、安っぽい男のプライドが、女子に相談することにブレーキをかけていた。  それに何より、早苗に心配をかけるのが嫌だった。「こんばんは」「おお、おかえり。丁度呼びに行こうとしてたところだ。早く入りなさい」 早苗の父、小倉孝司〈おぐら・たかし〉が、夕刊を手に柚希を出迎えた。「あ、はい……いつもすいません」「そろそろそのかしこまったの、なんとかせんとな。うははははははっ」 豪快に笑う孝司に続いて、柚希も居間に向かった。「お兄ちゃん、いらっしゃい。巨人勝ってるよ」 早苗の弟、昇〈のぼる〉が嬉しそうに柚希を迎える。「なるほど。それでおじさん、ご機嫌なんだね」「何を言
last updateLast Updated : 2025-04-27
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第1章 邂逅 5/5

  湯船につかりながら、柚希〈ゆずき〉は紅音〈あかね〉のことを考えていた。 ここに越してから、柚希は基本、食事と風呂を小倉家で済ませている。  初めの頃は、自分の家があり生活があるからと拒んでいたのだが、早苗〈さなえ〉の勢いに流される回数が徐々に増えていき、いつの間にかこれが日常になっていた。「綺麗な人、だったな……紅音さん……」 小さく笑う紅音を思い出すと、自然と口元が緩んだ。  * * * 柚希はこれまで、身近な女性を意識したことがなかった。  清楚で無垢、そして自分を包み込んでくれる存在。それが柚希の求める女性像だった。  それは幼い頃に事故で亡くした、大好きだった母親への想いに重ねられているとも言えた。  どこにいても浮いた存在で、常にいじめの対象だった彼に興味を持つ女性もいなかったが、彼自身、劣等感を持つこともなかった。  彼の理想の女性像を、同世代に求めることが出来ないと分かっていたからだ。 しかし紅音は、その理想を求めるに足る初めての女性だった。  勿論彼女のことを、まだ何も知らない。  しかし彼女の姿を思い描き、仕草を思い返すと、彼の胸は高鳴った。 湯船から出た柚希は、椅子に座り体を洗い出した。  毎日のように受ける暴力で、体のあちこちは傷ついていた。  いつもは痛くならないように、慎重に慎重に洗っていた。  しかし今日、本当に久しぶりに。痛みを気にせず洗うことが出来た。  それが嬉しかった。   その時、突然ドアが開いた。「柚希―、湯加減どう?」 短パンにティーシャツ姿の早苗だった。「うわっ!」 柚希は反射的に湯船に飛び込んだ。「早苗ちゃん、いつも言ってるだろ。いきなりドアを開けないでって」「あははははっ、別にいいじゃない。私にとっては柚希も昇〈のぼる〉も、可愛い可愛い弟なんだからさ。これぐらいで騒がないの」「い
last updateLast Updated : 2025-04-28
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