たかがキスごときで離婚するなんて大げさじゃないか のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 8

鈴木誠との付き合いは七年。結婚生活も五年が経った。学生時代、私が鈴木誠に恋い焦がれていたことは、誰もが知っていた。必死に想いを伝え続けた甲斐があって、ついに結婚の夢を叶えることができた。結婚後、私たちは両親が所有する別荘に住み始めた。私は貯金を全て投じて鈴木誠の起業を後押しした。父の持つ人脈を総動員し、その会社は瞬く間に無名から年商数億円規模の企業へと成長を遂げた。わずか五年で、鈴木誠は「新進気鋭の実業家」として世間の注目を集めるようになった。結婚式の誓いの言葉が今でも耳に残っている。「安奈、この命ある限り、お前だけを愛し続けることを誓う」幸せに包まれていた私は、表舞台から静かに身を引き、経営権も全て夫に委ねた。しかし、富を手に入れた途端、鈴木誠は学生時代からの憧れだった川村月子を秘書として呼び寄せた。以前の私なら、きっと取り乱して大騒ぎしていただろう。そうすれば決まって、鈴木誠は高圧的な態度で「大げさすぎる」「疑り深い女だ」と私を責め立てたはずだ。だが今は違う。取引先との接待中に突然の出血で倒れ、救急搬送された私は、そこで初めて妊娠していたことを知り、そして同時に流産を告げられた。必死に夫に連絡を取ろうとしたが、かけた電話は全て拒否された。後になって分かったことだが、その時、夫は川村月子と熱い口づけを交わしていたのだ。その時、長年積み重ねてきた愛情も、信頼も、全てが砂のように崩れ落ちていった。怒号を浴びせる夫の顔を見つめながら、苦い笑みがこぼれた。外では激しい雨が降り注ぎ、轟く雷鳴が響く。まるで私の心の叫びを代弁するかのようだった。「鈴木誠、私たち、離婚しましょう。家も車も私の婚前財産よ。会社の株式は半分ずつ分けることで」鈴木誠は目を見開き、まるで私を見る目が変わったかのように睨みつけてきた。「バカなことを言うな。たかがキス一つで離婚だと？こんな心の狭い女性だったとは思わなかったぞ」反論しようとした私の言葉を遮るように、鈴木誠の携帯が鳴った。受話器から甘えた声が響いてきた。「誠くん......雷が怖くて......独りは寂しいの。そばにいてくれないかな？」「今から行くから。もう少しだけ待っていて」今まで一度も聞いたことのない、蜜のように甘い声だった。通話を切った

疲れ果てた体で実家に辿り着いた。玄関で父と顔を合わせると、父は意外そうな顔で声をかけてきた。「安奈？どうしたんだ？」私は黙ったまま、ただ俯いていた。母は私の腫れぼったい目を見るなり、すぐに察したようだった。「どうしたの？鈴木誠と何かあったの？」涙が込み上げてくるのを必死で堪えながら、声を絞り出した。「パパ、ママ......鈴木誠が浮気してて......私、離婚を決めたの」母は何も問いただすことなく、そっと私を抱きしめた。「安奈がそう決めたのなら、それなりの理由があるはずよ。ママは全面的に支持するからね」母の声も少し震えていた。自室に戻って携帯を確認すると、いつの間にかマナーモードになっていて、画面には何十件もの不在着信が並んでいた。気にせず横に置いたが、すぐにまた着信音が鳴り響いた。受話器の向こうから鈴木誠の怒りに満ちた声が飛び込んできた。「どこにいるんだ。離婚なんて馬鹿なことはやめろ。一時間以内に戻ってこい。残り59分だぞ......」ふん、と私は鼻で笑った。「離婚届、テーブルに置いといたから。離婚届、サインするの忘れないでね」電話を切って部屋を出ると、母が私の大好きな蓮の実と百合根のお粥を作ってくれていた。お腹が空いていた私は、あっという間に一杯平らげた。スマホが絶え間なく振動し続けるので確認すると、会社のグループLINEは既読マークが99+になっていた。まだ内容を確認する前に、何人もの社員から個人メッセージが届いた。「安奈さん、社長様が素敵すぎます！全社員に一ヶ月も休暇をくださるなんて、本当に羨ましいです！」「安奈さん、オーロラ見に行かれる時は、たくさん写真を撮ってくださいね！」不安な予感がして、急いでグループLINEを開くと、社員たちが一斉に同じメッセージを投稿していた。「社長、最高です！」「社長、最高です！」「社長、最高です！」一瞬呆然として、やっと状況が飲み込めた。みんな、鈴木誠が全社員に一ヶ月の休暇を与えたのは、私との旅行のためだと思い込んでいた。でも実際は――彼は川村月子とオーロラを見に行くためだった。この馬鹿者！すぐに鈴木誠に電話をかけた。「正気なの？全社員に一ヶ月も休暇を与えて、会社はどうするつもり？あんたた

その言葉を聞いて、胸が苦しくなった。つい先日のことが蘇ってきた。鈴木誠が「スペアリブが食べたいな」とポツリと言っただけだった。それなのに私は、真夏の日差しも気にせず材料を買い集めて、愛情たっぷり込めて甘酢スペアリブを作った。そして、会社まで届けた。鈴木誠が私の手料理を楽しみにしてくれているはずだと思っていた矢先、川村月子から写真付きのメッセージが届いた。「安奈さん♪ うちのポチがスペアリブ食べてるところです。でも、ちょっと塩辛かったみたい。次は薄味にしていただけると嬉しいな」今、目の前で惨めな姿を晒している男を見つめながら、やるせない気持ちが込み上げてきた。鈴木誠は川村月子の若さと愛らしさに夢中になり、彼女を手に入れた優越感に浸りながら、その一方で私の献身的な愛情まで都合よく求めていたのだ。そんな虫のいい話、この世にあるはずがない。思わず嘲笑うような声が漏れ、声のトーンを上げた。「よくもそんなことが言えるわね。結婚式で月子さんとキスしてた時は、私の気持ちなんて全然考えてなかったじゃない。観覧車デートを楽しんでた時は、彼女が子供っぽいなんて一言も言わなかったはずよ。都合のいい時は気にならなくて、飽きたら私の良さを思い出すの？まあいいわ。離婚してくれるなら、何人の女性と暮らそうが私には関係ないから」私の言葉一つ一つが痛いところを突いたらしく、鈴木誠は恥ずかしそうに俯いた。周りの人々が足を止め、私たちの方をじろじろ見始めた。野次馬が増えるにつれ、鈴木誠は顔を曇らせ、面目を失ったような怒りを露わにした。「安奈！いい加減にしろよ。そんな上辺だけの態度、もう見飽きたぞ。図に乗るんじゃねえ本当に俺のこと忘れたっていうなら、どうしてまだ結婚指輪してるんだよ。五年間はめ続けた指輪を見つめた。もう、別れを告げる時だ。「ごめんなさい、外すの忘れてただけよ」そう言って、左手の薬指から指輪を外し、ためらいもなくゴミ箱に投げ入れた。「要らないものはゴミ。ゴミはゴミ箱に捨てるものでしょう」誠は真っ赤な顔で、奥歯を噛みしめた。「七年間の思い出を、そう簡単に捨てられるはずがないだろう。大学時代、お前が必死に俺を追いかけてたの、クラスメイト全員が知ってるんだぞ。俺と結婚できて人生最高の選択だって、お

彼の言葉に、私の心は微かにも揺れなかった。愛が消え去ると、こんなにも冷徹になれるものなのね。「あの日、何度も何度も電話したわ。全部切られたけど。その時、月子とのキスに夢中だったものね」川村月子が儚げな表情を浮かべながら、赤ワインを手に近寄ってきた。「安奈さん、そんなに大事な用件だったなんて......誠くんのこと、許してあげて？離婚したばかりなのに、もう次の人を見つけて。誠くんの心にはまだあなたがいるの。これを受け取って。過去のことは水に流しましょ？」周囲の視線を感じながら、私はゆっくりとグラスを受け取った。そして、一瞬の躊躇いもなく、彼女の頭上から注ぎ込んだ。赤ワインが月子の頭から滴り落ち、化粧が崩れ、惨めな姿へと変わっていった。呆然としていた川村月子は、やがて泣き崩れながら鈴木誠の元へ駆け寄った。「誠くん！あの女、こんなひどいことするなんて、許せないわ！」でも川村月子がどれほど涙を流しても、鈴木誠は一瞥もくれなかった。かつての慈しみも愛情も、跡形もなく消え去っていた。充血した目で深いため息をつくと、鈴木誠は言った。「安奈、本当に申し訳なかった。もう一度だけチャンスをくれないか。これからはお前だけを見つめる。もう一度、やり直させてくれ。観覧車も、アイスランドのオーロラも、行きたいところ全て連れて行く。何でも......」その言葉が終わる前に、佐藤凌が鈴木誠の顔面に渾身の一撃を叩き込んだ。「安奈にしてきたことを忘れたのか。これからは俺が彼女を大切にする。二度と近づくな」鈴木誠は信じられない表情で佐藤凌を、そして私を見つめた。首を横に振りながら、掠れた声で懇願を続けた。「頼む、安奈。プライドも何もかも捨てた。それでもダメなのか。これからは必ず......」私は両手で耳を覆った。もう彼の空虚な約束なんて、これ以上聞きたくなかった。佐藤凌が私の手を取り、静かにホテルを後にした。青空を見上げると、心が洗われていくような清々しさを感じた。佐藤凌は私の目をまっすぐ見つめ、優しく言った。「大丈夫だよ。俺がずっとそばにいる」その後、川村月子は妊娠を終わらせた。SNSで被害者面をして私への中傷を始め、私の会社を標的に執拗な攻撃を仕掛けてきた。一時