徹はうなずき、静かに言った。 「今後の消耗はどんどん増える一方だ。だから、実力のある人が加わるなら、それに越したことはない」 「その人とは誰ですか?」 綿が問いかけた。 「夜になればわかる」 徹は笑顔を見せ、続けた。 「そのためにわざわざ君を探しに来たんだ」 彼の言葉には暗に「断らないでほしい」という意味が込められていた。 綿は沈黙した。 彼女の中には漠然とした不安が広がっていた。 「それって、輝明ですか?」 綿が探るように言うと、徹は驚いた顔を見せた。 彼女がこれほど敏感だとは思わなかったのだ。 「もし彼なら、でも――」 彼が言葉を続ける前に、綿がそれを遮った。 「山田さん、もし輝明があなたにいくら投資しているのか教えてください。私がその倍を出します」 彼女の声には冷たさがあり、その表情には一切の妥協が見られなかった。 彼女はその男を研究所に関与させたくなかった。 「桜井さん、感情的にならないでくれ!輝明が投資してくれるのは、我々にとって重要な機会なんだ」 徹は真剣な顔で説得するように言った。 だが、綿は静かに首を振った。 「山田さん、もう一度よく考えてください」 「考えた上での結論だよ。だからこそ、夜に来てほしいんだ」 彼の声には固い決意が滲んでいた。 綿は言葉に詰まった。 徹の眉間には一瞬皺が寄った。 綿の胸中には苛立ちが広がっていく。 彼女は強く逆らいたい気持ちを抑えきれない。 しかし、彼女には理解していることがあった。 研究所では、彼女が院長であり投資家であるとはいえ、その立場は徹の好意に依存しているということだ。 彼女の出資額は徹のそれに及ばず、この研究所の創設者も徹だった。 彼女はあくまで「共同経営者」でしかない。 彼女が意見を言う資格はあるが、それを受け入れるかどうかは徹次第だった。 さらに、彼女が自ら身を引くこともできる。 だが、「SH2Nの研究を完成させること」は、彼女の祖母の夢だった。 彼女が去ることは、その夢を裏切ることに等しかった。 徹も、自分が競争から外れることを恐れていないのかもしれない。結局のところ、綿が一人去ったとこ
徹は陽菜を連れて研究所を出ていった。 綿は椅子に腰を下ろし、しばらく考え込んでいた。 この研究所のトップは結局、徹だった。 この事実を前に、彼女の心にはどうしようもない苛立ちが湧き上がっていた。 もしここに祖母がいたら、徹は祖母をこんなふうに困らせたりはしなかっただろう。 むしろ祖母の方が、研究所のために自ら進んで譲歩していたに違いない。 綿は首を振り、心を落ち着けようとする。 「早くこの研究を完成させて、この場を離れたい」 その思いが胸中でますます強くなる。 「すべてが片付いたら、山奥に隠居して暮らそう」 ふとそんな未来を想像した。 もし父の会社が自分を必要とするなら、会社を継ぐのも悪くない。 「でも、父が必要としないなら?」 そんな時は、かつての夢を追いかけ、国外で留学し、ジュエリーデザインを学ぼう。 彼女はふと溜息をつく。考えれば考えるほど、怒りが心の中で燃え上がっていくのを感じる。 苛立ちを抑えられない彼女は、スマホを取り出し、ブロックリストを開く。 そこには輝明の番号が登録されていた。 彼女は一瞬躊躇したものの、彼をリストから外し、電話をかけた。 ……出ない。 呼び出し音だけが続く。 もう一度かけても応答がなく、綿は眉をひそめた。 三度目をかけるのは嫌になり、スマホを机の上に放り投げたその時―― スマホが振動した。 画面に映し出された名前は「高杉輝明」。 彼女の表情は一瞬で冷たくなった。 「わざと?」彼女はそう思わずにはいられなかった。 彼女が諦めると、わざわざかけ直してくるとは…… 綿は電話に出るが、音声をスピーカーに切り替え、机に置いたまま黙り込む。 しかし、電話の向こう側からも何の声も聞こえてこない。 ……何も言わない? 両者の間に張り詰めた沈黙が続く。そして、彼女は苛立ちを募らせながら電話を切った。 何様のつもりなのよ! 彼女の声が室内に響く。 一方、輝明のオフィス。電話を切られた彼は、静かに森下を睨みつけた。 森下は冷や汗をかき、困った表情を浮かべた。 実は綿からの電話に輝明は驚いていた。まさか彼女が自分をブロックリストから外して電話し
綿が疲れたように電話越しで文句を言うのをやめると、電話の向こう側から穏やかな声が聞こえた。 「もう言い終わった?」 彼女は歯を食いしばりながら答える。 「終わった!」 「水でも飲めよ」 その言葉に、綿は皮肉な笑みを浮かべた。 「あなたって本当に!」 彼女が言い終わらないうちに、輝明は静かに彼女の言葉を遮った。 「投資したいと望んだのは俺じゃない。山田徹がこの話を持ち上げてきたんだ」 その言葉に綿は詰まった。 「山田さんが言うには、研究所の後期の費用負担がますます大きくなるそうだ。俺が参加すれば研究がスムーズに進む、とね。もし君が俺の参加を望まないなら、参加しない」 彼の声は誠実で、まるで彼女のためにすべてを引き下がる覚悟を持っているかのようだった。 「君たちの役に立てると思っていただけだ。申し訳ない……」 そのトーンに、綿の心は微妙に揺れた。 「本当に、あなたが自ら望んで参加したわけじゃないの?」 「違う」 輝明は即座に答えた。 綿は眉をひそめ、さらに問い詰めた。 「じゃあ、山田さんは私たちの関係を知っていながら、あえてあなたを引き込んだの?」 輝明は苦笑しながら否定した。 「彼に悪意はないよ。それに、君が研究所にいるから俺を選んだわけでもない。ただ単に、俺が適任者だっただけだ」 綿はそれ以上言葉を発することなく、電話を切ろうとした瞬間、再び彼の冷静な声が響いた。 「今、彼が求めているのは俺の資金だ」 彼の言葉に、綿は立ち止まった。 だから山田さんはあの食事会に出席するよう頼んだのね。 すべてが一瞬で理解できた。 彼女を通じて、輝明の投資を取り付けたいのだ。 その時、彼の声がさらに柔らかく聞こえてきた。 「俺は約束したことは守る。手放すと言ったからには、君を自由にする」 彼の声は低く、どこか本心を隠したような響きがあった。 綿はそれ以上答えず、電話を切った。 彼が本当に言葉通りに行動するのかどうか、それはまだわからない。 彼女はスマホを机に叩きつけるように置き、深く息を吐いた。 さっきまでの苛立ちは消え、少し気持ちが楽になった。 彼が無理に参加しようとしたわけじ
夜、クラウドダイニング。 綿は白いワンピースに濃い色のコートを羽織り、手には世界限定のバッグを持って店内に入った。その瞬間、注目の的となった。彼女の全身から感じられる上品さと優雅さが周囲の注目を集めたのだ。 知人を見つければ微笑み、店員に案内される際は「ありがとうございます」と静かに声をかける。その所作一つ一つが自然に人々の好感を引き寄せた。 最近、嬌が警察に連行されて以降、人々は改めて綿という人物を見直しているようだった。 遠くからでも輝明と徹が話しているのが見えた。彼らは何か楽しそうな話をしているようで、徹は朗らかに笑っていた。 綿は口元を引き締め、表情を整えた後、きっぱりとした足取りで彼らの元へ向かった。 「来たね」 徹が彼女を見つけて声をかけると、輝明も振り返った。その視線の先には、コートを脱ぎ、店員に渡す綿の姿があった。 彼女は袖を軽くまくって、ゆっくりと徹のそばに腰掛けた。 その首元にはバタフライのモチーフのネックレスが輝いており、白い肌を際立たせていた。爪にはネイルが施されていなかったが、全体の美しさにまったく影響を与えない。 髪はざっくりとまとめられ、クリップで留められているだけだったが、それでも整然としていた。 彼女は視線を上げ、輝明に向けて控えめな微笑みを浮かべた。 「高杉さん、こんばんは。研究所の院長をしております桜井綿と申します。自己紹介は不要ですよね?」 その声には微かな距離感が漂っていた。 輝明は黙り込んだ。彼女とは十分に知り合いだ。確かに自己紹介の必要などない。 一方、徹は二人を交互に見ながら、ようやく綿が彼に強い拒絶感を抱いている理由を理解した。この二人が顔を合わせると、場の空気がどうにも重い。 「まあ、友人として軽く食事をしながら、研究所のプロジェクトや進捗について少し話せればいいんじゃないかな」 徹は場を和らげようと口を挟んだ。 「ああ、そうですね。でも、高杉さん、理解できるでしょうか?このパートも省いてしまって構いませんよね?」 綿の言葉に、輝明は微笑みを浮かべた。 徹は心の中で冷や汗をかいた。いくら場を繕おうとしても、綿のこの態度では話にならない。投資家にこんな扱いをするなど、とても許されるものではない。
徹はその場を和らげるように笑みを浮かべた。 「たしかに。世間では高杉さんの資産についていろいろ噂がありますが、一番詳しいのは桜井さんじゃないですか?」 綿の表情は一瞬で冷たくなった。 「それはがっかりさせるでしょうね」 彼女は淡々とした声で言葉を続けた。 「私は高杉さんがどれだけの資産を持っているかなんて知りませんし、知る機会もありませんでした。結婚していた3年間、一円たりとも彼の金を使ったことはありません。それどころか、笑顔すら向けられたことがありませんでした」 この一言は、冷水を浴びせかけたようにその場の空気を一気に冷やした。 徹は慎重に輝明の顔色をうかがった。食事の場に彼も同席しているのだから、綿の発言はあまりにも無遠慮だった。だが、不思議なことに、輝明は何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を聞いていた。 しばらくして、彼が口を開く。 「もう一度、桜井さんと結婚してみたらどう?」 言葉を言い切る前に、綿がすかさず声を上げる。 「何のために?一度死んでみて懲りずに、また二度目の死を試したいの?あなた、そんなに簡単に騙されるようには見えないけど?」 輝明はしばし沈黙した。 彼女の反応があまりに鋭かったので、彼は話題を切り替えることにした。 「投資の話に戻りましょう」 だが、綿は冷たい口調で言い返す。 「投資ね?それならまず2000億を出して誠意を見せてよ」 彼女は腕を組み、苛立ちを隠そうともしない。 徹は内心冷や汗をかいていた。もし二人が本格的に言い争い始めたらどうすればいいのか。輝明が我慢しきれず、研究所を潰すような行動に出たらどうなるのか。 この二人の関係はそうだと知ったのなら、輝明を助けるんじゃなかった。彼がそんな懸念を抱いている間に、輝明は口元に笑みを浮かべ、静かに言った。 「2000億では足りないでしょう。では、6000億を投資しましょうか。それで誠意は十分と言えるでしょうか?」 彼はスーツのポケットから小切手を取り出し、さらりとテーブルに置いた。 綿は言葉を失った。 徹がその場を取り繕うように笑いながら言った。「二人とも、そのへんでやめにしましょう。まずは食事を楽しみましょう」 綿は目の前の小切手を手に取って確
綿は眉をひそめた。「高杉さん、食事が足りなかったの?」 輝明は視線を落とし、過去の記憶を思い返していた。大学時代、彼が部活の用事で遅くなる日々が続いていた頃、綿がインスタントラーメンや手作りの麺類を持って訪れてくれた。あの頃は寒い冬だったが、二人の心は今よりもずっと温かかった。 だが、もう四年も心穏やかに一緒に食事をする機会がなかったのだ。 ふと、二人でラーメンを食べたあの日々が懐かしくなった。 けれども、彼女はその記憶をすっかり忘れてしまったのだろうか。 「味の好みが似ていたと思うんだけど」 彼は森下に電話をかけ、車を呼び出すよう指示した。 綿は微笑んだが、目は冷めていた。 「必要ない。用事があるので帰ります」 彼女がその場を立ち去ろうとした瞬間、輝明は彼女の腕をつかんだ。 その動きに、綿は彼の手に目をやり、黙って「放して」という意思を込めた視線を送った。 その視線に気づいた輝明は言った。 「越えたことはしない。ただ一杯のラーメンをご馳走したいだけだ。それを食べたら、すぐに送るよ」 彼の声は低く、静かだった。 綿はため息をつき、苛立ちを隠さずに言い返した。 「高杉さん、これが既に越えているんですよ」 輝明は一歩も引かない。 「研究所に2000億を投資したばかりだ。一緒に食事をするくらいのことも許されないのか?」 綿は皮肉たっぷりに笑った。 「高杉さんはご自分でおっしゃいましたよね。これは私のための投資ではないと。それなら、10000億を投資されても、私は食事の義務を負いませんよ」 輝明は短く息をつき、三秒間黙った。 再び立ち去ろうとする綿の腕を、彼は再びしっかりと握った。 今度はその目がわずかに悲しげで、委ねるような弱々しい光を宿していた。 彼の行動は、「他意はない。ただ食事を共にしたいだけだ」と語っているようだった。 彼がこんな風に誰かに懇願する姿を見たことがあっただろうか? 少なくとも、彼女は少年時代の彼の生意気で堂々とした姿をよく覚えている。あの頃、誰も彼の口から「お願い」を聞いたことがないと言われていた。 「今回だけ」 彼の声はかすれていて、低く、かつ切実だった。 綿は唇を噛み、わずかに動揺し
忘れるはずがなかった。彼女の姿が見えなくなるまで、森下の車が到着しても綿はすでにその場を離れていた。しかし、たとえ森下の車が先に到着したとしても、今の輝明はもう綿を無理に車に乗せようとはしなかった。 愛すれば愛するほど、相手を尊重するようになるものだ。彼女の視線ひとつ、話すときの口調ひとつが気になり始める。 綿は言った。 「愛するということは、罪悪感を感じることでもあるけど、それだけじゃなく、大切にすることでもあるの」 「社長」森下が彼を呼ぶ。 「うん」輝明は短く応じた。 「また桜井さんと話がこじれましたか?」森下が尋ねた。 輝明は苦笑いを浮かべた。「彼女はもう、一緒にラーメンを食べることすら嫌がるようになった」 「社長、焦らずに少しずつ進めていきましょう」森下が慰めるように言った。 輝明は首を振る。「無力感がひどいよ」 誰にもt理解できない。どう頑張っても報われないこの感覚を。 森下はため息をつきながら言った。「でも社長、桜井さんはあなたを愛するために、7年間もの間ずっと耐え続けてきたんです。一人の女性に愛される7年間なんて、人生でいくつもあるわけじゃないですよ」 もしも自分を7年間も愛し続けてくれる人がいるなら、たとえ神様が現れても、自分の人生は彼女のためだけのものになるだろう、と森下は思った。 「やはり嬌が原因ですね」森下はそう呟くと、つい悪態をつく。 輝明は目を上げ、「彼女はどうしている?」と尋ねた。 「すでに目を覚まし、また留置場に戻されました。陸川家は依然として動きを見せていません。彼女を見捨てたようにも見えます」 輝明は訝しげに眉をひそめる。見捨てた?あんなに嬌を可愛がっていた彼らが? 「陸川家が何を企んでいるのか、調べて」 「分かりました。社長、とりあえず家にお送りしますね」森下は車のドアを開け、輝明に車に乗るよう促した。 そのとき、横を通るスタッフがクリスマスツリーを担いでホールへと運んでいるのが目に入る。 輝明はそれを見て呟いた。「もうすぐクリスマスか」 「ええ、クリスマスですね。前に……」 森下は何かを言いかけたが、考え直したように笑いながら言葉を変えた。「とにかく、帰りましょう、社長」 「何を思い出
輝明はふと顔を上げて言った。 「森下、家には帰らない。医学院近くのラーメン屋に行こう」 森下は意外そうな表情で上司を見て、軽く頷いた。「わかりました」 言葉では「手放す」と言いながらも、実際には綿を忘れることなどできないのだろう。 心から愛した人との思い出、自然と追いかけたくなるものだ。 以前は綿が二人の思い出を探し求めていた。 今では、輝明がそれをしている。 車が医学院近くに停まった時、輝明は手をアームレストに置いたまま、ドアを開けることができなかった。 「……あれは桜井さんですか?」 森下はラーメン屋の中にいる綿の姿に気づき、驚いて声を上げた。 ラーメン屋には大きな窓があり、その前の席に座れば街道を向いた席になる。 綿はその窓際に座り、スマホをいじりながら一人でラーメンを食べていた。 大きな窓越しに、彼女の美しい横顔がくっきりと見えた。 輝明の心は一気に沈み、深い闇に飲み込まれるような感覚に襲われた。 綿は、思い出を忘れていなかった…… しかし、彼は車を降りて彼女の隣に座る勇気を持てなかった。 「桜井さんがここにいるなんて、どういうことでしょうか?」 森下には、このラーメン屋にまつわる二人の思い出を知る由もなかった。 「社長、中に入りますか?」 森下が問いかけると、輝明は首を横に振った。 彼はただ車の中から静かに見つめていた。 綿がラーメンを食べる速度は速くなかった。 時折、スマホを操作する姿も見えた。 髪が何度も顔にかかり、それを後ろにまとめようとするが、ヘアゴムがなくて結べないようだった。 苛立ちがその美しい顔に表れていた。 外は真冬の12月、積もった雪はまだ溶けておらず、道路には氷と雪が混じり合っている。 店内は適度に暖かく、穏やかで居心地の良い雰囲気に包まれていた。 輝明は、思わず微笑んだ。 大学時代と同じだ。 髪を下ろしておきながら、ヘアゴムを持ち歩かないのが彼女の癖で。だから、食事のたびに苛立つのだ。 かつて、夜の10時半ごろ、彼女が彼を連れ出してラーメンを食べに行ったことがあった。 彼を労わりたいと言って、特製トッピングで肉と卵を追加したラーメンを奢ってくれた。
「でも、易くん……お母さん夢を見たの。日奈が外でうまくやっていけていない夢を……ねえ、これは神様が私を責めているのかしら。嬌ちゃんにもっとよくしてあげなかったことを……」 陸川夫人は涙をこぼしながら、易の腕をきつく握りしめた。 易は陸川夫人を横目で睨みながら、胸に重苦しいものを感じていた。 眉をひそめながら、彼女が自分の腕を握る手を見下ろす。陸川夫人の指は血の気がなく、真っ白になっていた。その痛々しさは一目でわかった。 「お母さん、もうそんなことを考えないで」 易の声にはためらいが滲んでいた。 「嬌は永遠に日奈にはなれないし、日奈だって、嬌によくすることで外で幸せになれるわけじゃない……」 易は、母親のこの夢を打ち壊したくはなかった。 だが、これ以上はごまかせない。現実を直視する時が来たのだ。 母も自分も、そろそろ現実を見なければ。 「いや、嬌に私たちが尽くしてきたことを、天が見逃すはずがないわ!」 陸川夫人は深く息を吸い込んで、ますます顔色が悪くなっていった。 日奈が行方不明になった年、陸川夫人は一時呼吸困難に陥り、死にかけた。 その後、彼女は虚ろな状態が続き、何年も立ち直れなかった。 日奈が行方不明になって3年目には、陸川夫人の精神状態はますます悪化していた。 そんな陸川夫人を見かねた育恒は、施設から子供を引き取ることを提案し、「この子に優しくすれば、きっと日奈も見つかる」と陸川夫人に話した。 それから、あっという間に何年も過ぎた。 育恒は陸川夫人を騙し、自分自身も騙し、そして陸川家全体をも騙し続けていた。 「易くん、お願い……嬌ちゃんを何とかして助け出してちょうだい」陸川夫人は今にも崩れそうだった。 易の胸はえぐられるように痛んだ。 彼は陸川夫人を抱き上げ、ソファに座らせた。 「お母さん……困らせないで」 「易くん、嬌ちゃんはあなたの妹なのよ!」陸川夫人は涙を止められなかった。 「お母さん、陸川家はこの何年も嬌ちゃんに十分な愛情を注いできた。でも、嬌ちゃんがこれ以上やり続けるなら、陸川家全体が巻き添えを食らうことになる!俺には手の打ちようがない!」 そう言い切った瞬間、陸川夫人の目が大きく見開かれた。 まるで何か
輝明はふと顔を上げて言った。 「森下、家には帰らない。医学院近くのラーメン屋に行こう」 森下は意外そうな表情で上司を見て、軽く頷いた。「わかりました」 言葉では「手放す」と言いながらも、実際には綿を忘れることなどできないのだろう。 心から愛した人との思い出、自然と追いかけたくなるものだ。 以前は綿が二人の思い出を探し求めていた。 今では、輝明がそれをしている。 車が医学院近くに停まった時、輝明は手をアームレストに置いたまま、ドアを開けることができなかった。 「……あれは桜井さんですか?」 森下はラーメン屋の中にいる綿の姿に気づき、驚いて声を上げた。 ラーメン屋には大きな窓があり、その前の席に座れば街道を向いた席になる。 綿はその窓際に座り、スマホをいじりながら一人でラーメンを食べていた。 大きな窓越しに、彼女の美しい横顔がくっきりと見えた。 輝明の心は一気に沈み、深い闇に飲み込まれるような感覚に襲われた。 綿は、思い出を忘れていなかった…… しかし、彼は車を降りて彼女の隣に座る勇気を持てなかった。 「桜井さんがここにいるなんて、どういうことでしょうか?」 森下には、このラーメン屋にまつわる二人の思い出を知る由もなかった。 「社長、中に入りますか?」 森下が問いかけると、輝明は首を横に振った。 彼はただ車の中から静かに見つめていた。 綿がラーメンを食べる速度は速くなかった。 時折、スマホを操作する姿も見えた。 髪が何度も顔にかかり、それを後ろにまとめようとするが、ヘアゴムがなくて結べないようだった。 苛立ちがその美しい顔に表れていた。 外は真冬の12月、積もった雪はまだ溶けておらず、道路には氷と雪が混じり合っている。 店内は適度に暖かく、穏やかで居心地の良い雰囲気に包まれていた。 輝明は、思わず微笑んだ。 大学時代と同じだ。 髪を下ろしておきながら、ヘアゴムを持ち歩かないのが彼女の癖で。だから、食事のたびに苛立つのだ。 かつて、夜の10時半ごろ、彼女が彼を連れ出してラーメンを食べに行ったことがあった。 彼を労わりたいと言って、特製トッピングで肉と卵を追加したラーメンを奢ってくれた。
忘れるはずがなかった。彼女の姿が見えなくなるまで、森下の車が到着しても綿はすでにその場を離れていた。しかし、たとえ森下の車が先に到着したとしても、今の輝明はもう綿を無理に車に乗せようとはしなかった。 愛すれば愛するほど、相手を尊重するようになるものだ。彼女の視線ひとつ、話すときの口調ひとつが気になり始める。 綿は言った。 「愛するということは、罪悪感を感じることでもあるけど、それだけじゃなく、大切にすることでもあるの」 「社長」森下が彼を呼ぶ。 「うん」輝明は短く応じた。 「また桜井さんと話がこじれましたか?」森下が尋ねた。 輝明は苦笑いを浮かべた。「彼女はもう、一緒にラーメンを食べることすら嫌がるようになった」 「社長、焦らずに少しずつ進めていきましょう」森下が慰めるように言った。 輝明は首を振る。「無力感がひどいよ」 誰にもt理解できない。どう頑張っても報われないこの感覚を。 森下はため息をつきながら言った。「でも社長、桜井さんはあなたを愛するために、7年間もの間ずっと耐え続けてきたんです。一人の女性に愛される7年間なんて、人生でいくつもあるわけじゃないですよ」 もしも自分を7年間も愛し続けてくれる人がいるなら、たとえ神様が現れても、自分の人生は彼女のためだけのものになるだろう、と森下は思った。 「やはり嬌が原因ですね」森下はそう呟くと、つい悪態をつく。 輝明は目を上げ、「彼女はどうしている?」と尋ねた。 「すでに目を覚まし、また留置場に戻されました。陸川家は依然として動きを見せていません。彼女を見捨てたようにも見えます」 輝明は訝しげに眉をひそめる。見捨てた?あんなに嬌を可愛がっていた彼らが? 「陸川家が何を企んでいるのか、調べて」 「分かりました。社長、とりあえず家にお送りしますね」森下は車のドアを開け、輝明に車に乗るよう促した。 そのとき、横を通るスタッフがクリスマスツリーを担いでホールへと運んでいるのが目に入る。 輝明はそれを見て呟いた。「もうすぐクリスマスか」 「ええ、クリスマスですね。前に……」 森下は何かを言いかけたが、考え直したように笑いながら言葉を変えた。「とにかく、帰りましょう、社長」 「何を思い出
綿は眉をひそめた。「高杉さん、食事が足りなかったの?」 輝明は視線を落とし、過去の記憶を思い返していた。大学時代、彼が部活の用事で遅くなる日々が続いていた頃、綿がインスタントラーメンや手作りの麺類を持って訪れてくれた。あの頃は寒い冬だったが、二人の心は今よりもずっと温かかった。 だが、もう四年も心穏やかに一緒に食事をする機会がなかったのだ。 ふと、二人でラーメンを食べたあの日々が懐かしくなった。 けれども、彼女はその記憶をすっかり忘れてしまったのだろうか。 「味の好みが似ていたと思うんだけど」 彼は森下に電話をかけ、車を呼び出すよう指示した。 綿は微笑んだが、目は冷めていた。 「必要ない。用事があるので帰ります」 彼女がその場を立ち去ろうとした瞬間、輝明は彼女の腕をつかんだ。 その動きに、綿は彼の手に目をやり、黙って「放して」という意思を込めた視線を送った。 その視線に気づいた輝明は言った。 「越えたことはしない。ただ一杯のラーメンをご馳走したいだけだ。それを食べたら、すぐに送るよ」 彼の声は低く、静かだった。 綿はため息をつき、苛立ちを隠さずに言い返した。 「高杉さん、これが既に越えているんですよ」 輝明は一歩も引かない。 「研究所に2000億を投資したばかりだ。一緒に食事をするくらいのことも許されないのか?」 綿は皮肉たっぷりに笑った。 「高杉さんはご自分でおっしゃいましたよね。これは私のための投資ではないと。それなら、10000億を投資されても、私は食事の義務を負いませんよ」 輝明は短く息をつき、三秒間黙った。 再び立ち去ろうとする綿の腕を、彼は再びしっかりと握った。 今度はその目がわずかに悲しげで、委ねるような弱々しい光を宿していた。 彼の行動は、「他意はない。ただ食事を共にしたいだけだ」と語っているようだった。 彼がこんな風に誰かに懇願する姿を見たことがあっただろうか? 少なくとも、彼女は少年時代の彼の生意気で堂々とした姿をよく覚えている。あの頃、誰も彼の口から「お願い」を聞いたことがないと言われていた。 「今回だけ」 彼の声はかすれていて、低く、かつ切実だった。 綿は唇を噛み、わずかに動揺し
徹はその場を和らげるように笑みを浮かべた。 「たしかに。世間では高杉さんの資産についていろいろ噂がありますが、一番詳しいのは桜井さんじゃないですか?」 綿の表情は一瞬で冷たくなった。 「それはがっかりさせるでしょうね」 彼女は淡々とした声で言葉を続けた。 「私は高杉さんがどれだけの資産を持っているかなんて知りませんし、知る機会もありませんでした。結婚していた3年間、一円たりとも彼の金を使ったことはありません。それどころか、笑顔すら向けられたことがありませんでした」 この一言は、冷水を浴びせかけたようにその場の空気を一気に冷やした。 徹は慎重に輝明の顔色をうかがった。食事の場に彼も同席しているのだから、綿の発言はあまりにも無遠慮だった。だが、不思議なことに、輝明は何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を聞いていた。 しばらくして、彼が口を開く。 「もう一度、桜井さんと結婚してみたらどう?」 言葉を言い切る前に、綿がすかさず声を上げる。 「何のために?一度死んでみて懲りずに、また二度目の死を試したいの?あなた、そんなに簡単に騙されるようには見えないけど?」 輝明はしばし沈黙した。 彼女の反応があまりに鋭かったので、彼は話題を切り替えることにした。 「投資の話に戻りましょう」 だが、綿は冷たい口調で言い返す。 「投資ね?それならまず2000億を出して誠意を見せてよ」 彼女は腕を組み、苛立ちを隠そうともしない。 徹は内心冷や汗をかいていた。もし二人が本格的に言い争い始めたらどうすればいいのか。輝明が我慢しきれず、研究所を潰すような行動に出たらどうなるのか。 この二人の関係はそうだと知ったのなら、輝明を助けるんじゃなかった。彼がそんな懸念を抱いている間に、輝明は口元に笑みを浮かべ、静かに言った。 「2000億では足りないでしょう。では、6000億を投資しましょうか。それで誠意は十分と言えるでしょうか?」 彼はスーツのポケットから小切手を取り出し、さらりとテーブルに置いた。 綿は言葉を失った。 徹がその場を取り繕うように笑いながら言った。「二人とも、そのへんでやめにしましょう。まずは食事を楽しみましょう」 綿は目の前の小切手を手に取って確
夜、クラウドダイニング。 綿は白いワンピースに濃い色のコートを羽織り、手には世界限定のバッグを持って店内に入った。その瞬間、注目の的となった。彼女の全身から感じられる上品さと優雅さが周囲の注目を集めたのだ。 知人を見つければ微笑み、店員に案内される際は「ありがとうございます」と静かに声をかける。その所作一つ一つが自然に人々の好感を引き寄せた。 最近、嬌が警察に連行されて以降、人々は改めて綿という人物を見直しているようだった。 遠くからでも輝明と徹が話しているのが見えた。彼らは何か楽しそうな話をしているようで、徹は朗らかに笑っていた。 綿は口元を引き締め、表情を整えた後、きっぱりとした足取りで彼らの元へ向かった。 「来たね」 徹が彼女を見つけて声をかけると、輝明も振り返った。その視線の先には、コートを脱ぎ、店員に渡す綿の姿があった。 彼女は袖を軽くまくって、ゆっくりと徹のそばに腰掛けた。 その首元にはバタフライのモチーフのネックレスが輝いており、白い肌を際立たせていた。爪にはネイルが施されていなかったが、全体の美しさにまったく影響を与えない。 髪はざっくりとまとめられ、クリップで留められているだけだったが、それでも整然としていた。 彼女は視線を上げ、輝明に向けて控えめな微笑みを浮かべた。 「高杉さん、こんばんは。研究所の院長をしております桜井綿と申します。自己紹介は不要ですよね?」 その声には微かな距離感が漂っていた。 輝明は黙り込んだ。彼女とは十分に知り合いだ。確かに自己紹介の必要などない。 一方、徹は二人を交互に見ながら、ようやく綿が彼に強い拒絶感を抱いている理由を理解した。この二人が顔を合わせると、場の空気がどうにも重い。 「まあ、友人として軽く食事をしながら、研究所のプロジェクトや進捗について少し話せればいいんじゃないかな」 徹は場を和らげようと口を挟んだ。 「ああ、そうですね。でも、高杉さん、理解できるでしょうか?このパートも省いてしまって構いませんよね?」 綿の言葉に、輝明は微笑みを浮かべた。 徹は心の中で冷や汗をかいた。いくら場を繕おうとしても、綿のこの態度では話にならない。投資家にこんな扱いをするなど、とても許されるものではない。
綿が疲れたように電話越しで文句を言うのをやめると、電話の向こう側から穏やかな声が聞こえた。 「もう言い終わった?」 彼女は歯を食いしばりながら答える。 「終わった!」 「水でも飲めよ」 その言葉に、綿は皮肉な笑みを浮かべた。 「あなたって本当に!」 彼女が言い終わらないうちに、輝明は静かに彼女の言葉を遮った。 「投資したいと望んだのは俺じゃない。山田徹がこの話を持ち上げてきたんだ」 その言葉に綿は詰まった。 「山田さんが言うには、研究所の後期の費用負担がますます大きくなるそうだ。俺が参加すれば研究がスムーズに進む、とね。もし君が俺の参加を望まないなら、参加しない」 彼の声は誠実で、まるで彼女のためにすべてを引き下がる覚悟を持っているかのようだった。 「君たちの役に立てると思っていただけだ。申し訳ない……」 そのトーンに、綿の心は微妙に揺れた。 「本当に、あなたが自ら望んで参加したわけじゃないの?」 「違う」 輝明は即座に答えた。 綿は眉をひそめ、さらに問い詰めた。 「じゃあ、山田さんは私たちの関係を知っていながら、あえてあなたを引き込んだの?」 輝明は苦笑しながら否定した。 「彼に悪意はないよ。それに、君が研究所にいるから俺を選んだわけでもない。ただ単に、俺が適任者だっただけだ」 綿はそれ以上言葉を発することなく、電話を切ろうとした瞬間、再び彼の冷静な声が響いた。 「今、彼が求めているのは俺の資金だ」 彼の言葉に、綿は立ち止まった。 だから山田さんはあの食事会に出席するよう頼んだのね。 すべてが一瞬で理解できた。 彼女を通じて、輝明の投資を取り付けたいのだ。 その時、彼の声がさらに柔らかく聞こえてきた。 「俺は約束したことは守る。手放すと言ったからには、君を自由にする」 彼の声は低く、どこか本心を隠したような響きがあった。 綿はそれ以上答えず、電話を切った。 彼が本当に言葉通りに行動するのかどうか、それはまだわからない。 彼女はスマホを机に叩きつけるように置き、深く息を吐いた。 さっきまでの苛立ちは消え、少し気持ちが楽になった。 彼が無理に参加しようとしたわけじ
徹は陽菜を連れて研究所を出ていった。 綿は椅子に腰を下ろし、しばらく考え込んでいた。 この研究所のトップは結局、徹だった。 この事実を前に、彼女の心にはどうしようもない苛立ちが湧き上がっていた。 もしここに祖母がいたら、徹は祖母をこんなふうに困らせたりはしなかっただろう。 むしろ祖母の方が、研究所のために自ら進んで譲歩していたに違いない。 綿は首を振り、心を落ち着けようとする。 「早くこの研究を完成させて、この場を離れたい」 その思いが胸中でますます強くなる。 「すべてが片付いたら、山奥に隠居して暮らそう」 ふとそんな未来を想像した。 もし父の会社が自分を必要とするなら、会社を継ぐのも悪くない。 「でも、父が必要としないなら?」 そんな時は、かつての夢を追いかけ、国外で留学し、ジュエリーデザインを学ぼう。 彼女はふと溜息をつく。考えれば考えるほど、怒りが心の中で燃え上がっていくのを感じる。 苛立ちを抑えられない彼女は、スマホを取り出し、ブロックリストを開く。 そこには輝明の番号が登録されていた。 彼女は一瞬躊躇したものの、彼をリストから外し、電話をかけた。 ……出ない。 呼び出し音だけが続く。 もう一度かけても応答がなく、綿は眉をひそめた。 三度目をかけるのは嫌になり、スマホを机の上に放り投げたその時―― スマホが振動した。 画面に映し出された名前は「高杉輝明」。 彼女の表情は一瞬で冷たくなった。 「わざと?」彼女はそう思わずにはいられなかった。 彼女が諦めると、わざわざかけ直してくるとは…… 綿は電話に出るが、音声をスピーカーに切り替え、机に置いたまま黙り込む。 しかし、電話の向こう側からも何の声も聞こえてこない。 ……何も言わない? 両者の間に張り詰めた沈黙が続く。そして、彼女は苛立ちを募らせながら電話を切った。 何様のつもりなのよ! 彼女の声が室内に響く。 一方、輝明のオフィス。電話を切られた彼は、静かに森下を睨みつけた。 森下は冷や汗をかき、困った表情を浮かべた。 実は綿からの電話に輝明は驚いていた。まさか彼女が自分をブロックリストから外して電話し
徹はうなずき、静かに言った。 「今後の消耗はどんどん増える一方だ。だから、実力のある人が加わるなら、それに越したことはない」 「その人とは誰ですか?」 綿が問いかけた。 「夜になればわかる」 徹は笑顔を見せ、続けた。 「そのためにわざわざ君を探しに来たんだ」 彼の言葉には暗に「断らないでほしい」という意味が込められていた。 綿は沈黙した。 彼女の中には漠然とした不安が広がっていた。 「それって、輝明ですか?」 綿が探るように言うと、徹は驚いた顔を見せた。 彼女がこれほど敏感だとは思わなかったのだ。 「もし彼なら、でも――」 彼が言葉を続ける前に、綿がそれを遮った。 「山田さん、もし輝明があなたにいくら投資しているのか教えてください。私がその倍を出します」 彼女の声には冷たさがあり、その表情には一切の妥協が見られなかった。 彼女はその男を研究所に関与させたくなかった。 「桜井さん、感情的にならないでくれ!輝明が投資してくれるのは、我々にとって重要な機会なんだ」 徹は真剣な顔で説得するように言った。 だが、綿は静かに首を振った。 「山田さん、もう一度よく考えてください」 「考えた上での結論だよ。だからこそ、夜に来てほしいんだ」 彼の声には固い決意が滲んでいた。 綿は言葉に詰まった。 徹の眉間には一瞬皺が寄った。 綿の胸中には苛立ちが広がっていく。 彼女は強く逆らいたい気持ちを抑えきれない。 しかし、彼女には理解していることがあった。 研究所では、彼女が院長であり投資家であるとはいえ、その立場は徹の好意に依存しているということだ。 彼女の出資額は徹のそれに及ばず、この研究所の創設者も徹だった。 彼女はあくまで「共同経営者」でしかない。 彼女が意見を言う資格はあるが、それを受け入れるかどうかは徹次第だった。 さらに、彼女が自ら身を引くこともできる。 だが、「SH2Nの研究を完成させること」は、彼女の祖母の夢だった。 彼女が去ることは、その夢を裏切ることに等しかった。 徹も、自分が競争から外れることを恐れていないのかもしれない。結局のところ、綿が一人去ったとこ