加藤院長に相談し、ボランティアとして残りたいと伝えた。食事と寝床だけあれば十分だと。加藤院長は快く承諾したが、こう補足した。「アキラという女の子に特に気をかけてあげてね」後で聞いた話では、アキラは六歳の女の子で、両親は健在だという。ただ、両親がそれぞれ新しい家庭を持ち、彼女だけが置き去りにされたそうだ。普通なら両親が生きている子供は加藤設には入れないのだが、両親のことを聞いても一切口を開かない。親に捨てられ、自分でここにたどり着いたと聞いて、仕方なく受け入れたという。アキラは人と関わるのが苦手で、ほとんど話さず、群れることもない。さらに、自分を傷つける傾向もあった。「刃物を持てば、他人を傷つけるのも自分を傷つけるのも、紙一重だ」他の子供たちは彼女を怖がり、一緒に遊ぼうとしない。初めて会った時、私には他の子と変わらない子に見えた。あえて違いを挙げるなら、痩せすぎているのと、異常なほど物分かりが良いことくらい。他の子供たちが食事の後に庭で遊ぶ中、彼女は台所に来て食器を洗うのを手伝ってくれた。時には庭の隅でぼんやりと、落ち葉を眺めている。落ちた葉を一枚一枚拾っては捨てる。そんな大人しい子が、男の子と喧嘩をするとは思わなかった。たった一言「親に捨てられたんだろう」という言葉で、男の子の頭を石で殴り、血を流させた。駆けつけた時には、男の子が泣きながらアキラの仕業を訴えていた。急いで病院に連れて行った。後で分かったことだが、男の子は善意からアキラに声をかけたのだという。加藤孤児院の子供たちは皆親がいないのだから、と慰めるつもりだったらしい。でも、その言葉を聞いたアキラは、まるで急所を突かれたように攻撃的になった。後悔はしているようだったが、謝ることは頑なに拒んだ。食事も取らず、言葉も発さない。この頑固な少女にどう接すればいいのか悩んだ末、心の傷には相応の治療が必要だと思い至った。「私があなたを引き取りたい。私の子供になって」その言葉を聞いた瞬間、アキラの虚ろな目に光が宿った。そして私にしがみつき、まるで普通の子供のように大声で泣き始めた。死んでいたような心が、生き返ったのを感じた。藤田親子に傷つけられた私の心も、同時に癒されていくようだった。「どうして私のお母
シャッターを下ろそうとして振り返ると、まるで前世のことのように感じた。そこに立っていた藤田彦治は、見違えるほど変わり果てていた。かつての几帳面な彼は、髪は乱れ、無精ひげを生やし、痩せ衰えて別人のようだった。隣には嘱言が立っていた。彼も随分痩せて、顔色が悪く、どこか具合が悪そうだった。父子は信じられないという表情で、その場に立ち尽くしていた。嘱言が突然私に駆け寄ってきた。まるで昔のように抱き上げてほしそうに。「ママ」という幼い声に、アキラが足を止めた。ちょうど学校から帰ってきた彼女は、その光景を目の当たりにした。「この人たち、誰?」アキラは警戒した様子で尋ね、彼らを見つめながら、ゆっくりと私の側に寄ってきた。私はアキラを抱き寄せ、額を優しく撫でながら淡々と答えた。「知らない人よ」そう言って、アキラの手を取り、立ち去ろうとした。藤田彦治が手を伸ばして私を止めた。複雑な表情で、「すず......」と言いかけた。私は冷たく返した。「お客様、当店は時間と数量限定です。もう閉店しましたので、明日早めにお越しください」心の中で冷笑した。まさか山本つづみを連れてこなかったのね。きっと近くの観光地に来ただけで、父子で買い物に降りてきて、彼女は車で待っているのだろう。わざわざ私を探しに来たなどと、思い上がるつもりはない。「すず、もう止めよう。私が悪かった。家に帰ろう」藤田彦治は掠れた声で懇願するように言った。「ママ、どうして彼女もママって呼ぶの?ママは僕のママでしょう!」嘱言が走り寄って、私の手を掴んだ。アキラは興奮した様子で、声を震わせながら嘱言を突き飛ばした。「離して!ママは知らないって言ったでしょ!ママは私のママなの!」嘱言は倒れ込み、涙目で私を見上げ、私のズボンの裾を掴んで「ママ、押されたよ」と訴えた。「ママ、僕のこと要らなくなったの?」可哀想そうな声で尋ねた。昔なら心が揺らいだかもしれない。でも今は、この下手な演技が滑稽にしか思えない。私は冷ややかな目で一瞥し、アキラの手を引いて数歩下がった。アキラの手が冷たかった。私はアキラの手をしっかりと握り、彼女の目をまっすぐ見つめて優しく言った。「ママにはアキラしかいないの」アキラは力強く頷いた。嘱言は大声で
アキラは確かに他の子供とは違っていた。私を守ることに必死で、いつもは無口な子なのに、いざという時は驚くほどの熱量で、相手を言い負かすほどだった。夜、私は彼女に全てを話した。翌日、店はいつも通り開店した。この町の人々は皆、「浮気した夫が愛人の子供を連れて元妻に会いに来た」という話を知っていた。「店主さん、SNSの投稿は本当だったんですね。あなたのような方が、こんな男のために...本当に勿体ない」気づけば、長年の積み重ねで、アカウントのフォロワーは百万人を超え、コメント欄は大騒ぎになっていた。旅館の女将さんも事情を知り、この不請の客に退去を求めた。誰も店の前に人だかりができるのは望まないし、まるで動物園の見物客のように首を伸ばす人々は営業の妨げになる。仕方なく、藤田彦治は別の旅館に移った。それなのに、また嘱言を連れて店にやって来た。「忘れたの?私たちはもう関係ないよ。ここが私の家なの。どこに帰れって言うの?」私は思わず声を荒げた。藤田彦治は唇を一文字に結び、「食事に来ただけだ」と言った。「ママ、久しぶりにママの料理が食べたいの。今度は全部食べるから!」私は苦笑いを浮かべ、「申し訳ありませんが、お断りします」お客様たちは私たちの様子を見て、料理が遅れることに不満を感じ始めた。結局、二人は店から追い出される形になった。彼らは店の前に立ち尽くし、懇願するような目で私を見つめていた。店内のお客様たちは冷ややかな目で彼らを見ていた。私は立ち止まる暇もなく、料理を運び、会計をこなした。店は混んでいて、お客様が列を作っている。立ち止まれば、昔の感情が蘇るかもしれない。かつては愛していたのだから。でも、今はもう違う。藤田彦治には仕事があり、嘱言も学校があるため、長居はできなかった。そこで藤田の父が遠方から仲介に来ることになった。足取りの怪しい老人の姿を見て、胸が痛んだ。以前、父が病気の時は私が看病していた。彼の体調のことは誰よりも分かっている。こんな長旅は体に良くない。年老いた父親までこんな芝居に使うなんて、藤田彦治への怒りが増した。「お父様、もう戻るつもりはありません。ここが私の家です。もうすぐアキラも帰ってきます。それに、私には藤田さんへの気持ちはもう
「今夜帰ってくる?晩ご飯作ったんだけど......」話が終わらないうちに遮られた。「つづみが暗いのが怖がるから、一人にはできないんだ」そう言うと、電話は切れた。もう二ヶ月、夫と息子に会っていない。彼の初恋の人が帰国して以来、彼は息子を連れて、山本つづみのために用意したマンションで暮らしている。「つづみは帰国したばかりで知り合いもいないから、手伝っているだけだよ」息子の嘱言も眉をひそめて私を見た。「ママ、そんな身勝手はダメだよ。つづみおばさんが寂しくて困るでしょ」その真剣な表情は、まるで父親そのもの。まるで私が悪者であるかのようだった。黙って荷物をまとめようと階段を上がったところ、背後から息子の不満げな声が聞こえた。「ママ、もう演技しなくていいよ。パパが言ってた、ママには僕たち以外に身寄りも、行く場所もないって」藤田彦治も階段を上がってきて、私の後ろに立ち、冷ややかな笑みを浮かべた。「この何年も、ちゃんとした服も持ってないくせに。誰に見せたいの、その荷物まとめる芝居は」手が止まった。そうだ、私には行く場所がない。彼らはみんなそれを知っている。だから、私に何をしても逃げられないと思っているのだ。「もういい加減にしろ。つづみが戻っても、大人しくしていれば、この家にいられるんだぞ」藤田彦治は息子を抱き上げ、嘲るような目で私を見て出て行った。力が抜けたように、ベッドに座り込んだ。この二ヶ月は、現実を受け入れるための時間だったのかもしれない。誰からも連絡はなく、多くのことが見えてきた。再び荷物をまとめ、出ようとした時、階下で藤田彦治と鉢合わせた。今日帰ってくるとは知らなかった。私を見た彼も一瞬驚いたような顔をした。すぐに眉をひそめて言った。「また何のつもりだ?今日帰ってくるって分かってたから、また同じ手を使おうとしてるのか?」藤田彦治は嫌そうに言った。「前に出て行くって言ったじゃないか。まだここにいたのか?」「森本すず、こういう駆け引きにはもううんざりだ」面倒くさそうに近づいてきた彼は、プレゼント用の香水を私の前に置いた。「最近元気がないって聞いて、つづみが気を遣って選んでくれたんだ。彼女みたいに気が利くようになったらどうだ?少しは身だしなみを整えて、キッチン
咄嗟に携帯を掴もうとして、傷口に触れてしまった。「痛っ......」その隙に藤田彦治は電話に出た。受話器から嘱言の幼い声が聞こえてきた。「パパ、つづみおばさんと遊園地に連れて行ってほしいの」続いて、甘えた声で女性が話し始めた。「彦治くん、タクシーが全然捕まらなくて。私と嘱言を遊園地まで送ってもらえないかしら?」何か言おうとした私を完全に無視して、藤田彦治は玄関へ向かいながら「分かった、すぐ行くから」と返事をした。電話を切ると、私を横目で見て「戻ってくるまで待ってろ」と言い残し、出ようとした。「藤田彦治」と呼び止めると、彼は眉をひそめ、うんざりした様子で言った。「何だよ?その程度の怪我なら病院に行く必要もないだろう。もう少し大人になれよ。いつも......」私は冷たく遮った。「ただの注意よ。遊園地は日差しが強いから、嘱言に帽子と水筒を持たせてあげて」私が命がけで産んだ子なのだから、面倒を見るのは当然のことだ。彼は一瞬驚いたような顔をして、「ああ」とだけ言った。少し間を置いて、見下すような口調で続けた。「また止めるのかと思ったよ。ただ遊園地に連れて行くだけじゃないか。そんな狭量なことは止めろよ」彼は必要な物を取ってからこう言って急いで家を出た。「すぐ戻る。家で待ってろ。薬買ってきて傷の手当てをしてやる」昔なら怒鳴り返していただろう。でも今は、もう何も感じない。つい先日のことを思い出した。彼の父の看病で深夜まで病院にいた時のことだった。仕事を終えた時には、外は真っ暗になった。病院は不便な場所にあり、通りには人影もなく、不気味なほど静かだった。夜風が冷たく、背筋が凍るようだった。「お客様のお掛けになった電話は、ただいま通話中です......」藤田彦治の携帯は30分も通話中のままだった。「どうして30分も通話中なの?今、お父さんの病院の前にいるんだけど......」やっと電話が繋がったと言いかける時、イライラした声で遮られた。「今忙しいんだ。つづみの家の電球を替えてるところだ。お前はどうしてそんなに疑り深いんだ。つづみが暗いの苦手だから、ずっと電話で話してただけだろう」そこへ嘱言まで口を挟んできた。「ママ、わがままは良くないよ。自分のことは自分でするって
藤田彦治はなかなか帰ってこなかった。スマホには彼のSNSの投稿が表示された。遊園地での様子が9枚の写真に収められていた。嘱言が遊園地で楽しそうに笑っている写真、三人で撮った記念写真、そして山本つづみが藤田彦治の腕に寄り添う親密な姿まであった。そして「取り戻した大切な時間」というコメント付きもあった。昔の私なら、すぐに電話をして、これはどういうことかと問い詰めていただろう。でも、この二ヶ月で私は諦めきっていた。慣れてしまったのだ。完全に無関心になっていた。黙ってその投稿に「いいね」を押した。今日、彼らは帰ってこないだろう。外から聞こえる虫の声が、家の静けさを際立たせる。用意したスーツケースを見つめながら、私も思わず写真を撮った。SNSに投稿し、こう書き添えた。【来ない人を、もう待つ必要はない】それを見た藤田彦治は、案の定、翌朝慌てて帰ってきた。玄関を開けると、ソファで待っている私の姿が目に入った。車の鍵を乱暴にテーブルに叩きつけ、顔を歪めて怒鳴った。「いつまで出て行くだの騒ぐつもりだ?本気なら、今すぐ出て行けよ!SNSにあんなこと書いて、恥ずかしくないのか?俺の立場も考えろ!父さんまで心配して電話してきたんだぞ!わざと皆に知られるように仕向けているのか!」私は彼の取り乱した様子を冷ややかに見つめ、どこか満足感すら覚えた。一体誰が先に恥知らずだったのか。藤田彦治か、それとも彼の「大切な人」山本つづみか。「ええ、本当に出て行くつもりよ」私は冷静な声で言い、バッグから用意していた離婚届を取り出して彼の前に置いた。「藤田さん、サインをお願いします」彼は呆然として私を見つめ、今回の私が本気だと気付いたようだった。「昨日は薬を買って来て手当てするつもりだったんだ。でも、つづみと嘱言にどうしても付き合ってくれって言われて......」彼の言い訳は空しく響いた。「それに、大した怪我じゃないだろう?こんなことで大げさに......」私は冷笑して、氷のような目で彼を見つめ、はっきりと言った。「大げさじゃないわ」藤田彦治の表情が曇った。「本気で離婚するつもりか?」「ええ」躊躇なく答えた。彼は目を細めて言った。「嘱言はどうするつもりだ?」その言葉が胸に突き刺さった。
嘱言は私の命そのものだった。この世で唯一の肉親であり、私の全てを注いだ家族。いつから嘱言を手放そうと思い始めたのだろう。おそらく、心を込めて作った料理を蔑ろにされた、あの日から。朝四時から仕込んだ鶏がらスープを床にぶちまけ、その上を踏みながら目を真っ赤にして叫んだ。「つづみおばさんとケンタッキーに行きたい!こんなスープなんか飲みたくない!」息子は眉をひそめ、涙目で私を睨みつけた。「パパの言う通りだよ。ママは本当に口うるさいんだ。これもダメ、あれもダメって。もう嫌いだ!」そう叫んで部屋に駆け込み、ドアを乱暴に閉めた。私はダイニングテーブルの前で立ち尽くしたまま。何もできず、胸が締め付けられるような思いだった。床に広がる薄い黄色のスープと油。割れた食器の破片。まるでこの家のように、すべてが散り散りになっていた。今思えば、私はいつも真面目すぎたのかもしれない。それとも、あの十五夜の日からだろうか。家族団らんの象徴とも言える特別な日に、息子を迎えに行けなかった時から。藤田彦治に早く帰るよう頼み、私は息子を迎えに行くと約束した。幼稚園の門前に三十分も早く着いたのに、下校時間になる直前に警備員に止められた。担任は私を指差して言った。「先日の親子行事の時と違う方です。藤田嘱言のお母様は別の方でした。お顔は似ていますが、雰囲気が全く違います。当園は一流の幼稚園です。園児の安全を第一に考えなければなりません」先生の言葉に、私は何も言い返せなかった。息子の通う園でさえ、私を他人だと思っているのだ。警察に連れて行かれ、事情を聞かれた。午後、嘱言が気分が悪いと言い、スマートウォッチで連絡を取り、「ママ」に迎えに来てもらったという。警察から連絡を受けた家族が現れた時、初めて警察のお世話になった嘱言は山本つづみに寄り添っていた。その後ろには、颯爽とした藤田彦治の姿。「仲睦まじい家族三人」の姿が、私の目に痛いほど焼き付いた。警察官が嘱言に尋ねた。なぜおばさんについて行ったのかと。「つづみおばさんが好きなの。いい香りがするし、きれいだから。この前の幼稚園の行事も、つづみおばさんと一緒に来てくれて、みんなが羨ましがってたんだ。ママがパパと離婚するって言ったから、これでパパはつづみお
アキラは確かに他の子供とは違っていた。私を守ることに必死で、いつもは無口な子なのに、いざという時は驚くほどの熱量で、相手を言い負かすほどだった。夜、私は彼女に全てを話した。翌日、店はいつも通り開店した。この町の人々は皆、「浮気した夫が愛人の子供を連れて元妻に会いに来た」という話を知っていた。「店主さん、SNSの投稿は本当だったんですね。あなたのような方が、こんな男のために...本当に勿体ない」気づけば、長年の積み重ねで、アカウントのフォロワーは百万人を超え、コメント欄は大騒ぎになっていた。旅館の女将さんも事情を知り、この不請の客に退去を求めた。誰も店の前に人だかりができるのは望まないし、まるで動物園の見物客のように首を伸ばす人々は営業の妨げになる。仕方なく、藤田彦治は別の旅館に移った。それなのに、また嘱言を連れて店にやって来た。「忘れたの?私たちはもう関係ないよ。ここが私の家なの。どこに帰れって言うの?」私は思わず声を荒げた。藤田彦治は唇を一文字に結び、「食事に来ただけだ」と言った。「ママ、久しぶりにママの料理が食べたいの。今度は全部食べるから!」私は苦笑いを浮かべ、「申し訳ありませんが、お断りします」お客様たちは私たちの様子を見て、料理が遅れることに不満を感じ始めた。結局、二人は店から追い出される形になった。彼らは店の前に立ち尽くし、懇願するような目で私を見つめていた。店内のお客様たちは冷ややかな目で彼らを見ていた。私は立ち止まる暇もなく、料理を運び、会計をこなした。店は混んでいて、お客様が列を作っている。立ち止まれば、昔の感情が蘇るかもしれない。かつては愛していたのだから。でも、今はもう違う。藤田彦治には仕事があり、嘱言も学校があるため、長居はできなかった。そこで藤田の父が遠方から仲介に来ることになった。足取りの怪しい老人の姿を見て、胸が痛んだ。以前、父が病気の時は私が看病していた。彼の体調のことは誰よりも分かっている。こんな長旅は体に良くない。年老いた父親までこんな芝居に使うなんて、藤田彦治への怒りが増した。「お父様、もう戻るつもりはありません。ここが私の家です。もうすぐアキラも帰ってきます。それに、私には藤田さんへの気持ちはもう
シャッターを下ろそうとして振り返ると、まるで前世のことのように感じた。そこに立っていた藤田彦治は、見違えるほど変わり果てていた。かつての几帳面な彼は、髪は乱れ、無精ひげを生やし、痩せ衰えて別人のようだった。隣には嘱言が立っていた。彼も随分痩せて、顔色が悪く、どこか具合が悪そうだった。父子は信じられないという表情で、その場に立ち尽くしていた。嘱言が突然私に駆け寄ってきた。まるで昔のように抱き上げてほしそうに。「ママ」という幼い声に、アキラが足を止めた。ちょうど学校から帰ってきた彼女は、その光景を目の当たりにした。「この人たち、誰?」アキラは警戒した様子で尋ね、彼らを見つめながら、ゆっくりと私の側に寄ってきた。私はアキラを抱き寄せ、額を優しく撫でながら淡々と答えた。「知らない人よ」そう言って、アキラの手を取り、立ち去ろうとした。藤田彦治が手を伸ばして私を止めた。複雑な表情で、「すず......」と言いかけた。私は冷たく返した。「お客様、当店は時間と数量限定です。もう閉店しましたので、明日早めにお越しください」心の中で冷笑した。まさか山本つづみを連れてこなかったのね。きっと近くの観光地に来ただけで、父子で買い物に降りてきて、彼女は車で待っているのだろう。わざわざ私を探しに来たなどと、思い上がるつもりはない。「すず、もう止めよう。私が悪かった。家に帰ろう」藤田彦治は掠れた声で懇願するように言った。「ママ、どうして彼女もママって呼ぶの?ママは僕のママでしょう!」嘱言が走り寄って、私の手を掴んだ。アキラは興奮した様子で、声を震わせながら嘱言を突き飛ばした。「離して!ママは知らないって言ったでしょ!ママは私のママなの!」嘱言は倒れ込み、涙目で私を見上げ、私のズボンの裾を掴んで「ママ、押されたよ」と訴えた。「ママ、僕のこと要らなくなったの?」可哀想そうな声で尋ねた。昔なら心が揺らいだかもしれない。でも今は、この下手な演技が滑稽にしか思えない。私は冷ややかな目で一瞥し、アキラの手を引いて数歩下がった。アキラの手が冷たかった。私はアキラの手をしっかりと握り、彼女の目をまっすぐ見つめて優しく言った。「ママにはアキラしかいないの」アキラは力強く頷いた。嘱言は大声で
加藤院長に相談し、ボランティアとして残りたいと伝えた。食事と寝床だけあれば十分だと。加藤院長は快く承諾したが、こう補足した。「アキラという女の子に特に気をかけてあげてね」後で聞いた話では、アキラは六歳の女の子で、両親は健在だという。ただ、両親がそれぞれ新しい家庭を持ち、彼女だけが置き去りにされたそうだ。普通なら両親が生きている子供は加藤設には入れないのだが、両親のことを聞いても一切口を開かない。親に捨てられ、自分でここにたどり着いたと聞いて、仕方なく受け入れたという。アキラは人と関わるのが苦手で、ほとんど話さず、群れることもない。さらに、自分を傷つける傾向もあった。「刃物を持てば、他人を傷つけるのも自分を傷つけるのも、紙一重だ」他の子供たちは彼女を怖がり、一緒に遊ぼうとしない。初めて会った時、私には他の子と変わらない子に見えた。あえて違いを挙げるなら、痩せすぎているのと、異常なほど物分かりが良いことくらい。他の子供たちが食事の後に庭で遊ぶ中、彼女は台所に来て食器を洗うのを手伝ってくれた。時には庭の隅でぼんやりと、落ち葉を眺めている。落ちた葉を一枚一枚拾っては捨てる。そんな大人しい子が、男の子と喧嘩をするとは思わなかった。たった一言「親に捨てられたんだろう」という言葉で、男の子の頭を石で殴り、血を流させた。駆けつけた時には、男の子が泣きながらアキラの仕業を訴えていた。急いで病院に連れて行った。後で分かったことだが、男の子は善意からアキラに声をかけたのだという。加藤孤児院の子供たちは皆親がいないのだから、と慰めるつもりだったらしい。でも、その言葉を聞いたアキラは、まるで急所を突かれたように攻撃的になった。後悔はしているようだったが、謝ることは頑なに拒んだ。食事も取らず、言葉も発さない。この頑固な少女にどう接すればいいのか悩んだ末、心の傷には相応の治療が必要だと思い至った。「私があなたを引き取りたい。私の子供になって」その言葉を聞いた瞬間、アキラの虚ろな目に光が宿った。そして私にしがみつき、まるで普通の子供のように大声で泣き始めた。死んでいたような心が、生き返ったのを感じた。藤田親子に傷つけられた私の心も、同時に癒されていくようだった。「どうして私のお母
私は新しい生活を始めることにした。日々の家事に縛られることなく、自分の時間を大切にしようとしている。街角の風景、雨音、些細な光景に心が躍る。写真を撮り、文章を書き、日々の出来事を記録していく。思いがけず、SNSでちょっとずつ「いいね」がついていった。一週間後、突然藤田彦治から電話がかかってきた。「西山プロジェクトの資料がどこにあるか分かる?できれば連絡したくなかったんだが、家中の棚を探しても見つからなくて」焦りの混じった声だった。少し考えてから答えた。「この前、トイレでも資料を見ていたって言ってたから、トイレの本棚を見てみたら?でも、確実じゃないけど」「トイレも探したよ。見つからない」諦めたような声で返ってきた。「最新の企画書なら、書斎のパソコンに保存してあるわ。印刷できるはず」「ああ」がっかりしたような声。きっと、まだ私と関わりがあることへの失望なのだろう。資料が見つかったことへの失望だなんて、思い上がるつもりはない。「すまない。最近、元気にしてる?」突然、低い声で尋ねてきた。「ええ」そっけなく答えた。「そう......」困惑したような声。気まずい沈黙が流れ、私が口を開いた。「全ての資料は寝室のナイトテーブルのUSBにまとめてあるから。これからは自分で探して。もう連絡する必要はないわ」長い沈黙の後、重たい声で「分かった」という返事が返ってきた。電話を切るとすぐに、彼の番号をブロックした。せっかくの明るい気持ちが、また暗くなっていく。理想的な元夫は、死んだも同然であるべきだ。私が藤田彦治に惹かれたのは、孤独と愛情への渇望からだった。彼が私に惹かれたのは、母親の愛情に飢えていたからかもしれない。私は施設で年長者として、母親のように下の子の面倒を見てきた。七年という歳月で、私は彼の生活の一部となり、彼は私に依存していた。きつい言い方になるけど、私はタダ働きの世話係。たまたま山本つづみに顔が似ていただけ。たまたま山本つづみに似ていただけ。お互いに必要なものを得て、今は私が仕事を辞めたようなもの。でも雇用主は大切な何かを失ったと気づいたようだ。また電話が鳴った。見知らぬ番号からだ。就職活動の返事かと思い、急いで出た。「もしも
嘱言は私の命そのものだった。この世で唯一の肉親であり、私の全てを注いだ家族。いつから嘱言を手放そうと思い始めたのだろう。おそらく、心を込めて作った料理を蔑ろにされた、あの日から。朝四時から仕込んだ鶏がらスープを床にぶちまけ、その上を踏みながら目を真っ赤にして叫んだ。「つづみおばさんとケンタッキーに行きたい!こんなスープなんか飲みたくない!」息子は眉をひそめ、涙目で私を睨みつけた。「パパの言う通りだよ。ママは本当に口うるさいんだ。これもダメ、あれもダメって。もう嫌いだ!」そう叫んで部屋に駆け込み、ドアを乱暴に閉めた。私はダイニングテーブルの前で立ち尽くしたまま。何もできず、胸が締め付けられるような思いだった。床に広がる薄い黄色のスープと油。割れた食器の破片。まるでこの家のように、すべてが散り散りになっていた。今思えば、私はいつも真面目すぎたのかもしれない。それとも、あの十五夜の日からだろうか。家族団らんの象徴とも言える特別な日に、息子を迎えに行けなかった時から。藤田彦治に早く帰るよう頼み、私は息子を迎えに行くと約束した。幼稚園の門前に三十分も早く着いたのに、下校時間になる直前に警備員に止められた。担任は私を指差して言った。「先日の親子行事の時と違う方です。藤田嘱言のお母様は別の方でした。お顔は似ていますが、雰囲気が全く違います。当園は一流の幼稚園です。園児の安全を第一に考えなければなりません」先生の言葉に、私は何も言い返せなかった。息子の通う園でさえ、私を他人だと思っているのだ。警察に連れて行かれ、事情を聞かれた。午後、嘱言が気分が悪いと言い、スマートウォッチで連絡を取り、「ママ」に迎えに来てもらったという。警察から連絡を受けた家族が現れた時、初めて警察のお世話になった嘱言は山本つづみに寄り添っていた。その後ろには、颯爽とした藤田彦治の姿。「仲睦まじい家族三人」の姿が、私の目に痛いほど焼き付いた。警察官が嘱言に尋ねた。なぜおばさんについて行ったのかと。「つづみおばさんが好きなの。いい香りがするし、きれいだから。この前の幼稚園の行事も、つづみおばさんと一緒に来てくれて、みんなが羨ましがってたんだ。ママがパパと離婚するって言ったから、これでパパはつづみお
藤田彦治はなかなか帰ってこなかった。スマホには彼のSNSの投稿が表示された。遊園地での様子が9枚の写真に収められていた。嘱言が遊園地で楽しそうに笑っている写真、三人で撮った記念写真、そして山本つづみが藤田彦治の腕に寄り添う親密な姿まであった。そして「取り戻した大切な時間」というコメント付きもあった。昔の私なら、すぐに電話をして、これはどういうことかと問い詰めていただろう。でも、この二ヶ月で私は諦めきっていた。慣れてしまったのだ。完全に無関心になっていた。黙ってその投稿に「いいね」を押した。今日、彼らは帰ってこないだろう。外から聞こえる虫の声が、家の静けさを際立たせる。用意したスーツケースを見つめながら、私も思わず写真を撮った。SNSに投稿し、こう書き添えた。【来ない人を、もう待つ必要はない】それを見た藤田彦治は、案の定、翌朝慌てて帰ってきた。玄関を開けると、ソファで待っている私の姿が目に入った。車の鍵を乱暴にテーブルに叩きつけ、顔を歪めて怒鳴った。「いつまで出て行くだの騒ぐつもりだ?本気なら、今すぐ出て行けよ!SNSにあんなこと書いて、恥ずかしくないのか?俺の立場も考えろ!父さんまで心配して電話してきたんだぞ!わざと皆に知られるように仕向けているのか!」私は彼の取り乱した様子を冷ややかに見つめ、どこか満足感すら覚えた。一体誰が先に恥知らずだったのか。藤田彦治か、それとも彼の「大切な人」山本つづみか。「ええ、本当に出て行くつもりよ」私は冷静な声で言い、バッグから用意していた離婚届を取り出して彼の前に置いた。「藤田さん、サインをお願いします」彼は呆然として私を見つめ、今回の私が本気だと気付いたようだった。「昨日は薬を買って来て手当てするつもりだったんだ。でも、つづみと嘱言にどうしても付き合ってくれって言われて......」彼の言い訳は空しく響いた。「それに、大した怪我じゃないだろう?こんなことで大げさに......」私は冷笑して、氷のような目で彼を見つめ、はっきりと言った。「大げさじゃないわ」藤田彦治の表情が曇った。「本気で離婚するつもりか?」「ええ」躊躇なく答えた。彼は目を細めて言った。「嘱言はどうするつもりだ?」その言葉が胸に突き刺さった。
咄嗟に携帯を掴もうとして、傷口に触れてしまった。「痛っ......」その隙に藤田彦治は電話に出た。受話器から嘱言の幼い声が聞こえてきた。「パパ、つづみおばさんと遊園地に連れて行ってほしいの」続いて、甘えた声で女性が話し始めた。「彦治くん、タクシーが全然捕まらなくて。私と嘱言を遊園地まで送ってもらえないかしら?」何か言おうとした私を完全に無視して、藤田彦治は玄関へ向かいながら「分かった、すぐ行くから」と返事をした。電話を切ると、私を横目で見て「戻ってくるまで待ってろ」と言い残し、出ようとした。「藤田彦治」と呼び止めると、彼は眉をひそめ、うんざりした様子で言った。「何だよ?その程度の怪我なら病院に行く必要もないだろう。もう少し大人になれよ。いつも......」私は冷たく遮った。「ただの注意よ。遊園地は日差しが強いから、嘱言に帽子と水筒を持たせてあげて」私が命がけで産んだ子なのだから、面倒を見るのは当然のことだ。彼は一瞬驚いたような顔をして、「ああ」とだけ言った。少し間を置いて、見下すような口調で続けた。「また止めるのかと思ったよ。ただ遊園地に連れて行くだけじゃないか。そんな狭量なことは止めろよ」彼は必要な物を取ってからこう言って急いで家を出た。「すぐ戻る。家で待ってろ。薬買ってきて傷の手当てをしてやる」昔なら怒鳴り返していただろう。でも今は、もう何も感じない。つい先日のことを思い出した。彼の父の看病で深夜まで病院にいた時のことだった。仕事を終えた時には、外は真っ暗になった。病院は不便な場所にあり、通りには人影もなく、不気味なほど静かだった。夜風が冷たく、背筋が凍るようだった。「お客様のお掛けになった電話は、ただいま通話中です......」藤田彦治の携帯は30分も通話中のままだった。「どうして30分も通話中なの?今、お父さんの病院の前にいるんだけど......」やっと電話が繋がったと言いかける時、イライラした声で遮られた。「今忙しいんだ。つづみの家の電球を替えてるところだ。お前はどうしてそんなに疑り深いんだ。つづみが暗いの苦手だから、ずっと電話で話してただけだろう」そこへ嘱言まで口を挟んできた。「ママ、わがままは良くないよ。自分のことは自分でするって
「今夜帰ってくる?晩ご飯作ったんだけど......」話が終わらないうちに遮られた。「つづみが暗いのが怖がるから、一人にはできないんだ」そう言うと、電話は切れた。もう二ヶ月、夫と息子に会っていない。彼の初恋の人が帰国して以来、彼は息子を連れて、山本つづみのために用意したマンションで暮らしている。「つづみは帰国したばかりで知り合いもいないから、手伝っているだけだよ」息子の嘱言も眉をひそめて私を見た。「ママ、そんな身勝手はダメだよ。つづみおばさんが寂しくて困るでしょ」その真剣な表情は、まるで父親そのもの。まるで私が悪者であるかのようだった。黙って荷物をまとめようと階段を上がったところ、背後から息子の不満げな声が聞こえた。「ママ、もう演技しなくていいよ。パパが言ってた、ママには僕たち以外に身寄りも、行く場所もないって」藤田彦治も階段を上がってきて、私の後ろに立ち、冷ややかな笑みを浮かべた。「この何年も、ちゃんとした服も持ってないくせに。誰に見せたいの、その荷物まとめる芝居は」手が止まった。そうだ、私には行く場所がない。彼らはみんなそれを知っている。だから、私に何をしても逃げられないと思っているのだ。「もういい加減にしろ。つづみが戻っても、大人しくしていれば、この家にいられるんだぞ」藤田彦治は息子を抱き上げ、嘲るような目で私を見て出て行った。力が抜けたように、ベッドに座り込んだ。この二ヶ月は、現実を受け入れるための時間だったのかもしれない。誰からも連絡はなく、多くのことが見えてきた。再び荷物をまとめ、出ようとした時、階下で藤田彦治と鉢合わせた。今日帰ってくるとは知らなかった。私を見た彼も一瞬驚いたような顔をした。すぐに眉をひそめて言った。「また何のつもりだ?今日帰ってくるって分かってたから、また同じ手を使おうとしてるのか?」藤田彦治は嫌そうに言った。「前に出て行くって言ったじゃないか。まだここにいたのか?」「森本すず、こういう駆け引きにはもううんざりだ」面倒くさそうに近づいてきた彼は、プレゼント用の香水を私の前に置いた。「最近元気がないって聞いて、つづみが気を遣って選んでくれたんだ。彼女みたいに気が利くようになったらどうだ?少しは身だしなみを整えて、キッチン