翌日、SNS上である動画が拡散され、わずか三時間でトレンドのトップに躍り出た。 朝早く、桜井から雅之に緊迫した声で連絡が入った。 「社長、大変です!社長が病院で暴れてる動画がネットに出回って、今とんでもないことになってます!」 そう言いながら、桜井はトレンドのキーワードを雅之に送った。 ちょうど朝のトレーニングを終えたばかりの雅之は、汗で濡れた額と首をタオルで拭きながらスマホを手に取り、送られてきたトレンドワードを確認した。 『二宮グループ新任社長、病院で暴力沙汰』キーワードをタップすると、病院の廊下に設置された監視カメラ映像が次々と投稿されている。 映っていたのは、雅之が中年女性を足で蹴り倒すシーン。 ほんの数秒の短い映像。当然、前後の状況説明など一切なし。 雅之は一般人ではない。二宮グループの新任社長であり、しかも最近は離婚の噂で世間を騒がせていた。そこへきてこの動画が出回ったことで、状況はますます混沌としていく。 社長としての立場がまだ盤石ではない今、この動画が拡散された影響は計り知れない。 二宮グループの事業は、不動産、新メディア、エンタメと多岐にわたる。もし取引先がこの動画を目にしたら、「暴力を振るう社長がいる会社の商品なんて信用できない」と取引を控える可能性は十分にある。それに、世論の反発が強まれば、クライアントや提携先も慎重な姿勢を取り、距離を置こうとするだろう。 結局、この動画が広まれば広まるほど、会社にとってマイナスになるのは明白だった。 「社長、幹部の一部と株主たちもすでにこの件を知っていて、今会社に向かっています。以前から社長の突然の抜擢に納得していない人たちがいますからね……この件を口実に、何かしら問題を提起してくる可能性が高いです」 桜井の緊迫した声が、電話越しに響いた。 「……分かった」 雅之は冷静に一言返した。 だが桜井は焦った様子でさらに続けた。 「社長、今広報に指示を出して、世論のコントロールに動くよう指示しました。それと、聡さんにも協力をお願いして、この動画を流した真犯人の調査を依頼しました。ただ、まずは会社に来ていただいて、取締役たちを落ち着かせる必要があります!」 「怖がる必要はない」 雅之の声は落ち着いていて
「えっ?」里香はぽかんとしたまま、疑問をそのまま口にした。「なんでトレンド入りしてるの?なんで叩かれてるの?」「いやいや、一言二言じゃ説明できないって!とにかく、早く見てみなよ!」かおるの声が、妙に興奮気味に響く。里香は眉をぎゅっと寄せた。一体何が起こったの?たった一晩会わなかっただけなのに、どうしてこんなことになってるの?通話を切らないまま、スマホの通話画面を閉じ、慌ててアプリを開いた。すると、トレンドの一位に雅之の名前が入ったキーワードが目に飛び込んだ。そのキーワードをタップして詳細を確認した瞬間、里香は思わず飛び上がった。「見た?ははは!あのクソ野郎にも、ついにこんな日が来たんだね!全ネットから袋叩きにされて、超スッキリする!」かおるの笑い声が、やけに癖になるほど楽しげに響く。動画には、雅之が中年女性に蹴りを入れる瞬間だけが映っていた。その前後の状況も、そこにいた里香の姿も、何も映っていない。だから、誰も知らない。雅之が、里香を守るために手を出したということを――。里香は唇をギュッと引き結び、下にスクロールしてコメントを読み進める。【うわっ、ひどっ!あんなに思いっきり蹴る!?おばさん、地面に突っ伏してたじゃん!】【こいつ、目つきヤバすぎ……こんなのが二宮グループの社長?もう二宮の製品、二度と買わない!】【謝罪しろ!権力を振りかざして好き放題なんて許せない!どれだけ金持ちでも、法律は守れよ!】【謝罪しろ!】【弱い者を痛めつけるなんて最低!消えろ!】「……」それよりさらに酷い言葉がズラリと並んでいるのが見えた。もう、これ以上読む気になれなくて、スクロールする手を止めた。胸の奥がざわつくような、複雑な気持ちに包まれたまま、里香は静かに目を閉じた。そして、小さく息を吐いて、言葉を発した。「かおる……彼が手を出したのは、私を守るためだったの」「……えっ?」かおるの興奮気味だった笑い声が、ピタッと止まった。「何それ?私の知らない何かが、また起きたの?」里香は、昨日病院で起こったことをかおるに話した。かおるは、しばらく呆然としたあと、戸惑いながらぽつりと口を開いた。「ってことは、私、間違えて悪口言っちゃったわけ?まさか、あいつがそんな人間らしいことするなんてね。これは
里香はほんの少し唇を結び、気持ちを引き締めたが、内心では認めざるを得なかった。どんなに否定しようとしても、自分の心が雅之に惹かれていることを感じていた。最近の出来事が次々と頭をよぎり、里香はそっと目線を伏せる。その瞳には複雑な感情が浮かび、迷いが色濃く滲んでいた。どうしてこんなに心が揺れるのだろう?雅之は本当に変わった。以前よりもずっと優しくなり、里香の考えや意見をしっかりと尊重してくれるようになった。昔好きだった“まさくん”の姿が、少しずつではあるけれど確実に戻ってきている。そして里香自身、どうしても「まさくん」には逆らえない。どうしようもなく弱い。彼女は目を閉じ、深く息をつきながら湧き上がる感情を必死で押さえ込んだ。それ以上自分の気持ちに触れることはせず、ただゆっくりと心を落ち着けようとした。「……先に仕事しよ」そう静かに呟いてから、彼女は再びモニターに視線を戻し、作業へと集中した。一方、二宮グループの会議室。そこには重苦しい空気が漂っていた。息苦しいほどの圧力が辺りを支配している。雅之は会議室の最前列に座り、銀灰色のスーツを身にまとった姿が目を引く。ネクタイを緩め、シャツのボタンを二つ開けたラフな装いながらも、冷静で鋭い目つきからは力強い存在感が感じられた。片手をテーブルに置き、長い指先でペンを回しながら、周囲の緊張感を物ともせず沈着冷静さを保っている。会議室にはすでに株主たちが揃っていた。ほとんどの株主が無言のまま座っていて、その表情には読み取れるものがほとんどない。ただ、数名の株主だけは明らかに不満な様子を浮かべていた。その中の一人が口を開いた。「雅之くん、君に実力があることは認めているし、卓越した経営センスや戦略にも一目置いている。しかしだな、君が社長に就任してまだ日が浅いのに、こんなスキャンダルを起こすようではどうにもならんぞ」別の株主も即座に同意するように言葉を続けた。「その通りだ。二宮グループほどの規模の会社なら、どんな小さな問題も許されない。君はこの会社のトップとして皆を導く立場だ。もし君が問題を起こせば、グループ全体に甚大な影響を及ぼすことになる。もう既に、この件が原因で株価が下がり始めている。この事態を収束させるために、まず記者会見を開いて謝罪し、社長辞任を公表するべきだろう。一旦暫
佐藤の顔色はさらに悪化し、冷たい目つきで言い放った。「私を追及するつもりか?私にどんな企みがあるって言うんだよ?当然、二宮グループのためさ!前後の経緯はどうでもいい、今はネットの世論が完全にあの動画に踊らされている。この状況じゃ、弁解したところで誰もまともに聞きやしない。奴らはただ目に映るものしか信じないんだ。だからこそ、今は誠意ある態度で謝罪して、ちゃんとした姿勢を見せるべきだ。そうすれば、とりあえずこの騒ぎを落ち着かせることができる。その後で徹底的な調査結果を公表すればいい。それが一番効果的な解決策だろう!」感情を露わにしながら、佐藤は雅之に向き直った。「雅之くん、君はどう思う?」「いいじゃないか」雅之はじっと佐藤を見つめながら薄い唇にかすかな笑みを浮かべ、軽く手を振りながらこう言った。「じゃあさ、二宮夫人を呼びたいって言うなら、今すぐ電話をしてみたらどうだ?彼女が来るかどうか、試してみればいい」その態度には、緊張感というものが一切感じられなかった。表情も変わらず、まるで誰か他人の話を聞いているような余裕すら漂わせていた。SNSでは騒動がどんどん拡大し、株主たちが激しく口論しているというのに、肝心の当事者である雅之自身だけはまるで何の問題もないかのように見えた。佐藤は、一瞬、雅之の心の内が読めなくなった。確かに彼は若い。しかしその腹の底は相当深い。何の予兆もないまま二宮グループを手中に収めたその手腕からも、彼の実力と策略がどれほどのものか明確だった。しかし、今回の件で、もし雅之が頭を下げて謝罪しないつもりなら、一体どうやってこの窮地を乗り切る気なんだ?世論は荒れに荒れ、株価は急落。このタイミングで競合他社が攻勢をかけてきたら、二宮グループは間違いなく深刻な危機に陥るだろう。佐藤は秘書に目を向け、簡潔に命じた。「二宮夫人に連絡を取れ」「かしこまりました」その後、佐藤は雅之をじっと見据え、穏やかに言った。「雅之くん、君の実力は私も認めている。だからこそ、一度身を引いて、この騒ぎが収まった後にまた戻ってきて、二宮グループを新たな高みに導いてくれ。君なら必ずやり遂げられるはずだと信じている」しかし雅之はこう返した。「もう対策を決めているのに、二宮夫人と先に話していないのか?」佐藤は一瞬口を閉ざし、「急遽決めたことだ
桜井:「……」いつも冷静な表情の彼の顔に、ついにヒビが入った。株主たち:「……」えっ、何だって?こいつ、自分が何を言ってるか分かってるのか?その場の株主たちの表情は百面相のようだった。全員が雅之を凝視し、次に何を言い出すのかと息を呑むように見守っていた。電話越しの里香は一瞬沈黙した。まさか、幻聴?今、彼「職場いじめに遭ってる」って言った?いやいや、むしろいじめる側の人間じゃないの?里香は淡々とこう言った。「大丈夫そうね。じゃあ切るわ」「待って!大丈夫じゃない!頼むから信じて!」雅之はすぐさま彼女を引き留め、必死に話を続けた。「こんな事になって、今、グループの役員たちが緊急会議を開いてるんだ。僕を解任して家に追い返そうとしてる。僕、無職になっちゃう!」株主たち:「……」もう、ツッコミが追いつかない。里香はしばし沈黙し、「この流れ、なんか見たことがある気がするんだけど」と呟いた。そういえば昔、DKグループでも同じようなことがあったような?で、そのあとどうなったっけ?雅之は結局とんでもないことをやらかして、最終的に二宮グループをまるごと手に入れたんだっけ。雅之:「今回は違う。本当に職を失うんだ。……ねえ、僕を養ってくれる?」里香:「無理」雅之:「いや、できる。僕、手がかからないし」株主たち:「……」もうダメだ、聞いてられない。いったい何の話だ?その時、雅之はようやく自分に向けられた冷たい視線に気づき、ゆっくりと視線を移して株主たちを一瞥した。そして、ぼそりと一言。「何見てんだよ?お前らも奥さんから電話もらえないのか?」里香:「……」株主たち、再び沈黙。一方、里香は今、雅之が会議中であることを思い出した。そして、その会議の最中に、こんなどうでもいい話を延々としていることに気づいた途端、顔が一気に熱くなった。慌てて通話を切った。雅之はスマホを見つめながら、眉を寄せる。不機嫌そうだ。さっきまでの余裕が嘘のように消えていた。そのまま顔を上げた雅之の冷たい視線が株主たちを捉えた。目の中にはどこか刺すような冷たい色が滲んでいる。「続けろ」たった二言、投げつけるように言った。明らかに機嫌が悪そうだ。いや、さっきまでの雰囲気と違いすぎるだろ。桜井はそんな
雅之を罷免するなら今が絶好の機会だ。このタイミングを逃して彼の代わりを見つけられなければ、雅之はますます独裁的な立場を築くだろう。そうなれば、株主として佐藤にはもう生き残る道はない。「来ないのか?」その時、雅之の声が響いた。どこか余裕のある笑みが滲むゆったりとした口調だ。まるで、すべてを見越していたかのような雰囲気だった。佐藤は雅之を一瞥し、厳しい表情で口を開いた。「二宮夫人は旧会長への思いが深いようだ。今、旧会長は病床に伏していて、彼女はそばで世話をすると決めたらしい。我々は新たな適任者を探さざるを得ない」その言葉を受けて、周囲を見渡していたある株主が間を置かず口を開いた。「資歴や能力から考えると、この役に最もふさわしい人物は佐藤さん以外にいないんじゃないか?佐藤さんは長年の貢献を示してきた。この機会に佐藤さんに会長代行を務めてもらう案を提案する!」「賛成だ!」「俺も賛成だ!」佐藤派の株主たちは次々と同意を表明した。しかしながら、反対陣営の株主の中には眉をひそめる者や、中立の立場を保つ者も少なくなかった。雅之の近くに座っていた二人の株主のうち、一人が声を上げた。「佐藤、お前も自分の年を考えたらどうだ?そろそろ引退する歳だろ?いまさらこんなことに首を突っ込んでどうするんだ?仮にこの提案が通ったとして、ここでの役職はあくまで『代行』だろ?何も大事にする必要はない。適当な奴を代行に置けばいいじゃないか。俺は雅之くんの秘書を推すね。彼は能力も胆力もあるし、長年雅之くんのそばで働いて彼のやり方を熟知している。短期間の代行くらいなら、問題なくできるはずだ」その言葉を聞いた桜井は表情を引き締め、微かに頷いて柔らかく微笑んだ。「ご指名ありがとうございます」すると、もうひとりの株主が雅之をじっと見て問いただした。「雅之くん、お前はどうするつもりだ?」雅之は落ち着いた声で答えた。「どの提案も悪くない。ただ……僕は辞任するつもりはない」佐藤の眉が瞬間的にひそまる。「どういう意味だ?ここまで事態が大きくなっているのに、それでも会長の座に居座るつもりか?ネットでも反発が大きいんだぞ!こんな状態が続けば会社に取り返しのつかない損害を与えることになる」雅之は鋭い目を佐藤に向け、静かに言い返した。「問題が起きるたびに経営トップをスケープゴートに
自分は一生を二宮グループに捧げてきた、大功労者だ。雅之の父親である正光でさえ、会うたびに礼儀正しく接してくれていたというのに。それなのに、雅之如きが?こんな口の利き方をしていいと思っているのか?株主の一人である山本は、ゆっくり立ち上がり、険しい表情をしている佐藤を見て軽く笑いながら言った。「佐藤さん、年相応の振る舞いをするべきだよ。余計なことを考えず、今ある株を大事にしたほうがいい。まだ株主として安泰に暮らせるんだからね。もし持ち株を失ったら、その後どうするつもりだ?」そう言い残して、そのまま会議室を出て行った。他の出席者たちも次々と退室し、最後に残ったのは佐藤と数人の株主だけだった。室内には重苦しい空気が漂い、誰の表情もさえなかった。佐藤は険しい目つきで前を睨みつけ、拳をぎゅっと握りしめた。その時、不意に彼のスマホが鳴った。画面を確認すると、見覚えのない番号だった。最初は取るつもりはなかったが、その直後に一通のメッセージが届いた。その内容を見た瞬間、佐藤の表情が変わった。迷いつつも、彼は電話を取った。「……もしもし?お前は……」「俺だよ」会長室。桜井は鋭い眼差しで雅之の顔を見つめながら、少し躊躇しつつ言葉を選びながら口を開いた。「社長、今回の件で佐藤を敵に回しましたが、彼が黙っているとは思えません」しかし、雅之は冷淡に言い放った。「あんな老害、置いておいても意味がない」桜井は一瞬言葉を失ったが、雅之が一度決定したことを覆す気はないと理解していた。話題を切り替えて報告を続けた。「現在、各種メディアに情報を流しているのは海外の企業であることが判明しました。ただ、その会社は謎が多く、表向きはジュエリービジネスを手がけています。しかし、ジュエリーブランドは持っていますが、規模は小さく知名度も低いです」雅之は目を鋭く細めた。「その海外のジュエリー会社が、なぜ二宮グループの件に首を突っ込む?」「おそらく、ただのダミー会社で、その裏には別の事業が隠れている可能性が高いです」「引き続き調査しろ。それと、新と徹に里香の警護を徹底させろ。何があっても彼女を守れ」「承知しました!」桜井はすぐに頷くと、もう一つの懸念事項を口にした。「それと、例の動画の件ですが、どう対応しますか?」「記
里香はそう考え、そのまま口にした。「もし私と雅之のことを話しに来たんだったら、もういいよ。自分のことは自分で解決するから」 景司は沈黙した。 やはり、この件で来たのだろうか。 ネットでは雅之の暴力事件が大騒ぎになっている。だから、もう一度里香を説得しようと思っていた。 でも、こんなに冷めた口調で言われると、胸の奥が何だか少し苦くなる。 この気持ちは何だろう。 理由は分からない。ただ、そう感じてしまうのだ。 沈黙が続くのも気まずい。里香は口を開いた。「他に用がないなら、切るね。今仕事中だから」 「うん、君がちゃんと考えてるなら、それでいい。俺はただ、前みたいに離婚したくても方法がなくて悩んでたのを知ってるから、今ちょうどいいタイミングだと思って手助けしようとしただけだ。でも、全部君の意思に任せるよ。仕事の邪魔して悪かったな。じゃあな」 そう言って、景司は電話を切った。 里香の目に、一瞬薄く嘲るような色が浮かんだ。 ゆかりを助けるためなら、景司はどんな言葉でも口にする。 何も知らない人が聞いたら、本当に私のためを思っているように聞こえるだろう。 スマホを置いて、再びパソコンに視線を移した。 仕事に集中しようとした。 気づけば退勤時間になっていた。 荷物を片付け、ビルを出た。 そこで目に入ったのは、車のそばに寄りかかる一人の男だった。 黒いコートに紺色のスーツ。その下に締められたネクタイはピシッとしていて、端正な顔立ちをさらに際立たせている。 雅之だ。 思わず足を速めながら問いかけた。「なんでここに?」 「迎えに来た」 心の中のざわつきを押し殺しつつ、里香は言った。「いじめられてたんじゃなかったの? 見た感じ、元気そうだけど」 雅之は眉をわずかに動かして口を開いた。「いじめられたって言っても、涙の一つでも流さなきゃ信じてもらえない?」 「……別にそこまでは」 「そうか。でも、お前が『泣かないと信じない』って言うなら、泣いてやることもできるけど?」 里香は少し口をつぐんだ。「……いいよ、そこまでしなくて」 仕方なく助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。 雅之も運転席に座り、車内は暖房が効いて柔らかな空気が漂
里香は少し首をかしげ、声を頼りにたずねた。「……みっくん?」驚いたようなみなみの声が返ってきた。「君の目、どうしたの?」「私を監禁してた人に、目に薬を打たれたの……今は、何も見えないの」その言葉を聞いたみなみは、そっと手を伸ばし、彼女の手首を握った。「じゃあ、俺が連れて行くよ。まずは病院で診てもらおう」少し迷いはあったけど、今は他に選択肢がなかった。ここに留まっているわけにはいかない。もし監禁してた相手が戻ってきたら……里香はみなみに従い、その場を離れる決心をした。けれど、どうして彼が自分を見つけられたのか、その疑問だけは拭えなかった。「ねぇ、みっくん。どうやって私のこと見つけたの?」みなみは、彼女を気遣いながら外へと連れ出しつつ、答えた。「近くの工事現場で働いてたんだ。そしたら、君がベランダに立ってるのを見かけて、すぐ駆けつけようとしたんだけど、警備員に追い出されてさ。それでしばらく様子をうかがってたら、君が閉じ込められてるっぽいのに気づいて……なんとかして奴らを引き離したんだよ」その説明に、どこか引っかかるものを感じた。でも今は何も見えない。信じるしかない。「ありがとう……」そう言うと、みなみはふっと笑ってこう言った。「前に君が俺を助けてくれたでしょ?少しでも恩返しできて、ほんとに嬉しいよ」「段差、気をつけてね」彼は耳元でそっと注意を促し、里香は慎重に階段を下りていった。車に乗り、エンジンがかかって走り出すと、ようやく心が少しだけ落ち着いた。やっとこの地獄みたいな場所から抜け出せた!自分を監禁していたのが誰なのか――いずれ分かったときには、絶対に許さない!みなみの車が走り去った直後、数台の車が敷地に入ってきた。景司の秘書が車を降り、その後に続いて降りてきた人物に気づいた。「雅之様」秘書は丁寧に頭を下げた。だが雅之はそれを無視し、そのまま早足で別荘の中へと入っていった。敷地の中を隈なく探しても、里香の姿はどこにもなかった。そこへ桜井が近づき、報告した。「別荘内には監視カメラが設置されていません。道路のカメラも破壊されています」誰かが明らかに仕組んだものだった。雅之の顔が険しくなる。そのまま景司の秘書の前へ歩み寄り、冷たい声で問いただした。「お
耳をつんざくようなブレーキ音が鳴り響いた。「バンッ!」祐介がハンドルを拳で叩いた。その先、ヘッドライトに照らされた別荘には、煌々と灯りがともっている。里香は、あそこにいる。けれど、あと一歩、届かなかった。もし今回の契約を諦めたら、喜多野家でこれまで積み重ねてきた努力が全部水の泡になる。祐介は両手でハンドルをギュッと握り締め、手の甲には浮き出た血管が交差している。顔はうっすらとした暗がりに隠れ、緊張からか顎のラインがきりっと引き締まっていた。別荘に鋭い視線を投げると、祐介は再びエンジンをかけ、ハンドルを切って空港に向けて猛スピードで走り出した。「早くドア開けてよ!本当に来ちゃったんだから!」陽子の焦った声が洗面所のドア越しに響く。二人のボディーガードも、全力でドアを押し始めた。だが、内側にはキャビネットが立てかけられ、里香も必死になって押し返していた。絶対に開けさせない。その一心で。でも、女ひとりの力で大の男二人に対抗するのは無理がある。顔は真っ青で、額にはじんわりと汗が滲んでいる。「だ、だめだ……あいつら、もう着いたみたい……もう私、関係ないから!逃げる!」すでに息も絶え絶えの中、陽子の慌てた声が響いた。彼女はボディーガードと里香を置き去りにして、別のドアから逃げていった。「ちっ、逃げんのかよ?あんた、旦那様に怒られても知らねぇぞ?」一人のボディーガードが舌打ちして低く呟いた。もう一人の声が響いた。「俺たちも逃げようぜ。どうせこの仕事、辞めちまってもいいし。もし来たのが雅之だったら……捕まったら、生きて帰れねぇぞ」「だな、逃げろ!」そう言って、ふたりともすぐにその場から立ち去った。彼らはただの雇われガードマンに過ぎず、祐介に特別な忠誠心があるわけでもない。外のやり取りを耳にして、張り詰めていた里香の身体から一気に力が抜けた。その場にへたり込み、大きく肩で息をしながら呟いた。助かった……数人相手に抵抗したせいで、全身がクタクタでもう動けない。しばらくすると、洗面所の外から誰かの声が聞こえてきた。「ここにはいないな、こっちにもいない!」「この部屋も空っぽだ。どこに行った?」聞き覚えのない声ばかり。里香はその声を聞いて、思わず眉をひそめた。雅之の人じゃない?
その言葉を聞いた瞬間、里香の顔色がサッと変わった。無理やり連れていくつもり?ダメ、絶対に行けない!誰かがもう助けに来てるはず。時間を稼がなきゃ!後ずさりしながら、里香は頭の中で寝室の家具の配置を必死に思い出していた。左手がテーブルに触れた瞬間、目がパッと光った。足音が近づいてくる気配を感じたその刹那、机の上にあった帆船のオブジェをつかみ、ためらいもなく相手に向かって投げつけた。帆船のオブジェは大きくてずっしり重く、持ち上げるのもやっとだったが、それでも何とか投げられた。二人のボディーガードは咄嗟に身を引き、帆船は床に落ちて鈍い音を立てた。もし直撃してたら、頭が割れて血まみれになってたかもしれない。盲目なのに、こんな反撃ができるなんて!陽子は焦りながら叫んだ。「早くしなさいよ、もうすぐ来ちゃうわよ!」その隙に、里香はさらに後ろへ下がりながら、手探りでトイレの方向を探る。たしか右側のはず……!進む途中、手に触れたものを片っ端から後ろに投げ飛ばし、ようやくドアノブに触れた瞬間、すぐさま中に飛び込み、内側から鍵をかけた。それを見た保鏢たちは舌打ちし、「合鍵を持ってこい!」と陽子に怒鳴った。「わ、わかった、ちょっと待って!」陽子は里香の思いがけない動きに驚きつつ、ボディーガードたちの怒声に我に返り、慌てて合鍵を取りに走った。外でのやり取りを耳にして、里香は向こうが合鍵を持っていることに気づいた。ドアを開けられるのは時間の問題。このままじっとしてはいられない。手探りで再び動き出し、キャビネットにぶつかると、それを全力で押してトイレのドアの前に移動させた。トイレは広いが、動かせそうなものはほとんどなく、頼れるのはこのキャビネットだけ。幸い、トイレのドアは内開き。そう簡単には開かないはず。今の彼女にできるのは、雅之の人間が一秒でも早く到着してくれるよう祈ることだけだった。一方その頃、桜井は一本の電話を受け、険しい表情で雅之に報告した。「社長、奥様が祐介に連れ去られました。現在、郊外の別荘に監禁されているようです」その言葉に、雅之は勢いよく立ち上がった。「人を連れて行くぞ!」「はい!」三手に分かれて、すぐに出発!車の中でも、雅之の表情は険しいままだった。まさか、本当に祐介だ
祐介は確認のためにスマホを取り出して画面を見たが、すぐに眉をひそめた。とはいえ、しぶしぶ通話に出た。「もしもし?」電話の向こうから蘭の声がした。「今どこにいるの?どうしてまだ帰ってこないの?」祐介は冷たく答える。「今夜は戻らない」「ダメよ!」蘭の声は一気に数段高くなった。「どうしても帰ってきてもらうから!祐介、最初に私に何て言ったか覚えてる?私たち、結婚してどれくらい経ったと思ってるの?全部忘れたの?」祐介の表情はすでに冷え切っていて、口調にも一切の温度がなかった。「今、忙しいんだ。無理を言うな」「私が無理を言ってるって言うの!?」蘭の声はさらにヒートアップした。「ただ帰ってきてって言ってるだけじゃない!それのどこが無理なの?祐介、まさか私に隠れて、何かやましいことしてるんじゃないでしょうね?だから家に帰れないの?今すぐ帰ってきて!今すぐ!」すでに蘭の声にはヒステリックな響きが混じっていた。以前の祐介は、少なくとも多少は彼女に対しての忍耐もあって、優しさを見せることもあった。けれど、両家の結婚が決まってからは、彼の態度は日を追うごとに冷たくなっていった。結婚後は、家に顔を出すことすら減り、次第に蘭も気づきはじめる。祐介が結婚したのは、愛していたからじゃない。彼の目的は、蘭の家が持つ権力だったのだと。その事実に気づいた瞬間、蘭の心は音を立てて崩れそうになった。自分はただの駒だったなんて。都合よく使われるだけの存在だったなんて……そんなの、受け入れられるわけがない。私は、モノじゃない。もし祐介にとって私は必要ない存在なら、いっそ離婚してしまったほうがマシ。こんな人、もういらない。しかし祐介は、蘭のヒステリックな声にも耳を貸さず、淡々と通話を切った。蘭は怒りに任せて、別荘の中のものを手当たり次第に壊し始めた。その拍子に胎動が激しくなり、そのまま救急で病院に運ばれることに。使用人からその報せを受けた祐介。車の中、蘭はお腹を押さえながら苦しげな表情を浮かべていたが、その目の奥には、どこか期待の光も宿っていた。私は祐介の子を身ごもってる。きっと、彼もこの子のことは大切に思ってるはず。祐介が病院に来てくれさえすれば、それだけでいい。冷たい態度だって、我慢できるから。でも
「はい」秘書はそう返事をし、そのまま背を向けて部屋を出ていった。ゆかりの部屋は景司の向かい側にある。秘書の足音が遠ざかるのを確認してから、ようやくドアを静かに閉め、スマホを取り出してとある番号に発信した。「里香がどこにいるか、わかったわ」その目には鋭い光が宿っていた。「でも、その代わりに、ちょっと協力してほしいの」相手はくすっと笑って、「どう協力すればいいの?」と問い返してきた。「今の私じゃ、雅之に近づくことすらできない。だから、手伝って。できれば既成事実を作ってほしいの。彼と関係を持てば、もう逃げられないわ!」相手はまた鼻で笑い、「いいよ、問題ない」とあっさり承諾した。ゆかりの目には、何がなんでも手に入れてやるという強い決意が宿っていた。そして、里香の現在の居場所を口にした。「兄さんはもう向かわせてるわ。急いだほうがいいわよ」そう言い残し、通話を切った。夜の帳が静かに降りる。真冬の冷気が骨の芯まで染み渡る中でも、街の喧騒は止むことがない。郊外の別荘。その一角だけが異様なほどの静けさに包まれていた。陽子は作り直した夕食を持って里香の部屋へと入ったが、里香はその料理に手をつけようとしなかった。もしも、この中に中絶薬なんかが混ざっていたら……?そんな考えが頭をよぎると、怖くてどうしても箸を持つ気になれない。顔には明らかな拒否の色が浮かんでいた。陽子はそんな彼女の様子を見て、できる限り誠意を込めた声で言った。「本当に、何も入っていません。どうか、信じてください」しかし、里香は首を横に振る。「信じられません」「でも、何も食べなかったら、お腹の赤ちゃんが持ちませんよ。産みたいって思ってるんでしょう?だったら、ちゃんと食べなきゃ」その言葉に、一瞬だけ迷いが生まれた。けれど、不安はどうしても拭えない。沈黙を破るように、陽子はさらに言葉を重ねた。「旦那様は、お腹の赤ちゃんには絶対に手を出さないって、ちゃんと約束されました。その方はそういう約束を破るような方じゃありません。安心して、大丈夫ですよ」それでも里香は箸を取ろうとはせず、瞬きをしながらぽつりと訊ねた。「じゃあ、教えてください。彼は、いったい誰なんですか?」相手の素性も名前も分からないままで、どうやって信じろとい
「ダメ!」ちょうどその時、ゆかりが慌ただしく部屋に飛び込んできた。景司は顔をしかめ、鋭い視線を向けた。「ゆかり、俺たちの話を盗み聞きしてたのか?」ゆかりは一瞬目を泳がせたが、すぐに開き直ったように言った。「夕食に誘おうと思って来ただけよ。別に盗み聞きするつもりはなかったわ。でも、お兄ちゃん、このことは絶対に雅之に教えちゃダメ!彼が知ったら、絶対に里香を助けに行くわ。そうなったら、二人の縁はますます切れなくなる……それじゃ、私はどうしたらいいのよ!」甘えた笑顔を浮かべるゆかりを、景司はじっと見つめた。以前は、この妹を本当に大切に思っていた。ゆかりの無茶な頼みを聞いて、何度も雅之に掛け合い、里香に離婚を促したことさえある。だが今、この執着じみた言動に、心の奥底で言いようのない嫌悪感がこみ上げてくる。「つまり、雅之が里香を見つけられないようにしろってことか?」ゆかりの心の中で、もちろんよ!と叫びたくなる衝動が湧き上がった。もし里香がこの世から完全に消えてくれれば、それが一番いい。だが、そんな本音を口に出せるはずもなく、表情を作り直すと、甘えた声で言った。「お兄ちゃん、私は本当に雅之のことが好きなの。今、彼は離婚して、私たち二人とも独り身になったわ。だから、私は全力で彼を追いかけて、彼に私を好きになってもらうの。もし彼と結ばれたら、二宮家と瀬名家が結びついて、両家はもっと強くなる。それってメリットしかないでしょう?でも、もし雅之が里香の居場所を知ったら、彼女を助けに行くわ。そうなったら、里香はまた弱いふりをしたり、甘えたりして、雅之の心を揺さぶるに決まってる。そんなの、絶対に嫌。私の未来の夫が、元妻といつまでもそんな関係を続けるなんて耐えられないわ。お兄ちゃん、だからもうこの件には関わらないでくれる?」そう言いながら、景司の腕にしがみつき、甘えるように左右に揺さぶった。この方法は、いつも効果的だった。こうやってお願いすれば、お兄ちゃんたちは結局、私の無理な頼みでも聞いてくれるのだから。「ダメだ」だが、今回は違った。景司は腕を引き抜き、その甘えた仕草をきっぱりと拒絶した。ゆかりの顔が驚きに染まった。「どうして?」景司は険しい表情で言った。「今回の件は、いつものワガママとは違う。人の命が
陽子はすぐに戻ってきて、いくつかの妊娠検査薬を手にしていた。 「旦那様、いろんなブランドのものを買ってきました。全部試してみてください」 「うん」 その時、外から電子音が鳴り響き、それとほぼ同時にノックの音がした。 里香の体が、一瞬にして緊張でこわばる。それでも、今は検査をしなければならない。自分が本当に妊娠しているのか、確かめる必要がある。 ドアを開けると、陽子がそっと支えながら洗面所へと連れて行ってくれた。 「出て行って」 人が近くにいるのが、どうしても落ち着かなかった。 陽子は無言で頷くと、そのまま部屋を後にした。 洗面所に残った里香は、手探りでまわりを確認し、陽子が本当にいないことを確かめると、言われたとおり検査を始めた。しかし、慣れないせいか上手くできず、結局もう一度陽子を呼び入れることにした。 陽子がいくつかの妊娠検査薬を試し、結果を待つ間、洗面所には静寂が満ちる。 5分後。 陽子が検査薬を見つめ、息をのむように言った。 「小松さん、本当に妊娠されていますよ」 その瞬間、里香の唇にかすかな微笑みが浮かび、無意識にお腹へと手を当てた。 このお腹の中に、新しい命がいる。 自分と血を分けた、最も近しい存在が、ここにいる。 胸が熱くなり、喜びが込み上げる一方で、警戒心もより一層強まっていく。 陽子は検査薬を手に洗面所を出ると、外にいる誰かと何か話している様子だった。 その直後、再び電子音が静寂を破った。 「里香、この子を堕ろすことをおすすめする。君にとっても、俺にとっても、それが一番いい」 一瞬にして、里香の表情が凍りついた。 そして、低く、しかしはっきりとした声で言い放った。 「私の子に何かしようとしたら、たとえ一生この目の前から消え去ることになっても、絶対に許さない。殺してやる!」 ぴんと張り詰めた空気の中で、誰かの視線が自分に向けられているのを感じる。 どれほどの時間が流れただろうか、再び、男の声が響いた。 「……分かった。君の子には手を出さない」 その言葉に、里香はわずかに胸を撫で下ろした。 でも、それでもまだ安心できない。 自分の目が見えないことを利用され、もし知らないうちに流産さ
「やめろ!」その瞬間、部屋のドアが勢いよく開かれた。里香の顔は青ざめていたが、その表情には強い緊張感が滲んでいた。見えていないはずの瞳には、確かな決意が宿っている。彼女はお腹をかばうように手を添え、かすれた声で言い放った。「私の子どもに手を出したら、絶対に許さない!」ベッドに横になっていても落ち着かず、気づけばそっと起き上がり、ドアのそばで彼らの会話を盗み聞いていた。そこで、自分が妊娠しているかもしれないという衝撃の事実を耳にしてしまったのだ。驚きを隠しきれず、雅之との関係を思い返した。確かに、思い当たる節はあった。あの時、避妊をしなかった。安全日だからと気に留めていなかったのに。でも、どうやら安全日なんて当てにならないらしい!もし本当に授かっているのなら、自分は絶対にこの子を産む。この世に家族がいない自分にとって、この子は初めて得る家族なのだから。だから、誰にもこの子を傷つけさせない!医者はちらりと男を見やると、落ち着いた口調で言った。「体調を整えるための薬を処方しておきます。妊娠の確定は検査結果を待たないといけませんね」男は何も言わなかったが、里香には彼の視線を強く感じた。やがて、医生の足音が遠ざかっていく。その静寂を破るように、無機質な電子音が響いた。「雅之のことなんてどうでもいいって言ってたのに、なんで彼の子どもを産もうとするんだ?」「それは、私の子どもだから!」里香はきっぱりと答えた。「私だけの子どもよ!」男は鼻で笑い、皮肉げに言った。「でも、その子の父親は雅之だ。血は繋がっているんだぞ。独り占めなんて無理だろう?もし妊娠していることが彼に知られたら、お前はもっと逃げられなくなる。完全に彼から離れるなんて、絶対にできないさ」「お前、一体何者なの!?なんで私のことをそんなに知ってるの?」里香は、彼の言葉の矛盾に敏感に気づいた。雅之から逃げたいと思っていることを知っている。それは、間違いなく身近な人物のはずだ。自分のことを知る人間は限られている。では、一体誰?星野?景司?祐介?星野はあり得ない。彼は給料のほとんどを医療費に充てているはずで、こんなことをする資金も力もない。ならば、景司か祐介か?祐介も違う。今は結婚し、喜多野家の資産
杏は無事に救出され、関係者はすべて桜井によって連れ戻された。その一方、とある地方の外れにあるマンションの一室。ソファに腰掛けた男は、電話を耳に当てたまま口元を歪め、冷笑を浮かべた。「見つかったなら、それでいい。どうせ大した奴じゃない」「それで、次はどうします?」男はしばし沈黙した後、低く言った。「まずは里香を探せ」「かしこまりました」通話が切れると、部屋には静寂が戻った。この空間には、すでに慣れ始めていた。小さなリビングのある広い寝室——まるでスイートルームのような作りだ。おそらく普通の部屋ではなく、別荘か高級マンションの一室なのだろう。ここに住めるのは、それなりの富裕層に違いない。自分を軟禁している相手も、相当な資産を持っているのだろうが、どれほどかまではわからない。もしかすると、財産のすべてをこの場所につぎ込んでいるだけかもしれない。だが、直感的にそれはあり得ないと思った。あの男の正体は、並の人間ではない。コンコン!そのとき、ドアをノックする音が響き、お手伝いの陽子が入ってきた。「小松さん、ご夕食ができました」返事もせず、手探りでそちらへ向かった。だが、近づいた途端、鼻をつく強烈な魚の匂いが広がった。途端に眉間が寄り、こみ上げる吐き気に耐えきれず、口元を押さえて必死に吐ける場所を探そうとした。しかし、視界がきかず方向がわからない。次の瞬間、胃の中のものが堪えきれず、床に嘔吐してしまった。「小松さん、大丈夫ですか!?」驚いた陽子が慌てて駆け寄り、背中をさすりながら水を手渡す。青ざめた顔色を見て、思わずゾッとした。もし彼女に何かあれば、自分も巻き込まれるかもしれない!「私……うっ」何か言おうとしたが、またしても魚の臭いが鼻をつき、再び嘔吐してしまう。ほとんど胃の中のものをすべて吐き尽くし、口の中には嫌な苦味だけが残った。陽子は慌てて食事を片付け、窓を開けて空気を入れ替えた。新鮮な風が流れ込み、ようやく息がしやすくなる。そのまま洗面所へ連れて行き、口をすすがせた後、寝室のベッドへ座らせた。しかし、部屋にはまだ嘔吐の匂いが漂い、顔色は依然として優れない。「どうして、急にこんな……」陽子は戸惑いながら呟いた。「……もう、いい……」里香は力なくそう言い、ふさぎ込んでし