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第659話

Author: 似水
雅之がここに滞在して、もう一週間が経った。

初日の夜にちょっとした騒動を起こして以来、目立った出来事といえば、わざと里香の浴室に入ったくらいで、それ以降は何事もなく過ぎている。

みんなそれぞれ、何事もなく穏やかに過ごしていた。

かおるも徹底して雅之を無視している。ただの「借り部屋の住人」として淡々と扱っているだけだ。

一方の雅之はというと、毎日運動をしたり本を読んだりしながら、まるで悠々自適な引退生活を送っているかのよう。

二宮グループがDKグループとの合併を進めて世間を賑わせている今でも、彼は全く焦った様子を見せない。まるでDKグループが自分の築き上げたものではないかのように、泰然としているのだ。

そんな彼をニュース越しに見ていた里香の心中は複雑だった。

大学卒業後ずっとDKグループで働いてきた里香にとって、その会社は特別な存在だったからだ。もしあんなことがなければ、きっと簡単に辞めたりしなかっただろう。

それなのに、どうして雅之はこんな状況でも平然としていられるのか?

その疑問をどうしても抑えきれず、里香は意を決して彼の部屋のドアをノックした。

「入れよ」低く響く声が中から返ってきた。

一瞬ためらったものの、里香はドアを押し開けて中に入った。最近は杖なしでも歩けるようになり、足取りもだいぶ軽やかになっている。

雅之は椅子に座ったまま読書をしていたが、里香の姿を見ると、わずかに眉を上げた。

「珍しい客だな」

雅之は本を閉じ、低い声でそう言いながら彼女を見た。その瞳はどこか冷静で、底が見えない。

里香は立ったまま尋ねた。「いったい何を考えているの?」

「何の話だ?」雅之は眉を少し動かして、淡々と答えた。

「DKグループが二宮グループに吸収されようとしているのよ。合併が成功したら、もうDKグループはなくなっちゃうの。それを黙って見ているつもり?」

雅之の唇には薄い笑みが浮かんだ。

「黙って見ているのが悪いのか?目を閉じてみるのも、案外悪くないぞ」

その言葉に、里香は唇を噛んだ。こんな話をしに来た自分が馬鹿らしくなってくる。里香はくるりと背を向け、部屋を出ようとした。

「里香」

背後から雅之の低い声が響き、彼女の足が止まった。

「何よ?」

「お前はDKグループを気にしているんだろう?」

その問いは彼女の心を抉るようだった
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    里香は少し首をかしげ、声を頼りにたずねた。「……みっくん?」驚いたようなみなみの声が返ってきた。「君の目、どうしたの?」「私を監禁してた人に、目に薬を打たれたの……今は、何も見えないの」その言葉を聞いたみなみは、そっと手を伸ばし、彼女の手首を握った。「じゃあ、俺が連れて行くよ。まずは病院で診てもらおう」少し迷いはあったけど、今は他に選択肢がなかった。ここに留まっているわけにはいかない。もし監禁してた相手が戻ってきたら……里香はみなみに従い、その場を離れる決心をした。けれど、どうして彼が自分を見つけられたのか、その疑問だけは拭えなかった。「ねぇ、みっくん。どうやって私のこと見つけたの?」みなみは、彼女を気遣いながら外へと連れ出しつつ、答えた。「近くの工事現場で働いてたんだ。そしたら、君がベランダに立ってるのを見かけて、すぐ駆けつけようとしたんだけど、警備員に追い出されてさ。それでしばらく様子をうかがってたら、君が閉じ込められてるっぽいのに気づいて……なんとかして奴らを引き離したんだよ」その説明に、どこか引っかかるものを感じた。でも今は何も見えない。信じるしかない。「ありがとう……」そう言うと、みなみはふっと笑ってこう言った。「前に君が俺を助けてくれたでしょ?少しでも恩返しできて、ほんとに嬉しいよ」「段差、気をつけてね」彼は耳元でそっと注意を促し、里香は慎重に階段を下りていった。車に乗り、エンジンがかかって走り出すと、ようやく心が少しだけ落ち着いた。やっとこの地獄みたいな場所から抜け出せた!自分を監禁していたのが誰なのか――いずれ分かったときには、絶対に許さない!みなみの車が走り去った直後、数台の車が敷地に入ってきた。景司の秘書が車を降り、その後に続いて降りてきた人物に気づいた。「雅之様」秘書は丁寧に頭を下げた。だが雅之はそれを無視し、そのまま早足で別荘の中へと入っていった。敷地の中を隈なく探しても、里香の姿はどこにもなかった。そこへ桜井が近づき、報告した。「別荘内には監視カメラが設置されていません。道路のカメラも破壊されています」誰かが明らかに仕組んだものだった。雅之の顔が険しくなる。そのまま景司の秘書の前へ歩み寄り、冷たい声で問いただした。「お

  • 離婚後、恋の始まり   第854話

    耳をつんざくようなブレーキ音が鳴り響いた。「バンッ!」祐介がハンドルを拳で叩いた。その先、ヘッドライトに照らされた別荘には、煌々と灯りがともっている。里香は、あそこにいる。けれど、あと一歩、届かなかった。もし今回の契約を諦めたら、喜多野家でこれまで積み重ねてきた努力が全部水の泡になる。祐介は両手でハンドルをギュッと握り締め、手の甲には浮き出た血管が交差している。顔はうっすらとした暗がりに隠れ、緊張からか顎のラインがきりっと引き締まっていた。別荘に鋭い視線を投げると、祐介は再びエンジンをかけ、ハンドルを切って空港に向けて猛スピードで走り出した。「早くドア開けてよ!本当に来ちゃったんだから!」陽子の焦った声が洗面所のドア越しに響く。二人のボディーガードも、全力でドアを押し始めた。だが、内側にはキャビネットが立てかけられ、里香も必死になって押し返していた。絶対に開けさせない。その一心で。でも、女ひとりの力で大の男二人に対抗するのは無理がある。顔は真っ青で、額にはじんわりと汗が滲んでいる。「だ、だめだ……あいつら、もう着いたみたい……もう私、関係ないから!逃げる!」すでに息も絶え絶えの中、陽子の慌てた声が響いた。彼女はボディーガードと里香を置き去りにして、別のドアから逃げていった。「ちっ、逃げんのかよ?あんた、旦那様に怒られても知らねぇぞ?」一人のボディーガードが舌打ちして低く呟いた。もう一人の声が響いた。「俺たちも逃げようぜ。どうせこの仕事、辞めちまってもいいし。もし来たのが雅之だったら……捕まったら、生きて帰れねぇぞ」「だな、逃げろ!」そう言って、ふたりともすぐにその場から立ち去った。彼らはただの雇われガードマンに過ぎず、祐介に特別な忠誠心があるわけでもない。外のやり取りを耳にして、張り詰めていた里香の身体から一気に力が抜けた。その場にへたり込み、大きく肩で息をしながら呟いた。助かった……数人相手に抵抗したせいで、全身がクタクタでもう動けない。しばらくすると、洗面所の外から誰かの声が聞こえてきた。「ここにはいないな、こっちにもいない!」「この部屋も空っぽだ。どこに行った?」聞き覚えのない声ばかり。里香はその声を聞いて、思わず眉をひそめた。雅之の人じゃない?

  • 離婚後、恋の始まり   第853話

    その言葉を聞いた瞬間、里香の顔色がサッと変わった。無理やり連れていくつもり?ダメ、絶対に行けない!誰かがもう助けに来てるはず。時間を稼がなきゃ!後ずさりしながら、里香は頭の中で寝室の家具の配置を必死に思い出していた。左手がテーブルに触れた瞬間、目がパッと光った。足音が近づいてくる気配を感じたその刹那、机の上にあった帆船のオブジェをつかみ、ためらいもなく相手に向かって投げつけた。帆船のオブジェは大きくてずっしり重く、持ち上げるのもやっとだったが、それでも何とか投げられた。二人のボディーガードは咄嗟に身を引き、帆船は床に落ちて鈍い音を立てた。もし直撃してたら、頭が割れて血まみれになってたかもしれない。盲目なのに、こんな反撃ができるなんて!陽子は焦りながら叫んだ。「早くしなさいよ、もうすぐ来ちゃうわよ!」その隙に、里香はさらに後ろへ下がりながら、手探りでトイレの方向を探る。たしか右側のはず……!進む途中、手に触れたものを片っ端から後ろに投げ飛ばし、ようやくドアノブに触れた瞬間、すぐさま中に飛び込み、内側から鍵をかけた。それを見た保鏢たちは舌打ちし、「合鍵を持ってこい!」と陽子に怒鳴った。「わ、わかった、ちょっと待って!」陽子は里香の思いがけない動きに驚きつつ、ボディーガードたちの怒声に我に返り、慌てて合鍵を取りに走った。外でのやり取りを耳にして、里香は向こうが合鍵を持っていることに気づいた。ドアを開けられるのは時間の問題。このままじっとしてはいられない。手探りで再び動き出し、キャビネットにぶつかると、それを全力で押してトイレのドアの前に移動させた。トイレは広いが、動かせそうなものはほとんどなく、頼れるのはこのキャビネットだけ。幸い、トイレのドアは内開き。そう簡単には開かないはず。今の彼女にできるのは、雅之の人間が一秒でも早く到着してくれるよう祈ることだけだった。一方その頃、桜井は一本の電話を受け、険しい表情で雅之に報告した。「社長、奥様が祐介に連れ去られました。現在、郊外の別荘に監禁されているようです」その言葉に、雅之は勢いよく立ち上がった。「人を連れて行くぞ!」「はい!」三手に分かれて、すぐに出発!車の中でも、雅之の表情は険しいままだった。まさか、本当に祐介だ

  • 離婚後、恋の始まり   第852話

    祐介は確認のためにスマホを取り出して画面を見たが、すぐに眉をひそめた。とはいえ、しぶしぶ通話に出た。「もしもし?」電話の向こうから蘭の声がした。「今どこにいるの?どうしてまだ帰ってこないの?」祐介は冷たく答える。「今夜は戻らない」「ダメよ!」蘭の声は一気に数段高くなった。「どうしても帰ってきてもらうから!祐介、最初に私に何て言ったか覚えてる?私たち、結婚してどれくらい経ったと思ってるの?全部忘れたの?」祐介の表情はすでに冷え切っていて、口調にも一切の温度がなかった。「今、忙しいんだ。無理を言うな」「私が無理を言ってるって言うの!?」蘭の声はさらにヒートアップした。「ただ帰ってきてって言ってるだけじゃない!それのどこが無理なの?祐介、まさか私に隠れて、何かやましいことしてるんじゃないでしょうね?だから家に帰れないの?今すぐ帰ってきて!今すぐ!」すでに蘭の声にはヒステリックな響きが混じっていた。以前の祐介は、少なくとも多少は彼女に対しての忍耐もあって、優しさを見せることもあった。けれど、両家の結婚が決まってからは、彼の態度は日を追うごとに冷たくなっていった。結婚後は、家に顔を出すことすら減り、次第に蘭も気づきはじめる。祐介が結婚したのは、愛していたからじゃない。彼の目的は、蘭の家が持つ権力だったのだと。その事実に気づいた瞬間、蘭の心は音を立てて崩れそうになった。自分はただの駒だったなんて。都合よく使われるだけの存在だったなんて……そんなの、受け入れられるわけがない。私は、モノじゃない。もし祐介にとって私は必要ない存在なら、いっそ離婚してしまったほうがマシ。こんな人、もういらない。しかし祐介は、蘭のヒステリックな声にも耳を貸さず、淡々と通話を切った。蘭は怒りに任せて、別荘の中のものを手当たり次第に壊し始めた。その拍子に胎動が激しくなり、そのまま救急で病院に運ばれることに。使用人からその報せを受けた祐介。車の中、蘭はお腹を押さえながら苦しげな表情を浮かべていたが、その目の奥には、どこか期待の光も宿っていた。私は祐介の子を身ごもってる。きっと、彼もこの子のことは大切に思ってるはず。祐介が病院に来てくれさえすれば、それだけでいい。冷たい態度だって、我慢できるから。でも

  • 離婚後、恋の始まり   第851話

    「はい」秘書はそう返事をし、そのまま背を向けて部屋を出ていった。ゆかりの部屋は景司の向かい側にある。秘書の足音が遠ざかるのを確認してから、ようやくドアを静かに閉め、スマホを取り出してとある番号に発信した。「里香がどこにいるか、わかったわ」その目には鋭い光が宿っていた。「でも、その代わりに、ちょっと協力してほしいの」相手はくすっと笑って、「どう協力すればいいの?」と問い返してきた。「今の私じゃ、雅之に近づくことすらできない。だから、手伝って。できれば既成事実を作ってほしいの。彼と関係を持てば、もう逃げられないわ!」相手はまた鼻で笑い、「いいよ、問題ない」とあっさり承諾した。ゆかりの目には、何がなんでも手に入れてやるという強い決意が宿っていた。そして、里香の現在の居場所を口にした。「兄さんはもう向かわせてるわ。急いだほうがいいわよ」そう言い残し、通話を切った。夜の帳が静かに降りる。真冬の冷気が骨の芯まで染み渡る中でも、街の喧騒は止むことがない。郊外の別荘。その一角だけが異様なほどの静けさに包まれていた。陽子は作り直した夕食を持って里香の部屋へと入ったが、里香はその料理に手をつけようとしなかった。もしも、この中に中絶薬なんかが混ざっていたら……?そんな考えが頭をよぎると、怖くてどうしても箸を持つ気になれない。顔には明らかな拒否の色が浮かんでいた。陽子はそんな彼女の様子を見て、できる限り誠意を込めた声で言った。「本当に、何も入っていません。どうか、信じてください」しかし、里香は首を横に振る。「信じられません」「でも、何も食べなかったら、お腹の赤ちゃんが持ちませんよ。産みたいって思ってるんでしょう?だったら、ちゃんと食べなきゃ」その言葉に、一瞬だけ迷いが生まれた。けれど、不安はどうしても拭えない。沈黙を破るように、陽子はさらに言葉を重ねた。「旦那様は、お腹の赤ちゃんには絶対に手を出さないって、ちゃんと約束されました。その方はそういう約束を破るような方じゃありません。安心して、大丈夫ですよ」それでも里香は箸を取ろうとはせず、瞬きをしながらぽつりと訊ねた。「じゃあ、教えてください。彼は、いったい誰なんですか?」相手の素性も名前も分からないままで、どうやって信じろとい

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