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第283話
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それを聞いて、藤堂沢は立ち尽くした。九条薫の体調は良好だったはずだ。なぜ早産になった？田中秘書は声を抑えて言った。「社長がご出張されてから2日も経たないうちに、時也さんの裁判が開かれ、彼は懲役6年の判決を受けました。その日の夜、奥様のお父様は心臓発作で......亡くなられました。奥様はそれを聞いて早産になったのです」彼女の短い言葉は、藤堂沢の耳には雷鳴のように響いた。九条時也の懲役6年、九条大輝の死、そして子どもの早産......これらの出来事が重なり、彼は九条薫がどれほどの苦しみを味わったか想像もできなかった。そして、彼と九条薫の未来を想像することさえ恐ろしかった。彼はしばらく呆然とした後、嗄れた声で尋ねた。「子どもは？」田中秘書の口調は少し落ち着いた。「お子様は元気で、明日には退院できます！社長、まずはどちらへ？」......駐車場。黒のロールスロイス・ファントムが、高級感を放っていた。運転手はバックミラーをちらりと見た。社長の膝の上に置かれた手が、かすかに震えているのを彼は見た。そして、拭っても拭いきれないような深い陰りをたたえた表情とその目に、かすかに浮かぶ涙の光も見逃さなかった。「まず病院へ！」後部座席から、藤堂沢の低い声が聞こえた。藤堂沢は前向きな人間だった。プライベートでも仕事でも、後悔することはほとんどなかった。しかし、この瞬間、彼は深く後悔していた。あの日、たとえ九条薫が電話を切っても、どうってことなかったのではないか？女性が嫉妬するのは当然のことではないか？それに、彼女はあんなに懇願していた。彼の心は確かに揺らいでいたのに、彼女のこれまでの冷淡さに腹を立て、あんなにひどい言葉を投げつけてしまった......何度体を売るつもりかと。離婚など気にしないと。お前じゃないとダメなのかと彼は言った。明らかに彼女が好きで、彼女を気にかけているのに、彼女を突き放し、父親を失い、出産の痛みを味わわせた。藤堂言を産む時、彼女はどれほど苦しかっただろう。その時、彼女はどれほど彼を恨んだだろうか！胸を締め付けるような痛みは、藤堂沢の心を締め付けた。30分後、高級黒塗りの車がゆっくりと藤堂総合病院に入り、産科棟の前に停まった。藤堂沢は車から降りると、急ぎ足で建物に向かった。
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病室には、しばらく重い沈黙が流れた。藤堂夫人は少し考えて言った。「子どもは私がしばらく預かりましょう。今の彼女の状況では、育児は難しいでしょう」ちょうどその時、病室のドアが開いた。伊藤さんが涙を浮かべて入ってくると、すぐに藤堂沢の前にひざまずいた。伊藤さんは泣きじゃくりながら言った。「申し訳ございません、社長！あの日、書斎の電話が鳴っているのを聞いて、奥様のお睡眠の邪魔になるといけないと思い、私が電話に出ました。でも、相手の方のおっしゃっていることが全くわからなくて、ちょうど私用もあったので電話を切ってしまいました。その後、奥様に伝えるのを忘れてしまって......あの電話に出たのは紛れもなく私です。奥様がわざと社長に伝えないようにしたわけではありません！奥様は何も悪くないんです。私が悪いんです！」伊藤さんは邸宅に長年仕えている使用人だった。普段から自分に優しくしてくれていた九条薫のことを思いと、彼女は取り乱したように両手で自分の頬を叩き始めた。「私のせいなんです。私がいなければ、社長は奥様を誤解することもなく、奥様もこんな辛い思いをすることはなかったのに！」と、泣きながら叫ぶように繰り返した。彼女は容赦なく手を振り下ろし。何度も何度も叩き続けた。顔は赤く腫れ上がった......藤堂沢は照明の下に立ち、顔色は青白く、血の気もなかった！彼は自分が九条薫を誤解していたという事実を、受け入れることができなかった。あの日、九条薫は必死に彼に縋り、彼の袖を掴んで行かせまいとしていたのに、彼は彼女を侮辱する言葉を浴びせ、突き放してしまった......彼が去った時、彼女はどれほど絶望しただろうか？藤堂沢は藤堂言を見下ろしながら、彼女が藤堂言を産んだ時、どれほど自分に失望しただろうかと考えた。伊藤さんはまだ自分を叩き続けていた。藤堂夫人は彼女を数回叱りつけた後、藤堂沢を責め始めた。「どんなことがあっても、白川さんと薫は比べ物にならないわ。沢、今回は本当にやりすぎたわ！」自分が九条薫にきつく当たったり、冷たくしたりするのは、叶わない想いに苛立っていたからだということを、藤堂沢は分かっていた。彼女が言った「あなたのことなんて大嫌い」という一言がずっと胸のどこかに残り、意地になっていたのだから。彼は一度も、白川篠が九条薫より
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九条薫は振り返り、静かに彼を見た。しばらくして、彼女は疲れた声で静かに言った。「結構よ。お兄さんは控訴を取り下げたわ......沢、あなたは子どもが生まれたら離婚するって言ったわよね。私には他に何も要求はない。ただ、言が欲しいだけ」夜風が激しく吹いていた。藤堂沢は夜の闇の中、彼女を見つめた。かつて彼女は彼を激しく愛していた。しかし今は、燃え尽きて灰になる寸前で、一丝の温もりも残っていなかった。かすれた声で、藤堂沢は「ごめん」と口にした。さらに彼は、どうしても諦めきれないこと、あの日彼女を責めたのは完全に自分の誤解だったこと、電話は伊藤さんが出たものだったことを、彼女に囁いた......九条薫は力なく笑った。「沢、今更そんなことを言っても仕方ないじゃない」一夜にして、彼女と兄は父親を失った。おばさんは夫を失った。あの夜、彼女はもう少しで命を落とし、藤堂言ももう少しで失うところだった......こんなことが、藤堂沢の一言の謝罪で済むわけがない。今、彼女は誰を責めればいいのか、誰を恨めばいいのかわからなかった。彼女はただ、彼に会いたくない、彼と話したくないと思っていた。彼女は行こうとしたが、藤堂沢は一歩前に出て、彼女を抱き上げ、車に乗せた。九条薫はが受け入れるわけがない。彼女は彼の体を叩き、嗄れた声で降ろしてと叫んだ。しかし、藤堂沢はずっと彼女を強く抱きしめていた。彼女の体に顔を埋め、何度も何度も「すまない」と謝り、もう一度チャンスをくれと懇願した。九条薫は彼の肩甲骨に噛みついた。彼女は力一杯噛みつき、彼が「すまない」と言うたびに、さらに深く噛みしめた。何の意味があるの！今更謝罪したところで、何になる！真っ赤な血が彼女の口から流れ出し、彼の黒いシャツをさらに濃く染めた......しかし、藤堂沢は気にしなかった。彼はまだ彼女を抱きしめ、コートをはだけさせ、背骨に沿って彼女の体を撫でた。彼女の体は骨と皮ばかりで、出産したばかりの女性には見えなかった。少なくとも5キロは痩せていただろう。藤堂沢は「すまない」と呟きながら、彼女を家に連れて帰ろうとしたが、九条薫は激しく抵抗した。最後に、彼は彼女の顔を両手で包み込み、深くキスをした。血の味のするキスは、もちろん美しくはない。悲しみと深い憎
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藤堂沢は頷いて、看護師を退出させた。静かな寝室には、ベビーベッドが置かれていた。藤堂言はベビーベッドで眠っていた。小さな赤ちゃんが眠る時に吐く息は、甘く、この上なく愛らしかった。生まれてから、九条薫は外で忙しくしており、ほとんど藤堂言に会うことができていなかった。眠っているこの小さな命を見た瞬間、彼女の胸には、出産時の苦しみとともに、自分が8ヶ月ものあいだこの命を宿し、育ててきたのだという確かな実感が、静かに、そしてしっかりと満ちていった。九条薫は全身の力を込めて感情を抑え、子どもを起こさないように、温かい頬にそっと触れた。会いたくないはずがない！これは彼女の子、彼女が命がけで産んだ子だった。藤堂沢も心を動かされ、思わず後ろから彼女を抱きしめた。彼は抑えた低い声で言った。「薫、君と子どもの面倒を俺に見させてくれ......俺たちのことは後で話そう、いいか？」九条薫が何も言わないうちに。ベビーベッドにいた藤堂言が泣き出した。小さな女の子は早産で、か細い声で泣いていた......藤堂沢は九条薫の肩に優しく手を置いた。「お腹が空いているんだ。ミルクをあげよう」この数日、藤堂言はずっと粉ミルクを飲んでいた。藤堂沢は九条薫に母乳が出ないことを知っていたが、彼女と子どもにより深い絆を作って欲しかった。だから、藤堂言に母乳をあげさせようとした......彼女が藤堂言をもっと抱っこすれば、彼女の心も和らぎ、彼のそばにいてくれるかもしれないと思ったのだ。彼は藤堂言を抱き上げ、優しく九条薫の腕に渡した。彼女が嫌がるかもしれないと思い、彼はリビングルームへ行って距離を置いた。リビングルームに座りながら、彼は思った。彼女は自分の妻なのに、今は見ることさえ憚られる......そして、彼と九条薫は袋小路に入ってしまったようで、二人を繋いでいるのは子どもだけなのだと思った。以前、彼は彼女に「お前は俺に縋ることしかできない」と罵った。今、彼はただ、彼女に縋って欲しいと思っていた。彼女が彼に縋れば、彼は何でも彼女に与え、何でも彼女の前に差し出そう......しかし、九条薫は彼を見ようともせず、話そうともせず、彼女の目には諦めが満ちていた。これで終わりなのだろうか？彼はわからなかった。このようにして、彼女をどれくらい繋ぎ止
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九条薫の目には、深い悲しみと、諦めしか見えなかった。彼女は生死の境を彷徨い、愛する家族を失ったのだ。恨まないはずがない！どうしてこの男と、同じベッドで眠ることができるだろうか。もし再び彼と一緒にいれば、もしこの富と栄華に執着すれば、亡くなった父に、獄中の兄に、あの夜、死にかけた自分に、合わせる顔がない。シャンデリアの下、藤堂沢は静かに彼女を見つめた。しばらくして、彼は静かに言った。「俺たちのことは後で話そう......先に子どもにミルクをあげよう」粉ミルクを作る彼の姿は、とても手慣れていて、少しもぎこちなさを感じさせなかった。実は藤堂沢はこの子の誕生を心待ちにしていた。藤堂グループ内には育児研修があり、社長として彼も受講したことがあった。当時は、彼と九条薫の関係が最悪だった頃だった。それでも彼は、子どもの誕生を待ち望んでいた！藤堂沢はミルクを溶かして軽く振り、藤堂言を抱き上げた。藤堂言は匂いをかぎつけると、すぐに吸い始めた。ごくごくとのどを鳴らして......九条薫は薄い服を着て、照明の下に立っていた。彼女は藤堂沢を見た。藤堂言を抱く彼を見た。この光景はかつて彼女の少女時代の夢だったが、今はただ悲しみしか感じなかった......藤堂言はミルクを飲み終わると、おむつを濡らした。彼女はベビーベッドに横たわり、父に花柄のパンツを替えてもらった。新しいパンツに履き替えると、小さな足を伸ばして......眠りについた。彼女の小さな顔は穏やかで、頬はぷっくりとしていた。藤堂沢は思わずキスをした。この時、彼の心は父親としての愛情でいっぱいだった......星でも月でも、藤堂言のために何でも取ってきてあげたいと思った。ドアをノックする音がした。使用人が静かに言った。「社長、乳母の方がいらっしゃいました。今、お入りいただけますか？」藤堂沢はドアを開けに行った。乳母は藤堂総合病院のスタッフで、40代前半のベテランだった。藤堂沢を見ると、少し緊張した様子で言った。「社長、奥様はどちらに？」藤堂沢は一歩下がった。「寝室にいる。後で優しくしてやってくれ。薫は痛みに弱いんだ」乳母は頷いた。「承知いたしました、社長」子どもを起こさないように、彼女はとても静かに歩いた。藤堂沢はついて行かなかった。彼は寝室の
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九条薫は何も答えなかった。鎮静剤が効き始め、彼女はゆっくりと、しかし悔しそうに目を閉じた......眠っている彼女の姿は、痩せこけてやつれ、かつての輝きを失っていた。藤堂沢は優しく彼女の顔を撫でた。大粒の涙が、彼女の目尻からこぼれ落ちた......眠っているにもかかわらず、彼女は潜在意識の中で彼の触れ方に抵抗していた。藤堂沢の胸は締め付けられた。しばらく彼女を見つめた後、彼はゆっくりと立ち上がり、部屋を出て行った。一階のホールは。新しい命の誕生で一晩中明るく照らされていた。使用人たちは洗濯や掃除、薬湯の用意など、それぞれの仕事をしていた......藤堂沢はゆっくりと階段を下りてきた。彼は床に目を落とし、新しいカーペットを見ながら、鼻腔にまだ血の匂いが残っているのを感じた......藤堂沢の手が突然震え始めた。彼はポケットからタバコを取り出したが、火をつけなかった。静まり返った夜、彼はソファに座った......床まで届く大きな窓から夜風が吹き込み、彼の黒い髪を揺らし、端正な顔がさらに陰鬱に見えた......彼はただそこに座り、まるで誰かを待っているかのようだった。午前1時。庭に車の音が響き、使用人がこっそり見てみると、驚いて固まった。5台の黒い車が邸宅に入ってきて、ドアが開くと20人以上の黒服の警備員が降りてきた。皆、業界のエリートらしく、表情一つ変えず、まるでロボットみたいで、生きてる気がしなかった。ハイヒールの音が響いた。田中秘書が夜遅くに駆けつけてきた。彼女は結婚したばかりなのに、上司の私生活のために奔走していた。心の中では不満だったが、藤堂沢は彼女に大金を払っていた！田中秘書が入ってくると、藤堂沢は立ち上がり、低い声で言った。「家の隅々まで警備させろ。誰一人と出入りさせるな」田中秘書は胸騒ぎを覚え、思わず口を挟んだ。「社長、そんなことをしたら、奥様はますます社長を恨みますよ！」恨み......藤堂沢は九条薫の視線を思い出し、自嘲気味に苦い顔で言った。「もう十分恨まれている......ああ、そうだ。病院で最高の栄養士を探して、家に住まわせろ。薫の体をしっかりケアする必要がある」そう言って彼は少し間を置き、低い声で言った。「まだ出血が続いている」田中秘書は頷いた。彼が出
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藤堂沢は静かに座っていた。彼の表情は、暗い独房よりもさらに陰鬱だった。しばらくして、彼は静かに言った。「いい」九条時也の性格は、彼がよく知っている。控訴を拒否した以上、彼はもう心を変えることはないだろう......彼が自由を望んでいないわけではない。自分に借りを作りたくないのだ。九条薫にこれ以上、彼の施しを受けさせたくないのだ。今日になって、藤堂沢はようやく理解した。償おうにも、もはや償えないのだ。九条家の人々は、彼との関係を完全に断ち切っていた。真夜中に飛んできて、そのまま徹夜でB市へ戻り、邸宅に着いたのは朝の7時だった......黒いロールスロイスが、黒の彫刻が施された門の前でゆっくりと止まった。運転手が静かに言った。「社長、佐藤様です」一晩中奔走して目を閉じて休んでいた藤堂沢は、それを聞いてすぐにドアを開けて降り、声をかけた。「おばさん」朝の冷気に、白い露が霜になっていた。佐藤清は不幸に見舞われ、ほとんど一夜にして白髪になった。それでも、藤堂沢を見た時、彼女は冷静さを保ち、かすれた声で言った。「薫を迎えに来たわ」藤堂沢は彼女を見つめた。しばらくして、彼は目を伏せた。「ここは彼女の家だ。俺が彼女を大切にするから。おばさん、これから何かあったら、遠慮なく俺に言ってください」佐藤清は力なく笑った。「藤堂さんに、そんなこと頼めないわ」この言葉は非常に他人行儀で、二人の間の距離を感じさせた。藤堂沢は、どう対応していいのかわからなかった。確かに、あの日、彼は九条薫の懇願を無視して彼女を置いて行った。九条家は一瞬にして崩壊し、佐藤清が彼を恨まないはずがない。二人はしばらく沈黙した。とうとう佐藤清は声を詰まらせながら言った。「藤堂さん、今、薫に償おうとしてるけど、あなたはまだ若くて先が長いわ......いつまでその気持ちを持ち続けられるというの？頼むから、彼女が好きじゃないのなら、彼女を私に返してちょうだい。私がちゃんと面倒を見るから。まだ、生きる道はあるの。せめて、あの子のご両親に顔向けできるようにしたいの......」藤堂沢も心を揺さぶられた。彼は顔を上げ、こみ上げる感情を抑え、静かに言った。「おばさん、安心してください。俺が彼女を大切にするから」佐藤清は声を荒げて言った。「あなたの言う大切に
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大晦日の夜、白川一家は邸宅に招かれた。何の用だろうと、一家は不安に駆られていた。白川篠の母だけは自信満々で、「きっと、社長が篠の優しさを思い出して、お礼をくれるのよ。お年玉ね！遠慮なく受け取りなさい」と言った。その落ち着いた口ぶりからは、娘を亡くしてまだ半年しか経っていないとは想像もつかない。白川篠の父は彼女を罵った。「まったく、金に目が眩んで、正気を失っている！」反論しようとしたその時、田中秘書が階段を降りてきた。白川篠の母は慌てて笑顔を作り、「田中秘書、こんな大事な日に私たちのことを気にかけてくださって、社長には本当に申し訳ないわ」と言った。田中秘書の態度は、以前とはまるで違っていた。彼女は冷淡な口調で、「社長が書斎でお待ちです」と言った。白川家の人々は内心ギクッとした。白川篠の母でさえ、自信をなくしたようだった。階段を上がるとき、彼女は白川雪を軽くつつき、小声で言いつけた。「いい？あとでちゃんと気を利かせなさいよ。叔母さんがいつもあなたによくしてくれたこと、思い出してみて」白川雪の顔は青ざめていた。自分が渡したフィルムのことが原因だと、薄々感づいていた。自分が問題を起こしたことは分かっていたが、今は言えなかった......あっという間に、白川一家は田中秘書の後について2階へ上がった。書斎の中は、煙草の煙で息苦しかった。白川篠の母は手で煙を払いながら、甲高い声で言った。「田中秘書、社長の世話はどうなっているの？こんな場所で人が過ごせると思ってるの？」田中秘書は冷笑した。ソファに座る藤堂沢は、きちんとスーツを着ており、夕方に締めたネクタイさえ外していなかった。俯き加減に煙草を見つめながら、低い声で言った。「なぜ、篠に薫のなりすましをさせた？」白川篠の両親は、言葉を失った。白川雪も驚きを隠せない。なりすまし？書斎の中がしばらく静まり返った後、白川篠の母は鋭い声で言葉を発した。「社長、もう少し人間としての良心をもちなさいよ。篠はもうこの世にいないからって、そんなひどいことを......私たちは.......そんなの絶対に認めません」「ひどいことだと？」藤堂沢はフィルムを彼女の目の前に投げつけた。「これが篠の演奏したタイスの瞑想曲だ。君たちが盗んだものとは、比べ物にならない」白川篠の母は
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彼は黒木瞳に過度な期待を持たせたり、誤解させたりするつもりはなかった。九条薫との婚姻関係にきちんと終止符を打ってからでないと、他の女性を受け入れることはできない、そう思っていた。愛していなくても、ただ藤堂言の面倒を見てくれる、ふさわしい女性を見つけるためだけでも。邸宅へ戻る車の中で、藤堂沢は後部座席に座り、藤堂言を抱きながら考え事をしていた。邸宅の門に着いた時、運転手が急にブレーキを踏んだため、藤堂言は「わぁ」と泣き出した。藤堂沢は娘をあやしながら、「どうした？」と尋ねた。運転手は前方の女性に気づき、藤堂沢の方を向いて言った。「白川さんです！こんな日に、まるで命知らずですね！社長、私が行ってきます」藤堂沢は少し考えてから、使用人に藤堂言を預け、「俺が話してくる」と言った。車の前で、白川雪は藤堂沢の姿を見て、希望に満ちた表情になった。今夜、黒木瞳が藤堂家に行ったことを知っていた彼女は、きっと藤堂夫人が次期妻に選んだのだろうと思い、焦っていた。いても立ってもいられず、従姉の白川篠を利用して、藤堂沢の記憶を呼び覚まそうと、ここまで来たのだ。3時間も雪の中に立っていた彼女は、全身冷え切っていた。高貴な雰囲気をまとった藤堂沢は、まるで別世界の住人のようだった。彼の態度は冷淡で、以前の優しさなどなかったかのように、二度と来るなと言い放った。白川雪はフィルムを取り出した。少女の体温が残るフィルムを、彼女は慎重に藤堂沢に手渡した。「これは姉さんが持っていたものです。タイスの瞑想曲だと思います」彼女のご機嫌取りは、藤堂沢にはお見通しだった。フィルムを受け取りながら、淡々と言った。「田中秘書から小切手を渡させる」他はそれ以上何も言わず、車に乗り込んだ。背後から、白川雪の焦った声が聞こえてきた。「社長、黒木さんと結婚するのですか？」藤堂沢は答えず、そのまま車に乗り込んだ。黒い車が、黒い彫刻が施された門の中へとゆっくりと入って行き、白川雪は一人雪の中に取り残された......彼女の涙は、雪の上にぽつりぽつりと落ちていった。邸宅に戻った藤堂沢は、すぐにその曲をかけなかった。子供を寝かしつけ、藤堂言が眠ってからしばらくして......彼ははっと目を覚ました。いつの間にか、眠ってしまったのだ。あの日、書斎で言い争
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九条薫がいなくなってから、藤堂沢は不眠に悩まされるようになった。いつも彼女が夢に出てくる。楽しかった頃のことばかり。辛い記憶より、幸せだった頃の思い出に浸っていた方が、心が楽だった。彼は彼女に会いに行かなかった。医師からは、奥様は治療に協力的で、毎日別荘で読書や書き物をし、情緒も安定していて、回復も順調だと報告を受けていた......体調が回復しているなら、それでいい。藤堂沢はそう思った。......藤堂言はしょっちゅう激しく泣きじゃくっていた。きっと九条薫の姿が見えず、母親が恋しいのだろう。藤堂沢は夜間は自分で面倒を見て、日中は会社に連れて行った。田中友里が子供の世話を手伝った。藤堂言を抱きながら優しくあやし、ミルクを飲ませながら、小さな声で言った。「子供には母親が必要なのよ！こんなに泣いていたら、体が弱ってしまうわ」声を詰まらせ、続けて言った。「沢、九条さんを戻して、子供を一緒に育てさせてあげて」田中秘書は彼と同じ学校の同窓生で、普段ならほとんど名前で呼ぶことはないのだが、この時に限って、一個人として彼にお願いしていた。藤堂言が辛い目に遭うのも、九条薫が世間から隔離されて苦しむのも見ていられなくて......それに、どこにも子供を思わない母親なんていないだろうから、きっと彼女も子供のことを思っているはずだ。藤堂沢の心は揺らがなかった。彼は穏やかな口調で言った。「彼女は療養中で、子育てに適さない。病気が治ったら、子供を預けるつもりだ」田中秘書は、彼の冷酷さに言葉を失った。彼女は俯きながら冷たく言った。「そんなの全部言い訳よ！本当は、彼女に苛立っているだけでしょう？彼女に冷たくされたことや、言いなりになってくれなかったこと、他に言い寄ってくる女が大勢いるのに......彼女だけはあなたを眼中にないことにムカついているだけでしょう！沢、あなたはただ、愛が報われないことに苦しんでいるだけよ！」「田中！言葉に気をつけろ」田中友里は藤堂言をあやし続けながら、ますます冷ややかな声で言った。「自分の立場は分かっています。藤堂社長の考えを変えることなんて、私にはできません」皮肉たっぷりの言い方に、藤堂沢は何も言い返せなかった。今、藤堂言にとって一番近い存在は、田中友里だった。......昼頃、藤堂
離婚は無効だ！もう一度、君を手に入れたい 第313話
そう、長年連れ添った夫婦だった。彼の冷酷さは、彼女が何度も味わってきたものだった。なぜ彼女は同意したのだろうか？藤堂言のためだ！今の彼女の状態では、子育てはできない。藤堂言も成長している、きっと怖がるだろう......自分がこんな状態では、娘にまで恐怖の中で生きてほしくない。幼い頃に暗い影を落としたくない。子を思う親は、将来の事を深く考えるものだ。九条薫は分かっていた。あのような場所へ行くことは賭けであり、藤堂夫人が黙っているとも限らない。それでも、子供のために彼女は賭けに出る覚悟だった......彼女は小さく「いいわ」と言った。その声は、わずかに震えていた。彼女は彼を見なかった。冷酷な彼の顔を見たくない。こんな男との間に子供を授かったことを考えたくない。ましてや、かつて自分の青春を捧げて彼を愛していたことなど、思い出したくもなかった。藤堂沢は喉を震わせ、かすれた声で言った。「夕食を一緒に食べてから行こうか。心配しないで、俺がいる」九条薫は伏し目がちに、かすかに笑った。静かに言った。「そんなことしなくていいわ、沢。どうせ私を追い出すんでしょう？偽善みたいに最後の晩餐なんて......行くなら、今......すぐ行くわ」そう言うと、彼女は服を着替え始めた。病衣を脱ぎ、普段着に着替えて、ダウンコートを羽織る......行く前、彼女は藤堂沢を見て、痛々しい笑みを浮かべた。「約束を守ってね、戻ってきたら、言を私にください」九条薫は彼にすっかり失望し、何も言うことができなかった。踵を返して出て行った。藤堂沢は数歩近づき、彼女の細い手首を掴んだ。漆黒の瞳で見つめながら言った。「薫、考え直してくれ。もし気が変わったら、今ならまだ藤堂家の奥様として戻れる」強く握りすぎて、彼女は痛みを感じた......九条薫は彼の目を見つめながら、小さくつぶやいた。「沢、私の人生で一番後悔したのは、あなたを好きになったことよ」藤堂沢は言葉を失った。彼女は静かに手を離し、ドアを開けて出て行った......ドアの向こうには、田中秘書が立っていた。田中秘書は藤堂沢の側近であり、彼の決定もある程度知っていた。絶望に暮れた九条薫の姿を見て、田中秘書は驚き、思わず声をかけた。「九条さん......」九条薫は足を止めた
離婚は無効だ！もう一度、君を手に入れたい 第312話
その夜、藤堂沢は一睡もできなかった。寝室の血はとっくに拭き取られていたが、微かに残る鉄錆の匂いが、数時間前に起こった出来事を突きつけてくる。彼と九条薫は、ついに終わりを迎えたのだ。藤堂言は夜通し泣き続け、ようやく夜半過ぎに藤堂沢があやし終え、使用人に預けた。真夜中の静寂。書斎に入った藤堂沢は、ソファに座って煙草に火をつけた。薄青色の煙がたちまち彼を包み込み、霞んで現実味がないように見えた。静かに座り、九条薫との日々を静かに思い返していた。この書斎は、九条薫にとって多くの苦い記憶が刻まれた場所だった。ここで彼は彼女を侮辱し、あのフィルムのせいで平手打ちを食らわせたこともあった。あの時の九条薫の目は、すっかり希望を失っていた。二人の関係が終わったのは、あの平手打ちからだったのかもしれない。彼は彼女を取り戻したかった。しかし母が言うように、彼には多くの責任があり、常に彼女の傍にいることはできない。藤堂言にも、精神的に安定した母親が必要だ......だが、それはただの言い訳で、九条薫が秘密裏の治療を受けて、無事に帰ってこられるとは限らないことを、藤堂沢は分かっていた。実は、九条薫は彼に見捨てられたのだ。藤堂沢のまぶたがピクピクと痙攣し始めた。彼はタバコを挟んだ細長い指を震わせながら、離婚協議書の作成に取り掛かった。それは驚くほど優遇された条件だった。彼は藤堂言の権利を守ることにした。彼は自分名義の不動産とほとんどの現金、さらには祖母の形見の宝石や、彼女が愛用していたアクセサリーも全て九条薫に渡した。以前よりはるかに、気前が良かった。多くのことを約束したが、九条薫が無事に戻ってこられるかは約束できなかった。無事に戻ってこられない......藤堂沢は目の前の分厚い書類の山を見つめ。突然、手を振り払うと、書類は雪のように床一面に散らばった。まるで、彼と九条薫の愛情、そして二人の結婚生活のように......二度と元には戻らない。シャンデリアの光が眩しく。藤堂沢は目尻を手で覆った。きっと、煙草の煙で目がしみたのだろう。......翌日午後、藤堂総合病院。外は雪解けの厳しい冷え込みが続くなか、病室の中は春のようにポカポカだった。九条薫は黒い髪を肩におろし、病床の端に寄りかかって座っていた
離婚は無効だ！もう一度、君を手に入れたい 第311話
藤堂言のことで、二人は意見が食い違った。藤堂沢は首を縦に振らなかった。九条薫を見つめる藤堂沢の視線は深かった。だが、そこにはかつての愛情の欠片すら見当たらなかった。償いを申し出た日から、まだたった4ヶ月しか経っていないというのに......藤堂沢が去ると。九条薫は弱々しい体を支えながら洗面所へ入り、洗面台に手をついて鏡に映る自分の姿を見つめた......あまりにも弱々しく、やつれた姿だった。藤堂沢は彼女を自由にしてくれない。今回を乗り越えたとしても、この先どれほど耐えられるか、彼女には分からなかった。藤堂言と一緒にいられるのは、あとどれくらいなのだろうか............数日後、九条薫は退院して帰宅したが、再び自殺を図った。今度は自分の血で......浴室は真っ赤な血で染まり、熱いシャワーに流されていく......湯船に横たわる九条薫の、既に傷だらけの手首には、さらに幾つもの深い切り傷が刻まれていた。病院に運ばれ、藤堂沢は800ccの輸血を行った。救急室の前で、藤堂沢の顔色は真っ青だった。知らせを聞いた藤堂夫人は、夜通し駆けつけた。青白い藤堂沢の顔を見て、藤堂夫人は静かに言った。「あなたは今、彼女と子供の世話をして、こういう突発的な事態にも対応しなければならない。沢、いつまで耐えられるの？それに......彼女を側に置き続ければ、いずれ藤堂グループにスキャンダルが持ち上がるわ。迷わずに、離婚こそが藤堂家の名声を保つ最善の選択よ」「最善の選択？」藤堂沢はその言葉を噛み締め、自嘲気味に笑った。藤堂夫人は苛立ち、「あなたのためにも、藤堂家のためにも言っているのよ！」と声を荒げた。藤堂沢は何も言わなかった......明かりの下で、藤堂沢は母の姿を見つめた。こんな状況でも、彼女は毅然とした気品を保っていた。しばらくして、藤堂沢は無表情に言った。「今までずっと、母さんは冷酷で残酷だと思っていた。でも今になって分かった。俺は母さんと、何も変わらない」藤堂夫人は明らかに動揺した。藤堂沢は廊下の奥へと歩き出すと、夜風に吹かれながら、かすれた声で言った。「子供の頃......俺は、大切な玩具一つさえ守れなかった......」しばらくして、藤堂夫人は我に返った。「沢！」藤堂夫人は鋭く叫んだ。
