そんなことをつらつら考えていると、到着したのは王太子殿下の私室だった。
私室といっても寝室とか本当に私的なお部屋ではなく、機密性の強い内容を話し合ったりする特別なお部屋の一つだ。部屋の中へ入ると、そこには既に先客がいた。
国王陛下と、ティボー公爵様、普段は王太子殿下の護衛についているわたしの次兄も部屋の隅にいて、油断なく気配を探っている。 その視線がちらりとわたしを見て、一度逸れて……勢いよく戻された。それはお手本のような二度見だった。 まぁ、わたし血まみれだしね。しょうがない。本来であればこのような姿で陛下の前に出るのはどうかと思うが、緊急時だからご堪忍いただこう。「おぉ! レリアーヌ! 無事だったとは聞いているが、本当に怪我はないのか?」
開口一番、陛下がわたしに声を掛ける。
その様にアラン様がぎょっとしている気配がした。「……我が国の太陽にご挨拶申し上げます」
そう言って淑女の礼をとる。摘まんだスカートは血まみれだけどねっ!
「よいよい。私と其方の仲ではないか。この場では堅苦しい態度は不要だ」
「いや、どんな仲ですか!」
アラン様が思わずといった感じで叫ぶ。でも確かに……どんな仲なのかわたしも伺っていいですか? 陛下。
だけど今はそれどころじゃない。報告が先だ。「国王陛下にご報告申し上げます。此度の案件……『厄介な隣人』が関わっておりました」
礼をとったままそう告げると、しぃんと部屋の中が静まり返った。
はっ…と誰かが息を吐く音と、ごくりと誰かが嚥下する音が、静まり返った部屋に響く。「……それは……誠か?」
「……はい。バタンテールの名にかけて。
関わった者達のご遺体を検めていただければ……それは確かかと」「『厄介な隣人』?
「さて、今回の件、レリアーヌから『厄介な隣人』が黒幕であるとの事だが……」「はい。間違いございません。姿は確認できませんでしたが、あの特徴的な笑い声が聞こえてきましたので。 それに例え姿を見ていたとしても、『厄介な隣人』にとって姿は何の確証を与えるものではありません。 更には隣国の王女殿下の変容、あれは『厄介な隣人』が手を貸した結果だと思われます。 ……さすがに、普通の人間ではあのような変容を与える事など出来ますまい。 そして王女殿下に付き従っていた人間の有様から鑑みるに、あの状態は『厄介な隣人』が手を貸した代償として生気を奪っていった結果だと思われます」 そう、随分と昔からその存在が語り継がれている『厄介な隣人』は、不思議な力を持つと言われている人外だ。 享楽主義で人々を混乱の渦に巻き込む為だけに、理不尽にその不思議な力をふるうという、文字通り『厄介な隣人』なのだ。 その姿は、現れた時々によって全然異なっていて、本人かどうかは見た目で判断するのは難しい。 ただ、その特徴的な笑い方と、銀の瞳の色だけが『厄介な隣人』を見分けると、我が一族には伝わっている。 そもそも我が一族がこの国の配下にくだった理由も、『厄介な隣人』の存在が大きいと言われている。 それだけ『厄介』な存在なのだ。 そんな愉快犯のような存在が、何故今回隣国の王女サマを唆してアン様を狙ってきたのか……?「そうか……」 沈痛な面持ちで陛下が深く椅子に背を預ける。「……ここ何年かは静かなものだったのですがね」 ぽつりとティボー公爵様も呟く。 「……隣国の王女の変容は……それほど酷いものなのか?」 陛下に問われるも、一瞬だけ答えを躊躇する。 耳元まで裂けた口、野生動物の鉤爪のように変容した手、わたしがかどわかされた直後に王女サマが誇ってい
「レリアーヌ、其方にも苦労を掛けたな。まさかこんな形で其方の力を借りることになるとは……」「……発言を」 わたしの言葉に、こくりと陛下が頷かれる。「皆様は、わたくしをアン・ティボー公爵令嬢様の護衛に付けた段階で、『厄介な隣人』の介入を想定されていたのですか?」 わたしの言葉に、複雑そうな顔をする陛下と公爵様。 何となく何かを察しているらしいアラン様は、不機嫌な様子を隠さずに、むすりとした表情を浮かべている。「……いや、なんといえばいいのか……。『厄災』とティボー公爵令息の間には、今回の件以外にもちょっとあってな。 それもあって、レリアーヌにアンの護衛を頼んだのだ。 ついでに、レリアーヌとアランの相性を見て、いずれは二人を婚約者にと……。 女学院の中で互いの為人を知っていけばと思っていてな」 十八になれば、アンはアランに戻るしな、と陛下。 て、突然話が飛躍したな? アラン様の女装は成人までってこと? そりゃまぁ、アラン様はティボー公爵家の嫡男だし、いずれは女装をやめなきゃならない日が来るんだろうけど……。 それよりも……。 「わたくしが……公爵令息様の婚約者……ですか?」 いや、無理だろう。田舎令嬢には荷が重い。「……嫌なのか?」 何やらじっとりとした視線が隣から向けられた。「嫌というか……難しいのでは? 「何故だっ?!」 いや何故って……」 粗忽な田舎者ですし? 地味で目立たないですし? むしろ女装したアラン(アン)様の方がよっぽどお綺麗ですし?「本当は、俺の妃にしようと思ってたんだけどなぁ」「「はぁっ?!
で、結局どうなったかというと。 隣国の王女サマのご遺体と、その仲間達のご遺体……と呼べるかどうかの物を持って、我らが王太子殿下が隣国へと乗り込んだらしい。 最初は溺愛していた|王女《むすめ》を無残に殺された国王が大激怒して、わたしの身柄は隣国へと引渡され、我が一族も全員死罪、隣国との開戦待ったなしだったらしいが……。 王女サマのご遺体からも見て取れる変容が、仲間達の人の手ではとても行えない無残な遺体の様子が、全て『厄災』の手をとったからだと明らかになった瞬間、風向きは変わった。 ……それだけどの国でも『厄災』は禁忌とされていて、その嫌悪感は根強い。 だからこそ、『厄災』の手をとるような愚かな王女を育てたと隣国の王は、自分の息子でもある隣国の王太子に糾弾され、あっという間にその座を追われ、王女の生母でもある側妃、というか向こうの国でも側室制度はないそうだから、非公認の愛妾共々、離宮へと追放されたらしい。 そして、空座になった玉座を継いだ隣国の王太子は、むしろ我が国に謝辞の意を表明し、わたしは『厄災』の手下と化した|異母妹《おうじょ》を退けた勇気ある者として讃えてくれたそうな。……て、そこまで言わせるって、あの王女サマはお異母兄様に嫌われ過ぎじゃないか? いったい何をしでかしてたのだろう? まぁ、深くは知りたくないけど。 それを満面の笑みで教えてくれた我が国の王太子殿下は、その時ついでに~と、とんでもない事を教えてくれた。 曰く、今までは内定という形で公にされていなかっただけの、ティポー公爵令息ロベール・アラン・ティボー・ル・ロワと、バタンテール辺境伯令嬢レリアーヌ・バタンテールの婚約を広く公にすると。 なんでも、隣国に留学しているティボー公爵令息様は、ティポー公爵令嬢であるアン様がそのお命を狙われていると知って、心配のあまり一時帰国されていたそうで。 で、その際にたまたま、たまたま? アン様と仲が良い、婚約者候補でもあったバタンテール辺境伯令嬢が、妹御の代わりに攫われた事を知ったそうな。
すぅっと息を吸い込んで、キンと冷たい朝の空気を取り込む。 身体の隅々までいきわたるように深く深く。 そして吐き出す。 細く長く。 肺の奥の空気まで。 全てを。 それを何度か繰り返してから瞑っていた目を開ける。 澄んだ視界に映る木々は、今日も緑濃く鮮やかだ。 今日の朝練にと持っていた模擬剣を正眼に構える。 女学院内では持ち歩けず、取り回しも難しいので滅多に出番がないが、ないからこそ鍛錬は怠れない。 森の中から姿を現した幻の標的を相手取り、剣を振るう。 右へ躱して、剣を薙ぐ。 体勢を落として足を狙う。 倒れ伏した敵に剣を突き立てれば、幻は消え去っていった。 模擬剣を一振りして、鞘に戻す。 辺りはしぃんと静まり返っていた。 不自然なほどに。 周囲に目を向けてもなんの気配もない。 いつもいる鳥の気配も。何一つ感じない。 ぐっと地面を踏みしめて、僅かに腰を落とす。 何が現れてもすぐ対処できるように。 それが……わたしたちバタンテール辺境伯家の在り方だから。 ざわりとうなじの毛が逆立った瞬間、大きな黒い鳥が直ぐ近くの木に降り立った。 油断なく大鳥に、周囲に注意を払う。 まるで時が止まったかのような錯覚を覚えるほどに、黒い鳥に視線を向けたまま膠着する。 黒い鳥もまた、置物のように動かない。 しばしの後。 大鳥は一声不気味な鳴き声を上げると、飛び去っていった。 その瞬間、周囲に音が戻った。 鳥のさえずりが響き、風がそよいで木立を揺らす。 ざわりざわりと騒めくそれに、思わずほっと息を吐く。「……なんだってこんな……」 わたしの呟きは誰に聞かれることなく消えていった。 ◇◇◇ 「……ア? レア?」 女性にしては低めの声がわた
「黒い鳥……?」 わたしが淹れた薫り高い紅茶を一口含んで満足げに息を吐くアラン様。 ふふん。そうでしょうそうでしょう。今日のは特に美味しく淹れられたと思うんですよね!「うまくなったなぁ。……最初はどうなることかと思ったが……」 ……さすがアラン様、持ち上げてから落としてきますね。 もう一口紅茶を飲んだアラン様が、音を立てずソーサーへとカップを戻す。 流れるようなその美しい動きに見惚れていると、アラン様の紅い瞳がまっすぐわたしを射抜いた。「その……黒い鳥とやらはどこで見たんだ?」「この寮の裏庭ですよ。ちょっとした雑木林のある」 そういうとちょっとだけアラン様が訝し気な表情になった。「そんな場所に何用だ? お前を呼び出して文句をつけるような相手は粗方潰したと思ったんだが……」「物騒なことおっしゃらないでください。朝の鍛錬ですよ鍛錬」 お前の方が物騒じゃないかとおっしゃりますけどねぇ。日々の鍛錬は必要なんですよ。わたし貴女様の護衛ですし? ……そういえば、隣国の件が片付いてアン様が狙われることがなくなったからお役御免では? いやでもティボー公爵(ご依頼主)様から引き上げるような指示も来てないな? だったら指示が来るまでお役目を全うするのみ。「そこで……? 黒い鳥を見たというのか? だいたいなんでそんなその鳥が気になるんだ?」「うーん? なんでですかねぇ? 多分あの鳥普通の鳥じゃなかったからですかねぇ」 お皿の上に品よく盛った焼き菓子に手を伸ばす。 白と黒の二色を組み合わせたクッキーに歯を入れると、さくりとほどけ口の中にバターの芳醇な香りと小麦粉の香ばしい香りが広がった。 さすが公爵家のお菓子! 上品なお味ですね! このお味に慣れてしまって、もう普通のお菓子じゃ物足りなくなっちゃうのでは? ……アラン様と結婚したら、ティボー公爵家に住むことになるから毎日食べられるな? ……いやいやいやいや、お菓子の為に公爵家に嫁入りするのは田舎令嬢には荷が重いわ
「あらぁ~。物の分からぬ田舎令嬢のくせにどういう汚い手を使ったのか公爵令息様のご婚約者になったバタンテール様じゃないですのぉ~」 全ての授業が終わり、後は寮に帰るだけだと女学院の回廊を歩いていたら、いつものご令嬢にいつもの如く絡まれた。 この人も暇だなぁ。相変わらず。 確か伯爵家のご令嬢で、アラン様の婚約者の座を狙ってたから現在婚約者無し。 アラン様が隣国への留学から帰ってくるのを今か今かと待っていたのに、気づいたら『田舎令嬢』と見下していたわたしがアラン様の婚約者に収まってしまって、憤懣やるかたないのだろう。 だからって、顔を合わせたら絡んでくるのやめてくれないかな? 地味に時間をとられて鬱陶しいし、どうもわたしに絡むためにあえて探してるみたいなんだよね。 その情熱、別の事に向けたらいいことあるよ! ……なぁんてわたしが言ったら恐らく手が付けられない程になるだろうから言わないけど。 「はぁ。そうですね」「っ! 相変わらず凡庸ね! なんであなたみたいのがアラン様の御婚約者に選ばれたのかわからないわっ! 何かあくどい手を使って公爵家を脅してるの?! だったらそろそろ手を引きなさないな。取り返しのつかないことになるわよ!」 ……是非ともどう取り返しがつかなくなるのか教えてほしい。 そしてティボー公爵家を脅せるあくどい方法って、相当あくどいですけど、こんな小娘に使えると思います? むしろ脅されてるのわたしでは? ティボー公爵令嬢(アン)様の護衛だったはずなのに、いつの間にか令息(アラン)様の婚約者になっていて……。 いえ、そのおかげで隣国の王族を手に掛けたことが不問になったので、それはそれで助かったんですが。 というか、アン様? ちょっかい掛けてくる人間は粗方対処したとかおっしゃってませんでしたっけ? このお方残ってますけど? ……まぁ、消えていった方々と比べて、この方はわたしに直接突っかかってくるだけなので、あまり危険性はないですけど。 だから見逃されてるのかも?「ちょっと! 聞いて
ずるりと手や腕に絡みつくその感触は、高級な絹糸のようにさらさらで、どこまでも柔らかくて。 持ち主の体温を存分に含んでいる事がありありと伝わる温もりは、どこまでも現実を突きつけてきて。 呆然としながら、自分の手のうちにバサリと飛び込んできたその銀色に輝く塊の正体を把握すれば。「ぴえぇ?!」 人間らしい言葉の一つも出なくなるってものです。「……貴様……やってくれたな?」 つい先程まで、銀糸のように美しい髪をさらりと靡かせて、ピンと背筋を伸ばした美しい立ち姿で、鈴を転がすようなという表現がピッタリの声を震わせて、自らを公爵家の令嬢だと名乗ったはずのその人が。 どうして男の人のように短く整えられた、夜空みたいに艶めく黒髪をさらりと揺らしながら、わたしを壁際に追い詰めているのか。 どうして過渡期の少年のようなちょっと低めの掠れた声で、わたしの名を呼ぶのか。 どうしてわたしの手の内にある銀色をした毛束の塊が、目の前の御仁の頭から落ちてきたのか。 わたしにはさっぱり理解できなかったのです。 ◇◇◇ わたしの名前はレリアーヌ。レリアーヌ・バタンテール。親しい人にはレアって呼ばれてます。 辺境のバタンテール辺境伯家の娘です。 まぁ、辺境伯家と言えばなんかイイ感じですが、要はド田舎です。王都の人達から言わせれば所詮ヨソモノです。 何故かと言うと、我が国、クレスタ王国は、王家と三大公爵家によって建国された歴史ある大国なのですが、大国というからには色々あったわけですよ。 こう……国土を広げる為に、穏便に、時には不穏に周辺の土地を、その土地に住む人々を取り込んでいったのです。 で、我が家もその一部でして、元は蛮族と呼ばれる山や森や大地と共存していくスタイルの民族だったのですが、大国の手は迫るし、大国からもたらされる圧倒的な技術に気圧されるしで、このままでは早晩立ちいかなくなるだろうと……。 ついでに、ちょっと嫌な感じの『厄介な隣人』がいたのもあって……。 そこで当時の長的立場だった我が家のご先祖様が決断されたそうです。 森の恵みや山から採れる鉱物、蛮族と呼ばれる所以となった戦闘技術を提供する代わりに、クレスタ王国の配下にくだろうと。 時の国王陛下はそれをお認めになり、中心となって動いていた我が家に辺境伯の地位を与え、我
「お初にお目にかかります。レリアーヌ・バタンテールと申します。この度お部屋をご一緒させていただくことになりました。 田舎出身の粗忽者ゆえ、何かとご迷惑をおかけするやもしれませんが、なにとぞよろしくお願いいたします」 そう言って深々と、それはもう深々と淑女の礼をとる。 これだけはっ! と幼少期よりわたしの面倒を見てくれた家庭教師の先生が仕込んでくれたので、ある程度様になってるはずだ……大丈夫よね? ここは、王都にある女学院に併設された寮の一室。 この女学院は、貴族令嬢として生まれたからには16から18の間必ず通わなければならない学院で、自立心を育てる為に、在校生は全て女学院併設の寮で過ごす。 ここでは、一般教養や礼儀作法は勿論の事、必要に応じて外交や領地経営、その他経営や経済などなど、貴族令嬢が修めるべき学問が取り揃えられており、ここを卒業できなければ貴族令嬢として認められない程だ。 因みに我が国では、政治でも経済でも女性だからと排除される事はない。 近隣のとある国では、女性には一切政治に口出す事は許されず、仕事にも付けず、子を産む事だけを役目として家に閉じ込めているというところもあるようだが、我が国は全くそのような事はない。 その才覚一つで、なんにでもなれる。そこに男女差はない。 まぁ、体力や体格で男女差が出る部分もあるが、それは区別というものだ。 さて、話を戻して。 わたしが今相対している相手は、このたびめでたく(もないが)わたしの同室となった……違うな。 元々彼女の部屋に新入生であるわたしが同居する形となったのだ。 女学院の寮はだいたい二人部屋で、必ず先輩と後輩が同室になる。 寮生活のアレコレなど全く分からない状態で入学してくる新入生への配慮なのだろう。 先達がいれば何とかなる的な。 因みに誰と同室になるかは、神……なのか女学院の学長か誰が決めてるかは分からないが、爵位や派閥などは、よっぽどの事情がない限り考慮されない…&hel
「あらぁ~。物の分からぬ田舎令嬢のくせにどういう汚い手を使ったのか公爵令息様のご婚約者になったバタンテール様じゃないですのぉ~」 全ての授業が終わり、後は寮に帰るだけだと女学院の回廊を歩いていたら、いつものご令嬢にいつもの如く絡まれた。 この人も暇だなぁ。相変わらず。 確か伯爵家のご令嬢で、アラン様の婚約者の座を狙ってたから現在婚約者無し。 アラン様が隣国への留学から帰ってくるのを今か今かと待っていたのに、気づいたら『田舎令嬢』と見下していたわたしがアラン様の婚約者に収まってしまって、憤懣やるかたないのだろう。 だからって、顔を合わせたら絡んでくるのやめてくれないかな? 地味に時間をとられて鬱陶しいし、どうもわたしに絡むためにあえて探してるみたいなんだよね。 その情熱、別の事に向けたらいいことあるよ! ……なぁんてわたしが言ったら恐らく手が付けられない程になるだろうから言わないけど。 「はぁ。そうですね」「っ! 相変わらず凡庸ね! なんであなたみたいのがアラン様の御婚約者に選ばれたのかわからないわっ! 何かあくどい手を使って公爵家を脅してるの?! だったらそろそろ手を引きなさないな。取り返しのつかないことになるわよ!」 ……是非ともどう取り返しがつかなくなるのか教えてほしい。 そしてティボー公爵家を脅せるあくどい方法って、相当あくどいですけど、こんな小娘に使えると思います? むしろ脅されてるのわたしでは? ティボー公爵令嬢(アン)様の護衛だったはずなのに、いつの間にか令息(アラン)様の婚約者になっていて……。 いえ、そのおかげで隣国の王族を手に掛けたことが不問になったので、それはそれで助かったんですが。 というか、アン様? ちょっかい掛けてくる人間は粗方対処したとかおっしゃってませんでしたっけ? このお方残ってますけど? ……まぁ、消えていった方々と比べて、この方はわたしに直接突っかかってくるだけなので、あまり危険性はないですけど。 だから見逃されてるのかも?「ちょっと! 聞いて
「黒い鳥……?」 わたしが淹れた薫り高い紅茶を一口含んで満足げに息を吐くアラン様。 ふふん。そうでしょうそうでしょう。今日のは特に美味しく淹れられたと思うんですよね!「うまくなったなぁ。……最初はどうなることかと思ったが……」 ……さすがアラン様、持ち上げてから落としてきますね。 もう一口紅茶を飲んだアラン様が、音を立てずソーサーへとカップを戻す。 流れるようなその美しい動きに見惚れていると、アラン様の紅い瞳がまっすぐわたしを射抜いた。「その……黒い鳥とやらはどこで見たんだ?」「この寮の裏庭ですよ。ちょっとした雑木林のある」 そういうとちょっとだけアラン様が訝し気な表情になった。「そんな場所に何用だ? お前を呼び出して文句をつけるような相手は粗方潰したと思ったんだが……」「物騒なことおっしゃらないでください。朝の鍛錬ですよ鍛錬」 お前の方が物騒じゃないかとおっしゃりますけどねぇ。日々の鍛錬は必要なんですよ。わたし貴女様の護衛ですし? ……そういえば、隣国の件が片付いてアン様が狙われることがなくなったからお役御免では? いやでもティボー公爵(ご依頼主)様から引き上げるような指示も来てないな? だったら指示が来るまでお役目を全うするのみ。「そこで……? 黒い鳥を見たというのか? だいたいなんでそんなその鳥が気になるんだ?」「うーん? なんでですかねぇ? 多分あの鳥普通の鳥じゃなかったからですかねぇ」 お皿の上に品よく盛った焼き菓子に手を伸ばす。 白と黒の二色を組み合わせたクッキーに歯を入れると、さくりとほどけ口の中にバターの芳醇な香りと小麦粉の香ばしい香りが広がった。 さすが公爵家のお菓子! 上品なお味ですね! このお味に慣れてしまって、もう普通のお菓子じゃ物足りなくなっちゃうのでは? ……アラン様と結婚したら、ティボー公爵家に住むことになるから毎日食べられるな? ……いやいやいやいや、お菓子の為に公爵家に嫁入りするのは田舎令嬢には荷が重いわ
すぅっと息を吸い込んで、キンと冷たい朝の空気を取り込む。 身体の隅々までいきわたるように深く深く。 そして吐き出す。 細く長く。 肺の奥の空気まで。 全てを。 それを何度か繰り返してから瞑っていた目を開ける。 澄んだ視界に映る木々は、今日も緑濃く鮮やかだ。 今日の朝練にと持っていた模擬剣を正眼に構える。 女学院内では持ち歩けず、取り回しも難しいので滅多に出番がないが、ないからこそ鍛錬は怠れない。 森の中から姿を現した幻の標的を相手取り、剣を振るう。 右へ躱して、剣を薙ぐ。 体勢を落として足を狙う。 倒れ伏した敵に剣を突き立てれば、幻は消え去っていった。 模擬剣を一振りして、鞘に戻す。 辺りはしぃんと静まり返っていた。 不自然なほどに。 周囲に目を向けてもなんの気配もない。 いつもいる鳥の気配も。何一つ感じない。 ぐっと地面を踏みしめて、僅かに腰を落とす。 何が現れてもすぐ対処できるように。 それが……わたしたちバタンテール辺境伯家の在り方だから。 ざわりとうなじの毛が逆立った瞬間、大きな黒い鳥が直ぐ近くの木に降り立った。 油断なく大鳥に、周囲に注意を払う。 まるで時が止まったかのような錯覚を覚えるほどに、黒い鳥に視線を向けたまま膠着する。 黒い鳥もまた、置物のように動かない。 しばしの後。 大鳥は一声不気味な鳴き声を上げると、飛び去っていった。 その瞬間、周囲に音が戻った。 鳥のさえずりが響き、風がそよいで木立を揺らす。 ざわりざわりと騒めくそれに、思わずほっと息を吐く。「……なんだってこんな……」 わたしの呟きは誰に聞かれることなく消えていった。 ◇◇◇ 「……ア? レア?」 女性にしては低めの声がわた
で、結局どうなったかというと。 隣国の王女サマのご遺体と、その仲間達のご遺体……と呼べるかどうかの物を持って、我らが王太子殿下が隣国へと乗り込んだらしい。 最初は溺愛していた|王女《むすめ》を無残に殺された国王が大激怒して、わたしの身柄は隣国へと引渡され、我が一族も全員死罪、隣国との開戦待ったなしだったらしいが……。 王女サマのご遺体からも見て取れる変容が、仲間達の人の手ではとても行えない無残な遺体の様子が、全て『厄災』の手をとったからだと明らかになった瞬間、風向きは変わった。 ……それだけどの国でも『厄災』は禁忌とされていて、その嫌悪感は根強い。 だからこそ、『厄災』の手をとるような愚かな王女を育てたと隣国の王は、自分の息子でもある隣国の王太子に糾弾され、あっという間にその座を追われ、王女の生母でもある側妃、というか向こうの国でも側室制度はないそうだから、非公認の愛妾共々、離宮へと追放されたらしい。 そして、空座になった玉座を継いだ隣国の王太子は、むしろ我が国に謝辞の意を表明し、わたしは『厄災』の手下と化した|異母妹《おうじょ》を退けた勇気ある者として讃えてくれたそうな。……て、そこまで言わせるって、あの王女サマはお異母兄様に嫌われ過ぎじゃないか? いったい何をしでかしてたのだろう? まぁ、深くは知りたくないけど。 それを満面の笑みで教えてくれた我が国の王太子殿下は、その時ついでに~と、とんでもない事を教えてくれた。 曰く、今までは内定という形で公にされていなかっただけの、ティポー公爵令息ロベール・アラン・ティボー・ル・ロワと、バタンテール辺境伯令嬢レリアーヌ・バタンテールの婚約を広く公にすると。 なんでも、隣国に留学しているティボー公爵令息様は、ティポー公爵令嬢であるアン様がそのお命を狙われていると知って、心配のあまり一時帰国されていたそうで。 で、その際にたまたま、たまたま? アン様と仲が良い、婚約者候補でもあったバタンテール辺境伯令嬢が、妹御の代わりに攫われた事を知ったそうな。
「レリアーヌ、其方にも苦労を掛けたな。まさかこんな形で其方の力を借りることになるとは……」「……発言を」 わたしの言葉に、こくりと陛下が頷かれる。「皆様は、わたくしをアン・ティボー公爵令嬢様の護衛に付けた段階で、『厄介な隣人』の介入を想定されていたのですか?」 わたしの言葉に、複雑そうな顔をする陛下と公爵様。 何となく何かを察しているらしいアラン様は、不機嫌な様子を隠さずに、むすりとした表情を浮かべている。「……いや、なんといえばいいのか……。『厄災』とティボー公爵令息の間には、今回の件以外にもちょっとあってな。 それもあって、レリアーヌにアンの護衛を頼んだのだ。 ついでに、レリアーヌとアランの相性を見て、いずれは二人を婚約者にと……。 女学院の中で互いの為人を知っていけばと思っていてな」 十八になれば、アンはアランに戻るしな、と陛下。 て、突然話が飛躍したな? アラン様の女装は成人までってこと? そりゃまぁ、アラン様はティボー公爵家の嫡男だし、いずれは女装をやめなきゃならない日が来るんだろうけど……。 それよりも……。 「わたくしが……公爵令息様の婚約者……ですか?」 いや、無理だろう。田舎令嬢には荷が重い。「……嫌なのか?」 何やらじっとりとした視線が隣から向けられた。「嫌というか……難しいのでは? 「何故だっ?!」 いや何故って……」 粗忽な田舎者ですし? 地味で目立たないですし? むしろ女装したアラン(アン)様の方がよっぽどお綺麗ですし?「本当は、俺の妃にしようと思ってたんだけどなぁ」「「はぁっ?!
「さて、今回の件、レリアーヌから『厄介な隣人』が黒幕であるとの事だが……」「はい。間違いございません。姿は確認できませんでしたが、あの特徴的な笑い声が聞こえてきましたので。 それに例え姿を見ていたとしても、『厄介な隣人』にとって姿は何の確証を与えるものではありません。 更には隣国の王女殿下の変容、あれは『厄介な隣人』が手を貸した結果だと思われます。 ……さすがに、普通の人間ではあのような変容を与える事など出来ますまい。 そして王女殿下に付き従っていた人間の有様から鑑みるに、あの状態は『厄介な隣人』が手を貸した代償として生気を奪っていった結果だと思われます」 そう、随分と昔からその存在が語り継がれている『厄介な隣人』は、不思議な力を持つと言われている人外だ。 享楽主義で人々を混乱の渦に巻き込む為だけに、理不尽にその不思議な力をふるうという、文字通り『厄介な隣人』なのだ。 その姿は、現れた時々によって全然異なっていて、本人かどうかは見た目で判断するのは難しい。 ただ、その特徴的な笑い方と、銀の瞳の色だけが『厄介な隣人』を見分けると、我が一族には伝わっている。 そもそも我が一族がこの国の配下にくだった理由も、『厄介な隣人』の存在が大きいと言われている。 それだけ『厄介』な存在なのだ。 そんな愉快犯のような存在が、何故今回隣国の王女サマを唆してアン様を狙ってきたのか……?「そうか……」 沈痛な面持ちで陛下が深く椅子に背を預ける。「……ここ何年かは静かなものだったのですがね」 ぽつりとティボー公爵様も呟く。 「……隣国の王女の変容は……それほど酷いものなのか?」 陛下に問われるも、一瞬だけ答えを躊躇する。 耳元まで裂けた口、野生動物の鉤爪のように変容した手、わたしがかどわかされた直後に王女サマが誇ってい
そんなことをつらつら考えていると、到着したのは王太子殿下の私室だった。 私室といっても寝室とか本当に私的なお部屋ではなく、機密性の強い内容を話し合ったりする特別なお部屋の一つだ。 部屋の中へ入ると、そこには既に先客がいた。 国王陛下と、ティボー公爵様、普段は王太子殿下の護衛についているわたしの次兄も部屋の隅にいて、油断なく気配を探っている。 その視線がちらりとわたしを見て、一度逸れて……勢いよく戻された。それはお手本のような二度見だった。 まぁ、わたし血まみれだしね。しょうがない。本来であればこのような姿で陛下の前に出るのはどうかと思うが、緊急時だからご堪忍いただこう。「おぉ! レリアーヌ! 無事だったとは聞いているが、本当に怪我はないのか?」 開口一番、陛下がわたしに声を掛ける。 その様にアラン様がぎょっとしている気配がした。「……我が国の太陽にご挨拶申し上げます」 そう言って淑女の礼をとる。摘まんだスカートは血まみれだけどねっ!「よいよい。私と其方の仲ではないか。この場では堅苦しい態度は不要だ」「いや、どんな仲ですか!」 アラン様が思わずといった感じで叫ぶ。でも確かに……どんな仲なのかわたしも伺っていいですか? 陛下。 だけど今はそれどころじゃない。報告が先だ。「国王陛下にご報告申し上げます。此度の案件……『厄介な隣人』が関わっておりました」 礼をとったままそう告げると、しぃんと部屋の中が静まり返った。 はっ…と誰かが息を吐く音と、ごくりと誰かが嚥下する音が、静まり返った部屋に響く。「……それは……誠か?」「……はい。バタンテールの名にかけて。 関わった者達のご遺体を検めていただければ……それは確かかと」「『厄介な隣人』?
「……何か言い訳はあるか?」 ティボー公爵家の豪奢なタウンハウスの一室。 足を高々と組んで、我が家には絶対になさそうな豪奢な椅子にふんぞり返って座るロベール・アラン・ティボー・ル・ロワ様。 というかそんなに足を高く組まれると、スカートの中が見えて……あ、今日はご令息のお姿なので大丈夫ですね。はい。 そして、一応わたしも令嬢なんで、椅子の前……と言うか、下で正座するのはできれば止めたいのですが? って、この状況、既視感ありますね?「……いったいなんのことか、わかりかねますが?」 だらだらと冷や汗を流しながら、つぃぃっと目の前の御仁から目を逸らす。 ……ガシリと女性にしてはしっかりとした、男性らしい指先がわたしの顎を掴む。 そのまま正面を向かされ、視界一杯に広がったのは……。 綺麗な紅眼に不機嫌な色を乗せ、これまた不機嫌そうに歪んだ、アラン様のお顔だった。 ……こんなお顔をさせる為に、頑張った訳じゃないんだけどな? チクリと胸を刺す痛みは何処から来るのか……。 顎を掴まれたまま、立ち上がるよう促されて、そのまま流れるようにアラン様のお膝の上に横座り……ってなんで?! 距離感おかしくないですか?!「距離感おかしくないですか?!」「……問題ない。婚約者同士のふれあいだからな」 スパンと断言するアラン様。 って、そのお話、まだ納得していないんですが?!「……いいのか? お前が俺の婚約者だったから……今回の件、お咎めなしになったんだけどなぁ」 不本意が顔に出ていたのだろう。 アラン様がそのお美しい顔を意地悪気にニヤニヤさせて、わたしの
「うぁぁぁぁぁぁ!!! なによなによなによっ!! なんでそんなタヌンが王太子様の花嫁になるのよっ!! 許せないっ! 許せるわけがないわっ!! なんなのなんなのなんなのっ?! 上手くいくっていったじゃないっ!! どうしてあの女はここにいないの?! おかしいおかしいおかしい!! 全部わたくしの思い通りにならないなんてっ!! おかしいのよぉぉぉぉ!!!」「くっ! なんだこの力はっ?!」 慌てて再捕縛しようとした護衛達が、王女サマの腕の一振りで吹き飛ばされる。「なっ?!」 その異様な光景に、わたしを庇うように背に隠すアラン様。 ……守られるなんて経験がないので、ちょっとキュンとしたのは秘密だ。「おかしいおかしいおかしい゙ぃ!! お゙かじい゙ぃ゙ぃ゙ぃ゙ぃ゙ぃ゙!!!」 え……こわぁ……。 真っ赤な唇が、耳元まで裂けたように見える。 同じくらい真っ赤な舌が、大きく裂けた口元からにょろりと覗く。 凶器かな? と思うくらい伸びて尖った爪をそういう武器のように構えて、狂気に染まった碧眼を炯々と光らせて…… アラン様に迫る王女サマ。 だからわたしは……。「っ?! レアっ?!」 アラン様の前に出て、鋭く尖った爪を、相手の手首を掴んで止め……切れない?! なんて力なのっ!? 力で押し負けそうになって、慌てて横に流す形にすれば、勢いだけで突っ込んできていた王女サマがぐらりと前に体勢を崩す。 前のめりに倒れる勢いのまま、無防備なお腹へ向けて、膝蹴りを放つ。「ぐげっ!」 高貴なお姫様らしからぬ呻き声をあげて、王女サマの身体がどさりと床に倒れ……壊れた操り人形のようにぴょんと立ち上がった。……その動きは既に人間の可動域を超えている。 そして、くる