「心配するな、彼女は戻ってくる。まあ、もし本当に出て行ったら、むしろありがたい。りおにはもうずっと待たせてるし、そろそろ二人の関係をはっきりさせたいしな」 「……お前、マジで最低だな」 他の男たちも呆れたように首を振っていた。 隼人は一本のタバコに火をつけ、煙をゆっくり吐きながら、ぼそりと呟いた。 「8年も経てば、そりゃ飽きるだろ……それにさ、アイツ、ベッドじゃマグロだし。やっぱり、りおの方がいいんだよ」 その瞬間、私は拳をぎゅっと握りしめていた。長い爪が手のひらに食い込んで、赤い痕を残しても、痛みなんて感じなかった。 ……そのあと、私は黙って家を出て、自分の荷物をすべて整理して、故郷に戻った。 別れたことは、彼とその周囲の数人しか知らない。だけど、誰も気にしていなかった。 私が実家に戻っている間、彼はりおと年越しを迎え、スイスでスキーをし、ニュージーランドで旅行までしていた。 でも、私だってただ泣いてたわけじゃない。お見合いにだって何度も足を運んだ。 この3ヶ月、私たちは一度も連絡を取らなかった。 ――そして、萩原くんから、同窓会の案内が届いた。 私と隼人、ふたり揃っての参加が求められたから、仕方なく連絡を取ることになったのだ。 「……は?」 隼人が声を荒げた。今さら、本当に今さらの反応だった。 「別れるだって?おい、結月、冗談も大概にしろよ!」 「冗談じゃないよ。もう3ヶ月以上前に、私たち別れてるでしょ?あんたもあのとき、何も言わなかったじゃない」 私がそう言うと、彼はその場で固まった。どうやら、まだ実感がなかったらしい。 だけど、私には関係なかった。 しばらくして、彼はようやく口を開いた。 「……は?お前がそう言ったからって、即・別れるってわけ?」 これ以上かかわりたくない。私はさっさと背を向けた。 その背中に向かって、彼の怒鳴り声が飛んできた。 「いいだろ!!そっちがその気ならもう知らねえよ!この先、『より戻したい』とか言ってきたら、そいつがクズだかんな!!」 私は黙って、再び同窓会の会場に戻った。 みんなの顔がパッと向く。 「結月ちゃんって、ほんとに羨ましいよね~。隼人くんと、何年もラブラブでさ~」 ……もう、はっきりさせよう。 「ごめん、みんな
隼人の顔は真っ赤で、こめかみに青筋が浮かび上がっていた。あの目は――怒りを抑えきれない、暴発寸前の火山のようだった。 「結月、その人って……」 「え、ちょっと紹介してよ!」 「ほんとに婚約者なの?」 「めっちゃイケメンじゃん……ていうか、芸能人よりカッコよくない!?」 女の子たちがワイワイ盛り上がる中、男たちは静かに言葉を失って、私たちの様子を観察していた。 私は隼人の刺すような視線を完全にスルーして、慎也と繋いだ手を高く掲げた。 「私の婚約者、藤沢慎也(ふじさわしんや)よ」 慎也は軽く頷きながら、優雅に一礼する。 隼人の目が見開かれ、顔がこわばっていく。頬の筋肉がピクピクと震えて、今にも何か叫び出しそうな表情で私を見ていた。 そして、ついに爆発。 「はぁっ!?そいつが婚約者?じゃあ、俺はなんなんだよ! 8年も一緒にいたのに、俺は何だったんだよッ!!」 その言葉は、もはや怒鳴りというより、噛み殺すように吐き捨てられた。 「元カレ、だよね」 静かに、でも鋭く。女の子の中から近藤夏目(こんどうなつめ)が目を細めて返した。彼とりおの関係を知ってる子は、何人かいたのだ。 「……黙れよ、誰が口出していいって言った!」 顔を真っ赤にした隼人が怒鳴り返し、私に詰め寄ろうとした――その瞬間、萩原くんが素早く前に出て止めた。 「隼人、落ち着けって!言葉に気をつけろ」 そして、気まずそうに慎也へと会釈する。 「邪魔すんな!アイツが……あの男が結月の手を握ってるんだぞ!?これって、俺に対する裏切りじゃないのか!?」 「さっき自分で『別れた』って言ってたじゃん。相手は婚約者だよ?あんた、何の立場で怒ってんの?」 夏目がニヤリと笑いながら口を挟む。 萩原くんが再び宥める。 「隼人、お前本当に飲みすぎだって。一回中で水でも飲んできな」 「……は?分かれてねぇよ。ちょっとケンカしただけだっつーの!」 隼人は現実を受け入れられないまま、私と慎也を指差した。 「そっちの男!お前は誰だ!?結月とどういう関係だよ!?」 慎也は落ち着き払った表情で、人々に向き直った。 「藤沢慎也と申します。結月の婚約者です。皆さんにお会いできて光栄です」 静まり返る空間の中、萩原くんの隣にいた男子がひそ
「……あっ、もしかして、海都の『藤沢慎也』!?どうりで見覚えあると思った!」 エレベーターの中には、私たち二人だけ。 静まり返った空間に、微かな呼吸音だけが響いていた。 「私の同級生たちのこと……知ってたの?」 不意に湧いた疑問を口にすると、慎也は首を横に振って答えた。 「いや、初対面。でも君のおかげで、何人か顔を覚えたよ」 「さっきは、助けてくれてありがとう」 私が小さく頭を下げると、彼はふっと微笑んで、優しい声で囁いた。 「結月、君は俺の婚約者だよ。そんなの、礼なんていらないよ」 ……さっきの隼人との一件を思い出して、胸の奥がまだざわついていた。できれば穏やかに終わらせたかったのに、あんな風に泥をかぶることになるなんて。 私は思わず、小さくため息をついた。 その瞬間、慎也の腕がぎゅっと腰を抱き寄せた。身体を包むその温もりに、心臓が跳ねた。 こんなに近くで彼を感じるのは、初めて。 緊張して身体が固まっていると、彼がふいに私の首元に顔を寄せ、ひそひそとささやいた。 「結月、今日、何のワインを飲んだの?」 「え、たぶん……赤ワイン、かな」 「ふーん。美味しかった?」 その声は、耳元にふわりと触れるような距離で―― 「俺も、ちょっと味見したいな」 その低くて甘い囁きが、羽のように私の心をくすぐる。 「えっ……?」 戸惑って顔を上げた瞬間、彼の唇がそっと重なってきた。 温かくて、柔らかくて、でもどこか切なさも混ざったキス。息が触れ合って、香りが溶け合って、私はすべてを忘れてその瞬間に沈んでいった。 壁に押しつけられた私は、頭を軽く抱き込まれながら、そのキスを深く交わされた。 ――エレベーターのチャイムが鳴るまで。 ようやく彼が唇を離し、手を引いて私を外へと誘った。 「結月、足元に気をつけて」 その一言が、妙にやさしくて。 言われた通り、私は一歩踏み出した瞬間、足を滑らせそうになった。 「きゃっ――」 すかさず、慎也が私の身体をしっかりと支えてくれた。 「結月、さっきからぼーっとしてるけど、何考えてたの?」 ……まさか、「キスのことで頭いっぱいです」なんて言えない。 私は話題を変えるように、ぎこちなく聞いた。 「……今日は仕事で南市に来たの
「でも、大丈夫。これからたくさん時間をつくって、ゆっくり君に知ってもらうよ」 慎也の言う通りだった。私たちは婚約までしているけれど――実のところ、お互いのことを、まだちゃんと知らなかった。 すべての始まりは、2年前。 父が大きな病気で倒れて、退院したあと、「一人にしておくのが心配だ」と、急に私の結婚を気にするようになった。 その年、お正月に京市へ戻ったとき、私は意を決して隼人に結婚の話を切り出した。 でも彼は、仕事が忙しいことを理由に「今は考えられない」と言った。 あのとき、もう付き合って6年経っていた。私はすごく悲しかったけど、彼が仕事に追われている姿を見ると、責める気にもなれなかった。 ……それでも、やっぱり心はしんと冷えていった。 その後、彼と別れて――私は父の言う通り、お見合いを真面目に受け入れることにした。 その話を親友の西川遥(にしかわはるか)に伝えたら、彼女は目を輝かせながらこう言った。 「うっそ、ちょうどいい人いるじゃん!仕事バカで、あんたより2歳上。30超えてんのに、いまだに彼女連れて実家行ったことないって、おばさんがめっちゃ焦ってんの! ほら、知ってるでしょ?藤沢慎也。高校の先輩だよ?」 慎也――遥のいとこ。高校のとき、2学年上の先輩。 ……覚えてないわけ、ないじゃん。 子どもの頃からずっと話題の中心だったし、遥のつながりで何回か話したこともある。生徒会でも一緒に活動した時期があった。 「私は覚えてるけど……彼が私のことなんて、覚えてるわけないでしょ」 だって、あんなに完璧な人。私みたいなの、記憶に残ってるわけがない。 そんな気持ちが心に広がって、少しだけ胸がチクリとした。 あれだけのスペックを持ちながら、いまだ独身。つまり、相当こだわりがある人なんだと思った。 「いや、むしろ結月って聞いて、初めてOK出したんだよ」 遥のセッティングで、私たちは顔を合わせた。 まさかのお見合い、びっくりするほど順調に進んで―― 父は慎也を大絶賛、藤沢家のお母さんは、私のことをすごく気に入って、いつまでも手を離してくれなかった。 そのまま両家の親同士が話し合って、あれよあれよという間に話がまとまって、婚約が決まってしまった。 私をホテルに送り届けた後も、慎也はすぐに支
そのことに気づいたのか、彼が小さく咳払いをして、いたずらっぽく聞いてきた。 「……見惚れた?」 「うん、かっこいい」 「ふふ、それならもっと見てていいよ」 そう言って、彼はじっとこちらを見つめる。私は顔がぽっと熱くなって、目を逸らそうとしたけど―― 彼が低くささやく。 「どうした?俺に食べられそうで怖い?」 私はなんとか平静を装って、からかい返す。 「別に怖くないけど?むしろ、そっちが我慢できないんじゃない?」 「……ほう?」 彼の目に、興味深そうな色が宿った。 ふと――隼人に言われた「お前はつまらない」って言葉が、頭をよぎった。 ……だから私は、ちょっとだけ、勇気を出した。 彼のネクタイを引き寄せ、腕を伸ばして慎也の首に手を回す。 そのまま身体を寄せると、彼の動きが一瞬止まった。 私はゆっくりと、彼のシャツのボタンに手を伸ばす。 でも―― 「ストップ」 彼が、私の手をそっと押さえた。 「……婚約者の特権。好きにさせてよ?」 私は上目遣いで不満をもらす。 そして、軽く彼の喉仏にキスすると、彼は堪えるような小さな呻き声をもらした。 「……今日の会議は、ここまで」 パソコンを閉じて、彼はそのまま私をソファに押し倒した。 熱のこもったまなざしで、私を見下ろす。 「さっき言ったよね。『婚約者』。 『好きにさせて』って言ったんだよね?……そのつもりで、覚悟しといて」 「えっ――」 言葉を遮るように、彼の唇が私を覆った。 慎也の口の中は、レモンとミントのような清涼感に満ちていて――思わず、そっと味見してしまった。 ……それが引き金だった。 彼のキスが、急に熱を帯びて深くなり、私のナイトドレスが、一瞬で破かれてしまった。 ベッドにたどり着く間もなく、私たちはリビングのソファで初めてを迎えた。 まるで嵐のような熱に包まれて、気づけばふたりとも汗だくになっていた。 息を荒くしながら、彼が私の上に覆いかぶさるように覗き込む。額から流れた汗が、ぽたぽたと私の唇に落ちた。 そのしずくを舌で拭った瞬間―― 彼の目が、再び熱を帯びてきた。 「だ、だめ……」 心臓が壊れそうなくらい打ち鳴る。必死で彼を押そうとしたけど、力が入らない。 慎也は
どれくらい時間が経ったのかもわからない。 ただ、全身がぐったりと重くて、もう動きたくなかった。 私はそのまま、そっと目を閉じて、眠りへと落ちていった。 目を覚ましたとき、外はもう夕暮れだった。 窓の外にはオレンジ色の街灯が映り込み、部屋にぼんやりとした光を落としていた。 「起きた?疲れてない?」 慎也の声が優しく響いた。 「……何時?」 「まだ7時前だよ」 私は思わず布団の中に潜り込む。午後の「事件」を思い出して、顔が熱くなっていた。 「……まだ、寝たりないのか?」 彼の声が落ち着いて響く。 その「寝る」の一言だけ、やけに語気が強くて―― まるで、午後の「あれ」をわざと蒸し返すような、そんな意味を含んでいた。 そのときようやく気づいた。彼はちょうどバスルームから出てきたばかりで、腰にタオルを一枚巻いただけ。鍛えられた胸筋と腹筋がはっきり見えて、思わず「ごくん」と喉が鳴った。 その音に、彼はすぐ気づいたらしく、目を細めて興味深そうにこちらを見る。 「起きる?抱き上げてやろうか?」 「だ、だいじょうぶ。自分で起きるから」 あわてて身を起こして、はじめて自分が裸だと気づいた。慌てて毛布をつかんで体をくるみ、そのままバスルームへ駆け込む。 「結月、今夜、ちょっとだけ友達に会いに行くんだ。君にも一緒に来てほしい」 彼の声が後ろから追いかけてくる。私はバスルームのドアを閉めて、彼を締め出した。 「うん、行くよ」 「急がなくていいよ。会場のホテル、すぐ近くだから」 すりガラス越しに、彼の優しい声が響いた。 鏡に映る自分を見て、あちこちに残る痕跡に顔が火照る。冷たい水で何度も洗って、ようやく落ち着いた。 バスルームを出ると、慎也はすでにスーツに着替え、完璧に身支度を整えていた。 「もう遅い?」 彼は腕時計をちらりと見てから答える。 「まだ間に合う。急がなくていいよ」 そうは言っても、会場に着いたときには、ほとんどの人がもう揃っていた。 「おお、慎也まで来るとは!しかも女連れで!これはレアすぎるじゃん!」 「慎也、彼女さん?」 入り口で話し込んでいたスーツ姿の数人が、こちらを見てニヤニヤしながら詰め寄ってくる。 「うん、俺の婚約者。結月だ」 「マジで
「いいよ、もらっとけ。気にすんな。遠慮したら損だからな」 その場にいた何人かも、それに続くようにプレゼントを差し出してきた。 慎也は全部受け取るように言う。 「変な遠慮はいらない。こんなの、大したことじゃないから」 私は彼にこっそり聞いた。 「ねえ、もしかして今日の集まりって、私をみんなに紹介するため?」 慎也は私の首筋に顔を寄せて、耳元でそっとささやいた。 「そうだよ、結月。俺には婚約者がいるって、ちゃんと世界に知らせたかったんだ。 愛してるから、君を俺の世界のすべてに繋げたい」 隼人は、あの同窓会で結月にフラれて以来、ずっとイライラしていた。 家でケンカするのはまだしも、あんな大勢の前で結婚を迫ってくるなんて――面子を潰されたとしか思えない。 ずっと優しくて従順だった結月が、突然「他の人と結婚する」なんて、信じられなかった。 しかも「海都の婚約者」?あれは明らかに嘘だ。どこかで急遽連れてきた男だろう、あわや騙されるところだった。 仲間たちが「結月はどうなった?」と聞いてきたとき、隼人は余裕の態度だった。 「まあ、まだ怒ってるだけだろ。放っておけ。 アイツは早く結婚したいんだ。でも俺はあと2年は遊びたい。あれこれ策略で結婚を迫ってきたけど、俺には通用しないね」 そう言って、口元にうっすら笑みを浮かべた。 「長く付き合うとさ、やっぱ良心ってもんが必要になるんだよ。俺が冷たいヤツなら、もうとっくに別れてるっての」 けれど――2ヶ月後、また誰かが話を蒸し返した。 「隼人、結月ちゃんからどれくらい連絡来てない?」 その瞬間、心臓がズキリとした。言葉が出てこない。確かに、結月からはずっと音沙汰がなかった。 彼女がいなくなった部屋は、ただの冷たい箱になった。 「いや、結月ちゃんってあんなにおっとりしてたのに、今回はマジでキレてる感じだよね……」 そのとき、山田毅(やまだつよし)が躊躇いがちに口を開いた。 「隼人さん、聞いたんですけど……結月さん、今、海都の藤沢家の御曹司と付き合ってるって」 海都、藤沢家……あの男の名前は―― 「……藤沢慎也か?」 隼人が低く問い返すと、彼は大きくうなずいた。 「そうそう、そいつっすよ。藤沢慎也って、昔は女性関係まったくなかったらし
……俺、どんだけ勝手だったんだろうな。 今さら、どんな顔して行けっていうんだよ。 すると横から、北条武(ほうじょうたけし)がぽんっとアイディアを出してきた。 「そういえば、来月って海都のビジネス交流会があるよな。隼人が会社代表で出席して、あっちには藤沢グループが当然出てくるだろう。 それにさ、結月さんって情に厚いタイプだろ?お前ら8年だぞ?あいつらはたかが数ヶ月、勝てる勝負じゃん」 隼人は無言のまま指先でテーブルをコンコンと叩いた。そして、静かに言った。 「……いいだろう。北条、お前も一緒に来い」 「結月!」 まさか海都で、あの声を聞くことになるなんて―― 洗面所から出て、ホテルの長い廊下を歩いていたときだった。その声は、あまりにも聞き慣れていて、思わず立ち止まってしまった。 声の方へ目を向けると、隼人が壁に寄りかかって、グラスを手にしながら私を見ていた。目を細めて、じろじろと観察するように。 ――まさか、ここで待ってたの? 「……なんであんたがここにいるの?」 「なんでって……この廊下、お前の所有地か?」 「聞いてるのはそれじゃない。ここのビジネス交流会に、なんで来てるのかってこと」 「お前が来てて、俺が来ちゃいけない理由ある?」 ……酔ってる。 それがすぐにわかるほど、彼の態度は荒れていた。私は関わりたくなくて、そのまま背を向けて歩き出す。けれど、彼がすぐに追いかけてきた。 「やっぱり……あの男と付き合ってるんだな?」 私は足を止め、言い直す。 「『あの男』じゃない。彼は――私の婚約者よ」 「婚約者?……そんなに結婚したかったのかよ」 彼の大きな声が響いたせいで、徐がやってきた。私を見ると、少し困ったように肩をすくめる。 「結月ちゃん……隼人は結月ちゃんに会いたくてここまで来たんだ。自分のバカさに気づいて、謝りたいって。最近、ずっとろくに食べてなくて、寝てもいないらしい」 「結月?」 そのとき、廊下の反対側から、慎也の声がした。 彼の姿を目にした瞬間、隼人の様子が一変した。目を真っ赤にして、私を睨むように見つめてきた。 「結月、俺な、この数日ずっと考えてたんだ。お前、あいつにはっきり言ってくれ。お前ら二人は合わないって、そう言ってくれよ。そしたら、また元通
……そう考えると、彼がこの2年でやらかしてきたことの数々が、後悔とともに蘇る。 あの馬鹿げた日々を思い出すたび、胸がヒリつく。 せめて、彼女が――結月が、りおとのことを知らないままでいてくれたのが、唯一の救いだった。 もし知っていたら、どんな目で自分を見ただろうか。想像しただけで、背筋が凍る。 私たちが結婚してから―― 私はずっと自分の仕事を続けてきた。慎也も相変わらず仕事人間で、寝る暇もないくらい忙しい日々だったけど、私の夢を誰よりも応援してくれた。 それから5年。私の事業も安定し、小さなデザインスタジオを構えるまでに成長して――そして、ついに子どもが生まれた。 あの「海都のカリスマ実業家」とも呼ばれる藤沢慎也が、今では毎日娘のミルクの飲み具合や、私がちゃんと休めてるかどうかを気にするパパになってるなんて――誰が想像できただろう。 普段は保育士さんが面倒を見てくれてるけど、慎也が帰宅するや否や、すぐさま「交代!」とばかりに抱っこを奪っていく。 「自分で育ててこそ、絆が深まるんだよ」 そう信じて疑わない彼の子育てスキルは、もうプロ顔負け。おむつ替えもミルクもお風呂も完璧。正直、私よりも手際がいいかもしれない。 出産後の数ヶ月を除いて、私はずっと仕事に関わってきた。 娘が4歳になり、幼稚園に通い出したある日―― 慎也が娘を連れてスタジオまで迎えに来てくれた。その時、ふたりの可愛いやり取りが耳に入ってきた。 「ねぇパパ、どうしてママって働いてるの?パパがすっごくお金持ちって、知らないの?」 慎也は優しく娘の頭を撫でながら、笑った。 「もちろん知ってるよ。パパのお金はすべてママのものだから、ママが知らないわけないでしょ」 「じゃあなんで働くの?うちの幼稚園のお友達のママたちは、働いてない人多いんだよ。そしたらずーっと一緒にいられるのに」 「ママはね、まず『ママ』の前に『桐島結月』っていう一人の人間なんだ。やりたいことも夢もある。だから、そんなママを応援するべきだと思わない?」 娘は、よくわかってない顔をしながらも、コクリとうなずいた。 「うん、じゃあママが帰るまで、おりこうに待ってようね」 そんな父娘の会話をこっそり聞きながら、私は胸がじんわりとあたたかくなった。 ――そうだよね、夫婦
隼人が私を追いかけてきた時は、確かに必死だった。毎日会いに来て、あれこれ気を遣って、周囲の男たちを遠ざけていた。 あの頃の慎也にも、誤解を与えていたかもしれない。 でも、ぐるぐると時間が巡っても、こうして私たちはまた出会えた。 あの時の「ただのお見合い」――それが、10年越しの運命だったなんて。 プロポーズの映像はあまりにも幻想的で、式場のスタッフが動画をSNSにアップした瞬間、爆発的に拡散されていった。 「藤沢慎也の婚約者は、桐島結月」 たった一夜で、私の名前はネットの海を駆け巡った。 隼人が、慎也のプロポーズ動画を見たのは、夜中のことだった。 誰もいない部屋。結月のいなくなったその部屋は、空っぽで、生気すら感じられなかった。 最近は、夜になると眠れない。というか、ちゃんと眠れた日なんて、もういつからなかっただろう。 なんとなくスマホを開いて、SNSをぼんやり眺めていた。そこで目に飛び込んできたのは、バズっている1本の動画―― 「プロポーズ映像」という文字と一緒に、サムネイルには、結月の満面の笑顔が映っていた。 その瞬間、彼の体は凍りついた。 最後にあんな風に笑う彼女を見たのは、いつだったろう。 ……ああ、そうか。彼女は、俺のそばでは、あんな風に笑えなかったんだ。 彼女の幸福は、世界中の人が見られるのに――その隣にいるのは、俺じゃない。 胸の奥がズキンと痛んで、鼻の奥がつんとした。何かが抜け落ちたような喪失感に襲われる。 「……本当に、失ったんだな」 隼人は、映像を一コマずつ噛みしめるように見続けた。笑う彼女。泣きながら指輪を受け取る彼女。幸せそうに見上げる彼女。 これでもう、完全にわかった。 「俺……本当は、まだ彼女を愛してたんだ」 あんなに思ってたじゃないか。もう気持ちは冷めたって。りおと一緒になれば、それでいいって。 でも、結月が完全にいなくなった今、心の奥底がスカスカで、どんなものにも興味が湧かない。 りおが何度も連絡してきた。でも、画面を見る気にもなれなかった。 ――結月がいないと、俺の世界には、何の彩りもない。 今になってやっとわかった。彼女は俺にとって、水みたいな存在だったんだ。 特別な味はない。でも、ないと生きていけない。そんな、当たり前のようで
私はただ、彼をじっと見ていた。冷ややかに。そして、一言も返さなかった。 たぶん――彼は、いまだに自分が何を間違えたか、わかっていない。 彼は、私が藤咲りおとのことを知らないと思っている……たとえ、ふたりが一緒にいる場面に出くわしても、私は何も聞かなかったから。 でも――聞かないのは、気にしていないからじゃない。 ただ、もう心が冷めてしまっただけ。 藤咲は、ずっと前に私の連絡先を手に入れて、わざわざ見せつけてきた。隼人がどれだけ彼女を可愛がってるかって。 でも、私は彼にそのことを言うつもりはなかった。 彼のSNSの投稿を見たことも――話す気はない。 言う必要なんて、どこにもない。 彼には何度も立ち止まるチャンスがあった。 それでも彼は何もしなかった。 ただ、私が気づいていないことに安堵していただけ。 ……今ごろになって隼人が焦り出したって、もう遅いのにね。 私の誕生日は6月。あの頃、慎也はすごく忙しかった。元々が有名な仕事人間だし、関係が深まってからは毎日のように会っていたけれど、最近は出張続きで顔を合わせることも減っていた。 その間、私は彼の後押しもあって、ずっと昔に諦めかけていた絵をまた描き始めていた。小さい頃から10年も続けていたのに、家族に「芸術なんて将来性がない」と言われて、結局、理系に進んだ私。 それでも大学では絵を描き続けていて、デザインも副専攻で学んだ。卒業してからはフリーのデザイナーとして活動していたけど、当時は隼人に振り回される日々で、貴重な時間をずいぶんと無駄にしていた。 先月、大きな案件を受けてからは、スケジュールがパンパンで、慎也の仕事の付き合いにもなかなかついていけなかった。 そんなある日、遥から連絡が来た。 「結月~、今日は誕生日でしょ?夜、碧海ホテルね!絶対に来てよ~!」 ホテルは海沿いにあって、私は車を走らせて向かった。到着すると、遥がニヤニヤしながら待っていて、「サプライズあるよ~」と目隠しをされ、そのまま手を引かれて砂浜へ。 「はいっ、ここだよ結月!目、開けていいよ!」 スカーフを外すと、目の前には夢みたいな光景が広がっていた。 海辺に立つ巨大な光の城。夜空には花火が咲き乱れ、地面には無数のバラの花びら。 その真ん中に、久しぶりに見る慎也が
隼人は、私に婚約者がいるという事実を、どうしても受け入れられないらしい。 慎也が、静かにその言葉を遮った。 「もういいだろ。別れた相手をいつまで縛ると思う?」 「はっ、8年だぞ、8年。8ヶ月じゃない。お前にわかるはずがない。そもそもお前ら、知り合ってどれだけだ?結局、俺の代わりでしかないんだよ」 隼人は鼻で笑いながら皮肉を飛ばす。それに対して慎也も、ピシャリと言い返した。 「で?8年付き合って、尻尾振ってすがるだけの男よりマシだな。悪いけど、彼女と結婚するのは俺だ」 言い負かされた隼人は、私に向き直った。 「結月、お前、そいつのことどこまで知ってるんだ?こんなすぐに結婚決めるなんて、どうかしてる。そいつの立場で、たった数回しか会ってない女と結婚なんてするか?俺は聞いたんだよ。そいつ、今まで誰とも付き合ったことないって。それって、どこかおかしいからじゃないのか?あんなの、お前に結婚という名の仮面をかぶせてるだけだ!」 私はひとつ、ため息をついた。 「あんた、間違ってる」 高校に入ったばかりの頃、「藤沢慎也」って名前は何度も耳にした。けど、当時の私は、ただの噂程度にしか思ってなかった。 実際に彼を見て、初めて気づいた。あのときの評判じゃ全然足りない。そんな男だった。 私は遥との関係で、彼と何度か顔を合わせた。その後、生徒会でも少しの間、一緒に活動した。 人を好きになるのって、本当に一瞬だったりする。ひとつのしぐさ、ひとつのまなざし。 それだけで、心に深く刻まれてしまうこともある。 私にとっての慎也は、まさにそうだった。 彼と関わるあいだ、私はずっとその想いを胸の奥に隠していた。 遥にさえ、一度も話したことはなかった。 やがて彼は卒業し、最難関の大学に進学した。 私はただ静かに応援することしかできず、 たまに遥の話の中から、断片的に彼の近況を拾い集めていた。 高校から大学にかけて、私に好意を寄せてくれた人は少なくなかった。 でも―― 最初に好きになった人が完璧すぎた。 そのせいで、その後に出会った誰にも、心が動かなかった。 そして、大学二年のある日。 彼が海外に行くという話を聞いて、私はようやく気づいた。 ……私たちは、もう交わることのない道を歩いているのだと。
……俺、どんだけ勝手だったんだろうな。 今さら、どんな顔して行けっていうんだよ。 すると横から、北条武(ほうじょうたけし)がぽんっとアイディアを出してきた。 「そういえば、来月って海都のビジネス交流会があるよな。隼人が会社代表で出席して、あっちには藤沢グループが当然出てくるだろう。 それにさ、結月さんって情に厚いタイプだろ?お前ら8年だぞ?あいつらはたかが数ヶ月、勝てる勝負じゃん」 隼人は無言のまま指先でテーブルをコンコンと叩いた。そして、静かに言った。 「……いいだろう。北条、お前も一緒に来い」 「結月!」 まさか海都で、あの声を聞くことになるなんて―― 洗面所から出て、ホテルの長い廊下を歩いていたときだった。その声は、あまりにも聞き慣れていて、思わず立ち止まってしまった。 声の方へ目を向けると、隼人が壁に寄りかかって、グラスを手にしながら私を見ていた。目を細めて、じろじろと観察するように。 ――まさか、ここで待ってたの? 「……なんであんたがここにいるの?」 「なんでって……この廊下、お前の所有地か?」 「聞いてるのはそれじゃない。ここのビジネス交流会に、なんで来てるのかってこと」 「お前が来てて、俺が来ちゃいけない理由ある?」 ……酔ってる。 それがすぐにわかるほど、彼の態度は荒れていた。私は関わりたくなくて、そのまま背を向けて歩き出す。けれど、彼がすぐに追いかけてきた。 「やっぱり……あの男と付き合ってるんだな?」 私は足を止め、言い直す。 「『あの男』じゃない。彼は――私の婚約者よ」 「婚約者?……そんなに結婚したかったのかよ」 彼の大きな声が響いたせいで、徐がやってきた。私を見ると、少し困ったように肩をすくめる。 「結月ちゃん……隼人は結月ちゃんに会いたくてここまで来たんだ。自分のバカさに気づいて、謝りたいって。最近、ずっとろくに食べてなくて、寝てもいないらしい」 「結月?」 そのとき、廊下の反対側から、慎也の声がした。 彼の姿を目にした瞬間、隼人の様子が一変した。目を真っ赤にして、私を睨むように見つめてきた。 「結月、俺な、この数日ずっと考えてたんだ。お前、あいつにはっきり言ってくれ。お前ら二人は合わないって、そう言ってくれよ。そしたら、また元通
「いいよ、もらっとけ。気にすんな。遠慮したら損だからな」 その場にいた何人かも、それに続くようにプレゼントを差し出してきた。 慎也は全部受け取るように言う。 「変な遠慮はいらない。こんなの、大したことじゃないから」 私は彼にこっそり聞いた。 「ねえ、もしかして今日の集まりって、私をみんなに紹介するため?」 慎也は私の首筋に顔を寄せて、耳元でそっとささやいた。 「そうだよ、結月。俺には婚約者がいるって、ちゃんと世界に知らせたかったんだ。 愛してるから、君を俺の世界のすべてに繋げたい」 隼人は、あの同窓会で結月にフラれて以来、ずっとイライラしていた。 家でケンカするのはまだしも、あんな大勢の前で結婚を迫ってくるなんて――面子を潰されたとしか思えない。 ずっと優しくて従順だった結月が、突然「他の人と結婚する」なんて、信じられなかった。 しかも「海都の婚約者」?あれは明らかに嘘だ。どこかで急遽連れてきた男だろう、あわや騙されるところだった。 仲間たちが「結月はどうなった?」と聞いてきたとき、隼人は余裕の態度だった。 「まあ、まだ怒ってるだけだろ。放っておけ。 アイツは早く結婚したいんだ。でも俺はあと2年は遊びたい。あれこれ策略で結婚を迫ってきたけど、俺には通用しないね」 そう言って、口元にうっすら笑みを浮かべた。 「長く付き合うとさ、やっぱ良心ってもんが必要になるんだよ。俺が冷たいヤツなら、もうとっくに別れてるっての」 けれど――2ヶ月後、また誰かが話を蒸し返した。 「隼人、結月ちゃんからどれくらい連絡来てない?」 その瞬間、心臓がズキリとした。言葉が出てこない。確かに、結月からはずっと音沙汰がなかった。 彼女がいなくなった部屋は、ただの冷たい箱になった。 「いや、結月ちゃんってあんなにおっとりしてたのに、今回はマジでキレてる感じだよね……」 そのとき、山田毅(やまだつよし)が躊躇いがちに口を開いた。 「隼人さん、聞いたんですけど……結月さん、今、海都の藤沢家の御曹司と付き合ってるって」 海都、藤沢家……あの男の名前は―― 「……藤沢慎也か?」 隼人が低く問い返すと、彼は大きくうなずいた。 「そうそう、そいつっすよ。藤沢慎也って、昔は女性関係まったくなかったらし
どれくらい時間が経ったのかもわからない。 ただ、全身がぐったりと重くて、もう動きたくなかった。 私はそのまま、そっと目を閉じて、眠りへと落ちていった。 目を覚ましたとき、外はもう夕暮れだった。 窓の外にはオレンジ色の街灯が映り込み、部屋にぼんやりとした光を落としていた。 「起きた?疲れてない?」 慎也の声が優しく響いた。 「……何時?」 「まだ7時前だよ」 私は思わず布団の中に潜り込む。午後の「事件」を思い出して、顔が熱くなっていた。 「……まだ、寝たりないのか?」 彼の声が落ち着いて響く。 その「寝る」の一言だけ、やけに語気が強くて―― まるで、午後の「あれ」をわざと蒸し返すような、そんな意味を含んでいた。 そのときようやく気づいた。彼はちょうどバスルームから出てきたばかりで、腰にタオルを一枚巻いただけ。鍛えられた胸筋と腹筋がはっきり見えて、思わず「ごくん」と喉が鳴った。 その音に、彼はすぐ気づいたらしく、目を細めて興味深そうにこちらを見る。 「起きる?抱き上げてやろうか?」 「だ、だいじょうぶ。自分で起きるから」 あわてて身を起こして、はじめて自分が裸だと気づいた。慌てて毛布をつかんで体をくるみ、そのままバスルームへ駆け込む。 「結月、今夜、ちょっとだけ友達に会いに行くんだ。君にも一緒に来てほしい」 彼の声が後ろから追いかけてくる。私はバスルームのドアを閉めて、彼を締め出した。 「うん、行くよ」 「急がなくていいよ。会場のホテル、すぐ近くだから」 すりガラス越しに、彼の優しい声が響いた。 鏡に映る自分を見て、あちこちに残る痕跡に顔が火照る。冷たい水で何度も洗って、ようやく落ち着いた。 バスルームを出ると、慎也はすでにスーツに着替え、完璧に身支度を整えていた。 「もう遅い?」 彼は腕時計をちらりと見てから答える。 「まだ間に合う。急がなくていいよ」 そうは言っても、会場に着いたときには、ほとんどの人がもう揃っていた。 「おお、慎也まで来るとは!しかも女連れで!これはレアすぎるじゃん!」 「慎也、彼女さん?」 入り口で話し込んでいたスーツ姿の数人が、こちらを見てニヤニヤしながら詰め寄ってくる。 「うん、俺の婚約者。結月だ」 「マジで
そのことに気づいたのか、彼が小さく咳払いをして、いたずらっぽく聞いてきた。 「……見惚れた?」 「うん、かっこいい」 「ふふ、それならもっと見てていいよ」 そう言って、彼はじっとこちらを見つめる。私は顔がぽっと熱くなって、目を逸らそうとしたけど―― 彼が低くささやく。 「どうした?俺に食べられそうで怖い?」 私はなんとか平静を装って、からかい返す。 「別に怖くないけど?むしろ、そっちが我慢できないんじゃない?」 「……ほう?」 彼の目に、興味深そうな色が宿った。 ふと――隼人に言われた「お前はつまらない」って言葉が、頭をよぎった。 ……だから私は、ちょっとだけ、勇気を出した。 彼のネクタイを引き寄せ、腕を伸ばして慎也の首に手を回す。 そのまま身体を寄せると、彼の動きが一瞬止まった。 私はゆっくりと、彼のシャツのボタンに手を伸ばす。 でも―― 「ストップ」 彼が、私の手をそっと押さえた。 「……婚約者の特権。好きにさせてよ?」 私は上目遣いで不満をもらす。 そして、軽く彼の喉仏にキスすると、彼は堪えるような小さな呻き声をもらした。 「……今日の会議は、ここまで」 パソコンを閉じて、彼はそのまま私をソファに押し倒した。 熱のこもったまなざしで、私を見下ろす。 「さっき言ったよね。『婚約者』。 『好きにさせて』って言ったんだよね?……そのつもりで、覚悟しといて」 「えっ――」 言葉を遮るように、彼の唇が私を覆った。 慎也の口の中は、レモンとミントのような清涼感に満ちていて――思わず、そっと味見してしまった。 ……それが引き金だった。 彼のキスが、急に熱を帯びて深くなり、私のナイトドレスが、一瞬で破かれてしまった。 ベッドにたどり着く間もなく、私たちはリビングのソファで初めてを迎えた。 まるで嵐のような熱に包まれて、気づけばふたりとも汗だくになっていた。 息を荒くしながら、彼が私の上に覆いかぶさるように覗き込む。額から流れた汗が、ぽたぽたと私の唇に落ちた。 そのしずくを舌で拭った瞬間―― 彼の目が、再び熱を帯びてきた。 「だ、だめ……」 心臓が壊れそうなくらい打ち鳴る。必死で彼を押そうとしたけど、力が入らない。 慎也は
「でも、大丈夫。これからたくさん時間をつくって、ゆっくり君に知ってもらうよ」 慎也の言う通りだった。私たちは婚約までしているけれど――実のところ、お互いのことを、まだちゃんと知らなかった。 すべての始まりは、2年前。 父が大きな病気で倒れて、退院したあと、「一人にしておくのが心配だ」と、急に私の結婚を気にするようになった。 その年、お正月に京市へ戻ったとき、私は意を決して隼人に結婚の話を切り出した。 でも彼は、仕事が忙しいことを理由に「今は考えられない」と言った。 あのとき、もう付き合って6年経っていた。私はすごく悲しかったけど、彼が仕事に追われている姿を見ると、責める気にもなれなかった。 ……それでも、やっぱり心はしんと冷えていった。 その後、彼と別れて――私は父の言う通り、お見合いを真面目に受け入れることにした。 その話を親友の西川遥(にしかわはるか)に伝えたら、彼女は目を輝かせながらこう言った。 「うっそ、ちょうどいい人いるじゃん!仕事バカで、あんたより2歳上。30超えてんのに、いまだに彼女連れて実家行ったことないって、おばさんがめっちゃ焦ってんの! ほら、知ってるでしょ?藤沢慎也。高校の先輩だよ?」 慎也――遥のいとこ。高校のとき、2学年上の先輩。 ……覚えてないわけ、ないじゃん。 子どもの頃からずっと話題の中心だったし、遥のつながりで何回か話したこともある。生徒会でも一緒に活動した時期があった。 「私は覚えてるけど……彼が私のことなんて、覚えてるわけないでしょ」 だって、あんなに完璧な人。私みたいなの、記憶に残ってるわけがない。 そんな気持ちが心に広がって、少しだけ胸がチクリとした。 あれだけのスペックを持ちながら、いまだ独身。つまり、相当こだわりがある人なんだと思った。 「いや、むしろ結月って聞いて、初めてOK出したんだよ」 遥のセッティングで、私たちは顔を合わせた。 まさかのお見合い、びっくりするほど順調に進んで―― 父は慎也を大絶賛、藤沢家のお母さんは、私のことをすごく気に入って、いつまでも手を離してくれなかった。 そのまま両家の親同士が話し合って、あれよあれよという間に話がまとまって、婚約が決まってしまった。 私をホテルに送り届けた後も、慎也はすぐに支