残りわずかな力を振り絞り、私は春華を振り払って病室を飛び出した。喉に指を突っ込みながら必死で吐き出そうとする。 こんなに即効性のある麻酔は、体に悪影響を与えるに決まっている。急いで吐かなくては。 病室の外で創眞の姿を探したが、彼はいなかった。その代わりに昨日会った看護師が目に入った。 「助けて……胃洗浄を……」 その場で盛大に吐き出してしまった。幸いなことに、看護師が駆け寄ってくる直前で何とか方向を変えられた――吐瀉物は白衣を着た静琉に直撃したのだ。 静琉は潔癖な性格だ。今回の洗浄手術を彼女が執刀することは、さすがにないだろう。 どうやら私の姿が相当に衝撃的だったらしく、近くにいたハゲ頭の医師がひどく驚き、そのまま私を手術室に運び込んだ。 次に目を覚ました時は、すでに夜になっていた。 看護師がちょうど病室に入ってきて、私が目を覚ましたのを見るとすぐに駆け寄り、念入りに体の様子を確認してくれた。 「いやあ、こんな患者さん、初めて見たよ。術前に飲み食いしちゃう人はたまにいるけど、自分で麻酔飲むなんて…… 痛いのが怖いなら、そう言ってくれればいいのに。麻酔科の先生にお願いして、追加で麻酔を打ってもらうこともできるし、それにお金かからないんだから。 でも、麻酔を飲むなんて……しかも動物用の麻酔だよ?間一髪で対処できたから良かったけど、危なかったら本当に安楽死状態になるところだったよ!」 私は苦笑した。普通、誰が患者用のスープに麻酔を仕込むなんて考えるだろう。しかも動物用の麻酔だなんて。 てっきり鶏の尻や頭、足をかき集めるのが限界だと思っていたのに、まさかそれ以上に狂った行動をするとは。 ある人の最低ラインというものは、想像をはるかに超えるものだ。
私は看護師に連続して謝罪し、その場で麻酔スープの責任を春華に押し付けた。 もともと春華の責任だ。私が意識を失っていた間に、どれほど多くの汚名を着せられていたか分かったものではない。 看護師は私の話を聞いて同情してくれたらしく、珍しく余計な一言を付け加えた。 「結婚って人生でとっても大切なことだから、じっくり考えたほうがいいよ。特に、周りに頼れる人がいないときは、なおさら慎重にね」 彼女の忠告に感謝しつつ、私は心の中で考えを巡らせた。この一件で婚約を解消するには十分な理由ができた。 静琉への復讐はまた後日だ。 看護師が部屋を出ると、隣のベッドの女性が近寄ってきた。顔には呆れたような表情を浮かべながらも、慰めの言葉をかけてくれた。 「私も経験あるけどね……あの義母さん、ひと目で厄介なのが分かるわよ。若いんだから、無理して縛られることないのよ。婚前にバレて良かったじゃない?これが結婚後だったら逃げ場もなかったでしょうに」 私は控えめに笑って相槌を打ちながら、時々軽く返事をした。それだけで女性は満足そうに喋り続ける。 その時、病室のドアの向こうに人影が見えた。私は女性の袖を引っ張り、外を注意するよう示した。 病院のガラスは一方向しか見えない仕様になっている。中からは外が見えるが、外から中は見えない。 私と女性は、春華がドアの隙間にしゃがみ込み、まるで亀のような格好でこちらの会話を盗み聞きしているのをはっきりと目撃した。 女性は羞恥と怒りが入り混じった表情で立ち上がり、二歩進んで勢いよくドアを開けた。 その勢いで春華はほとんど前のめりに倒れそうになった。 「いやあ、おばさん、ドアを顔で開けるんですか?その勢い、もし人間じゃなかったら体温計が化けたのかと思っちゃいますよ。病院のドアは鍵がかかってないんですから、顔認証はいりませんよ」 春華は盗み聞きを咎められ、恥ずかしそうにしていたが、すぐに病室に入ると態度を取り繕った。私を見るなり、いつもの威圧感を取り戻して話し始めた。
「最初に鶏スープが嫌いだと言ってくれれば、無理に飲ませたりしなかったわよ。せっかくの良いスープを台無しにして」 女性は春華がまだ私を責めようとしているのを見ると、私を庇おうと一歩前に出た。 私はそれを止めるように口を開いた。 「ごめんなさいね、お義母さん。動物用の麻酔に私がアレルギーがあるとは知りませんでした。次回麻酔を入れる時には一言教えてください。その時はちゃんと抗アレルギー薬を飲んでからスープをいただきますから」 女性は吹き出して笑い出し、周りの注意が彼女に向くと急いで笑いを堪えた。 「おばさん、そんなにアレルギー体質を知らないんじゃ、お嫁さんの世話も大変ですよ。なのにこんな珍しい麻酔スープをわざわざ作るなんて、すごい努力ですね。これ、実家の名物ですか?」 春華はさすがに顔が引きつり、ついに怒り出した。 だが、女性も負けてはいなかった。口喧嘩を応酬しながら、春華を病室の外へ誘導しようとする。 彼女が私に近づこうとするのを察知すると、女性はすぐさま間に立って私を守ってくれた。 場を収めに入ったのは看護師だった。 「もう!なんでこんな面倒ばっかり起こすのよ!」という表情で、声を荒げて二人を一喝した。 その声は春華と女性の怒鳴り声さえかき消してしまうほどだった。 しかし、春華はそれでも聞く耳を持たず、ついには女性に手を伸ばそうとした。 事態がさらに悪化しそうだったため、私はすぐに看護師を呼び寄せ、耳打ちした。 「この騒いでいるおばさん、御堂静琉のお母さんですよ?静琉を呼んでください。無理なら、病院の上司に報告して静琉の給料を差し引いてもらいましょう。どうせあの家、お金には困ってないでしょうし」 看護師は一瞬躊躇したが、後ろで騒ぐ二人を見て最終的に静琉を呼びに行くことを決めた。 ――静琉、あんた、いつも上品ぶってるんでしょう?さあ、この母親の騒動が皆に知られたら、あんたの「上品さ」がどうなるか見物ね。
静琉は一人では来なかった。看護師が彼女を探しに行った際、ちょうど静琉の指導医も一緒だったらしい。 指導医は、静琉の母親が病院で騒ぎを起こしていると知り、彼女と共に病室へやってきた。 静琉は真っ黒な表情をして現れた。特に、今まさに顔を真っ赤にして喚き散らし、髪も乱れている春華の姿を見た瞬間、その顔色はまるで鍋の底のように暗くなった。 春華は外では威圧的だが、娘には本当に甘い。一目娘の姿を確認すると、すぐに喧嘩をやめ、隣のベッドの女性に軽く引っ掻かれたことも気にしなかった。 一方で、静琉の指導医は荒れ果てた病室を見てため息をつき、闘争の主犯が静琉の母親であることを確認すると、淡々とこう命じた。 「ここを片付けてから帰りなさい」 静琉は目に涙を浮かべながら春華を睨みつけると、仕方なくビニール袋を拾い上げ、片付けを始めたフリをした。だが、指導医が去るとすぐに態度を豹変させ、看護師に向かって命令口調で指示を出し始めた。 看護師はそんな態度に我慢できず、すぐさま指導医に報告しようとしたため、静琉はあたふたと慌てふためいた。 看護師も春華にはうんざりしていたため、静琉にその鬱憤をぶつけることにした。彼女は掃除を手伝おうとした女性や外にいる清掃員を制止し、静琉と春華が全て片付け終わるまで見届けることにした。
ようやく片付けが終わると、静琉は涙目で病室を飛び出していった。それを見た春華も慌てて追いかけていった。 私はその隙に看護師に声をかけた。 「すみません、退院手続きをしたいんですが、どこでできますか?」 春華も静琉も私に構っていられない様子だし、創眞も不在。まさに絶好の逃走チャンスだった。 「でも、手術まだやってないじゃない?」 私は苦笑しながら、春華と静琉が去った方向に顎をしゃくった。 「あの親子、見ましたよね?彼女たちがいる限り、私は安心して手術なんて受けられません。それに、そもそも命に関わるような病気でもないですし」 看護師は納得したようにうなずいた。 「分かった。手術してないなら、支払った分は返金できるから、1階の総合サービスカウンターで手続きしてきて。お金を返してもらってから退院手続きをして。すぐ終わるから、大丈夫よ」 私は前世の経験を思い出し、余計なトラブルを避けるために服を着替えず、身分証とスマホだけ持って病室を飛び出した。 「ちょっと!麻酔まだ効いてるんだから!少し休んでからにしなさい!」 看護師の声を無視し、ふらつきながらも病院の外に向かった。 隣のベッドの女性がそれを見かねて、共有スペースにあった車椅子を取ってきてくれた。 「お嬢さん、頭が切れるようで、実はちょっと抜けてるのね。何も準備せず、ただ逃げるだけなんて……義母さんに食べられるわけでもあるまいし」 彼女はさらに続けた。 「ほら、私の娘に頼んで荷物をまとめてあげるわ。そのまま車まで運んであげるから、安心して」
創眞と結婚の話が出てから、私はほとんど強制的に彼の家に住まわされるようになっていた。 私が愚かだった。婚前に一緒に住むなんて考えなければよかった。今では、帰る場所すらない。 とりあえずタクシーの運転手にランダムで送ってもらったホテルにチェックインし、すぐに不動産仲介業者に連絡を取って部屋を探してもらうことにした。 唯一の心残りは、創眞の家に運び込んだ私の家具や家電だ。それらはすべて私が自分の金で買ったもので、どれ一つとして彼らに残しておきたくはなかった。 幸いにもペットを飼っていなかったのは幸運だった。もし猫や犬を飼っていたら、取り返しに行く羽目になっていたかもしれない。 私はその場で創眞やその家族の連絡先を全てブロックし、別の病院に診察予約を入れた。まずは自分の体の状態を確認するためだ。 実際、子宮頸部の炎症について調べた時、私は多くの医師に相談していた。 ほとんどの医師が「子宮頸部の炎症は大した病気ではなく、ただの軽い炎症」と説明してくれた。 それでも、静琉は「手術が必要だ」と強く主張した。私が少しでも反論すると、「やましいから手術を嫌がっているんでしょ」と詰め寄られた。 静琉も一応は医者の端くれだ。彼女の言うことに従っておけば間違いないと思い、小手術くらいなら安心だろうと、自分を納得させていた。誰が想像できるだろう。ただ一度、手術でお茶を濁そうとしただけで、こんな大きな災難を招くなんて。
手術のために取得した長めの休暇が、もうすぐ終わる頃だった。 そのため、退院後すぐに再検査には行かず、まずは会社に戻ることにした。 私には重要なプロジェクトが進行中で、あと少しで完了するところだった。本来、その大事な時期に休暇を取ったことで、上司の不満を買っていた。 このプロジェクトを無事に終えれば、管理職に昇進する資格が得られる。 昇進してから健康診断を受ければ、仕事も健康も手に入る。一石二鳥だ。 プロジェクトに集中している間、創眞が電話番号を変えて何度か私に連絡をしてきた。 最初、知らない番号からの電話をうっかり取った時、まさかの罵倒が飛んできた。私は咄嗟に通話を録音し、その音声を創眞の職場のグループチャットに放り込んだ。 創眞はその会社では中堅リーダー格の存在だったが、この一件で上司に呼び出され、散々叱責されたと聞く。大いに面目を潰したことだろう。 その後も彼は何度か電話をかけてきたが、ようやく丁寧な話し方を覚えたらしい。 私はその機会を利用して、婚約破棄を確定させた。理由は春華が無理やり私に鶏スープを飲ませようとした件だ。 静琉の問題については、後で告発する必要があるため、まだ公にはしなかった。 こうして私は創眞との縁を完全に断ち切り、ようやく仕事に専念できるようになった。
「みなさん、静かにしてください。今から一つ、お知らせがあります」 私は微笑みながら上司を見つめた。ようやくプロジェクトが終わり、いよいよ私が管理職に昇進する発表があるに違いない。 昇進すれば、給与も大幅アップし、自分のオフィスも持てるようになる。 これまでの努力が報われる瞬間だと確信していた。 「それでは、綾小路陽真(あやのこうじ・はるま)くんの昇進を祝福しましょう。これから彼が新しい管理職です!」 私は呆然とした。綾小路陽真って……先月ようやく正社員になったばかりの新米じゃないか?彼の名前が印象的でなければ、誰だか思い出せなかっただろう。 それにしても、今回の昇進が私でないにしても、彼が選ばれるなんてあり得ない! 私は心の中で思った。まさかまたどこかのコネ持ちエリートがやってきたんじゃないでしょうね? 綾小路は悠々と立ち上がり、上司や同僚に感謝の言葉を述べ始めた。 私はすぐに気持ちを切り替え、彼を「背景の強い人物」と見なして我慢することにした。だが、まさか相手から絡んでくるとは思わなかった。 綾小路は感謝の言葉を述べる中で、突然こちらを一瞥した。嫌な予感がした瞬間、彼はこう言った。 「まだ未熟な私ですが、これから一層努力していきます。特に、人としての品性や道徳を重んじたいと思っています。才徳兼備でない者が高い地位に就くことこそ、会社にとって最大の不幸ですから」 私は心の中でピンときた。創眞が私の悪評を広めたのだ。そしてこの綾小路は、それを利用して私を軽く見下している。 怒りが込み上げてきた。たとえ相手が本当に「コネ持ちのプリンス」だとしても、ここは黙っていられない。 私は鼻で笑い、わざと全員に聞こえる声で反撃した。 「才徳兼備かどうかは分かりませんけどね。少なくとも、才能があることだけは事実です。道徳なんて偽装できますが、愚かさは隠せません。ないものは、ないんです。 高い地位にいる愚か者がどれだけの損害をもたらすか、まだ見たことがありません。綾小路さん、ぜひ見せてくださいよ」 私がこう言うと、綾小路の顔は真っ赤になった。 私は心の中で冷笑した。どうしてこんな人間が、自分が言ったことに対して非難されると分からないのだろう。 全く論理的な思考ができない人間だ。こんな単純な推測すら考えないなんて
今回の人生では、私が早めに距離を置いたことで、前世のような悲惨な結末は回避された。 創眞と別れた後で気づいたのだが、本当に愛してくれる人は、私がどれだけ弱い立場であっても決して虐げず、むしろ最も強い味方になろうとしてくれるのだと知った。 35歳の時、私は今の恋人と結婚することを決意した。 その年は、彼の恩師が静琉の父親の地位を引き継ぎ、近隣医療界の新たなリーダーとなった年でもあった。 私たちは出会うのが少し遅かった。結婚した時には彼は37歳になっていた。 彼は「男性の精子は35歳を過ぎると急激に質が落ちるし、もし子供を授かっても君が大変だ」と言って、私たちは子どもを持たない選択をした。 代わりに、私たちは猫と犬をそれぞれ1匹ずつ飼い、郊外の広々とした庭付きの家で暮らしている。 目立った波風もないけれど、私たちだけの穏やかな幸せがある。 ただ、夫には少し子供っぽいところがある。私が新しいコットン素材のぬいぐるみ「娘」を買うと、彼はこっそり「息子」を買い足してきて、ぬいぐるみの結婚ごっこを始めるのだ。 「一人で独り占めするのはダメだよ。ほら、二人で素敵な世界を作ろうね」 私は一人で「娘」を抱っこして楽しんでいるのに、彼は「息子」を持ち出して、二人でラブラブな時間を過ごせと言わんばかりだ。 まったく、ケチでおバカな旦那さまだこと。
創眞と静琉が結婚したというニュースを、同僚がわざわざ教えに来た。 私は「ええっ!?」と吐きそうな気持ちになりながらも、ツッコミたい気持ちを抑えられなかった。 ――あの二人、頭おかしいんじゃない?結婚するのは勝手だけど、散々騒動を起こした挙句、なんで私を招待しようなんて考えるの? 報せを持ってきた同僚によると、二人は何度も別れたり寄りを戻したりしていたらしい。それでも結婚にこぎつけたとは驚きだ。 実は、彼らのことが耳に入るのは私が好奇心旺盛だからではない。静琉が入職を希望していた病院が、今の私の恋人の職場だったからだ。 そこは、私が検査で問題を発見した病院でもある。 静琉は私をまるでまな板の上の魚のように見下していて、手術記録を都合よく改ざんしていた。彼女が外部研修に応募する直前のことだ。 だが、偶然にもその記録が彼――私の恋人の目に留まった。 彼はその分野の審査を担当しており、前日に起きた医療事故を目撃したばかりだった。 そして、その事故の関係者リストに「御堂静琉」という名前が記載されていることを発見。事故を起こした本人が研修に応募していると知るや否や、申請を即座に却下した。 私たちは、静琉をネタにした雑談を通じて知り合い、次第にお互い惹かれるようになったのだ。 その後、私の告発がきっかけで大きな騒ぎとなり、静琉は医師資格を剥奪された。 もちろん、希望していた病院への転院も不可能となった。 静琉が失業して間もなく、創眞は私に対して恨みを抱き、復讐を画策し始めた。 だが、私が慎重に行動していたため、彼が接近する隙を与えず、結局は私の評判に傷をつける程度の嫌がらせしかできなかった。 その嫌がらせが逆に、私の転職を促進する結果になったのだから皮肉なものだ。 二人とも仕事を失い、自宅に引きこもる生活を続けるうちに、再び元の関係に戻ったようだ。 ――まあ、いいんじゃない。幸せを祈るよ。二人そろって外に出て他人を害さないでくれるなら、だけどね。
これで静琉はもう医師にはなれないし、創眞とも別れた。私も新しい生活を始める準備が整った。 静琉が今回のような行動を取った背景には、彼女の実父の庇護があったことは間違いない。 しかし、普通の人間である私が医学界の権威である彼を引きずり下ろすのはあまりにも難しい。 今回の騒動が明るみに出た後、静琉と彼女の父親との関係も表沙汰になった。その影響で、父親は後妻と何度も揉め、静琉との関係も以前ほど良好ではなくなったようだ。 ただし、私はこの件で持てる手札を全て使い切り、以前から貯めていた貯金も、サクラや結婚準備の費用でほとんど底を突いてしまった。 これからは仕事に集中して、早くお金を貯める必要がある。 お金は人間の骨であり、全ての問題を解決する万能薬だ。 今回、私に貯金がなければ、どれほど証拠を掴んでいても、それを公開し、正義を勝ち取ることはできなかっただろう。 私は新しい会社に積極的に馴染み、早速ある大口顧客に連絡を取って新会社に大きな案件を持ち込んだ。 問題が解決した後の久しぶりの職場復帰は、驚くほど快適だった。 何度も改訂を求められた書類や、深夜までの残業を強いるハゲ上司でさえ、それほど嫌な存在には感じられなかった。 何しろ、彼らは少なくとも私にお金を払ってくれるからだ。 あのクズ男どもとは違う。彼らは私の体を目当てにしながら、私が浮気していると罵り、手術台に送り込み、死後には遺産を使って愛人と結婚式を挙げるような連中だった。 私が必死に残業して稼いだお金が、創眞に奪われ、静琉のウェディングドレスに消えたと考えると――ファイルを上司の頭に投げつけたくなる衝動を抑えるのに必死だった。八つ当たりした?いいじゃない、私にだって理があるんだから。そもそも、あんなクズの創眞を採用したハゲ上司が悪いのよ!
私が指示を出すと、ハッカーや「ダブル御堂」の親戚、友人、隣人たちが一斉に動き出し、ようやく話題の焦点を静琉の医療事故に戻すことができた。 それでもネット民の反応は相変わらずユーモアに溢れていた。 「主人公じゃないの?なんで兼業で金持ちの友人医者までやってるんだよ!」 「監督さん、私、義母の役を演じたいです!」 「世界は巨大なラノベだね!」 これ以上、彼らに流れを変えられるわけにはいかない。私はサクラを投入することを決めた。 「この病院、苗字が御堂なのか調べてみて。小説ではこういうのはだいたい悪徳財閥が経営してるんだから」「調べてみたら、驚いたよ。この病院の院長、名字が御堂なんだ。それに独占情報だけど、過去10年間、この病院で採用された専門卒の医師は御堂静琉だけだったってさ」 「偶然かしら。私、その御堂静琉さんの隣人だけど、彼女のお母さんが離婚したのは、父親が手術ばかりで家に帰らなかったからよ」 …… 私は額の汗を拭った。ようやく話題の方向性を変えることができた。 ネット上の雰囲気は楽しげだが、実際には多くの人が厚生労働省に苦情を入れ始めている。 最近、厚生労働省に電話して進捗を確認しようとしても、常に話中になっているほどだった。 話題がさらに広がるにつれて、ついにこの件に詳しい内部の知識を持つ人々が現れた。 静琉のSNS記録に載っていなかった情報が次々と暴露され、彼女の狂気的な愛情物語に巻き込まれた女性たちが次々と声を上げ始めた。 さらには、春華が静琉の尻拭いをしている動画まで公開された。 これで静琉の個人情報は完全に隠せなくなった。ネットの「調査班」は一斉に動き、彼女が勤務中に何色の下着を着ているかまで暴いてしまうほど徹底的だった。 ネット民の支援のおかげで、厚生労働省はようやく私の苦情を真剣に取り扱い始めた。そして迅速に静琉を解雇した。 もし静琉が彼女の父親のように高い地位についていたら、病院側も処分に慎重だっただろう。 しかし、彼女は父親のコネで押し込まれただけのトラブルメーカーであり、しかもまだ実習生だ。 静琉を追い出したいと考える人間は多く、解雇に何の障害もなかった。 私は過剰に追い詰めるつもりはなかったが、静琉の学歴や能力、そして今の悪評を考えれば、彼女が医師として復帰す
厚生労働省に苦情を申し立てる前日、私は創眞の日記を密かにネットにアップロードしていた。 そして、三日後には私が雇ったSNSマーケティングアカウントが「絶美の愛の物語」を広め始めた。 おなじみのネット民たちが100回は見たような恋愛物語に紛れて、異母兄妹の禁断の愛という要素を盛り込んだところ、話題性は爆発した。 「ダブル御堂」の物語は、わずか5日で数十万の「いいね」を獲得する投稿を生み出した。 だが、予想外だったのは、今のネット民が予想以上に冷静だったことだ。 コメント欄には、「私」の存在に気づいた鋭い意見が早々に現れた。 私はそのコメントを複雑な気持ちで眺めていた。もしも手術を強要されていた頃に助けを求めていたら、結果は違っていたのだろうか? 人々は物語を楽しみながらも、誰も暴力的な行動を煽る者はいなかった。むしろ、どのコメントも私に「早く逃げて」と助言を寄せるものばかりだった。 この冷静さのおかげで、私が準備していた「愛の神話」を用いる作戦は使えなくなってしまった。 代わりに、法的な知識を提供するコメントや、異母兄妹の結婚の合法性を説明するものが増えていった。 さらには、化粧品の宣伝や結婚式の宣伝、不動産の広告、果ては離婚弁護士までがコメント欄で営業を始める始末だ。 一番面白かったのは、知識人たちが登場し、「転生復讐」「愛を取り戻すための修羅場」「妊娠した妻が子供を連れて逃げる物語」などのシナリオを勝手に作り上げていたことだ。 私はその様子を見て、呆れるやら笑うやらだった。 ――でも、このままでは私は単なるネットのネタとして扱われてしまう。行動を起こさなくては。
全ての計画を整えた後、私は集めた証拠を携えて、厚生労働省行きの電車に乗り込んだ。 厳密に言えば、医療紛争は厚生労働省の管轄外だ。なぜなら医療紛争は基本的に民事紛争に分類されるからだ。 ただ、多くの医療紛争は、医療従事者や病院の職務規則違反、サービス基準違反に関わるため、厚生労働省の管理範囲に含まれることがある。 そのため、稀に厚生労働省が紛争の解決にも乗り出すことがあるのだ。 私は事前にインターネットで手続きの方法を調べ、『医療コア制度』に基づき、静琉の罪状を一つ一つリストアップした。 証拠が十分に揃っていたため、ほとんど揉めることもなく受理されることになった。職員は「すぐに調査チームを立ち上げて、この件を調べますので、結果をお待ちください」と言った。 だが、そんな言葉を真に受けるほど私は愚かではない。 この国では、事なかれ主義を好む傾向が強い。「クレーム」や「反撃」に対して嫌悪感を抱く人が多いのだ。 もしもここで「分かりました」と大人しく家に帰って結果を待てば、公式機関の人間ですら平然と対応を先延ばしにし、こちらが怒る気力を失うまで引き伸ばされるだろう。 結局のところ、最終的に得られるのは病院が手書きで書いた謝罪文程度だろう。それに加え、私の個人情報が漏洩する可能性までついてくる。 そうなる前に、私は準備しておいた「ネット世論」という後押しを使うことにした。 人間というものは、完璧な物語を嫌う生き物だ。 私が描いた「絶美の愛」の物語に涙を流す人がいる一方で、その裏に隠された欠点を執拗に探ろうとする人間も必ず現れる。 そしてその中には、本当にヒマを持て余して問題を告発する者までいる。 まして、実習医が執刀医を務めたこと、診療記録の改ざん、保険の不正請求といった問題は、どれも非常に悪質なものだ。 私はこれらの問題を直接提示するのではなく、人々に自らそれを発見させることで話題に火を付ける作戦を取った。 直接「ここがおかしい」と指摘するよりも、「ここは素晴らしい場所だ」と賞賛するほうが、よほど多くの人々が批判的な視点で問題を探り始めるものだ。 人間とは、流れに乗りつつも自分が「賢い」と思い込みたい生き物なのだ。
この問題を世間の関心事にするため、私は私立探偵を雇い、いくつかの証拠を掴んでもらった。 それは、前世で創眞が私を殺したことで、彼の後をついて回らざるを得なくなった結果、偶然知ることができた秘密だ。 創眞は、私たちが将来住む予定だった新居に地下室を追加購入し、そこに彼の「深い愛情」を保管していた。 そこには、静琉の幼少期からの写真、初潮の時に使った生理用品、静琉への片想いを綴った日記、さらには静琉からのプレゼントが全て収められていた。 私はこれを基に、感動的な「愛の物語」を作り上げ、フォロワー数の多いSNSマーケティングアカウントに投稿した。 内容は「偶然、愛の聖地に迷い込んだ泥棒の視点」という形で、全ネット上に「創眞と静琉」という不幸な恋人たちを探し出そうというものだ。 さらに、静琉を無実の天使のように見せるつもりもなかった。 静琉と創眞は、本当にぴったりのカップルだ。普通の人なら自分の秘密をここまで事細かに記録しないだろうが、二人はその「普通」からはかけ離れていた。 私は静琉のネットノートとSNSアカウントをハッキングさせ、驚くべき事実を目にした。 私が最初の犠牲者ではなかったのだ。 彼女は私と同じ目に遭った女性たちの記録を事細かに書き残していた。 ――クズ男と最低女。 ネット上で二人の「神聖な愛」がもてはやされるタイミングを狙い、雇ったハッカーにこう投稿させる予定だ。 「これが皆さんが羨むお姉さんですよね?」 その後、静琉の同僚、御堂家の近所の住民、創眞の同僚、さらには私たちの結婚式のプランナーまでが真実を語り出すだろう。 最終的に、人々はこの「神聖な愛」を讃える一方で、私という存在――無実でありながら騙されて結婚させられ、姑や義妹から迫害され、手術台に騙されて乗せられた挙句、黄黒い噂まで流された悲惨な前妻――に気づくことになる。
影像室で半日近く待ち続け、ようやく検査が終わり、診察室に戻った時にはすでに医師が退勤する直前だった。 医師から「体に問題はない」という言葉を再び聞き、私はようやく安心できた。 医師は親切にも私の連絡先を聞き、「元の病院で何か問題があれば相談してください」と言ってくれた。 私は連絡先を交換したが、その言葉通り病院に苦情を申し立てるつもりはなかった。 前世の経験から、病院に直接苦情を言うのが最も遅く、かつ簡単にごまかされる方法だと分かっていたからだ。 どうせやるなら、もっと効果的にやるべきだ。 私は決めた。直接、厚生労働省に乗り込むことにする。前世、私が妊娠したかもしれないと勘違いして検査を受けに行った時も、静琉が勤めている病院を選んでしまった。 そのため、不審に思ってその場で苦情を申し立てた際、静琉はすぐに私の動きを察知した。 その時、私は疑問に思っていた。なぜ、誰にも話していないのに創眞がすぐに状況を把握し、会社からタクシーで駆けつけて私を怒鳴りつけたのか、と。 苦情を申し立てる前に、私は静琉に関する資料や、春華と隣のベッドの女性が病室で喧嘩している動画、私の電子カルテや保険記録などを全て別の場所に転送しておいた。 複数のバックアップを作成し、さらにタイマーを設定して自動で公開されるようにしておいた。 もしまた私が不幸に見舞われたとしても、静琉と御堂家の悪事が隠されることはないように。 とはいえ、全てをインターネットに頼るつもりはない。これまでに私のケースよりも酷い医療事故がインターネット上に公開されながらも、ほとんど注目されなかったことは幾度も見てきた。 インターネットには新しい話題が溢れている。人命に関わる事件ですら、日常茶飯事のように扱われることも珍しくない。 ましてや、手術を受けていないのに手術記録が残されていたり、実習医が執刀医として名を連ねている程度の話では、誰の関心も引けないだろう。
静琉の父親が医学界の権威である以上、近隣の病院で治療を受けると行動が露見するリスクが高い。 そのため、私は隣町の公立病院を選んだ。 公立病院の婦人科は少し雑だと聞いていたが、少なくとも私立病院のように小さな問題を大げさにしてすぐ手術室に連れ込むようなことはなさそうだ。 予約して順番待ちをし、ようやく診察室に呼ばれた。 私は緊張しながら診察室に入ると、目の前には男性医師が座っていた。 えっ、婦人科で男性医師? 気まずさをこらえつつ、以前撮った検査結果の書類を彼に渡した。 「子宮頸部の炎症ですね。これは病気ではありません。ただの炎症ですから、手術は必要ありません」 「おかしいですね……保険記録では、1か月前に手術を受けたことになっていますが。どうしてこんな短期間で再発したんでしょう?」 ――えっ?……私、手術なんて受けてないんだけど? 医師はパソコンをこちらに向け、記録画面を見せてくれた。そこには、確かに私が手術を受けたという記録が残っている。 さらに、執刀医の名前の欄には静琉の名前が記されていた。 ――「探し物は探さない時に見つかる」ってこのことね。 私が静琉を告発するための証拠をどう集めるか悩んでいたところに、思わぬ形で転がり込んできた。 ただ、これがどんな罪名に該当するのか、専門用語は分からない。 私は気持ちを落ち着け、まずは健康問題を片付けようと考えた。そして、ついでにこの医師から情報を引き出せるか試してみることにした。 「実は先月手術を受ける予定だったんですが、ちょっとした事情で中断して退院したんです。結局、手術は受けていません」 医師は眉をひそめ、私のカルテを見直した。 「電子カルテも紙のカルテも、どちらも手術済みになっています。本当に受けていないんですか?これは立派な医療事故ですよ」 私は強く頷き、手術を受けていないことを改めて説明した。 「あなたの体には特に問題はありません。ただ、念のため画像検査をして確認しておきますね。ただし、このカルテの問題は重大です。元の病院で確認したほうがいいでしょう。手術を受けていないのに保険が使われているなんて……」 「それなら、画像検査をお願いします」