病室のドアが開く音がして、入ってきたのは元婚約者の母、春華(かるか)だった。 彼女は大きな保温ポットを抱えている。 私を見るなり、まずは露骨に白眼を向け、次に無理やり慈母のような笑顔を作りながら話しかけてきた。 「真昼、明日は手術でしょ。だから特別においしい鶏スープを作ってきたのよ。明日の朝早く飲んで、体力つけて手術に臨むといいわ」 私は彼女が差し出したスープをじっと見つめた。 前世でも彼女は鶏スープを持ってきてくれた。当時の私は純粋に感激したものだ。 ただ、手術前の禁食・禁水のルールがあったので、彼女が用意したスープを飲むことはなかった。 その時の私は、彼女が病院の規則を知らないのだと思い込み、丁寧に説明したものだ。 だが、彼女は私が断ると即座に機嫌を損ね、「私を見下している!」と息子の創眞に電話で告げ口したのだった。 待てよ……思い出した。当時、彼女は「静琉が手術を担当する」と口を滑らせたはずだ。 今の私はまだその情報を知らない立場にある。だからこそ、彼女の言葉を誘導できれば、それを口実に手術を断ることができるかもしれない。 私は前世の記憶通りに、同じようにスープを断る言葉を口にした。 案の定、春華の反応も前世と全く同じだった。 「お義母さん、手術前は食べたり飲んだりしちゃいけないんです。そうしないと手術ができなくなります。手術が終わったら飲ませていただきますね」 「私がせっかく心を込めて作った鶏スープをなんだと思ってるのよ!ふん、あんたはお嬢様だものね、こんなものいらないわよね。どうぞ、お好きに!」 春華は保温ポットを床に乱暴に置くと、怒り心頭でスマホを取り出し、息子に電話をかけ始めた。 彼女が電話で何を話すか、私は時間を計算しながら、動くタイミングを見計らっていた。 しかし、その時、小さな看護師が病室に入ってきた。
この看護師、小柄なのにその態度は決して小さくない。 入ってくるなり、私の横で湯気を立てる鶏スープに目を留めると、顔つきが一変した。 「あなた、明日手術じゃなかった?医者から食事と水分を控えるように言われなかったの?」 彼女は容赦なくスープを取り上げ、保温ポットごと病室の窓際にあるキャビネットに押し込んだ。 「我慢して。たった一晩でしょ。ここに隠しておくから、手術が終わったら飲めばいいわ」 私は心の中で焦っていた。春華が電話で話を終える前に行動を起こさなければならない。さもないと、このチャンスを逃してしまう。 ベッドから降りると、看護師が私を誤解したようで、さっと近寄ってきた。 「え?スープがそんなに飲みたいの?ちょっとの間だけよ、こんな大人なのに……」 「違います、トイレに行きたいだけです」 「……なら、私が見ててあげるわ」 看護師は真っ赤になりながら道を空けたが、すでに春華は電話を終えて病室に戻ってきてしまっていた。 私はその場で力が抜け、ベッドに腰掛けて黙り込んだ。チャンスは完全に逃してしまった。 「もしかして……間に合わなかったの?」 看護師が私の顔色を見て、しばらく躊躇った後、心配そうに尋ねてきた。 私は戸惑いながら彼女を見つめ返すと、申し訳なさそうな表情をしている彼女と目が合った。 「恥ずかしがらなくても大丈夫。病院ではよくあることだし、私にも責任があるわ。着替えを手伝いましょうか?」 私は慌てて手を挙げて拒否し、彼女が私の背中ばかり見ている理由にようやく気づいた。 「違います!何も漏らしてません。ただ、さっきオナラしただけです。それで楽になったんです!」 看護師は「ああ」と気の抜けた声を上げ、慌ててうなずくと、そのまま病室を出て行ってしまった。
「真昼、鶏スープはどこ?飲まないにしても、捨てるなんてひどいじゃない!」 春華が室内を見回してスープが見当たらないと分かるや否や、眉を吊り上げて怒り始めた。 どうやら全病院に私の悪行を吹聴しそうな勢いだ。 慌てて彼女の言葉を遮った。 「それなら看護師さんが片付けてくれました。あそこ、ベランダのキャビネットにあります。飲むなと言われたので……」 春華は横目で私を一瞥し、私の言葉を全く信じていない様子だった「どうせあんたと看護師がグルになって私を騙してるんでしょ?いいわ、言った通りベランダにあるって言うなら、さっさと持ってきなさい。もし見つからなかったら、自分の手で掬い取ってでも返してもらうからね!」 私はため息をつき、小柄な看護師が隠した場所に向かった。どうか、あまり奥深くに隠していませんように…… キャビネットを開けてみると、3段目にポンと置かれているスープの容器が目に入った。そのあまりの分かりやすさに思わず笑ってしまう。 150センチの彼女が見えない場所に私が見えないとでも思ったのだろうか。まるでシュレディンガーのスープだ。 スープを取り出し、ついでに春華に見せて彼女の文句を封じた。 「捨てなかったからって偉そうに!そもそも捨てるわけないでしょ。ほら、明日手術なんだから、さっさと寝なさい寝なさい」 「寝なさい」とは言うものの、春華は私の手術のことなど気にも留めず、動画をスマホの外部スピーカーで流し始めた。 その「洗脳ソング」のような音楽に、私の頭もぐるぐる回りそうになる。 ついに隣のベッドの付き添いの家族が堪えきれず、明かりを消してくれたおかげで、ようやく春華は寝る気になったらしい。 時刻はすでに午前1時を過ぎていた。
春華は眠りについたが、私はどうしても眠る気になれなかった。 今の私には二つの選択肢がある。一つはこの場から逃げ出し、明日の手術を回避すること。もう一つは、手術を利用して静琉を告発することだ。 しかし、そもそも実習生の静琉が手術を執刀できること自体、非常に異常なことだ。 誰が保証する?手術室の人間たちが全員、静琉とグルではないなんて。 もし彼らが共犯だったら?私が証拠を掴んだとしても、麻酔で意識を失わされてしまえば、どうしようもない。 けれど、どうしても引き下がることができない。 真犯人を知りながら黙っているなんて耐えられない。 私を殺そうとする蛇蝎たちに愛想笑いを浮かべるのも耐えられない。 そして、あの殺人者が平然と白衣を着続けることも、到底許せるものではない。 ここから逃げるのは簡単だ。だがそうなれば、私が「手術を嫌がる無分別な女」という烙印を押されるのは間違いない。 それだけならまだしも……私が逃げた後、静琉が他の無辜な患者に手を出さない保証はどこにもない。 私が前世の知識を活かせば、この事態を利用して静琉を陥れることも可能だろう。 子宮がなかろうと、別の病院で診断書を取り直せば、静琉を追い詰めるための確かな証拠が手に入る。 だが、もし次の犠牲者が出たら? 静琉の父親は医学界の権威だ。娘のために法を知らない弱者を狙い撃ちにし、訴えもしない患者を選ぶだろう。 その結果、手術で失敗しても、被害者自身が気づくことさえないかもしれない。 そんな時、私にできることは何もない。静琉やその家族を追い詰めたところで、傷ついた人々を救うことはできないのだ。 今日一日のことを思い返す。 「転生」は万能ではない。この世界には予測できない変数が多すぎる。私は前世をなぞるように進むしかない。 だが、ほんの些細なミスが致命的な結果を招く可能性だってある。 リスクを取るのは無謀だ。そう結論した私は、病院を出ることを決めた。 暖かい服を見つけて病衣を脱ぎ、タクシーを手配する。車が到着したらそのまま去るつもりだった。 「真昼、まだ寝ていないのか?」 振り返ると、そこには警戒した表情の創眞が立っていた。
「……トイレに行くだけ。医者が言ってたの。手術の後は排泄が大変になるから、前もって済ませておいたほうがいいって」 頭の中で張り詰めた糸が切れそうになるのを必死で抑え、完璧に取り繕った笑顔で答えた。 「そうか。それなら問題ない。母さん、今日は電話してきたけどさ、病院のルールなんて知らないんだ。気にするな。明日の手術は俺がちゃんと見てるから、大丈夫だ」 創眞がどうしてここに来たのか分からない。前世でも彼は来ていたのか、それとも、彼もまた転生して私を監視しに来たのだろうか? 私は何事もないふりをして上着を羽織り、トイレに向かった。 どうする?ここで一悶着起こすべきだろうか?いずれにしても、手術室に送られるわけにはいかない。 トイレでしばらく時間を潰してから病室に戻ると、創眞はまだ部屋にいた。 それどころか、春華は息子を気遣って付き添い用の簡易ベッドを彼に譲り、自分は……私のベッドで寝ていた。「真昼、私と一緒に寝ましょう。創眞は仕事が終わったばかりで疲れてるんだから、休ませてあげないと」 「それなら、創眞……さん、家に帰って寝てもらったらどうですか?どうせ明日は書類にサインするだけですよね」 私にはサインを頼める両親がいない。二人ともすでに他界しているため、手術の同意書には恋人である創眞の署名が必要だ。 ただ、前世では創眞が病院に来ることはなく、代わりに春華が勝手にサインしていた。それを知った時、私は驚いたものだ。 病院側が特に問題視しなかったのも、さらに意外だった。 「いや、大丈夫。ちょっと外でタバコを吸って頭をすっきりさせるよ。もうすぐ朝になるし、真昼も寝てていいぞ」 創眞はそう言うとドアを開け、病室を出て行った。しかし、彼はそのまま廊下の病室前にしゃがみ込んだだけだった。 春華が何度か彼を呼んだものの、動く気配がないと分かると、彼女は一瞬目を光らせ――私のベッドに潜り込んで寝てしまった。
私は付き添い用の簡易ベッドに座り、焦りながら外の創眞の様子をうかがっていた。彼に注意していることを悟られないようにしながら。 この時間帯は最も睡魔が襲ってくる。そんな中で、私はいつの間にかうとうとし始めていた。 「真昼、起きてスープ飲みなさいよ!」 ぼんやりと目を開けると、大きな顔が迫ってくる。手には油っぽいスープの入った碗を持っていた――春華だ! 彼女はまだ諦めていなかった。どうしても私にあの鶏スープを飲ませたいらしい。 私は流れに身を任せてスープを2口すすった。手術の6時間前は飲食禁止というルールがあるため、これで看護師に手術を延期させる口実ができる。 少しでも時間を稼ぐため、私はスープをもう2口飲み、「今起きた」という演技をして驚いたふりをしながら春華を見た。 「お義母さん!手術前に何かを食べたり飲んだりしちゃいけないんです!」 2口では足りないかもしれない。私は涙を浮かべ、仕方ないという表情を見せながら、スープをぐびぐびと飲み干した。 「飲めと言うんですから飲みますよ!もう手術なんてやりません。この容器も全部食べてみせます!」 スープを飲み終わり、底に残っている具をすくおうとした。しかし出てきたのは鶏肉ではなく、鶏の尻や頭、足ばかりだった。 ここまで手間をかけて、これだけの食材を選り分けた春華の執念には、ある意味感心せざるを得なかった。 私は口の周りの油を拭き取りながら、被害者を装って看護師のところへ行こうとした。その時、体に違和感を覚えた。 このスープに麻酔が仕込まれている……! なるほど、どうしてそこまで私にスープを飲ませたがっていたのか。娘である静琉の手術中、麻酔の効果が切れるのを防ぐためだったのか。 毒医師と毒薬――母娘そろって毒婦とは。
残りわずかな力を振り絞り、私は春華を振り払って病室を飛び出した。喉に指を突っ込みながら必死で吐き出そうとする。 こんなに即効性のある麻酔は、体に悪影響を与えるに決まっている。急いで吐かなくては。 病室の外で創眞の姿を探したが、彼はいなかった。その代わりに昨日会った看護師が目に入った。 「助けて……胃洗浄を……」 その場で盛大に吐き出してしまった。幸いなことに、看護師が駆け寄ってくる直前で何とか方向を変えられた――吐瀉物は白衣を着た静琉に直撃したのだ。 静琉は潔癖な性格だ。今回の洗浄手術を彼女が執刀することは、さすがにないだろう。 どうやら私の姿が相当に衝撃的だったらしく、近くにいたハゲ頭の医師がひどく驚き、そのまま私を手術室に運び込んだ。 次に目を覚ました時は、すでに夜になっていた。 看護師がちょうど病室に入ってきて、私が目を覚ましたのを見るとすぐに駆け寄り、念入りに体の様子を確認してくれた。 「いやあ、こんな患者さん、初めて見たよ。術前に飲み食いしちゃう人はたまにいるけど、自分で麻酔飲むなんて…… 痛いのが怖いなら、そう言ってくれればいいのに。麻酔科の先生にお願いして、追加で麻酔を打ってもらうこともできるし、それにお金かからないんだから。 でも、麻酔を飲むなんて……しかも動物用の麻酔だよ?間一髪で対処できたから良かったけど、危なかったら本当に安楽死状態になるところだったよ!」 私は苦笑した。普通、誰が患者用のスープに麻酔を仕込むなんて考えるだろう。しかも動物用の麻酔だなんて。 てっきり鶏の尻や頭、足をかき集めるのが限界だと思っていたのに、まさかそれ以上に狂った行動をするとは。 ある人の最低ラインというものは、想像をはるかに超えるものだ。
私は看護師に連続して謝罪し、その場で麻酔スープの責任を春華に押し付けた。 もともと春華の責任だ。私が意識を失っていた間に、どれほど多くの汚名を着せられていたか分かったものではない。 看護師は私の話を聞いて同情してくれたらしく、珍しく余計な一言を付け加えた。 「結婚って人生でとっても大切なことだから、じっくり考えたほうがいいよ。特に、周りに頼れる人がいないときは、なおさら慎重にね」 彼女の忠告に感謝しつつ、私は心の中で考えを巡らせた。この一件で婚約を解消するには十分な理由ができた。 静琉への復讐はまた後日だ。 看護師が部屋を出ると、隣のベッドの女性が近寄ってきた。顔には呆れたような表情を浮かべながらも、慰めの言葉をかけてくれた。 「私も経験あるけどね……あの義母さん、ひと目で厄介なのが分かるわよ。若いんだから、無理して縛られることないのよ。婚前にバレて良かったじゃない?これが結婚後だったら逃げ場もなかったでしょうに」 私は控えめに笑って相槌を打ちながら、時々軽く返事をした。それだけで女性は満足そうに喋り続ける。 その時、病室のドアの向こうに人影が見えた。私は女性の袖を引っ張り、外を注意するよう示した。 病院のガラスは一方向しか見えない仕様になっている。中からは外が見えるが、外から中は見えない。 私と女性は、春華がドアの隙間にしゃがみ込み、まるで亀のような格好でこちらの会話を盗み聞きしているのをはっきりと目撃した。 女性は羞恥と怒りが入り混じった表情で立ち上がり、二歩進んで勢いよくドアを開けた。 その勢いで春華はほとんど前のめりに倒れそうになった。 「いやあ、おばさん、ドアを顔で開けるんですか?その勢い、もし人間じゃなかったら体温計が化けたのかと思っちゃいますよ。病院のドアは鍵がかかってないんですから、顔認証はいりませんよ」 春華は盗み聞きを咎められ、恥ずかしそうにしていたが、すぐに病室に入ると態度を取り繕った。私を見るなり、いつもの威圧感を取り戻して話し始めた。
今回の人生では、私が早めに距離を置いたことで、前世のような悲惨な結末は回避された。 創眞と別れた後で気づいたのだが、本当に愛してくれる人は、私がどれだけ弱い立場であっても決して虐げず、むしろ最も強い味方になろうとしてくれるのだと知った。 35歳の時、私は今の恋人と結婚することを決意した。 その年は、彼の恩師が静琉の父親の地位を引き継ぎ、近隣医療界の新たなリーダーとなった年でもあった。 私たちは出会うのが少し遅かった。結婚した時には彼は37歳になっていた。 彼は「男性の精子は35歳を過ぎると急激に質が落ちるし、もし子供を授かっても君が大変だ」と言って、私たちは子どもを持たない選択をした。 代わりに、私たちは猫と犬をそれぞれ1匹ずつ飼い、郊外の広々とした庭付きの家で暮らしている。 目立った波風もないけれど、私たちだけの穏やかな幸せがある。 ただ、夫には少し子供っぽいところがある。私が新しいコットン素材のぬいぐるみ「娘」を買うと、彼はこっそり「息子」を買い足してきて、ぬいぐるみの結婚ごっこを始めるのだ。 「一人で独り占めするのはダメだよ。ほら、二人で素敵な世界を作ろうね」 私は一人で「娘」を抱っこして楽しんでいるのに、彼は「息子」を持ち出して、二人でラブラブな時間を過ごせと言わんばかりだ。 まったく、ケチでおバカな旦那さまだこと。
創眞と静琉が結婚したというニュースを、同僚がわざわざ教えに来た。 私は「ええっ!?」と吐きそうな気持ちになりながらも、ツッコミたい気持ちを抑えられなかった。 ――あの二人、頭おかしいんじゃない?結婚するのは勝手だけど、散々騒動を起こした挙句、なんで私を招待しようなんて考えるの? 報せを持ってきた同僚によると、二人は何度も別れたり寄りを戻したりしていたらしい。それでも結婚にこぎつけたとは驚きだ。 実は、彼らのことが耳に入るのは私が好奇心旺盛だからではない。静琉が入職を希望していた病院が、今の私の恋人の職場だったからだ。 そこは、私が検査で問題を発見した病院でもある。 静琉は私をまるでまな板の上の魚のように見下していて、手術記録を都合よく改ざんしていた。彼女が外部研修に応募する直前のことだ。 だが、偶然にもその記録が彼――私の恋人の目に留まった。 彼はその分野の審査を担当しており、前日に起きた医療事故を目撃したばかりだった。 そして、その事故の関係者リストに「御堂静琉」という名前が記載されていることを発見。事故を起こした本人が研修に応募していると知るや否や、申請を即座に却下した。 私たちは、静琉をネタにした雑談を通じて知り合い、次第にお互い惹かれるようになったのだ。 その後、私の告発がきっかけで大きな騒ぎとなり、静琉は医師資格を剥奪された。 もちろん、希望していた病院への転院も不可能となった。 静琉が失業して間もなく、創眞は私に対して恨みを抱き、復讐を画策し始めた。 だが、私が慎重に行動していたため、彼が接近する隙を与えず、結局は私の評判に傷をつける程度の嫌がらせしかできなかった。 その嫌がらせが逆に、私の転職を促進する結果になったのだから皮肉なものだ。 二人とも仕事を失い、自宅に引きこもる生活を続けるうちに、再び元の関係に戻ったようだ。 ――まあ、いいんじゃない。幸せを祈るよ。二人そろって外に出て他人を害さないでくれるなら、だけどね。
これで静琉はもう医師にはなれないし、創眞とも別れた。私も新しい生活を始める準備が整った。 静琉が今回のような行動を取った背景には、彼女の実父の庇護があったことは間違いない。 しかし、普通の人間である私が医学界の権威である彼を引きずり下ろすのはあまりにも難しい。 今回の騒動が明るみに出た後、静琉と彼女の父親との関係も表沙汰になった。その影響で、父親は後妻と何度も揉め、静琉との関係も以前ほど良好ではなくなったようだ。 ただし、私はこの件で持てる手札を全て使い切り、以前から貯めていた貯金も、サクラや結婚準備の費用でほとんど底を突いてしまった。 これからは仕事に集中して、早くお金を貯める必要がある。 お金は人間の骨であり、全ての問題を解決する万能薬だ。 今回、私に貯金がなければ、どれほど証拠を掴んでいても、それを公開し、正義を勝ち取ることはできなかっただろう。 私は新しい会社に積極的に馴染み、早速ある大口顧客に連絡を取って新会社に大きな案件を持ち込んだ。 問題が解決した後の久しぶりの職場復帰は、驚くほど快適だった。 何度も改訂を求められた書類や、深夜までの残業を強いるハゲ上司でさえ、それほど嫌な存在には感じられなかった。 何しろ、彼らは少なくとも私にお金を払ってくれるからだ。 あのクズ男どもとは違う。彼らは私の体を目当てにしながら、私が浮気していると罵り、手術台に送り込み、死後には遺産を使って愛人と結婚式を挙げるような連中だった。 私が必死に残業して稼いだお金が、創眞に奪われ、静琉のウェディングドレスに消えたと考えると――ファイルを上司の頭に投げつけたくなる衝動を抑えるのに必死だった。八つ当たりした?いいじゃない、私にだって理があるんだから。そもそも、あんなクズの創眞を採用したハゲ上司が悪いのよ!
私が指示を出すと、ハッカーや「ダブル御堂」の親戚、友人、隣人たちが一斉に動き出し、ようやく話題の焦点を静琉の医療事故に戻すことができた。 それでもネット民の反応は相変わらずユーモアに溢れていた。 「主人公じゃないの?なんで兼業で金持ちの友人医者までやってるんだよ!」 「監督さん、私、義母の役を演じたいです!」 「世界は巨大なラノベだね!」 これ以上、彼らに流れを変えられるわけにはいかない。私はサクラを投入することを決めた。 「この病院、苗字が御堂なのか調べてみて。小説ではこういうのはだいたい悪徳財閥が経営してるんだから」「調べてみたら、驚いたよ。この病院の院長、名字が御堂なんだ。それに独占情報だけど、過去10年間、この病院で採用された専門卒の医師は御堂静琉だけだったってさ」 「偶然かしら。私、その御堂静琉さんの隣人だけど、彼女のお母さんが離婚したのは、父親が手術ばかりで家に帰らなかったからよ」 …… 私は額の汗を拭った。ようやく話題の方向性を変えることができた。 ネット上の雰囲気は楽しげだが、実際には多くの人が厚生労働省に苦情を入れ始めている。 最近、厚生労働省に電話して進捗を確認しようとしても、常に話中になっているほどだった。 話題がさらに広がるにつれて、ついにこの件に詳しい内部の知識を持つ人々が現れた。 静琉のSNS記録に載っていなかった情報が次々と暴露され、彼女の狂気的な愛情物語に巻き込まれた女性たちが次々と声を上げ始めた。 さらには、春華が静琉の尻拭いをしている動画まで公開された。 これで静琉の個人情報は完全に隠せなくなった。ネットの「調査班」は一斉に動き、彼女が勤務中に何色の下着を着ているかまで暴いてしまうほど徹底的だった。 ネット民の支援のおかげで、厚生労働省はようやく私の苦情を真剣に取り扱い始めた。そして迅速に静琉を解雇した。 もし静琉が彼女の父親のように高い地位についていたら、病院側も処分に慎重だっただろう。 しかし、彼女は父親のコネで押し込まれただけのトラブルメーカーであり、しかもまだ実習生だ。 静琉を追い出したいと考える人間は多く、解雇に何の障害もなかった。 私は過剰に追い詰めるつもりはなかったが、静琉の学歴や能力、そして今の悪評を考えれば、彼女が医師として復帰す
厚生労働省に苦情を申し立てる前日、私は創眞の日記を密かにネットにアップロードしていた。 そして、三日後には私が雇ったSNSマーケティングアカウントが「絶美の愛の物語」を広め始めた。 おなじみのネット民たちが100回は見たような恋愛物語に紛れて、異母兄妹の禁断の愛という要素を盛り込んだところ、話題性は爆発した。 「ダブル御堂」の物語は、わずか5日で数十万の「いいね」を獲得する投稿を生み出した。 だが、予想外だったのは、今のネット民が予想以上に冷静だったことだ。 コメント欄には、「私」の存在に気づいた鋭い意見が早々に現れた。 私はそのコメントを複雑な気持ちで眺めていた。もしも手術を強要されていた頃に助けを求めていたら、結果は違っていたのだろうか? 人々は物語を楽しみながらも、誰も暴力的な行動を煽る者はいなかった。むしろ、どのコメントも私に「早く逃げて」と助言を寄せるものばかりだった。 この冷静さのおかげで、私が準備していた「愛の神話」を用いる作戦は使えなくなってしまった。 代わりに、法的な知識を提供するコメントや、異母兄妹の結婚の合法性を説明するものが増えていった。 さらには、化粧品の宣伝や結婚式の宣伝、不動産の広告、果ては離婚弁護士までがコメント欄で営業を始める始末だ。 一番面白かったのは、知識人たちが登場し、「転生復讐」「愛を取り戻すための修羅場」「妊娠した妻が子供を連れて逃げる物語」などのシナリオを勝手に作り上げていたことだ。 私はその様子を見て、呆れるやら笑うやらだった。 ――でも、このままでは私は単なるネットのネタとして扱われてしまう。行動を起こさなくては。
全ての計画を整えた後、私は集めた証拠を携えて、厚生労働省行きの電車に乗り込んだ。 厳密に言えば、医療紛争は厚生労働省の管轄外だ。なぜなら医療紛争は基本的に民事紛争に分類されるからだ。 ただ、多くの医療紛争は、医療従事者や病院の職務規則違反、サービス基準違反に関わるため、厚生労働省の管理範囲に含まれることがある。 そのため、稀に厚生労働省が紛争の解決にも乗り出すことがあるのだ。 私は事前にインターネットで手続きの方法を調べ、『医療コア制度』に基づき、静琉の罪状を一つ一つリストアップした。 証拠が十分に揃っていたため、ほとんど揉めることもなく受理されることになった。職員は「すぐに調査チームを立ち上げて、この件を調べますので、結果をお待ちください」と言った。 だが、そんな言葉を真に受けるほど私は愚かではない。 この国では、事なかれ主義を好む傾向が強い。「クレーム」や「反撃」に対して嫌悪感を抱く人が多いのだ。 もしもここで「分かりました」と大人しく家に帰って結果を待てば、公式機関の人間ですら平然と対応を先延ばしにし、こちらが怒る気力を失うまで引き伸ばされるだろう。 結局のところ、最終的に得られるのは病院が手書きで書いた謝罪文程度だろう。それに加え、私の個人情報が漏洩する可能性までついてくる。 そうなる前に、私は準備しておいた「ネット世論」という後押しを使うことにした。 人間というものは、完璧な物語を嫌う生き物だ。 私が描いた「絶美の愛」の物語に涙を流す人がいる一方で、その裏に隠された欠点を執拗に探ろうとする人間も必ず現れる。 そしてその中には、本当にヒマを持て余して問題を告発する者までいる。 まして、実習医が執刀医を務めたこと、診療記録の改ざん、保険の不正請求といった問題は、どれも非常に悪質なものだ。 私はこれらの問題を直接提示するのではなく、人々に自らそれを発見させることで話題に火を付ける作戦を取った。 直接「ここがおかしい」と指摘するよりも、「ここは素晴らしい場所だ」と賞賛するほうが、よほど多くの人々が批判的な視点で問題を探り始めるものだ。 人間とは、流れに乗りつつも自分が「賢い」と思い込みたい生き物なのだ。
この問題を世間の関心事にするため、私は私立探偵を雇い、いくつかの証拠を掴んでもらった。 それは、前世で創眞が私を殺したことで、彼の後をついて回らざるを得なくなった結果、偶然知ることができた秘密だ。 創眞は、私たちが将来住む予定だった新居に地下室を追加購入し、そこに彼の「深い愛情」を保管していた。 そこには、静琉の幼少期からの写真、初潮の時に使った生理用品、静琉への片想いを綴った日記、さらには静琉からのプレゼントが全て収められていた。 私はこれを基に、感動的な「愛の物語」を作り上げ、フォロワー数の多いSNSマーケティングアカウントに投稿した。 内容は「偶然、愛の聖地に迷い込んだ泥棒の視点」という形で、全ネット上に「創眞と静琉」という不幸な恋人たちを探し出そうというものだ。 さらに、静琉を無実の天使のように見せるつもりもなかった。 静琉と創眞は、本当にぴったりのカップルだ。普通の人なら自分の秘密をここまで事細かに記録しないだろうが、二人はその「普通」からはかけ離れていた。 私は静琉のネットノートとSNSアカウントをハッキングさせ、驚くべき事実を目にした。 私が最初の犠牲者ではなかったのだ。 彼女は私と同じ目に遭った女性たちの記録を事細かに書き残していた。 ――クズ男と最低女。 ネット上で二人の「神聖な愛」がもてはやされるタイミングを狙い、雇ったハッカーにこう投稿させる予定だ。 「これが皆さんが羨むお姉さんですよね?」 その後、静琉の同僚、御堂家の近所の住民、創眞の同僚、さらには私たちの結婚式のプランナーまでが真実を語り出すだろう。 最終的に、人々はこの「神聖な愛」を讃える一方で、私という存在――無実でありながら騙されて結婚させられ、姑や義妹から迫害され、手術台に騙されて乗せられた挙句、黄黒い噂まで流された悲惨な前妻――に気づくことになる。
影像室で半日近く待ち続け、ようやく検査が終わり、診察室に戻った時にはすでに医師が退勤する直前だった。 医師から「体に問題はない」という言葉を再び聞き、私はようやく安心できた。 医師は親切にも私の連絡先を聞き、「元の病院で何か問題があれば相談してください」と言ってくれた。 私は連絡先を交換したが、その言葉通り病院に苦情を申し立てるつもりはなかった。 前世の経験から、病院に直接苦情を言うのが最も遅く、かつ簡単にごまかされる方法だと分かっていたからだ。 どうせやるなら、もっと効果的にやるべきだ。 私は決めた。直接、厚生労働省に乗り込むことにする。前世、私が妊娠したかもしれないと勘違いして検査を受けに行った時も、静琉が勤めている病院を選んでしまった。 そのため、不審に思ってその場で苦情を申し立てた際、静琉はすぐに私の動きを察知した。 その時、私は疑問に思っていた。なぜ、誰にも話していないのに創眞がすぐに状況を把握し、会社からタクシーで駆けつけて私を怒鳴りつけたのか、と。 苦情を申し立てる前に、私は静琉に関する資料や、春華と隣のベッドの女性が病室で喧嘩している動画、私の電子カルテや保険記録などを全て別の場所に転送しておいた。 複数のバックアップを作成し、さらにタイマーを設定して自動で公開されるようにしておいた。 もしまた私が不幸に見舞われたとしても、静琉と御堂家の悪事が隠されることはないように。 とはいえ、全てをインターネットに頼るつもりはない。これまでに私のケースよりも酷い医療事故がインターネット上に公開されながらも、ほとんど注目されなかったことは幾度も見てきた。 インターネットには新しい話題が溢れている。人命に関わる事件ですら、日常茶飯事のように扱われることも珍しくない。 ましてや、手術を受けていないのに手術記録が残されていたり、実習医が執刀医として名を連ねている程度の話では、誰の関心も引けないだろう。
静琉の父親が医学界の権威である以上、近隣の病院で治療を受けると行動が露見するリスクが高い。 そのため、私は隣町の公立病院を選んだ。 公立病院の婦人科は少し雑だと聞いていたが、少なくとも私立病院のように小さな問題を大げさにしてすぐ手術室に連れ込むようなことはなさそうだ。 予約して順番待ちをし、ようやく診察室に呼ばれた。 私は緊張しながら診察室に入ると、目の前には男性医師が座っていた。 えっ、婦人科で男性医師? 気まずさをこらえつつ、以前撮った検査結果の書類を彼に渡した。 「子宮頸部の炎症ですね。これは病気ではありません。ただの炎症ですから、手術は必要ありません」 「おかしいですね……保険記録では、1か月前に手術を受けたことになっていますが。どうしてこんな短期間で再発したんでしょう?」 ――えっ?……私、手術なんて受けてないんだけど? 医師はパソコンをこちらに向け、記録画面を見せてくれた。そこには、確かに私が手術を受けたという記録が残っている。 さらに、執刀医の名前の欄には静琉の名前が記されていた。 ――「探し物は探さない時に見つかる」ってこのことね。 私が静琉を告発するための証拠をどう集めるか悩んでいたところに、思わぬ形で転がり込んできた。 ただ、これがどんな罪名に該当するのか、専門用語は分からない。 私は気持ちを落ち着け、まずは健康問題を片付けようと考えた。そして、ついでにこの医師から情報を引き出せるか試してみることにした。 「実は先月手術を受ける予定だったんですが、ちょっとした事情で中断して退院したんです。結局、手術は受けていません」 医師は眉をひそめ、私のカルテを見直した。 「電子カルテも紙のカルテも、どちらも手術済みになっています。本当に受けていないんですか?これは立派な医療事故ですよ」 私は強く頷き、手術を受けていないことを改めて説明した。 「あなたの体には特に問題はありません。ただ、念のため画像検査をして確認しておきますね。ただし、このカルテの問題は重大です。元の病院で確認したほうがいいでしょう。手術を受けていないのに保険が使われているなんて……」 「それなら、画像検査をお願いします」