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第4話

著者: 美垣 玲子
last update 最終更新日: 2024-11-15 10:18:47
その場に膝をつき、涙が止まらなかった。この「息子」のために尽くした人生に、初めて疑問を感じた。

そんな私の姿に気付いていなかった。入り口に佇む白髪の紳士が、怒りを必死に抑えながら、目を見開いて見つめていたことに。

追い出された後も、悔しさや屈辱に浸る間もなく、足を引きずりながら働き口のホテルへ向かった。

私の惨めな姿を見た同僚たちは心配そうに声をかけてくれたが、あの出来事を思い出す勇気すら私にはなかった。

午後のことだった。支配人の矢島善一がゆっくりと私の前まで歩いてきた。

「村瀬さん、これじゃあねぇ。床だってろくに拭けないじゃないか。こんな仕事ぶりなら、採用した意味がないよ」

埃一つない床を見つめながら、私は黙って作業を続けた。

「いい年して、もっと現実的に考えなきゃダメだよ。やっぱり女手一つじゃねぇ......男の支えがないと」

善一は下卑た笑みを浮かべながら、私の体を値踏みするように見た。

その時、突然の怒号が響いた。

「出てきなさいよ!母さんのネックレスを盗んだんでしょう?よくも相親家の物に手を出せたわね!」

めぐみが両親と恭一を引き連れて怒鳴り込んできた。

「まさかこんな人だったなんて。さっさと返してくれれば大目に見てあげますけど」

恭一は心を痛めるような表情を作りながら、私をじっと見つめた。まるで私のためを思うかのように、濡れ衣を着るよう迫ってくる。

やってもいないことを、認めるわけにはいかなかった。

「私じゃありません。人様の物を取るなんて、そんなことは......」

「おじさま!どうしてここに?この人の上司だったの?」

めぐみは善一を見つけ、さらに威勢を増した。

善一の態度は一変した。

「めぐみちゃん、心配いらないよ。部下だからって贔屓するつもりはない。きっちり白黒つけさせるからね」

モップに体重を預けながら、私は身を引く恭一を見つめた。胸が張り裂けそうだった。

十八で引き取り、必死で育て上げた息子は、私が濡れ衣を着せられていると分かっていながら、自分の立場と他人のために、二十五年間の育ての親を陥れようとしている。

瞼を固く閉じても、涙は溢れ出た。

「おばさん、大人しくネックレスを出しな。矢島さんは俺の兄だ。親戚の顔もある。警察沙汰にはしたくないんだがね」

「早く返してよ!今日、私の近くにいた部外者はあなただけ。私に恨みを持って、わざと盗んだんでしょう?」

一方的に持ち物を探り始める彼らに、なすすべもなかった。

「あった!ここだ!」

信じられない光景だった。私のバッグからネックレスが出てきた。

黙り込むしかなかった。今の私の言葉など、誰も信じてはくれない。次々と浴びせられる平手打ちを、ただ受け止めるしかなかった。

「村瀬、お前は解雇だ。藤原ホテルに泥棒は要らないんでね。荷物をまとめて出て行ってもらおう」

「母さん......こんな人が母親だなんて、本当に恥ずかしい」

恭一は冷たい目で、私が虐げられる様子を見ていた。その無情な眼差しに、背筋が凍る思いだった。

「今日限り、親子の縁を切らせてもらいます」

膝から崩れ落ちた私の手首から、祖父の形見の腕輪が外れ、粉々に砕けた。

「本当に......私たちの縁を切るつもり?」

感情を殺した声で、私は問いかけた。

「ああ、俺、村瀬恭一はここに村瀬さくらとの親子関係を断絶する。これからは他人だ」

「母親じゃないんだから、恭一、情に流されることはないわ。泥棒は刑務所が相応しいでしょう」

その言葉を聞いた瞬間、私は意識を失った。

「この藤原勝也の娘に、誰が手を出そうというのか!」

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    その場に膝をつき、涙が止まらなかった。この「息子」のために尽くした人生に、初めて疑問を感じた。そんな私の姿に気付いていなかった。入り口に佇む白髪の紳士が、怒りを必死に抑えながら、目を見開いて見つめていたことに。追い出された後も、悔しさや屈辱に浸る間もなく、足を引きずりながら働き口のホテルへ向かった。私の惨めな姿を見た同僚たちは心配そうに声をかけてくれたが、あの出来事を思い出す勇気すら私にはなかった。午後のことだった。支配人の矢島善一がゆっくりと私の前まで歩いてきた。「村瀬さん、これじゃあねぇ。床だってろくに拭けないじゃないか。こんな仕事ぶりなら、採用した意味がないよ」埃一つない床を見つめながら、私は黙って作業を続けた。「いい年して、もっと現実的に考えなきゃダメだよ。やっぱり女手一つじゃねぇ......男の支えがないと」善一は下卑た笑みを浮かべながら、私の体を値踏みするように見た。その時、突然の怒号が響いた。「出てきなさいよ!母さんのネックレスを盗んだんでしょう?よくも相親家の物に手を出せたわね!」めぐみが両親と恭一を引き連れて怒鳴り込んできた。「まさかこんな人だったなんて。さっさと返してくれれば大目に見てあげますけど」恭一は心を痛めるような表情を作りながら、私をじっと見つめた。まるで私のためを思うかのように、濡れ衣を着るよう迫ってくる。やってもいないことを、認めるわけにはいかなかった。「私じゃありません。人様の物を取るなんて、そんなことは......」「おじさま!どうしてここに?この人の上司だったの?」めぐみは善一を見つけ、さらに威勢を増した。善一の態度は一変した。「めぐみちゃん、心配いらないよ。部下だからって贔屓するつもりはない。きっちり白黒つけさせるからね」モップに体重を預けながら、私は身を引く恭一を見つめた。胸が張り裂けそうだった。十八で引き取り、必死で育て上げた息子は、私が濡れ衣を着せられていると分かっていながら、自分の立場と他人のために、二十五年間の育ての親を陥れようとしている。瞼を固く閉じても、涙は溢れ出た。「おばさん、大人しくネックレスを出しな。矢島さんは俺の兄だ。親戚の顔もある。警察沙汰にはしたくないんだがね」「早く返してよ!今日、私の近くにいた部外者はあ

  • 縁切りの祝宴   第3話

    周りの囁きが耳に入るたび、私の体は怒りで震えた。その様子に気付いた矢島夫妻が私の方を向いた。「あの、そこのおばさん。結婚式のお客様?どちらのご親戚かしら」矢島母が私を上から下まで値踏みするような目で見ながら、軽蔑的な声を投げかけた。「あの......ご親戚というか......私が恭一の母親で......お手伝いできることがあればと......」「あぁ、あなたが村瀬の母親?来るなって言ったはずでしょう。なんで来たの?」「ここにいらっしゃる方々は皆、選りすぐりのお客様よ。早く帰って。私の結婚式の品位を下げないでいただきたいわ」めぐみの言葉に私は耳を疑った。この刺々しい物言いの人が、私の息子の妻になるのだ。一家からの心ない仕打ちに私は途方に暮れながらも、震える声で言った。「ご両親も東雲台のマンションを......?でも、私が用意した新居も、その......同じところ......」矢島夫妻の表情が一瞬歪んだが、すぐに取り繕った。「もういい加減にしろよ!まだ恥さらす気か!」恭一が駆け寄ってきて、事情も聞かずに私を怒鳴り散らした。面目を潰されためぐみは、ますます声を荒げた。「五つ星ホテルだって聞いてたのに。こんな身分の低い人間まで入れるなんて、どうかしてるわ」恭一は一方でめぐみを宥めながら、もう一方で矢島夫妻に頭を下げ続けた。「申し訳ありません。私の不手際です。母が来るとは知りませんでした。すぐに帰らせますから、どうか怒らないでください」矢島母は腕を組み、私を見下ろすように言い放った。「村瀬君、うちのめぐみをもらえるなんて、あなたは最高の幸運よ。そのことをよくよく分かっておいてちょうだい」「息子の結婚式なのに......私が来ちゃいけない訳がありません!」矢島夫妻の傲慢な態度に我慢できず、思わず声を上げた。その一言で、恭一の怒りが爆発した。私の不自由な足のことなど意に介さず、腕を掴んで引きずるように連れ出そうとした。「ちょっと待ちなさい!この老いぼれ、私たち矢島家を侮辱してるってこと?今日のうちにハッキリさせてもらうわよ!」「あなたの息子と結婚してあげるのよ。これ以上の幸せなんてないでしょう。年上だからって私に命令するつもりはないわよね」「その服だって、わざとでしょう?親戚や友人に

  • 縁切りの祝宴   第2話

    私はその場に立ち尽くしたまま、百万円をどうにかして工面できないものかと必死に考えた。給料の前借りを頼めないだろうかと思った矢先——。「待ってられねえ!」恭一は苛立ちを隠せず、私の手提げを奪い取ると中身を荒々しく掻き回し始めた。探しても探しても欲しいものが見つからず、ついには手提げを地面に投げ捨てた。「何で金も持ってこねえんだよ!お前みたいなのが親なんて、めぐみが怒るのも当たり前だろ!」「ごめんなさい、すぐに何とかするわ。上司に電話して、来月の給料を前借りできないか聞いてみるから......」恭一は呆れた表情で私を見下ろしていたが、突然目を輝かせ、私の左手を乱暴に掴んだ。「そうだ、そのブレスレット。散々大事にしてたみたいだけど、今日は嫁の顔見せ代わりってことで貰うぜ」私が答える間もなく、腕からブレスレットを引き剥がそうとした。「やめて!これは、おじいちゃんが残してくれた最後の形見なの。私にとって唯一の......」恭一は私の懇願も、痛みで赤く腫れ上がった手首も意に介さなかった。しばらく引っ張ってみたものの、ブレスレットはびくともしなかった。そこへ矢島家の車が到着。私は藁にもすがる思いで矢島夫妻を見つめた。せめて私の立場を理解してくれないだろうかと。だが返ってきたのは、同じような冷ややかな軽蔑の眼差しだった。矢島母が私を値踏みするように見回し、めぐみに向かって言った。「これがあなたの義母になる人?あなた、これからさぞかし大変でしょうね」恭一は媚びるような笑みを浮かべた。「お母さん、安心してください。結婚後は母とは同居しませんから。めぐみに苦労なんてさせません!これからは親孝行させていただきますよ!」その言葉を聞いて、ようやく矢島母は満足げな表情を見せた。「まあいいわ、めぐみ。今日はあなたの晴れ舞台よ。こんな些細なことで矢島の体面を汚すんじゃありませんよ」めぐみは不満げに私を一瞥した。「あなたが言ったのよ。私を大切にするって。誰かのせいで私が困ることになったら、許さないわよ」恭一はようやく安堵の表情を浮かべ、急いで矢島夫妻と列席の方々を会場内へと案内した。式は滞りなく進行した。「それでは、ご両家の親御様にご登壇いただき、新郎新婦へのお祝いのお言葉を頂戴したいと存じます」矢島

  • 縁切りの祝宴   第1話

    「母さん、なんだよその汚い格好は。今日は矢島家の人間も、会社の偉い人たちも来てんだぞ。こんなみっともない親がいるって知られたら、俺の立場はどうなると思ってるんだ!」恭一は私の姿を見るなり、露骨に顔をしかめた。乗り継ぎバスで疲れた体に鞭打ちながら、私は精一杯の笑顔を作った。息子の結婚のために、私は長年住み慣れた家を手放した。バブル前に買った家だったから、なんとか今の相場で恭一たちの新居のローンの頭金になった。ありがたいことに、藤原グループに入社した息子の将来を見込んで、不動産屋さんも融資を通してくれた。家を売った後は、少しでも出費を抑えようと、駅裏の古いアパートの六畳一間で暮らすことにした。窮屈で不便だけれど、息子が幸せな家庭を築けるなら、それだけで私は満足だった。けれど恭一は、「あんな場末のボロアパートに住んでるなんて恥ずかしい」と、婚約直後から新居に引っ越してしまった。今朝も、遅刻しそうだから車で迎えに来てと頼んだのに、明日から新生活なんだ。余計な手間かけんな」と、突き放すように言い放った。仕方なく、朝一番のバスに飛び乗って、なんとか人前式に間に合ったというのに。ところが会場に着くなり、息子から浴びせられたのは容赦のない叱責だった。恭一の声は周りにも聞こえていただろう。近くの参列者たちが、私の方をちらちらと見ている。あからさまな軽蔑の視線に、私は顔を上げる勇気もなかった。それでも、取り繕うように笑って、小さな声で言った。「これね、恭一くんが大学生の時に買ってくれた服なの。大切な日まで取っておいて......」「うっせえな。めぐみが来る時間だ。お前の姿なんか見せたくねえんだよ」息子は私の言葉を遮り、いらだたしげに続けた。「それと、親族紹介の時も、壇上になんか来んじゃねえぞ。矢島家の連中の前で恥かかせんな」そう言い放つと、私の不自由な足を一瞥し、踵を返して豪華なホテルのエントランスへと消えていった。息子の背中と、華やかな式場の装花を眺めながら、私の胸は締め付けられるように痛んだ。「新郎様はお若いのに、有望な方だそうですわね。藤原グループのエリート社員で、幹部候補とか」「新婦様とは大学時代からのお付き合いだとか。ご実家も、一人娘の結婚とあって、新居のマンションまでプレゼントなさったんですって」新

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