海斗が一年生に上がる前までに、入籍と引っ越しを完了する予定でいる。 それまではバタバタな日々が続くが、師走ともなると仕事の方も慌ただしくなった。相変わらずギリギリで出社した紗良は、フロア内がざわめいていることに気がついた。 小さな人だかりができていて女性たちの黄色い声が耳に届く。「紗良ちゃん」輪の中心にいた人物が紗良に声をかける。「わあ! 依美ちゃん!」紗良は驚いて目を丸くした。 依美は長かった髪をバッサリ切って、腕には小さな赤ちゃんを抱えている。 切迫早産の危険があり入院していたが、無事、十月に出産したのだ。 赤ちゃんは三ヶ月になろうとしているがまだ小さくふにゃふにゃだ。「うわあ、可愛い」「よかったら抱っこしてみる?」紗良が手を差し出すと依美は赤ちゃんをそっと乗せる。 思ったよりも軽く、そうっと触らないと壊れてしまいそうなほどに繊細だ。 海斗とは比べものにならないくらい柔らかい。 そう思うと、海斗は大きくなったんだなと改めて感じた。「ああ、あとさ……」「うん?」口を開いた依美は躊躇いながら一旦口を閉じる。 紗良は首を傾げながら抱いていた赤ちゃんを依美に返すと、依美は赤ちゃんを大事そうに抱きしめた。 そして今にも泣き出しそうな顔で紗良を見る。 言いづらそうにしていたが、やがて重い口を開いた。「私、紗良ちゃんに謝りたくて……」「えっ? 何かあったっけ?」「うん……。前に……結構前のことなんだけど、紗良ちゃんに対して、自己犠牲に酔ってるなんて言ってごめん。子供ができてわかった。何より大事だよね。私、あのとき無神経だった」本当にごめん、と依美は瞳を潤ませた。 紗良はつい最近も身近でこんなことがあったようなと記憶を辿る。――紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか……(あ、これって杏介さんと一緒だ……)経験を経て、その立場になってみてようやくわかること。 紗良が海斗のことを一番に考えていた気持ち。 それを依美は自身が妊娠することによって得たのだった。「急に入院してそのまま退職しちゃったからさ、皆には迷惑かけたなと思って、挨拶がてらお菓子配りに来たの」「そうだったんだ」「特に紗良ちゃんには迷惑かけちゃってごめんね。私の仕事やってくれてたんでしょ? あと、メッセージも返
紗良は小さく首を横に振る。「ううん。私の方こそ……。私、あのとき依美ちゃんにそう言ってもらわなかったら自分の本当の気持ちを押し殺したままだった」あの時は目先なことしか考えていなかった。 海斗を立派に育てなければという使命感のみが紗良を支配していた。 依美の言葉は紗良を深く傷つかせたけれど、同時に自分のことを考え直すきっかけにもなった。「あのね、実は私、結婚するの」「いい人と出会ったんだ?」「うん、プール教室の先生」「えっ? もしかしてあの映画とか一緒に行ってたプールの先生ってこと?」「うん。だからね、依美ちゃんは私にきっかけをくれたんだ。自分の幸せを考えるきっかけ。本当に、ありがとね」「紗良ちゃぁ~ん」ズビズビと泣き出す依美に紗良も思わずほろりとする。 依美にハンカチを差し出せば「うええ」と更に泣き出した。「依美ちゃんって泣き虫だったんだ?」「違うの。なんかね、子ども産むと涙もろくなっちゃって」「そうなんだ?」コクコクと依美は頷く。 その経験は紗良にはないもので、何だか不思議に思う。 けれどきっと依美もそんな感じだったのだろう。「でも、本当におめでとう。自分のことのように嬉しい」「うん、ありがとう。依美ちゃんも、結婚と出産おめでとう」「ありがとう~」紗良と依美はふふっと微笑む。人はみな、違うのだ。 だからこうやって、意見が違えたりある日突然わかり合えたりするのだろう。
◇年も明け、紗良と杏介は婚姻届を提出するため役所を訪れていた。ドキドキとしながら書いた婚姻届は、あまりの緊張に二枚ほど書き損じてしまった。 年末には再び杏介の実家を訪れ、証人欄に名前を記入してもらった。 杏介の本籍は実家にあるため、そちらで戸籍謄本も取った。着々と準備が進むごとに結婚するんだという実感がじわじわとわいてくる。 そして今日という日を迎えた。「おめでとうございます」窓口に提出すると職員がにこやかに対応してくれる。 不備がないかなど確認し、滞りなく受理された。 案外あっけなく終わり紗良と杏介は時間を持て余したため、以前訪れたことのある公園まで足をのばした。まだ北風冷たく春になるにはもうしばらく先。 杏介は紗良の手を握り、自分のコートのポケットへ入れた。 吐く息は白いけれど、くっついていれば寒さなど感じないくらい手のひらからお互いのあたたかさを感じる。小高い丘の上にある展望台までのぼるとちょうど飛行機が通り抜けていった。 以前来たときはまわりの木々には緑の葉が生い茂っていて葉々を揺らしたが、今は冬のため枝がむき出しの状態だ。ところどころライトが付けてあることから、夜にはちょっとしたイルミネーションが見られるのだろう。「そういえば、本当に結婚式はしなくていいの?」「うん、だって家も建てるし海斗の卒園式もあるし、やってる暇なんてないよ。お金もないし」「紗良がいいならそれでいいけど……」杏介は顎に手を当ててうむむと考え込む。 あまりにも悩んだ表情をするため、紗良は自分の考えばかり押しつけていたのかもと思い焦る。「もしかして杏介さん、結婚式したかった?」「ああ、いや、そうじゃなくて、紗良のウェディングドレス姿を見てみたいと思っただけで。だって絶対可愛いし」「ええっ? そんなこと言ったら、杏介さんのタキシード姿だって絶対かっこいいよ」お互いにその姿を想像してふふっと笑う。
紗良が望めば結婚式だって何だって杏介はするつもりでいた。だが紗良はあっさりと、しなくていいと言った。三月には新居も完成予定で引っ越し作業が待っている。そして四月になれば海斗は小学一年生になる。何かと慌ただしい日々。これ以上予定を詰め込むのは難しい。なにより、杏介と結婚できたという事実が一番嬉しいため今は結婚式にまで頭が回らない。「紗良、好きだよ」「……杏介さん」「前は断られたからリベンジ」杏介は照れくさそうに笑う。ポケットにこっそりと忍ばせていたマリッジリングを取り出し、紗良の左薬指にはめる。マリッジリング自体は二人でデザインを決めて購入した。けれどそれを杏介が持ってきていただなんて――。紗良は喜びで胸がいっぱいになる。薬指にはまった指輪はダイヤモンドが複数並んでおり、揺れるような光沢はまるで水面のようにキラキラと輝いた。「杏介さん、私のこと好きになってくれてありがとう。ずっと待っててくれてありがとう」「こちらこそ。俺のこと信じてくれてありがとう。見捨てないでいてくれてありがとう。これからもずっと紗良のことを愛し続けるよ」「……ずっとだよ?」「うん、ずっと。約束する」「私も、杏介さんのこと愛し続けるって約束する」「……まるで結婚式みたいだな」「確かに。セルフ結婚式だね」ふふっと微笑む二人は自然と唇を寄せる。甘く優しい口づけは冬の寒さなど微塵も感じない。あの時とは違う胸の高鳴りが聞こえてくる。たくさんのことを乗り越えて季節をまたぎ、次の春がまたやって来る。愛した君とここから始まるのだ。二人の進む未来は明るく輝いていた。【END】
石原紗良の働くアルバイト先にはお気に入りの彼がいる。いつも窓際のカウンター席に座って、店の名物であるチャーシュー麺を注文し、運ばれてくるまでのあいだ静かに文庫本を読む一人の男性。 くしゃっと乱れた髪はくせ毛なのだろうか、少しハネているけれど、それが逆にあか抜けていておしゃれ。背は高くて半袖のシャツから覗く腕はほどよく筋肉質できゅっとしまっている。文庫本に落とした視線は伏せがちで、意外と睫毛が長い。男性なのに綺麗だなとついついそちらに視線をやってしまう紗良は、完全に彼のファンになっている。土日の夜だけこの店でアルバイトする紗良にとって、土曜日の夜に来てくれる彼は目の潤いであり癒しだ。(まあ、私が勝手に拝んで癒されているだけなのだけど。でも忙しい日々にそういう潤いは必要よね)世の中にはかっこいい人が存在するのだなと、紗良は彼を見るたびに思った。疲れた体に活力を与えてくれる彼はこの店の常連客だ。紗良が彼の座っていた席の片付けに入ったとき、一冊の文庫本が忘れられていることに気付いた。「店長、お客様の忘れ物届けてきます」彼はさっき店を出たばかり。追いかければまだ駐車場にいるかもしれないと店を飛び出したわけなのだけど、彼の姿はどこにも見えず。「あー、もう帰っちゃったかなぁ」半ばあきらめ状態で念のため駐車場をぐるりと一周してみると、ラーメン店の隣にあるコンビニから出てくる彼を発見した。少し遠目からでも分かるバランスの取れたシルエットは紗良の推しの彼に違いない。「すみませーん!」手を振りながらバタバタと駆け寄ると、彼は不思議そうな顔をして首を傾げた。「ん? 俺?」「そうです、お客様です。本、お忘れですよ」紗良が本を掲げると、彼は「あっ!」と短い声を上げた。クールに本を読んでいるか静かにチャーシュー麺を食べている顔しか知らない紗良は、初めて見る彼の表情に新鮮さを覚えて心臓がドキリと高鳴った。「すみません、うっかりしていました」声も初めて聞く。少し低くて、でも優しい声。彼の声が聞けるなんて今日はラッキーデーだ。「いえいえ、間に合ってよかったです。では――」「あのっ」ペコリとお辞儀をして戻ろうとしたところを呼び止められ、今度は紗良が首を傾げる。「はい?」「あー、えっと、またラーメン食べに行きます」「はいっ!ぜひまたいらしてく
明日への活力など寝て起きればもうリセットされているわけで――。紗良は五時半の目覚ましでむくりと起き上がった。身支度を整えながら、夜のうちにタイマーをかけておいた洗濯物をベランダに干す。それが終われば朝食の準備にとりかかるが、朝からあれこれ作る余裕はないため今日はピザトーストだ。オーブントースターで焼いていると紗良の母が起きてきて、あとを母に任せて紗良は寝室へ。「海斗、起きなさーい。朝だよー」寝相悪く布団から半分飛び出しながらもまだぐーすか寝ている海斗を揺り起こす。「……うーん」どこでそんな技を覚えてきたのだろうか、ごろんと寝返りを打ちながら器用に布団に丸まる海斗。「保育園遅刻するよー」容赦なくぺりっと布団を剥がし、寝ぼけ眼の海斗を着替えさせる。抱っこでダイニングまで運び、焼き上がったピザトーストを食べさせつつ紗良も急いで胃に流し込んだ。「今日は午後から雨みたいよ。傘持っていきなさいね」朝の情報番組のお天気コーナーを見ていた母がのんびりとお茶を飲みながらそんな事を言い、紗良はそれを頭の片隅に置いておきながら海斗の身支度を整える。「ほら、海斗行くよ」「おばーちゃん、いってきまーす」「はいはい、いってらっしゃい。ほら、紗良、傘忘れてる」「あっごめん、ありがとう」自分のカバンに傘に、海斗の保育園の着替え一式。軽自動車の助手席に雑に起き、海斗を後部座席へ乗せた。保育園までは車で五分ほどだ。近いけれど、海斗を車へ乗せたり降ろしたりする動作は意外と時間がかかる。四歳児だがまだまだ一筋縄ではいかないことが多い。保育園の門が開くと同時に海斗を預け、紗良は急いで職場へ向かう。朝の時間帯は交通量が多く、渋滞になりそうな道を時間と戦いながら安全運転で進み、職場の駐車場から執務ビルまではダッシュだ。そうして始業時間ギリギリに席に座り、汗だくのまま仕事が始まる。これが紗良の毎朝の風景だ。
「おはよう、紗良ちゃん」「依美ちゃん、おはよう~」ぐったりと席に座った紗良に声をかけてきた同僚、岡本依美は紗良と同じ派遣社員で一年先輩になる。「毎朝お疲れ様だねぇ」「今日は道が混んでたの。遅刻するかと思ったよ」「それで走ってきたの? 汗だくじゃん。あとで化粧直ししてきなね」「うっ……そうする」直すほどの化粧はしていないけれど、と思いつつもよほどひどい顔をしているのだろうか、思わずため息が漏れてしまう。「ところでさ、来週飲み会あるんだけど、どう?」「飲み会かぁ」「たまには参加しなよ。子供、お母さん見てくれるんでしょ?」「まあねぇ。うーん、でもやめとくよ。お迎えもあるし、その後で行くのはキツイ」「お迎えもお母さんにお願いできないの?」「それがお母さん運転免許持ってないのよ」「そうなの? そりゃ大変だ」「でしょう?」始業開始からそんな不真面目な会話を繰り広げられるほど社内環境はいい。紗良はここで派遣社員として八時半から十七時半まで事務仕事をしている。働き始めて早二年。時短勤務はできないものの、子育てしながら働くことを理解してもらえているありがたい職場だ。とはいえ、やはり子供を育てる上でいろいろと制約はあるわけで――。
十七時半のチャイムと同時にパソコンをシャットダウンし、「お疲れ様です」と告げて足早に会社を出る。夕方の渋滞をくぐり抜け保育園へ海斗を迎えに行き、ようやく家に帰ると十八時半近く。夕飯は母が用意してくれることが多くて、それはとてもありがたく助かっているのだが……。「海斗お風呂入るよー。って、寝てる?」洗い物をしている間に、大人しくテレビを見ていた海斗はいつの間にか床にゴロンと寝転がり、すやすやと寝息を立てていた。「もー、仕方ないなぁ」こんなことは日常茶飯事だ。初めは戸惑ったり、抱っこしただけで筋肉痛になったりしたけれど、最近はもう慣れっこになった。イライラすることも少なくなり、仕方がないで済まされる。寝室の布団を雑に敷いて、海斗を担いで運ぶ。その間もまったく起きない海斗は、きっと朝まで爆睡だろう。「最近暑いから、海ちゃんも疲れてるのねぇ」「汗かいてるからお風呂には入れたかったけど。朝シャワーでもさせるか」「一日お風呂入らなくったって死にやしないわよ。紗良だって子供の時はお風呂に入らずよく寝ちゃってたわ」「子供あるあるなのね?」そういうことも、ようやく慣れてきたというかわかってきたというか。紗良なりに理解できてきた事柄だ。
紗良が望めば結婚式だって何だって杏介はするつもりでいた。だが紗良はあっさりと、しなくていいと言った。三月には新居も完成予定で引っ越し作業が待っている。そして四月になれば海斗は小学一年生になる。何かと慌ただしい日々。これ以上予定を詰め込むのは難しい。なにより、杏介と結婚できたという事実が一番嬉しいため今は結婚式にまで頭が回らない。「紗良、好きだよ」「……杏介さん」「前は断られたからリベンジ」杏介は照れくさそうに笑う。ポケットにこっそりと忍ばせていたマリッジリングを取り出し、紗良の左薬指にはめる。マリッジリング自体は二人でデザインを決めて購入した。けれどそれを杏介が持ってきていただなんて――。紗良は喜びで胸がいっぱいになる。薬指にはまった指輪はダイヤモンドが複数並んでおり、揺れるような光沢はまるで水面のようにキラキラと輝いた。「杏介さん、私のこと好きになってくれてありがとう。ずっと待っててくれてありがとう」「こちらこそ。俺のこと信じてくれてありがとう。見捨てないでいてくれてありがとう。これからもずっと紗良のことを愛し続けるよ」「……ずっとだよ?」「うん、ずっと。約束する」「私も、杏介さんのこと愛し続けるって約束する」「……まるで結婚式みたいだな」「確かに。セルフ結婚式だね」ふふっと微笑む二人は自然と唇を寄せる。甘く優しい口づけは冬の寒さなど微塵も感じない。あの時とは違う胸の高鳴りが聞こえてくる。たくさんのことを乗り越えて季節をまたぎ、次の春がまたやって来る。愛した君とここから始まるのだ。二人の進む未来は明るく輝いていた。【END】
◇年も明け、紗良と杏介は婚姻届を提出するため役所を訪れていた。ドキドキとしながら書いた婚姻届は、あまりの緊張に二枚ほど書き損じてしまった。 年末には再び杏介の実家を訪れ、証人欄に名前を記入してもらった。 杏介の本籍は実家にあるため、そちらで戸籍謄本も取った。着々と準備が進むごとに結婚するんだという実感がじわじわとわいてくる。 そして今日という日を迎えた。「おめでとうございます」窓口に提出すると職員がにこやかに対応してくれる。 不備がないかなど確認し、滞りなく受理された。 案外あっけなく終わり紗良と杏介は時間を持て余したため、以前訪れたことのある公園まで足をのばした。まだ北風冷たく春になるにはもうしばらく先。 杏介は紗良の手を握り、自分のコートのポケットへ入れた。 吐く息は白いけれど、くっついていれば寒さなど感じないくらい手のひらからお互いのあたたかさを感じる。小高い丘の上にある展望台までのぼるとちょうど飛行機が通り抜けていった。 以前来たときはまわりの木々には緑の葉が生い茂っていて葉々を揺らしたが、今は冬のため枝がむき出しの状態だ。ところどころライトが付けてあることから、夜にはちょっとしたイルミネーションが見られるのだろう。「そういえば、本当に結婚式はしなくていいの?」「うん、だって家も建てるし海斗の卒園式もあるし、やってる暇なんてないよ。お金もないし」「紗良がいいならそれでいいけど……」杏介は顎に手を当ててうむむと考え込む。 あまりにも悩んだ表情をするため、紗良は自分の考えばかり押しつけていたのかもと思い焦る。「もしかして杏介さん、結婚式したかった?」「ああ、いや、そうじゃなくて、紗良のウェディングドレス姿を見てみたいと思っただけで。だって絶対可愛いし」「ええっ? そんなこと言ったら、杏介さんのタキシード姿だって絶対かっこいいよ」お互いにその姿を想像してふふっと笑う。
紗良は小さく首を横に振る。「ううん。私の方こそ……。私、あのとき依美ちゃんにそう言ってもらわなかったら自分の本当の気持ちを押し殺したままだった」あの時は目先なことしか考えていなかった。 海斗を立派に育てなければという使命感のみが紗良を支配していた。 依美の言葉は紗良を深く傷つかせたけれど、同時に自分のことを考え直すきっかけにもなった。「あのね、実は私、結婚するの」「いい人と出会ったんだ?」「うん、プール教室の先生」「えっ? もしかしてあの映画とか一緒に行ってたプールの先生ってこと?」「うん。だからね、依美ちゃんは私にきっかけをくれたんだ。自分の幸せを考えるきっかけ。本当に、ありがとね」「紗良ちゃぁ~ん」ズビズビと泣き出す依美に紗良も思わずほろりとする。 依美にハンカチを差し出せば「うええ」と更に泣き出した。「依美ちゃんって泣き虫だったんだ?」「違うの。なんかね、子ども産むと涙もろくなっちゃって」「そうなんだ?」コクコクと依美は頷く。 その経験は紗良にはないもので、何だか不思議に思う。 けれどきっと依美もそんな感じだったのだろう。「でも、本当におめでとう。自分のことのように嬉しい」「うん、ありがとう。依美ちゃんも、結婚と出産おめでとう」「ありがとう~」紗良と依美はふふっと微笑む。人はみな、違うのだ。 だからこうやって、意見が違えたりある日突然わかり合えたりするのだろう。
海斗が一年生に上がる前までに、入籍と引っ越しを完了する予定でいる。 それまではバタバタな日々が続くが、師走ともなると仕事の方も慌ただしくなった。相変わらずギリギリで出社した紗良は、フロア内がざわめいていることに気がついた。 小さな人だかりができていて女性たちの黄色い声が耳に届く。「紗良ちゃん」輪の中心にいた人物が紗良に声をかける。「わあ! 依美ちゃん!」紗良は驚いて目を丸くした。 依美は長かった髪をバッサリ切って、腕には小さな赤ちゃんを抱えている。 切迫早産の危険があり入院していたが、無事、十月に出産したのだ。 赤ちゃんは三ヶ月になろうとしているがまだ小さくふにゃふにゃだ。「うわあ、可愛い」「よかったら抱っこしてみる?」紗良が手を差し出すと依美は赤ちゃんをそっと乗せる。 思ったよりも軽く、そうっと触らないと壊れてしまいそうなほどに繊細だ。 海斗とは比べものにならないくらい柔らかい。 そう思うと、海斗は大きくなったんだなと改めて感じた。「ああ、あとさ……」「うん?」口を開いた依美は躊躇いながら一旦口を閉じる。 紗良は首を傾げながら抱いていた赤ちゃんを依美に返すと、依美は赤ちゃんを大事そうに抱きしめた。 そして今にも泣き出しそうな顔で紗良を見る。 言いづらそうにしていたが、やがて重い口を開いた。「私、紗良ちゃんに謝りたくて……」「えっ? 何かあったっけ?」「うん……。前に……結構前のことなんだけど、紗良ちゃんに対して、自己犠牲に酔ってるなんて言ってごめん。子供ができてわかった。何より大事だよね。私、あのとき無神経だった」本当にごめん、と依美は瞳を潤ませた。 紗良はつい最近も身近でこんなことがあったようなと記憶を辿る。――紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか……(あ、これって杏介さんと一緒だ……)経験を経て、その立場になってみてようやくわかること。 紗良が海斗のことを一番に考えていた気持ち。 それを依美は自身が妊娠することによって得たのだった。「急に入院してそのまま退職しちゃったからさ、皆には迷惑かけたなと思って、挨拶がてらお菓子配りに来たの」「そうだったんだ」「特に紗良ちゃんには迷惑かけちゃってごめんね。私の仕事やってくれてたんでしょ? あと、メッセージも返
◇無事に親への挨拶も済み、二人は結婚に向けて歩き出した。 海斗のこと、紗良の母親のこと、お互いの仕事のこと、考える事は山ほどある。 けれどひとつも大変だとは思わなかった。 この先に待っている新しい生活に思いを馳せながら、日々できることをこなしている。季節は秋から冬に移り変わるところ。 延びていた母の入院生活もようやく終わり、紗良たちはアパートに引っ越していた。 それは母の老後悠々自適生活のためのアパートではなく、紗良たちの一時的な住居だ。紗良と杏介は悩みに悩んだ末、紗良の実家を建て替えて二世帯住宅として住むことを母に提案したのだ。 母は渋ったものの、左手足の回復が思ったより上手くいかず、近くに住んだ方が安心だと説得されて了承した。 海斗は家が新しくなることと、家が出来たら杏介と一緒に住めることを喜んで心待ちにしている。いつものように海斗をプールに送り出して、ママ友の弓香と一緒に観覧席に座る。 と、弓香が声を潜めて紗良に迫る。「ちょっと紗良ちゃん、滝本先生と結婚するってほんと?」「えっ! 弓香さん、なぜそれを……」ドキリとした紗良は思わず目が泳ぐ。「海ちゃんが保育園で言いふらしてたみたいよ。うちの子が聞いたって。もー、いつの間にそんなことになってたの?」「いや、いろいろあって。っていうか、ちゃんと弓香さんには伝えるつもりでいたんだけど、まさか海斗から伝わるとは……」「やだもう、馴れ初めとか聞きたい聞きたい!」「お、落ち着いて弓香さんっ! さすがにここでは話せないし……。今度お茶したときにでも! ねっ?」「絶対よ。約束だからね!」こんなプール教室に通う子どもの親たちがひしめく観覧席で、まさかガラス越しのプールにいる杏介と結婚する、という話題は避けたい。 紗良は冷や汗をかきながら弓香を落ち着ける。「まさか紗良ちゃんの推しが滝本先生だったとは。一番人気じゃん」「そんな競馬みたいなこと言わないでよ~」「あーあ、私も推しの小野先生と仲良くなりたいわ」「またそんなこと言って、旦那さん泣くってば」「いいじゃない、別に。なにも不倫したいとか思ってるんじゃなくてさ、芸能人とお近づきになりたいみたいなミーハーな気持ちよ。それくらい楽しみがないといろいろやってられないってば。紗良ちゃんは真面目すぎるのよ」「……真面目なんですよ、私は
「本当に、いい人と巡り会えたのね。ね、お父さん。って、あら? やだ、何でお父さんが泣いてるの? ここで泣くのは私と杏介くんだと思うんだけど?」「いや、俺も父親として夫としていろいろ申し訳なかったな、と思ったら……つい……ぐすっ」父は目頭を押さえて上を向く。 寡黙な父で言葉数は少ないが、父には父なりの想いがあった。 それは言葉にならず涙として込み上げる。「……みんな、なんでないてるの? かなしいことあった?」大人たちの会話の意味はわかるが背景を知らない海斗は理解できずきょとんとする。 ずっと神妙な面持ちでいるかと思えば急に泣き出したのだから海斗としてはわけがわからない。「違うよ、海斗。嬉しくても涙は出るのよ」「海斗くん、これからよろしくね。お昼はピザでも取りましょうか? 海斗くんピザ好き?」「すきー! やったー!」「海斗、お利口さんにする約束!」「はっ! し、してるよぅ」紗良に咎められ慌てて姿勢良くする海斗。 微笑ましさに母は思わず口もとがほころぶ。「ふふっ、私ちょっとやそっとじゃ驚かないわよ。杏介くんで鍛えられてるから」と茶目っ気たっぷりに言われてしまい杏介は頭を抱えたくなった。 とはいえすべて自分が元凶なので謝ることしかできないのだが。「……いや、本当に申し訳な……」「杏介」涙のおさまった父が低く落ちついた声で名を呼び、はい、とそちらを向く。「いろいろ経験したお前だ。これからは紗良さんと海斗くんと幸せになりなさい」「父さん……」紗良は改めて杏介の手を握る。 杏介も応えるように握り返す。 今日、ここに来て本当によかった。 心からそう思った。顔を見合わせればお互い真っ赤な目をしていて、可笑しくなってふふっと微笑む。杏介と母とのぎこちなさがなくなったわけではない。 それでも暗く閉ざされていた部分に光が差し込み、今まで見えなかった出口が見えてきた気がした。
「杏介、母さんはずっとお前のことで悩んでて――」父が厳しく咎めようとしたが、母はそれを遮った。 そして小さく頷く。「……いいのよ。思春期だったもの。私も上手くできなくて相当悩んで荒れたし、お父さんにも相談してたの。だけどもう、杏介くんが元気ならそれでいいかなって思って。……家を出て、そこで紗良さんと知り合って結婚するんだもの。今までのことは紗良さんに出会うための布石だと思えば安いものよ」ね、と母は同意を促す。 どう考えても安くはないと思った。 結婚して幸せな家庭を築きたいと願っている杏介にとって、母が結婚してから今まで味合わせてしまった負の感情は取り返しもつかない。 ましてや自分が産んだ子のことでもないのに。「本当に申し訳なかったと……思う。紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか、その、なんていうか、今まで……すみませんでした。許してはもらえないかもしれないけど……」「杏介くん……」大人になって、その立場になってようやくわかる気持ち。 子どもの頃はなんて浅はかで未熟だったのだろう。 もう戻れやしないけれど、誠意だけはみせたいと思った。「ううっ……」突然隣から鼻をぐしゅぐしゅ啜る音が聞こえてそちらを見やる。「さ、紗良?」「あらあら、紗良さんったら」紗良は目を真っ赤にして涙を堪えていた。 慌てて杏介がハンカチを差し出す。「す、すみません。わたし、杏介さんが悩んでいたのを知ってたし杏介さんが私の母を大切にしてくれてるから、お母様とも仲良くできたらと思ってて……ぐすっ。だからよかったなって思って……ううっ……」「俺は紗良がいてくれなかったらこうやって会いに来ようとも思わなかった。ずっと謝ることができないでいたと思う」紗良とその家族に出会って、杏介は過去を振り返り変わることができた。 杏介は紗良の背中をそっとさする。 この杏介よりも小さい体で杏介よりも年下の紗良に、どれだけ助けられてきただろう。 自分の黒歴史でしかない親との確執に付き合ってくれ泣いてくれる。 その事実がなによりも杏介の心を震わせた。
「紗良さん、頭を上げてちょうだいね。私たち、結婚を反対しようなんて思ってないのよ。杏介くんから聞いてると思うけど、私は杏介くんの本当の母ではないから、複雑な家庭環境に身を置くことに対してその覚悟はあるのかしら、と気になっただけなのよ。気を悪くさせたらごめんなさいね」父が言葉足らずな分、それをフォローするかのように母は申し訳なさそうに告げた。「あ、いえ……」気を悪くなどと、と恐縮していると、杏介は紗良の手を握る。 突然のことに杏介を見やるが、握った手はそのままに杏介は真剣な顔をして母を見た。その手には力がこもっている。「……本当の、母だよ」「え?」「俺はちゃんと……あなたのことを……お母さんだと……思ってる」「……杏介くん?」杏介は一度紗良を見る。 握った手から力をもらうかのように紗良のあたたかさを感じてから、杏介は深く息を吸い込んだ。「……関係をこじらせたのは俺のせいだ。母さんはいつも俺に優しかった。冷たくしたって無視したって、ご飯は作ってくれたし、学校行事にも来てくれた。俺はずっと素直になれなくて逃げるように家を飛び出してしまったけど、本当は後悔してた。水泳の大会にも毎回来てくれてたのを知ってる」重かった口は一度言葉を吐き出したらすらすらと出てきた。 準備はしていなかった。 ずっと杏介の頭の中で燻り続けていた想いが溢れてくるようだった。杏介の母はしばらく黙っていた。 それは怒りでも喜びでもなく、まさか杏介がこんなことをいうなんてという驚きで言葉を失ったのだ。
杏介の実家の前には車が一台止まっていたが、端に寄せられてもう一台止められるスペースが開けてあった。杏介はそこに丁寧に車を付ける。インターホンを鳴らすとすぐに玄関がガチャリと開く。 出てきたのは杏介の母で、杏介と目が合うと、お互いぎこちなく無言のまま。 ここは紗良がまず挨拶をすべきと口を開いたときだった。「こんにちは!」海斗がずずいと前に出て元気よく挨拶をした。 慌てて紗良も「こんにちは」と続く。 杏介の母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さく微笑む。「こんにちは。遠いところよくいらっしゃいました。どうぞ上がってくださいな」ペコリと頭を下げて、紗良と海斗は中へ入った。 杏介もそれに続きながら、「ただいま」と小さく呟いた。杏介の緊張感がひしひしと伝わってくる。 紗良はそっと杏介を見る。 いつになく緊張した面持ちの杏介は紗良の視線に気づくとようやくふと力を抜いた。「大丈夫。ちゃんとするから」紗良に聞こえるだけの声量で囁く。 それは嬉しいことだけれど、気負いすぎもよくないと思う。でもそれを今、杏介に上手く伝えることができず紗良はもどかしい気持ちになった。和室の居間に通され、杏介の父と母の対面に座った。紗良の横には海斗がちょこんと座る。「紹介します。お付き合いしている石原紗良さんと息子の海斗くん。俺たち結婚しようと思って今日は挨拶に来ました」「はじめまして。石原紗良と申します。ほら海斗、ご挨拶」「いしはらかいとです。六さいです」ピンと張りつめていた空気が海斗によって少しだけ緩む。 海斗は自分が上手く挨拶できたことにドヤ顔で紗良を見る。目が合えば「ちゃんとごあいさつできたー」と、これまた気の緩むようなことを口走るので紗良は慌てて海斗の口を手で押さえた。「……杏介、いいのか? 最初から子どもがいることに、お前は上手くやれるのか?」杏介の父が表情変えず、淡々と厳しい言葉を投げかける。緩んだ緊張がまた元に戻った。 それは杏介と杏介の新しい母が上手く関係をつくれなかったことを意味していて、杏介だけでなく母も、そして紗良も唇を噛みしめる思いになった。「いや申し訳ない。紗良さん、あなたを責めているわけではないから勘違いしないでほしい。これは我が家の問題でね……」「俺は上手くやれる。ちゃんと海斗を育てるよ。それも含めて結婚したいと思