分厚いガラス戸の向こうで、深雪は病床に横たわり、微動だにしなかった。宏の心臓が高鳴る。心配でたまらないのに、あの夜彼女がわざと嘘をついた情景が脳裏を掠める。あの女は、本当に芝居がうまい。今度はこんな手で、こちらの同情を引こうというのか。彼は運転手を呼びつけ、検査結果を即刻報告するよう命じた。具体的の診断書があれば、もう嘘の言い訳など通用しまい。気が遠くなるような時間が過ぎ、深雪はようやく意識を取り戻した。しかし目を開けて最初に見たのは、運転手と医師が病床前で何やら話し込んでいる姿。運転手が診断書を手に重い足取りで扉に向かうのを見て、深雪は慌てて点滴の針を引き抜き、裸足で追いかけた。「伝えないで!」彼女は診断書を奪い取り、力いっぱい破り捨てると、手すりにすがって息を切らした。肩で息をする背中が痩せ細っている。運転手はしばし呆然とした後、深いため息を零した。「小林さん、なぜそこまで……」「森崎様が真相を知れば、きっと……」深雪は青白い唇を噛みしめた。「お願い……彼には言わないで」「あの人の性格をご存じでしょう?真実を知ったら、きっと自分を責め続けるんです」「苦しみは私一人で十分……!」運転手は首を振り、やがて沈黙で承諾した。車の中、深雪の体に異常はなく単なる低血糖だと聞いた宏は、眉間に深い皺を刻んだ。やはりまた芝居だったか。金のためなら手段を選ばない女め。あれほど辱めてもまだ懲りないのか。「栄養剤を買わせろ」冷たい声が車内に響いた。「外で失神されても恥をかくのは俺だ」病院を出た深雪は薬の量を増やした。医師から「病状の進行が予想以上に早い」と宣告された。投薬量を増やさねば、一時的にせよ痛みを抑えることさえできないという。引き出しに薬瓶を隠す際、雑貨で覆い隠す手つきが無意味に思えた。あの二度の出来事以降、例え森崎に目撃されても、もう何も信じてもらえないだろう。夜、宏が帰宅した。共にいるのは満だった。「風見さんに紅茶を出せ。スリランカのやつだ」ソファに腰掛けた宏が俯せの深雪を見下ろす。「それと、お前の部屋を明け渡せ。しばらく彼女が泊まる」深雪は抗議せず台所に向かった。薬の影響か、やつれた手が震え、やかんを台にぶつけてしまう。熱湯が跳ね、手首に滲みた。駆けつけた二人を前に
蛇口から水がまだ流れ続けている。深雪は湯気に灼かれた手の甲の赤みをじっと見つめ、大粒の涙をこぼした。何が悲しいのだろう。自分が望んだ結果なのに。たとえ彼女が彼の目の前で死んだとしても、宏は一滴の涙も流さないだろう。それが最初から叶えたかった願いだったはずなのに、なぜ満たされないのか。それなのに、彼の口から直接そう言われたとき、なぜこんなにも胸が苦しいのか。まるで誰かに心臓を引き裂かれたようで、息もできないほど痛い。夜更け、深雪は小さな部屋で横になっていた。隣の部屋の声が鮮明に聞こえてくる。「宏さん、声が大きいよ。小林さんに聞こえたらどうするの」「構うものか。彼女にベッドの脇に立たせて見させたって、何の問題もない」そう言い終わると、深雪の携帯が鳴った。宏からのメッセージだった。たった二文字。「来い」深雪は携帯の画面を消し、寝巻きを羽織ってドアを開けた。宏の部屋のドアをノックし、中に入った。部屋の中は春の色に満ちており、満は頬を赤らめていた。「もう、本当に呼んじゃったの?」宏は彼女の頭を優しく撫で、額に軽くキスをした。声は低く、情熱の余韻を残している。「満、お前のどこが好きかわかるか?照れる様子がたまらなく可愛いんだ。純粋で、他の貪欲で世俗的な女たちとは違う」深雪は彼の言葉の意味を理解した。彼女が金銭や欲望に目がくらんだ女だと嘲笑っているに違いない。胸の苦しみを押し殺し、彼女は淡々と目を上げた。「呼んだ用件は?」宏は視線を外し、一瞬にして冷たい目になった。「満が疲れたから、風呂を用意してやれ」「いつもの通り、金はきちんと払う」深雪は袖の中で拳を握り締め、爪が掌に食い込んで血が出るほどだった。全身の力を振り絞って、ようやく感情を抑え込んだ。しばらくして、彼女は平静を装って答えた。「かしこまりました。森崎さん、忘れずに振り込んでくださいね」宏は激しく怒ったようで、こめかみに青筋が浮かび、顔色も険しくなった。深雪は浴室に向かい、湯を張った。湯気が立ち込め、目が曇り、涙がこぼれそうになった。後ろから満がバスローブを着て入ってきた。彼女は服を脱ぎ、浴槽に浸かった。妖艶な目には優越感が満ちていた。「小林さん、この気持ち、辛いでしょう?」深雪は返事をせず、た
やっと満の入浴を終わらせた時、深雪は全身びしょ濡れになっていた。満は明らかに彼女を困らせるつもりで、水が冷たいと文句を言ったり、今度は熱すぎると騒いだりした。お茶を入れさせたり、果物を要求したり、次から次へと注文をつけてきた。どんな要求でも、深雪は逆らわず、すべて従った。彼女のそんな弱腰な態度に、満はかえって訝しげに、「宏さんの側にいるのは、一体何のため?」と聞かずにはいられなかった。ドアの影が揺れた。小林深雪は唇を強く噛みしめた。彼女は平然と笑って見せた。「もちろんお金のためよ。私がこんなことをすれば、彼がどれだけのお金をくれるか、あなたにはわからないでしょう?お金のために頑張らない人なんている?」ドアの向こうで「ガラッ!」と何かが割れる音がした。深雪は気に留めず、満の脱いだ服を抱えて部屋を出た。ドアを閉めた瞬間、彼女はついに力尽き、背中をドアに預けてゆっくりと床に滑り落ちた。すべての仮面がこの瞬間に崩れ去った。自分自身を騙すことなどできなかった。宏が他の女性を愛する姿を、平然と見ていることなど、到底無理だった。胸に激しい痛みが走り、彼女は慌てて立ち上がり、自分の部屋に戻ると、洗面所に駆け込み、一口の血を吐いた。その後数日、彼女はほとんど階下に降りることはなかった。使用人たちの話から、宏が満のために、森崎家のすべてを大きく変えていることを知った。満がひまわりを好きだというので、庭の花々をすべて抜き、ひまわりで埋め尽くした。彼女が中華風のデザインを好むと、宏が高額で購入した家具や名画をすべて撤去し、彼女の好みに合わせて中華風に統一した。深雪の部屋でさえ例外ではなかった。彼女が西洋料理を好むと、宏は巨額を投じて海外からミシュラン五つ星のシェフを招き、彼女専属の料理人として一日三食を担当させた。宏は行動で示した。彼が愛する女性は、天にも届くほど寵愛され、望むものは何でも手に入るのだと。そして、深雪に伝えたかった。もし彼女があれほど貪欲でなければ、このすべては彼女のものだったのだと。夜、深雪がベッドに横になっていると、階下のリビングから「ミャオッ!」というトントンの悲鳴が聞こえた。彼女は慌てて起き上がり、明かりをつけて階下に駆け下りた。リビングでは、満が棒を手に、隅に縮こまったトントンに向かって次
その猫は、何年も前に二人が一緒に拾ったものだった。拾った頃は生後三ヶ月にも満たず、痩せこけて小さかった。二人で協力して風呂に入れ、ペット用ミルクを飲ませ、ようやく今のふっくらとした姿に育て上げた。当時、宏は結婚する時にはトントンに指輪を運ばせようと、冗談めかして言っていたものだ。なのに今、彼は淡々と「処分する」と言い放った。深雪は信じられなかった。自分を憎むのは構わないが、罪のない命にまで怒りを向けるべきではない。トントンは彼女の命綱だった。それを失えば、彼女も生きていけない。必死にトントンを抱きかかえ、普段は見せない弱音を滲ませた。「やめて……宏、お願い。トントンを捨てないで。これからずっと私の部屋で飼うから、二度とあなたたちの前に出さないから」宏の冷徹な顔に温もりはなく、彼は深雪を冷ややかに見下ろし、残酷な言葉を紡いだ。「満に傷を負わせた以上、森崎家に置くわけにはいかない」「相談ではなく通告だ」深雪が拒み続けると、満は業を煮やし、直接手を伸ばして奪おうとした。もみ合ううちにトントンが手から滑り、柵の外へ落下した。甲高い悲鳴と共に、小さな体は硬直して動かなくなった。「トントン……!」深雪の瞳が大きく見開かれた。地面に横たわる愛猫を見つめながら、心がトントンと共に地面に叩きつけられ、粉々になったかのようだった。トントン。彼女のトントン。血の気が頭に上り、初めて味わう崩壊感。狂いそうな感情が暴走する。彼女は風見の首筋に手をかけ、絞め殺す寸前だった。「返して……!トントンを返して!」宏が彼女の腕を掴み、満を背後に引き寄せた。冷たい視線が深雪を射抜く。「狂ってる女め」「猫一匹の死で騒ぐな。満に傷一つ負わせたら、お前を地獄の底まで叩き落としてやる」二人が去り、残された深雪はトントンの亡骸を抱いて泣き伏した。庭に穴を掘り、丁寧に土を被せた。良かった、と彼女は思った。せめて埋葬してやれる。自分が死んだ時、誰がトントンの面倒を見てくれるだろうか。小さな塚を見つめ、彼女の涙は止まらなかった。自分が死ぬ時、遺体を拾ってくれる人はいるのだろうか。部屋に戻ると、満がソファに座って待ち構えていた。深雪を見るなり、切り出した。「深雪さん、あなたが昔、宏さんと別れた理由、知ってるわよ
答えは、最初から考えすぎる必要などなかった。もし彼女が最初から宏を苦しめ、自分と共に深淵へ引きずり込むつもりだったなら、あの時、彼は別れを選ばなかったはずだ。たぶん、今がちょうどいい時なのだろう。今の宏は彼女を心底憎んでいる。だからたとえ彼女が死んだとしても、きっと悲しみはしない。夜、深雪は自ら台所に立ち、食卓を料理で埋め尽くした。彼がかつて夢中になった鳥肉の煮込みと赤ワイン煮の魚を覚えていた。貧しかったあの頃、二人はよく市場で材料を買い、狭いキッチンで肩を並べた。「お前の作る料理を毎日食べられたら、それだけで最高の幸せだ」そう笑った彼の頬に、今は高級スーツの匂いが染みついている。宏が帰宅し、食卓に佇む彼女の姿を見た時、常に無表情を貫く彼の目に一瞬の動揺が走った。冷たい足音で近づき、嘲笑うように言い放つ。「何の芝居だ?新しい策略か?」深雪はいつもの棘を全て抜き、穏やかに微笑んだ。「あなたがずっと求めてたでしょう?今日は特別に、あなたの好物で機嫌を取ろうと思って」「遅すぎた」彼は唇を歪ませた。「俺はもうお前を愛してなどいない」「そう……良かった」深雪の笑い声が絞り出される。「それでいいのよ」そのあまりに平静な態度に、宏はむしろ不安を覚えた。「本当の目的は何だ?」深雪は寂しげな瞳を伏せ、テーブルクロスを撫でた。「ただ、最後に食事を共にしたかったの。こんなに穏やかに向き合うのは……何年ぶりかしら」宏の胸が疼いた。返す言葉もなく、彼女が床から段ボール箱を抱え上げるのをただ見つめた。「学生時代のラブレター、271通もあったわ」深雪が薄汚れた封筒を並べる。「どうしてあの頃は、あんなに話すことがあったのかしら」手編みのマフラーが現れた時、宏の眉が微かに震えた。「寮で編んでるところを友達に笑われてたわね」最後にアルバムを広げた深雪は、若き日の写真を指さした。「カメラマンが『モデル向き』って褒めるのに、あなたはいつも不機嫌そうな顔。まるで私に借りがあるみたい」ふと漏れた笑い声に、宏の心臓が締め付けられた。何もかもが不自然な今夜の彼女。答えを迫ろうとしたその時、携帯が鳴り響いた。「宏さん、寂しいわ……今すぐ来てくれる?」満の甘えた声が破裂音のように部屋を満たした。優しく囁きを返す宏を見送り、深雪は箸
血まみれの水が徐々に冷めていき、浴槽の中の女はすでに息絶えていた。宏の車は満のアパートの下に停まっているのに、彼はなかなか降りようとしなかった。満からの電話が何度も鳴り続けたが、宏は画面が光っては消えるのをただ見つめ、応答しなかった。自分が何を考えているのかわからなかった。ただ、胸の奥がざわつき、押し潰されそうな不安に襲われていた。理性は「満の元へ行け」と叫ぶ。彼女はもう長い間待っているはずだ。しかし、どこかで薄らぎくような予感がしていた――深雪が危ない。今戻らなければ、一生後悔するようなことが起きる。宏は深雪が示した不可解な行動を思い返し、満へ向かう理由を探そうとした。心臓は暴れ、まぶたも痙攣するように震えていた。あの女は嘘つきだ……何度も俺を翻弄してきたんだ。また同情を誘う手口だろう!宏は自分に言い聞かせた。もう深雪の罠には引っかからない、と。機械的に車を降り、満のドアを叩いた。ドアが開くと、満は肌を露わにしたシースルーのドレスで宏に抱きつこうとした。しかし、彼の頭には一切の色気が浮かばず、本能のように満を突き放した。振り返らずに車へ戻り、猛スピードで走り出した。自分が愚かだとわかっていても――深雪の罠だと知っていても、また駆けつけてしまうのだ。満はドアに寄りかかり、腰のあざを揉みながら呟いた。「最悪……死ぬならもっとマシなタイミングでよ。私の計画を台無しにして……」舌打ちし、ドアを閉めた。自宅の前で、宏は初めて足がすくんだ。ドアを開ける勇気さえ湧かない。手が震え、パスコードを何度も打ち間違えた。扉が開くと、医療関係者らしき人々が立ち、鉄の匂いが鼻を刺した。「誰だ……!ここで何をしている!」リーダー格の男が進み出た。「森崎様でしょうか。小林深雪さんはご自身の遺体を医学部へ献体されました。尊いお志です。ご冥福を」「遺体……?献体……?」言葉の意味が理解できない。生きている人間の体を、なぜ「遺体」と呼ぶのか。浴室へ駆け込む医療スタッフを押しのけ、宏も突入した。視界が真っ赤に染まった。震える手で浴槽に駆け寄り、深雪を抱き上げようともがいた。「深雪……!目を覚ませ!寝てる場合じゃないだろ!」冷たくなった彼女の体をぎゅっと胸に押し付け、額をぴたりと重ねた
医者の言葉で宏の世界は崩れ去った。彼は絶望に駆られて医者の白衣を掴み、「お前ら!命じてやる!彼女を救え!金ならある!最高の薬も設備も使え!手段は問わん、とにかく生き返らせろ!」宏の指先は震えていた。看護師と警備員に引き離されても、金があると言い続ける彼の瞳は、もう理性を失っていた。病院では毎日こうした別れが繰り返され、金では買えない命があることを、医療従事者たちは痛いほど知っていた。宏が深雪の元へたどり着いた時、彼女の頬は蝋のように冷たくなっていた。涙の枯れた目で顔を撫でながら、彼は呟いた。「今日の様子がおかしかったのは……俺への別れだったのか」額を深雪の頬に押し付け、二人きりで過ごした結婚生活の短い温もりを思い出していた。彼は深夜に冷蔵庫と氷棺を設置させ、深雪を抱きしめて囁いた。「病院は騒がしいだろ?もう手を離さない。二度と離さないから……家に帰ろう。二人きりで、お前の好きな料理を作る」自宅へ戻り、装飾を見渡した森崎は悪寒に襲われた。向日葵で埋め尽くされた庭、中華風の内装、深雪の好みに合わない洋食——全てが彼女を遠ざけていたことに今さら気付いた。「こんな家、深雪は嫌だったのか?怖がってたのか?夢にも現れてくれないのはそのせいか」狂ったように向日葵を引き抜き、家具を叩き壊し、シェフを追い出す。空っぽの家で孤独に震えながら、冷めた料理を一口ずつ噛みしめた。汚れたラブレターや写真を拾い集め、血の滲んだシャツで拭おうとして逆に汚してしまう。子供のように無様に手足を動かす宏の背中は、深雪の存在の痕跡の薄さに縮こまっていた。深雪が大切にしていたものは、以前に宏が全て処分してしまった。残されたわずかな品々を、彼は今更ながら握りしめて離さない。整理を進めるうち、ふと気付いた。この家の女主人である深雪の痕跡は、驚くほど少なかったのだ。クローゼットに掛かった服は夏物と冬物を合わせても十指に満たず、化粧品棚には化粧水と乳液、数本の口紅が寂しげに並んでいる。ベッドサイドの引き出しからは、日常薬の瓶に偽装した処方箋の薬剤がこぼれ落ちた。ビタミン剤のラベルを貼った瓶の底には、彼女の祖母と叔母を奪った遺伝性疾患の診断書が、年代を跨いで積み重ねられていた。「金に執着する女だと……」宏は診断書の束を握り締め、爪が掌に食い込んだ
宏は深雪のベッドに横たわり、写真とラブレターをぎゅっと抱きしめたまま、彼女の残り香をかぎ続け、それでも眠りには落ちられなかった。目を閉じるたび、脳裏に浮かぶのは深雪が別れを告げる時の姿ばかり。「行くな……行くな!」あの時の自分に叫びたかった。引き留めさえすれば、彼女は死なずに済んだかもしれない——そんな妄想が、夜明けまで彼を苛んだ。冷蔵庫は金を積めば一夜で完成する。氷の棺に横たわる深雪の傍らで、宏は薄いシャツ一枚のまま寄り添っていた。肌の冷たさは、もはや亡骸と変わらなかった。このままずっと一緒にいたい。だが、まだそれが許されない。深雪の携帯を調べると、最後の着信は風見満からのもの。会った人物も彼女が最後だった。「あの日まで……彼女はここまで絶望していなかった」満と会った直後、深雪は急に意味ありげな言葉を呟き、自ら命を絶った。彼女の死に、風見満が関わっている——宏は確信した。身なりを整え、車で満のアパートへ向かった。到着時、彼女はまだ寝静まっていた。宏はパスコードを知っていた。ドアを開け、室内へ踏み込む。一室しかない部屋ながら、至る所に高価な品が飾られていた。限定香水にオーダーメイドの置物、ブランドの洋服……コップさえも庶民の手が届かない代物だ。「金なんて価値がない、か」唇を歪ませた。「綺麗事を並べた女の家がこれか」一方で「自分は拝金主義だ」と嘯いていた深雪は、治療費のために倹約を重ねていた。嗤いたくなるほどの皮肉だった。ベッドから満を引きずり下ろし、浴槽で亡くなった深雪の写真を突きつける。「説明しろ。お前が彼女を追い詰めたんだろう?」荒れ狂う形相に、満は震えあがった。ようやく絞り出した声は、涙で滲んでいた。「私じゃない……信じて……本当に……」震える手で宏に抱きつこうとするが、彼は冷たく振り払った。「触るな」低くうなる声が部屋に響く。「深雪が死んだ。お前を許さない……たとえ無実でもだ」
宏は迷うことなく深雪の手を握り、力を込めた。「俺を信じてみてくれないか?すでに薬の研究に投資しているんだ。すぐに成果が出ると信じてる。頼む、信じて」「もし何年経っても君の病状が悪化するなら……俺も自分を醜くする。君が旅立つ日が来たら、一緒について行くから」宏はふっと笑った。「忘れたのか?言っただろう。俺は君を愛してる。死ぬほどに」その言葉に、深雪の頬に涙が光り、やがて笑みがこぼれた。深雪はわざとらしく目を輝かせて言った。「宏が醜くなったら、好きじゃなくなるかもよ」「たとえ醜くなっても、君にぴったりくっついて離れないからな」宏は慌てて答えた。二人だけが知っている。深雪の言葉は本心ではないことを。深雪は笑いながら、料理を口に運んだ。「宏……本当にいいの?私と一緒にいるって」深雪は真剣な眼差しで彼の瞳を見つめた。宏は視線を重ね、ゆっくりとうなずいた。「ああ、決めてる」続けて彼は言った。「これからは、嘘をつかないでくれ。何かあればすぐ話し合おう。心のままに……信じ合おう。約束だ」「わかった」深雪は彼に賭けてみることにした。数年後、深雪の母の病状は治療で抑えられていたが、次第に衰えていった。深雪は前世で一度、母の死を経験していた。今回は覚悟ができていた。母と過ごす日々は、全てが「盗んだ時間」のように感じられ、彼女は一秒も無駄にしなかった。残された時間で、宏と深雪は母を連れ、かつて行けなかった場所へ旅立った。最期の瞬間まで、母は笑顔だった。死神は深雪に慈悲を見せなかった。前世と同じく、彼女の体にも異変が現れた。治療と研究を続けても、病状は好転しない。深雪は苦い薬を飲み続け、胃液を吐き出すほどだったが、それでも諦めなかった。宏とトントンと過ごす時間が、少しでも長くなれば──。余命を悟った深雪は、宏に懇願した。「宏……一緒に旅に出よう。トントンも連れて」キャンピングカーを買い、二人一匹は各地を巡った。そして最後──天寿を全うしたトントンを見送り、深雪は宏の腕の中で静かに息を引き取った。宏は躊躇わず、大量の睡眠薬を飲み干すと、深雪をきつく抱きしめた。頬を伝う最後の涙が、彼の覚悟を物語っていた。彼は事前に全てを整えていた。二人の遺体は火葬され、海に散骨される。財産の一部は医療
地上に倒れていた少女は、他ならぬ深雪に面影の似た風見満だった。この人生での満は高校に上がったばかり。宏の支援も庇護もないまま、彼女は素直に学校に通い続けることができなかった。家は貧しく、高校を卒業させるのもやっと。大学など到底無理な話だった。前世の彼女は学業の合間を縫って必死に働き、何とか地方の大学に進学。宏に見出され、衣食住に困らない生活を手に入れた。しかし今生では、その容貌が早くも目に留まり、宏の元へ送り込まれる寸前だった。ところが宏は微塵も興味を示さず、逆に席を立ってしまった。深雪との約束へ向かう宏を、満は店主に強制され追いかけるしかない。宏が北安ホテルの個室に入った直後、満も後を追って到着した。興奮していたのか、宏は背後に尾行されていることに気付かなかったようだ。個室の扉を開けた瞬間、深雪の視界に飛び込んできたのは、宏の影にぴたりと張り付いた満の姿だった。「どうして彼女があなたについてきたの?」深雪の声は震えていた。まさかまた前世と同じ展開になるなんて。もしかして二人は最初から繋がっていたのか?この間ずっと私を弄んでいたのか?深雪は首を振り、失望のあまり数歩後ずさった。宏が振り返ると、怯えた小動物のように縮こまっている満が目に入った。「ついてくるな!消えろ!」「お願いです……傍に置いてください!立場なんかいりません!さもないと……殺されます、本当に!」青白い少女の顔には本物の恐怖が滲んでいた。店主から金を受け取った代償が、こんな末路を招いたのだ。前世の満だと気付かない宏は業を煮やし、通りがかったウェイターに札束を握らせた。「あの女を放り出せ。二度と近寄らせるな」金に目がくらんだウェイターは、満を引きずるように連れ去った。「あの狂女とは何の関係もない」宏は必死に弁明した。深雪は眉を寄せた。「あの子が風見満だと分からなかったの?」「風見……満?」宏の表情が瞬時に凍りついた。前世、浴槽に横たわった深雪の亡骸を思い出す度、胸を締め付ける憎悪が甦る。「あの女を生かしておくわけにはいかない。お前をあんな目に遭わせた張本人だ」宏の険しい形相に、深雪は思わず身を引いた。その反応に気付いた宏は話題を転じ、テーブルに手を引いた。「話そうか?何を聞きたい?」宏が深雪の手を引
深雪は嬉しさのあまり、何をすべきかわからなくなってしまった。猫を抱き上げると、ぺちぺちと頬にキスをした。トントンは深雪の愛情を感じ取ったかのように、甘えた声で鳴きながら、小さな前足で彼女の頬をそっと押した。深雪は胸がいっぱいになり、慌ててどんちゃんと段ボール箱を抱え、家路を急いだ。猫を抱きながら、彼女は悟っていた。宏以外に、こんなことをする者はいない。これは彼なりの「信じてくれ。今度は二人でトントンを育てよう」というメッセージなのだと。前世のトントンの悲劇が脳裏をよぎり、宏が側にいる限り、また無実の災いが降りかかるのではないかと不安でたまらなかった。深雪は猫を長く抱きしめ、少し大きくなるまで育てたら、信頼できる人に託そうと決意した。自分と一緒にいれば傷つくかもしれない。飼い主である自分さえ最期まで傍にいられないのなら、最初から飼わない方がましだ。懐いた猫の温もりに万感の思いを抱えつつ、彼女は覚悟を固めた。まるで別れを察知したかのように、トントンの丸い瞳が潤んだ。ピンクの舌でミルクを舐めるのをやめ、深雪の掌をそっと舐めた。「私を離さないで。ご飯、少ししか食べないから」と言っているようだった。深雪の心は一瞬で溶け、決意が揺らぐ。果たして宏を信じていいのだろうか?自分でも答えが出せない。嘘に塗り固められた真心。どんな約束も、今の深雪には行動で示す言葉に及ばない。彼女の内側は二分されていた。一方が「宏を愛してる。信じてみよう」と叫び、もう一方が「死ぬ瞬間に誓ったじゃないか。自由になるって。なぜ同じ過ちを?」と嗤う。頭が割れそうな痛みの中、深雪はついに宏と真正面から話すことを決断した。「もしもし?宏、ちょっと話があるんですが」電話の向こうでは杯の音と媚びた笑い声が響いていた。商談中だと察した深雪は、急いで言葉を継いだ。「お忙しいならまた今度でも」切ろうとした瞬間、宏の声が遮った。「待って。北安ホテルの個室を押さえてある。そちらで待っていてくれないか?用事が片次第、すぐに向かう」「ええ」深雪の返事に、宏は珍しく笑みを浮かべ、グラスを一気に空にした。この数日かけた仕掛けが実を結び始めたのだ。会話への期待で、彼は新たに入ってきた若いウェイトレスの存在に気づかなかった。誰かが宏を指さすと、頬を薄く染めた若いウェイトレスが
拉致事件を経て、深雪と宏の間にそびえていた壁が、いつの間にか低くなっていた。宏の血色の悪い顔を見つめながら、深雪は思った。宏は本当に、私の心を癒す方法を知っているんだわ。宏は深雪の心の緩みを察し、勢いに乗って続けた。「もちろん、本気だよ」「今度こそ、僕の全てを君に預ける。君の思いのままにさせてほしい」宏は腰を折り、深雪と額を合わせた。真摯な眼差しで言葉を紡ぐ。「前世のことは全部忘れよう。今生で一から始めよう。嘘も隠し事もない関係で」深雪は視線を泳がせ、もじもじと身をよじった。「……まだ、考えがまとまってないの」そう言うやいなや、しゃがみこんで宏の腕の囲いから逃れ、慌てて自宅のドアを開けて駆け込んだ。ウサギのように逃げる後姿を見送りながら、宏はくすりと笑った。苦肉の策もたまには効くものだ。少なくとも、深雪の心の鎧にひびを入れるきっかけは掴めた。ドアに背を預けた深雪は、ほてった頰を手のひらで押さえた。一度人生を終えた身なのに、どうしてまた少女のように頬を染めてしまうのだろう。全ては宏のせいだ。あの整った顔は、何度見ても胸を騒がせる。ここ数日、深雪の態度は確かに柔らかくなりつつあった。二人が共に最期を迎えられる未来さえ、どこかで望んでいる自分がいた。卒業間近の深雪はほぼ社会人として働いており、宏のアプローチにも以前ほど抵抗しなくなっていた。全てが平穏に回り始めたかのように思えた。ある日、学校の用事で休暇を申請しに上司の元へ向かった時、思いがけない光景を目にした。普段威厳のある課長が、宏にへりくだるように挨拶しているのだ。深雪の笑みがこわばった。自分が実力で掴んだと思っていたこの職場が、実は宏の一声で用意されたものかもしれない。同僚たちの訝しげな視線の理由がようやく腑に落ちた。宏の事業の拡大速度にも驚かされた。結局、前世と同じ轍を踏んでいるのではないか。強引な手段を使わないだけましだと言えるのか。頭ではわかっていた。自分なりに仕事をこなしているのだから。それでも脳裏をかすめる。この職場に宏がどれほどの力を注いだのか。今ここで真相を問いただせば、再び籠の鳥に戻ってしまうのか。足元に鉛を巻かれたように立ち尽くす深雪は、最後に覚悟を決めた。「宏、課長とお知り合いですか?」宏は瞬時に事情を悟り、
威圧的なメッセージに、宏の顔が冷たく引き締まった。自分への挑発なら構わない。だが、深雪に手を伸ばそうなど、虫が良すぎる。深雪は、宏という竜のたった一つの逆鱗だった。触れれば牙を剥き、爪を立てる。返信せずに家入昇への報復を指示した。薬がお好きなら、存分に味わっていただこう。翌日、退社途中の家入の車がパンクした。運転手がタイヤ交換中、突然彼を殴打し、意識を失わせた。深雪に投与された量の数倍の薬を飲まされ、同じように段ボールに詰められ、ホームレスがたむろする地区へ放り込まれた。ホームレスたちが箱を開けると、肥満体の中年男が転がっている。金目の物を奪い、薬の効いたままドブ川の脇へ放置した。正気に戻った時、家入の体は廃れ、裸の写真がニュースを賑わせていた。「家入グループ」の「家入」は妻の実家の姓。入り婿で姓を変えた彼の解任に、誰も異論を挟まない。宏の手引きで家入の妻は不倫と横領の証拠を入手し、わずか数日後、家入昇は財産をすべて失い、法廷に立たされる身となった。何もかも奪われた男は、今なお夢の中にいるような感覚に囚われていた。どうしてこんなことに?つい先日まで、新たな部下を手に入れて妻からさらに財産を奪おうと、甘い妄想に耽っていたではないか。ふと頭をかすめたのは森崎宏の顔だった。「あの小僧……いや、とんでもない誤算だ」歯噛みしながら気付く。ここ数日の不運は全て森崎宏の仕業だ。冷や汗が背中を伝う。あの男は爪痕を残すことで、上流社会に宣言したのだ。小林深雪に触れる者は、どんな手段を使っても潰す――そうして家入昇の末路は、宏が張り巡らせた罠の完璧な証明となったのである。上流社会に衝撃が走った。森崎宏の名を嘲笑う者たちは、一斉に態度を改めた。深雪の元に舞い込む仕事が増え、母の病状も安定し、自宅近くの職場で充実した日々が続く。全てを終えた宏は、病院でパイプカット手術を申し込んだ。医師の制止を振り切り、術後数日で蒼い顔のまま深雪の家を訪れた。診断書を手に、玄関先で彼女を捉えた。「深雪、俺、手術した」宏は深雪の負担になりたくなかった。避妊薬は彼女の体を蝕む。そもそも子供への執着もない。ならば自分が縛ればいい。紙面にはっきり記された文字。深雪は息を詰まらせた。指先が震え、言葉が見つからな
一夜の激情の後、深雪はようやく自分を見失っていた意識を取り戻した。どうしてこうなったんだろう?事態がこんな風に変わってしまうなんて……距離を置き、もう関わり合わないと誓ったはずなのに。なぜまた絡み合ってしまったのか?深雪は自分の頭を軽く叩き、警戒心と自制心の足りなさに歯がゆさを感じた。全てが予定より大きく逸れていく手応えに、胸がざわめく。卒業後は母と限られた時間で多くの景色を見ようと決めていたのに。宏が彼女の人生に、抗いようのない強さで割り込んできた。前世の記憶が深雪を不安にさせる。宏の本心がわからない。たとえ彼が言葉で説明しても、信じきれない自分がいた。根底にあるのは劣等感だった。病を抱えた自分に枠をはめ込み、前世で宏に冷たくされたことが自信を削いでいた。「こんな身体で人を愛せるのか?子供まで病を受け継いだら……」子供!その瞬間、深雪は避妊薬を飲まねばと気づいた。妊娠など許されない。ふらつく足を引きずりながら、宏のスマホを探しに起き上がる。自身の携帯はパンクしたワゴン車の傍に置き忘れたままだ。宏のスーツジャケットのポケットからスマホと二つの御守りを取り出した。ロック画面に前世の結婚記念日を入力すると、すんなり解除された。今の彼女のパスコードも同じ日付だ。一瞬手が止まり、それから出前アプリで緊急避妊薬を注文した。無地に近い簡素な御守りを掌に載せ、深雪の胸に波紋が広がる。北安寺で求めたものに違いない。前世では二人で山頂まで登り、対の御守りを授かった。今世では登山すらしていないのに、宏は一人で求めてきたのか。ロック画面の数字、肌身離さず持ち歩く御守り、そして彼の周りに誰もいない事実――もしかしたら、この人を信じてもいいのかもしれない。もし前世の宏が本当に別の女性を愛していたなら、今世で先回りしてその人と結ばれてもおかしくない。でも彼はここにいる。甘い安堵が胸を満たしかけた瞬間、配達員の着信が思考を断ち切った。冷たい水で錠剤を二粒飲み込む動作は、慣れすぎていて痛々しいほどだった。目を覚ました宏の視界に、薬を飲み干す深雪の姿が飛び込んだ。発作かと勘違いし、慌てて手を伸ばすが、彼女の動作は速すぎた。「何してるんだ!」グラスが揺れて水が跳ねた。「……ただの薬よ」深雪が横にある薬箱を瞥み、宏は
今回の話し合いはか結果なしに終わったが、小林深雪の存在は一部の思惑を持つ者たちの目に留まっていた。上流社会の多くの人間が、新進気鋭の実業家・森崎宏を注視していた。彼を潰そうとする者もいれば、懐柔しようとする者もいる。宏の手口は冷酷で、この年齢にありがちな未熟さなど微塵も感じさせない。彼の年齢が明らかでなければ、同世代の人間と錯覚する者もいるほどだ。家入グループの会長・家入昇(いえいり のぼる)も早くから宏に目を付けていた。年頃の娘がおり、以前から彼に紹介しようと画策していたが、彼は異性関係に一切の隙を見せず、娘は未だに本人と面会すら叶っていない。家入は宏を徹底的に監視させ、ついにこの日、彼の「弱点」を発見した。小林深雪を調べ上げると、彼女が森崎宏の「叶わぬ想いの女性」であることが判明した。家入は今日の地位を築くために手段を選ばない男だ。小林深雪が森崎宏の恋慕の的と知るや、即座に策略を練り始めた。深雪が授業を終え帰宅途中、突然小さな女の子に袖を引かれた。「電話を貸してお母さんに」という頼みに、周囲に人通りもあったため警戒せず携帯を渡した。電話をかけた瞬間、路駐していたワゴン車から屈強な男が飛び出し、不意を突かれた深雪を車内に引きずり込んだ。布で口を覆われ、彼女はすぐに意識を失った。目が覚めた時、深雪は狭い四角い箱に閉じ込められていた。内部は暗く、数個の豆粒ほどの通気孔だけがかすかな光を漏らしている。頭がぼんやりし、全身が不自然に熱い。着ているのは布切れのような薄い衣類だった。震える腕で体を抱き締め、渇きのような欲望が全身を駆け巡るのを耐えていた。唇を噛みしめ血の味が広がっても、かろうじて正気を保とうとするが無駄だった。「助けて……誰か……」か細い声が漏れる。理性が欲望に飲み込まれかけたその時、扉が開く音がした。鈍く重い足音——来たる者の意識もまた曇っているようだ。視界を奪われた不安が背筋を這う。自分が俎上の魚のように無力だと悟った深雪は、息を殺し、体の反応を抑え込もうとした。「誰かの罠に嵌められ、贈り物として運ばれたのだわ」「でも、相手が誰かまだ……」宏は酔いを帯びた足取りで、部下の支えを振り切りながら自室のベッドに腰を下ろした。完全に正気を失っているわけではないが、視界がかすむ。部屋の中央に置か
宏にとってお金は、単なる口座の数字の羅列に過ぎなかった。大金を手にしたからといって、彼は特に心を揺さぶられることもない。様々な商売仲間たちが、宏の傍らの空いた席に目を付け、彼にありとあらゆるタイプの女性を送り込んできた。彼がそれらの女性を容赦なく拒否し続けると、中には「女が好みじゃないのか」と勘違いした者まで現れ、今度は男を差し向ける者さえいた。宏はそんな連中に微塵も興味がない。前世、彼の周りを次々と女性が囲んだせいで、深雪は深く傷ついていた。再び与えられたこの機会を、彼はただひたすら深雪の傍にいるために使いたかったのだ。自身の資産を整理し終えると、宏は学校の片隅で深雪を追い詰めた。少し時が経っただけで、彼の少年めいた面影は薄れ、痩せていた体躯は引き締まり、鋭い目元には重みが宿り、前世の姿に近づきつつあった。「深雪、これが今の僕の全財産だ。これからもっと稼ぐ。君とお母さんの治療費は全部僕が負担する」壁に片手を突き、深雪を隅に封じ込めるようにして、宏は嗄れた声で続けた。「僕を見捨てないでくれないか?」彼の目の下には隈がくっきりと浮かんでいた。ここ数日、ろくに眠っていないのは明らかだ。その姿に深雪は胸が締めつけられた。「森崎さん……無理しなくてもいいのに」目の前の少年は日に日に前世の青年に近づいている。なぜか居心地の悪さを覚えながらも、どこか懐かしい気持ちがこみ上げた。あの無垢でひたむきだった少年の面影が、早くも消えつつあることが惜しまれるのだ。居心地の悪さの原因は別にあった。今の宏と距離が縮まるたび、前世の光景が脳裏を掠める。あの頃の宏も、他の女性を壁際に押し込めては、激しく吻を交わし、互いを貪り合っていた。その情景を思い出すだけで、深雪は自然と身を引いてしまうのだった。宏の胸を小さな手で押し、深雪はわずかに距離を開けた。「お金が入ったのはおめでとう。でも他人同士なんだから、治療費まで出してもらうわけにはいかないわ。好意だけ受け取っておく」無意識のうちに冷たい態度を取ってしまった自分に、深雪は内心ひりつくものを感じた。宏の胸の奥で、何かが砕ける音がした。それでも彼は深雪を責められない。強引に迫れば、彼女を悲しませるだけだ。欲望は膨らむばかりだった。前世、息を引き取る瞬間に願ったのは「深雪が
宏は今の自分にはまだ大した金がないことを自覚していた。深雪と彼女の母親の病は底なしの穴のようなものだ。彼は必死に稼がなければならなかった。前世の経験から、宏はどの企業やプロジェクトが将来利益を生むかを知っていた。貯めた金を全て計画通りに振り分け、大学に戻ってプロジェクトを早期に完了させた。今の彼にとって金を稼ぐことは、まるで朝露を払うように容易かった。「金さえあれば去っていく人を引き留められるなら、いくらだって払う価値がある」 そう思うと、むしろ自分が稼げる能力を持っていることを感謝さえした。病室に戻ると、深雪はぼんやりと窓の外を見つめていた。「深雪、どうしたの?さっき訪ねてきた人は?中に入ってこなかったわね」と母親が首を傾げた。「別に……看護師さんに呼ばれただけよ。お母さん、リンゴ剥いてあげる」 慌てて笑顔を作りながら包丁を握る深雪の目元は赤く腫れ、声にも泣いた後の濁りが残っていた。扉の隙間から、背の高い青年の影がちらりと見えたことを母親は覚えている。 深雪が口を濁すのを察し、そっと話題を変えた。「私の体調なんて大丈夫よ。好きな人がいるなら、すぐに断ったりしなくていいの。恋愛だって応援するから」母親はまだ、自分と同じ病が娘にも潜んでいることや、治療の見込みの薄さを知らない。穏やかな笑顔に、深雪は手元の包丁を滑らせそうになった。何と答えればいいのか。「うん」と頷くべきか、「病気は治るから」と嘘をつくべきか。結局、彼女はただ黙ってリンゴの皮を剥き続けた。宏がどうやってこの世界に来たのか、深雪にはわからなかった。「自殺したから?」彼の言葉を信じるべきか、それとも……頭の中は糸絡みのようにぐちゃぐちゃで、整理のつけようがなかった。全てが好転しているように見えるのに、なぜこんなに迷うのだろう。自分の体が周囲を苦しめる存在であること、それだけは確かだった。「一人で背負えばいいのに、どうして森崎さんまで巻き込むの?」前世の記憶は死の瞬間で途切れている。彼の言葉が真実かどうかも定かでない。それでも、この二度目の人生を深雪は宝物のように大切にしていた。「もうあの人とは関わりたくない。今の平穏だけでいい」かつて宏が自分を嫌悪していたのは、全て演技だったのだろうか?霧の中を彷徨う