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第7話

Auteur: 卿々
その猫は、何年も前に二人が一緒に拾ったものだった。

拾った頃は生後三ヶ月にも満たず、痩せこけて小さかった。

二人で協力して風呂に入れ、ペット用ミルクを飲ませ、ようやく今のふっくらとした姿に育て上げた。

当時、宏は結婚する時にはトントンに指輪を運ばせようと、冗談めかして言っていたものだ。なのに今、彼は淡々と「処分する」と言い放った。

深雪は信じられなかった。自分を憎むのは構わないが、罪のない命にまで怒りを向けるべきではない。

トントンは彼女の命綱だった。それを失えば、彼女も生きていけない。

必死にトントンを抱きかかえ、普段は見せない弱音を滲ませた。

「やめて……宏、お願い。トントンを捨てないで。これからずっと私の部屋で飼うから、二度とあなたたちの前に出さないから」

宏の冷徹な顔に温もりはなく、彼は深雪を冷ややかに見下ろし、残酷な言葉を紡いだ。

「満に傷を負わせた以上、森崎家に置くわけにはいかない」

「相談ではなく通告だ」

深雪が拒み続けると、満は業を煮やし、直接手を伸ばして奪おうとした。

もみ合ううちにトントンが手から滑り、柵の外へ落下した。

甲高い悲鳴と共に、小さな体は硬直して動かなくなった。

「トントン……!」

深雪の瞳が大きく見開かれた。地面に横たわる愛猫を見つめながら、心がトントンと共に地面に叩きつけられ、粉々になったかのようだった。

トントン。彼女のトントン。

血の気が頭に上り、初めて味わう崩壊感。狂いそうな感情が暴走する。彼女は風見の首筋に手をかけ、絞め殺す寸前だった。

「返して……!トントンを返して!」

宏が彼女の腕を掴み、満を背後に引き寄せた。冷たい視線が深雪を射抜く。

「狂ってる女め」

「猫一匹の死で騒ぐな。満に傷一つ負わせたら、お前を地獄の底まで叩き落としてやる」

二人が去り、残された深雪はトントンの亡骸を抱いて泣き伏した。

庭に穴を掘り、丁寧に土を被せた。

良かった、と彼女は思った。せめて埋葬してやれる。自分が死んだ時、誰がトントンの面倒を見てくれるだろうか。

小さな塚を見つめ、彼女の涙は止まらなかった。自分が死ぬ時、遺体を拾ってくれる人はいるのだろうか。

部屋に戻ると、満がソファに座って待ち構えていた。

深雪を見るなり、切り出した。

「深雪さん、あなたが昔、宏さんと別れた理由、知ってるわよ」

深雪はぎくりとした。「何を言ってるの?」

満は嘲るように笑った。「誤魔化さないで。引き出しの薬と検査結果を見たわ。医者に聞いたら、あと半月しか生きられないって」

「でも困ったわね。私は今すぐ宏の妻になりたいの。半月も待てない」

深雪は静かに彼女を見つめ、その真意を測りかねていた。

満は勝ち誇った口調で続けた。「宏さんに知られたくないんでしょ?なら取引しましょう」

「どうせ死ぬなら、早めに命を絶てば?そうすれば真実を暴露しないわ」

「深雪さん、一日だけ待つ。自分が苦しむか、宏さんを苦しめるか——選びなさい」

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    拉致事件を経て、深雪と宏の間にそびえていた壁が、いつの間にか低くなっていた。宏の血色の悪い顔を見つめながら、深雪は思った。宏は本当に、私の心を癒す方法を知っているんだわ。宏は深雪の心の緩みを察し、勢いに乗って続けた。「もちろん、本気だよ」「今度こそ、僕の全てを君に預ける。君の思いのままにさせてほしい」宏は腰を折り、深雪と額を合わせた。真摯な眼差しで言葉を紡ぐ。「前世のことは全部忘れよう。今生で一から始めよう。嘘も隠し事もない関係で」深雪は視線を泳がせ、もじもじと身をよじった。「……まだ、考えがまとまってないの」そう言うやいなや、しゃがみこんで宏の腕の囲いから逃れ、慌てて自宅のドアを開けて駆け込んだ。ウサギのように逃げる後姿を見送りながら、宏はくすりと笑った。苦肉の策もたまには効くものだ。少なくとも、深雪の心の鎧にひびを入れるきっかけは掴めた。ドアに背を預けた深雪は、ほてった頰を手のひらで押さえた。一度人生を終えた身なのに、どうしてまた少女のように頬を染めてしまうのだろう。全ては宏のせいだ。あの整った顔は、何度見ても胸を騒がせる。ここ数日、深雪の態度は確かに柔らかくなりつつあった。二人が共に最期を迎えられる未来さえ、どこかで望んでいる自分がいた。卒業間近の深雪はほぼ社会人として働いており、宏のアプローチにも以前ほど抵抗しなくなっていた。全てが平穏に回り始めたかのように思えた。ある日、学校の用事で休暇を申請しに上司の元へ向かった時、思いがけない光景を目にした。普段威厳のある課長が、宏にへりくだるように挨拶しているのだ。深雪の笑みがこわばった。自分が実力で掴んだと思っていたこの職場が、実は宏の一声で用意されたものかもしれない。同僚たちの訝しげな視線の理由がようやく腑に落ちた。宏の事業の拡大速度にも驚かされた。結局、前世と同じ轍を踏んでいるのではないか。強引な手段を使わないだけましだと言えるのか。頭ではわかっていた。自分なりに仕事をこなしているのだから。それでも脳裏をかすめる。この職場に宏がどれほどの力を注いだのか。今ここで真相を問いただせば、再び籠の鳥に戻ってしまうのか。足元に鉛を巻かれたように立ち尽くす深雪は、最後に覚悟を決めた。「宏、課長とお知り合いですか?」宏は瞬時に事情を悟り、

  • 永い愛の嘆き   第21話

    威圧的なメッセージに、宏の顔が冷たく引き締まった。自分への挑発なら構わない。だが、深雪に手を伸ばそうなど、虫が良すぎる。深雪は、宏という竜のたった一つの逆鱗だった。触れれば牙を剥き、爪を立てる。返信せずに家入昇への報復を指示した。薬がお好きなら、存分に味わっていただこう。翌日、退社途中の家入の車がパンクした。運転手がタイヤ交換中、突然彼を殴打し、意識を失わせた。深雪に投与された量の数倍の薬を飲まされ、同じように段ボールに詰められ、ホームレスがたむろする地区へ放り込まれた。ホームレスたちが箱を開けると、肥満体の中年男が転がっている。金目の物を奪い、薬の効いたままドブ川の脇へ放置した。正気に戻った時、家入の体は廃れ、裸の写真がニュースを賑わせていた。「家入グループ」の「家入」は妻の実家の姓。入り婿で姓を変えた彼の解任に、誰も異論を挟まない。宏の手引きで家入の妻は不倫と横領の証拠を入手し、わずか数日後、家入昇は財産をすべて失い、法廷に立たされる身となった。何もかも奪われた男は、今なお夢の中にいるような感覚に囚われていた。どうしてこんなことに?つい先日まで、新たな部下を手に入れて妻からさらに財産を奪おうと、甘い妄想に耽っていたではないか。ふと頭をかすめたのは森崎宏の顔だった。「あの小僧……いや、とんでもない誤算だ」歯噛みしながら気付く。ここ数日の不運は全て森崎宏の仕業だ。冷や汗が背中を伝う。あの男は爪痕を残すことで、上流社会に宣言したのだ。小林深雪に触れる者は、どんな手段を使っても潰す――そうして家入昇の末路は、宏が張り巡らせた罠の完璧な証明となったのである。上流社会に衝撃が走った。森崎宏の名を嘲笑う者たちは、一斉に態度を改めた。深雪の元に舞い込む仕事が増え、母の病状も安定し、自宅近くの職場で充実した日々が続く。全てを終えた宏は、病院でパイプカット手術を申し込んだ。医師の制止を振り切り、術後数日で蒼い顔のまま深雪の家を訪れた。診断書を手に、玄関先で彼女を捉えた。「深雪、俺、手術した」宏は深雪の負担になりたくなかった。避妊薬は彼女の体を蝕む。そもそも子供への執着もない。ならば自分が縛ればいい。紙面にはっきり記された文字。深雪は息を詰まらせた。指先が震え、言葉が見つからな

  • 永い愛の嘆き   第20話

    一夜の激情の後、深雪はようやく自分を見失っていた意識を取り戻した。どうしてこうなったんだろう?事態がこんな風に変わってしまうなんて……距離を置き、もう関わり合わないと誓ったはずなのに。なぜまた絡み合ってしまったのか?深雪は自分の頭を軽く叩き、警戒心と自制心の足りなさに歯がゆさを感じた。全てが予定より大きく逸れていく手応えに、胸がざわめく。卒業後は母と限られた時間で多くの景色を見ようと決めていたのに。宏が彼女の人生に、抗いようのない強さで割り込んできた。前世の記憶が深雪を不安にさせる。宏の本心がわからない。たとえ彼が言葉で説明しても、信じきれない自分がいた。根底にあるのは劣等感だった。病を抱えた自分に枠をはめ込み、前世で宏に冷たくされたことが自信を削いでいた。「こんな身体で人を愛せるのか?子供まで病を受け継いだら……」子供!その瞬間、深雪は避妊薬を飲まねばと気づいた。妊娠など許されない。ふらつく足を引きずりながら、宏のスマホを探しに起き上がる。自身の携帯はパンクしたワゴン車の傍に置き忘れたままだ。宏のスーツジャケットのポケットからスマホと二つの御守りを取り出した。ロック画面に前世の結婚記念日を入力すると、すんなり解除された。今の彼女のパスコードも同じ日付だ。一瞬手が止まり、それから出前アプリで緊急避妊薬を注文した。無地に近い簡素な御守りを掌に載せ、深雪の胸に波紋が広がる。北安寺で求めたものに違いない。前世では二人で山頂まで登り、対の御守りを授かった。今世では登山すらしていないのに、宏は一人で求めてきたのか。ロック画面の数字、肌身離さず持ち歩く御守り、そして彼の周りに誰もいない事実――もしかしたら、この人を信じてもいいのかもしれない。もし前世の宏が本当に別の女性を愛していたなら、今世で先回りしてその人と結ばれてもおかしくない。でも彼はここにいる。甘い安堵が胸を満たしかけた瞬間、配達員の着信が思考を断ち切った。冷たい水で錠剤を二粒飲み込む動作は、慣れすぎていて痛々しいほどだった。目を覚ました宏の視界に、薬を飲み干す深雪の姿が飛び込んだ。発作かと勘違いし、慌てて手を伸ばすが、彼女の動作は速すぎた。「何してるんだ!」グラスが揺れて水が跳ねた。「……ただの薬よ」深雪が横にある薬箱を瞥み、宏は

  • 永い愛の嘆き   第19話

    今回の話し合いはか結果なしに終わったが、小林深雪の存在は一部の思惑を持つ者たちの目に留まっていた。上流社会の多くの人間が、新進気鋭の実業家・森崎宏を注視していた。彼を潰そうとする者もいれば、懐柔しようとする者もいる。宏の手口は冷酷で、この年齢にありがちな未熟さなど微塵も感じさせない。彼の年齢が明らかでなければ、同世代の人間と錯覚する者もいるほどだ。家入グループの会長・家入昇(いえいり のぼる)も早くから宏に目を付けていた。年頃の娘がおり、以前から彼に紹介しようと画策していたが、彼は異性関係に一切の隙を見せず、娘は未だに本人と面会すら叶っていない。家入は宏を徹底的に監視させ、ついにこの日、彼の「弱点」を発見した。小林深雪を調べ上げると、彼女が森崎宏の「叶わぬ想いの女性」であることが判明した。家入は今日の地位を築くために手段を選ばない男だ。小林深雪が森崎宏の恋慕の的と知るや、即座に策略を練り始めた。深雪が授業を終え帰宅途中、突然小さな女の子に袖を引かれた。「電話を貸してお母さんに」という頼みに、周囲に人通りもあったため警戒せず携帯を渡した。電話をかけた瞬間、路駐していたワゴン車から屈強な男が飛び出し、不意を突かれた深雪を車内に引きずり込んだ。布で口を覆われ、彼女はすぐに意識を失った。目が覚めた時、深雪は狭い四角い箱に閉じ込められていた。内部は暗く、数個の豆粒ほどの通気孔だけがかすかな光を漏らしている。頭がぼんやりし、全身が不自然に熱い。着ているのは布切れのような薄い衣類だった。震える腕で体を抱き締め、渇きのような欲望が全身を駆け巡るのを耐えていた。唇を噛みしめ血の味が広がっても、かろうじて正気を保とうとするが無駄だった。「助けて……誰か……」か細い声が漏れる。理性が欲望に飲み込まれかけたその時、扉が開く音がした。鈍く重い足音——来たる者の意識もまた曇っているようだ。視界を奪われた不安が背筋を這う。自分が俎上の魚のように無力だと悟った深雪は、息を殺し、体の反応を抑え込もうとした。「誰かの罠に嵌められ、贈り物として運ばれたのだわ」「でも、相手が誰かまだ……」宏は酔いを帯びた足取りで、部下の支えを振り切りながら自室のベッドに腰を下ろした。完全に正気を失っているわけではないが、視界がかすむ。部屋の中央に置か

  • 永い愛の嘆き   第18話

    宏にとってお金は、単なる口座の数字の羅列に過ぎなかった。大金を手にしたからといって、彼は特に心を揺さぶられることもない。様々な商売仲間たちが、宏の傍らの空いた席に目を付け、彼にありとあらゆるタイプの女性を送り込んできた。彼がそれらの女性を容赦なく拒否し続けると、中には「女が好みじゃないのか」と勘違いした者まで現れ、今度は男を差し向ける者さえいた。宏はそんな連中に微塵も興味がない。前世、彼の周りを次々と女性が囲んだせいで、深雪は深く傷ついていた。再び与えられたこの機会を、彼はただひたすら深雪の傍にいるために使いたかったのだ。自身の資産を整理し終えると、宏は学校の片隅で深雪を追い詰めた。少し時が経っただけで、彼の少年めいた面影は薄れ、痩せていた体躯は引き締まり、鋭い目元には重みが宿り、前世の姿に近づきつつあった。「深雪、これが今の僕の全財産だ。これからもっと稼ぐ。君とお母さんの治療費は全部僕が負担する」壁に片手を突き、深雪を隅に封じ込めるようにして、宏は嗄れた声で続けた。「僕を見捨てないでくれないか?」彼の目の下には隈がくっきりと浮かんでいた。ここ数日、ろくに眠っていないのは明らかだ。その姿に深雪は胸が締めつけられた。「森崎さん……無理しなくてもいいのに」目の前の少年は日に日に前世の青年に近づいている。なぜか居心地の悪さを覚えながらも、どこか懐かしい気持ちがこみ上げた。あの無垢でひたむきだった少年の面影が、早くも消えつつあることが惜しまれるのだ。居心地の悪さの原因は別にあった。今の宏と距離が縮まるたび、前世の光景が脳裏を掠める。あの頃の宏も、他の女性を壁際に押し込めては、激しく吻を交わし、互いを貪り合っていた。その情景を思い出すだけで、深雪は自然と身を引いてしまうのだった。宏の胸を小さな手で押し、深雪はわずかに距離を開けた。「お金が入ったのはおめでとう。でも他人同士なんだから、治療費まで出してもらうわけにはいかないわ。好意だけ受け取っておく」無意識のうちに冷たい態度を取ってしまった自分に、深雪は内心ひりつくものを感じた。宏の胸の奥で、何かが砕ける音がした。それでも彼は深雪を責められない。強引に迫れば、彼女を悲しませるだけだ。欲望は膨らむばかりだった。前世、息を引き取る瞬間に願ったのは「深雪が

  • 永い愛の嘆き   第17話

    宏は今の自分にはまだ大した金がないことを自覚していた。深雪と彼女の母親の病は底なしの穴のようなものだ。彼は必死に稼がなければならなかった。前世の経験から、宏はどの企業やプロジェクトが将来利益を生むかを知っていた。貯めた金を全て計画通りに振り分け、大学に戻ってプロジェクトを早期に完了させた。今の彼にとって金を稼ぐことは、まるで朝露を払うように容易かった。「金さえあれば去っていく人を引き留められるなら、いくらだって払う価値がある」 そう思うと、むしろ自分が稼げる能力を持っていることを感謝さえした。病室に戻ると、深雪はぼんやりと窓の外を見つめていた。「深雪、どうしたの?さっき訪ねてきた人は?中に入ってこなかったわね」と母親が首を傾げた。「別に……看護師さんに呼ばれただけよ。お母さん、リンゴ剥いてあげる」 慌てて笑顔を作りながら包丁を握る深雪の目元は赤く腫れ、声にも泣いた後の濁りが残っていた。扉の隙間から、背の高い青年の影がちらりと見えたことを母親は覚えている。 深雪が口を濁すのを察し、そっと話題を変えた。「私の体調なんて大丈夫よ。好きな人がいるなら、すぐに断ったりしなくていいの。恋愛だって応援するから」母親はまだ、自分と同じ病が娘にも潜んでいることや、治療の見込みの薄さを知らない。穏やかな笑顔に、深雪は手元の包丁を滑らせそうになった。何と答えればいいのか。「うん」と頷くべきか、「病気は治るから」と嘘をつくべきか。結局、彼女はただ黙ってリンゴの皮を剥き続けた。宏がどうやってこの世界に来たのか、深雪にはわからなかった。「自殺したから?」彼の言葉を信じるべきか、それとも……頭の中は糸絡みのようにぐちゃぐちゃで、整理のつけようがなかった。全てが好転しているように見えるのに、なぜこんなに迷うのだろう。自分の体が周囲を苦しめる存在であること、それだけは確かだった。「一人で背負えばいいのに、どうして森崎さんまで巻き込むの?」前世の記憶は死の瞬間で途切れている。彼の言葉が真実かどうかも定かでない。それでも、この二度目の人生を深雪は宝物のように大切にしていた。「もうあの人とは関わりたくない。今の平穏だけでいい」かつて宏が自分を嫌悪していたのは、全て演技だったのだろうか?霧の中を彷徨う

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