このケーキの色は薄かった。明らかに、黒色のような不自然な色が使われるはずがなかった。その異様な光沢には妙な圧迫感があった。目にした瞬間、言葉にならない不安が胸をよぎった。雅彦は桃の顔色が急に悪くなったのを見て、すぐに足を踏み出した。「どうした?」このケーキだけは、雅彦が直接準備できなかったものだった。特別に職人に依頼して作らせたものだった。何か問題でもあったのか?そう思いながら視線を向け、そして、一瞬で理解した。爆弾だ!幼い頃から軍事の教育を受けてきた雅彦にとって、それが何であるかは疑うまでもなかった。遠くから様子を伺っていた宗太は、三人の反応を見てすぐに気づいたようだった。だが、彼の表情はむしろ嬉しさに歪んでいった。気づいたのか?それでも、構わない。ケーキの内部には細い起爆線が仕込まれていたが、彼の手元にはもうひとつ遠隔起爆のスイッチがあった。彼らが気づいたところで無意味だ。むしろ、恐怖と絶望に染まるその表情を楽しめるだけだった。雅彦は顔を上げ、宗太の異様な笑みを見た瞬間、全身が震えた。危険だ。説明する暇すらなかった。咄嗟に桃と翔吾を抱え込み、背を向けながらできる限り遠くへ跳んだ。しかし、それでも間に合わなかった。雅彦が動いた瞬間、宗太はスイッチを押した。直後、耳をつんざく轟音が、空間を引き裂いた。爆風は巨大な窓ガラスを粉々にし、無数の破片が四方八方へと飛び散った。桃は目を見開いた。すべてが一瞬の出来事だった。何が起こったのか理解する間もなく、雅彦に抱えられ、強引にその場から引き離された。時間の感じが曖昧になるほど、すべてが速すぎた。ようやく、桃は雅彦の腕の中で息を整えながら状況を飲み込んだ。翔吾は二人の間に挟まれるようにして、怯えた目を見開いていた。「ママ……爆発した……あれ、爆弾だったの?」桃の目に驚愕の色が広がった。爆弾。そんなもの、生きてきて一度でも身近に感じたことがあっただろうか?だが、すぐに気づいた。先ほどの雅彦の行動の意味を。彼は、瞬時に間に合わないと判断し、何のためらいもなく、自らの背で爆風を受け止めようとした。桃の体が小さく震えた。声が出なかった。「雅彦……大丈夫?」口を開いた瞬間、思わず
桃は力強く首を振った。雅彦の声はかすれ、空気には血の匂いが濃く漂っていた。彼は重傷を負っているに違いない。こんな状態なのに、まだ私たちのことを気にしているなんて……この男、正気なの?桃がまだ返事をする前に、背後の塵の中から、一つの人影がゆっくりと近づいてきた。宗太は銃を手にして歩み寄り、状況を確認した。そして、雅彦が桃と翔吾を必死に守る姿を見ると、突然怒りが爆発した。この男は、すでにドリスの心を手に入れたというのに、なぜそれを大切にしない?目の前の女だけを守ることに必死で、彼のせいで一人の少女が人生を台無しにされたことすら気づいていなかった。こんな光景など、宗太は見るに耐えないほど吐き気がした。宗太は雅彦に向かって勢いよく蹴りを放った。雅彦は不意を突かれた。いや、たとえ気づいていたとしても、この傷ではどうすることもできなかった。彼の体は無力に転がり、地面に叩きつけられた。「へぇ……あの高慢な雅彦が、こんな無様な姿を晒す時が来るとはな」宗太はゆっくりと口を開いた。唯一自分に対抗できる雅彦は、すでに重傷を負っていた。残されたのは女と子供だけだった。この状況なら、彼は存分に楽しめる。彼らの命を奪う前に、じっくりと苦痛を味わわせてやる。桃の視線は雅彦に釘付けになった。彼の背中の傷は想像以上に酷く、皮膚は完全に裂け、無惨な傷口が露わになっていた。その深い傷には泥や埃がこびりつき、見るだけで激痛が走るようだった。桃の表情に浮かんだ心配の色を見て、宗太はむしろ満足げに笑った。この絶望的な顔が、彼にとって何よりの楽だった。「君、随分と彼のことを心配してるみたいだな。でも、そんな心配は無用だ。どうせ君もすぐに死ぬんだからな。君たちがどれほど愛し合おうと、俺の最も大切な人を傷つけたことには変わりない……なのに、まだ悔い改めるつもりもないようだな」冷え切った声に、桃は背筋が凍る思いだった。顔を上げると、宗太はすでに銃口を彼女に向けていた。彼女は頭が真っ白になった。何を言えばいいのかわからなかった。この男は狂っていた。彼女たちの痛みを楽しんでいた……桃は必死に冷静さを取り戻そうとした。視線に映るのは、瀕死の雅彦と、腕の中で震えた翔吾だった。死というものには、もう何度も直面してきた。だからこそ、桃は冷静に考えられた。彼女
翔吾はゆっくりと立ち上がり、怯えた無力なふりをしながら、桃の足にしがみついた。「ママ、俺を置いていかないで!」桃の胸が締めつけられた。宗太が何者なのかは分からなかったが、彼は自分と雅彦を狙ってきた。それなのに、翔吾まで巻き込んでしまった。まだ五歳の子供が、こんな残酷な現実を目の当たりにしていた。母親として、彼女はあまりにも無力だった。「翔吾、いい子だから、パパの様子を見に行ってくれる?」桃は微笑みながら、翔吾の頭をそっと撫でた。雅彦のもとへ戻ってほしかった。もし、彼女一人が犠牲になることで、この二人を助けられるのならそれだけで十分だ。宗太は目の前のやり取りを見ながら、苛立ちを覚えた。孤児として生きてきた彼には、親の顔すら知らなかった。カイロス家に拾われたとはいえ、こんな温かさを与えられたことは一度もなかった。こんな光景を見るたびに、彼は吐き気がした。ふと、宗太の脳裏にある考えが浮かんだ。そして、彼はにやりと笑いながら、桃の肩を狙って引き金を引いた。突然の銃声。桃は予想もしていなかった。衝撃で足がもつれ、よろめきながら数歩後退した。それでも、彼女は何とか表情を保ち、震える声で問いかけた。「……私の願いを、聞いてくれるの?」「愚かな女だ。まだ自分の立場が分かっていないのか?」宗太は冷たく笑いながら、ゆっくりと歩み寄った。「俺は君たち全員を殺せるんだ。いいか、今日は君の子供の目の前で、一発、一発、じっくりと撃ち込んでやる。血まみれになって死んでいく姿を、あいつにしっかり見せてやるよ。安心しろ、君の子供を殺さない。両親が殺される様を目にした人生は死よりも、よほど苦しみを味わえるだろうからな」言い終わると、宗太はさらに桃に近づき、他の部位を狙い、再び引き金を引こうとした。しかし、その瞬間。物陰に潜んでいた翔吾が、宗太の隙を突き、飛び出した。「翔吾!」桃は流れる血を押さえながら、手を伸ばした。しかし、翔吾を止めることはできなかった。血の気が引いていった。もし、宗太を怒らせたら、翔吾に向けて引き金を引くかもしれない。翔吾は母の叫びに耳を貸さず、集中していた。考えろ、今は計画通りに動くしかない。宗太は勝ち誇ったように笑った。このガキ、恐怖に負けて逃げ出すつもりか?ならば、親の
桃は、その光景をじっと見つめていた。翔吾の行動はあまりにも予想外だった。しかし、翔吾が銃を構え、宗太に引き金を引こうとした瞬間、桃は我に返った。「翔吾、やめて!」翔吾は、先ほどまでの興奮から突然目を覚ましたように、驚いた表情で桃を振り返った。「でも、ママ……俺、悔しいよ」桃は、涙で赤くなった翔吾の目を見つめた。翔吾が怖かったのがわかった。彼はまだ五歳の子供だった。こんなことを背負わせるわけにはいかなかった。宗太を殺すことに未練はなかったが、その死が翔吾の一生の悪夢になるのなら、それは決して許されるものではなかった。「翔吾、銃を、私に渡して」桃の声は、どこまでも揺るぎなかった。翔吾はしばらく迷っていたが、最後には観念したように、慎重に銃を桃に手渡した。桃はその銃をしっかりと握りしめた。そして、躊躇なく宗太に狙いを定めた。翔吾が何をしたのかはわからなかったが、宗太が突然動けなくなったことは確かだった。だが、この男が危険なのは明白だった。桃は、彼が二度と誰も傷つけることができないようにしなければならなかった。宗太は地面に倒れ込んだまま、麻痺の影響で全く動けず、ただ桃が銃を持って近づいてくるのを見つめていた。目を見開き、彼は低く笑った。「ハハッ……あのガキ、まさかこんなことができるとはな……さあ、殺せよ。どうせ雅彦の仇を討ちたいんだろう?あいつはもう助からないんだからな」宗太は、敗北を悟っていた。だが、焦る様子もなく、むしろ桃を言葉で煽り続けた。もし桃が衝動的に彼を撃てば、桃は殺人犯になる。刑務所に入るだけでなく、彼女の家族も、世間から冷たい視線を浴び続けるだろう。「雅彦は、絶対に助かるわ。心配するべきなのはあなた自身よ」桃は冷たく言い放った。「私はあなたを殺さない。法律が、あなたの罪を裁くでしょう。でも、私が大切に思う人をこんなにも傷つけたんだから……その代償は払ってもらうわ」そう言うと、桃は引き金を引いた。銃弾が宗太の肩、腕、足に次々と撃ち込まれ、鮮血が噴き出した。地面は瞬く間に赤く染まり、血の匂いが空気に充満した。その臭いに、吐き気が込み上げるほどだった。しかし、桃は止まらなかった。無表情のまま、機械的に引き金を引き続けた。弾が尽きるまで。カチッ。弾
「雅彦!」「パパ!」雅彦が目を閉じた瞬間、翔吾と桃はほぼ同時に叫んだ。翔吾はこれまでずっと耐えていた恐怖を、ついに抑えきれなくなった。雅彦の服を掴み、声を上げて泣いた。「パパ、死なないで!」普段の翔吾の性格なら、どんなに言われても雅彦のことを「パパ」とは呼ばなかっただろう。しかし、今はもうそんなことを気にしている余裕はなかった。心の中にあるのはただ一つだった。雅彦に無事でいてほしい、それだけだった。桃も胸が締めつけられる思いだった。だが、翔吾の感情が崩壊していったのを見て、ここで自分が取り乱すわけにはいかないと強く思った。冷静でいなければならない。そうでなければ、事態はもっと悪化してしまう。「翔吾、落ち着いて。すぐに救急車が来るわ。あまり動かないで、傷口が開いて出血がひどくなると危険よ。大丈夫、絶対に助かるから!」桃の声は震えていたが、それでもしっかりとした響きを持っていた。翔吾はその言葉を聞くと、涙を拭いながら顔を上げた。桃を見つめ、ぎゅっと拳を握りしめる。「……うん、一緒に待つ。パパは大丈夫。あんなに強いんだ、こんなところで死ぬわけがない」母と子は、ただひたすら雅彦のそばに寄り添い、救急車が来るのを待った。その傍らで、宗太は複数の銃弾を受け、瀕死の状態だった。しかし、雅彦の半死半生の姿を見ると、彼の気分は少しだけ晴れた。計画通り、桃と雅彦の両方を殺すことはできなかった。だが、あの雅彦を殺せるなら、それも悪くないと思った。「ハハッ……まだ夢を見てるのか?あいつは絶対に死ぬぞ。もし雅彦が死んだら……菊池家が、君らを許すと思うか?面白くなってきたな……!」宗太は狂ったように笑い、叫んだ。翔吾は、その言葉に反応し、拳を強く握りしめた。この男は本当に狂っていた。その言葉のすべてが、翔吾の怒りを煽った。考えるより先に、翔吾の体が動いていた。翔吾は宗太の元へ歩み寄ると、迷うことなく、思い切り後頭部を蹴り上げた。子供の力では、大人に致命的なダメージを与えることは難しかった。だが、急所への一撃だった。宗太の目がぐるりと回り、そのまま意識を失った。煩わしい声が消えた。翔吾は何も言わず、静かに雅彦のそばに戻った。ただ、彼の顔をじっと見つめた。桃はそっと手を伸
医生は、桃が自身も傷を負い、血を流し続けているにもかかわらず、まるで痛みを感じていないかのように、ただひたすら雅彦の容態を問い続ける姿を見て、胸が締めつけられた。どれだけ多くの生死の現場を見てきたとしても、この瞬間はやはり心を揺さぶられた。彼も「大丈夫だ」と言って桃を安心させ、しっかりと傷の手当てを受けさせたかった。しかし、責任ある医者として、確実でないことを安易に口にすることはできなかった。「お嬢さん、とにかく、全力を尽くします」医者の言葉を聞いた桃の目は、わずかに曇った。「先生、お願いします……絶対に彼を助けてください」そう言いながら、桃は雅彦の手を握りしめた。かつて、この手はいつも温かかった。彼の掌に触れるたび、その熱を感じられた。けれど今は、まるで氷のように冷たかった。桃は力強く雅彦の手を握り、自分の体温を伝えようとした。まるでそうすることで、この眠る男に少しでも温もりを届けられるかのように。どれほどの時間が経ったのか分からなかった。気づけば、もう救急車は病院の前に到着していた。重傷患者の到着を知り、すでに医療スタッフが待機していた。雅彦はすぐに手術台に乗せられ、そのまま緊急治療室へと運び込まれた。桃と翔吾は、その後を追って手術室の前まで来た。しかし、冷たい扉が閉ざされたのを見て、ようやく足を止めた。手術室の上に灯る「手術中」の赤いランプを見つめながら、桃の手は無意識に絡み合っていた。翔吾もまた、目を離さずにじっと見つめ、何かを見落とすまいとしていた。手術室の前にある椅子に座り、背中を冷たい壁に預けた。その感触が、ますます彼女の心を冷えさせた。無意識に腕を抱きしめたくなったが、少しでも動くと肩の傷が激しく痛み、頭がくらくらと揺れた。おそらく、失血がひどいせいだろう。意識が遠のきそうになるのを、桃は必死に抑えた。今は取り乱している場合ではなかった。まだやるべきことがった。少なくとも、意識を失う前に済ませておかなければならないことがあった。桃は深く息を吸い、スマホを取り出して海に連絡を入れた。まずは、宗太のことを伝え、すぐに捕まえて逃げられないように手を打ってほしいと頼んだ。次に、翔吾の世話をお願いした。海は、今日は雅彦が桃のためにサプライズを準備して
海はしばらくして視線を戻し、桃に宗太の仲間がまだいるかを尋ねようとした。だが、その時になって初めて、桃の肩の傷が包帯もされずに血が流れ続けていることに気づいた。彼女の顔色もひどく悪く、まるで血の気が引いたように蒼白だった。「桃さん、大丈夫ですか?」「私……」 桃は口を開きかけたが、その瞬間、頭がぐらりと揺れ、体が力を失って椅子へと崩れ落ちた。幸い、すぐ後ろに椅子があったため、そのまま倒れ込まずに済んだ。「ママ!」翔吾は驚き、すぐに駆け寄った。「ママ、大丈夫?……しまった、俺、ママの肩の傷のことを忘れてた!どうしよう……」海は険しい表情で桃を見つめた。彼女も負傷していたことに、今さら気づいた。しかも、その傷は軽いものではなかった。このまま適切な治療を受けなければ、後遺症が残る可能性すらある。「桃さん、傷の手当てを受けてください。ここには俺がいますから」桃は唇をわずかに動かした。雅彦の無事が分かるまでは、自分のことなどどうでもいい。たとえ、どれだけ傷が深くても、雅彦の状態に比べれば、その痛みなどほんのわずかにすぎない。そう言おうとしたが、言葉にする前に翔吾の不安げな目が目に入った。彼女の苦しそうな様子を見て、翔吾は今にも泣き出しそうになっていた。桃は悟った。今、自分が無理をすれば、この子をさらに不安にさせるだけだ。もし自分が倒れたら、たった五歳の子供に、この現実を一人で背負わせることになる。「……分かったわ。翔吾、ママはお医者さんに診てもらってくる。その間、ここで大人しく待ってて。おじさんの言うことをちゃんと聞いて、勝手にどこかへ行っちゃだめよ」「うん!俺、大丈夫!ちゃんとここで待ってる。だからママ、早く治療に行って!」桃は頷き、海がすぐに医師を呼び、桃を治療室へと連れて行った。医師は、桃の傷が銃創であり、まだ弾が体内に残っていることを知ると、すぐに手術を手配した。麻酔が投与されると、桃の意識は次第に薄れていった。眠りに落ちる直前、彼女の頭の中にあったのはただ一つ。目を覚ましたときには、雅彦が無事であるという知らせを聞けるように。桃が再び目を覚ましたのは、翌日のことだった。目を開けると、見慣れない天井が映った。一瞬、自分がどこにいるのか分からず、ぼんやりとしていたが、すぐ
「彼は一時的にではありますが、命の危険は脱しました。ただ、まだ目を覚ましていません」海は、雅彦の現在の状態を桃に正直に伝えた。幸いだったのは、宗太が慌てて入手した爆弾の威力がそれほど強くなかったこと。もしもっと強力なものであれば、雅彦はその場で命を落としていたかもしれない。しかし、それでもあの爆発の衝撃は凄まじく、こうして命を取り留め、しかも取り返しのつかない後遺症が残らなかったのは、奇跡だった。雅彦が命を取り留めたと知り、桃の心に張り詰めていた糸がようやく緩んだ。「じゃあ、彼が目を覚ましたら、もう安心してもいいの?」「医者もそう言っていました」海は頷き、はっきりとした答えを返した。「じゃあ、ここで彼のそばにいるわ。そうじゃないと、落ち着かない」桃は迷うことなく、雅彦のベッドのそばに腰を下ろした。ここにいたところで、何かできるわけではなかった。だが、それでも、離れてあれこれ考えているよりは、ずっと気持ちが楽だった。海は一言、彼女の体も休めた方がいいと言おうとした。だが、桃が雅彦を見つめたその目を見て、言葉を飲み込んだ。雅彦が最も大切にしている人は、桃だった。もし桃がそばにいて話しかけてくれれば、それが彼の生きる意志を強くし、目覚めるきっかけになるかもしれない。「じゃあ、簡易ベッドをここに運ばせますよ。桃さんも怪我をしてるんだから、もし調子が悪くなったら、すぐに医者を呼びますよ。雅彦が目を覚ます前に、桃さんが倒れたりできませんよ」海の気遣いに、桃は小さく頷いた。「分かってる。心配しないで、大丈夫よ」海はそれ以上何も言わず、すぐに手配を進めた。新しい簡易ベッドを病室に運ばせ、桃のための休息場所を整えると、さらに看護師たちにも注意を促し、何か異常があればすぐに自分に連絡するよう指示を出した。それらを終えると、海は病室を後にした。海が去った後、広い病室には桃と雅彦だけが残された。病床に横たわる雅彦を見つめながら、桃の胸には言いようのない感情が渦巻いた。このところ、彼女の人生は病院と切っても切れない関係になっていた。入院しているのは自分か、さもなければ、大切な人。どちらにしても最悪な気分だった。そんなことを思いながら、桃は無意識のうちに、そっと雅彦の頬に触れた。傷の
雅彦に解放されたのは、一時間経った後のことだった。桃は疲れ果て、両腕すら上がらないほどぐったりしていた。この男が本当に浮気をしているかどうか、今はもう察しがついていた。桃は確信している――この男はあらかじめ罠を仕掛けて、自分がそこへ飛び込むのを待っていたに違いない。なんて狐みたいに狡猾なやつなんだろう。桃は心の中で、雅彦のことをさんざん罵っていた。雅彦は、桃が自分を睨んでいるのに気づき、口元をつり上げた。「どうした?どこか気に入らないところがあるのか?もう一度確かめてみるか?」桃はぎょっとして急いで首を横に振る。すでに身体がバラバラになりそうなほど疲れきっており、これ以上続けられたら本当に気を失いかねない。いったいどうして、この男はこんなに体力が有り余ってるのだろうか……これ以上また暴れられたらたまらないと思った桃は、さっさとベッドを降りようとした。「体がベタベタして気持ち悪い……ちょっとお風呂に入ってくる」そう言ってベッドから下りようとしたものの、足に力が入らず、あやうく転びそうになってしまった。雅彦はそれを見て、呆れたように首を振った。「ここで待ってろ」そう言い残すと、雅彦はバスルームへ行き、湯を張り始めた。準備が全て整うと、彼は戻ってきて桃をひょいと抱き上げた。桃は驚いて何度かもがいたものの、その程度の力では雅彦には効かず、最後には抵抗をやめてしまった。どうせ彼が何をしようと、自分にはどうにもできないのだ。こうして抱えられたまま浴槽へ下ろされると、湯の温かさが全身を包み込み、それまでの不快感が一気に薄れていった。桃は思わず目を細め、束の間の心地よさを堪能した。とはいえ、こんなふうに雅彦に見つめられながら風呂に入るというのは、やはりどこか落ち着かない。桃は目を開けて雅彦を見ると、「一人で大丈夫だから、あなたは出てって」と言った。雅彦は一緒に湯につかりたい気持ちもあったが、桃の白い肌にところどころ散らばる自分の痕跡を見ると、また妙に体が熱くなるのを感じた。もし二人で入れば、再び燃え上がりそうだ。桃は病み上がりで、これ以上ムチャさせるわけにはいかない。そう考えた雅彦は内心の衝動を押さえ、「いいか、あんまりのんびり浸かって寝ちまうなよ。何かあったらすぐ呼べ」とだけ言って、バスルームを出ていった。桃はこくり
雅彦は手にしていたものをそっと置き、真っ赤に染まった桃の顔を見つめながら、わざと何も知らないふりをして言った。「なんでそんなに顔が赤いんだ? ここ、別に暑くないよな?俺はただ、事実を説明しただけなんだけど。まさか、おまえ変な想像でもしてるんじゃないのか?」雅彦はゆっくりと身を寄せ、桃の耳元にふっと息を吹きかけた。桃は彼のその仕草に、全身がびくりと震えた。電流が身体の内側を駆け巡るような、甘く痺れるような感覚が一気に広がった。思わず椅子からずり落ちそうになったところを、雅彦がすかさず手を伸ばし、彼女の腰をしっかりと抱きとめた。けれど、この体勢では、ふたりの身体がぴったりと密着してしまい、桃には彼の落ち着いた力強い心音が、はっきりと伝わってきた。彼の身体から漂う匂いが鼻をくすぐり、頭の中では――あのとき電話越しに聞いた、低く荒い息遣いがふたたびよみがえっていた。元々ぐちゃぐちゃだった脳内は、さらに混乱して、もう何も考えられそうになかった。雅彦は目を細め、桃の戸惑うような表情を見て、少し芝居がかった声で言った。「ジュリーの企みには気づいてたけど、あの薬一応、飲まされたんだよな。ま、俺の自制心が強かったから、そうじゃなきゃ、どうなってたことか……」桃はそれを聞いて、思わず息を呑んだ。「えっ薬って、まだ体内に残ってるってこと?それ、大丈夫なの?やっぱり病院、行った方がよくない?」彼女の焦りを感じた雅彦は、優しく笑いながら、桃の手を取り、自分の胸元へそっと当てた。「こういうのって、病院じゃ治らないこともあるんだよ。でも、お前が“解毒”してくれたら、もしかしたら治るかもしれない」桃は唇を噛んだまま、何も言えずに下を向いた。雅彦が「冗談だよ」と言いかけた瞬間、彼女が小さな声でぽつりと呟いた。「あなたの身体のためなら、別にいいよ」雅彦は一瞬、自分の耳を疑った。雅彦が呆然としている間、桃はさっきの勢いで思わず言ってしまった自分の言葉を思い出し、今すぐ地面に穴を掘ってでも隠れたくなるような気分だった。私は一体なにを口走ってるの?雅彦はようやく状況を理解して、思わず笑みがこぼれた。もうその時には、食事どころじゃなかった。彼は桃の手を取り、そのまま車へ乗せると、一気に滞在中のホテルへと向かった。こんなに急いで動く雅彦を、桃は初めて見た。気づ
桃があっさりと沐のことを「いい人だけど、それだけ」と割り切っている様子を見て、雅彦はようやくそのわずかなもやもやを拭い去った。「安心しろ、俺が止めなかったってことは、もう作戦があるってことだ。だから、待っててくれ」「え、どういう作戦?教えてよ」雅彦が余裕たっぷりの表情をしているのを見て、桃は好奇心に駆られ、食い下がるように問いかけた。「今はまだ内緒」雅彦はさらりとそう言うだけで、詳しく話す気配は全くない。桃は少しがっかりした様子を見せたが、ふと何かを思い出したように言った。「まさかとは思うけどジュリーに色仕掛けとか使うつもりじゃないよね?今日みたいなこと、もう二度とごめんだから」彼が浮気まがいのことをしたわけではないとわかってはいても、あの妖しげな声を電話越しに聞かされたときの衝撃は相当なものだった。桃は想像することすらできなかった。もし本当に、自分の目の前で雅彦の裏切りを目にしてしまったとしたら、自分は、果たしてどうなってしまうのだろう。彼との日々は、ようやく手に入れたかけがえのない幸せ。けれどそれは、まるで石けんの泡のように脆く、少しの衝撃にも耐えられないほど儚いものだった。そんな桃の不機嫌そうな顔を見て、雅彦はひょうきんな態度をやめた。「さすがにそこまで落ちぶれちゃいない。俺が総裁の立場にいて、女性相手に色仕掛けなんてするわけないだろ。そんなことするくらいなら、最初から商売人失格だろ」雅彦の説明を、桃は無表情のまま黙って聞いていた。その表情を見た雅彦は、思わず焦りを感じた。いつもなら、桃が嫉妬してくれる姿をかわいらしいとさえ思っていた。だが、もしふたりの間に、信頼の綻びが生まれてしまうのだとしたら、それは決して笑いごとでは済まされない。「誓って言う。もし俺が少しでもおまえを裏切ろうなんて思ったら、すぐに雷に打たれて、車に轢かれても構わない」雅彦が勢いづいて誓いかけたところで、桃は慌てて口を塞いた。「ばか言わないでよ!この前だって車のトラブルがあったばかりじゃない。そんな縁起でもない誓いしないで」桃がようやく怒りを収めたのを見て、雅彦はほっと息をついた。彼女の手をそっと握ると、軽くキスを落として、穏やかに言った。「俺は、何もやましいことなんてしてない。だから、怖がる理由なんてないだろ?」そのまっすぐな視線を
沐は昔のことを思い出して、ぎゅっとカップを握りしめた。あの日――婚約式の前夜、なぜか見ず知らずの女と同じベッドで目を覚まし、翌朝になって現場を押さえられてしまったのだ。そのときジュリーはひどく傷ついたフリをしてみせた。まだ彼女の正体を知らなかった沐は、自分の過ちを償うために、手持ちの株を譲り渡した。「今後は裏切ることはない」と証明するつもりだったのだ。けれど、実はジュリーはずっと前から計画を練り、会社の株を買い集めていた。そこに沐が譲った株が上乗せされ、一気に大株主の座へ。トップに就任するや否や、ジュリーは早瀬家の役員を一掃して自分の腹心を入れ、さらに様々な手段で早瀬家の残りの株も売らせるよう仕向けていく。百年続いた一族の会社は見る間に崩壊し、沐が事態の異変に気づいたときには、すでに手遅れだった。会社は乗っ取られ、父親は続けざまのショックで脳出血を起こし、亡くなってしまった。沐は何もかも失い、悲惨な状態でこの地を去るしかなかった。それから久々に戻ってきたのが数日前。たまたま参加したパーティーで、雅彦とジュリーの間に何かあると気づいた沐は、昔の自分のようにならないように、と忠告したのだ。沐の話を聞き終えた桃と雅彦は、思わず重苦しい表情になった。会社や財産は、ひょっとすると取り返すチャンスがあるかもしれない。けれど、一度失った家族は、決して戻ってこない。その事実を、二人ともよくわかっていた。ジュリーの罪は、まさに数えきれない。「だから、今度は絶対に彼女の罪を暴いて、こんな悲劇を繰り返させるわけにはいかないんです」桃はまっすぐ沐を見つめ、強い口調でそう言った。「君たちが手伝ってくれるなら助かりますよ」沐はほっとしたように微笑む。今回わざわざ戻ってきたのも、当時の出来事を調べ直すため。とはいえ、今の彼には何も残っていない。すでに大きな財力と影響力を持つジュリーに立ち向かうのは、決して簡単なことではなかった。けれど今は、雅彦と桃という力強い味方がいる。もしかすると、本当にジュリーを倒すことができるかもしれない。そして何より、失われた名誉を取り戻すチャンスになるかもしれなかった。桃と沐が楽しそうに話し込んでいるのを見て、雅彦はわざとらしく咳払いをした。この二人、もしかして俺の存在を完全に忘れてるんじゃないか?沐
彼女の話を聞き終えると、三人の顔つきは一様に険しくなった。誰もが、見た目は華やかで堂々としていたジュリーが、裏ではそんなにも汚らしいことをしていたとは思いもよらなかったのだ。となれば、一刻も早く彼女の弟を救い出さなければならない。そうでなければ、取り返しのつかない事態になりかねない。雅彦はすぐに海を呼び、少女を連れて弟のもとへ向かわせた。また、二人を安全な場所へ移し、治療も受けさせるよう手配をした。その指示を聞いた少女は、感激したように二人を見つめ、最後に頭を下げて言った。「ごめんなさい。自分を守るためとはいえ、最初はあなたたちを陥れようとしたのも事実です。でも、それでもこうして助けてくれて本当にありがとうございます」桃は彼女を見つめながら、心の中で思った。おそらく、この子はまだ十五、六歳くらいだろう。ジュリーに利用され、悪事に手を染めてしまったとはいえ、責める気にはなれなかった。ましてや、その裏には救いたい家族がいたのだから。桃自身も、かつて母の治療費のために多くの代償を払ってきた。だからこそ、彼女の辛さがよく分かった。「あなたは、本当は悪い子じゃない。ただ、間違った方向に導かれてしまっただけ。そんなに謝らなくていいから、早く弟さんに会いに行ってあげて」そう言いながら桃は、そっと彼女の肩に手を置いた。少女はしっかりとうなずくと、もう一度頭を下げて言った。「ありがとうございます。もし今後、私にできることがあればそのときは、必ず力になります」そう言い残して、彼女は海とともにその場を後にした。彼女の背を見送ったあと、桃はようやく雅彦に目を向け、さらに沐にも視線を移した。「この件……あなたたちはどうするつもり? ジュリーの名誉を傷つけるだけで済ませるわけにはいかない。こんな手口で、どれだけの女の子たちが犠牲になってきたか分からない。もう、これ以上は放っておけないわ」桃の目に浮かんだのは、かつて彼女自身が苦しんでいた頃の記憶だった。それに気づいた雅彦は、桃の手をそっと取り、静かに言った。「どうせ、すでに敵同士だ。だったら、一気に潰すしかない。二度と悪事ができないようにな」ただ、そうなると沐が撮影したあの動画は、すぐに公表してしまうのではなく、もっと決定的な証拠が揃ってから、ジュリーを一網打尽にするタイミングで公開した方がいいだろう
「怖いですね」男は気にするそぶりも見せず、そのまま雅彦へと視線を移した。「雅彦さん、どうやら彼女、私を口封じしようとしているようです。そこで一つ、取引をしていただけませんか?この中身をすべてお渡ししますので、代わりに私の身の安全を守っていただきたいのです」雅彦は目を細めた。悪くない取引だ。あのジュリーという女は、絶対にここで大人しく引き下がるようなタイプじゃない。だったら、この機会に徹底的に潰してしまい、二度と他人を陥れる暇すら与えない方がいい。「いいだろう」そう即答してから少し経つと、海が屈強な男たちを数人連れてやって来た。彼らは一目で只者ではないとわかる風格で、腰には最新式の武器まで装備していた。ジュリーはそれを見た途端青ざめた表情を浮かべ、悔しそうに舌打ちしたあと、その場を去った。ジュリーがいなくなると、男はホッとしたように息をつき、携帯を雅彦に差し出した。「この中に動画が入っています。きっと、そちらでご活用いただけるはずです。私はもう、これ以上面倒なことには関わりたくありませんので」雅彦が中身を確認すると、それは確かに有力な証拠だった。彼は海を呼び、データを複製させると、ジュリーの家系と関わりのないメディアへ直接送るよう指示した。一方、桃はその見知らぬ男を興味深そうに見つめながら話しかけた。「今回、あなたが証拠を残してくださって本当に助かりました。もしそれがなければ、彼女はまったく懲りずに、また同じことを繰り返していたかもしれません」桃の言葉に、男は苦笑いを浮かべた。「やはり、お二人とも私のことを覚えていらっしゃらないようですね。改めて自己紹介させていただきます。私は早瀬沐(はやせ もく)と申します。以前、駐車場で一度だけお目にかかったことがあるかと思いますが……」雅彦と桃はハッとして顔を見合わせた。そういえば、あの日ジュリーに気をつけろと忠告してくれた男がいた。まさか目の前の彼だとは……「あなたがあのときの!助かりました、本当にありがとうございます」桃は感謝の気持ちを込めて手を差し出し、「私、日向桃と申します。初めまして、よろしくお願いいたします」と挨拶する。沐もそれに応えようと手を出した瞬間、雅彦がさりげなく割り込んできて、男同士で握手する形になった。桃は呆れながらも、心の中で「この人、いちいち何なの……」とため息をつ
その女の子は話すにつれて、恥ずかしさと怒りが込み上げてきた。彼女は元々、普通に学校に通っていた。しかし、弟が病気になり、お金が足りなくなったため、こんな道に進むことになったのだ。ジュリーが裏切り者なことは、彼女自身が一番よく知っていた。だから、今回は桃が自分を裏切らないことを願うしかなかった。「あなた……」突然、自分がしてきたことが暴露され、ジュリーは少し慌てた。その時、ジュリーが呼んだ記者たちは状況を察し、雅彦の顔色を見てすぐにまずいと思った。この件で、有益なニュースを得るどころか、雅彦を敵に回してしまったかもしれない。そうなると、ここにいる意味がなかった。記者たちはお互いに目を合わせ、ジュリーをこれ以上怒らせたくないと思い、すぐにその場を離れることにした。桃はその様子を見て、拳を握りしめた。「もう帰るの?さっきまで正義感いっぱいで、悪党の正体を暴こうとしてたんじゃなかったの?こんなに職業倫理が低いなんて、これが記者なの?」皮肉を言われた記者たちは顔を曇らせたが、何も言うことができなかった。彼らはジュリーと長年の付き合いがあり、何をするべきかを分かっていたので、自分を恥じたものの、結局黙って退散した。記者たちが去った後、賑やかだった部屋は静かになった。ジュリーも次第に冷静さを取り戻し、雅彦を見て言った。「雅彦、確かに腕がいいわ。今回は私の負けよ。でも、次はそんなにうまくいかないわよ」言い終わると、ジュリーは背を向けて立ち去ろうとしたが、桃に道を塞がれた。「もう行くの?」「どうしたの?」ジュリーは冷笑を浮かべ、この女は本当に愚かだと思った。まさか自分の前に立ち塞がるなんて。「あの記者たちは、元々私の手の内にある人たちだから、勝手に口を滑らせることはないわ。そもそも、この事件は実際には何も起きていないわ。警察を呼んで、私に何の罪をかぶせられるっていうの?」雅彦はその言葉を聞いて、眉をひそめた。確かに、警察に通報しても、ジュリーが呼ばれて少し叱られるだけだろう。しかし、このまま彼女を行かせるのには、どうしても納得がいかなかった。ジュリーが得意げにしていたその時、後ろから冷たい声が聞こえてきた。「それはどうだか」桃はその声に少し聞き覚えがあったが、どこで聞いたのか思い出せなかった。彼女が考え込んでいた時、
「なるほど」雅彦は冷たく言った。その時、ジュリーは大勢の記者の中からようやく抜け出して、目の前の光景を見ると、呆然として立ち尽くした。何これ、予想していたことと全然違うじゃない。「雅彦、あなたは一体何をしているの?この子に薬を盛り、こんなふうに縛り上げるなんて」ジュリーは世間をよく知る人間だった。彼女はすぐに冷静さを取り戻し、雅彦に責任を押し付けた。「もういい加減にして」桃は我慢の限界を迎えた。ジュリーは毒蛇のような本性を持ちながら、その女の子のために正義を貫くふりをしていた。見ているだけで吐き気がした。「桃、まさかあなたもそんなに正義感がない人間だとは思わなかった。あなたの男は浮気をして、他の女性を傷つけた。あなたはそれを隠すために手を貸している。正直、すごく失望したわ」ジュリーは桃が雅彦をかばう様子を見て、自分が逆に罠にかけられていたことに気づいた。しかし、今さら引き下がることはできなかった。ここまで来てしまった以上、最後まで突き通すしかなかった。幸い、その女の子はすでに彼女によってうまく手配されていた。その子の病気の弟もまだ彼女の手中にあった。だから、その子が雅彦に無理やり襲われたと主張し続けさえすれば、たとえ実際には何も起こっていなかったとしても、全ての責任をうまく逃れる自信があった。「とにかく、まず当事者に話をさせるべきだわ。雅彦の言い分だけを聞くわけにはいかない」ジュリーはその子に目を向け、少し脅しの意味を込めて言った。縛られていた女性は絶望的な目をしていた。病気の弟を思うと、彼女には他に選択肢がないように感じ、嘘をつき続けるしかないと思った。桃は異常を感じ取った。彼女は眉をひそめ、歩み寄り、女性の体に巻かれたシーツを解きながら、低い声で言った。「今、雅彦を陥れるようなことをしたら、どうなるか分かっているでしょう?たとえあなたが彼を非難し続けても、私たちは警察を呼んで調査させることができる。真実は隠せないわ。もし彼女があなたを脅しているなら、私は助けることができる」その言葉を聞いて、女性は体を震わせ、一瞬桃の目を見つめた。彼女の目は穏やかで、そして何か決意を感じさせるものがあり、ほんの少し同情を見せていた。 女性は心の中で葛藤していたが、シーツは解け、口に詰められていたタオルも桃によって取り除かれた。
桃の動作は素早く、雅彦ですら反応できないほどだった。彼は急いで二歩後ろに下がり、桃の攻撃を避けようとした。まさか彼女、本気なの?桃は演技をするなら疑われないように完璧に演じることが大切だと思っていた。そう思いながら、彼女は雅彦を鋭く睨みつけた。「言いなさいよ、どうしてこんなことをしたの?一言も説明しないつもりなの?」雅彦は一瞬、言葉に詰まった。雅彦はしばらく黙って考えた後、急いで口を開いた。「桃、落ち着いてくれ、説明させてくれ、これは君が思っているようなことじゃないんだ!」「私が目の前で見たことがすべてでしょう、このクズ男!」ドアの外にいたジュリーの仲間たちは、部屋から聞こえる激しい争いの声にほっと息をつき、急いで出て行って、長い間待っていた記者たちを呼び寄せた。しばらくして、たくさんのカメラがドアに向けられ、ウェイターはあたかも仲裁しようとする様子でドアをノックした。「雅彦さん、何が起こったんですか?ドアを開けてください!」そう言い終わるやいなや、ウェイターはカードキーを使ってドアを開けた。ドアが開くと、記者たちは次々と部屋に押し寄せ、フラッシュの音が鳴り響いた。誰もがビッグニュースの一部を見逃したくなかった。しかし、しばらくすると、最初の興奮は冷め、記者たちは目の前の光景を見て、何かが違うと気づいた。彼らが見たかったのは、服を乱した雅彦が不倫相手と隠れ、桃が狂ったように怒鳴り散らすというエキサイティングなシーンだった。しかし、目の前にはまったく違う状況が広がっていた。雅彦はきちんと服を着て立っており、ボタンはすべてしっかりと留められ、髪も乱れていなかった。桃は冷静な表情で彼のそばに立っていて、床には手足をベッドシーツで縛られた女性が横たわっており、彼女もきちんと服を着ていた。一体どういうことだ?記者たちは皆、呆然としてお互いを見つめ合い、何が起こったのか全く分からなかった。雅彦は冷淡に記者たちを一瞥した。これらの記者たちは間違いなくジュリーが呼んだものだ。今後、彼らには一切手加減しないつもりだった。ジュリーは記者たちが中に入るのを見て、まるで自分が初めて知ったかのように部屋に駆け込んできた。彼女は予め準備していたセリフを言いながら部屋に入って来た。「雅彦さん、あなたの背後にある菊池グルー